まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

本年もありがとうございました

2016年12月29日 | ブログ
当ブログをご覧いただき、ありがとうございます。

2016年も残りわずかとなりました。今年は特に国内外の政治であれやこれやありましたし、情報番組では特にゲス不倫の話題が目立ったかと。またスポーツではリオ五輪もあったが話題としてはカープ優勝が大きかったところ。

その中での当ブログですが、永平寺での初詣に始まり、今年は新西国三十三所めぐり、そして加えて四国八十八所めぐりに手をつけるというのが主な話題となりました。

主なテーマの一つの野球は、バファローズが史上初「一軍、二軍、オープン戦、交流戦全て最下位」という体たらくだったので盛り上がれなかったが、今となってはカープ鈴木の「神ってる」きっかけとなったのがバファローズ戦だったのも思い出です。広島在住の知人たちへの年賀状にもそのことをメッセージにしました。

そんな野球も、今年初めて女子プロ野球を観たり、久しぶりの四国でアイランドリーグを観たりというのが新鮮でした。後は、社会人野球日本選手権での私の勤務先企業の活躍ぶり。

ブログとしては一時休止もしましたが、少しでも応援していただける方がいるというのを改めて感謝した面もありました。

これからの新たな年がどのような形になるのか、不安もありますがやはり明るい方向に進んでほしいものです。

皆さまにとって希望多き一年になりますように。

また来年も、よろしくお願い申し上げます・・・。
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楽器博物館と遠州男唄

2016年12月27日 | 旅行記D・東海北陸
浜松城見物のあと、市街地を少し歩く。街中の一角には「片山さつき事務所」というのもある。そういえばこの議員も最近は陰が薄くなった感じで、最近だと舛添要一前東京都知事の金銭スキャンダルに絡んで、元妻としてコメントを求められていたのを見たくらいだろうか。

向かったのは、アクトタワーの近くにある浜松市楽器博物館。前の記事で「今の浜松らしいスポット」と書いたのだが、浜松の工業は自動車と楽器というのが二枚看板である。そのうち楽器のほうが駅に近いところに博物館があるというので行ってみた。浜松ゆかりの楽器メーカーといえばヤマハや河合楽器が連想されるが、メーカーの博物館ではなく市の運営というのが目を引く。

展示フロアは1階と地下1階に分かれており、世界各国から集められた資料は1300点に上るという。まずはアジアの楽器がならんでいる第1展示室に行くが、最初に広く展示されているのがインドネシア、バリ島に伝わるガムランという銅鑼や打楽器の集まり。それに韓国の宮廷楽器も並ぶ。まずは派手な装飾である。

フロアを進んでいくとモンゴル、チベット、インド、中東などのさまざまな弦楽器、打楽器が並ぶ。その名前を挙げるときりがないくらいである。展示はほぼ全て「見るもの」として手に触れることはできないが、各コーナーではスピーカーや映像でその音や演奏風景を楽しむことができる。曲目はわからないにしても、海外ロケの旅番組やBGMなどで聴いた覚えのある音色が多い。「○○風」とでもいうのかな。

こうした音を聴くことで、浜松にいながら世界のいろいろな国を回っているかのようなイメージに浸れるのが面白い。民族全般に関する展示ということであれば大阪の万博公園にある民族学博物館が充実しているのだが、「音楽」「楽器」という点で見ればこの楽器博物館のほうが見ごたえがある。

地下1階はヨーロッパ、南北アメリカ、アフリカ、オセアニアというところ。先ほどアジアのコーナーでも感じたが、こうしたところは普段なかなかお目にかかることのないアフリカや南アメリア、オセアニアというところのものが面白い。引き続き世界旅行をしているかのようである。一方でヨーロッパやアメリカとなると、それも伝統文化ということで否定するものではないが、私たちが普段目にしている楽器が多い。逆に新鮮味がないというのかな。

地下1階でもフロアを仕切って展示されているのが打弦楽器のコーナー。打弦楽器と書くと難しく感じるが、鍵盤を叩いて弦をはじくということで、つまりはピアノ、オルガンのコーナーである。一口にピアノといってもさまざまな形があり、弦のはじき方で音も違うということで分かれている。

ちょうどスタッフによる館内の案内が行われていて、案内役の人が年代物のピアノを実際に弾いてショパンの「幻想即興曲」を披露していた。その解説を後のほうだけ耳かじりで聞いたのだが、ショパンはパリで客死し、遺体は地元に葬られたのだが、心臓だけは遺言で祖国のポーランドの教会の柱の下に埋められたとか。やはり最後は自分の祖国に戻りたかったのかな。

