まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第85番「安養院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(これで広島市内は終了ということで、大衆食堂での一献)

2024年08月18日 | 広島新四国八十八ヶ所

2回目の広島勤務となってしばらく、ちょうどコロナ禍の中、2021年1月に始めた広島新四国八十八ヶ所めぐり。集注して回ったり、一方で数ヶ月のブランクがあったりしたが、ようやく第85番である。どこかの札所を引き継いだのか、廿日市から宮島に向かうところが広島駅近辺に戻り、安養院に向かう。

8月12日、南海トラフ地震臨時情報が続く中、世間は盆休みに入る。朝から真夏日、猛暑日の中、広島駅に向かう。外国人を含めた旅行客の姿も目立ち、みどりの窓口、みどりの券売機にも行列ができている。地図を見ると、目指す安養院は新幹線口から出て、ちょうど新幹線の高架に沿って歩くと到着するようだ。

新幹線の高架橋の向こう、在来線の線路・車両区や広島貨物ターミナル越しにマツダスタジアムが見える。ちょうどこの日はナイターでベイスターズ戦が予定されている。午後になると赤いのをまとった人たちが広島駅周辺に大勢姿を現すことだろう。

新幹線で広島を出発するとすぐ左手に見える「WE♡CARP」の看板。そのちょうど手前に当たるところに「三宝大荒神」の看板と鳥居が見える。本尊は如意輪観音、主尊に三宝大荒神とある。三宝大荒神とは、仏・法・僧という仏教の「三宝」を守護する神である。ここまで歩いてくる途中に荒神陸橋や荒神交差点といった「荒神」の名前があったが、この三宝大荒神からついているのかな。

安養院が開かれたのは江戸時代、浅野氏の広島転封後である。当初は比治山の中腹にあり、頼山陽で知られる頼家の菩提寺ともなったが、明治の神仏分離により、江戸時代から現在地にあった荒神社に移転・合併となった。

こちらの荒神社も江戸時代には浅野氏から所領の寄進を受けるなどの歴史があり、この石鳥居も当時のものだという。ただ明治、大正以後は鉄道の開通にともない境内地が減少し、さらに新幹線の建設工事もあって現在は小ぢんまりした規模となった。

現在は神仏習合の名残ある貴重な存在のようだ。本堂の窓ガラスには仏式、神式それぞれの作法の説明書きが貼られている。

箱に入った朱印をいただき、安養院のお参り終了。これで残すは宮島の3ヶ所となった。最後には弥山への登山が待っているが、さすがに猛暑日が続く8月は控えたほうがよさそうかな・・。

時刻はちょうど昼近く。当初は広島駅まで来たので、駅ビル内の銀座ライオンで生ビールでもいただこうか・・と考えていたが、線路際を歩く間にふと思い立ち、「開かずの踏切」の一つである愛宕踏切を渡り、駅の南側、猿猴橋方面に向かう。

やって来たのは「大衆食堂 源蔵本店」。朝から開業している大衆食堂で、もちろん定食メニューも充実しているのだが、魚料理を中心に朝から飲める店としても知られている。地元の人、東京方面からの観光客グループなどで賑わう中、幸い空席があった。

こちらの名物は1リットル入りの特大ジョッキ。ジョッキに描かれたイラストのモデルは、吞兵衛キャラで知られる赤穂義士の一人・赤垣源蔵であろう。大阪にはこちらも大衆酒場・立ち飲みの赤垣屋がある。史実では下戸だったとされる赤垣源蔵だが、ならばなぜ「忠臣蔵」では呑兵衛として描かれたのだろうか。

高校野球のテレビ中継を観ながらの一献というのも夏ならではである。

そして店の人気メニューの一つである鯛のあらだき。日によっては午前中で売り切れになるという。一緒に煮込んだ豆腐もついてくるお得な一品で、鯛のほうもちゃんと身がほぐれて食べ残しもほとんど出ない。

広島の地酒もいろいろあるが、鯛に合わせるという意味で瀬戸内側、三原の「酔心 橅のしずく」にスイッチ。

その後はサワーもいただき、広島新四国八十八ヶ所めぐりの今回の「直会」はこれで終了。

・・広島駅に向かう。現在南口の大規模な整備工事が続く中、2025年の開業を目指し、広島駅の2階部分に広電の路面電車が乗り入れるための橋桁も掛けられた。稲荷町へのショートカットを含め、まだまだ先の話だと思っていたことがいよいよ現実のものになりそうだ。中国地方の中心都市とはいえ、地域全体の地盤沈下が懸念されている広島、このプロジェクトが完成した後、はたしてどのような魅力を内外に発信することができるだろうか・・・。

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第84番「浄心院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(己斐の修練道場)

2024年08月07日 | 広島新四国八十八ヶ所

いよいよ終盤の広島新四国八十八ヶ所めぐり、第84番は廿日市から一気に宮島に向かうと思いきや、また西区に戻り、己斐上にある浄心院である。広島新四国の札所番号は諸事情で必ずしも地図順に並んでいないので、その都度改めて出かけることになる。7月28日のこと。

浄心院へのアクセスは西広島駅から己斐団地を経てジ・アウトレット広島、免許センター行きのバスだが、バスの本数は1時間に1本、また連日の猛暑である。近場だがクルマで行くことにしよう。

その己斐上への道だが、西広島駅の北の己斐橋から住宅地を抜ける上り坂が続く。道幅が狭いのだが住宅も多く、また己斐峠の向こうのジ・アウトレット広島をはじめとしたエリアへの近道ということでクルマがひっきりなしに行き交う。

ゴルフ練習場に向かう道と分かれ、浄心院の看板も見える。最後は住宅地の最も奥、突き当りに立派な本堂が現れる。

浄土院が開かれたのは1973年というから私と同い年である。不動明王の霊験を体し、弘法大師が唐から帰国する際に勧請した清瀧権現のご託宣により、醍醐寺から清瀧権現を勧請して衆生済度、修練道場として建立したとある。ちょうど己斐団地が開かれた時期とも重なる。いくら修練道場とはいっても、アクセスの手段がなければ修行に訪れる人もいないだろう。

外に人の姿は見えないが駐車場には何台かのクルマが停まっている。

扉の外に朱印の箱が出ている。これは扉が閉まっており、外からお参りするスタイルかなと思ったが、朱印の箱をごそごそやっているのに気づいたか、扉の中から寺の人が顔を出して、「本堂は中にあるのでどうぞお上がりください」と通される。

靴を脱ぐと2階に上がるよう言われる。そして向かうとちょうど広間では座卓を囲んで10人以上の方が座っている。ちょうどこの時は住職による法話というのか、訪ねた方の悩みを聞くというのか、そうした行事の最中だったようだ。そのままそこに居座って話に加わってもよいのかもしれないが、ここはあくまで一般の飛び込みのお参りということで、小声でお勤めだけして広間を後にする。

さてこの後だが、そのままクルマの定期点検のためにディーラーに向かい、点検終了後に帰宅。ちょうど大相撲名古屋場所の千秋楽だった。ドルフィンズアリーナでは最後の名古屋場所、横綱照ノ富士が隆の勝との決定戦を制して10回目の優勝を飾った。来年、名城公園内に新たに開業する「IGアリーナ」での最初のイベントが大相撲名古屋場所ということで、こちらにもまた訪ねてみたいものである・・・。

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第83番「正覚院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(札所めぐりの後は暑気払い・・)

2024年08月03日 | 広島新四国八十八ヶ所

第83番・正覚院に向かう。広電の廿日市電停からすぐのところに「天満宮」の看板がある小高い丘が見える。正覚院はその境内に同居している。

まずは天満宮の鳥居をくぐる。廿日市天満宮は鎌倉時代、幕府から厳島神社の神主に任命された藤原親実が桜尾城に着任後、鎌倉の荏柄天神を勧請したのが始まりである。藤原氏はその後代々厳島神社の神主を務めていたが戦国時代、大内義隆に討たれて断絶した(厳島神社の神職は、藤原氏以前に当主であった佐伯氏に移り、現在に至る)。

