広島新四国八十八ヶ所、今回は第5番の観音堂である。2月23日、訪ねるのは廿日市市の地御前である。高須から広電にのんびり揺られて、地御前の電停に到着する。
ちなみに電停から数百メートル先には第78番の三光院もある。エリアごとに巡拝するなら一緒に回るところだが、この広島新四国八十八ヶ所めぐりではあくまで「札所番号順」を採用している。札所も一応宮島から始まって宮島に終わる循環ルートになっていて、その時にまた地御前の電停に降りることになる。
この辺りも宮島街道で、旧道沿いに古くは明治時代から続く町家が残る。
その観音堂、こちらの立派な楼門がある寺と思いきや・・・こちらは浄土真宗の別の寺である。
その向かい側、ちょっとした空き地があり、その奥にこじんまりしたお堂が見える。ここが観音堂である。こうしたところも札所になるのが地方の八十八ヶ所霊場である。お堂の周りには隣の民家と接するように鐘楼や石灯籠、地蔵像などが並び、狭いスペースに無理やり押し込められたようにも見える。
広島新四国八十八ヶ所の札所案内によると、観音堂が開かれた時期は不明とのことだが、江戸時代の前期には田中屋が堂の世話をしていたとの記録があるそうだ。「対岸の宮島が古来の禁制で、神域外の当地付近に産屋が設置されていたのに関連して観音堂が建立されたのかもしれない」とあるが、どういうことだろうか。
宮島が古来の禁制というのは、今でこそ観光地として賑わっているが元々は島そのものが信仰の対象で、穢れ、不浄が許されなかった歴史のことである。島内に墓を作ることができないし、昔の考えでは出産も穢れとされていた(今はそんなことを言う人はいないだろうが)。そのため、別の場所に産屋が設けられ、そこで出産する習わしがあった。別にこれは宮島に限ったことではなく、各地に設けられていたものである。産屋があったから観音堂ができたのか、あるいは観音堂の周りなら安心して出産できそうだと産屋が建てられたのか。少なくとも、観音菩薩には穢れを忌むという考えはなく、むしろ産婦を救ってくれる安心感がありそうだ。
現在のお堂は明治時代に再建されたとのこと。まずはお堂の前でお勤めとする。
お堂の扉に「納経は中にあります」の貼り紙があり、横の扉から中に入る。畳2枚分くらいの外陣があり、奥に本尊の十一面観音が祀られている。これまでいただいてきた開基100周年記念の御影はなかったが、裏に般若心経が書かれていた十一面観音の写真があり、代わりにいただく。この観音堂には住職というのがおらず、ご近所で管理されているそうだ。そのためか、墨書の文字も大きなスタンプが使われているようで、ところどころかすれたものになっている。
旧道をもう少し進む。
JRの踏切を渡ってやってきたのは地御前神社。JRと広電の線路に挟まれた場所に鎮座しており、鳥居の前を広電の線路と宮島街道が横切っている。もっとも、昔は拝殿のすぐ横まで海が来ており、鳥居も海上にあったという。
宮島が古来島そのものが信仰の対象だったと書いたが、元々は人の立ち入りも禁じられていた。そのため対岸からの遥拝の場として設けられたのが由来とされている。後に、宮島に人が入るようになってから、島内の厳島神社とともに神社として広げられ、江戸時代までは伊勢神宮になぞらえて厳島神社を「内宮」、地御前神社を「外宮」と呼んだそうだ。鳥居にも「厳島外宮社」と記されている。
かつての厳島合戦の時には、毛利軍が風雨の中ここから宮島に出撃し、陶軍を破った歴史がある。
せっかくなので海辺に出る。牡蠣の養殖いかだがあちこちに見える。地御前の牡蠣も有名だ。しばらく海岸を見ながら歩き、宮島が見えるところまで出る。
次の電停である阿品東に向かい、また広電で帰宅する。この日は午前中のちょっとした散歩という形になった。
地御前に来たこともあり、夜は牡蠣料理にしようか。ただ、そこで業者から買えばよかったのだろうが、おひとり様なのでそれだけ大量に食えるものではない、近所のスーパーのパックで十分だ・・・。