まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

並行在来線第3セクターに乗る・・・しなの鉄道と上田城

2015年08月31日 | 旅行記C・関東甲信越
旅の最終日に善光寺の朝のお勤めに触れ、長野駅に来た。これから乗るのはしなの鉄道の小諸行き。

この日は大阪に戻るのに金沢までの北陸新幹線に初めて乗る。それなのに東へ向かうわけだが、これは第3セクターの乗り比べもある。また高崎から長野まで乗ったことがあると言っても、東京勤務時代に長野への日帰り出張で一度乗っただけのこと。さらに、北陸新幹線はそもそも高崎から計画されたものであり、ならば高崎まで行こうかなと。指定席は高崎15時49分発のはくたか567号を取っている。金沢にちょうど日が暮れる頃に着き、大阪へのサンダーバードへの乗り継ぎもちょうどよい。はくたかにしたのは、各駅に停車する様子を見てみようというもの。

ただ、はくたかに乗るまでどう動くか。候補はいろいろある。上田城、別所温泉(北向観音)、軽井沢、横川(鉄道関連)など。高崎まで出て上信電鉄に乗れば世界遺産の富岡製糸場にも行ける組み合わせもあったが、これは長野を早めに出る必要があり、善光寺参りの後で風呂や朝食としたため、これはボツ。

この中だと、上田城と横川の鉄道資料館の組み合わせかな。最悪、新幹線は高崎から乗らなくても、軽井沢や上田から乗ってもいいかな。一応コースは決めたが変更もあり得るとして、とりあえず上田までのきっぷを買う。長野駅前に金券ショップがあり、券売機で回数券が売られていた。50円引き。

高校生くらいの乗客も多く乗り出発。前日とはうって変わって晴天。大阪と比べればいくらかは涼しいというものの、日射しが直に当たると暑い。大汗が出るのには変わりない。篠ノ井までは信越線を走り、姨捨から松本へ抜ける篠ノ井線と分かれてしなの鉄道に入る。長野を出てから新幹線の高架橋と並んでいたが、新幹線は山の中に入る。

屋代には以前松代から出ていた長野電鉄のホーム跡があり、戸倉上山田温泉のある戸倉には側線にある車両が停まっていた。しなの鉄道が最近売り出しているイベント列車「ろくもん」である。いわゆる「水戸岡」デザインであるが、とにかく「水戸岡」デザインは、水戸黄門の印籠のごとくあちこちの地方鉄道の車両で「崇め奉られる」存在。「ろくもん」は列車内での食事を中心としたプランが好評で、運行日はツアープランを中心に連日満席。食事なしの車両も全席指定で、しかも現地予約であるが、おそらく連日満席だっただろう。私も旅の前にダメ元で指定席に挑戦しようかと思っていたが、日付を見れば旅の期間は運転日ではなかった。まあ、外観をチラリと見ることができただけで良し。

戸倉上山田温泉には東京勤務時代に訪れ、温泉街の中のルートインホテルに泊まり、その夜は姨捨から善光寺平を眺める夜景ツアーに出かけたことがある。写真のデータからは2008年の9月とある。写真のデータを追うと、上田電鉄や別所温泉、海野宿とセットで回り、帰途には高崎から臨時の客車列車にも乗っていた。この時ブログに何か書き残したかと検索するが、アーカイブで出てこない。確かに記事は書いたはずだが・・実は書いてなかったのか? 昨年のブログ移転時にデータが飛んでしまったかとも思ったが、そこだけ都合よく飛んでしまうこともないだろうし。

上田に到着。ここで高校生含め半数以上の客が下車する。東信、佐久地域の中心。高架駅の前は近郊都市のような光景が広がる。

駅から15分ほど歩くところにある上田城に行くことにする。元々の真田家の拠点はここからバスで結構走ったところにあり、今も「真田の里」といった感じで資料館などで歴史を紹介している。ただ駅に近い上田城も、徳川家との激しい攻防戦で名高い。国営放送の2016年の大河ドラマで真田幸村が主人公になるとあって、上田も盛り上がっている様子である(大河そのものを見ないので個人的には入れ込むことはないが、大河ドラマが地域おこしに影響したり、逆に地域おこしのためや、果てはどの大河とは言わないが時の政権への機嫌取りのために大河ドラマが「誘致」されるようになったのはいつからだろうか)。

大河に向けて相対する気持ちを持ちながら歩く。まあ、真田幸村は以前から人気のある武将だったし(最近の戦国BASARAだの、いわゆる歴女の一部に見られる「武将をイケメンキャラクターとして見る」風潮はちょっと違和感あるが)、少なくとも新島襄の妻や吉田松陰の妹よりは世間には受け入れられるだろう。そんなことを思ううち、とある施設で檄を飛ばすような書き物に出会った。ここでは、真田幸村を大河ドラマに(というか、上田に大河ドラマを誘致!と読めるが)というさまざまな掲示があり、これまでにどれだけの署名を集めたかが書かれている。そして、(決してこの人たちの誘致活動のおかげとは思いたくないのだが)2016年の大河が真田幸村に決まったことの喜びのメッセージも書かれている。真田幸村と言えば大坂の陣もあって、大阪の人たちにもなじみのある歴史人物なのだが、ここまで入れ込んだメッセージというのは大阪では見なかったと思う。まあ来年になれば大阪とか和歌山の九度山などは盛り上がるのだろうが、やはり真田の六文銭は信州上田のものというのが、この辺りの人たちの切なる想いなのだろう。

上田城へ向かう。手前の市役所の周りには真田十勇士を紹介したパネルがある。真田人気はこれら十勇士の活躍も大きな役割を担っていると思う。

上田城の一角には市立博物館がある。ここは上田の歴史をトータルに紹介するという役割もあり、真田一族の活躍についても触れられているが、真田氏が松代に移された後のこともきちんと触れている。真田氏の後は仙石氏。これが但馬の出石に国替えとなったのだが、その時に上田からそば職人を出石に引き連れたという。それが出石そばの由来と言われている(小皿でいくつかに分けて盛られたのをいただく出石そばのスタイルが上田由来かどうかは分からないが・・・)。仙石氏の後は松平氏の治政となり、明治以降は養蚕で栄えることとなった。

門と櫓が復元されている。今ではこれが上田城のシンボルである。門からは市街地を見ることができ、北陸新幹線の高架橋も見える。するとここで、上田駅を通過して長野に向かう列車の姿が見えた。長野駅の発着時のようなゆっくりした走りではなく、信濃の国を快走する新幹線らしい高速ぶりである。

城内の一角に設けられた真田神社にお参りし、上田城はこのくらいかなということで駅に戻る。この時間なら、次の軽井沢行きに乗れば横川に向かうバスに乗り継ぐことができる。ここで碓氷峠を下りて群馬県に入るつもりでいたが、ここに来て「せっかくなら軽井沢でしばらく過ごすのもいいのでは」という思いも出てくる。確かに横川の鉄道資料館も見ているし、かつてのめがね橋までウォーキングをしたこともある。一方で軽井沢はほとんど通過するばかりで、いわゆる人気スポットには行ったことがない。時刻表を見ると、横川の鉄道資料館を素通りすれば、軽井沢である程度の時間は取れることがわかる。さてどうするか・・・・。
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善光寺朝事、お数珠頂戴

2015年08月30日 | 旅行記C・関東甲信越
旅の最終日、18時は朝3時に起床。まだ暗い4時過ぎにホテルを出る。

こんな朝早くに出る理由は、善光寺である。

善光寺は毎朝、日の出の時間に合わせて「お朝事(あさじ)」がある。善光寺の僧侶たちが本堂で行う朝のお勤めである。日の出の時間に合わせるので季節によって時間は異なるのだが、夏のこの時季は5時30分から行われる(実際の日の出はもう少し早いのかもしれないが、さすがにそれ以上早いと僧侶たちの「出勤」がしんどいのだろう)。

昨年から西国三十三所巡りを行っているが、歴史的に関東からの巡礼は伊勢、熊野詣での後で青岸渡寺から近畿一円を回り、岐阜の谷汲山華厳寺で三十三所を結願して、お礼参りとして信州の善光寺に訪れるのが多い。このため「西国三十三所巡りの締めは善光寺」というのが定着し、今や関西発の巡礼バスツアーでも最後はわざわざ善光寺に行くコースを組んでいる。

ということで善光寺は三十三所を巡り終えてから行くのが流れなのだろうが、どうせサイコロで次の行き先を決めるように順序にはこだわっていないし、今回北陸新幹線に乗るために長野に行くことを決めた。それならばと西国の朱印帳と納経軸も今回荷物の中に入れた。私が両親から託された納経軸には「番外」の欄が5つあり、法起院、元慶寺、花山院のいわゆる「公式番外」の3つ以外のあと2つをどこに入れるかと考えていたが、それなら先に善光寺も入れてしまうことにする。

善光寺の本尊阿弥陀如来像は日本の仏教伝来とともに百済から伝えられたが、当時仏教受け入れに反対した物部氏により難波に捨てられた。後に本田善光という人物により信濃に連れられ、最初は飯田、そして皇極天皇の時代に今の地に安置されたという。その名を取って善光寺と呼ばれるようになったが、言わば日本の仏教の最初というところ。特定の宗派に属さず、幅広く民衆の信仰を集めてきた歴史がある。

とはいうものの善光寺に付属する寺院はいろいろとあり、代表的なのが天台宗の「大勧進」と浄土宗の「大本願」。朝事はそれぞれの宗派のスタイルで行われるが、大勧進の貫主と大本願の商人が本堂に上がる際と本堂から戻る際に、参道で行われるのが「お数珠頂戴」である。参拝者が
参道にひざまずくと、手にした数珠で参拝者の頭に触れて功徳を授けるというものだ。今年は7年に一度の御開帳ということで春先はものすごく大勢の参拝者が訪れて参道も大混雑だったそうだが、そんな時にも一人一人の頭に触れるのも結構大変そうだ。

私もせっかくなのでお数珠頂戴を体験し、本堂でのお朝事にも参列することにする。ただ長野駅からは徒歩30分はかかるということで、朝4時過ぎにホテルを出た。

参道に入る。さすがに人の姿はほとんどないというものの、地元の人たちだろうかジョギングやウォーキングをする人が結構いる。本堂の提灯にも灯りがついている。

早い時間だが本堂も開いている。まずは外陣から手を合わせる。また納経所も5時から開けており、お朝事の前に西国の朱印帳と納経軸に朱印をいただく。

お朝事が5時30分からということで、お数珠頂戴は5時20分くらいという。その時間が近づくと自然に列ができる。警備の人が「だいたいこの辺りで列を作ってください」という。この時間には観光客の姿も目立ってきたが、地元のウォーキング姿の人たちも慣れた感じで列に加わる。この人たちは朝のルーティンのようにお数珠を受けているのだろうか。並んでいる間にも僧侶の人たちが三々五々やってきて、参拝者に「おはようございます」に声をかける。まずこの人たちが「出勤」し、先に内陣に入って貫主の到着を待つ。

