まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

神仏霊場巡拝の道めぐり~王寺にて一泊

2025年03月07日 | 神仏霊場巡拝の道

2月22日、聖徳太子御忌にめぐる形となった神仏霊場巡拝の道。朝護孫子寺、法隆寺、中宮寺といういずれも聖徳太子に縁がある寺院を回ることができた(これに気づいたのは最後に法隆寺を後にする時だったのだが)。

JR法隆寺駅に移動した時点で夕方となり、この日の札所めぐりはおしまいとする。翌23日、まずは廣瀬大社に向かうことにして、大和路線の列車で王寺に移動する。この日は王寺で一泊である。

コインロッカーに預けた荷物の引き取りも兼ねて、駅隣接の商業施設「リーベル王寺」に立ち寄る。書店ではさすが地元ということで聖徳太子、飛鳥、平城京関連の書籍を扱うコーナーがある。その一方で、下のフロアでは北海道物産展をやっており、珍しいので自分土産として何品か購入する。奈良を訪れた土産が北海道産品というのもそれはそれで・・。

王寺駅の自由通路を通って駅の南側に出る。この日の宿は東横イン。これまで乗り換えで駅前に降り立ったことはあったが、宿泊となると初めてである。

玄関では犬の像とダルマ像が出迎える。まず犬のほうは、王寺町のキャラクター「雪丸」である。モデルとなった雪丸とは聖徳太子の愛犬で、人の言葉を解し、お経を唱えることもできたという。王寺町にある達磨寺に葬られたとある。

そしてダルマ。聖徳太子の伝説の一つに、飢えた人を助けるというのがあるが、この飢えた人というのが達磨大師の化身だったという説がある。この説から建てられたのが達磨寺だが、現在において達磨・・ダルマさんは必勝祈願、合格祈願になくてはならないものである。ちょうど受験シーズンの中ということもあり、王寺駅近辺では達磨寺、雪丸、ダルマさんで受験生を応援しているところだ。王寺駅の改札口や「リーベル王寺」の入口にも合格祈願のダルマさんが安置されていた。

チェックインして窓の外を見ると、王寺駅の構内が広がっている。ホームというより留置線側だが、引退間近の201系の姿も見える。特に指定したわけではないが、このところ、宿泊した部屋の窓から駅構内や鉄道の走行風景を見る機会が増えているように思う。ちょうど大阪に向かう特急「まほろば」も見ることができた。

さて、初めて王寺での一献である。駅の南口近辺もそれなりに居酒屋が広がっており、その中で訪ねたのが「ネオ居酒屋 なかい屋」。このところ「ネオ居酒屋」「ネオ大衆酒場」と「ネオ」を冠した店が増えているそうだ。昔ながらの大衆酒場の雰囲気、そこに新しいアレンジを加えたところが「ネオ」の意味だという。

店じたいも最近の開業のようだし、内装も明るい。カウンターに陣取ったが、土曜の夜ということもあってか、窓側、壁側を見ると若い客層が楽しく飲食している。そこに、予約の女子会グループも入って来る。この日がたまたまそうだったのかわからないが、私のようなおっさんのほうが少数派である。

「ネオ」とはいうが、メニューを見ると昔ながらの居酒屋一品料理もずらり並ぶ。定番メニューがラミネートの両面にあるうえ、本日のおすすめ1枚の都合3ページ。

こうした客を迎え入れる店員も若いが、このご時世らしく東南アジア系の人が多い。注文を取りに来た外国人店員の一人はまだ日本語じたいにも慣れていないようだが、このメニューを見て大丈夫かなと思う。それでもメニューの文字を指さして口頭で言うと通じたようだ。

これは「ネオ」とは関係ないだろうが、生け簀も設けている。刺身の盛り合わせを注文すると、そのうちの一品に生け簀からの車エビがあった。他のネタも鮮度は悪くなかったが、さすがに車エビは頭一つ抜けていた。

そしてこれも生け簀からのアワビ。小さいとはいえ、刺身か丸焼きを選ぶことができてこちらは丸焼きを選択。海のない奈良県で車エビとアワビを同時に味わえるとは。

大衆酒場メニューとして明太子だし巻き玉子。また飲み物も大衆酒場らしくチューハイ、そして宝焼酎に店名を冠した「なかい屋ハイボール」などで楽しむ。

店員に敬意を表するわけではないが、「ベトナム風春巻き」を注文。ここで気にする人が気にする「風」の一文字・・(広島にもそうした「気にする人が気にする」食べ物がありますな)。私の頭の中では、ベトナムの春巻き=生春巻きというイメージがあったが、出てきたのは揚げた一品。かといって中の具材は中国のものとは違うような気もするし・・まあ、美味かったのでいいでしょう。

