まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第11回九州西国霊場めぐり~フレッシュオールスター2022観戦記・1

2022年07月31日 | 九州西国霊場

九州西国霊場めぐりは、まず第26番・観音寺を訪ねた後、野母崎半島からの軍艦島の姿、そして伊王島灯台を訪ねて長崎駅前に戻って来た。第25番・清水寺は翌24日に訪ねる予定である。

この日宿泊したのは駅前にあるホテルウイングポート長崎。日本旅行にて往復の新幹線&特急「かもめ」とのセットプランである。チェックインして荷物を部屋に置いたらすぐに駅前に戻り、電停乗り場に向かう。

長崎の路面電車に乗るのも久しぶりで、時代の流れか、バリアフリー対応の連結式車両も導入されている。ビッグNスタジアムへは路面電車の大橋下車、すぐである。

そして正面入口へ。若手中心とはいえ12球団の選手が集結するということで、多くの人で賑わっている。各チームのユニフォーム姿の人も結構いる。私はといえば・・・この日バファローズのユニフォームを持って来るということは思いつかなかった。タオルを持っているのがせめてものファンらしさかな。

いわゆる地方球場を回るのも楽しいものである。野球を通してその土地の空気に触れるというのか。独立リーグはそれこそ地方球場だらけで、NPBの1軍公式戦も行われるスタジアムもあれば、昔ながらのスタイルの球場も数多く残っている。このところ独立リーグ観戦や地方球場観戦もご無沙汰していたが、長崎で、九州西国霊場めぐりとセットで訪ねることができたのも、観音様のご縁だろう。

入口前のコーナーにはフレッシュオールスターの記念グッズや各球団のグッズ売り場がある。オールウエスタン、オールイースタンという分け方も普段なかなか接することがないものだ。なお、長崎での開催ではあるが、ホーム側はオールイースタンとなっている。

スタンドに入る。今回購入したのはネット裏三塁寄りの席。試合時間が近づくにつれて、この辺りを中心に席も埋まって来る。周りを見るとやはり目につくのは地元九州のホークスのユニフォームを着たファンだが、他にはカープ、タイガース、そしてバファローズ。そうかと思えばベイスターズやマリーンズのファンもいるようで、この辺りはさすがにオールスター戦である。しかも、ウエスタンとイースタンという区分けなので、パ・リーグ、セ・リーグも入り混じるのが独特の光景。

そろそろ西日が差し掛かる頃で、ちょうどバックスクリーンの後方には夜景観賞スポットの稲佐山も見える。長崎の夜、スタンドから稲佐山を見やるというのもいいだろう。また、球場のすぐ横に長崎線の高架が走っており、特急「かもめ」やローカル列車が時折行き来する。これも地方屋外球場ならではの眺めだ。

さて食事だが、売店にはアルコール、ソフトドリンク、弁当、つまみなどいろいろある中で、ちくわと天ぷらという選択。また、ビールはアサヒ、キリンと売り子がしょっちゅう回って来るので心配ない。350mlの缶ビールを紙コップに移して500円。昔ながらのスタイルを楽しむことができる。

試合前のベンチでは各球団のマスコットたちもファンを歓迎する。チームによってはファーム向けのキャラクターもいる。

スタメン発表。このところの新型コロナウイルスの感染拡大の影響はスポーツ界にも広がっていて、大相撲では力士、親方に陽性者が出れば部屋全体が休場となり優勝争いにも影響したり、プロ野球でも登録抹消が相次いだ。フレッシュオールスターでも出場予定選手がコロナ陽性となったり、チームメイトにコロナ陽性者が出た影響で1軍の試合に帯同することになったために出場辞退した選手が両チーム合わせて17名いるそうだ。その分、高卒ルーキーや育成選手にもフレッシュオールスター出場の機会が回って来た。

両チームの監督・コーチ・選手が一人ずつ紹介される。まずはオールウエスタン。監督は長崎出身のタイガース・平田2軍監督。コーチはドラゴンズ・片岡2軍監督とホークス・小久保2軍監督だが、小久保監督もコロナ陽性のため出場辞退、代わりに井出コーチが登場。

なお、バファローズは投手で小木田、宇田川。野手で元、池田、渡部が出場している。当初はドラフト1位の椋木がエントリーされていたが、1軍に抜擢され先発2試合目にはあと少しでノーヒット・ノーラン達成という投球も見せた。そうしたチーム事情のため、育成の宇田川が補強された。

一方のオールイースタンは、監督に前ホークスコーチだったマリーンズ・鳥越2軍監督、コーチはジャイアンツ・二岡2軍監督とイーグルス・三木2軍監督。三木監督は1軍の前監督だったなあ。

試合前には、長崎大水害の犠牲者への黙祷がささげられる。1982年7月23日・・・まさにちょうど40年前の出来事である。長崎市およびその周辺で299名の犠牲者が出たとして、長崎の人たちにとっては忘れられない日の一つなのだそうだ。40年前といえばずいぶん前のことに思うが、この数年、毎年どこかしらの地域で豪雨災害が発生している。災害の教訓は生かさなければならない。

いよいよ試合開始である。なお先発はイースタンがファイターズ・達、ウエスタンがタイガース・森木というドラフト1位、高卒ルーキー同士である・・・。

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第11回九州西国霊場めぐり~野母崎半島から軍艦島を望み、伊王島へ

2022年07月30日 | 九州西国霊場

九州西国霊場第26番の観音寺を参詣し、脇岬海水浴場の美しい海を見た後で、長崎市街に向けて折り返す。

野母崎半島を横切ってやって来たのが、長崎のもざき恐竜パーク。長崎市恐竜博物館や子どもたちの遊び広場があり、この暑さだが多くの家族連れで賑わっている。恐竜で町おこしといえば福井が知られているがm長崎で恐竜というのは初めて聞く。ただ実は、長崎では恐竜の貴重な化石の発見が相次いでいるのだそうだ。

私としては恐竜はともかく、同じ敷地内にある軍艦島資料館に立ち寄る。軍艦島が世界遺産に認定されたのを機に、島の歴史や当時の生活を紹介するために、島を遠くに眺めることができるこの地に開設された。

施設としては小ぢんまりしているのだが、江戸時代に石炭が見つかり、三菱による開発、そして多くの人たちが移り住んで活況を呈した島の様子が古い写真、カラー再現された4K映像、そして今に残された家財道具などで紹介される(館内の展示物は撮影禁止のため、画像なし)。

軍艦島の炭鉱が閉山となり、島から人の姿がなくなってもうすぐ50年である。年月が経つにつれてその廃墟ぶりが人々を引き付けるところで、これまでにも映画などのロケ地に選ばれている。私が知るところで印象的だったのが、B’zの「MY LONELY TOWN」のミュージックビデオ。8年前に軍艦島へのクルーズ船で上陸した時に、軍艦島がロケ地となった曲として船内で動画が流されたのを観て初めて知った。閉山後、軍艦島でのこうした形での撮影が認められた初めての作品ということもある。館内にはB’zのお二人のサイン入りパネルも展示されている。

ここで、恐竜の化石が顔を出す。軍艦島は海底から石炭を採掘するために開発されたが、その石炭層の下には化石が含まれる地層が広がっていて、それがティラノザウルスやトリケラトプスといった有名な恐竜が生息していた白亜紀後期のものだとされている。軍艦島の採掘ではさすがにそこまで掘ることはなかったが・・。

海べりに出て、遠くに軍艦島の姿を見る。島に多くの人が住んでいた当時、この島は不夜城のように煌々と輝いていたそうだ・・・。

もう少しレンタカーを走らせ、来る時に目についた高浜海水浴場に立ち寄る。海水浴場のほか、カフェレストランも併設されている。小ぢんまりした砂浜だが地元の人たちで賑わっている。ここも、海岸の向こうに軍艦島が照らされて見える。海水浴とはいかないが、窓越しに軍艦島を望むカフェでしばらく休憩。

時間は昼を過ぎているが、また旅先で昼食を取り損ねたと言われるのもアレなので、ここで食事としよう。メニューをめくる中で目に留まったのがトルコライス。長崎のご当地料理の一つで、豚カツ、ピラフ、スパゲティが一つの皿に乗っているのが条件。豚カツにはカレーソースがかかり、またサラダも乗っていて一皿でいくつもの味が楽しめる。トルコライスという料理の発祥や名前の由来には諸説あるようだが・・・。

さすがに軍艦島を眺めながらのビールとはいかないが、ガシガシいただき、セットのアイスコーヒーを飲んで夏の一時を過ごす。これだけ穏やかな天気なのだから、ちょうど今頃午後からのクルーズ船の人たちが上陸していることだろう。翌24日の天気はどうかな・・・?