前方に赤い傘が見えると参拝者はひざまずく。やがてやって来たのは貫主。私も頭に触れていただく。強すぎず弱すぎず、確かに数珠の感触が残る。

予め内陣券を買い求めていたので内陣に上がる。中に入った参拝者は20人くらい。まずは天台宗のお勤め。両側に10数名の僧侶が並び、声明を唱えたり読経を行う。本堂に響く僧侶の声や巨大な木魚の音は厳かだ。途中で前方の御簾がスルスルと上がり、厨子が姿を現す。最後に般若心経が読まれる。

引き続いて浄土宗の上人が内陣に入ってきた。読経の声が高いなと思ったら尼僧さんであった。こちらは「南無阿弥陀仏」。これを10回続けて唱えるのが二度あったが、こちらもありがたい、優しいものを感じる。

天台宗と浄土宗合わせて40分くらいお勤めがあり、この後は祈願を行う人がさらに中へ通される。安産や家内安全を願う。その住所や名前が呼び上げられている間の時間で、本堂下の戒壇巡りに行く。戒壇巡りも大学生の時の旅行以来である。あの時は友人と一緒で暗闇の中で声もかけあって「錠前そこにあるで」などと言っていたのだが、今は一人である。十分背は立つとわかっていても、全くの暗闇で目が慣れることもなく、背中が丸くなる。壁に手を擦らせながら行くと右手に金属の感触を確かめた。錠前である。これをガチャガチャとやり、少し回ると外への階段に出た。

これで本堂を後にする。「もう少しで上人さまも本堂を出るので、またお数珠を受けてください」と言われ、また本堂前に並ぶ。何だか、スポーツ選手の「出待ち」をやっているようだ。そしてまた赤い傘が見え、上人の退出である。ここでお数珠を受けたのは20人ほど。天台宗、浄土宗それぞれのお数珠を受けることができ、何だか功徳を授かったように思う。早起きしだだけのことはあった。

時刻は7時前になっていた。参道を戻る。来た時には気付かなかったが、ドローンの使用を禁止する看板が出ていた。確か御開帳時期の法要の最中にドローンが落下するトラブルがあったなあ。あの騒ぎを起こした少年、今はどうしているのやら。

長野駅まではバスが出ている時間であり、善光寺の大門も経由する。行きは歩いて来た道を通勤客に混じってバスで駅まで戻った。

宿泊した長野第一ホテルは、朝食としてかけそばといなり寿司の無料サービスがある。朝食会場は中華レストランなのだが、ホテル内には製粉会社直営のそば屋も入っており、そのサービスである。こちらで朝食とし、また歩いて汗をかいたのでもう一度屋上の露天風呂に向かう。また新幹線を眺め、この日の行程をどうするか考える。

チェックアウトしたのは8時過ぎ。再び、しなの鉄道に乗って東に向かうことに・・・・。
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並行在来線第3セクターに乗る・・・しなの鉄道と信州郷土料理

2015年08月29日 | 旅行記C・関東甲信越
妙高高原からしなの鉄道北しなの線に乗り継ぐ。

しなの鉄道は、高崎~長野まで新幹線が開通したのにともない、横川~軽井沢間が鉄道廃止になり、軽井沢~篠ノ井が第3セクターに移管した時にできた。今の、新幹線開業と引き換えにJRから切り離された第1号である。今回金沢までの開業で、信越線は長野~妙高高原がしなの鉄道、妙高高原~直江津がえちごトキめき鉄道となった。篠ノ井~長野だけは信越線として残っているが、これは塩尻、松本からの篠ノ井線列車があってのことである。

そのしなの鉄道は、旧国鉄型の115系を使っており、4人掛けのボックス席とロングシートが並ぶセミクロス式。並行在来線4社の中で最も汽車旅風情を残す。ただ、車両のトイレは設備は残っているが封鎖されていて使用することはできない(故障ではなく、設備として最初から使用停止)。妙高高原発車前に慌てて駅のトイレに走る人もいる。

ここからは峠を越えて長野市街に向かう区間。少しずつ景色が開けてきて、乗ってくる客もそこそこいる。隣のボックス席に座った高校生くらいの女の子たちは東京の話題スポットの話で盛り上がっている。長野から新幹線に乗れば東京は近い。長野に新幹線が出来て年数も経っているし、長野県はもともと文化的に東京に近いと言えるのでそんな会話は普通なのだろうが、今回の北陸新幹線金沢開業で、富山や金沢といったところも東京の影響を強く受け、やがては東日本の文化圏に組み込まれて行くのかなと思う。

長野に到着。金沢から第3セクター4社プラス富山地方鉄道を乗り継いで来たが、この日の行程はここで終了。駅に近い長野第一ホテルにチェックイン。

このホテルは線路に近い立地で、かつ最上階に大浴場と露天風呂がある。ここからは長野駅を見下ろすことができ、北陸新幹線の発着も見ることができる。まさか素っ裸、フル○ン状態で新幹線を見るとはね・・・(逆に新幹線からはどう見えるのか。乞うご期待!・・・というほどのことではないが)。

※写真は、風呂ではなく客室から撮ったもの。安心してください、履いてますよ。

さて、長野での夕食である。信州らしいものということで駅前の繁華街をぶらつくと、こも樽をズラリと頭上に並べた一軒の店。「信州長屋酒場」という。「長野駅 郷土料理」で検索したら一番に来た店である。「ここ一軒で長野県」というコピーもいい。見る人が見れば観光客を当てにした店(確かに、価格はチェーン居酒屋や大衆酒場より高い)なのだろうが、昔風にこしらえられた建物と郷土料理に惹かれて入る。入るといってもくぐり戸で、身をかがめる。

戸を開けると「本日貸切」の文字。月曜なのに貸し切りかと思うと、店員が気づいて引っ込める。昨日日曜が貸し切りだったのがそのままになっていたのだろう。一人ということもあり案内される。カウンターのコーナーを埋める形で親子2世代の客がいて、私はカウンターの隅に陣取る。向かいには囲炉裏もある。囲炉裏の脇には店員がずっと座っていて、カウンター客の応対を一手に引き受ける。接客は実に丁寧。

昔風に造られた居酒屋は雰囲気いい。ただ、この店の昔風の内装や、日本酒がずらり並んだレイアウトのメニュー、そして○印の中に「上」の文字。以前にどこかで見たような気がする。

携帯で以前の記事を検索するうちにそれは見つかった。「越後番屋酒場」、新潟の駅前である。ここは仕事の絡みで新潟に行った時に職場の方と入ったところで、酒の種類があまりにも多いので何がお薦めか店員に訊いたり、新潟らしいものをいろいろいただいた。○印に「上」の文字は同じチェーンなのだろうが、それぞれの郷土料理を売り物にするのは、地産地消としてもいい商売だと思う。

いきなりつき出しに小鍋が出る。これでまずメニューを物色するが、いろいろあって目移りがする。全部が食べられるわけではない。信州名物で真っ先に思いつくのは馬刺だが、これはどんな味かは見当はつくし、大阪でも食べることはできる。なるべくここでなければ食べられないメニューを楽しみたい。そんな中で見つけたのが、塩いか。

信州なのに海の幸・・・と思われる方もいるだろうが、海がない分海産物は貴重。日本海のいかを保存食とするために、いかの腹の中に塩を入れ、いわゆる「塩の道」を通って運ばれてきたもの。海産物と塩の両方を得た料理だ。食べるときは水で戻し、輪切りにしてキュウリなどと和えるそうだ。

海産物でもう一品。「えご」というもの。これも海藻を固めたもので、こんにゃくのようにして出す。海がないからこそ生まれた一品と言える。

後はいなご、蜂の子、ざざ虫という珍味三種。普段の食生活で「虫を食う」ことはまずあり得ないのに、こちらに来ると手を出してしまうのは不思議だ。

酒は信州の蔵元72種がメニューに並ぶが、どれがどうだかさっぱりわからない。そこはカウンターの店員に訊いて、よく出るという「水尾」と、店員の割烹着の背中に書かれた「大雪渓」をいただく。グラスの下に枡があり、さらにその下に皿が敷かれる。グラスから枡、そして皿まで並々と注がれる。下の皿まで含めて正一合なのだろうが、飲む方としてはお得感がある。

店の感じとしては観光客向けで、地元の人が日常的に利用するのとはちょっと違う様子。それでも土日は常に予約で一杯とのことで、人気店のようだ。十分長野の味を楽しむことができた。またいつか長野に来ることがあれば、他の違ったメニューも体験してみたい。

夜の部はここだけにしてホテルに戻る。パソコンでブログ記事を書きつつも、旅の最終日となる翌朝は3時には起床の予定である。いい加減なところで寝ることにする・・・・。
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並行在来線第3セクターに乗る・・・えちごトキめき鉄道

2015年08月27日 | 旅行記C・関東甲信越
前の記事で、あいの風とやま鉄道の泊駅から直江津行きに乗り換えた時のことを、「列車が1両というのもアレだが、ましてこれが「電車ではない」と言われた日には・・・・」と書いた。

拙ブログをご覧の方の中には、え?電車の旅してるのに「電車ではない」て何やねん?・・と疑問に思われる方もいらっしゃるだろう。

これから乗るえちごトキめき鉄道の車両は、電化区間なのに電車ではなく気動車である(まあ、電車と気動車をきっちり分けたがるのは鉄の習性ということで・・・)。もっとも最近の気動車は技術が進んでスマートな車体だし、ハイブリッド仕様なんてのもある。見た目は電車と変わらない。

電化された区間に日常的に気動車が走る区間はある。地方の幹線がそうだ。長距離運行は特急や貨物列車の利便性のために電車や電気機関車が走るが、ローカル輸送はそんなに利用がないところ。思い浮かぶのは羽越線の新津~酒田間。コスト面を考えると、気動車の方が効率的なのだろう。

北陸線のこの区間は急行型や寝台電車改造型が3両で走っていた。それが1両の気動車になったのは現状の利用者数なのだろう。ここまで乗ってきたIRいしかわ鉄道、あいの風とやま鉄道、そこに富山地方鉄道を加えても、えちごトキめき鉄道区間は沿線に中心となる都市もなく、最も厳しい経営環境なのかなと思う。気動車の数も多いわけではなく、数少ない戦力で何とか頑張っていこうというところだ。