締めは「三輪そうめんのペペロンチーノ」。いや、こちらのほうが問題でしょう。ただ実食すると、これは「あり」である。何なら自宅での食事でも、そうめん(三輪でも揖保でも小豆島でもどこでもいいが)を茹でて、そこにコンビニでも売っているペペロンチーノのソースをかけても成り立つ。これは「ネオ」だな。

十分満足して店を出る。この後は部屋でゆっくりとして、翌日の2月23日に残りの札所をめぐることに・・・。

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奈良14番「中宮寺」~神仏霊場巡拝の道めぐり・130(まずは法隆寺の続きから)

2025年03月06日 | 神仏霊場巡拝の道

この記事のタイトルは中宮寺となっているが、その前に法隆寺の西院伽藍、聖霊院を拝観した続きから書くことにする。

やって来たのは有料拝観エリアの一つである大宝蔵院。先ほどの西院伽藍が1300年以上の歴史を持つのとは対照的に、1998年に建てられたとあるからまだ30年と経っていない。法隆寺は多数の国宝、重要文化財を所有しており、安定した環境での保存、そして展示を目的とした建物である。

中に入るとまず出迎えるのは、大正時代の和田英作による「金堂落慶之図」の油彩画。鞍作止利が、完成したばかりの金堂の壁画に聖徳太子たちを案内した場面を描いている。もちろん当時の様子を想像して描かれたものだが、「これで我々も文明の国への第一歩を記しましたなあ」と聖徳太子がつぶやいているように見える。金堂は後に再建され、その時に壁画も描かれ、インドのアジャンターや中国の敦煌とともにアジアの古代仏教絵画として大切に保存されてきたが、昭和の戦後になって不審火で焼け焦げ、その価値は失われた(この火災が、文化財保護法が制定されるきっかけになったという)。後に東寺の著名画家により復元されて現在に至るが、この大宝蔵院には往年の写真パネル、そして焼け焦げを免れた壁画の一部も展示されている。

展示室には白鳳時代の夢違観音をはじめ、白鳳~平安時代に造られたとされる仏像の数々、飛鳥時代の玉虫厨子といった国宝、重要文化財が並ぶ。

そして中央の建物に百済観音像が祀られる。飛鳥時代の作とされるが詳細は不明のところが多く、その存在が記録で確認できるのは江戸時代、元禄の頃とあるから今から300年あまり前である。法隆寺の他の仏像とは顔かたちがエキゾチックということからか、当時の日本に文化的影響をもたらした百済の名前がつけられたようだ。

その他、さまざまな文化財を鑑賞後、境内を歩いて東大門から東院伽藍への広い参道を歩く。先ほどと同じような築地塀が続くのだが、こちら東院側は損傷が目につく。そもそも、西院から東院に行くのに門でしっかり仕切られているのも、法隆寺としては同じ寺として共通の拝観券を出しているが、「あそこはちょっと別」という扱いにも見える。

ともかく夢殿を一回り。

確かに、ネットでいろいろ調べてみると、先ほどまでのがっちりした西院伽藍と比べて、東院伽藍は聖徳太子にまつわる「陰」や「ミステリー」といった視点で取り上げられることが多いようだ。「聖徳太子の怨霊を鎮めるために建立された」というものもある。聖徳太子の怨霊とは何ぞや?というところもあるが、法隆寺にあって腫れ物扱いされているのかな。

ともかく、あらゆる角度から取り上げられる「聖徳太子」。少なくとも現在の教科書のように「厩戸のおっさん」で片づけたらあかんでしょう・・。

さて、東院伽藍に隣接して中宮寺がある。ようやく、この記事の本題に入る。

中宮寺は聖徳太子が母の間人皇后のために創建したと伝えられている。その後、尼寺として法隆寺とともに歴史を刻み、伽藍を有していたこともあったが、戦国時代の兵火により法隆寺の支院に避難した後はそのまま法隆寺の一角として、また門跡寺院として現在に至る。