さて、この後はビッグNスタジアムでのフレッシュオールスター観戦なのだが、このまま長崎市街に戻っても時間が早すぎる。もう1ヶ所どこかに立ち寄れるかなということで、伊王島に行くことにした。こちらも訪ねるのは初めてである。

カーナビの案内で住宅地の中を抜け、伊王島大橋を渡る。2011年に開通した橋で、まずは伊王島の手前の沖ノ島に渡る。伊王島はさらにその先だが、この2つの島の間はほぼ地続きである。

まず車窓に現れるのは馬込教会。伊王島、沖ノ島はカトリック信者の多いところという。

この先はリゾート施設が並ぶ。伊王島のフェリーターミナルもどこか南国風である。結構な数のクルマも停まっており、海水浴場に向かう人の姿も目立つ。長崎から手軽に訪ねることができるリゾート地のようだ。

今はこうして大規模なリゾート施設が並ぶ伊王島だが、かつては炭鉱の島だった。今の建物はかつては炭鉱関連の施設や炭住が建っていたそうだ。炭鉱は1972年に閉山となる。その直前の1970年が舞台となる山田洋次監督の映画「家族」は、伊王島の炭鉱に勤めていた一家が、炭鉱の閉山が決まったことを受けて、北海道での酪農をやるために移住する姿を描いた作品である。当時の鉄道、連絡船のシーン、大阪万博や上野動物園のパンダ、高度成長の都会と地方の多様な風景など、なかなか面白かった。その1970年頃はエネルギーの主力が石炭から石油に変わったことを受けて、この頃から炭鉱の閉山が相次ぐ。「家族」の一家のように島を出た人も多かっただろう。

そこで当時の伊王島町は島のリゾート開発に乗り出し、巨大なホテルが建ち並ぶようになったが、バブル崩壊後の長引く不況のため閉鎖。その後ようやく再興し、現在はまた賑わいを取り戻している。昭和以降、なかなか波乱の歴史を持つ島である。

その先にある伊王島灯台に向かう。公園として整備されており、クルマを停めてしばらく歩く。伊王島灯台は明治の始め、イギリスのリチャード・ヘンリー・ブラントンの設計で建てられた。伊王島は地図を見るとちょうど長崎港の外海への入口、防波堤のように見え、灯台は欠かせないものであることがわかる。灯台よりも前、幕府が設けた砲台の跡もある。

灯台に隣接して、伊王島灯台旧吏員退息所という建物がある。明治初期の建物がそのまま資料室として保存されており、中には伊王島灯台の紹介資料が並ぶ。

その一角に、高倉健さんの最後の主演作品である映画「あなたへ」(降旗康男監督)のポスターがある。この作品も「家族」と同じ「ロードムービー」というジャンルで、富山の刑務官だった主人公が、亡き妻が生前に送った手紙の真意を知るために富山から長崎へキャンピングカーで旅をする設定で、「家族」の高度成長期とはまた違った日本のさまざまな風景が登場する。

長崎で舞台となるのは平戸だったのだが、「平戸にある白い灯台」のシーンだけは伊王島で撮影されたとある。ある意味、「家族」で離れた伊王島に「あなたへ」で戻って来たとも言える。

野母崎半島から伊王島にかけて、海の景色を満喫することができた。そろそろ時間的にもよい頃で、長崎駅前まで戻ることに・・・。

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第11回九州西国霊場めぐり~第26番「観音寺」(野母崎を目指して・・)

2022年07月29日 | 九州西国霊場

7月23日、九州西国霊場めぐりが目的で西九州新幹線開業前の長崎に到着。札所順で行けば長崎の市街地にある第25番・清水寺に向かうところだが、今回はまずその先、第26番の観音寺に行くことにする。観音寺は長崎市街から南に進んだ野母崎にある札所で、長崎から路線バスも出ているが本数が読めないのでレンタカーを利用することにした。

今回のプランでは、11時の長崎到着後にレンタカーで野母崎の観音寺に向かい、夕方までにレンタカーを返却して、夜はビッグNスタジアムでのフレッシュオールスターを観戦。そして翌24日は午前中の便で軍艦島上陸のクルーズ船に乗り、戻った後に清水寺を参詣。17時前の「かもめ」で長崎を後にして博多乗り継ぎで21時頃に帰宅するというものである。

今思えば、長崎到着後にそのまま軍艦島への午後便のクルーズ船に乗り、夕方に戻ってそのままビッグNスタジアムに向かい、札所めぐりは翌24日に2ヶ所まとめてもよかったと思うが・・。

向かったのはニッポンレンタカーの長崎駅前店。以前の長崎駅なら文字通り駅前にあったのだろうが、高架移転にともない少し遠くなったようである。今回利用するのはトヨタのコンパクトカー「ヤリス」。早期割引で3630円。17時までには返却する予定で、野母崎までの往復プラスアルファを考えるとバス往復よりはお得である。

いったん長崎駅の西側に回り、新たな駅舎、そして新幹線開業を見据えた再開発の進む一帯を抜ける。この先、野母崎方面に行くのは初めてである。

急な斜面に住宅、マンションが建ち並ぶ一角も過ぎる。

そして目にする巨大な橋は女神大橋である。長崎港の両岸を結ぶことで渋滞の緩和、港湾・物流施設の有効活用を目的で架けられたが、巨大船の航行を可能にするために道路部は高さ約65メートルあるという。橋の両側には歩道もあるそうだが、私なぞとても怖くて歩けないだろう。・・・だからというわけではないが、女神大橋は自殺のスポットとしても知られているそうだ。女神が女神でなく死神になっとるやないか・・。

国道499号線(このナンバーも四苦八苦に見えるが)を南下する。長崎市南部のベッドタウンとして沿道は住宅開発も進んでいる。クルマの数が少しずつ少なくなったところで、右手に再び海が広がる。右手に見えるのは高島のようだ。

そして海べりに出る。右手に見えるあの形は・・・軍艦島だ。

そのまま走ると夫婦岩というスポットに出る。駐車スペースがあり、いったん外に出る。高島から中ノ島、そして端島・通称軍艦島が並ぶ。ちょうど夫婦岩の間に軍艦島を見通せるスポットがある。夫婦岩、軍艦島、そして夕日・・をセットで楽しめるスポットということで知られているそうだ。

これまでの軍艦島行きクルーズ船だと、軍艦島は海の果ての長い航行に感じたものだが、野母崎方面からだと結構近くに浮かぶ島である。かつては野母崎からも定期船が出ていたそうだ。その軍艦島を眺めるスポットはこの先にもあり、観音寺の帰りに立ち寄ることにしよう。

半島を横切り、南側の海岸に出る。こちらの海もきれいで、そのまま走らせるうちに観音寺前のバス停に出る。ここから細道に入り、観音寺の山門に出る。クルマは道に沿って寺の横手から境内に入って停めるとあり、いったん駐車してから改めて山門に出る。

その山門、石造りの独特なもので、寺らしくない構えである。ここだけ見ると教会にでもつながるのかなと連想する。野母崎の先端にあり、昔から風雨が強かったところ、その対策ということでこうした頑丈な造りになったのだろう。

そのまま進むと、露天に仁王像が立つ。この時はそんなものかとして気づかなかったのだが、ブログ記事を書くにあたり観音寺の画像をいろいろ検索していると、つい最近までは仁王門の楼閣がここに建っていたようである。老朽化なのか、台風などの被害に遭ったのか、その後取り壊されたのが現在の姿のようだ。この後再建する計画があるのかな。

境内に入る。左手の大きな建物が本堂だが、その先にさらに石段が続く。上がったところが観音堂で、九州西国霊場としてはそちらが本尊のようだ。そのまま観音堂に向かう。

観音寺が開かれたのは奈良時代、行基によるとされる。行基が布教のため諸国を回る中で、肥後の宇土にやって来た。そこには渡ろうとする人に祟るとされる木の橋があった。それを聞いた行基は錫杖で橋を打つと、橋は7つに割れた。川に流し、その木が漂着したところで観音像を彫ることにしたのだが、その一つが流れ着いたのが野母崎の脇岬海岸だった。そこで観音像を祀ったのが観音寺だという。

行基七観音の縁起を有する寺のほとんどはそのまま九州西国霊場の札所にもなっており、それだけ長い歴史と信仰が根付いていることがうかがえる。

現在の観音堂は江戸時代の再建で、本尊の十一面千手観音は平安時代の作とされる。それだけでも十分長い歴史を有する寺院である。今はかなり色あせているが、観音堂の天井絵も歴史的価値があるものという。扉が開いていたのでそのまま中に入り、お勤めとする。

本堂にも入る。こちらは大きな広間があり、他に人はいなかったが四隅で扇風機がぶんぶん回っている。観音寺じたいは現在曹洞宗の寺院とあるが、日常のお参りや法要はこちらの本堂で行うのだろう。観音堂は九州西国の本尊として、あるいは開山堂のような位置づけなのかな。

インターフォンを鳴らして住職の方に出ていただき、朱印をいただく。まず、長崎市の遠いほうの札所クリアだ。

帰りに、脇岬海水浴場に立ち寄る。観音寺の本尊となる7つの木の一つが流れ着いたところだ。そこは砂浜が広がり、鮮やかな緑の海面が広がる。これはいい。私もしばし波打ち際にたたずむ・・。