現在の天満宮は江戸時代、町の氏子たちの寄付によりここに移転する形で社殿が建てられた。その別当天神坊が現在の正覚院である。

石段を上ると広島湾から廿日市の木材港、建物の背後であるが宮島・弥山の景色が広がる。外は猛暑だがここは常に風が吹き抜けて心地よい。天満宮に手を合わせた後、前の休憩所で少しくつろぐ。

さて、正覚院である。歴史でいえば天満宮よりはるか昔、行基により開かれ、弘法大師空海が宮島・弥山を開いた際に真言宗に改宗した。藤原親実が桜尾城に着任した際に祈願所と定め、江戸時代に天満宮が再建されるのに合わせて別当寺となった。そして、明治の神仏分離により、同じ境内ながら別の寺社となった。それでも、棟続きではないかと思うくらい近接している。

正覚院には以前に一度来ている。広島新四国の第68番が正覚院の別院薬師堂で、現代の名仏師である松本明慶師による薬師如来を祀っている。札所番号順ということで先に別院だけ参詣したのだが、朱印は正覚院の本堂でいただくよう案内され、その際、正覚院の朱印(不動明王)もいただいた。その時に第83番もクリアにしてもよかったのだが、ここは改めて番号順ということでの再訪である。

こちらは縁側に賽銭箱その他が設けられており、廊下越しに本尊不動明王の姿も見える。外から立ってのお勤めとする。朱印は前回いただいているので特に寺の方に声をかけることもせず、そのまま天満宮の石段を下りる。

これは後で知ったことだが、今年の5月だったか、廿日市の市街地でクマが目撃され、近くの学校が臨時休校になったというニュースがあった。これに関連して、市街地の寺の境内に設置された防犯カメラに徘徊するクマの映像も流されたが、その寺とはここ正覚院だった。

さて、これで廿日市駅前の3ヶ所を回り終えた。これで広電で帰宅するのだが、せっかくの休日ということで途中楽々園で下車する。駅から歩いて5分のところにある「塩屋天然温泉 ほの湯楽々園」に向かう。広島市内で天然温泉かけ流しで、各種浴槽も揃っているので特に土日は多くの客で賑わうところだ。

こちらには何度か訪ねているが、今回初めて岩盤浴「チムジルバン汗蒸洞」も利用してみた。さまざまなタイプの岩盤浴、そしてサウナ「熱炎楽房」もある。

このサウナは通常は50度くらいの低温設定なのだが、1日数回、あのロウリュウタイムがある。これも体験と入ってみたが、サウナストーンにアロマ水が掛けられると一気に蒸気が噴き出て、そこに熱風が起こる。室内からは「熱ッ!!」と声を挙げる人もいる。そこは大型タオルを体に巻いて何とか熱さをしのぐ。時間にすればほんの数分だったのだろうが、これは効果的だ。

岩盤浴とロウリュウで火照った体をクールダウンさせるのは、室温11度の「涼風楽房」。水風呂にいきなり飛び込むよりは体にやさしいそうだ。

こちらの岩盤浴エリアは特に時間制限もなく、リクライニングソファもあればごろ寝できるスペースもあり、多くの人が室内着姿でくつろいでいる。私もこちらで寝転がった後、また別の浴室に行き、涼風でクールダウンして・・というのを何回か繰り返す。あちこち出かけ回るのもよいが、こうした一所でゆっくり過ごすのもよいものだ。

さて湯上りの後はビールだが、こちらの館内で飲むのは我慢して、ふたたび広電で五日市に移動。向かったのは、昼から営業の「大衆食堂 安べゑ」。「肉豆冨とレモンサワー」が売りのチェーン店だが、食べ飲み放題のコースが1人からでも注文できる。

何はともあれまずは生ビール。

食べ放題コースは最初に看板商品の肉豆冨、揚げ物盛り合わせが出た後の注文である。

枝豆や軽いあての後、どて焼き串やたまふわ焼きといったところをいただく。鍋で造ることでちょっとケーキ風の玉子焼きができるというのも初めて見た。

レモンサワーもシンプルなものから生絞り、自家製漬け込みなど甘口、辛口多数ある。

メニューに、クリームチーズクラッカーと韓国のりがあるのを見つけ、同時に注文。これで岡山のミシュラン居酒屋「鳥好」で注文する「のりくらっち」の再現である。もっとも、この組み合わせだと普通のスライスチーズのほうが似合うようだが・・。

締めは早い夕食を兼ねて、まぐろ刺身定食。あれこれしっかりいただけて満足。また訪ねてみたい・・・。

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第82番「洞雲寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(中世からの古刹)

2024年08月02日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐり、終盤の廿日市駅前シリーズの2ヶ所目は第82番・洞雲寺。JR廿日市の橋上駅舎を渡り、北側に出る。駅前の道は、JR五日市の北口から続く道で、西広島バイパスと宮島街道の間にある生活道路。

その道路沿いに洞雲寺がある。道路の南側には洞雲寺前公園というのがあるが、おそらく昔は同じ境内だったのかなと思う。

整備された境内、山門が広がる。洞雲寺が開かれたのは室町時代。当時の厳島神社の神主(おみくじを引いて「今日~も~カ~プが勝~ち勝~ち勝っち勝ち」と申した方)である藤原教親が創建し、曹洞宗の高僧である金岡用兼(きんこうようけん)により開かれた。やはり宮島が近くなると、広島新四国八十八ヶ所の札所も長年の歴史を持つ寺院が残されている。

洞雲寺は中国地方で勢力を伸ばした大内氏、そして戦国時代の毛利氏、関ヶ原の戦い後の福島氏、広島藩の浅野氏と絶えず保護を受け、その後も地元の人たちの信仰を集めて現在に至る。

本堂にお参りする前に、門をくぐって左手の高台に上がる。ここは墓地があり墓参りの方もいたが、その奥には陶晴賢の墓がある。陶晴賢といえば大内氏の家臣だったが主君の大内義隆を討ち、大友宗麟の弟・晴英を大内氏の当主に迎えながら自身が実権を握った。そこに反攻したのが、安芸の国人領主から戦国大名にのし上がろうと立ち上がった毛利元就である。さまざまな謀略、そして奇襲もあった厳島の戦いで元就が勝利し、晴賢は自害。桜尾城での首実検の後、晴賢の遺骸が葬られたのが洞雲寺である。

境内には他に元就の四男・元清や、桜尾城主であった桂元澄らの墓もある。

さて本堂に向かう。扉も開け放たれている。広島新四国の札所は観光寺院ではないので普段は扉が閉められていることが多いのだが、こうして開け放たれているとはオープンな感じなのだなと、靴を脱いで堂内に入る。

ちょうど寺の方がいらっしゃったので会釈すると・・

「入られると困ります!」と、座禅中にピシャリとやる棒のごとく厳しい言葉を浴びせられる。

まあ、そう言われればそうなのだが、別に立入禁止の表示があるわけでもなく、おっさんの勝手な思いかもしれないがどこか釈然としない・・あ、ここの本尊は釈迦如来。

朱印はといえば、上り口のところに箱があったのでいただく。扉が閉まっていて、外に朱印の箱があるなら外でのお勤めの後に受け取れば済むことだが、本堂の障子が開け放たれ、どうぞお気軽にお参りくださいという雰囲気だったのだが・・。

改めて本堂の外でお勤めとした後、再び廿日市駅を渡って次の第83番・正覚院へ・・・。

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第81番「蓮光院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(廿日市駅前シリーズ)

2024年08月01日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐりはようやく最後の80番台に入り、廿日市駅前の3ヶ所、己斐、そしてなぜか東区に1回飛び、最後は宮島の3ヶ所で、第88番は弥山の本堂である。

7月27日、朝から暑い中だが1日空いたので広島新四国の続きである。もう、午前中から出かけることにする。高須から広電に乗車して広電廿日市に到着。広島新四国で廿日市には何回か来ているが、札所番号順にこだわるとそういうことになる。

まず目指すのは第81番・蓮光院。広電からすぐ北にあるJRの廿日市に出る。蓮光院はスマホ地図で見るとすぐ駅前にあるが、寺の入口はさらに路地を入ったところにある。歴史ある本堂・・というわけではなく、むしろ大きな邸宅の母屋を寺にしているように見える。