それだけの歴史を持つ寺院なら昔ながらの建物があるかなと思いつつ境内に入ると、池の中にある本堂は新しい建物である。現在の建物は1968年、高松宮妃の発願で建立されたものである。さらに現在の姿は、クラウドファンディングにより2021年に改修されたものとある。

その本尊が飛鳥時代の菩薩半跏像である。聖徳太子の母である間人皇后をモデルにして造られたそうで、その表情はスフィンクス、モナ・リザと並び「世界の三つの微笑像」と称される。また、現存する日本最古の刺繍である「天寿国曼荼羅繍帳」の複製も祀られている。いずれも聖徳太子に関連する貴重な文化遺産である。中宮寺では秘仏とせず、外陣から実物を拝観することができる。

その前には聖徳太子の二歳像。手を合わせて「南無仏」と唱えたあの姿。季節によって着物を着させている。

受付に預けていた朱印帳を受け取る。本尊の菩薩半跏像は如意輪観音との位置づけである。

これで法隆寺、中宮寺の参詣を終え、再び東大門から西院伽藍の参道を経由する。先ほどは雪も舞っていたがまた青空が広がる。季節の変わり目を感じる一時であった。

その帰り道、「聖徳宗」という札を見かける。聖徳宗とは聖徳太子を宗祖として昭和の戦後に法相宗から独立した宗派で、法隆寺はその総本山である。行事案内に「聖徳太子御忌 二月二十二日」とある。2月22日・・・正に訪れたこの日であるということにここで気づいた。ただ、時間的にそうした法要の後だったのかもしれないが、法隆寺、中宮寺では特別の日という感じはしなかった。同じく聖徳太子が開いた歴史がある四天王寺(こちらは戦後に天台宗から独立した和宗の総本山)では、庶民信仰をウェルカムとした長い歴史もあり、現在の2月22日を縁日として諸堂も開放されていたようで・・。

さて帰りだが、法隆寺参道バス停から奈良交通バスでJR法隆寺駅まで揺られる。歩こうと思えば歩ける距離だったが・・。

コンコースに上がる。と、その窓に法隆寺の仏像のように掲げられているのは、バファローズ・曽谷投手の横断幕。法隆寺がある斑鳩町出身で、2024年は先発ローテーションに定着して7勝。この横断幕はそのオフに斑鳩町役場を表敬訪問した時のもののようで、直筆サインも入っている。

チームはオープン戦に入り、3月終わりにはいよいよシーズン開幕である。バファローズは投手陣の顔ぶれは多彩だが、ここに来てブルペン陣の故障、不祥事による離脱が相次ぎ、先発転向が予定されていた私の勤務先企業出身の古田島も再びブルペン陣に回ることになっている。それだけに、曽谷には先発の柱として試合をしっかり作り、勝ち星をあげること(少なくとも2024年の7勝11敗の逆になるように)が期待されている。

聖徳太子のご加護がありますように・・・。

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奈良13番「法隆寺」~神仏霊場巡拝の道めぐり・129(聖徳太子・・・)

2025年03月05日 | 神仏霊場巡拝の道

2月22日、神仏霊場巡拝の道は午後になり、この日2ヶ所目となる法隆寺に向かう。王寺からJR大和路線で1駅、王寺に向かってもよいのだが、駅からはそれなりに歩く。先ほど信貴山朝護孫子寺に行く同じ乗り場から法隆寺方面へのバスが出ており、これまで乗ったことがないバスルートで行ってみよう。

国道25号線に合流し、王寺駅から20分弱で法隆寺前に到着。ここから、松並木の参道を歩く。

法隆寺に来るのはいつ以来だろうか・・というくらい久しぶりである。子どもの時は遠足で来たり、家族で来たりはしたが、逆に大人になってからはいつ来たかな?というものである。少なくとも、このブログで取り上げている関西の札所めぐりで登場するのは初めてである。

法隆寺といえば・・歴史の教科書では必ず取り上げられるところであり(あ、でも最近の歴史の教科書では「聖徳太子」という言葉は出てこないから、法隆寺もどうなのだろうか)、今さら解説することもないだろうが、これまでの観音霊場や薬師霊場、不動尊霊場では全く登場しなかった寺院である。聖徳太子が創建したと伝わる寺院はいくつもあるが、その中の一つである四天王寺がいくつもの札所めぐりのスポットとなっているのとは対照的である。境内の雰囲気も対照的だ。