そこまで世界の音楽を楽しみ、再び1階に戻ると今度はやけに見慣れた楽器が並ぶ。ちゃんと日本のコーナーというのがあり、雅楽で使う楽器を初めとして、三味線や太鼓、法螺貝、果ては巡礼や遍路が鳴らす鈴などというのも展示されている。いきなりこうしたものにぶつかるとホッとするというのか、逆に詳しく見てしまう。

その奥には近世の洋楽器、最近の電子楽器というのもある。エレクトーンやエレキギターというのもそうだし、最後は大型のシンセサイザーもある。喜多郎の「シルクロード」、子どもの時にあったなあ。

その奥では浜松のピアノ産業ということで、ヤマハと河合楽器の両社の歩みが取り上げられていた。ヤマハというのはどういう由来なのかと思っていたのだが、何のことはなく創業者が山葉寅楠という人物だからである。その後楽器事業から発動機部門まで手を広げたところであり、スポーツではサッカーやラグビーのジュビロもあり、社会人野球ではこの秋の日本選手権で見事優勝を飾ったところである。まさに地元を代表する企業といってもいいだろう。ただ一方では音楽ファンにはなじみの深い「つま恋」がつい先日営業を取り止めたのも現実である。

もう一つのピアノメーカーである河合楽器も、同じく浜松で河合小市という人が創業。展示によれば、河合さんというのは山葉さんのお弟子さんだったそうだ。

え?有名なピアノ屋さんといえばもう一つあるのではないかと? タケモトピアノ・・・って、それは「ピアノ売ってちょうだい~」のほうですがな・・・。

それはともかく、写真に収めたのは展示の一部である。こういうのが好きな方なら半日、いやまる1日でも楽しめるのではないかと思う。

なかなか見どころのある展示スポットを見た後で駅前に戻る。帰りの快速列車まで少し時間がある。最後は遠州の料理で締めたいところだが、本格的に店が開き始める頃には列車の人となっている。スマホで調べつつ駅の東口(先ほどとは反対側)に行くと、「遠州男唄 濱松たんと」という看板を見つけた。「遠州人が自慢したくなる活気溢れる元気な酒場」というのがキャッチコピーとある。一応チェーン店ではあるが、5軒のうち4軒が浜松市内で、もう1軒が名古屋にあるだけ。全国チェーンとはまた違った面白さがありそうだ。

メニューの数はそうたくさんあるわけではないが、その分地元の料理にこだわっているとのことである。ということでおすすめの餃子、そして濱松ホルモンをいただく。それぞれ大小選べるのがよく、1人ならそれぞれ小サイズでも十分だ。

魚介類ということで、舞阪で獲れた生のシラス。これら浜松の食に合わせるのは「しぞーか割り」と呼ばれる緑茶ハイである(ただしこの店では「しぞーか割り」とは呼んでいなかった)。

店内は最近の曲がBGMで流れるが、時折威勢のいい猟師唄というか、北島三郎の「まつり」のような演歌が聞こえてくる。「遠州男唄」という、何とこの「濱松たんと」のオリジナルソングという。店の解説によれば静岡県の中でも遠州というのは「祭り好き」「やらまいか精神(やったろうやないか)」「からっ風」という個性が強いそうで、大阪でいえば泉州に近いのかな。店のコンセプトもその元気さを現すということのようだ。

メニューには一応鰻もあるのだがそれはパスして、最後は遠州焼というのをいただく。お好み焼の一種と言ってよいが、特徴は具材にたくあんのみじん切りが入ること、薄い生地を焼き上げた後に2回、3回と折り重ねて仕上げることである。駄菓子屋メニューがルーツだそうだが、これも遠州の人たちのこだわりと言っていいだろう。

先ほどの楽器博物館と合わせてなかなか個性的なスポットに出会えた浜松行き。そろそろ帰りの時間である。今後は逆に米原行きの新快速に乗り、米原から大阪まで新快速に乗り継ぐ。車内ではある程度まとまった時間ができるので読書するもよし、また居眠りするもよし・・・。

ただうーん、この日の行程が疲れたのかな。週が明けて少し体調を崩してしまった。幸い回復することはできたものの、年末の時季にそれはいかんなと、改めて気持ちを改めるのであった・・・。
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出世の街 浜松城

2016年12月25日 | 旅行記D・東海北陸
初めての浜松に降り立つ。浜松ときいて私が連想するいくつかのキーワードは、「うなぎ」、「ヤマハ」、「徳川家康」、「三方ヶ原の戦い」、「スズキ」、「餃子」・・・といったところである。まあ、一つの街からこれだけキーワードが出てくれば十分見どころはあると言っていいだろう。

そんな中で改札を出ると、正面から真っ先に目に飛び込んできたのは「井伊直虎」と書かれた赤い横断幕。2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の舞台ということで早くも観光PRである。駅や、これから歩く浜松の街の至るところにこの看板が出ていた。駅の土産物店にも直虎の名前をつけた菓子類やグッズがいろいろ並ぶ。