玄関横に「納経の方はインターフォンを」とあるので鳴らすと寺の方が出て来られ、中に通される。扇風機をつけて風を起こしていただく。内陣も年季が入った感じで、事あるごとに祈祷や法要が行われているのだろう。

蓮光院の本尊は阿弥陀如来で、500年以上前の作とされている。また、藕糸という糸で織られた大師像というのがあり、明治の政治家である大隈重信の母が八十八幅の大師像を各地に奉納した一つだという。他にも、極楽寺と同じく行基の作とされる観音菩薩や、江戸時代作の大日如来、不動明王等もあるとのこと。

扇風機をつけていただいたが、暑いのは暑い。その様子を見かねてか、朱印、本尊御影とともに「お接待です」と身にペットボトルのお茶をいただく。

さて次の第82番・洞雲寺は廿日市駅の反対側にあるため、駅の自由通路を渡ることにする。古くから木材の集積地として賑わった廿日市らしく、地元の木材がふんだんに使われている。駅名からして廿日市市の玄関口と思いきや、周辺施設の充実度や乗降者数では隣の宮内串戸に軍配があがるそうで・・・。

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第80番「玉照院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(久しぶりに動いた札所めぐりをかなり後になって記事に・・)

2024年07月31日 | 広島新四国八十八ヶ所

・・いったいいつまでかかっているのかという広島新四国八十八ヶ所めぐり。このカテゴリーの前回の記事が4月中旬、さすがに桜も散った後のことである。この時には第79番・浄土王院を訪ね、ようやく80番台に差し掛かった。

それから約2ヶ月空いた6月16日、この先の札所でポツンと存在する第80番・玉照院を訪ねることにした。たまたまこの日の午前中に時間が空き、午後までの一時でサクッと回ってみよう。

玉照院があるのは佐伯区の広島市植物公園の手前。公共交通機関でも五日市駅からバスで行くことができる。本来なら、広島市のスポットである植物公園とセットで訪ねた紀行文とすべきなのだろうが、6月というか夏になると見頃の植物もそれほどないようで・・(いや、6月ならあじさいが見頃じゃろ?と言われればそれまでだが)。そのまま帰宅したらちょうどこの日デーゲームで行われる交流戦・バファローズ対スワローズ戦のテレビ桟敷に間に合うだろう・・。

今回は時間短縮も兼ねて軽自動車で出かける。西広島バイパスで五日市まで行き、植物公園を目印に走らせる。もう少しでゲートというところで手前の道から上り坂の境内に入る。いったん山門の脇を抜けたスペースに駐車する。

玉照院の由来は安土桃山時代に安国寺恵瓊により開かれた国泰寺の塔頭寺院で、関ヶ原の戦い以降は福島氏、浅野氏により保護された。しかし広島への原爆投下で破壊され、現在地に移ったのは平成元年のことである。広島新四国八十八ヶ所といえばどうしても原爆の被害は避けて通れず、またその後も市内の再開発にともない郊外に移転するところも多い。札所番号があちらこちらに飛ぶのも致し方ないが、あくまで番号順に回ろうとすると本来とは逆方向への移動が重なることも・・。

本堂の扉は閉まっているので、扉の前でのお勤めとする。曹洞宗の寺院で、本尊は釈迦牟尼佛である。

朱印は寺務所のインターフォンを鳴らし、対応いただいた。

さてこれで広島新四国の満願まで残り8ヶ所となった。次からはJR・広電の廿日市から間近なところが3ヶ所、西区己斐に1ヶ所、そしていよいよ宮島で最後4ヶ所である(・・・と思ったが、そのうちの1ヶ所・第85番が札所を返上して、その後に東区の荒神陸橋近くの寺院が現在第85番を名乗っているという。荒神陸橋の近くといえば、すぐ近くにマツダスタジアムがあるぞ・・)。

6月のお出かけを1ヶ月以上経ったタイミングで投稿というのも、ネタ潰し感がありありだが、まあそこはきちんとバファローズの勝利を祈ったということで帰宅。この日は、序盤に先制されたバファローズがすぐさま逆転し、その後は両チーム合わせて32安打が飛び交ったが、結果9対3でバファローズの勝利。この時は、得意の交流戦で白星を積み重ねれば、夏場以降に大きく逆転する機会が生まれると思ったのだが・・・。

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第79番「浄土王院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(再びの極楽寺山)

2024年04月24日 | 広島新四国八十八ヶ所

ようやく残り10ヶ所となった広島新四国八十八ヶ所めぐり。終盤は廿日市、そして宮島に固まるのだが、次の第79番・浄土王院は一転して廿日市の極楽寺山の頂上にある。

その山の名の元である極楽寺だが、実は広島新四国の第7番札所で、この札所めぐりの初期に訪ねている。ちょうど3年前、2021年4月のことである。その時に極楽寺本堂の斜め前にある浄土王院も訪ねており、朱印も一緒にいただいている。当時の記事を見返すと、広島新四国については確かに札所番号順で回るとしても、さすがに同じ境内にあるのなら、本堂と浄土王院の両方に手を合わせて朱印も2枚いただいたことで第79番は先行してクリアしたことでよいのでは・・という内容のことを書いていた。

ただどうだろう、広島新四国はさまざまな経緯があり、四国八十八ヶ所のように札所番号が道順通りに並んでいないのである。原爆で焼失したとか、あるいは市街地の再開発により郊外に移転した札所もあれば、寺の経営難などで廃寺、札所返上といったところもある。そうして広島近郊を行ったり来たりしてきただけに、先に参詣済でもここは改めて第79番を目指すことにする。4月20日、所用があるのに合わせて昼前に出発する。

極楽寺山へは公共交通機関の便がなく、むしろ登山の名所として知られるが、さすがに山登りもないだろうとクルマで行くことにする。西広島バイパスを走り、速谷神社の脇を通って国道433号線を上る。しばらくは新たに開かれた区間だが、本格的な上りになるとまずループ橋にさしかかる。

そして道幅が狭くなり、何度もS字カーブを抜ける。3年前に来た時には「遠い将来には改良されるのだろうが」と楽観的なことを書いているが、3年程度ではまだ「遠い将来」ではないようだ。「国道」ながら相変わらずの「酷道」。

極楽寺山の案内が見え、「さくらの里」にさしかかる。この辺りも含めて、廿日市はさくらの町をアピールしている。今回は山桜がいくつかまだ残っていた。

そのまま車道を進み、奥の駐車場に到着。寺の正面は登山道に向いているため裏から入る形である。

そのため、まず見えるのは奥の院にあたる一願堂である。この寺の先代の住職だった一願和尚が眠っているところで、「一人一願を頼めば必ず成就する」との言葉を遺したという。「一願」といえば簡単なようだが、その「一つ」を何にするかは結構難しい。また「必ず成就する」といっても「何事も自分の思うとおりになる」とか「いつまでも何事も自分の自由にできる」という願いは、世に混乱を招くだけだろう。そこは謙虚になり、そして自分の身の丈にあった願いでなければ叶わないだろうし、願いを叶えるには自分もいろいろ努力しなければならない・・。

この後は西国三十三観音、十三仏の石像が並ぶ中を過ぎ、本堂の裏に着く。本来の参詣順路とは異なるが(やはり極楽寺山の登山も含めての参詣である)、ともかく到着。

極楽寺の歴史は古く、奈良時代に行基により開かれ、平安時代には弘法大師空海も修行で訪れている(対岸の宮島とセットで弘法大師にはゆかりがある)。そして現在の本堂は戦国時代、毛利元就が再建、寄進したものである。広島で現存する貴重な建物である。まずは本堂にてお勤めとする。

そして、斜め前の浄土王院に向かう。先ほど触れた先代の一願和尚の誓願により、京仏師である松本明慶師作の阿弥陀如来を勧請し、祀った建物である。「大仏殿」の文字もある。極楽寺としては、本堂の千手観音、浄土王院の阿弥陀如来の両方が本尊の扱いとなっている。扉を開けると、薄暗い向こうにほのかに大仏の姿が現れる。その大仏の後方には三千体の阿弥陀像が奉納されている。改めて手を合わせる。