1両の気動車は1‐2配置の座席がほぼ埋まる中で泊を出発する。盆明けの時期なので全員座れたが、盆期間など多客時には1両ならすし詰めになったのでは。

泊の次が越中宮崎。ヒスイが採れる海岸で知られる。また、駅の近くには郷土料理の「たら汁」を食べさせる店が点在する。計画時点では越中宮崎で下車して、ヒスイ海岸とたら汁というのも考えていたが、無人の越中宮崎に荷物を預けるところなどなく、ましてこの日は朝から雨模様だったので、キャスターつきバッグを転がすのも無茶かなと思い、素通りした。ヒスイ海岸とたら汁は、クルマで訪れるか日帰り装備でないと無理そうだ。

この先は日本海を見る区間もあり、車窓は良い。境界の市振もあっさりと過ぎ、県境のトンネルを抜けて親不知へ。昔の汽車駅らしくホームは長いが、ハイブリッド気動車はホームの端にちょこんと停まる。

糸魚川で半数の客が入れ替わる。またJR大糸線から、あるいは大糸線への乗り換え客もいる。昔の設備として10両以上停まれるホーム上で、わずか1両の気動車同士の乗り換えがちまちまと行われる光景はどないやねんと思う。今は昔からの設備を残しているが、そのうち長いホーム自体を切り刻んで撤去するかもしれない。

そんなことを案じながらさらに東に進み、直江津に到着。直江津は糸魚川以上に鉄道のジャンクションとしての歴史的役割がある。


直江津の町そのものは寂しいところとしても、ジャンクションらしく駅弁は充実していた。駅前のホテルが駅弁も手掛けていて(正しくは、駅弁業者がホテルも手掛けているのかも)、昨年はそのホテルに泊まり、夕食を予約の駅弁という荒業をかけた。今回の旅でも、同じような形での直江津宿泊も候補に挙がっていた。

直江津は構内が広い。そんな駅の北のホームにちょこんという感じで着いた気動車。乗り換えとして、JRなら新潟まで行く特急が間もなく来るし、長野方面の妙高高原行きもすぐの発車である。ただ、私もこれから長野に行くが、妙高高原行きは一本見送り、駅弁を買うことにする。13時を回っても昼食がまだなので。

直江津はホームの階段を上がった改札口前に駅弁が出ているが・・・うーん、品数はほとんどない。エースの鱈めしはあるが、あれはもういいかな。

やはり北陸新幹線開業で直江津の拠点性が薄れたのだろう。今のところ新潟県内移動はあるものの、駅弁の需要も薄れたのだろう。まあこれは予想できたこと。新幹線の上越妙高駅にしっかり出店しているそうで、「磯の漁火」や「するてん」といった優秀駅弁はそちらで売られているのだろう。今回、それを確認できなかったのは残念。

・・・で、昼食はするてんの単品。これに合わせるのは新潟限定のサッポロ「風味爽快ニシテ」。

駅弁の入手を試みようと、えちごトキめき鉄道の妙高はねうまラインの列車を一本遅らせた形になったが、結局は空振りに終わった感じ。そんな中、次の妙高高原行きが到着したのだが、これは先ほどとは打って変わって電車・・・なのはいいが、オールロングシート。うう、ここに来てかつてと同じJR東日本(やたら東京標準に合わせようとする)のカラーが強いというか、元々JR東日本の車両だったのを譲り受けて走る妙高はねうまライン。ここは同じえちごトキめき鉄道の中にあっても、旧東日本の信越線区間と旧西日本の北陸線区間ではカラーは全然異なる。何だか合併会社を見ているようだ。いっそのこと、妙高高原から直江津の区間もしなの鉄道に任せればよかったのでは。一方の直江津から市振までの区間は北越急行(ほくほく線)に委ねるとか。同じ会社なのに通しのきっぷすら買うことができないというのは、どうかしている。

直江津からは長野までの区間の連絡きっぷで入る。こちらも「妙高高原から長野行き」という、しなの鉄道の表示がなされる。

直江津を出た時はガラガラだったが、春日山、高田という上越市の中心部の駅では乗車も多い。そして到着した上越妙高。列車行き違いのために2~3分停車するが、さすがにこの時間で駅弁を買いに行くことはできない。先ほど直江津で列車を遅らせることなく乗っていれば、上越妙高で下車して新規の駅弁コーナーに行けたかもしれない。ちょっとこの辺りが甘かったか。

それにしても、朝から主要駅が近づくたびに北陸新幹線の高架橋と並走するのだが、その高架の上を高速で通過する新幹線の車両をまだ見ていない。翌日には乗りつぶしということで乗るからいいのだが、一度は走っているところを外から見てみたいものである。

上越妙高を過ぎると景色も水田から山岳地帯に移る。天候が良ければ遠くに妙高の山々を見ることができるのだろうが、完全に雲に覆われている。妙高と言えば、元ジャングルスマイルのボーカル、高木いくのさんが観光大使を務めるところ。現在は結婚もして完全に故郷の妙高をベースに音楽活動している。そういえば久しくCDも聴いていないし、関西から妙高というのもなかなか訪れることがないところ。ナマの歌声を聴いたのは川崎でいじめ問題に取り組むNPO法人のコンサートの時だけなのだが、またいつか耳に触れることができればなと思う。

ロングシートの横手では、おっさんの二人連れが山々を眺めながらの酒盛り。プラスチックのコップ持参で、紙パックの焼酎を水やお茶で割って味わっている。あては直江津駅で売っていたするてん。のんびり旅の風情を味わおうといろいろ仕込んできたのだが、車両は無情にもロングシート。それでもガラガラなので飲んでしまえ・・・てなもんである。鉄道の旅にはこのくらいの度胸がものを言うのか。

二本木のスイッチバックもあり、ちょうど県境に位置する妙高高原に到着。時間が早ければ下車して妙高の麓までいく、緑に触れる、温泉に入るということもできるが、この日はもう素通りする。目的地の長野まではあと一息。ここからはしなの鉄道の北しなの線に揺られることに・・・・。
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並行在来線第3セクターに乗る・・・ほたるいかと海洋深層水

2015年08月26日 | 旅行記D・東海北陸
北陸新幹線の開業にともないJRから切り離されて第3セクターに移行した区間を乗り継ぐ1日。富山まで来て富山地方鉄道に寄り道して、あいの風とやま鉄道に接続する滑川まで来た。朝から雨が降ったり止んだりで、この時間はたまたま止み間だった。

滑川の駅から歩いて7~8分のところに、ほたるいかミュージアムというのがある。富山の代表的な味の一つにほたるいかがある。漁のシーズンは春というが、沖漬けや干物などに加工され、土産物屋には年中豊富に並ぶ。何でもこのミュージアムでは、シーズンには水槽でほたるいかの発光が見られるそうだ。

滑川の駅は簡素な造りで、駅員はいるものの売店もなければコインロッカーもない。仕方なくキャスターつきバッグをゴロゴロ言わせて海の方に歩く。まっすぐ進み、ちょうど防波堤から海を見る・・・とその途端に強い雨が降ってきた。慌ててミュージアムに入る。バッグは受付で預かってくれた。その時「ほたるいかは今はいませんがよろしいですか?」と確認を受ける。

映像コーナーで、滑川で毎年行われるほたるいか祭りを見たり、展示コーナーでは、ほたるいか漁の歴史やほたるいかの生態系の紹介を見る。これまでいろんな食べ方で食べてきたほたるいかだが、その生息については知らないことばかりだったので、いろいろためになった。

主な特徴として、「秋田から山陰辺りを回遊する一年魚」「発光するのは、仲間とのコミュニケーションや敵への威嚇のため」「富山湾には産卵のためやってくるが、そのほとんどがメス。オスは富山湾に来るまでに交接をした後死んでしまう」というもの。料理で食べているのはメスなのかな。

また滑川は海洋深層水の活用が行われており、研究施設がある。このミュージアムにも海洋深層水の水槽があり、カニやエビがいる。この水槽に手を入れてエビを触ることができる。エビの感触はともかく、ひんやりした水が気持ちいい。思わずこの水で顔を洗ったりタオルを浸けたりしたくなる(もちろんやってはいけないが)。

一通り見学した後、隣接する売店に向かう。ほたるいかをはじめとした水産加工品が並ぶ。ほたるいかの沖漬け一つとってみてもさまざまな味付けがあり、試食も楽しい。もっとも美味かった一品を、海洋深層水のペットボトルと合わせて購入する。

雨は強く降っているが、列車に乗るのでまたキャスターつきバッグをゴロゴロ言わせて駅に戻る。・・・と、雨が止んだようだ。結局この後大阪に帰るまで傘をさすことがなかっただけに、おてんとさんの意地悪を感じる。

次の列車に乗る。今度はえちごトキめき鉄道の直江津まで買い求める。富山県内の越中宮崎までならICOCAをはじめとしたICカードが使えるが、一気に行くことにしたので券売機で買い求める。ここもあいの風とやま鉄道とえちごトキめき鉄道の連絡きっぷであるが、えちごトキめき鉄道もJRも直江津から先は券売機で買うことはできない。滑川はみどりの窓口があるのでその辺は対応するのだろうが、一見さんの旅行者にとっては不便なことである。移管された区間を誰かが一括で引き受ければよかったのだろうが、行政が絡む話だし・・・。同じ乗り入れと言っても、阪神なんば線や神戸高速鉄道を経由して、近鉄奈良線や大阪線から阪神を通って山陽電鉄や神戸電鉄に行ける・・・というのとはまるっきり事情が異なる。元々別会社の路線を一本につなぐのと、元々JR(あえて国鉄までは遡らないにしても)だったのがズタズタに切り裂かれたのとでは意味合いが全く違う。

・・・と、他所から来た一見の利用者は思うが、案外地元の人たちは淡々と利用しているのかもしれないし、日常的に会社を跨ぐほどの長距離の利用はないのかもしれない。

滑川駅の待合室でそんなことも思ったりするが、テレビでは高校野球中継である。準々決勝で、この大会優勝した東海大相模の試合中。改札に立つ駅員も、この位置なら待合室のテレビが見えるのか、その方をじっと見ていた。

やって来たのは「新快速タイプ」の車両。これで泊まで行く。JR時代は直江津まで直通する列車も多かったが、今はあいの風とやま鉄道内の泊で区切られる。境界は2つ先の市振だが、これも県境に近い駅がそこだからというだけのこと。