井伊氏といえば、幕末の井伊直弼に代表されるように近江の彦根のイメージが強いのだが、元々は浜松から天竜川を遡った井伊谷というところの豪族だったそうだ。それが時代の流れで駿河の今川氏の支配下に入り、桶狭間の戦いでは今川方として織田氏と戦った当主の直盛は討ち死にした。その後も今川と織田・徳川の間で一族の運命が左右されるのだが、その中で家を守り、後に養子直政を徳川家康の譜代の家臣に育てたのが、直盛の娘・直虎である。ただそうも実像がよく知られているわけでなく、果てはこの期に及んで「おんな城主といいつつ、実は男性だった」という説も出るほどである。ドラマの設定として大丈夫なのかなと思うが、よく知られていない人物だからこそ、自由にドラマとして描けるという面白さはあるのだろうか。まあ、ドラマなのだから、歴史的事実をガチで踏まえさせる・・・というのもそこまで硬く考えなくてもいいのではないかと思う。

さて、まずどこに行こうかというところだが、ここは街の中心でもある浜松城に行くことにする。観光案内では駅からバスで行くようだが、地図を見ると1.5キロほどである。ならば歩いて行く。駅の周囲は高さ185mの展望台を持つアクトタワーや、大型の商業施設、商店街が並ぶが、少し歩くと郊外の雰囲気である。

市役所があり、その向こうに天守閣が見える。あれが浜松城である。もう少し大きな建物を勝手に想像していたのだが、天守閣も江戸時代には存在しなかったのを昭和に再建したものだし、城としては小ぶりな印象である。城跡の一部も市役所や公園、美術館などに利用されているから余計に小さく見えるのかもしれない。

徳川家康の像がある。家康が浜松に本拠地を置いたのは1570年~1586年頃と言われている。武田信玄の侵攻に備えるためのものであったが、1573年に起こったのが三方ヶ原の戦いである。信玄は浜松城を無視するように西に進んだが、家康はその挑発に乗って城を出て戦う。しかし戦は惨敗で何とか城に戻るのがやっとだった。その時の苦渋に満ちた表情を描かせた絵が残っており、家康は後までこれを自らの戒めとしたそうである。

天守閣は資料館となっており、三方ヶ原の戦いがパネルで紹介されている。そしてその中央には「いざ出陣!」と気勢を上げる武将の像がある。これが三方ヶ原の出陣前の家康像を現したものだという。テレビでも見る歴史学者の磯田道史氏も監修に携わったそうで、三方ヶ原の戦いの家康像が戦に敗れて困った表情のものばかり伝わるのがいかがなものかということで制作されたという。やはり地元の人たちの「三方ヶ原への見方」というのは特別なものがあるのだろう。

武田氏滅亡の後、家康は駿府、そして江戸へと拠点を移し、その中で天下を取って幕府を開く。家康の後には一時は豊臣氏の家臣が入城したこともあるが、江戸期は松平氏をはじめ譜代大名が入る。家康も浜松から天下取りまで行ったし、その後の大名も幕府の要職につく者が多かった(「天保の改革」として歴史の時間で習った水野忠邦もその一人)。そのために地元の人は浜松城を「出世の城」とし、街を「出世街道」としてPRしている。

最上階から街並みを眺める。三方ヶ原は浜松城の北側、この段落の2枚目の写真の中央奥あたりに位置する。また、この日は見られなかったが気候条件が良ければ富士山を見ることもできるようだ。眺望を楽しむなら駅前のアクトタワーがいいのだろうが・・・。

天守閣に隣接して日本庭園も整備されている。天守閣以外は無料の公園ということで地元の人たちの憩いの場になっているようだ。来年は大河ドラマの舞台ということになるので、多くの観光客も訪れることだろう。

公園から道路を挟んだところに東照宮がある。もともとこの地には引馬(曳馬、曳間)城というのがあったが、家康がこれを拡張する形で浜松城を築城した。その引馬城があったとされるところに現在は東照宮が建っている。

その社殿の横に2体の像がある。一つは先ほど天守閣で見た家康出陣の像。そしてもう一つ、少年姿の像がある。これは当時の日吉丸、木下藤吉郎。後の豊臣秀吉である。少年の時に放浪していた藤吉郎だが、一時期今川氏の家来だった松下嘉兵衛という者の屋敷に身を寄せていたことがあるという。これが藤吉郎が武士になった最初であり、出世した後に、主家滅亡で落ちぶれていた松下を家臣として召し抱えたという。出世の街、出世の城は秀吉にも関係していたとは意外である。