このビーチの一角にテントやらベンチが設けられている。何かなと思ううち、貸切の観光バスが国道沿いの駐車場に乗りつけられ、アロハなど涼しげな衣装の若者団体が降りて来た。それらを総合すると、この砂浜で結婚式を行うようだ。夏ですなぁ・・・。この日は雲も少し出ていたが、夏の日が差して素晴らしい景色である。ここをウェディングの場に選んだのは新郎新婦にとって思い出の地だったとか、エピソードがあるのかな。

おめでとうございます。観音さんも喜んでいることだろう・・・。

これで折り返しとして長崎市街に戻るが、時間はあるので帰途にあちこち立ち寄ることにする・・・。

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第11回九州西国霊場めぐり~特急「かもめ」にお別れ乗車、新たな長崎駅へ

2022年07月28日 | 九州西国霊場

博多から「かもめ9号」で長崎を目指す。西九州新幹線は9月23日に武雄温泉~長崎間で先行開業するが、博多から長崎へは乗り換えとなる。それがいつまでなのかはまだ何も決まっていない。さすがに未来永劫ではなく、どこかで佐賀県が折れざるを得ないのだろうが・・。

ともあれ、現在の形の「かもめ」が走るのも2ヶ月弱である。私自身「かもめ」に日頃から乗っていたわけではないので、お名残惜しいというのとは異なるが、今回は往復でお別れ乗車である。そして西九州新幹線開業後、機会を作って新しい「かもめ」に乗るつもりだ。

「かもめ9号」の入線前、隣のホームには長崎からの「かもめ4号」が到着した。885系の「白いかもめ」車両である。カメラを向ける人もちらほらいる。

そして南福岡側からやって来た「かもめ9号」は787系。かつての「つばめ」として登場したが、九州新幹線開業後はこの「かもめ」も含めて各線を走っている。885系との対比で「黒いかもめ」とも呼ばれているが、本人?はあくまでも「つばめ」当時の誇りを胸に秘めているようだ。ここで白黒の「つばめ」が揃ったことで、カメラの数が一気に増えた。

8時52分に発車。私が乗った指定席車両は3分の1ほどの乗車率。もっとも、自由席はもう少し乗っているだろう。3連休の次の普通の土日ということで、普段はこのくらいの利用かと思う。

二日市までは先行列車の影響かトロトロ走ることもしばしばだったが、そこから先は快走する。鳥栖で長崎線に入る。サガン鳥栖の本拠地「駅前不動産スタジアム」に隣接して、バレーボールの久光製薬スプリングスの新たな練習施設が建設中である。鳥栖が誇る2つのクラブチーム。

長崎線に入り、新鳥栖では九州新幹線からの乗り換え客が乗ってくる。現時点では、新幹線から博多の他に新鳥栖て「かもめ」に乗り換えるパターンも使えるが、西九州新幹線先行開業後は、新鳥栖乗り継ぎパターンも同様に面倒なことになるのだろうな。

佐賀平野を快走して佐賀、肥前山口に停車する。西九州新幹線先行開業に合わせて、町の名前である「江北」に改称される。ここで、武雄温泉につながる佐世保線と分岐する。この先の長崎線諫早までは並行在来線として、23年間はJR九州が面倒を見るのだが・・それだけ長く運転を続けるというのは、西九州新幹線の全線開業までそのくらいかかるかもしれないというサインでもあるのかな。

肥前鹿島を過ぎて、有明海を望む区間を走る。九州西国霊場めぐりで訪ねた車窓でもあり、太良町を訪ねたのもわずか数ヶ月前のことだが懐かしさも感じる。

長崎県に入る。残念ながら左手に雲が広がっていて、雲仙は見られなかった。

右手後方から高架線路が近づいて、諫早に到着。大村線、島原鉄道も含めた交通の要衝であり、前回の九州西国霊場めぐりではリニューアルされた駅舎、コンコースを見ることができた。その時フェンスとシャッターで防がれていた新幹線改札口が開くまであと2ヶ月弱である。

諫早を出て、喜々津を過ぎると市布経由の短絡線に入る。元々の長与経由からのショートカットで、間には長いトンネルも挟むのだが、西九州新幹線開業とともに快速、普通のみの運転となる。これも歴史の移り変わり。

長崎市内に入り、ビッグNスタジアムの横を通過して浦上に着く。そして、今度は左手後方から高架線路が寄り添ってきた。新幹線は長いトンネルを抜けていきなり市街地に顔を出すようだ。駅周辺も新幹線開業にともない全面高架化、そして開発工事が進んでいる。

そして到着した行き止まり式の長崎駅ホーム。長崎駅にはちょうど令和改元のタイミングで訪ねたツアーの帰途に「かもめ」に乗り込んだのだが、この時は地平ホーム。そして隣接して車両区の留置線があった。現在の駅は西に移る形で、留置線があったところに設けられている。在来線ホームの隣、少し高い位置に新幹線ホームも完成している。

一方、在来線ホームにはハイブリッド気動車のYC1系が停まっている。長崎線、大村線、佐世保線の快速・普通列車はほぼこの形式に置き換えられている。そのこともあってか、西九州新幹線開業後は現在電化されている長崎線についても架線を撤去して、非電化区間として営業するそうだ。電車の運転にかかる設備を減らしてコストを削減するためという。地域によっては電化を熱烈に希望するところがある一方、電化から非電化に移行する地区も出るようになるとは、時代の流れ、技術開発によるところ。

高架化された駅に降り立つのは初めてで、これまで思い出の中にあった長崎駅とはまったく別の駅となった。もうしばらくすると新しい歴史が始まるということで、今はその前夜の風情を味わうことにする。

駅の西口は一足早く出島メッセ長崎という多目的施設が完成しているが、かつての駅構内であった東口はまだまだ工事が進んでいる。新幹線開業後しばらくは工事が続くそうだが、こちらが整備されるとまた大きく表情が変わることだろう。いつの日か楽しみにしたいものだ・・・。

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第11回九州西国霊場めぐり~今回は魅惑の長崎編・フレッシュオールスターに軍艦島

2022年07月27日 | ブログ

今回は九州西国霊場めぐりである。同じ九州で九州八十八ヶ所百八霊場めぐりというのも同時に行っており、それらが混同するかのようだが、観音霊場めぐりと弘法大師霊場めぐりの違いがある。そして先行して始めている九州西国霊場は後半、長崎県まで進んでいる。

第11回の目的地は長崎市内。第25番・清水寺、そして第26番・観音寺である。いずれも九州に限らず全国的に同じ名前を持つ寺院である。

前回、5月の大型連休に諫早の札所を訪ねた後で、長崎市内は7月中旬くらいかなとイメージしていた。海の日の連休もあるが、このくらいとしたのは9月に武雄温泉~長崎間で先行開業する西九州新幹線の存在がある。西九州新幹線「かもめ」が運転されるのにともない、博多からは「リレー号」が武雄温泉まで運転される。それと引き換えに長崎線の肥前山口(9月以降は江北に改称)~諫早間は並行在来線として上下分離方式での運営となる。一足飛びで第三セクター線とはならず、23年間はJR九州が列車の運転を行うことになるが、列車の減便、運転区間の縮小は避けられない。

その意味で、今回は少し早いが、博多~長崎運転の「かもめ」のお別れ乗車としよう。利用するのは日本旅行の長崎1泊プランで、往復の新幹線(限定列車)+「かもめ」の往復指定席+長崎駅前のホテル1泊朝食付きで28600円というもの。およそホテル1泊料金分くらい割安となっているようだ。

九州西国霊場はその先佐世保、唐津と続くが、こちらは逆に西九州新幹線の先行開業後の楽しみに取っておく。

そして、今回出かけるのは7月23日~24日とした。23日夜に長崎の「ビッグNスタジアム」で、NPBの「フレッシュオールスター2022」が行われることを知った。フレッシュオールスターを観戦するのも初めてだし、ビッグNスタジアムも車窓から外観を見たことあるだけで、スタンドに入るのは初めてである。野球観戦と札所めぐりの組み合わせ・・・ええやないですか。プレイガイドで前売券を購入。

さらに、長崎に行くのなら世界遺産である軍艦島にも行きたい。軍艦島には一度、2014年の元日にクルーズ船で上陸したことがあるが、せっかくの機会なので訪ねてみたい。

最後の長崎線「かもめ」乗車、フレッシュオールスター、軍艦島、そして札所めぐり・・・目的の優先度がいろいろ入れ替わるようだが、内容の濃い長崎行きになりそうだ。野球があるので雨に遭わないことを祈るばかり・・・。

そして23日当日朝、広島駅に向かう。6時47分発の「こだま781号」で出発。後続列車の通過待ちもなかったこともあり、途中の各駅の描写はなし・・。

そのまま順調に博多に到着。次に乗るのは、博多8時52分発の「かもめ9号」。少し時間があるので、在来線ホームのスタンドで博多ラーメンをさくっと一杯・・・。

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第43番「照明寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(巡拝は呉へ)