南大門をくぐると西院伽藍のそうそうたる建物が出迎える。外国人観光客の姿も目にするが、京都や奈良の中心部のようにインバウンドの連中が我が物顔に幅を利かせるというのとは一線を画しているように思う。

そこに、平山郁夫が揮毫した「日本最初 世界文化遺産」の石碑である。法隆寺が日本初の世界文化遺産として姫路城とともに登録されたのは1993年。世界最古級の木造建造物であること、また仏教文化を現代に伝えていることが評価されてのことである。当然そこには日本に仏教を定着させようとした聖徳太子の思いも受け継がれている。

まずは伽藍を拝観しよう。法隆寺の拝観料だが、西院伽藍、大宝蔵院、そして夢殿がある東院伽藍の共通で1500円。共通といっても例えば西院伽藍だけなら1000円・・というものではなく、セット券のみである。

・・・なお、私が訪ねた2月22日はこの料金だったが、翌週の3月1日から2000円と一気に値上げとなった。確かに広大な境内の維持には必要なのかもしれないが、さすがに一寺院の拝観に2000円という事態に対して、参詣に二の足を踏む人もいるのではないかと心配する・・。

拝観料が気になるとはいえ、やはり伽藍の中に入り、五重塔をはじめとした建物を見るとうなるばかりである。法隆寺は聖徳太子が創建したとされるが、その後火災により焼失。現在の伽藍はその後の再建である。それでも、往年の様式を伝えていることには変わりない。五重塔の最下層の扉からは、心柱を囲む形で釈迦の説話の場面を表現した塑像を観ることができる。

五重塔の東に建つ金堂へ。釈迦三尊像を祀る法隆寺最古の建物で、実質ここが本堂といえる。

奥の大講堂に向かう。大講堂の前から振り返ると、五重塔、中門、金堂というこちらもそうそうたる景色が広がる。大講堂には薬師三尊像が祀られている。

しばらく大講堂にいたが、外に出ると何と雪が舞っていた。この日(2月22日)は関西の天気も不安定との予報だったが、まさか雪になるとは・・。

伽藍を後にして、隣接する聖霊院へ。こちらは後の聖徳太子信仰の高まりにより鎌倉時代の建立だが、国宝に指定されている。聖徳太子を中心に、山背大兄王や高句麗の恵慈法師などが祀られている。聖徳太子関連の行事や法要はここ聖霊院で行われるのだという。

法隆寺の朱印はここ聖霊院での受付である。墨書は「以和為貴」。聖徳太子が定めた「憲法十七条」の第一条に記された文字である。和を以て貴しと為す・・・現在のような混沌とした、不安な世情を鑑みても、改めてこの言葉が持つ意味も大きいのではないかと思う。

先ほど訪ねた信貴山朝護孫子寺もそうだったが、聖徳太子も関係した歴史がある寺院は全国のあちらこちらにある。確かに後の世における聖徳太子信仰によるところも大きいのだろう、ただ一方、近年に「聖徳太子は実在しなかった」という説が幅を利かせ、現在の学校では「聖徳太子」という人物については教えないのだという。

歴史の教科書はその時代によって都合よく書き換えられるのだが、聖徳太子もその渦中の一人といえるだろう。昭和には数種類の紙幣の肖像画にも選ばれた聖徳太子だが、令和の現在では「厩戸王」という、その辺のおっさんの一人の扱いでしかないそうだ。

なぜ、そうなるかな・・・。ようわからん。

法隆寺はこの先、大宝蔵院、夢殿を含む東院伽藍があるが、次に訪ねた中宮寺と合わせてまとめることにする・・・。

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奈良17番「朝護孫子寺」~神仏霊場巡拝の道めぐり・128(寅・虎・トラ)

2025年03月04日 | 神仏霊場巡拝の道

奈良県西部をたどる神仏霊場巡拝の道めぐり。まずはJRの王寺駅に到着して、まずはどの順番で訪ねようかというところ。とりあえず、王寺駅に直結した商業施設「りーべる王寺」に100円のコインロッカーがあり、そちらに宿泊荷物を預ける。

ここはまず、西にある信貴山朝護孫子寺に向かうことにする。王寺駅の北口からバスが出ているので向かうと、長い列ができている。法隆寺方面へのバスも同じ乗り場から出るので、それを待っているのかと思うとそうではない。先に信貴山行きのバスが入ると次々と乗車する。臨時の続行便を出すとの案内もある。