魚津、黒部といったところを通り、終点の泊に到着。改札口から見れば跨線橋を渡った島式ホームに着く。乗り換えとなる直江津行きは同じホームの前方に停まっている。直江津行きは1両しかなく、乗り継ぐ客もそこそこいたので席を確保すべく小走りになる。実質、ここから先はえちごトキめき鉄道のエリアだ。

同じホームでの乗り換えは、乗り継ぎが多いと思われる駅ならいちいち階段を上り下りしなくてすむので便利だと思う。ならば、改札口に近いホームで乗り換えができればと思うがそうではない。直江津方面への「下り」よりも富山方面への「上り」直通を優先したのかもしれないし、日本海縦貫ルートを走る貨物列車のために空けていることも考えられる。

そんな一見さんの私が乗り継ぐえちごトキめき鉄道。列車が1両というのもアレだが、ましてこれが「電車ではない」と言われた日には・・・・。
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並行在来線第3セクターに乗る?・・・富山地方鉄道

2015年08月25日 | 旅行記D・東海北陸
朝の富山駅。立山そばで朝食として、海産物(というより酒のつまみ)を買い求める。ここから再びあいの風とやま鉄道に乗るところだが、ふと考えた。この線の車両は先ほど乗ってきたタイプだし、旧北陸線で何回か乗っている区間。車窓の感じもだいたいはわかる。

ここで経路を変えようと思う。富山には第3セクターではなく純粋な私鉄の富山地方鉄道がある。どうせ東に進むなら、変化をつける意味であいの風とやま鉄道に接続する駅まで地鉄に乗るのも面白いかと。

ということで、地鉄のホームに現れる。こちらは地鉄オリジナルの車両に加えて、西武や京阪の特急車両を譲り受けて走らせている。立山、黒部宇奈月という観光地を擁するだけのことはある。

あいの風とやま鉄道との接続ということで、券売機で滑川までのきっぷを買う。きっぷは「○○○円区間」ではなく、「滑川」と出る。ちょうどホームには目を引く車両が停まっていた。元京阪特急の車両だが、オリジナル塗装。また3両編成の真ん中は2階建て車両である。「ダブルデッカー、そうでっか~」で知られたあの車両。これから立山行きの特急として走る。滑川とは線が違うが、途中の寺田までは同じ線を走るので、これに乗るとする。

ただ、2階建て車両は指定席で別途220円かかる。さすがに指定はいいかな、普通車も旧京阪特急だしと改札をくぐると、「滑川」のきっぷを見た駅員が「滑川方面は次は何時・・・」と行先表示を見る。確かに、この時間の改札は立山行き特急に乗る客の改札。

「あれに乗って寺田で乗り換えます」と返すと納得したが、「それなら、特急料金110円必要です」と言う。220円は指定料金で、乗るだけでも110円の料金がかかる。もう乗る気でいたので改札口で料金を払って特急券を受け取る。自由席ならこうだが、2階建て指定席に乗るなら、合わせて330円の追加料金がかかる。

それでもホームに行くと、2階建て車両は上下とも結構乗っている。立山観光の客だろう。2階建て車両というのも全国的に見れば貴重なもので、せっかくなので乗ろうという人が多いのかな。・・・とすれば、日常の電車移動で、追加料金ゼロで2階建て車両に乗っている京阪利用者って、地元関西では当たり前の光景だが、関西を離れるとものすごく特別なこと・・・?

2階建て車両ではなく自由席扱いの車両に乗り込む。こちらもなかなかの乗車率。昔の京阪特急の乗り心地をしばらく楽しみ、寺田に到着。ここで下車する。

寺田は立山方面と宇奈月温泉方面との分岐駅。電鉄富山から来れば、駅の手前で線路は左右に離れ、右手が立山、左手が宇奈月温泉。その線路が広角に分かれるため、寺田駅は扇形の広がりを見せる。その端のホームに降り立ち、反対側ホームに移る。次の宇奈月温泉方面の列車には結構な時間があり、古びた木製のベンチでしばらく待つ。普通に出社していれば朝礼前後の慌ただしい時間帯だが、ホームの周りが田んぼで、稲草の匂いが風に乗ってプンと流れるローカル駅で過ごすのも悪くない。

やがてやって来たのは宇奈月温泉まで行かない、途中の滑川行き。私にとってはちょうどよい列車だ。地鉄オリジナルの車両。鉄道車両の新人賞に当たるローレル賞をとったもので、今も運転台の後にマークが掲げられているが、さすがに老朽化も目立つようになった。

朝の通勤通学輸送を終え、2両でも乗客は数人。富山の近郊を走る。広い水田が広がるのは、JRもとい、あいの風とやま鉄道沿線とも共通する。そんな中、「地鉄電車に乗ったら 東京まで250歩」というポスターを見る。これは、地鉄沿線から新幹線の乗り換え駅となる富山駅、または黒部宇奈月温泉駅まで行けば、その乗り換えに要する歩数が「250歩」として、後は乗ったまま東京に行けるというものだ。富山駅で接続するのはわかるが、黒部近くで北陸新幹線と富山地鉄が交わるところに新駅が設けられた。地鉄沿線の人にとっては、新幹線に乗れる駅が二つできたというのは大きなことだろう。

行き止まり構造の上市で進行方向を変えて、滑川に向かう。JRもとい、あいの風とやま鉄道の線路が近づく。その後に地鉄の中滑川駅がある。滑川市の中心はこちらのように感じられる。

その隣が滑川。ただ、ホーム一本の淋しい駅。滑川のゆるキャラ?がパネルで出迎える。JRもとい・・・の駅と隣接しているが、乗り換えには駅下の地下道をくぐらなければならない。

これをくぐって駅に出る。滑川乗り換えとしたのは、この区間でほとんど降りたことがないのでどこかに行こうかと。魚津は一度停まったことがあるので(富山で宿が取れず、退避する感じ)、ならば滑川かなと。滑川はほたるいかの町として知られ、「ほたるいかミュージアム」というのがあるそうだ。

ならばそれを見た後でさらに東に進もうと思ったのだが・・・・。
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並行在来線第3セクターに乗る~IRいしかわ鉄道、あいの風とやま鉄道

2015年08月24日 | 旅行記D・東海北陸
旅の二日目、17日は朝からあいにくの雨模様。でも、この日が雨でまだよかった。前日に降られて野球が中止になったのでは残念である。

さてこの日は鈍行を乗り継いで長野まで行く。前回の冬までなら青春18きっぷで行けた区間だが、ご案内の通り、北陸新幹線の開業とともに北陸線、信越線の一部がJRから切り離され、第3セクター路線となった。金沢~長野までの区間は県ごとに、IRいしかわ鉄道、あいの風とやま鉄道、えちごトキめき鉄道(日本海ひすいライン、妙高はねうまライン)、しなの鉄道(北しなの線)という4社に分かれた。今回はそれらを乗り継いで行く。

というわけでまずは金沢からIRいしかわ鉄道に乗る。券売機は小松、福井方面のJRと富山方面のIRに分かれている。ただ、津幡から先の七尾線は従来通りJRであり、この場合はIRからJRへの連絡きっぷを買うことになる。券売機の操作と路線図に慣れてなければちょっとややこしい。

とりあえず富山まで行くことにして、あいの風とやま鉄道の連絡きっぷを買い求めると、境界駅である倶利伽羅からの運賃が表示される。こんなこともあってか、新幹線は開通したがJRとIRのいわゆる在来線改札は自動化されていない。

ホームに上がる。JRとの境界でもあるし、サンダーバードやJR車両も見られる。ただ、新幹線ができたためか、ホームにあった売店や駅弁コーナーが軒並み閉鎖されている。以前は駅そばのコーナーもあったように思うが。

そんな中、富山方面から4両の列車が入ってきた。6時52分発の黒部行き。車両はあいの風とやま鉄道のマークが入るが、JRの新快速車両そのものである。あれの北陸版でちょっと手を入れたようなもの。第3セクターに移行するにあたり、この辺りを走っていた旧国鉄型は一掃されると聞いていた。まあ、沿線の人たちにすれば、京阪神のJRと同じ車両ということで、この点ではサービス向上である。

また、車内ポスターでは、あいの風とやま鉄道にICOCA導入とある。ということはPitapaやSuicaといったICカードも使えるわけだ。うーん、富山県内限定で、こうして金沢から乗る客には関係ないわけやな。まずはお試しで富山県内限定なのだろうが、IRにも広がってほしいものだ。

列車は半分くらいの乗車率で発車。金沢を出ると右手に新幹線の高架を見て近郊区間を走る。車内放送ではこれが第3セクター路線で、青春18は使えないことをアナウンスする。でもいるんだろうな・・・運賃を踏み倒そうとする客が。

七尾線が分かれる津幡を過ぎると山の中に入り、倶利伽羅に到着。ここがIRととやま鉄道の境界だが、単に県境にあるからというだけの境界である。お役所的といえばお役所的かな。駅自体無人駅だし、別に乗務員の交代があるわけでもない。

富山県に入るが、ここまで通しで乗っている人も結構いるし、ここからは高岡や富山への通勤客も乗ってくる。今は夏休みだから高校生の姿はほとんど見ないが、平常時は結構乗るのだろう。石川と富山は県をまたぐが、そんなに離れているわけでもないし、県またぎの行き来は盛んなのだろう(だから石川対富山のBCリーグの試合が熱い・・・のかもしれない)。

富山県内はともかく、石川県内から乗ってきた人はどうだろうか。第3セクター移行により、路線が2つの会社に分かれたので運賃が高くなっている。特急料金があるので単純には比べられないが、金沢~富山で新幹線の運賃部分と、第3セクター2社連絡きっぷの運賃を比べれば、後者が断然高い。在来線が残るだけありがたいと思え・・・と言われればそれまでだが、新幹線に乗ることはなかなかないであろう、ただ日々の通勤通学で利用している地元の人たちにとっては、果たしてこれで良かったのかな?という気がする。

そんなことを思ううち、富山に到着。ここで多くの通勤客とともに下車する。ちょうどJR高山線の3両つなぎの気動車も着いたところだ。

まだ工事中のエリアが残る通路を抜けると・・・これまで降りたのとは全く違う富山駅の風景が広がった。北陸新幹線開業で、いかにも昔の汽車の感じがする駅もいろいろ変わるとは予想できた。改札前の開放的なコンコースにはうなるものがある。