さすがに三方ヶ原の戦場跡や、ましてや井伊氏由来の地まで行くのは遠いので城はこのくらいにして、再び街並みを歩いて駅前に戻る。もう一ヶ所、今度は今の浜松らしいスポットがあるというので行ってみることにする・・・。
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青春18で東へ

2016年12月24日 | 旅行記D・東海北陸
今年も残りあと1週間。今日はクリスマスイヴということで街中もそうした雰囲気。コンビニの前ではクリスマスケーキを売る店員さん。

実質今年最後の週末ということもあり、部屋の大掃除も行うのだが、まずそのうち1日は出かけることにする。このところ出かけるというと札所めぐりであるが、今回は青春18きっぷのバラを購入している。とりあえずどの方向に行くかということで選んだのは、東。温暖な海を見たいし、行ったことのない知多半島の南に行こうかと思う。

知多半島といえばJRなら武豊線が走っている。昨年電化されたこともあり改めて乗ってもいいかな。またその先は名鉄に乗り継いで河和、内海というところを回り、先端の師崎あたりで魚でもいただくということで。

ということでまずは名古屋を目指すのだが、これも東海道線ではなく、行きは関西線経由で行くことにする。となると早い時間というわけで、今回は自宅から50分歩いて柏原まで行き、2番電車となる5時54分発の加茂行きに乗る。本当は5時36分発の始発に乗りたいところだったが、家を出るのが遅くなった。まあ、2番電車でも加茂から先の列車は同じである(乗り換え時間がわずかしかなく、座れるかどうか心配なのだが)。

天気はいいが風は強く、駅に着いてドアが開くたびに冷たい風が入ってくる。6時21分に奈良到着。6慈39分発まで20分近く停車する。うーん、これだけ停まるくらいなら、もう少し早く出発して、その分加茂での接続時間に余裕を持たせてくれればと思う。木津から加茂までは単線ということで向こうからの列車との行き違いのこともあるのだろうか。

6時54分、加茂に到着。次の亀山行きは6時55分発。ホームの向かい側に停車しており乗り込む。先の列車で来たらしい客も結構乗っていたが、乗り継いだ客も無事に座ることができた。少しずつ空が明るくなる中を走る。気動車に乗ると「出かけてきた」という気持ちになる。途中では関西線の複線電化、大阪との直通を求める看板が見えるが、運賃計算では「大阪近郊区間」に含まれるこの区間もそこまでの利用は見込まれないだろう。

伊賀上野で半分くらいの客が下車して空席が目立つようになった。加太越えの後、亀山に到着。ここからは再び電化区間となる。JR東海の主力となっている転換クロスシートの車両である。こちらのほうはJR東海が利用客増に向けていろいろとテコ入れをしているようだ。4両編成も駅ごとに乗客が増え、桑名からは満員となった。

木曽三川を渡り愛知県に入り、9時59分、名古屋に到着。知多半島、武豊を目指すなら10時28分発の区間快速がある。大府まで東海道線を走った後に武豊線に入るという列車である。この運転系統は武豊線が非電化だった頃もあったそうだが、同じ電車となると車両の運用も効率的にできる。ということで、次の列車まで時間があるのでホームのスタンドで味噌味のきしめんをいただく。以前はきしめんは醤油ベースのだしでしか出ておらず、名古屋の味噌を味わおうとすれば味噌煮込みうどんでなければだめだったが、最近は醤油、味噌両方が選べるのでスタンドの立ち食いといえどもなかなかのものである。

きしめんを待つ間、いやその前に名古屋に着く前に考えていたのだが、当初は知多半島に行くつもりで出て来たのに、ここに来て急に考えが変わった。理由は青春18で来ていることである。武豊まで行った後は名鉄やバスで移動するわけで、青春18の一日JR乗り放題のメリットが薄れる。むしろ、まだ時間も早いことだし、行けるところまで行ったほうがいいのかなという気持ちになってきた。知多半島はこの時季でなくとも、名古屋まで近鉄で来るか、あるいは伊勢湾フェリー~名鉄海上観光船の乗り継ぎで伊良湖岬周りで上陸する方法もある。

そこで候補をどうするか。時刻表の地図を見て候補になったのが、まず中央線で恵那まで行き、明知鉄道に乗るというもの。実はこの第三セクター路線には乗ったことがなく、終点の明智には大正村があったり、途中の岩村には日本三山城の一つ、岩村城があるということで、それを訪ねるのもよいかと。途中下車を絡めても18時過ぎには名古屋まで戻ることができる。そしてもう一つは東海道線で浜松。今年の夏休みで静岡県を回ったのだが、遠州の中心地である浜松は乗り継ぎでホームに出ただけであった。そもそも、浜松じたいいつもそうで、実は改札口を出たことすらない。私のこれまでの旅行記で、あたかも全国各地を回っているかのように思われる方もいらっしゃるかもしれないが、実のところは沿線の主要都市にも関わらず通過したり乗り換えたりしただけで、街の様子をほとんど知らないというところは結構ある。