境内には登山姿の人が何人かいる。境内の展望台からは、宮島の全体は見えないが入り江を挟んだ景色を望むことができる。

3年前に極楽寺本堂とともに浄土王院の朱印もいただいているので、この日は省略。前回とちょうど同じ時季となったが、改めて訪ねてよかったと思う。

この後は広島市内で所用があり、そのままクルマで向かう。先ほども苦労した九十九折の上り坂、実は下りのほうがコントロールやブレーキ操作に気をつかうのでヒヤヒヤする。幸い後続のクルマが追いつくこともなく、道幅が広くなってほっとする・・。

さて、次からいよいよ最終盤の80番台である・・・。

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第78番「三光院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(廿日市の桜を愛でながら)

2024年04月13日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐり。やれ西国三十三所だ、神仏霊場めぐりだ、九州八十八ヶ所百八霊場だと言っている中で、地元で超スローペースとなっている札所めぐりである。それでも第77番まで来ているのだが、前回訪ねたのは今年の1月。江波にある2ヶ所を訪ねた後、当日行われた都道府県対抗男子駅伝(ひろしま駅伝)を自宅近くの沿道で応援した。それ以来だから3ヶ月ぶりとなる。

今回訪ねるのは廿日市市。地御前にある第78番・三光院である。地図で見ると国道2号線・西広島バイパス沿いにある。一方で、広電宮島線の地御前電停からもそれほど離れていないようだ。クルマでサッと行ってもいいが、ここは広電で出かけることにする。

4月13日、広電宮島線で地御前の手前の広電廿日市で下車する。4月も半ばとなり、桜も散り始める時季であるが、廿日市に行くならせっかくなので廿日市市の木である桜を見物しようかと思う。桜尾城もあるし、文化ホールはさくらピア、コミュニティバスの愛称もさくらバスである。

訪ねたのは住吉堤防敷。前回の広島勤務を含めて初めて訪ねるスポットである。前週4月第1日曜日は桜まつりも行われたそうで、600メートルほどの遊歩道に約240本のソメイヨシノが並ぶ。訪ねた時は満開を過ぎて散りはじめ、葉桜も見えたが、何とか今季最後の見頃に出会えた。

この先、三光院まではそれなりに距離があるが、天気も穏やかだし、散歩も兼ねてこのまま宮島街道に出て地御前まで歩くことにする。ゆめタウンやウッドワンの横を過ぎる。

途中、JA広島総合病院の前を通り、病院の横にある産直ふれあい市場「よりん菜」というのを見つける。廿日市市の農家が栽培した野菜や、手作りの弁当、惣菜などが売られており、せっかくなので昼食も含めて野菜も何品か買う。まさか野菜を背負っての札所めぐりになるとは思わなかった。

地御前の電停に到着。JR、広電の共同踏切を渡り、住宅地の中に古い町並みや寺社が残る一角を過ぎる。

そして地図を見ながら進み、西広島バイパス沿いに出る。寺の幟が出ているが、そこから入るのかな。完全に民家のようだが・・。

庭先を抜けると住宅と棟続きのお堂があり、合っていた。扉を開けて自由に参詣する方式である。住宅のほうからはテレビの音声が聞こえてくる。

三光院が開かれたのは戦後、1953年のこと。お堂の中に京都・仁和寺のパンフレットがあり、真言宗の御室派の末寺であることがわかる。

このような張り紙がある。「我に聞く、人に聞く、一生、一死する覚悟、生きる覚悟 病みや苦しみに耐える覚悟。心に持ち続ける事出来るか それが一番大切な宝物」とある。覚悟か・・・覚悟せんといけんのか・・・。

箱に収められた朱印をいただき、三光院を後にする。当初は、西広島バイパスの反対側に並ぶラーメン店で昼食とするかとも思っていたが、先ほどJAの産直市場で野菜やら惣菜やらを買ったので、そのまま地御前の電停に戻り、帰宅して昼食とする・・・。

食後、テレビ桟敷にて京セラドーム大阪のバファローズ対ファイターズの2回戦を観戦。前日に続いての投手戦となったが、ここまで不振に苦しんでいた頓宮が先制のタイムリー、そして追加点となる2ラン本塁打で3打点、また先発・宮城が8回を無失点として5対1でバファローズが快勝した。広島新四国のご利益とは言わないが、寺社参りの後で勝ち試合を観るとやはりご利益かなと気持ちのよいものである。これでまた良い方向に向かえばということで・・・。

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第77番「龍光院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(被爆地の江波山へ)

2024年01月24日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐりの江波編。まずは本川沿い、かき打ち通りにある不動院を訪ねる。そして、牡蠣の水産業者が並ぶ中、次の龍光院を目指す。

地図を見ると遠回りするのかなと思いつつ、龍光院の東にある衣羽神社に着く。さてこの「衣羽」だが、何と読むのだろうと迷った。きぬはね?きぬは?かと思ったが、「えば」と読むそうだ。ああそうか、「江波」だから。振り仮名がないのは、それは自明のことだからだろうか。なお、江波の地名の由来は、漁業の餌が豊富で魚が多く獲れたことから、「餌場」ということで「えば」となったという。後は、どのように漢字を当てたかの違いのようだ。

衣羽神社の創建は明らかではないが、古くとも平安時代末期には記録に出ている。平清盛が厳島神社に般若心経を奉納した時にはすでにあったのかな。石段を上がり、社殿にて手を合わせる。こちらの社殿も被爆建物とある。

境内からはちょうど周囲を見渡すことができる。衣羽神社を含む現在の江波山は、元々広島湾に浮かぶ島だったという。江戸時代の干拓に始まり、明治時代には舟入と陸続きになり、戦後の埋め立てで現在の地形になった。

その衣羽神社の社殿の奥につながる道がある。衣羽神社の駐車場があり、その中を抜けると寺の本堂らしき建物に続く。ここが目指す龍光院である。鉄筋コンクリートの新しい建物だ。

龍光院が開かれたのは大正時代。元々は江波の弘法大師信者の発願で高野山奥の院に供養塔として観音像を祀ったのを、昭和3年の辰年に江波山にお堂を建てて龍光院とした。別に衣羽神社と龍光院が神仏習合でつながっていたわけではないようだ。

本堂前にて朱印の引き出しを見つける。

龍光院の境内と言っていいのかどうか、隣接して江波山気象館がある。駐車場も寺のものか気象館用なのか、いや江波山全体が一つの公園なので広く開放されているのか。寺の参詣というより江波山の散歩として訪ねる人もちらほら見える。今回は時間の都合で入らなかったが、江波山気象館も被爆建物である。まあ、一口に「被爆建物」といっても、程度はさまざまだが・・。

江波山の車道を下り、江波の電停に戻る。今から帰宅すれば、この日(1月21日)広島で行われた全国男子駅伝の自宅近所観戦に間に合いそうだ。

この龍光院で77番目。八十八ヶ所もようやく終盤に来た。この先、己斐に1ヶ所残っているが、広島市中心部をコンプリートして、佐伯区、廿日市、そして宮島と、結願である弥山本堂に向けて西に舞台を移す。また少しずつの巡拝となるが・・・。

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第76番「不動院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(江波の港、かき打ち通りへ)

2024年01月23日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐり、伴中央にある第75番・薬師院の次は江波にある第76番・不動院、第77番・龍光院である。広島新四国もこの2ヶ所で市内中心部は終了し、以後は市の西側をめぐり、結願の宮島に続く。

薬師院に参詣後はアストラムラインで本通に戻り、その後はあの辺で過ごした。不動院、龍光院はまとめて訪ねるとして、日を改めて1月21日に出かける。

この日の午後から広島で第29回全国男子駅伝が行われるので、それまでに参詣を済ませ、自宅に戻って沿道から応援する予定である。江波まで行くならそのまま平和記念公園に向かってスタート、またはゴールの瞬間を見るほうがイベントを楽しむ感じがより一層強まるのだろうが、「全国の選手が自宅の近所を走る」というのを楽しもうと思った。

