神鉄の小野駅に着く。一応駅ビルの建物ではあるが、改装中、また日曜ということで休みの店ばかり。一階に観光案内のコーナーがあり、パンフレットを置いている。
その中で、小野市の「らんらんバス」というのを見つける。普段は小野駅や市の中心部(駅から市役所までも歩けば結構かかりそう)と市内の周辺を結ぶ便が日に何本か走っている程度だが、日曜日は観光コースという設定で30分~60分おきに走っている。便によってはボランティアガイドも乗務し、浄土寺などの見所では下車して観光ガイドをして、また1時間後の便に乗る・・・というモデルコースもある。
次の13時発の便がそのガイドコースとのことだが、ガイドが付くとお勤めができなくなるかなという気がする。また、朝から歩いた勢いで、浄土寺までの4キロならそのまま行くかという気持ちである。13時まではまだ時間もあるので、イラストマップだけもらって歩き出す。
駅前にはアーケードのある商店街が伸びているが、日曜日のことでシャッター通り。はるか向こうにはイオンなどの大型店舗の看板が見え、地方の町によくある商業構造をうかがわせる。
住宅地を抜け、少し上りになって浄谷という集落に入ると、「国宝浄土寺」の看板が現れる。駅から歩いて45分ほど、暖かい上に昼食の台湾ラーメンが効いて、うっすらと汗も出てくる。
正面に浄土堂が見えるが、境内には右手に回り、石段を上がる。上がったところに二人のご老人がいて、「どちらから来られた?」と尋ねられる。お揃いのジャケットを来て、首から名札をぶら下げている。なるほど、この方々がバスに乗務するガイドか。ただ他に観光客らしき人はいない。「次のバスに乗るので少ししか時間はないですが、よかったら案内しますよ。私らボランティアでやってますので」と。客一人にガイド二人は恐れ多いと思うが、せっかくのお申し出なのでお受けする。お勤めはまた後ですればよいか。
まずは建物の外観から。大仏様という造りは、現在では東大寺の南大門とこの浄土堂にしか残らないものとのこと。鎌倉時代の建造当時の姿を残すことから、ガイドいわく「国宝とされて当然です」と。浄土寺の開創は重源とされているが、重源は当時、源平の戦いで焼失した東大寺の大仏再建のための勧進を行っていて、浄土堂もその宣伝の一環で造られたとか。もっとも、重源自身は勧進のために全国を回ることが多く、浄土寺の建立や運営は弟子たちが手掛けたそうだ。
「では、中に入りましょう」ということで、靴を脱いで上がる。入口に机を置いただけの受付があり、拝観料を払う。朱印もここで受け付けるとのことで、納経帳を先に預けておく。
浄土堂の中央に堂々と立つのは、真ん中が阿弥陀如来、私から見て左が観音、右が勢至の両菩薩である(堂内は撮影禁止のため、画像はポスターを写したもの)。
「座って見てください」とうながされる。「阿弥陀さんの視線を感じるでしょう」と言われる。確かに、立ったままよりは座ったほうが、阿弥陀如来が天上から救世のために下りようとしているとか、上から見守ってくれているという感じがする。それぞれの足元には雲があしらわれている。「この角度だと、ちょうどお堂の外から拝んでもいい感じです」と。
また、本尊はたいてい建物(部屋)の奥に祀られることが多いが、この阿弥陀三尊は建物の中央にあり、後ろは格子で日の光も入ってくる。これは計算されたことで、格子がある西側から入る日光が床に反射し、阿弥陀三尊を照らす。これが、はるか西にあるという極楽浄土を演出するというものだ。また、お堂の中心に立っているのは、信者たちが阿弥陀如来の周りをぐるぐる回りながら念仏を唱えることがあったという。よく考えられた構造である。
構造と言えば建物もそうで、梁や柱の配置も、力学的に非常によく練られたものだという。先の阪神・淡路大震災では小野市もかなり揺れたそうだが、浄土堂はびくともしなかったという。阿弥陀三尊も基礎を地面に置いていたから倒壊することもなかった。
「そろそろバスの時間なので」と、ガイドのお二人とはお別れ。その頃にはクルマで来たとおぼしき参詣客も何組かいた。堂内には録音テープによる案内もあるが、ガイドから直接お話をいただけたのは思いがけないことで、なかなかよかった。