きしめんをいただいた後で決めた行き先は、浜松。夏の静岡旅行で回れなかったところを今回埋めるということで決めた。乗ったのは名古屋10時32分発の特別快速豊橋行き。車内では関西弁の会話がよく聞こえる。この特別快速の始発は米原で、関西方面からの新快速からの乗り継ぎであろう。やはり青春18の時季となれば東海道線を多くの「18きっぱー」が行き交う。関西からの新快速、そして米原から豊橋までの新快速、特別快速は転換クロスシート車両で快適に移動できるが、豊橋から熱海までの静岡県区間はロングシート車両、しかも短い3両編成という試練の区間である。この特別快速も豊橋から浜松行きに乗り継ぎとなるが、混雑することだろう。

豊橋に到着。次の11時42分発の浜松行きはホームが変わるので、とりあえずそちらに向かう。案内板で乗車位置を確認するが、意外にも「○1~8」という表示だった。先ほどの特別快速と同じく8両である。後続の列車や、浜松方面から到着した列車は3両編成だったから、これはたまたまだろうか。いくら青春18の利用客が多い時季で、ちょうど関西から乗り継いでさらに東を目指す客が見込まれるとしても、わざわざそのために増車することも考えにくい。それはともかく、年末年始ほどの混雑ではないためか席取り合戦が行われるわけでなく、空席も目立つ中で出発。二川、新居町といった東海道五十三次の史跡が残るところを通り過ぎる。

12時15分、高架の浜松に到着。最初の目的地が知多半島だから結構遠くに来たものである。戻りの時間を時刻表で確認すると、17時03分発の新快速が米原直通ということでベストかなと思う。もう少し遅い時間の列車でも乗り継ぎで戻ることができるが、まあ日帰り旅行ならこのくらいで充分だろう。滞在時間が5時間近くということなら、少しは初めての浜松を楽しむことができるはず。

多くの人で賑わうコンコースに続く改札口を出る。するとそこで目に飛び込んできたのは・・・・。
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糸魚川で大火災

2016年12月22日 | ブログ
ネットのニュースを開けると、22日午前から、新潟の糸魚川で140棟に延焼する大規模な火災ということで、画像や動画がアップされていた。

場所は糸魚川駅近くの商店街で、幸いにも死者は確認されていないようだが、その被害の大きさがうかがえる。

糸魚川には旅行で駅前のホテルに泊まったことがある。昔ながらの雁木が並ぶ古い街並みがあったのを覚えているが、火災は正にそのエリアのようだ。古い建物が密集していたから被害が大きくなったのかなと思う。被災された皆様にお見舞い申し上げます。

日本海側の街では、20世紀以降でも福井や新潟、酒田といったところで大規模な火災が起きている。日本海側ならではの気候条件も関係するのかなと思う。今回の糸魚川の火災も、原因はこれから明らかになるだろうが、悪条件が重なったことも挙げられるだろう。

この火災で北陸新幹線が運転停止になることはなかったそうだが、一方で「火災で新幹線運転見合せ」の記事があった。一瞬混同したが、こちらは北陸でなく東海通新幹線。平塚で火災があったようだ。今日あたりから全国的に強風に見舞われている。年の瀬、それに加えての連休は特に火の用心である・・・。

(北陸新幹線つながりで、敦賀以南が小浜ルートに決まったことにも触れようかと思ったが、それはまた別の機会に)
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年末年始の四国八十八所めぐり

2016年12月20日 | 四国八十八ヶ所
この年末は、第6回となる四国八十八所めぐりに出かける予定である。

一応目的地としては、これまで積み残しになっている13番大日寺、14番常落寺、15番国分寺の徳島市内3つと、22番平等寺、23番薬王寺。これで徳島、阿波の国は完結となる。

さらにはもう少し進めて、室戸にある3ヶ所(24番最御崎寺、25番津照寺、26番金剛頂寺)まで行こうと考えている。高知、土佐の国に足を踏み入れるわけだ。

このうち、日和佐の薬王寺と室戸岬の最御崎寺には、以前も観光やドライブで訪ねたことがある。ただそれは観光の一環であり、よもや自分が白衣を着て回ることになるとはその時は思わなかった。

薬王寺~最御崎寺の間は80キロほどあり、歩くと2~3日かかるところである。ただ私は四国めぐりのベースはあくまで公共交通機関としている。これまで山道の「遍路ころがし」は歩いたが、今回のこの区間を歩き通そうという気はない。路線バスは少ないながらもきちんと走っている。