その「自宅の近所」は往路1区と復路7区のコースにあり、将来が楽しみな高校生区間の1区(ここを駆け抜けた有力選手は箱根駅伝にも出場する強豪校への進学が決まっている)、そしてその成長後の大学・社会人選手が走るアンカー7区、それぞれの思いを胸に駆け抜けていった。

さて、その前段である。自宅から江波まではクルマなら直線距離で近いのだが、ここは広電で向かう。土橋で江波行きに乗り換える。

終点の江波に到着。線路はその奥の車庫まで続く。同じ広島市内とはいえ、江波を目的地として訪ねる機会はそうあるものではない。

まずは第76番・不動院を目指す。そのまま住宅地を抜け、本川に出る。川沿いの道は「かき打ち通り」という名がある。江波港周辺に牡蠣の加工場が並ぶことからつけられたそうだ。ちょうど今は牡蠣の旬。

その通りに面した高台に不動院がある。この狭い石段の上にあるようだ。山というか丘というか、見張り台のようにも見える。元々は一つの島だったのかな。

不動院は当初、丸子社という祠だったのだが、江戸時代、江波の住人である仲屋幸助という船乗りがいて、筑紫に航海した時、豊後の海中で漁師の網にかかった不動明王をもらい受けた。これを祀ったのが始まりとされる。

小ぢんまりしたお堂が建つ。扉は開いておらず、そのまま外でお勤めとする。境内の外側には四国八十八ヶ所が囲んでいるが、限られたスペースの中である。

玄関横のポストに入っていた朱印をいただく。

この後、広島高速3号線の高架橋をくぐり、漁港に着く。かき打ち通りの名前にも現れる水産業者の店舗が並ぶ。牡蠣の業者もたくさんあり、それぞれ流通ルートがある。私が普段利用する近所のスーパーだと西の大野浦あたりの水産業者のものを見かけるが。

その一角に神社がある。海神宮とあり、江戸時代に江波港が開かれた当時からの建物で、8月6日の原爆にも耐えた被爆建物として紹介されている。先般、市街地から離れた草津の寺の本堂ですら被爆建物との紹介があったのを見て、それより近い江波でよく耐えたものだと思う。単純に爆心地からの距離だけではなく、さまざまな要因が重なって残ったのだろうが・・。

ところで、牡蠣で思い出した。先日のニュースにて、2月に開催予定だった「宮島かき祭り」が開催中止となったと報じられていた。画像は2020年2月の「宮島かき祭り」。新型コロナについてはちょうど感染者が増え始めたかなというところで、当時大阪から中国観音霊場めぐりと一献をかねて宮島に来た時のものである。この時点では、新型コロナがあれだけの騒ぎになること、そして私が広島に異動することになるとは思っていなかった。

2021年以降はコロナ禍の影響で中止されており、2024年は4年ぶりの開催が期待されていたが、夏の猛暑などの影響による牡蠣の生育不良が理由だという。

今季、かき祭りについては開催するところ、あるいは江田島のように中止するところとそれぞれ判断が分かれているそうだ。まあ、別に混雑する会場でなくとも、地元スーパーなどで別に品薄になっているわけではなく、普通に買って自宅でいただくだけだ。

この先、次の第77番・龍光院は近い・・・。

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第75番「薬師院」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(市内から伴までぐるりと回る)

2024年01月22日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐりを発願したのが2021年の元日。それから3年が経過し、2024年に入った。他にも札所めぐりを進めている中、もっともペースがゆっくりなのがこの広島新四国である。広島市内を中心としたエリアで、基本日帰りで回れるところばかりである(1回、気分転換を兼ねて泊まりで出かけたこともあったが・・)。他の札所めぐりなら旅の計画としてスケジュールを組むのだが、近くでいつでも行けるところだとつい後回し、先延ばしにするということはよくある話である。

その広島新四国、次は第75番・薬師院である。70番台となってから、市内中心部~宮島~市内中心部~草津ときて、今度は沼田、伴である。これまでもそうだったが、広島新四国は札所の移転、廃止・入替などの歴史があり、必ずしも札所順番とエリア順が一致しておらず、こうして飛び飛びになっている。まあ、その変化を楽しむためにあえて札所順で訪ねている。

これから訪ねる薬師院。記録によると、福島正則が広島を治めていた当時、堀川町の浄土宗の寺院を明長という修験者に賜るとある。明長の弟子の策雄の時に真言宗に改め、薬師如来を本尊として、師の名から明長寺と称した。その後、白島に移り浅野家の保護を受け、昭和の初めには南観音町に移った。そこで被爆。その後復興したが、平成になった1998年に現在地に移った。市内中心部の開発にともない、郊外に移転した札所もいくちかある。

さて薬師院へのアクセスだが、公共交通機関の最寄りは広電バスの「鳴る谷」である。路線図を調べると、広島バスセンターからくすの木台行きというのがある。日中は1時間に1本。1月14日、薬師院を目指して出発。

城南通りを行く。右手には新たに完成した「エディオンピースウイング広島」が姿を見せる。もう、ネット地図にもその名前が表示されている。サンフレッチェ広島の新たなメインスタジアムということで、いよいよ2月にはオープニングセレモニー、そしてプレシーズンマッチが行われる。普段、サッカー観戦はしないのだが、広島に新しいスポットができるとなれば、一度は訪ねてみたいものである(そう言いつつも、2回目の広島勤務にして訪ねたことがないスポットのほうが圧倒的に多いのだが・・)。

バスは高速4号線で西風新都方面に抜ける。広島市北西部へのアクセスもそうだが、高速バスも、中国道を利用する各方面への路線が高速4号線~広島西風新都インターを経由するため、重要な路線である。

トンネルを抜けたところで右折し、広島市立大学に到着。乗客も若い人が多かったが、ここでほとんど下車した。

この後、広島ジャンクションの下をくぐり、鳴る谷に到着。当初、薬師院へのアクセスを検索するにあたり、このバス停がなかなか見つからなかった。というのも、広島新四国のサイトに従って「鳴谷」で検索していたからである。てっきり、バス路線が廃止になったのかとも思った。「る」の送り仮名が入ると刃珍しいのではないだろうか。

バス停からすぐのところに薬師院の案内看板がある。合わせて、その先の権現峠(ごんげんたお)~火山(ひやま)への登山ルートへの入口でもある。

山陽道をまたぐ。すぐ先に広島ジャンクションとの分岐が見える。

少し坂を上り、薬師院沼田墓苑に到着。

立派な石垣も構えた堂々とした造りである。周囲の山々を見渡すこともできる。薬師院としてというよりは、沼田墓苑として一般向けのホームページが開設されており、気軽に墓の相談に応じるとある。墓か・・昨年、私の父が亡くなったのだが、まだ墓をどうするか決めていない。いや、墓地は本家筋のある某所にあるのだが、その本家筋じたいが先祖代々の墓じまいを検討しているとのことで、そこに入るのは現実的ではない。葬儀その他でお世話になった寺か、あるいはどこかの共同的なところで永代供養をお願いするか・・そろそろ、決めなければならないだろうな。

境内には大日如来を祀る一角があるが、石鉢の水にはさすがに氷が張っていた。

そして本堂だが・・・プレハブ造りの建物。平成になってからこの地に移ったとはいえ、それでも20年以上は経過しているはずだ。あくまで「仮」の本堂ということか。まあ、お堂の中には本尊薬師如来を中心に不動明王、弘法大師、観音像などが祀られ、法要も数多く行われて使い込んだ様子なので、本堂の役割は果たしている。ご自由にお入りくださいというのもいい。

なまじ建物ばかり新しく豪華なものになり、その代わり普段は扉に鍵をかけて閉めている・・という寺も多いが、そこはそれぞれの考え方や訪ねる人たちによるだろう。こちらは規模の大きな墓苑(土地はまだまだあるのでこれからも拡張できそうだ)があるので、お墓参りのついでに気軽に入ってもらおうと、ひょっとしたらあえてこの造りを続けているのかな。