そこでもう一つ感心したのが、富山地鉄の市内線の路面電車の停留所がコンコースに突っ込む形で新たに設けられたこと。これまで、駅を出ると信号を渡って道路の真ん中の電停に行っていたのが、同じ建物内で乗り換えができるようになった(駅の北側から出るポートラムと将来接続、乗り入れするのかというのは今後の話として)。また、駅前のバス乗り場も新しくなった。公共交通機関を充実させた「コンパクトシティ」を目指す富山市にとっては、新幹線開業にともなう大改造は契機であろう。今回の旅では泊まったり街並み散策はできないが、またいつか、きときと魚を含めて味わったり街全体を楽しんだりできればなと思う。

そんな駅前だが、駅そばの「立山そば」は健在、また土産物コーナーも充実していた。ただ、以前の富山駅ビルのような気軽さはなく、何か高級志向に走っているようにも見える。

駅をサラッと見た後で、長野に向けて進むことにする。順当ならここでICカード(ICOCAは持ってないのでPitapa)を改札にかざすところだが・・・。
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レンガ造りの博物館と近江町市場

2015年08月23日 | 旅行記D・東海北陸
兼六園に隣接する本多の森公園に行く。ここには赤レンガ造りの建物が3棟並ぶ。石川県立歴史博物館である。かつては陸軍の兵器庫だったのが再活用された。また今年の4月にリニューアルオープンしたところである。

常設展では加賀・能登の歴史が時代ごとに紹介されている。旅先で県や市の歴史博物館に行くことがあるが、いわゆる教科書の日本史とはまた違った視線で展示されているのが面白い。加賀・能登の歴史で出てくるのが、海の民としての一面。日本海を介した大陸との交流もそうだし、江戸時代の北前船もしかり。他には蓮如から始まる一向宗、一向一揆の動きも触れられている。

圧巻なのは加賀前田家の大名行列。行列の規模は石高によって決められていて、百万石の前田家の場合は2000人を超える長いもの。その様子を昔の屏風図を元に人形で再現され、モニターでは江戸までの道のりを紹介する。1回の道中で億単位の費用がかかったという。

モニターの中で触れられていたのだが、この行列のルートというのがちょうど北陸新幹線のルートに近いこと。昔の北国下街道~中山道のルート、新幹線なら最速2時間半で着くところ、行列はおよそ2週間がかりでの移動である。金沢からなら北国街道を木ノ本まで行ってそこから中山道、東海道に出るルートもあるが、当時の加賀藩の領地は今の富山県も含んでおり、少しでも長く自分の領地を歩くことの安心感や、領内の視察も兼ねてこのルートを多く取ったそうだ。

この他に常設展示としては加賀・能登の祭りにも触れられている。

さて、常設展示も見ていてためになるものが多かったが、今回ここを訪れようと思った大きな要素は、こちらの特別展示。「大鉄道展」である。

こちらは北陸新幹線の開業を記念しての展示で、ちょうど8月23日までの開催。東海道新幹線の構想に始まり、東海道、山陽、東北、上越、九州、そして北陸という建設の歴史が紹介されている。

また別のコーナーでは北陸線の歴史である。私としては新幹線よりも在来線やローカル線といったところに興味があり、往年の特急のヘッドマークなど見るのが楽しい。

さらには、石川県の鉄道の紹介もある。現在はJR、北陸鉄道、のと鉄道、そして第三セクターのIRいしかわ鉄道というのが走っているが、かつては北陸鉄道もさまざまな路線も持っていたし、金沢の市内にも路面電車が走っていた。松本清張の『ゼロの焦点』は金沢や能登が舞台の作品であるが、その映画(モノクロ版)でも、路面電車や北陸鉄道のミニ電車が登場していた。北陸鉄道も2路線が残るのみとなったが、まだまだ頑張ってほしい。

この後は加賀本多博物館を見た後、兼六園下からバスに乗り近江町市場に向かう。時刻は11時前だが既に大勢の客で賑わっている。店によっては開店前から長い行列ができている。

特にお目当ての店があるわけでなく、その前に食事のために並ぶのが嫌いなので、通りから少し脇に入ったところにある「近江町食堂」というのが空いていたので入る。カウンターはなく1人だが2人がけのテーブルに案内される。テレビでは高校野球の真っ最中である。

一番人気は海鮮丼で、他には好きな具材を乗せる宝箱丼というのもあるが、注文したのは近江町定食。刺身メインだが小鉢もあり、朝から歩いた後で生ビールと一緒に注文。おそらくこの日の夜は呑みに出ることはないだろうから(前の記事の通り、野球観戦で結構時間が押したのと疲れたのでチェックイン後は外に出なかった)、昼で金沢の味を楽しむことにする。

ということで、時価扱いののど黒の塩焼きを注文する。出てきたものはほどよく塩味が利いているし、身も柔らかく美味しい。並と大があって今回並を頼んだのだが、1匹の値段は・・・定食よりも高かった。さすがは高級魚である。定食だけではなく単品メニューも充実しており、居酒屋としても使える店である。

すっかり満足して会計というところ、レジでいろんなサイン色紙を見る。まあ金沢の食を楽しめる近江町だからなと見ていると、思わずびっくりする色紙を見つけた。店員さんの許可を得て撮らせてもらったのがこちら。

「美味」。平成25年(2013年)の7月といえば参議院議員選挙が行われた。自民党が政権を奪回し、この参議院選挙でも勝利してねじれ国会が解消された。この時に金沢にも遊説で来たのだろう。当初から自民党有利という予想もあり、食事するのも結構余裕だったのかもしれない。

食事を終えて市場内をぶらつく。すしや海鮮丼を扱う店が多いが、どこも長い行列である。そんな中で鮮魚店にはのど黒や紅ずわいがにもあるが、目立つのは岩ガキである。店頭で食べさせる店もあり、私もそんな店の一つでいただく。身も握りこぶしくらいある結構大きなものだ。味も結構濃い。

お腹も膨れたところで金沢駅に戻る。そろそろ、午後の目的地である金沢市民野球場に向かう。最寄駅は北陸鉄道内灘線で3つ目の磯部だが、時間もあることだし、一旦終点の内灘まで行くことにする。そうすると内灘線の1日乗車券のほうが安い。

北鉄金沢駅は地下ホームから出る。車両は元京王井の頭線で使われていたもので、車内には当時の写真も多く飾られている。また自転車の持ち込みもできる。

乗客の中に千葉ロッテマリーンズのTシャツ姿の人を見かける。磯部で降りていったから、おそらくそのまま球場へ向かうのだろう。やはりフリオ・フランコ目当てかな。

駅間は結構短く、1~2分も走れば次の駅に到着する。近郊客の利用もそこそこある。20分あまりで内灘に到着。ここから海は近いが歩くには遠い。やはり暑いし、野球場にも早く行きたいのでここはすぐに引き返す。

折り返しの列車の乗客はそこそこあったが、磯部で下車したのは私だけ。遠くに金沢駅周辺の高層建物を見る中、浅野川を渡り、田んぼの中を球場まで歩く・・・・。
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朝の金沢散策

2015年08月22日 | 旅行記D・東海北陸
16日、午前中は金沢市街で過ごす。まだ朝の6時ということで路線バスの姿も見かけず、町の中心部に向けて歩き出す。日陰は涼しいのだが直接太陽が当たると早くも暑く感じる。

金沢の食の中心である近江町市場に着く。さすがにこの時間では人の姿もほとんどなく、早い店がそろそろ開けようかと支度をしているところ。昼食はここで取ろうと思う。

市場のアーケードを抜けると尾張町に出る。近江から尾張と、旧国を渡り歩いているようだが、尾張と言えば加賀前田家の祖・前田利家の出身地。この尾張町は利家が尾張から呼び寄せた商人たちが住んだとかで、金沢の経済の中心だったという。高いマンションも並ぶ中、今でも古い造りの商家が残っている。

そしてやって来たのがひがし茶屋街。格子の並ぶ町並みは金沢の中でも風情のあるエリア。昼間は観光客で賑わうところだが、朝の7時前は地元の人らしいのが散歩する程度。この景色をほぼ貸切で楽しむ。重要文化財の「志摩」や「懐華楼」といった建物もある。以前金沢に来た時、夜の灯がともるひがし茶屋街を歩いたことはあるが、早朝は初めて。

表通りは今でも芸事を楽しむ茶屋だったりカフェだったりするが、一歩中に入ると一般の民家である。テレビのニュースの音や朝食の支度をする音も聞こえてくる。

金沢城に向かう。石川門の下には前田利家の像がある。

金沢城は元々は一向宗の尾山御坊が置かれたところだったが、柴田勝家の北陸攻略により織田方に降り、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉が勝利した後、前田利家が治めることとなった。ただ利家自身は豊臣政権の重臣として大坂にいることが多く、実際に城の建設に携わったのは子の利長である。

さすがは加賀百万石の居城ということで城の規模も大きい。隣の兼六園も城の一部と言ってもいいし、金沢城と兼六園の間の道路も元々は堀だったという。ただ、他の大きな城が(復元されたものも多いが)シンボルである天守閣があり、「これぞ城」という存在感があるのに比べ、「金沢城」というのはそこまで全国的に有名かと言われるとどうだろうか・・・という感じである。石川門は重要文化財だし、いくつかの櫓や門は復元されているが、往年の姿を伝える建物はほとんどない。

金沢城公園のホームページで改めて沿革を見ると、目立つのが「焼失」という言葉。天守閣はあったそうだが早くも1602年に落雷で焼失。その後、1620年、1631年、1759年、1808年、1881年に焼失した。中でも1759年の大火は宝暦大火と呼ばれ、金沢の町の9割が焼失した金沢史上最大の惨事である。火災が多いのは北陸特有のフェーン現象や冬の雷も関係しているという。それだけ金沢に繰り返し大火が起こっていたとは知らなかった。

兼六園に向かう。この日は無料開放ということで園内に入る。まだ朝の8時前だが多くの観光客が訪れている。歩き回って暑い中であるが、緑の中にいると多少は涼しく感じられる。しばし、ベンチで池を眺めながら涼む。

この後、朝9時まで時間があるので一度尾山神社まで歩いて参拝。こちらにも前田利家像。こちらは馬に乗って出陣する姿。金沢の城や町づくりを行ったのは実質的には前田利長だが、やはり街のシンボルといえば利家ということになるのだろう。尾山神社も利家を祀っている。

「朝9時」としたのが、この時間に開館するスポットに行くため。たまたまこの期間に当たっていたのだが・・・・。
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まずは深夜バスで金沢へ