これらを踏まえて時刻表で計画を立てた。私なりの条件を入れたので相当ややこしいプランとなったが、後は無事に列車やバスが動いてくれればと願うばかりである。

そしてその先は高知県内である。徳島と違い、現地に行くだけで時間がかかるし、交通の便もよろしくない。ましてや、アイランドリーグ観戦という縛りをかけている。ちょっとプランを組んでみたのだが、かなり難航しそうである。ただそのぶん攻略する面白さはありそうだ。

これから深みにはまる四国めぐり、来年はどんな形で進むのだろうか・・・。
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日本ハムが新球場建設へ

2016年12月19日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
このところバファローズ関連のニュースといえば、糸井のFA移籍にともなう補償で新加入となった金田のこと。

前の記事で「誰やねん?」と書いたが、それは私の不勉強だった。これについて不快に思われた方に対してお詫びします。

首脳陣の期待も大きいようだし、環境を変えてやれば伸びる要素もあるということだろう。中継ぎも一応頭数だけはいるので、その競争に加われば相乗効果があるかと思う。まずはがんばってほしい。

さて、今季日本一のファイターズだが、2023年を目安に、札幌市内もしくは北広島に自前の新球場を建設するという。札幌ドームを所有する札幌市に支払う使用料が高額で球団経営に影響があるとか、ドームの使用に関する制約に嫌気がさしているとかが理由という。

旧近鉄ファンとしては、近鉄バファローズがオリックス・ブルーウェーブと合併するに至った経緯を思い出す。これも球場使用料が原因の一つである。藤井寺球場ならそのような問題はなかったわけで(まあ、仮に藤井寺球場のままだったら、老朽化にともなう建て替えも必要で、いずれドームになるのは同じことだっただろうが)、これも何だかなあと思う。その大阪ドームも、あまりに多目的使用を意識した設計で、肝心の野球はグラウンドが死角だらけで見にくいし、食べ物も種類が少ない上に高く、近鉄使用時から「大阪ドームというよりは、単に大正にあるから『大正ドーム』で十分やな」と知人と話していたものである。このブログで京セラドーム大阪を「大正ドーム」と書いているのはその流れである。ドームは今はオリックスが運営するようになったが、グラウンドやスタンドの構造が変えられない限りは、ソフト面のサービスでがんばっても、私としては「大正」のままかな。

・・・とまあ、それは余談として。

札幌という雪の多い土地で、どこまで「ボールパーク」に近いものができるか未知数なところがあるが、これまでに建てられた球場の構造や独自のアイデアを出して、立派なものができるのだろう(大谷のポスティングで得るお金も建設資金の足しになるのかな)。

今の札幌ドームには昔一回だけ観戦に行ったことがあるが、その後全然行っていないし、それどころか北海道じたい長く行っていない。北海道新幹線も乗っておらず、「JR全線乗りつぶし」の資格も返上したままである。北海道のJR線も、先日の留萌~増毛の廃止に続き、存続が危ぶまれている路線が多い。新球場が北海道の経済、観光にどのくらい効果を及ぼすかはわからないが、何らかの活性剤になればと今から期待する・・・。
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第20番「善峯寺」~西国三十三所めぐり2巡目・10(西山から見る京都)

2016年12月16日 | 西国三十三所
まずは西国三十三所とは関係のない話題で恐縮だが・・・。

金田?誰やねんそいつ。

・・・タイガースにFA移籍した糸井選手の人的補償選手としてこの投手が指名されたという報道に接して、私が最初に思ったことである。以前の記事に書いたように、岩田投手か今成選手が私の予想(というか希望)だったのだが、両選手はプロテクトされていたのかな。

関西のマスコミは例によって大々的な報道で、「金本監督期待の若手」「タイガースにとっては痛い」などと、さもタイガースが被害者であるかのような伝え方である。でも期待の若手といってもこの2年は一軍登板もないし、「痛み」といっても擦り傷程度のものだろう。バファローズが中軸に去られて重傷なのに。

経歴を見る限りでは、今季引退した白仁田投手の穴埋め程度にはなるかなと思うが、バファローズで化けるとまては考えにくい。バファローズファンの中で金田投手と予想した人はどのくらいいるだろうか。何かのご縁で来るからにはがんばってほしいが、さてどうなるか。

・・・前置きが長くなったが、本題の続き。

楊谷寺から西山古道を歩いてやって来た善峯寺。平安の中期に源算上人によって開かれたとされる。前に訪ねた時にも思ったのだが、この年代は西国三十三所の開創1300年というよりも後のことだし、後に西国札所を再興したとされる花山法皇よりも後の話である。西国三十三所というもの、長い歴史の中で札所が廃れたり新たに加わったりというのもあったのだろう。少なくとも現在はこの形で落ち着いているから別にいいのだろう。