信貴山ってそんなに人気のスポットだったかな?と思いつつ、続行便に着席して出発する。大和川を渡り、近鉄の信貴山下に着くとここからも大勢の客が乗って来る。バスが高度を上げて走るうち、混雑の理由がわかった。

訪ねたのは2月22日だが、ちょうどこの日と翌23日、朝護孫子寺では「信貴山寅まつり」なるものが行われており、それを目当てに訪れる人が多かったようだ。

この朝護孫子寺は「寅」にゆかりがあり、寺のほうも「寅のお寺 信貴山」としてPRしている。伝承では、聖徳太子が寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻にこの山で毘沙門天を感得し、後に毘沙門天の加護により、仏教導入に反対する物部守屋を討伐したことから、改めて毘沙門天を祀り、「信ずるべき貴ぶべき山」と名付けたのが始まりとされる。

この寅の月というのは旧暦の正月、現在のカレンダーだと2月に当たる。そのため朝護孫子寺は2月を書き入れ時・・もとい縁起のよい月として多くの参詣者を集めるスポットとなっている。これは事前に予習したことでなく、現地に来て知った次第。それだけに余計めぐり合わせの良さを感じた。

神仏習合の名残か、境内のあちこちで鳥居も見える。そして、縁起物である張り子の寅が奉納所に山積みにされている。

・・・これは言わずもがななのだろうが、寅に縁がある寺ということで、朝護孫子寺は阪神タイガースの必勝祈願のスポットである。この3月にはタイガースの応援団が朝護孫子寺にやって来て応援歌をがなり立てるという告知もある(・・・うっかりその日に参詣して、タイガースのキ○ガイ連中と鉢合わせに・・ということがなくてよかった)。

そして朝護孫子寺の「映え」スポットである「世界一福寅」へ。

聖徳太子の像もあり、本堂に行く前にいくつかの塔頭寺院がある。寺の縁起としては聖徳太子が開いたとされる朝護孫子寺だが、本格的な寺院として伽藍が整備されたのは平安前期、命蓮上人による。この命蓮上人が当時病にかかった醍醐天皇を祈祷で治癒させたことから、朝護孫子寺の名前を賜ったという。

その後、信貴山は松永久秀が城を築き、織田信長と争う中で焼失したが、江戸時代に復興、現在にいたっている。朝護孫子寺の本尊は毘沙門天だが、毘沙門天が七福神の一つということで境内全体が七福神めぐりの要素もあるようだ。さらに、現在は真言宗の寺院として弘法大師像もあれば四国八十八ヶ所のお砂踏みもある。つまりは信貴山全体でさまざまなご利益が授かるよう、幅広くウェルカムということで・・。

ようやく本堂に到着。寅の月の間は本尊毘沙門天も御開帳とある。ただし祈祷中は拝観できないそうで、訪ねた時はちょうど祈祷の真っ最中。まあ、御開帳目当てではないので、外陣にてお勤めとする・・。

改めて周囲の景色も圧巻である。

本堂の脇にある霊宝館に立ち寄る。信貴山といえば平安時代の絵巻物「信貴山縁起絵巻」という国宝にも指定されている絵巻物がある。絵巻物の原本は奈良国立博物館にて保管されており、ここ霊宝館では複製が展示されている。「信貴山縁起絵巻」で描かれるのは朝護孫子寺の中興の祖である命蓮上人に関する説話。

中でも有名なのは「山﨑長者の巻」である(画像は奈良国立博物館のホームページから引用)。信貴山で修行していた命蓮上人は法力で鉢を飛ばしてお布施を受けていたが、それを疎ましく思った山崎長者はその鉢を米倉の中に入れて鍵をかけてしまう。すると米倉が揺れ、中から鉢が出てきてその倉を乗せて空へと飛んでいく。長者たちがその後を追うと命蓮上人のところにたどり着き、許しを請うことに。命蓮上人は倉は返せないが米俵は返そうとして、今度は鉢が大量の米俵を連れて空を飛び、長者の屋敷に戻った。この絵巻では命蓮上人の法力に驚き、慌てふためく人たちの表情や仕草が生き生きと描かれている。