2022年07月26日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国八十八ヶ所めぐりは、東広島から自動車専用道の東広島呉道路を通り、呉の市街地に入る。まず目指すのは第43番の照明寺だが、地図では国道185号線沿いにあり、カーナビにも出てきたが周辺で案内が終了してしまう。

しばらく回るうち、国道沿いに照明寺の駐車場の看板があった。とりあえず、こちらにクルマを停める。その崖の上に墓地があり、そちらに抜ける道もあるようだ。

そしてやって来たのが照明寺。今回ここまで回った東広島の3ヶ所はゆったりした境内だったが、呉の町中の寺院ということで対照的だ。

照明寺は山号が呉高野山とある。明治の中頃、観重阿闍梨が高野山の塔頭寺院だった照明院をこの地に移して開いたが、その後、太平洋戦争の空襲で焼失してしまった。戦後となり、高野山開創1150年の記念事業として再興された。

残念ながら扉は閉まっていて、外からのお勤めである。それはいいが、朱印はどうなるのか。

建物をよく見ると坂の奥に続いており、檀信徒会館とある。こちらのインターフォンを鳴らすと寺の方が出てきて、書置きの用紙をいただく。

あっけなく参詣を終えた形だが、今回はまず呉までコマが進んだことでよしとして、今回はこれで終わりとする。呉市街、あるいは少し離れたところにいくつか札所があり、しばらくは呉シリーズとなるのだが、呉といえば周りを山に囲まれ、坂に沿ってびっしりと建物が並ぶイメージがある。クルマで行ければいいが駐車場がない寺もあるようで、ならばバスで近くまで行って坂道を上り下りすることになるのかな・・・。

雨の心配もあったのでこの日(7月18日)は早々に帰宅することに。昼食も帰宅してからでいいだろう。国道31号線~2号線と通って帰る。呉から広島こそ以前から開通している広島呉道路(クレアライン)があるが、依然として通行料金が徴取されている。その先の広島高速とつながっていることもあるのだろうが・・。仕事で広島から呉に行くこともあり、その時は必要経費として往復利用するが、プライベート、特に急がないので下道を通るか・・・。

結局この日は夕方まで雨はなかったものの、その後は広島も結構な雨となった。並行して通った呉線も雨による倒木の影響で運休。そしてその影響は翌19日に広がり、山陽線や芸備線などの山陽地区に遅れや運休が出て、さらに山口県は山陽・山陰含めて県内全線が運休ということになった。大きな災害にはならなかったが、鉄道(特にローカル線)にとっては厳しいことに・・・。

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第42番「福成寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(名門ゴルフコースを抜けて・・)

2022年07月25日 | 広島新四国八十八ヶ所

東広島をめぐる広島新四国。第41番・観現寺を後にして次に向かうのは第42番・福成寺である。いったん国道2号線まで出て、少し走って南下して新幹線の東広島駅近くに出る。広島新四国めぐりの各札所へのシミュレーションをやった時、ここ福成寺については、広島から1駅新幹線で東広島に移動して、そこから歩くのもいいかなと思っていた。ちなみに、広島新四国の公式サイトでは、東広島駅から福成寺まで徒歩60分とある。ただしこの夏の時季、しかもこの後雨が降る予報が出る中では・・。

クルマを走らせて看板が見えたのは広島カンツリー倶楽部の「西条コース」。広島カンツリー倶楽部、前回の広島勤務時から名前は聞いたことはあるぞ。1955年竣工という広島県でも歴史がある名門コースということで、プロのトーナメントも行われる。

カーナビはそのホールとホールの間の道路を指し示すが、別にコースに乱入したわけでなく、福成寺への矢印もあるし、正しい道路である。

西条コースを抜けると本格的な上りである。東広島駅から徒歩なら結構きついだろう。途中、東広島駅や周辺のホテルも眼下に小さく望むスポットもある。

朝方に訪ねた第40番・竹林寺と同じく標高500メートルほどの地点。多少涼しさも感じて福成寺の仁王門前に出る。もう少し進むと広島天文台があり、寺と天文台の駐車場が兼用のようだ。天文台があるということは、広島県内にあって建物や照明の影響が少なく、空気も澄んだところと言える。

どこかぎこちない造りの仁王像が並ぶ門をくぐる。福成寺は奈良時代、網衣上人が開いたとされる。源平の戦いの舞台にもなったところで、西条の国分寺は平家方、そして福成寺は源氏方につき、この時は平家方が勝利して福成寺も焼かれたという。

その後再興され、大内氏や毛利氏の保護も受け、現在に至る。江戸時代以降の歴史について触れられていないが、そこは平穏に過ごしていたということなのかな。

屋根付き橋を渡り、本堂へ。石州瓦を乗せる建物にて、中には入れなかったがまずはお勤めである。朱印も扉前の箱からいただく。

本堂の右手には杉の木がある。樹齢数百年という夫婦杉だが、落雷により二つに割れて燃え上がったそうだ。そのため先端を切り離したとある。夫婦杉で、炎上したとか切り離したとかいうのはあまりよろしくないようだが・・・。

その奥に六所大権現が祀られている。最近になって再建されたのかな。

再び本堂の脇に戻ると、九品仏堂がある。2019年、90年ぶりに再建されたとある。再建を機に修復された九品九体の姿の阿弥陀如来を祀る。

また本堂の裏手には顕彰碑があり、源頼政の名前が見られる。この前の観現寺で、源頼政と妻の菖蒲御前について触れたが、ここ福成寺は菖蒲御前が出家したところと伝えられる。当時の安芸の国府近くの古刹で、源氏方ということで身を寄せたということだろう。

境内を一回りしたところで福成寺を後にする。再び、広島カンツリー倶楽部西条コースの中を通る。来た時には両側でプレーしている人はいなかったが、帰りにはちょうど両側でプレーが行われていた。幸いグリーン周りだったので道路に打ち込んでくることはなかったが、こうしたコース、私なんかだったら車道に飛ばすこともことも一度や二度あるだろう・・(この数年クラブは握っていないのだが)。そしてもし通りがかったクルマにぶつけた場合、その補償はどうなるのやら。

これで当初の目的だった東広島の3ヶ所を回り終えた。札所番号順の関係で西条にはもう一度来ることになるが、とりあえず一段落である。そして次回からはいよいよ呉市内に移るが、時刻は昼頃、そしてまだ雨は落ちてくる様子もないので、コマを進める意味で帰りは呉を経由しよう。呉市内にも数ヶ所札所があるが、まずはその一つである第43番・照明院に行ってみよう。

東広島から呉へは国道375号線が走っているが、今は無料の自動車専用道だる東広島呉道というのが通っている。国道じたいは呉から三次を経て島根の大田市まで続くが、東広島呉道は山陽自動車道の高屋ジャンクションと接続することで呉へのアクセス改善に資している。まあ、ここは鉄道の及ばないところで道路建設は有効なところだろう・・。

両市を結ぶ移動は順調に進み、終点の阿賀で国道185号線に合流。焼山トンネルを抜けて呉市の中心部に入った。目指す照明院はトンネルを出てすぐのところだが・・・。

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第41番「観現寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(石鎚山と西条聖天)

2022年07月23日 | 広島新四国八十八ヶ所

広島新四国は西条地区に戻ってきた。酒どころの看板も出る。

国道375号線から国道2号線に向かう途中、黒瀬川沿いにある観現寺の境内に到着する。駐車場には西国三十三所の本尊石像が並ぶ。建物も新しいもの、昔からのものが混在しているようだ。

まずは仁王門へ。こちらも最近のもののようだ。その前には「あなたのやり『すぎ』はどれですか?」のメッセージとともに、見ざる、言わざる、聞かざるの像が出迎える。

仁王門をくぐると鳥居とともに、石鎚蔵王大権現(鎚は、金へんに夫)の幟が立ち並ぶ。ここで護摩祈祷を行うのかな。石鎚山や不動明王が祀られているということで、修験道のほうにもつながりがある寺院だろうか。

そのまま本堂、護摩堂に向かう。その向きからして、本来の山門は駐車場とは逆側にあったのかなと思う。まあ、参詣する人の多くはクルマで来るだろうから、今の新しく建てられた山門のほうが実態に合っているようだ。

観現寺は奈良時代に行基が開いたという言い伝えもあるが、平安時代末期、源平の戦いに敗れて自刃した源頼政の妻・菖蒲御前が西国に落ち延び、菩提を弔うために開かれたという。源頼朝が源平の戦いを制した後、菖蒲御前とその子に賀茂の地を与えた。その家臣も長く観現寺を守り、現在までつながっている。

本堂の前でお勤めとする。朱印についての解説文があり、寺に来たら朱印だけをもらうのではなく、本来の意味のとおり写経を納める、せめて般若心経を読誦するようにとの言葉がある。いっぽう、扉の前に広島新四国のセルフ式の納経箱があるが、大サイズしか入っていなかった。

結局、たまたま檀家らしい人と話に出ていた寺の方に声をかけて、小サイズの用紙を持ってきてもらった。この方式も結構スタンプラリーに近いように思うのだが・・。

この後は「西条聖天」として地元の信仰を集めている聖天堂や、源頼政を弔うとされる宝篋印塔にも手を合わせる・・・。

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第40番「竹林寺」~広島新四国八十八ヶ所めぐり(小野篁出生の地へ)