その善峯寺は応仁の乱で大半が焼失した。これを復興させたのが徳川5代将軍綱吉の母・桂昌院。今でも、境内の多くの建物の建造時期がその年代と表示されている。

西山らしく竹筒でできた手水で手を清め、本堂へ。「内陣にお上がりください」との貼り紙があり、せっかくなので靴を脱いで上がる。中央には本尊の十一面千手観音が祀られている。善峯寺は、正月三ヶ日と毎月第2日曜日に本尊の厨子の扉を開けている。確か前回訪れたのがたまたま第2日曜日で開扉に当たったのを覚えていた。11日に行こうと決めたのはこのこともあった。たださすがに足が痛むので、内陣の畳ではなく椅子にかけさせてもらってのお勤めである。

この寺は境内全体も見所である。まずは樹齢600年以上、長さ37メートルという遊龍の松。上ではなく横に伸びているのが特徴で、多宝塔のある一角に沿って枝が伸びる。これでも以前は50メートル以上あったそうで、平成になってから松食い虫の被害で枝を切断したそうだ。

少し上がると釈迦堂。こちらには手を合わせた釈迦像が祀られている。善峯寺開創の源算上人の作とか。前回は外から拝んだような気がするが、貼り紙を見ると、内陣の釈迦像の横まで行って拝むようにとある。賽銭箱も釈迦から見て左横に置かれていた。釈迦が手を合わせる姿といい、これは何かいわれがあるのだろうか。ここから広がる京都の眺望がいい。ちょうど雲も取れて澄んだ空気の景色である。

そしてさらに上に行くと奥の院の薬師堂がある。ここは中に入れないので外から手を合わせる。

先ほどの釈迦堂からの眺めもよいが、さらに上の奥の院からの眺望にはうなる。京都市街や東山、さらには比叡の山々も見渡せる。南の方は高槻あたりか。善峯寺は元日は早朝から門を開けており、京都では知る人ぞ知る初日の出のスポットである。もっとも、その時間はバスは走っておらず、クルマで行くか、夜中に駅から2時間かけて歩くしかないのだが・・・(まあ、初日の出のスポットはそんなところが多いが)。ちょうど、ハイキングで来ていた中高年のグループがいて、口々に「いいお寺ですね」「何時間でもゆっくりできます」「◯◯さんでなければ私たち知りませんでした」などと言っている。

薬師堂で折り返して本堂に戻る。駐車場側には宝物館があるのだが、こちらは春と秋のみの開館ということで閉まっていた。前に来たときには桂昌院や綱吉に関する展示物がいろいろあった。いろいろ所有しているので、もし西国めぐりで善峯寺を訪ねるなら、その時季に来るのがよいかなと思う。春の桜、秋の紅葉も楽しめる。

一通り回り、トレッキングポールをついて山門からの急な坂を下りてバス停に到着。ここから阪急東向日、JR向日町を結ぶ阪急バスに乗る。日中、1時間に一本出ている。少し時間があったので、バス停横のベンチでおにぎりの遅めの昼食とする。本当は善峯寺からの眺めを楽しみながら・・と思っていたが、境内は飲食禁止だった。

バスは参詣客がそこそこ乗って出発。途中までは、狭い道での周囲確認と善峯寺バス停での折り返し方向転換の誘導のためにもう一人乗務員がいる。珍しい光景である。まずは急な下り坂。この坂の途中に、某有名俳優の家があるとか何とか言われているが、この日バスに乗った中ではわからなかった。そういうのは徒歩なら見つけられるものかと思う。

バスは阪急の東向日でほとんど下車するが、行きが阪急だったこともあり、終点のJRの向日町まで乗る。まだ14時すぎで、ここから他の札所に行く時間はまだあるが、この日はこれで終了として大阪に戻る。

さて、年内は年末に四国に行く計画をしているが、他の西国、新西国についてはこれで終わりというところ。今のペースだと新西国も来年には完了かなと思う。またさまざまな組み合わせをしつつ回ってみたいものである・・・。
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第20番「善峯寺」~西国三十三ヶ所めぐり2巡目・10(トレッキングポールの効果は・・?)

2016年12月14日 | 西国三十三所
12月14日~15日といえば、「時は元禄十五年~」と語られる赤穂浪士の討ち入り、忠臣蔵である。それにちなんで、先日は古舘伊知郎が当時の吉良亭からの実況風に討ち入りをテーマとした番組があったり(これはなかなか面白かった)、14日は赤穂で義士祭が行われたり。私が回っている新西国三十三所の札所の一つに赤穂の花岳寺があるのだが、これまで次の札所を決めるくじ引きでは何度も出たにも関わらず、サイコロの目に当たらない。今回記事にしている楊谷寺~善峯寺のお参りが、花岳寺だったらネタとしてはぴったりだったと思うが・・・。