薬師院の参詣を終え、先ほど下車した鳴る谷バス停に戻り、バスセンター行きの時刻を確認する。しかし、次のバスまでは40分以上待つ必要がある。周りには時間をつぶせるようなスポットもなく、それならば、地図を見てアストラムライン最寄りの伴中央駅まで歩くことにする。

畑の中に住宅地も広がる中、15分ほどで伴中央駅に到着。駅としては伴中央が最寄りといえるが、薬師院に関していえば、あらかじめ時間を合わてバスセンターから高速4号線経由の広電バスに乗って鳴る谷に向かうほうが便利である。

アストラムラインに乗り、ぐぐりと回り込むようにして本通りに向かう。行きは広電バス、帰りはアストラムラインという循環ルートで市内中心部に戻って来た。この後は、せっかく市街に来たということで昼の一時を楽しむ・・。

そして広島新四国だが、次の第76番、第77番で江波を訪ねた後は、いよいよ宮島に向けて西側のエリアとなる。何やかんやで、こちらも結願に向けて動き出すことにしよう・・・。

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第74番「海蔵寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(草津の町並みと八幡宮)

2023年11月27日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐりは第74番。次は私が住んでいるのと同じ広島市西区である。広島新四国めぐりも徐々に西に進んでおり、2023年内での結願はさすがに無理にしても視野に入ってきた。

前回の11月19日に続いて、23日に訪ねる。途中立ち寄るところもあり、どうせならと自宅から歩いて向かう。到着したのは広電宮島線の草津電停。江戸時代頃まではこの南の宮島街道辺りに海岸線があったそうで、ちょうど山と海とが近づくところである。

線路の向こうにはかつての西国街道があり、山陽線の線路を跨ぐ形で第74番・海蔵寺の参道の石段が続く。ここだけ見れば、尾道辺りにありそうな風景に見えなくもない。

そのまま石段を上がると海蔵寺の山門に出る。振り返ると草津の町並みが広がる。草津は神武天皇の頃から水運や水軍の拠点となったところで、特に戦国時代には武田氏、大内氏、陶氏などにより争われた港だが、後に毛利氏が支配下に収め、水軍の重要拠点として児玉氏を城主とした。

ここ海蔵寺は室町時代前期に中国の僧により禅宗寺院としれ開かれ、後に曹洞宗となった。毛利氏が草津を治めた時には児玉氏の菩提寺となり、厳島合戦の時には毛利の陣も置かれた。関ヶ原の戦いの後、福島正則の時に草津城は取り壊しとなったが、その後浅野氏の代になると、浅野氏の家老で備後の東城を治めていた堀田氏の菩提寺となった。この堀田氏の始祖である堀田高勝は元々明智光秀に仕えていたが、本能寺の変の後に浅野長政に取り立てられ、後に浅野の姓をもらって東城に入ったという。

山門をくぐると本堂が出迎える。こちらは江戸後期の天保年間に再建されたものだが、原爆の時には爆風の影響で本堂が傾いたという。海を隔てているとはいえ、爆心地からは直線距離で5キロほどのところ。その時に多くの避難者を受け入れたこともあり、後に広島市被爆建物等保存・継承事業の助成により保存工事も行われた。

朱印の箱は本堂の前にあったが、扉が開いており中に入ってお勤めとする。本尊は十一面観音。創建が室町時代の禅宗寺院ということで八十八ヶ所の弘法大師とはご縁があるようには見受けられないが、本堂が爆風の影響を受けたこともあり、広島新四国のもう一つの大きな役割である平和を祈念するということで札所に加わったのかもしれない。

本堂の裏手には江戸元禄年間に築かれた石庭がある。

境内の横には東城浅野氏の墓石が並ぶが、浅野氏の墓所のため立ち入らないようとの札もある。この奥には小田原北条氏の最後の当主であった北条氏直や、山中鹿之介の娘などの墓所もあるそうだ。これらもまたどういうご縁でここに墓所があったのかな。

さて草津といえば、草津八幡宮である。神武天皇の東征の時、後の神功皇后の三韓征伐の時にも登場しており、宇佐八幡宮からの分祀により現在につながる八幡宮となった。私もこちらには2021年の初詣の一環として、近所の庚午神社、そして宮島の厳島神社とともに参拝したことがある。当時はコロナ禍の影響で都道府県を跨ぐ移動がはばかられた頃で、2回目の広島勤務となった直後、初めて広島での年末年始だった。

海蔵寺と同じくらいの標高にあるが、八幡宮に通じる道がわからなかったので、いったん石段を下りて山陽線の踏切を渡り、改めて正面から石段を上がる。境内三の鳥居まで189段続くが、「ひやく」と読ませ、「飛躍」、「避厄」に通じるとされる。こういう石段なら一段飛ばしなどはしないほうがよさそうだ。

石段を上っている最中、沿道に並ぶ奉納者の名前の中に「広島東洋カープ 佐々岡真司」というのが目に入った。カープの名投手にして後のコーチ、監督である。情報によると佐々岡氏は毎年参拝しているそうで、こちらはコーチ時代に奉納したもののようだ。お住まいもこの近くなのかな。

石段を上りきり、拝殿の前に出る。ちょうど七五三のお参りの家族連れの姿も見える。八幡宮からのほうが草津界隈の景色もよりはっきり見える。かつての水運、水軍の拠点もすっかり埋め立てられたが、草津港、商工センター一帯は広島における流通、物流の一大拠点であるし、冬となると牡蠣も多く水揚げされる。これからの牡蠣シーズンが楽しみだ。

佐々岡氏のご縁なのか、あるいはその前からそうだったのか、境内にはカープ必勝祈願の絵馬のコーナーがある。絵馬にデザインされているのは、バットを笏に持ち替えたカープ坊や・・(顔は自由に描くことができる)。現在奉納されているのは2023年の必勝祈願で、新井監督への期待も込められたものも多かった。残念ながら優勝は逃し、タイガースとのクライマックスシリーズにも敗れて、私の祈願であるバファローズ対カープの日本シリーズまであと一歩残念だったのだが、久しぶりに広島の街は明るい雰囲気だったように思う。いや、こうなると「前監督」は複雑な気持ちになるのかもしれないが・・。

草津の電停に戻る途中の西国街道のたもとに、「置鳳輦止處」という石碑に出る。「鳳輦を置きしところ」と読み、この前にある造り酒屋の小泉本店は厳島神社や草津八幡宮の御神酒を奉納している。明治天皇の山陽行幸の時にここで休息したこと、また日清戦争時に広島の大本営に滞在していた明治天皇の陣中見舞いに訪ねた昭憲皇太后も宮島参拝の時に休息したことを記念して建立したという。

この後は広電に乗って自宅とは反対の宮島口方面に向かう。下車したのは佐伯区に入った楽々園。電停からも近い「塩屋天然温泉ほの湯楽々園」に入る。広島市内でも数少ない天然温泉で、加温のみの源泉かけ流しの湯や、各種の浴槽が楽しめるのでちょくちょく訪ねている。昼間の一時を楽しむ。

そして広電で帰宅したのだが、車内では「本日広島市内でイベントが開催されていますので、お帰りの際はあらかじめICカードへのチャージをお願いします」という呼びかけがあった。市内でイベント・・?ということでスマホで検索すると、この日(11月23日)はマツダスタジアムでカープファン感謝デー、そして広電の千田町車庫では創業記念日イベント「ひろでんの日」が行われるとあった。そりゃ、帰りはそれなりに混雑しそうだな・・。

カープのファン感謝デーについては、この日夕方の広島各局のローカルニュースでもトップの扱いだった(そこが広島らしいのだが)。中でも大きく取り上げられていたのが、カープからFAでバファローズへの移籍が発表された西川。カープファンへの最後の挨拶ということで登場し、ファンの方からも温かい声援が送られたという。

カープといえばこれまで多くの選手がFAで他球団に移籍し、その行き先がジャイアンツやタイガースだとブーイングも激しかったというが、西川本人も「セ・リーグなら意味がない、パ・リーグでどれだけできるかやってみたい」といっていたし、故郷の大阪の球団を選ぶのなら・・ということのようだ。バファローズといえば以前は「お断りックス」とすら言われていたところ、前季の森といい、(大阪出身の選手が続いたとはいえ)FAで選んでもらえる球団になるとは時代を感じる。