2022年07月22日 | 広島新四国八十八ヶ所

7月半ばはいろいろと所用があったが、18日に広島新四国八十八ヶ所めぐりを進めることにする。6月に、白市にある第39番の光政寺を訪ね、その次の第40番・竹林寺にも行こうかと思ったが、夕方の時間となったために断念し、次の機会に回すことにした。今回は竹林寺のほかに、第41番・観現寺、第42番・福成寺と回り、いったん東広島シリーズを終わらせることにする。

この日は午後から雨の予報も出ており、朝からクルマで出かけて、なるべく早い時間に戻ることにする。朝7時すぎに自宅を出発し、国道2号線を走る。竹原市に入って北上し、県道に出る。前回、白市から糸崎まで出るのに通った道である。確かこの道沿いに竹林寺へのクルマルートの看板が出ていたはずだ。ここまで下道で1時間半ほど。

果たしてその看板がある曲がり角に出たが、合わせて道路工事のため通行止めの看板も出ている。2018年の豪雨の影響で一部区間の復旧工事が続いているようだ。地図があったのでそれに従って迂回する。そのまま広島空港のすぐ横まで走り、また山道を戻る。結構大回りとなった。

通行止めの先の区間と合流した。竹林寺へはもう1キロほど走る必要があるが、警備の人に聞くと寺に行くのは問題なさそうで、先ほどもクルマが2台ほど向かったという。竹林寺へは公共交通機関なら山陽線の入野、または河内下車で、そこからは1時間半ほどのハイキングコースである。健脚ならそれもありだが、夏の暑さ、そして雨が降るかもしれないという条件ならクルマだろう。

急な坂を上り、2~3台ほど停められる駐車場へ。果たして先客のクルマがあった。本堂まではもう少しあるが、この先は一般車は入れない。

山門の手前に「小野篁生誕之地」の石碑が建つ。百人一首では「参議篁」として登場する人物である。石碑の横には竹林寺と小野篁に関する説明文がある。これによると、竹林寺が開かれたのは奈良時代、行基による。この山で霊光を放っていた桜の樹から千手観音を刻んでお堂を建てたのが始まりという。そして平安時代、この山の麓に八千代という女性がいて、千手観音を信仰して千日の参詣を続けていたところ、お堂の中から童子が現れ、五色の玉を授けた。八千代は後に男の子を産むが、その子が「われはこれ篁なり」と名乗ったという。成長して都に出ると、詩歌や書に優れた人物として有名となり、後に関白の小野家を継いで「小野篁」となった。

小野篁といえば、昼間は朝廷で官吏として働き、夜間は冥府で閻魔大王に仕えて亡者たちの罪を裁いていたと言われる。その出入口が京都の六道珍皇寺に残る井戸とされている。

ただ、ここ竹林寺はその先の話が伝わっている。篁は亡くなった100年後、この世に生まれ変わって僧となり、竹林寺にて地獄十王像のうち九体を彫り、自らは残り一体の像として生身の仏になったという。そのことから山も篁山と呼ぶようになったという。小野篁という人物もなかなか謎めいている。小説、映画のネタにしても面白そうだ。

海抜535メートルとあり、午前中、曇りということもあるが案外涼しく感じる。

山門をくぐり、西国三十三所の本尊も出迎える。山間、緑豊かなところである。

そのまま参道を進む。途中に架かるのは八千代橋という。

そのまま進むと本堂に出る。室町時代からの建物で、国の重要文化財である。障子扉を開けてお参りくださいとあり、中に入る。まずはこちらでお勤めとする。

本堂の右手には十王堂、そして左手には篁堂がある。小野篁と母の八千代を祀っているという。こうした静かな山の中に現世と地獄を行き来していた人物ゆかりの地があるとは初めて知ったことで、うなるばかりである。

ポツンと一軒家のような竹林寺とその一角、石州瓦の庫裡に向かう。竹林寺の朱印とともに、前回無住のためいただけなかった光政寺の朱印も別の箱に収められていた。光政寺の朱印料は別の貯金箱に納めるようで、それぞれ300円ずつ納める。

これで広島新四国もようやく40番台に入り、西に向かう。先ほどの通行止めスポットから今度は北へ、山陽線側に向かう。次の第41番・観現寺は東広島の市街地にあり、山陽線に沿って戻る形である・・・。

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山陰線で夕方の風情に癒される

2022年07月20日 | 旅行記F・中国

前の記事で、7月10日に奈良・大阪へ神仏霊場巡拝の道めぐりを訪ねたが、会社からの連絡に不穏なものを感じて神戸での試合観戦をあきらめて広島に戻ったことを書いた。

週が明けて、私の姿は島根県の益田にあった。まあ、トラブル対応のために急遽出張ということに。幸い、お客を含めて大きな迷惑にはならなかったが、大事を取ることもあってその週は益田のホテルに泊まりこみとなった。まあ、昼間の滞在も融通が利くところだったので日中はリモートワークをしているようなものだ。在所を明らかにせずWEB会議にも出席したし。個人のパソコンも持参したので夜にはブログ記事の更新もできた。ちょっとした「ワーケーション」体験もできたかなと、前向きに考えることにする。

そちらの目途がついた15日の夕方。せっかく益田に来たのだからと、一時を列車に身を任せることにする。益田は山陰線、山口線が分岐する駅だが、その両側の区間はいずれもJR西日本が「維持困難路線」として収支を公開したところである。その中で、益田から西に向かう夕方の列車に乗り込んだ。

17時47分発の長門市行き。キハ47の2両編成だ。発車時刻となったが、2両にいるのは私の他は高校生が数人。ごく普通の平日の夕方、通勤客のラッシュとは無縁である。

長門市行きに乗ったのは、こちらの区間のほうが1日の運転本数が少ないこと、それでも日本海の夕景を見られること、そして国鉄型気動車が走る区間であること。当初は、この先の木与で反対列車とすれ違うので、そこまで行こうというつもりで乗った。

まずは次の戸田小浜まで駅間が長いところを走る。早速水平線が見えて来た。前日14日は益田市内にも大雨警報が出ていたのだが、この日はまずまずの天気だった。

その戸田小浜で反対からの列車とすれ違ってすぐに発車するダイヤだが、しばらく停まってまま。どうやら反対からの列車が遅れていて、そのまま3分遅れで発車。普段なら気にすることでもないのだが、この後木与で折り返すことを考えると不安である。ダイヤ通りに走ると、私が乗っている長門市行きが先に着いて反対からの列車を待つはずだが、こちらが遅れるとなると立場が逆転する。乗り換える時間がないかもしれない。

それならその時と考えて気動車に揺られる。高校生たちも駅ごとに下車して、県境を越える時には私と、後ろの車両にもう1人いたくらいかな。夕方の帰宅時間帯でこれなら、そりゃ維持困難区間にもなるよなと思う。

須佐から宇田郷にかけて、少しずつ日が西に傾き、いい感じの景色になった。普段の生活では見ることができないものだ。宇田郷の次が木与だが、果たしてこちらの列車が着く時にはすでに反対からの列車が停車していた。ここから慌てて折り返し乗車しようとしても、それに気づかず反対からの列車が出る可能性が高そうだ。ならば木与下車はあきらめて、きりのいい東萩まで行き、最終の列車で益田に戻ることにした。

奈古からは萩方面に帰宅する高校生たちが乗って来てホッとする。少し前、町からの給付金4630万円が誤って一人の男性に振り込まれ、それをネットカジノで使ったのを返せということで騒ぎになった阿武町の玄関駅である。男性は逮捕、給付金は弁護士が策を講じて取り返したことで一応「一件落着」となったが、年末に流れるであろう「2022年の大きなニュース」の一つとして、阿武町の事故は取り上げられるだろう。

萩の市街に差し掛かり、18時58分東萩に到着。折り返しは、20時23分発の益田行きである。

夕食の時間帯だが、東萩の駅前には店がほとんどなく、確か町の中心に向かう途中にコンビニがあるので、そこまで歩いていろいろ仕入れようかと思っていた。

そう思ってロータリーを回ると、意外にも赤ちょうちんが出ていた。「おしゃれ茶屋」とある。「萩にも旨いもん ぶちあるけえ~」ともあり、ならば入ってみよう。家族でやっている感じの店で、フリの客だがカウンターが空いていて通される。

いただいたのはおすすめにあったヒラソ(ヒラマサ)の刺身。後は焼き鳥、牛串といったところ。小フグの唐揚げも。

萩の名物ということで、夏ミカンを使ったサワーも。1時間半もあればゆったりできそうなものだが、結構時計も気にしていた。列車を逃すと益田まで帰る手段はない。

駅に戻り、列車の到着を待つ。時間が近づくと高校生が10数名ほどになり、1両のキハ40に乗り込む。この日に限っていえば、行き帰りとも高校生以外は私だけのようだ。

その高校生たちも駅ごとに下車して、須佐で車内は私一人になった。夜のローカル線で列車貸切である。窓も開けて外の風も取り入れる。気動車のエンジン音だけが高らかに響く。