2015年08月21日 | 旅行記D・東海北陸
昼間に飛鳥散策と岡寺参拝を済ませ、帰宅して夕食の後、22時にJR大阪駅に現れる。場所は駅北側のJRハイウェイバス乗り場で、各方面に向かうバスを待つ客でいっぱいである。

今回の旅のお目当ては、元・JR全線乗車の経験者として新たな乗りつぶし対象となる北陸新幹線が一番(北陸新幹線に乗っても、仙台松島ラインや東京上野ラインが新たに未乗車区間として残るのだが)、そして、北陸新幹線と引き換えに第3セクターに移管した北陸線、信越線の区間に新たに乗るのが二番。そこに金沢でのBCリーグ観戦が加わった。

例によって時刻表をいじり、プランニング。16日午後の野球観戦は決まっていて、その日は金沢泊となる。翌日以降、金沢から先の新幹線と第3セクターをどちらからどう乗るか、また17日の夜の宿泊をどうするか。当初は休み最終日の19日まで現地にいようかと思ったが、1日短縮するということもあった。結果、17日は第3セクター乗り継ぎで長野泊。18日は高崎~長野のどこかの駅から新幹線に乗ることにして、金沢まで戻り、そのままサンダーバードで大阪に戻る。行きと帰りで同じルートだが、新幹線と第3セクターでは別の路線、別の車窓が期待できて、一周コースに近い。

さらに変化をつけるため、16日の午前で金沢市内見物もつける。朝のサンダーバードでもいいが、ここは特急よりも安く、早朝に着く深夜バスはどうか。

ネットで席を取ることができた。ただ番号が大きく、後で座席表を見ると2階建ての1階席だった。1階は普通の観光バスよりも席の位置が低く、エンジン音やタイヤの振動が伝わりやすいと言われているが・・・。

22時半の金沢・富山行きの案内がある。この夜は2台運行で、私が指定されたのは2号車。よく見ると1号車は金沢・富山行きで、2号車は金沢行きとある。金沢までの利用のほうが多いのだろう。その2号車も満席との案内があった。

1階席へ入る。私の席は一番前の一人がけで、前に座席がないぶん空間を有効に使える。前の壁と窓に足を伸ばすとちょうどいい感じだ。

大阪駅出発時点では1階席は半分の入り。新御堂筋から千里ニュータウンを経て、名神吹田から京都南まで走って京都駅を目指す。その間もぼんやりと過ごす。

しばらく京都駅近くで時間調整したようで、23時45分、京都駅に入る。ここで結構乗ったようで、1階席も満席になった。

このバスは名神の多賀サービスエリアで停車して降りることができるが、北陸道に入ってからは時間調整と運転手の休憩のための停車のみ。そんな案内があり、京都南から再び名神に入ったところで消灯。

1時、多賀サービスエリアに到着。30分ほど停まる。ご存知の方も多いと思うが、ここは仮眠施設もあるし、サービスエリアの売店や軽食コーナーも24時間開けている。ここで休んだり一夜を過ごすドライバーも結構いて、深夜1時とは思えない賑わい。駐車スペースもバス、トラック、乗用車でほぼ一杯だ。

翌朝は尼御前に停車とあるが、普通に走ったら夜中に着く距離。そこで途中時間潰しである。夜行に乗るといつも感じる、眠ったような眠ってないような感覚。ずっと起きていたようにも思うし、尻が痛いと目覚めたり途中で何回も姿勢を変えたり、一方である時間の記憶がないなとか。

そうするうちに尼御前に着き、通路向かい側の京都から乗ってきた親子連れが下車する。カーテンを少し開けるとうっすら明るかった。

この後、小松、松任に停まり、定刻なら5時44分着のところ、5分ほど早く金沢駅東口に着いた。外はすっかり明るい。

この時間からなら、始発の北陸新幹線に乗れば朝の9時前に東京に着く。乱暴な話だが、始発ののぞみに新大阪から乗るのとさほど変わりない。コストはかかるが、こういう経路での大阪~東京の移動も面白いかと。

金沢に朝6時前に着いてどうするのかというところだが、駅コンコースのコンビニは早朝営業。その中に、握りたてのおにぎりを出すコーナーがあり、温かいおにぎりを買うことができる。メニューにはとろろ昆布にぎりもある。海苔の代わりにとろろ昆布をまぶした、北陸ならではのメニュー。これを見ると北陸に来たなという思いがあるので、これらを朝食に買い求め、駅前にていただく。

16日の午前は金沢市内に充てる。まずは駅前からてくてく歩き出す・・・。
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第7番「岡寺」~西国三十三ヶ所巡り・31(日本最大最古の塑像観音、日本最古の大仏)

2015年08月20日 | 西国三十三所
終戦記念日の正午を回った時間に訪れた岡寺。これから手を合わせるのだが、自然と戦没者のこととか、平和を願うことになるだろう。

仁王門から石段を上がると堂々とした造りの本堂に出る。創建は天智天皇の頃、義淵僧正の手によるもの。義淵僧正は奈良時代の主流宗派であった法相宗の祖であり、行基や良弁といった高僧たちもその門下である。

仁王門で入山料を納めたが(ここも飛鳥王国パスポートのクーポンで団体割引料金になる)、内陣に入ることができる。本尊の如意輪観音は日本最大の塑像で、高さは4.6メートルある。また塑像の観音像としては日本最古と言われ、弘法大師の手による。これぐらいの大きさということもあり、他の札所のように本尊を厨子に納めてということはなく、いつでも拝観できる。

岡寺が有名なのはこの本尊観音もあるが、日本最古の厄除霊場とされることにある。岡寺は正式名称は「龍蓋寺(りゅうがいじ)」というそうだが、このいわれには義淵僧正が関係する。近くに田畑を荒らす龍がいて人々を困らせていたのだが、義淵僧正が法力を使って池に閉じ込め、大きな石で蓋をした。それが「龍蓋寺」という名前の由来とされており、本堂の前にもその池がある。池の前にはその伝説を描いた石像もある。龍に蓋・・・ドラゴンズファンの方にとってはあまり面白くない寺かな。この龍を封じ込めたのがいつしか災いを取り除くことにつながり、密教の行事とも相まって厄除け信仰が広まったという。岡寺自体も法相宗から真言宗に移った。

内陣は一周することができ、義淵僧正の像や三十三所のそれぞれの観音像など見ることができる。この後は朱印をいただく。岡寺は両親がすでに納経軸に朱印を受けており、今回は長い軸を持参する必要がなかったのがありがたい。朱印には「厄除大悲殿」とある。他の札所なら「大悲殿」だけのところ、「厄除」をつけるあたりが、岡寺のプライドを感じさせる。

本堂の上には奥の院がある。奥の院といっても2~3分で着くのだが、石窟がある。身をかがめて10メートルほど入ると弥勒菩薩像が安置されている。外の暑さに比べれば若干ひんやりとしているが、狭いところなのですぐに出る。この石窟はいつ、どのようにして彫られたか。穴の奥というのが何かいわれがありそうだが・・・。

奥の院から一回りして本堂前に戻る。屋根つきの休憩所で、次に行く札所を決めるサイコロ。いよいよ選択肢も残り5つとなった。

1.安土(観音正寺)

2.東山(今熊野観音寺、清水寺、六波羅蜜寺)

3.姫路(圓教寺)

4.舞鶴(松尾寺)

5.近江八幡(長命寺)

6.振り直し

1回目のサイコロアプリが出た目は・・・「6」。ということでやり直し。そして2回目・・・「4」。舞鶴である。

さて、どう行こうか。舞鶴まで高速バスという手もあるし、鈍行乗り継ぎでも行ける。9月10日までなら青春18きっぷが使える。それなら時間的にきついがその期限までに行くとして、またヤフオクでバラ売りを探すとするか・・・。

岡寺を後にして再び飛鳥散策。10分ほど下ると古い家が並ぶところに出る。私は石舞台から回ってきたが、ここが本来の岡寺の表参道である。鳥居が立ち、参道入り口であることを示す。

ここから北上し、飛鳥板蓋宮跡から酒船石を巡る。万葉文化館に着き、空調の効いた室内でしばし休憩。ここではさまざまな絵付けをした散華を見たり、万葉の頃を人形で再現した展示を見る。

それにしても、昼をすっかり回ったのだが食事がまだである。結構疲れたがもうひと踏ん張りということで、飛鳥寺にたどり着く。飛鳥寺は蘇我馬子の発願により創建された日本最古の寺院とされ、本尊飛鳥大仏は日本最古の仏像とされる。またこちらも橘寺に続いて「新西国」の霊場の一つである。

本尊は撮影禁止というのが一般的だが、ここ飛鳥大仏は撮影OKである。そういうこともあってか、本堂に入るとまず参詣者は大仏にカメラやスマホ、タブレットを向ける。その後で案内を聴く。今でこそ飛鳥大仏のある本堂と、観音像が納められた「新西国」札所でもある観音堂くらいしか建物はないが、創建時は塔や金堂を配した本格的な寺院であった(四天王寺や法隆寺をイメージすればよいのかな)。しかしその後火災で焼失し、いつしか規模も縮小した。案内では「東大寺は戦乱で焼けましたが、飛鳥寺は戦乱ではありません、火災で焼けたんです」と、「戦乱ではなく火災」というのを強調していた。

飛鳥寺横の蘇我入鹿の首塚を見る。ここでこの日の飛鳥見物は終了ということで、戻ることにする。飛鳥寺前にはバス停があるが、時間を見るとタイミング悪くしばらくやって来ない。待ってもいいが、炎天下の下でじっと立つのもしんどい。ならば・・・ということで、半ばヤケになっていたのだが、橿原神宮前駅まで歩くことにする。行きは飛鳥から歩いて来たのだ。何とかなるだろう。

歩きのペースとバスの時刻表を比べれば途中でバスが追い付いてくるはずだったが、結局バスの姿を見ることはなかった。また、反対方向である飛鳥駅に向かうはずのバスとすれ違うこともなかった。盆休み期間で観光客の姿は多かったが、道が渋滞するほどの交通量はなかったはずである。そうなると、この日バス自体動いていたのかどうかが疑問である。あのまま飛鳥寺前でバスを待っていてもそのまま待ちぼうけだったりして・・・。

飛鳥寺から30分あまりで橿原神宮前駅に着き、JRの西国三十三所キャンペーンのスタンプを押す。結局飛鳥から石舞台、岡寺を経て橿原神宮前まで歩き、ならばお疲れさんで生ビールでも・・・となるが、さすがにそんな気も起こらなかった。結局途中で食事を取ることもなかったが、これから何か食べようという気も起こらなかった。熱中症ではないが、ちょっとしんどいなということでそのまま帰宅する。この日の夜から旅立つというのに、昼間にちょっと無理したかな・・・・(さすがに夕方になると普通に食欲も出てきたし、夜は普通に動くことができたから大したことではなかったのだが)。
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第7番「岡寺」~西国三十三ヶ所巡り・31(和を以って貴しとなす)