霊宝館には聖徳太子の生涯の絵伝もあり、毘沙門天を篤く信仰した楠木正成が使っていた兜や菊水の軍旗、また諸仏も展示されている。先ほどの縁起絵巻ともども、霊宝館じたい見どころあるスポットといえる。

それにしても、何せ全体が広い。塔頭寺院が集まる中さまざまな神仏が祀られており、昔から多くの信仰を集めてきたところなのだなと改めて感じた。結局今回立ち寄ることができなかったエリアもあり、正直、ここまで規模が大きいとは思わなかった。この先もあるので、今回は寅・虎・トラの関連、本堂、そして霊宝館を訪ねたことでよしとする。

納経所で、先ほど預けた朱印帳を受け取る。墨書には毘沙門天の文字。

復路も満員のバスで王寺駅に戻る。すでに昼を回っている。この日は駅直結の「りーべる王寺」の地下にて豚カツの昼食とする。私の場合、特に旅先では昼飲みはあっても昼食を飛ばすことが多いのだが、その中で珍しく豚カツ店での食事である。いつ以来だろうか・・というくらいのものだ。信貴山にお参りした後ということで生ビールもいただき、セットにカキフライも追加した。調子に乗っててんこ盛りにするのも体に良くないのだが・・。

そして、すっかり午後になって札所めぐりの続きである。先ほどと同じバス乗り場から、次は日本最初の世界遺産である法隆寺を目指す・・・。

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神仏霊場巡拝の道めぐり~今回で奈良県をコンプリート

2025年03月01日 | 神仏霊場巡拝の道

今回の神仏霊場巡拝の道めぐりの目的地は奈良19番・當麻寺。今回、実家沿線の近鉄南大阪線に乗ることになる。最寄りの駅名の字は「当麻寺」だが、寺としての名称は「當麻寺」である。そして當麻寺に行くなら、二上山を挟んで西、太子町にある大阪16番・叡福寺も合わせて訪ねることにしよう。

ところで、特別霊場の伊勢神宮から始まり、滋賀の比叡山延暦寺まで154の札所がある中、残りも30ヶ所を切った。ある程度エリアごとに固まっており、そろそろ追い込みもかけたいところだ。今回は當麻寺が目的地だが、いっそのこと1泊コースにして、他に奈良県内に残る札所を回りきろうかと思う。他に残っているのが奈良13番・法隆寺、14番・中宮寺、17番・朝護孫子寺、18番・廣瀬大社と、西部に集まっている。

地図を見ると、この辺りを一度に回るならJR王寺をベースにするのがよさそうだ。ちょうど駅前に東横インがあり、初めての宿泊地を増やすという意味でも面白そうである。

ということで2月後半の3連休を活用して出かけることに。まずは広島6時20分発の「ひかり500号」に乗る。「バリ得こだま」プランで新大阪に向かう始発列車である。

さすがに広島発車時点では指定席もガラガラなのだが、この水色のシートが並ぶ光景、先日、YouTubeでプレイ動画を観たホラーゲーム「新幹線0号」を連想する。新幹線車両の中で「異変」を探しながら運転台を目指すゲームなのだが、単なる間違い探しではなく数々の怪奇現象も発生するというもの。

・・もちろん、現実の新幹線ではそのようなことは起こらず、3連休の初日ということもあって各駅に停まるごとに乗降があり、新大阪に着く頃には着席も多く、ホームにも乗客があふれていた。

在来線ホームに向かう。まずは今回の拠点となる王寺に向かう。新大阪からだとJRおおさか東線で久宝寺に出るのが近道である。JRも大阪・新大阪~奈良間でおおさか東線経由の臨時特急「まほろば」を運行しているが、この3月からは定期運行、そして車両もリニューアルされるという。ああ、それならもう少し時季を遅らせてもよかったかな・・。

王寺に到着。久宝寺から快速に乗れば次の停車駅だが、先にやって来た普通列車の車両を見て、こちらで行くことにした。201系、かつて首都圏、京阪神で「国電型」として活躍した車両である。現在はここ大和路線・おおさか東線にわずかに残るだけだが、それらの車両も2024年度中・・・つまりはこの2025年3月に完全に引退するとのこと。マークしていたわけでなくまったくの偶然だったが、実質最後の乗車となるだろう・・。

大和川に沿う中で奈良県に入り、王寺に到着。さてこの後、どのような順番でめぐることにしようか・・・。

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