21時36分、益田到着。ホーム向かいにはこれも最終列車となる21時38分発の浜田行きが停まっていた。この時間は益田でも駅員が不在となり、運転席後ろの運賃箱で運賃を支払う。

青春18きっぷの時季なら、どちらの列車にもおそらく数人ずつはその筋の客はいたことだろう。しかし、平日はこんなもの。これも貴重な経験ということで、緊急出張ともども、見聞を広げたということで・・・。

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大阪9番「大阪天満宮」~神仏霊場巡拝の道・21(天満天神繫昌亭~半年の命、アントニオ猪木)

2022年07月19日 | 神仏霊場巡拝の道

7月10日の神仏霊場めぐり。初めての大阪編ということでキタにある太融寺に参詣後、大阪メトロ谷町線で南森町に移動。そして接続のJR東西線・大阪天満宮駅に着く。

地上に上がったところ、南北に続くのが天神橋筋商店街。日本一長いアーケード商店街である。大阪在住時はこの商店街内、特にJR天満駅近辺の大衆酒場でちょいちょい一献やった思い出もある。今回はそのわずかなところに触れるだけだが、また機会があれば楽しみたいところである。

そして向かうは大阪天満宮。言わずと知れた「天満の天神さん」である。毎年夏の天神祭は大阪のみならず全国的にも有名だが、このところはコロナの影響で自粛していたようだ。今年はどうなるのかな。

札所めぐりとして訪ねるのは初めてなので、改めて神社の由緒を書くと、大化の改新の数年後、孝徳天皇が難波宮を造った時、都の西北を守る大将軍社を建てたのが始まりという。その後、平安時代になって菅原道真が大宰府に流される途中に大将軍社に参拝して旅の安全を祈ったそうだ。そのこともあり、後に天神信仰の広まりを受けて天満宮となった。江戸時代の大塩平八郎の乱で社殿は焼け、現在の建物はその後の再建という。

大阪市内でも有名な神社ということで参詣の人が絶えることなく、祈祷の申し込みもいろいろ入っている。その中で手を合わせる。

朱印をいただく。こちらの朱印料は500円。ここまでいくつかの「神社」で、当たり前のように朱印500円というのに遭遇しており、これは「格式の高い神社割増料金」と割り切るしかないなと思う。いや、別に200円割増しに文句を言っているのではないですよ・・。

先に書いた大将軍社は今も別の社として残されている。

そして、まだ時刻は10時前だがここで次の行き先を決めるあみだくじとする。まずくじ引きで出走したのは・・

1.西大寺(奈良10番)

2.妙法院(京都39番)

3.法隆寺(奈良13番)

4.宝巌寺(滋賀6番)

5.日吉大社(滋賀17番)

6.賀茂御祖神社(京都21番)

・・・相変わらず兵庫県が一度も選択肢に出ないのはさておき、選択肢の西大寺といえば、前々日に安倍元首相が銃撃された大和西大寺駅近くの寺院である。もしここが出たら、たとえ安倍氏を支持していなかった者としても、これは何かの導きということで即刻そちらに向かい、手の一つでも合わせろということだろう。

そのあみだくじの結果出たのは・・・賀茂御祖神社(あみだくじアプリでは、くじ引きの出走とは全く関係なく枠が割り当てられる)。つまりは下鴨神社。京都ということで、次の神仏霊場めぐりの時期は未定だがその時に合わせることにする。

・・・さて、大阪天満宮といえば境内のすぐ脇に上方落語の通年寄席として天満天神繫昌亭がある。実は、前日に神仏霊場めぐりの目的地が大阪天満宮に決まった後で、せっかくなので繁昌亭の落語も組み合わせようと思った。広島に異動になってから繁昌亭ともご無沙汰である。

さらにその先には神戸での野球観戦があるので、狙いは朝席。10日の演目を調べると、「第79回 桂三風の早起き寄席」とあった。初めて目にする名前だが、芸名からして桂文枝(元・三枝)の弟子で、結構ベテランのようだ。10時30分開演で早起きもないやろう・・と思うが、前日にネットでチケットを購入し、天満宮近くのコンビニで発券した。

入口に向かうと30人ほどが列をなしていて、建物に入る。席は自由席で、開演近くには50人ほどの客が入っていた。

まずは桂三風の「さん風のたより」ということで前説があり、落語は3席。まずは桂三実の「みんな京阪」。名古屋出身のため。上方落語独特のイントネーションと、それに対する「訛り」に苦労した自身の体験からの創作落語で、大阪弁に悩む若手俳優が主人公のもの。大阪弁のセリフ「半年の命」をどうすればちゃんと言えるかを先輩俳優に相談した主人公、そこで受けたのは「標準語で同じイントネーションの単語に置き換えてみろ」ということで、そこで出たのは「アントニオ猪木」。「はんとしのいのち」、「あんとにおいのき」・・・。

その要領で、他のセリフも標準語で同じイントネーションの単語に置き換えて何とか大阪弁のセリフを覚えたのだが(「いちご」が「いぼじ」とか)、舞台本番、ちょっとしたことでとんでもないことになり・・・。

2席目は米朝門下の大ベテラン・桂米左の「饅頭こわい」。噺そのものは前座でもおなじみものだが、上方の「饅頭こわい」は、キツネに騙される話や、おやっさんの若い頃の怪談話(実は夢の話・・だが一部は本当)もあり、結構大作である。ベテランの話術でフルバージョンたっぷり30分聴かせていただいた。

そして最後は桂三風の「菊江仏壇」。上方落語の中でも大ネタの一つで、大店の信心深い大旦那、その放蕩息子、裏表ある番頭、そして店の者たちのさまざまな描写もあるところ。オチの後、この店の人たちはどうなったやらと気になることではある。

・・・こうして落語3席を満喫したのだが、その最中、私自身はちょっと厄介なことになっていた。公演中、会社用のスマホにいろいろ着信するのである。公演の合間に画面をちらりと見ると・・・あまりよろしくない知らせである。ただちに繫昌亭から出て対応に当たらなければならない・・というまでの緊急性はないが、内容からして、ここはそう遅くならないうちに広島に戻ったほうがよさそうにも思う。ただ、公演中に席を立つわけにはいかない。

そんなところだったので演者には申し訳ないが、「菊江仏壇」の後半はあまり耳に入らず、早くお開きにならないかなと願っていた。

お開きとなったところですぐに外に出て、とりあえず今後の対応を考える。いや正直、人間だから「何で休日に限って・・」と思う。ただ、着信への返事が遅くなったのに「寄席で落語聴いてまして・・・」とも言えない(少なくとも私の職場ではそうした言動をしようものなら、呆れられるだろう。何せワーカホリックばかりだから)。

結局、指示を受けたわけではないが自分の判断としてこの後の神戸での野球観戦はあきらめて、そのまま新幹線で広島に戻ることにした。そのことのグチは以前の記事で吐き捨てたのでもういい。

前日の山の辺の道エリア、そしてこの日の大阪市内(プラス落語寄席)を訪ねることができたたでよしとする。まあ、この後何もなく神戸で野球観戦して、夜遅くの新幹線で広島に戻るというのもそもそもハードなことで、この日帰宅してNHKーBSで大花火大会まで中継してくれたのをテレビ桟敷で観られたのは私にもよかったのかもしれない。

・・・これからもさまざまな不確定要素、不安要素ともにらめっこしながらの札所めぐりである・・・。

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大阪10番「太融寺」~神仏霊場巡拝の道・20(大阪キタのカオスな古刹)

2022年07月17日 | 神仏霊場巡拝の道

7月10日、JR奈良から7時15分発の大和路快速に乗る。神仏霊場めぐりで初めての大阪府入りだ。この日は午後から神戸での野球観戦のために移動することにしており、午前中をどうするかということで、目的地である大阪9番の大阪天満宮に行く前に、大阪10番の太融寺を押さえておくことにする。

大和路快速で天王寺からそのまま大阪環状線に入り、大阪に到着。まだ周辺の店舗は開いていないが、多くの人が行き交っている。

地下街のホワイティうめだを歩き、その先にある泉の広場に出る。以前は文字どおり広場の中央に「泉」である噴水が置かれていたのだが、噴水施設の老朽化や地下街のリニューアルにともない2019年に撤去された。ここに来るのは噴水がなくなって以来初めてだが、天井から何やらきらびやかなものがぶら下がっている。「Water Tree」という作品で、LED照明とステンレスで枝と葉を表現し、水をイメージした生命の木をテーマにしたものだという。

泉の広場といえば待ち合わせスポットとして知られるが、昨今では「立ちんぼ」のスポットともなっており、2020年には警察の一斉摘発により60人あまりが逮捕されている。さすがに日曜の朝ではそれらしき人間はいないようだが・・(いや、いたとしても私は怖くてよう声をかけられんぞ)。