これは後の話だが、金銭面の条件はもっとも低かったものの、自身も子どもの頃ファンの球団で、さまざまな縁もあって大方の予想を覆してファイターズへのFA移籍を決めた山﨑福のような投手もいる。一般の企業でもそうだが、就職・転職において何を重要視するか・・というのがより多様化していることも反映しているように思う。給与を上げることは大切なことだが、単にそれだけではないということで・・・。

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第73番「高信寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(平和への祈りとえびす講)

2023年11月24日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐり、次は第73番・高信寺である。

高信寺、「こうしんじ」という読みなのだが、寺の名前に触れた時、私の頭の中では「高信二」と変換されていた。カープの元選手で、引退後はカープのコーチを務め、一軍ヘッドコーチ時代にはカープのリーグ3連覇にも貢献した。その後は2軍監督となり、2024年も継続が決まっている。どのタイミングだったか、一軍監督に推す声もあったと思う。

高信寺があるのは平和大通り、本川にかかる西平和大橋のたもと。河原町バス停を降りるとある石碑に出会う。これも原爆で犠牲になった人たちの慰霊碑なのかなと見ると、「広島県送出 元満州開拓青年義勇隊の物故者をまつる」とある。戦前、新天地を求めて各地から満州に渡った人たち。中国やソ連との戦いで戦死した人、あるいはソ連に抑留された人、命からがら帰国できた人とさまざまいる。また中国といえば、中国残留日本人孤児の問題もある。この石碑は生還者や有志の手により建てられたものだが、原爆とはまた違った意味で平和の尊さ、民族融和というのを祈念している。

さて、通りを渡った4階建てのビルが高信寺である。入口には「祈りの殿堂・高信寺」とあり、一瞬、このまま入っていい者かどうか迷う。寺のように山門があって、境内に本堂があれば、仮に本堂の扉が閉まっていて外からのお勤めであっても一応形にはなる。ただ、ビルの前で手を合わせてお勤めというのは妙なものだ。

そこで扉を開けるとスリッパに履き替えるよう貼り紙があり、エレベーターまたは階段で上がるようになっている。2階が本堂、4階が八角堂で、六観音を祀っているとある。このまま自由に入ってよさそうなので、まずは2階に上がる。

本格的な祭壇があり、ここで法要もできそうだ。

高信寺を建立したのは高さんという信心深い一人のご婦人という。原爆の熱風に耐えかね、川に飛び込んでそのまま命を落とした大勢の人たちを弔うため、私財を投げ打って寺院と観音像を建てたのが初めてだという。後に、世界平和と人類和楽を祈るスポットとして、現在地に新たに建てられた。本尊の十一面観音は「平和観音」とされている。

朱印は祭壇の脇に書置きがあったのをいただく。また4階に上がると小ぶりな六観音が揃う。外に出ることもでき、平和大通り、本川の景色も望める。

参詣を終え、そのまま本川に沿って歩き、平和公園に入る。欧米人の観光客姿も目立つ。コロナ禍明けでインバウンドの客が回復基調にある中、先日訪ねた宮島といい、広島を訪ねる外国人には欧米人が多い印象がある。爆買いを目的としたアジア人にとっては魅力がそれほど感じられないのだろうが・・。

この日は11月19日。そのまま本通りのアーケードを抜けると、「胡子大祭」として歩道には多くの出店が並ぶ。「えびす講」だ。広島の胡子神社が開かれたのは江戸時代の初めで、以後、毎年の大祭は400年以上欠かさず執り行われている。原爆の被害に遭った1945年でも、11月にはバラックの仮社殿を建てて奉納したという。またコロナ禍の時は規模を縮小しながらも大祭は行われたそうだ。

熊手が縁起物で、それは通りの屋台で買うことができるが、「ごまざらえ」という祈禱をしてもらって初めてご利益があるとされている。そのため、「ごまざらえ」を待つ長い列ができている。私はそこまでの信仰もないし、今の仕事でいえば商売繁盛というよりは交通安全、無病息災を祈願するのが近いかなということで、普通の参拝とする。

賽銭箱代わりに通りの真ん中に樽が置かれるのも広島らしい光景である。

さて「えびす講」といえば、1999年には暴走族が中央通りを占拠して、警察の機動隊と衝突、少年ら45人が逮捕されるという事件があった。当時私は1回目の広島勤務当時で、そもそも人混みがあまり好きでもなかったのでその場にはいなかったのだが、連日ニュースになっていたのは今でも微かに憶えている。暴走族といっても、単にバイクやクルマで暴走するだけではなく、暴力団が背後にいた点も問題になった。この1件で「広島は怖いところ」という悪評がより広まったように思う(ただでさえ、「仁義なき戦い」の影響で広島は・・・というのがあったのだが)。

ただ、その後は警察の取り締まり強化や、暴走族根絶に向けた条例の効果によりそうした暴動はなくなり、現在はあくまで平和に祭りを楽しむことはできる。ただ、今はネット社会の広まりにより、ある種の暴走行為や犯罪については形を変えて、しかもより陰湿に行われているようにも思う。

まあ、とにもかくにも「平和」を願うばかりである・・・。

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第72番「存光寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(大鳥居改修後初の宮島へ)

2023年11月18日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐり、次は第72番・存光寺だが、前回までの広島市中心部から一気に宮島に飛ぶ。宮島には広島新四国の第1番・大願寺があり、安芸の国をいろいろ回った後、最後に宮島に戻り、弥山の山頂で満願を迎えるのだが、その後半に1ヶ所だけ、存光寺がある。

広島新四国については札所順で訪ねることとしており、今回、この存光寺に行くために宮島に渡ることにする。宮島といえば、厳島神社の大鳥居の改修工事が2022年11月に完了し、鮮やかな色合いで多くの観光客、そして今年はG7サミットで各国首脳も招くことができた。かくいう私、前回宮島に渡った時はまだ工事中だったので、この機に大鳥居を見に行くのもいいだろう。

前回の広島新四国めぐりからすぐの11月5日。・・・いつまでも引きずるようで恐縮なのだが、この日の夜は決戦・日本シリーズ第7戦である。大一番を前に気持ちを落ち着かせようと、なぜか宮島に渡ることにする。こう書くと大仰なのだが、主な目的としては、ポツンと離れた第72番を抑えておき、再び広島市内を回るためである。

最寄りの高須電停から広電でトコトコと移動する。広電でアクセスする札所も点在しており、序盤、そしてこの後の終盤に登場することになる。

広電宮島口に到着。宮島への連絡船乗り場はすぐ目の前。多くの観光客で賑わっており、JR、松大汽船が交互に出航する乗り場にはいずれも乗船を待つ列ができている。ただ、宮島口から宮島に渡るなら、JR連絡船がお勧め。厳島神社の大鳥居に近いルートを行く。

宮島といえば、10月から「宮島訪問税」が徴収されている。ICカードだと、乗船時に改札機にタッチすると100円が上乗せして引き落とされる。

出航時には上階の展望デッキを含めて満員となる。やはり外国人(特に西洋系の)観光客も多い。コロナ禍も明け、このところの円安も重なっていると思う。私の周りにも西洋系の観光客がぐるりと集まり、ガイドらしき方がおそらく英語で案内している。どうやら牡蠣の養殖いかだについて解説しているようで、一斉にスマホやカメラを向けている。

もっとも、単語として聴きとれたのは「タイラノキヨモリ」くらいかな。厳島神社に信仰を寄せ、現在につながる社殿を整備した人物として紹介していたようだが、西洋流の「キヨモリ・タイラ」ではなく「タイラノキヨモリ」と言っていたのは、日本の歴史にもかなり詳しそうなガイドと見た。

ただ、それを耳にした私はといえば、平清盛、ターイラノキヨモリ、タイヤードキヨモリ、tiredキヨモリ、疲れた清盛、ベストガイ観て疲れた清盛・・・・昔あったラーメンズの「日本語学校」ネタを連想してしまう。田中角栄!