2015年08月19日 | 西国三十三所
続きであれば金沢方面の旅のことを書くのだが、いったん時間を15日、終戦記念日に戻す。この日の夜に出発したのだが、その昼間は西国巡りを行っていた。行き先は第7番の岡寺ということで、自宅からは近鉄一本(途中で乗り換えは必要だが)で行ける近場である。

近鉄吉野線に岡寺駅があり、普通に考えればここが最寄駅だが、バスも何も出ていない。歩くなら駅から1時間近くかかる。岡寺にバスで行くなら、橿原神宮前~飛鳥間を走る周遊バスに乗るのだが、この季節は1時間に1本の運行。

ただ、どうせ岡寺に行くなら、その周りにある飛鳥の歴史スポットも一緒に回りたい。ということで、電車で飛鳥駅まで行き、飛鳥の観光スポットを歩いて回りながら石舞台古墳へ。石舞台古墳と岡寺は比較的近い距離にある。となると、岡寺といっても実質は飛鳥。

朝の10時に飛鳥駅に到着する。自宅から近いこともありゆったりとしたスタートである。ここから飛鳥散策ということで、まずは駅前の観光案内所で「飛鳥王国パスポート」を買い求める。1冊100円。観光スポットの案内が書かれているし、パスポートらしくスタンプ帳のページもある。100円と有料だが、各観光スポットの1割引きとか50円引きとかのクーポンがついており、数か所回れば軽く元は取れる。

これを手に早くも暑さを感じる中歩き出す。ここで、「飛鳥巡りと言えばレンタサイクルが定番ではないのか?」と思われる方もいるだろう。私もそう思うし、過去にはレンタサイクルで回ったこともある。ただ、今回は歩いて回ることに。西国巡りは公共交通機関で、それがないところは徒歩で・・・というのを続けている。レンタサイクルも公共の乗り物に近いかなとは思うが、そこはやはり歩きにしよう。

まずたどり着くのは高松塚古墳。石室の壁画で有名である。その複製を資料館で見ることになるが、現物は現在石室ごと解体されて修復作業中である。修復はこれまで何度か行われているが、元の古墳の中に戻すと、経年でカビや劣化が発生してしまう。このため、古墳から出して博物館のようなところで一定の温度・湿度を保って保存したほうがよいのではとか、古墳に戻すとしても、博物館のような環境を整備すべきだとかいう声がある。ネットでそんな記事を読むと、なるほどなと思うこともある。修復されながらでも自然の環境の下で保全できるのならいいが、それが無理なのなら現代の技術を加えるのも、歴史を後世に伝えるという大局的なところから見ればよいのではないか。

炎天下の中を歩く。飛鳥周遊歩道というのがあり、未舗装の区間も含めて歩行者、自転車で回るように整備されたコースである。鬼の俎板、鬼の雪隠という石のスポットに出る。解説では石棺の露出したものとあり、俎板が基盤で雪隠が上の部分とある。それにしても離れたところに上の部分があるのは、よほど大がかりな人の手が加わったか、石棺を押し出すくらいの大雨、土砂崩れでもあったか。

この後、亀石を経て橘寺に向かう。ここは聖徳太子が産まれたところとして伝わっている。また、今私が行っている西国三十三所巡りとは別にある「新西国三十三所」の霊場の一つである。この「新西国」、昭和の初めに関西の新聞社の企画で一般公募も含めて33の霊場を選定したものである。西国三十三所から外れた由緒ある寺院が入ったり、聖徳太子ゆかりの寺院がいくつか入ったりというのが特徴である。私もこの流れで行くといずれは「新西国」も回ることになるのだろうが、今日は朱印をいただくことはせず、手を合わせるだけにする。

本堂に上がる。創建は聖徳太子と言っても当時の建物は残っておらず、現在の姿は江戸時代からという。本尊は聖徳太子。

聖徳太子と言えば、今でこそ実在そのものを疑う著作もあるくらいだし、確かに厩戸皇子という人物はいたが、その業績や伝説はいろんな人のことを寄せ集めたものだとか、いろいろ言われている。1万円札から消えて30年以上になるし、学校の歴史の時間でもそんなに力を入れて教えないようである(私の出た小学校の校歌の歌詞には聖徳太子が出ていたのだが・・・)。ただ昔から長い間聖徳太子信仰というのはあったわけだし、仮に聖徳太子が本当は実在せず、作り話の寄せ集めだったとしても、一人の人物の伝記としてでき過ぎるくらいよくできている。

参拝していると友人からメールが来た。終戦記念日を前に映画『日本のいちばん長い日』を鑑賞したという。戦後70年ということで注目されており、私も観たいなと思いつつ、その前に半藤一利氏の原作を読まなければなと思っていたところ。

そんな中で聖徳太子像を見ると、頭の中にあるフレーズがよぎる。「和を以って貴しとなす」・・・。

聖徳太子が定めたとされる「十七条憲法」の第1条の一節である。今でこそこの字義の解釈はいろいろあるそうだが、一般に知られているのは周りとの「和」の精神である。今、中国や韓国、北朝鮮とギクシャクした関係にある日本で、特に中国を意識した安保法案が成立しようとしている。安倍内閣の最終的な目標は憲法改正だったはずだが、現実には難しく、その一方でさまざまな法制によって結構苦しい憲法解釈で批判にさらされている。もし、「憲法」を変えようというのなら、「十七条憲法」の精神を踏まえるのはどうだろうか。真の平和を願うなら、「和」の精神というのは必ず出てくることではないだろうか。ちょうど戦後70年の正にその日、そこまで歴史を振り返ってみるのも悪くはないと思うのだが・・・。

石舞台古墳までたどり着く。暑い中だが多くの観光客で賑わっている。ここで村内向けのスピーカーから、正午に戦没者追悼のためのサイレンを鳴らすという知らせが流れる。

石舞台から岡寺へは近いとあるが、石舞台の北側にある山道を上る。結構急な坂だが、それを上りきると今度は階段を下りる。すると岡寺の参道に出る。ここを少し上ると山門に出る。・・・とここでサイレンが鳴る。山門は西に向いており、その方角に向けて頭を下げる。岡寺と聖徳太子は直接関係ないが、ここで少し「和」について思いを向けるのであった・・・・。
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BCリーグ観戦記@金沢~フリオ・フランコとタフィー・ローズ(試合経過)

2015年08月17日 | プロ野球(独立リーグほか)
16日、金沢市民野球場での石川ミリオンスターズ対富山GRNサンダーバーズ。この試合、メジャーの名選手でもありロッテでもプレーした石川のフリオ・フランコ選手兼任監督と、近鉄、巨人、オリックスで数多くの本塁打を放った「ミスター・バファローズ」で、今季途中から富山にやって来たタフィー・ローズの顔合わせが楽しみである。またどちらも独特の打撃フォームで印象的な選手。

その試合、石川の先発は今季入団の矢鋪。地元の金沢向陽高校を卒業したばかりで、甲子園の出場経験もないし、NPBが注目していたという話は聞かない。それでも、地元の独立リーグのトライアウトに合格して、地元枠でミリオンスターズに入団するくらいだから、その辺の高校生投手と比べて何か抜きん出たものがあるのだろう。先発でも出ているようだがまだ勝ち星はない。まず初回は三者凡退で片付ける。

富山の先発は秦。元横浜で、現在は富山の投手コーチも務めながら自ら先発でも投げる。選手名鑑によればMAX145kmとあるが、スコアボードのスピード表示でもそこまでは出ない。むしろ軽い感じで投げているような。

初回、いきなり先頭の三家(みけ)を四球で出す。幸い盗塁失敗でランナーはいなくなったが、3番・フランコがセンター前に上手く運ぶ。続く石突にもヒットが出るが後続を切って何とかしのぐ。

直後の2回、先頭はローズ。応援団とファンからの「タフィー!」のコールの後、「いてまえホームラン、ローズ!!」というコールが飛ぶ。北陸に来て聞く「いてまえ」。もううれしくなった。さすがに応援歌まで近鉄のものとはいかずサンダーバーズ仕様だが、グリーンのユニフォーム(これを見ると東北楽天の限定ユニフォームそっくり)、背番号16も結構似合っている。結果は残念ながら二ゴロだったが・・・。この後、2つの四球と1安打で満塁のチャンスを作るが無得点。

試合が動いたのは3回表。一死から富山の2番・大久保がライトへの三塁打を放つ。続いては野原。かつては「富山のおかわりくん」と呼ばれていた選手。NPB(阪神)ではほとんど活躍できなかったが、富山復帰後は以前と変わらぬ打撃を続けている。このチャンスにライトへの鋭い当たり。先制の二塁打となる。

そして迎えるのはローズ。ホームラン、タイムリーに期待が集まるがここは四球。一塁も空いているし、半ば勝負を避けられた感じ。しかしこの後の5番・大上戸(だいじょうご)がセンター前に運んで2点目。2対0と富山2点リード。

初回、2回と得点圏にランナーを背負う秦だったが、中盤以降はベテランらしく落ち着いた投球を見せる。フランコの2打席目もボテボテながら一・二塁間を渋く抜くヒット。この辺りのテクニックはさすがだ。

5回表、先頭の大久保のヒットと盗塁から一死三塁と追加点のチャンス。ここでローズだが、矢鋪はストレートの四球。最初から勝負を避けているようにも見え、これには富山ファンから「勝負しろ!」という声が挙がる。勝負ごとなので敬遠というのはあることとしても、独立リーグの場、ましてや高卒ルーキーで、ひょっとしたらこの先の活躍でNPBからのドラフト指名というのを期待しているのなら、敬遠はちょっと違うような気がするのだが・・・これは素人考えなのかな。

ここで石川は矢鋪から安江に交代。こちらは中京大中京高から愛知学泉大(初めて聞く名前)を経て今季入団。ローズ敬遠の後の大上戸が2打点目となる犠牲フライを許す。3対0、試合は富山ペースとなった。

6回裏、無死一塁で打者はフランコ。前の2打席はいずれも渋いヒットだったが、この打席は見逃し三振。打席を退く際に審判に何か不満そうな仕草を見せる。この回も秦が抑えて無得点。