泉の広場から地上に出る。泉の広場を上がるといえば、子どもの頃「はぎや整形~ 泉の広場を上がったところ はぎや整形~」というローカルCMがあったなと思い出す。ちょっと怖い感じの。今はその整形外科もなくなったそうだが。

すぐに太融寺の交差点が見えて、太融寺の門に出る。オフィスビルやラブホテル群に囲まれた何ともカオスな立地条件である。もちろん寺のほうが先に建っており、敷地も今より広かったのだが、時代の移り変わりで置き換わったというところ。

太融寺は平安時代初め、弘法大師空海がこの地の霊木で地蔵菩薩と毘沙門天を彫り、それを祀ったのが始まりとされ、後に嵯峨天皇の勅願で千手観音を本尊とした正式な寺となった。嵯峨天皇の皇子である源融により境内が広げられ、伽藍も置かれ、寺の名前も源融から太融寺と名付けられた。大坂夏の陣の兵火で焼かれたが江戸時代に再建、太平洋戦争の大阪大空襲でも全焼し、現在の建物は戦後になってからの再建である。

これまで太融寺には新西国三十三所めぐり、近畿三十六不動めぐりで訪ねたことがある。まずは本堂に上がり、畳の上でのお勤めとする。横では地元の人だろうか、長々と本尊に向かって手を合わせて経文を唱えている。また、他にも散歩コースか、通勤か、気軽に境内に入って手を合わせる人の姿も目に付く。入りやすい、親しみやすい寺である。

続いては不動堂へ。こちらには一願不動明王が祀られている。近畿三十六不動ではこちらが本尊である。

現在はコンパクトな境内だが、他には淀殿の墓(六重石塔)もある。元々は弁天島(現在の大阪ビジネスパーク西側)にあった神社に祀られていたが、明治時代に弁天島が軍用地になったことから太融寺に移転して来た。

庭園には「国会期成同盟発祥の地」や「横綱玉の海正洋」の石碑が並ぶ。明治の自由民権運動が本格化するきっかけとなった国会期成同盟の結成が行われたのが太融寺である。また、玉の海の石碑が建てられたのは大阪後援会によるものだが、現役横綱として急死してわずか5ヶ月後に石碑が建てられるのも異例のことだったという。ちなみに玉の海は愛知・蒲郡出身であるが、生まれたのは大阪市である(生まれてすぐ、大阪大空襲のため家族で蒲郡に疎開したそうだ)。

その中、新たな赤い柱の建物が現れる。これは初めて目にするようだ。八角堂(位牌堂)で、太融寺の開創1200年記念事業の一環として新たに建てられたという。

最後に朱印をいただき、大阪キタの神仏霊場めぐり、まず1ヶ所目を終える。

この弘法大師立像とラブホテルの組み合わせが、個人的には太融寺らしさが出ているように思う。そういえば真言宗で唱える理趣経は男女の愛欲も肯定していて云々・・・。

次は大阪天満宮に移動する。最寄りはJR東西線の大阪天満宮、そして大阪メトロの谷町線・堺筋線の南森町である。太融寺からなら谷町線の東梅田に出て1駅、南森町へと移動する・・・。

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神仏霊場巡拝の道~奈良にて初めて1泊

2022年07月16日 | 神仏霊場巡拝の道

7月9日、天理での神仏霊場めぐりが終わるのを待っていたかのように降ってきた雨。JR万葉まほろば線で移動して奈良駅に到着するとまた小降りにはなったが、ここまでの汗と雨で衣服も濡れてしまっている。この日はここで打ち止め。

そういえば、奈良に泊まるのは生まれて初めてである。大阪出身、在住ということで奈良は日帰り圏内だし、これまで広島から札所めぐり等で来た際も、大阪や京都などに泊まったことはあったが、奈良はなかった。もっとも、旅行者の中にあっても、奈良というところは宿泊地としてのイメージはそれほど強くないのではないかと思う。そんな中でも昨今はインバウンドの客が増えたせいか、特にJR奈良駅近辺にも新しいホテルが建つようになっている。

今回宿泊するのはJR奈良駅に隣接する「スーパーホテルLohasJR奈良駅」(ロハス・ジュニアとちゃいまっせ)。温泉浴場がついているのも決め手となった。

部屋は奈良駅のロータリーに面しており、駅前を行きかう人々や、奈良駅に発着する列車の姿も見える。ここもちょっとした「トレインビュー」ホテルである。また、遠くに目をやると興福寺の五重塔、若草山を望むこともできる。

チェックイン後、まず向かったのは「飛鳥の湯」。大和郡山の地下800mから湧き出る天然温泉を運んでいるということだ。とりあえず入浴してさっぱりした。

そして、ウェルカムバーへ。夕方の時間帯、アルコール・ソフトドリンクが無料サービスでいただけるという。残念ながら生ビールのサーバーはないのだが(ビールは自動販売機で有料)、焼酎、リキュール、ワインなどがセルフサービスで楽しめる。

その中の目玉といえるのが、奈良の地酒「春鹿 純米超辛口」。やって来る人の多くがこれを注いでおり(私も何杯かお代わりしたが)、早いペースで瓶の中身がみるみる減っていく。

カウンターに腰かけて、外の景色を見ながらの一献である。参議院議員選挙を翌日に控え、候補者も最後の訴えをする時間帯である。この奈良駅前も演説会場に適したところのようで、来た時には共産党の候補者が演説しており(ただし聴衆はほとんど見えず)、それが終わると入れ替わりにオレンジの参政党の候補者とその支援者がやって来て、演説の準備を行っていた。奈良選挙区は定数1だが、事前のマスコミ予報によると自民候補が優勢とのこと。これは安倍元首相への銃撃事件とは関係なく、もともと奈良県は自民党が強い土地で・・。

ウェルカムバーを出て、部屋に戻る。この日は雨ということもあり、外の居酒屋に出向こうという気にはならなかった。そのため、奈良駅で下車した時に構内の土産物店やスーパーで飲食物、惣菜を仕入れていた。これで改めて部屋での一献である。

それでも奈良に来たのだからということで、締めは「たなか」の柿の葉寿司、そして寿がきや製の「奈良天理ラーメン」のカップ麺である。これもご当地ラーメンに分類される。天理教の信者や、天理大学の学生向けに出された中華料理をベースとしたラーメンがその元ということで、やはり天理教とは切っても切れない。

夜は早々と横になった・・・。

・・・さて翌10日。この日の天気は申し分ないようである。朝風呂の後、コンビニで買ってきたもので朝食である。スーパーホテルといえば朝食つきが標準で、ホテルもそれを大々的にPRしているのだが、こちらでは朝食を断られてしまった。レストランに定員制を敷いていてすでに予約でいっぱいとのこと。そんなのありか。システムは致し方ないとして、対応した係の人の態度に大きな不満が残った。

気を取り直して、まずは大和路快速で大阪に向かう。目指すは大阪天満宮だが、そこに行く前にもう1ヶ所訪ねておくことに・・・。

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奈良6番「石上神宮」~神仏霊場巡拝の道・19(天理青年、進めわれら)

2022年07月14日 | 神仏霊場巡拝の道

JR、近鉄が接続する天理駅に降り立つ。高架ホームから降りる階段や改札口への通路には「ようこそ おかえり」の文字が目立つ。天理市に本部がある天理教では、この地は神様が人間に魂を吹き込んだ場所とされており、ここに来るということは生まれた場所に戻るという意味があるそうだ。

駅前には古墳をモチーフにしたという野外ステージや広場があり、キッチンカーも出ている。

さて、石上神宮まで徒歩30分、とりあえず向かうことにする。

天理といえば先ほども出た天理教で、市の名前も天理教からつけられたという宗教都市である。いわば天理教の「寺内町」とでもいうところ。天理市の人口は6万人あまりというが、その4分の1程度が天理教の関係者だと言われている。また、市街地の多くに天理教の関連施設が存在することから、固定資産税などの税金がどうなるのかというのが気になるところだが、これを補うとして、天理教からは多額の寄付がなされているという。それが天理市の財源の一つにもなっているのだとか。

こう書くと天理市の行政にも天理教が口出しするとか、市議会議員、市役所職員にも天理教が入り込んでいるのではないかと邪推するが、市と天理教が一体となって地域の発展に取り組むとしつつも、教団としては市長や市議会に候補者を立てることはしないとのことである。いや、宗教とカネ、宗教と政治というのがこのところにわかに世間を賑わせているもので・・・(だからと言って、親が宗教団体のせいで破産に追い込まれたからといって元総理大臣を銃殺するのはまったくの筋違いなことで・・)。

歩くうち「詰所」という看板が目につく。昔ながらの屋敷風もあればコンクリート造りの建物もあり、道端に「詰所マップ」というのもある。詰所とは天理教の信者向けの宿泊施設で、中には一般の人も利用できるところもあるようだ。天理教の大きなイベントとなると全国からこの天理の地に信者たちがやって来るので、こうした施設も必要である。