大改修を終えた大鳥居を初めて見る。

宮島桟橋に到着。

宮島に来ればまずは海岸沿い、または参道の商店街を通って厳島神社に参詣するところが、今回の目的地である存光寺はその手前である。メインの参道からいったん左手にそれ、人通りもそこまで多くない道を歩く。いったんトンネルを抜ける。

そして存光寺に到着。そして山門はと見ると、改修のためか、土台がむき出しになっており、工事中のフェンスが立てられている。これは境内に入れないのかと躊躇したが、フェンスの一部が扉になっており、そこから中に入ることができた。たぶん、大丈夫だろう。

存光寺が開かれたのは戦国時代、和泉の国から存光坊寂如阿闍梨が来て阿弥陀三尊を祀ったのが始まりという。工事中で落ち着かない感じだが、まずは本堂の前でお勤めとする。なぜ、あえて番号が飛ぶ第72番となったのかはわからないが、札所の並び順やこれまでの事例から推察するに、元々広島市街にあった寺が何らかの事情で札所を返上したか、あるいは廃寺になったのを受けて、宮島で歴史あるこの寺が名乗りを挙げたというところだろう。広島新四国の巡拝については、札所順にとらわれず、エリアごとに回ることを推奨していることもある。

さて、この存光寺のすぐ横に石段が伸びている。ちょっと急なのだが上ってみる。

するとそこには今伊勢神社が鎮座している。今でこそ厳島神社の末社の扱いのようだが、名前からして伊勢神宮を勧請して、存光寺ともども神仏習合で信仰を集めていたと思われる。そしてこの一帯は、かつて毛利元就と陶晴賢の厳島の戦いの舞台となった宮尾城があったところである。宮尾城は、陶の大軍をおびき寄せるため元就が築いた「おとりの城」と言われているが、対岸と合わせてもこの場所なら砦を築いても何の不思議もないところである。

厳島神社に行こう。存光寺の前は「町家通り」が伸びている。宮島には何度も訪ねているが、この通りを歩くのは初めてである。表参道商店街とは違い、宮島の人たちの生活道路となっている。その中に昔造りの町家と、それをリノベーションしたおしゃれな店も並ぶ。宮島の穴場スポットといえるかな。

そして、この角度での五重塔。一瞬、京都にでも来たかのように感じられる。

ここで表参道に合流する。こちらは一転して人混みの中である。なぜか中世貴族の衣装を身にまとった人がいる。神社関係者でもなさそうだし、そういうコスプレなのかな。

そして大鳥居へ。厳島神社を訪ねる時は特に満潮、干潮の時刻は意識せず、着いてからのお楽しみとしているが、今回訪ねた時はまだ潮が満ちていて、ちょうど小舟が大鳥居の下をくぐっていたところ。

厳島神社に参拝。社殿のあたりは潮が引いており、鏡の池も姿を現している。

これだけ賑わう厳島神社も久しぶりに見た。舞台の先では記念撮影する人の行列ができている。

潮が引いている海岸に下りてみる。天候に恵まれたよかった。

広島新四国の第1番・大願寺にも参詣する。ここで広島新四国八十八ヶ所めぐりを発願したのは2021年の元日。それからもうすぐ3年となるが、八十八ヶ所めぐりはまだ72番。結構時間を要しているが、次に宮島に来る時は最後の大聖院、そして弥山本堂にて結願としたいところだ。

帰りは表参道商店街を歩く。とにかく人混みが激しいし、昼食どきということでどの店も満席の様子だ。まあ、無理に入らなくてもいいか・・。

ただ何も食べずに宮島を後にするのももったいなく、桟橋前の店で一夜干しカキ串、そして夏生牡蠣をいただく。そろそろ牡蠣のシーズンで、行きつけのスーパーでも牡蠣が並ぶようになった。これからが楽しみである・・・。

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第71番「善応寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(ここ、お稲荷さんでしょ)

2023年11月15日 | 広島新四国八十八ヶ所

10月30日、仕事は代休として平日の昼に広島新四国八十八ヶ所に出かける。30日は月曜日ということで日本シリーズは「移動日」。もっとも、「なんば線シリーズ」と呼ばれたバファローズ対タイガースの日本シリーズ、それぞれの本拠地の近さも話題になっており、阪神のドーム前~甲子園間は営業キロで13.4キロ。直通列車に乗れば15分ほどで着く。ひょっとしたら、自分のホームグラウンドより相手グラウンドのほうが自宅に近いという選手もいるのではと思う。「移動日」というよりは「休養日」のようなもの。

かつて、もっとも移動距離が短かった日本シリーズもありましたな。1981年のファイターズ対ジャイアンツ。いずれも当時の後楽園球場で、1塁側と3塁側を入れ替えての試合。それでも規定により「移動日」があった。

その一方、「移動日」の原則を崩して行われたのが2000年のホークス対ジャイアンツ。あの「ON」監督対決として話題になったシリーズだが、ホークスの不手際により福岡ドームの日程を確保することができず、変則的な移動となった。その変則日程が勝負のアヤになったかどうかは何ともいえないが・・。

・・・さて、この記事は日本シリーズではなく、広島新四国である。

第70番・金龍禅寺を訪ね、次は第71番・善応寺である。善応寺があるのは本川町ということで、歩いて向かう。途中、平和記念公園を通る。修学旅行だろうか、制服姿の団体を見かける。平和記念公園を訪ねるのは原爆の日・8月6日の前日である8月5日の夕方以来である。

2023年は広島でG7サミットが行われ、各国首脳が平和記念公園、原爆資料館を訪ね、核兵器廃絶に向けた機運も高まったかに思えたが、ロシアとウクライナの戦闘は止むことなく(一時いわれていた、ロシアの核兵器使用はトーンダウンしたのかもしれないが)、ここに来てまた中東での戦闘である。ロシアとウクライナはともかく、パレスチナにせよ、イスラエルにせよ、クロマグロが泳ぎを止めると死んでしまうのと同じように、「戦争をしなければ死んでしまう」という方々が多いのだと勝手に想像する。

原爆慰霊碑の前には西洋人観光客が列をなしている。こういうところに来るくらいだから、戦争や平和に関しての意識が高いと思われる。日本を訪れる外国人観光客はアジア各国の割合が高いのだが、こと広島においては欧米からの観光客の割合が高いという統計もある。まあ、広島には「爆買い」できるほどのスポットがないということもあるのだろうが・・。

平和記念公園から原爆ドームまで抜ける。園内にある原爆供養塔は広島新四国八十八ヶ所の番外霊場で、現在の八十八ヶ所が平和への思いを込めて再興された経緯があるだけに、特別なところである。私も満願となった後には改めて訪ねる予定である。

相生橋を渡り、本川町に入る。スマホ地図を見ながら善応寺を目指すが、たどり着いたのは朱色の鳥居が数基並ぶ神社。間違いかと思ったが、鳥居の奥に「広島新四国八十八ヶ所」の札が見える。

善応寺はもともと豊田郡にあったが、関ヶ原の戦いの後に広島に入った福島正則の信仰により移ったという。江戸時代後期になり、境内に伏見稲荷大社の分霊を勧請し、広島における鍛冶稲荷の祭神としたという。

明治の廃仏毀釈のために廃寺寸前となったが復興し、おそらく原爆で壊滅しただろうが、現在は善応寺、鍛冶稲荷神社として神仏習合の名残を伝えるスポットのようだ。なお、寺としての本尊は十一面観音。神仏習合、本地垂迹の考えでは、稲荷神と十一面観音は同一とされている。

書き置き朱印の箱を見つけ、無事に朱印をいただく。

この後は土橋電停まで歩き、広電で帰宅する。次の第72番は・・・というところだが、何と宮島に渡る必要がある。札所番号順に回るにあたり、第72番だけ宮島に飛び出ている理由はわからないが、宮島に行くなら日を改めて、厳島神社と合わせて訪ねるところだろう。この日はそのまま帰宅し、日本シリーズの試合もないので(翌日から月末月初で忙しくなるし)、自宅でのんびりすることに・・・。

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