7回表、この回から登板の上條から野原がヒット。続くローズは今度はファウルで粘りながら四球。その後、望月の内野安打や石川の守備の乱れがあり2点追加。5対0とワンサイドになった。ローズはここまでノーヒットながら四球3つ。そのいずれもが得点に絡んでおり、チームとすれば貴重な出塁である。

このまま行くかと思われた7回裏、無死一塁から坂口のレフトへの平凡なフライを、レフトの大久保が打球の行方を見失いポテンヒットにしてしまう。続く桑原のゴロを三塁の大上戸がはじいて、その間に1点入る。さらに三家の犠牲フライで2点目が入る。5対2、試合の行方はまだわからない。

8回表、石川4人目の王に対して一死満塁のチャンスを作り、ローズに5打席目が回る。打球は一瞬ライトスタンドか??という当たりだったが、ライトへのフライ。まあ、犠牲フライかなと思ったが、三塁ランナーの佐伯は戻ってこない。(周りのファンの声によれば)そんなに足の速い選手ではないが、あのフライなら戻れるだろう。スタートが遅れたか、原因はよくわからないがそのままだったのは確か。ローズが一塁に走りかけて戻る時に何か大きな声で叫ぶ。チャンスに凡退した自分に喝を入れているのか、あるいはあの当たりで本塁に生還できなかった佐伯に対するものか。それはよくわからないのだが・・・。結局この後の大上戸への四球で押し出しとなり、1点追加で6対2。まあ、この展開で行けばこの日のローズの打席は見納めかな・・・。

一方の秦は7回まで2失点だからもう継投かなと思ったがそのまま投げる。15時に始まった試合も3時間を超え、ようやく太陽が傾き、暑さも和らいだ感じがする。照明灯が少しずつ点灯する。

9回表。この回は7番の上田からの攻撃。さすがに4番のローズまでは回らないなと思っていたが、ヒット2本で二死ながら一・三塁。大久保がこの日4安打目となるタイムリーを放ち、7対2。野原が四球を選んで、二死満塁でローズの6打席目。応援団からは「夕陽に向かって打ってもらいましょう!!」と気勢が上がる。ここで満塁本塁打なんてことになれば絵になる。

・・・と思ったが、初球をあっさりと打ち上げて力のないセンターフライ。結局ローズの本塁打やヒットは見られなかったが、四球3つ、そのいずれもが後続による得点につながったということで、試合とすればよかったのではないかと思う。前の打席の大声が何だったのかが気になるのだが・・・。

9回裏も秦が登板。ただ先頭の代打・宮本が二塁打の後、続く代打・ダルーの三塁への当たりを大上戸がトンネル。これで1点返して7対3となる。この後で二死三塁となって迎えるはフランコ。

最後の打者は避けたいところで、ライトへのこれまた渋い当たり。もう1点入って7対4。56歳となって大きな当たりは難しくなったのだろうが、こうしたテクニックというか、嫌らしい打撃は56歳でもできるということだろう。

ただ石川の反撃もこれまで。7対4で富山が勝利、秦は完投勝ちとなった。

試合終了後は両チームがラインに沿って並び挨拶をすることになっている。フランコが何か言いたそうな表情で、一部の富山ファンが「そんな態度するヤツは帰れ!」というようなヤジを飛ばしていたが、特に混乱もなく終了。

試合後は、ホームの選手が入り口まで出て観客の「お見送り」をするのがBCリーグの恒例行事である。ただこの試合で出てきたのは、先発の矢鋪など今日投げた投手陣を中心とした5~6人。パラパラという感じである。野手陣はフランコ監督、渡辺・山出コーチの説教を受けているのだろうか。数少ない選手の中に吉田えり投手がいて、他の投手たちにほとんど声がかからない中、観客への対応は彼女が一手に担当しているような感じだった。私もサインをもらったが、できればフランコに出てきてほしかった。ただその気配はなく、外も暗くなったし私もいい加減に宿に入りたいので切り上げて再び磯部駅に向かう。駅には同じく観戦帰りとおぼしき客が数人いる。中にはオリックス・バファローズの「Bs Spirits」のネイビーユニの人とか。ひょっとしてわざわざその格好で朝からサンダーバードに乗ってきたとでも??

北陸鉄道の浅野川線に揺られて金沢駅に戻ったのは19時半。この日は朝から歩き回っていたので疲れていたし、早く風呂にも入りたい。居酒屋に行くとか言うのはなしで、夕食はコンビニで買ったもので済ませる。

乱打戦のような、守備の乱れのような長い試合だったが、フランコ、ローズというところの元気な姿を見ることができてよかった(来季、この顔合わせが見られるかどうかはわからないし・・・)。こうしたレジェンド選手の技術や心構えを若い選手がもっと吸収して、リーグのレベルアップ、そしてNPB入りの目標実現というのにがんばってほしい。また、地域のイベントとしてこのリーグはこれからも観戦したいものである・・・・。


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BCリーグ観戦記@金沢~フリオ・フランコとタフィー・ローズ(試合前)

2015年08月16日 | プロ野球(独立リーグほか)
・・・前日の記事で「大阪発22時、どこに行くのか・・・」というのを書いた。

で、正解はこちら・・・と言われてもどこがどうなんだか。

やって来たのは金沢。午前中は金沢の市街を歩き回ったのだが、その後で訪れたのが金沢市民野球場である。北陸鉄道浅野川線の磯部駅から歩いておよそ15分のところ。以前、6年前に一度観戦に来たことがあるのだが、その時は香林坊から本数の少ないバスに乗り、帰りは金沢駅直通の臨時バスに乗った。

観戦するのはルートインBCリーグの石川ミリオンスターズ対富山GRNサンダーバーズ。これまでのBCリーグ観戦でホーム、ビジターともで目にすることの多いチームである。隣同士の県ということもあるし、この対戦というのが伝統の一戦ではないが、もっとも盛り上がっているのではにかと思う。

特に今季の両チームは面白いことになっている。石川は前任の森慎二監督が西武のコーチに招聘されたことがあり、その監督人事が注目されていた。石川出身ということで松井秀喜の就任があればサプライズかなと思っていたが、実現したのはメジャーでも大活躍し、ロッテにも在籍したフリオ・フランコ。56歳にして選手兼任でミリオンスターズの監督に就任した。

もっとも、フランコ監督の役割は采配がどうのこうのというよりも、自らが手本となって若い選手を引っ張っていくというものだろう。選手起用や作戦については、昨年信濃グランセローズのコーチをしていた元ロッテの渡辺正人コーチや、ミリオンスターズの初期から野手コーチとして、そして三塁コーチボックスに立つ山出コーチが担当するということで(この試合前の両監督のメンバー交換挨拶とか、試合中の選手交代のコールは全て渡辺コーチが行っていた)。

そして一方の富山GRNサンダーバーズ(GRNというのはコカコーラの子会社で、今季から富山のチームのネーミングライツを得ているとか)、昨年から元近鉄の吉岡雄二監督だが、今季途中からびっくりの選手が現役復帰する。そう、「ミスター・バファローズ」タフィー・ローズ。

石川のフランコ・渡辺の元ロッテ、そして富山の吉岡・ローズの元近鉄・・・また今季は福島、武蔵という新球団も加入しており、BCリーグ観戦の楽しみが増えたことである。関西から行くのも結構難しい話で、その中で、夏休みを利用してどこかに行くかということを考えた。北陸新幹線や新しく発足した第三セクター路線にも乗りたい。この辺りのBCリーグの日程表をチェックすると、16日に金沢で石川対富山が行われるとある。

・・・ということで、この旅行は16日の野球観戦を軸に組んだ。試合開始は15時ということで、午後の時間は球場で過ごすことになる。

さて13時過ぎ、北陸鉄道浅野川線の磯部駅から歩いて球場に到着する。当日券を購入する。係の人がチケットの売れた枚数を紙に「正」の字でつけているのだが、私はその4画目。同じ日、同じ金沢でも石川県営球場のほうでは中日対阪神の2軍戦が行われていた。そちらへ行くファンが多いのかな。地元の人でもそんな感じなのに、わざわざ大阪から独立リーグの試合を見に行く私って・・・。

グラウンドではちょうど富山の選手が練習中。吉岡監督もバットを持って打撃指導や選手へのノックの余念がない。

そんな中、ローズの姿を見る。ちょうど練習が一段落したと見えて三塁側のベンチに戻ってくる。そこを捕まえて一人のファンが大阪近鉄のグッズを手にサインを求めていて、ローズも気軽に応じている。これはチャンス。BCリーグの場合、ホーム側の選手は試合終了後の「お見送り」でファンの前に姿を見せることが多いが、ビジターではそれは期待できない。ならば私も慌てて取るものと取りあえずローズのところに向かおうとするが、マジックはあるが色紙とか近鉄グッズという用意はなかった。手持ちのものということで、失礼かとは思うが手帳にサインをお願いする。

すると「どのページ?」「背番号は何にする?16・・・20・・・8?」と。16というのは富山で今つけている番号だが、私としてはローズといえば何といっても近鉄時代のイメージである。そこは20番をお願いする。写真もお願いすると直立不動で応じてくれた。ローズとしてみれば長年、毎度のことで慣れたものだろうが、こちらとしては何ともありがたいことである。

私がBCリーグを観戦する時は、今の8球団いずれにも地縁血縁がないこともあり特定の球団を熱心に応援するものではないので、その地元に敬意を表する意味でホームチーム側(またはバックネット裏)に陣取るのだが、この日はローズの存在もあるし、三塁側の富山側に陣取る。

両チームのメンバー発表がある。フランコは石川の3番、ローズは富山の4番、いずれもDHでの出場である。富山の先発は元ベイスターズの秦が出るし、BC初年度に2冠王を達成し、一時は阪神にも在籍したが今は再び富山で頑張っている野原祐也が3番。

石川には女子選手の「ナックル姫」こと吉田えり投手がいる。この日は試合前のファン参加のイベントのMCをやっていた。本人としてはイベントのMCなんかよりも試合で登板したいところだろうが・・・。

15時とは言っても日差しがモロに照りつける暑い中。幸い、球場の自動販売機では水やお茶が普通の値段で売られている。臨時売店のビールを飲もうという気にならず、自動販売機で水やお茶を頻繁に買い求め、塩分補給は前日から持っていた梅塩昆布をなめるという中での試合。その様子は次の記事で・・・・。
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大阪駅、22時

2015年08月15日 | ブログ
お盆の真っ只中ということもあってかごった返している大阪駅。

これから、とある方面に向かいます。

正解は、明日の夜の書き込みにて・・・・。
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