独特の外観を持つ建物が見えてくる。これらも詰所だったり、また病院もあるようだ。何だか日本ではなく、中国のどこかの都市に来たかのような錯覚をおぼえる。

そして正面には天理教本部の社殿・・というのか、巨大な建物がそびえる。全国各地に天理教の施設があるのだが、さすがは本部である。神仏霊場巡拝の道の札所ではないが、天理教にも触れることになるとは・・。

こちらには誰でも上がっておつとめすることができるそうだが、さすがにそこまでの度胸?はなかった。中からは天理教で唱えられる歌らしき声、柏手などが響く。

天理教本部の敷地を横切ると、石上神宮まで残り400メートルほどとなった。徒歩30分と言いつつ、天理教関連の建物が刺激的で、退屈を感じることはなかった。

再び詰所が並ぶ一帯を抜け、最後に少し坂を上って石上神宮に入る。ようやく、本題だ。

石上神宮も歴史が古い神社で、古くは物部氏が祭祀をつとめていた。古墳時代の作とされる国宝の「七支刀」でも知られている。また、平安時代後期には白河天皇が特に崇敬しており、拝殿は白河天皇が宮中の建物を寄進したものと伝えられている。

境内を進むと、休憩所に30羽はいるだろうか、鶏が放し飼いにされていて、競うように時の声をあげている。鶏は夜明けに鳴いて時を告げることから昔から神聖なものとされ、石上神宮でも神の使いとして大切にしているという。鳥の鳴き声が魔除けとなり、ご利益を呼ぶのだとか。

先ほど大神神社では卵が奉納されているのを見ており、何だか妙なつながりを感じる。

そのまま楼門から拝殿に向かう。その奥には本殿があるが、大正時代に新たに建てられたものだという。元々は本殿がなく、拝殿の後方の禁足地に祀られている祭神・布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)を拝んでいた。石上神宮は中世に入ると荘園や守護勢力の争いに巻き込まれ、果ては織田信長勢により社領も没収された。しかし地元の人たちの信仰に支えられ、明治になると神宮の名前も復活した。

こちらで朱印をいただくが、一般的な「石上神宮」の文字にするか、七支刀を描いた特別なものにするか尋ねられる。いくら国宝でも七支刀はないだろう・・と、一般的な文字を選択。

それを待つ間に雨が落ちてきた。時間はまだあるが、この先の帯解寺は次以降に回すとしよう。しばらく雨宿りを兼ねて、翌日出かけるエリアを決めるあみだくじとする。

1.根来寺(和歌山9番)

2.法楽寺(大阪6番)

3.籠神社(京都51番)

4.室生寺(奈良23番)

5.大阪天満宮(大阪9番)

6.西明寺(滋賀4番)

翌日は夕方からのほっともっとフィールド神戸でのバファローズ戦+大花火大会の観戦をを予定しており、できれば兵庫県辺りを回りたかったが、事前のくじ引きで出たのは上の6ヶ所。ここまで兵庫県は一度も選択肢に現れない。まあ、大阪の2ヶ所ならよし。室生寺なら、またまた奈良県、しかも今回と続くエリアとなる。和歌山、滋賀は行けないこともないが、籠神社は京都は京都でも天橋立である。もし籠神社なら、この日の奈良の宿泊をキャンセルしてでも今夜のうちにあちら方向に移動するか、別の機会に仕切り直しだ。

そしてあみだくじアプリが出したのは・・・大阪天満宮。今回の中ではベストの選択だと思う。

帰りは天理教本部の中ではなく、その南側に位置する天理大学、天理高校の辺りを歩く。

高校野球の甲子園大会では、勝利した学校の校歌が流れるが、何度も出場している学校であれば、そこの出身者でなくても耳になじむ校歌というのがある。天理高校の校歌もその一つといっていいだろう。「見よ空高く輝く光 天理のみおやの導くところ」で始まり、「天理青年 進めわれら」で終わるが、堂々として、かっこよく感じる。ただ初めて知ったが、もともとは「天理教青年会」の歌として作られたものだという。

頭の中で校歌がフレーズされるうち、雨脚が強まった。幸い、駅に続く商店街のアーケードが見え、アーケードの屋根にたたきつけられる雨の音を聞きながら無事に戻ることができた。天理教の寺内町らしく、両脇には天理教の紋章が並び、神具を取り扱う店もちらほらと見える。

15時56分発の奈良行きに乗車。奈良着は16時すぎだが、大汗もかいたし、やはり雨にも濡れたのでこの日は早めに切り上げとする・・・。

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奈良7番「大和神社」~神仏霊場巡拝の道・18(戦艦大和ゆかりの神社)

2022年07月13日 | 神仏霊場巡拝の道

神仏霊場めぐりは奈良の札所番号をさかのぼり、次は奈良7番の大和神社である。ちなみに、この文字で「おおやまとじんじゃ」と読む。

万葉まほろば線の長柄で下車。ホーム1本だけの簡単な駅だが、地元の人たちによるものか、ホームにイラストが飾られていたり、待合スペースも整備されている。

大和神社への案内板もあり、昔ながらの家も並ぶ通りを歩く。神社へは500メートルほどの道のり。空に雲が立ち込め、東の方角の山の上には黒い雲もある。この日(7月9日)は天気が崩れやすいとの予報も出ていたが、そろそろ雨が落ちてくるか。

標識に沿って歩くと大和神社の境内に入る。本殿はすぐそこだが、正面の鳥居ははるか向こう。ここは改めて鳥居をくぐろうと、いったん参道を逆に歩く。

そして鳥居へ。大和神社の祭神は日本大国魂大神(やまとおおくにたまのおおかみ)で、元々は大物主神として天照大神とともに国の守り神として祀られていたが、崇神天皇の時に、その神威を恐れて二人の内親王にそれぞれ別の地に祀るよう命じた。後に天照大神は伊勢神宮、そして日本大国魂大神は大和神社の祭神となった。

大和神社は平安時代前期あたりまでは朝廷の信仰を受け、伊勢神宮に次ぐ広さの社領も有していたが、その後は勢力も衰えた。

参道を進むと、「好去好来」の文字が刻まれた石碑がある。その主は奈良時代の役人であり万葉歌人である山上憶良。「好去」はさようなら、「好来」は無事に戻るようにという意味だとある。奈良時代、遣唐使は出発前に大和神社に立ち寄り、旅の無事、大和への帰還を祈ったという。山上憶良も遣唐使にはなむけの歌を贈っており、万葉集にも収められている。

その万葉集に対峙する・・というより親和性を感じさせるように建つのが、「戦艦大和ゆかりの神社」の石碑。戦艦大和の名前はもちろん大和国から取られたものだが、戦艦などに使われた他の国名と比べても、やはり「大和」という名前には特別な思いが込められていたようだ。その意味で最後の切り札だったと言えるが、さしたる戦果をあげることもなく鹿児島沖で沈没してしまった。

その戦艦大和には大和神社の分霊が祀られていたという。また、今の大和神社の参道の長さは戦艦大和とほぼ同じ270mあるという。

また、祖霊社には、戦艦大和と最期をともにした2700名あまりの戦死者が御霊として祀られている。また、昭和の画家・堂本印象が描いた大和神社の絵も守護神として艦長室に掲げられていた。もっとも、この絵は大和が沖縄に向けて出撃する前に降ろされ、江田島の術科学校に保存されたという。

戦艦大和に関する展示室もある。戦艦大和を崇敬する人の手による模型や絵画などさまざま飾られている。多くの人の制作意欲を掻き立てる存在でもある。

そしてようやく拝殿へ。こういう神社がちゃんと大和にあるとは初めて知った次第である。特に観光スポットとしてPRしているわけでもないようだ。

朱印をいただく。授与所に並ぶお守りなどを見ると、戦艦大和のシルエットをあしらったものもある。こういうのをクルマの後ろなんかに貼り付けていると、そちら方面の人に見られるかな・・。

さて駅に引き返そうというところで、雨が落ちてきた。それなりの量である。傘の出番ということでそれほど濡れずに長柄駅まで戻ったが、この後どうするか。次に行くべきは奈良6番の石上神宮である。ただ、神宮へは隣の天理駅から徒歩30分とある。また、大きな荷物を桜井駅のコインロッカーに預けている。スマホで雨雲レーダーを見ると、この後雨が止むタイミングもあるが、また一定時間まとまった雨量になるとの予報。

石上神宮をどうするか。この日はあきらめて翌日に回すか。それとも今回の所期の目的地であった大神神社はクリアしているので、石上神宮じたいを今回外して、長柄駅にて翌日の行き先を決めるあみだくじとするか・・・。

ただ、雨脚も弱まったこともあり、ここはいったんコインロッカーの荷物を取りに桜井まで戻ることにする。鉄道運賃を無駄に払っていると思われるだろうが、1泊でもしようものなら極端に荷物が増えるスタイルのため、コインロッカーはなくてはならないものである。それを含めてのプランニングである。

改めて桜井から天理に移動する。こちらも近鉄との接続駅だが、JRで降り立つのは初めてである。幸い、雨は止んだようで、今度は両駅の間の高架下にあるコインロッカーに荷物を預け、天理の町を歩いて石上神宮に向かうことに・・・。

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