浄土堂を出て、他の建物も見る。中央に池があり、回りには八幡宮、薬師堂がある。改めて境内の案内図を見ると、上がってきた石段は南にあり、左手の西が浄土堂、正面の北が八幡宮、右手の東が薬師堂である。これは偶然ではなく、八幡宮は神様が南面したものだし、浄土堂は西方極楽浄土(来世)、薬師堂は東方浄瑠璃界(現世)を象徴する。
浄土寺は浄土堂の阿弥陀如来が本尊であるが、今は高野山真言宗である。そのためか、薬師堂の後ろには四国八十八所を模した祠が並ぶ。
それにしても、ここが新西国とはね。観音霊場に選ばれているのに阿弥陀如来が本尊で・・・あ、左手に観音像があったか。こうした立派な寺であるし、ちょうど播磨の巡礼コースの道中にあることから、客番(ゲスト)ということになったのだろうな。せっかくなんで国宝の名寺もコースに入れようと。
一通り見て、コミュニティバスの観光コースの見処は他にもあるのだが、一本後のバスでもう駅に戻ろうと思う。・・・とその前に、次に訪れる札所決めのくじ引きとサイコロである。
1.京都市街(誓願寺、大報恩寺)
2.龍野(斑鳩寺)
3.阪急宝塚線(萩の寺、満願寺)
4.大津(立木山寺)
5.高野山(宝亀院)
6.六甲(天上寺)
今回も広域な選択肢が出る。四天王寺の次が加西、三木、小野と播磨の国が続いているので、次あたりは東のほうに行ってみたい。で、サイコロは・・・6。摂津の国であるが、またしても兵庫県である。まあ、新西国の半数が兵庫県にあるから仕方ないのかもしれないが。摩耶山・・・あの夜景の名所か。
駅に戻るためバスを待っていると、先ほどのガイドの一人がやって来た。てっきりお二人で一本前に乗ったのかと思ったが。西国、新西国を回っていることを話すと、「ここは(播州)清水寺と一乗寺の間ですから、それで立ち寄る方も多いですよ」とのこと。やってきたバスは他に客はおらず、ガイドと二人乗っていると、広渡廃寺のバス停から、もう一人のガイドが一人の客とともに乗ってきた。この日がたまたまそうだったのかもしれないが、観光コースの利用客はこんなものか。もう一人の利用客は、何とこの先の粟生駅から歩いて来たのだとか。たまたま広渡廃寺の歴史公園に出たところで、ガイドに会ってしばらく案内されたそうだ。
広渡廃寺は、浄土寺の薬師堂の薬師如来が元々祀られていたところで、奈良の薬師寺式の伽藍があったという。今は歴史公園として整備されているが、あまり見学者もいないようだ。
小野駅に戻る。ガイドとはここでお別れとなり、駅の西側にある好古館に行く。平安時代、小野好古という人がいて藤原純友の乱を鎮圧したのだが、この名前を取ったのだろうか。
館内に入るとまず出迎えたのは立派な雛飾り。3月ならではのことである。その背景には先ほど参拝した浄土寺の阿弥陀三尊像のパネルがある。雛飾りがなければ、阿弥陀三尊が来館客を大々的に歓迎する演出なのだろう。
ここは小野市の歴史資料館というべきところで、小野好古に関する展示はないが、各時代の小野の歴史を取り上げている。
二階の企画展で、「小野藩の幕末維新 広岡恵三、一柳真喜子の父・一柳末徳の時代」というのをやっていた。朝ドラの「あさが来た」関連のイベントという。主人公・広岡浅子の娘婿が広岡恵三、そして恵三の姉が一柳真喜子(夫は、近江兄弟社の設立や、さまざまな近代建築に携わったヴォーリズ)なのだが、このきょうだいの出自が、この小野藩の藩主だった一柳家であるというものだ。彼らの父が、小野藩最後の藩主で、後に華族となった一柳末徳である。展示自体には珍しいとまで言えるものはないが、見学者のグループが、広岡浅子と一柳家の相関図を見て、この人は誰が演じているとか、ドラマの話で盛り上がっている。小野に「あさが来た」とは、まさに「びっくりポン」。
これで今回の札所めぐりは終了。帰りは、先ほど少し乗った三宮との急行バスにしようかとも思ったが、ここはやはり神鉄にする。またいつか、この線に乗ることがあるのだろうと思いつつ・・・・。