まあ、「元禄15年12月14日~15日」というのは旧暦のことで、これを現在の太陽暦に置き換えると「1703年1月30日」なのだそうだ。ならば1月末に赤穂に行くほうが理にかなっている・・・というものでもないようだ。1月末に行っても赤穂で特別なことをしているわけでもないし、歴史ファン、忠臣蔵ファンの方からすれば、旧暦だろうが新暦だろうが「12月14日」というのが重要なのだろう。実際、それに敬意を表してイベントをやっている、大阪市内の立ち飲みチェーンの「赤垣屋」というのもあるくらいだ(今年は別に行ってません)。

・・・例によって話がそれたところから始まる記事だが、11日に楊谷寺を訪ねて、次は善峯寺まで西山古道を歩くことにする。楊谷寺の山門から少し戻った第二駐車場にフェンスがある。「私有地立入禁止」の看板はあるが、その横に小さくハイカー向けのチェーンがある。ここを通ってもいいが、チェーンは確実にしてくださいということである。これは野生動物を防ぐためか。熊への注意を呼びかける看板もある。以前、箕面の勝尾寺の旧参道を歩いた時に、その入り口に同じようなフェンスがあったのを思い出す。

フェンスをくぐってチェーンを巻き、少し行ったところにも同じようなフェンスがあり、同じ動作をする。ここからが最近整備しなおした西山古道に合流する。善峯寺までの道のり、道標もあるし何とかなるだろう。

まずは下り道。横を沢が流れており、歩道との区別がつきにくい。その中をまずは歩く。

今回、先の記事にも書いたが新たにトレッキングポールをリュックにくくりつけてきた。それを、西山古道を歩くに当たり取り出す。持参する時はコンパクトだが、最大で120cmまで伸ばすことができる。私が四国に持って行く金剛杖は長尺版の146cmなのでそれよりも短いが、山の中を歩くにはこのくらいの長さで十分である。

このトレッキングポールだが、グリップの形状によって「I型」「T型」などの区別がある。私も購入時に迷ったところである。現在の主流は、「I型」を2本セットでそれぞれの手に持ち、両手の力で歩くのが効果的とされている。その一方で「T型」は、昔のお年寄りが使うような杖に近い形状だが、下りの時に体重をかけやすく、負担が軽減されるという利点があるとされる。私個人としては、山や坂歩きの時には下りで悩まされることが多く、それを考えれば「T型」が適している。ただ一方で、最近の主流が「I型」であり、下りの時も「I」の字のてっぺんを包むように握って下れば大丈夫というコメントもある。

それを迷いつつ実際にモンベルの売り場に行くと、「2WAY」というのを見つけた、「T型」「I型」それぞれにグリップがある造りである。どちらかの形状の1本よりは1000円以上高いが、両方の使い方ができるのならとこれを買い求めた。見る人が見ればどっちつかずで中途半端な代物かもしれないが・・・。

その中で最初は下りである。まずはポールを使いつつ歩く。最初だし、このくらいの勾配なら下りでもポールなしでも行ける感じである。

かと思うと今度は上りに転じる。四国の「遍路ころがし」のような急勾配ではないのでまだ楽だが、それでも普通の平坦な道を歩くよりはしんどい。息を切らせながら、今度はポールの「I型」のグリップを使って身体を押し上げるようにする。

この古道はまずは尾根道を歩くようで、両側に下りがある中を歩く。ところどころには周りに生えている草木の名前を記した札がある。その中でも、低く生えているシダ植物のようなものが続いていく。西山古道はそれほどメジャーな道ではないのか、すれ違う人もいない。時折、この道で合っているのかと不安になるのだが、そういう気持ちになったところで地元のNPOが立てた道標に出会う。少しほっとする。

途中、軽トラなら十分通れるくらいに道幅が広がる。麓から続く道だろうか。そのまま進むと送電線が走っているところに出て、これが展望台になっている。送電線を伸ばすために切り開いたのだろうが、左手には京都方面、右手には高槻方面の展望が広がる。これにはまずうなってしまう。淀川流域の向こう側の山々もばっちりと見える。

その後進むとヒノキ林に入り、まだ新しい感じの木製のベンチのある広場に出る。大沢というところで、各方向への登山ルートの交差点のような位置である。一旦ベンチにリュックを下ろして休憩する。ここは「京青の森」というところである。ここから下りに転じて少し進むと、前方から木を打つ音が聞こえてくる。NPOの方だろうか、木のベンチを造るために金づちを打っている。こうした地元の人たちの力で、こうしたウォーキングコースが維持されているのだなと感心する。途中の道標を立てたり、坂道に階段状に板を打ちつけているのもその現れである。

さて京青の森から少しずつ下り基調になる。ところどころでは以前の豪雨の影響か、歩道が崩れた跡が残っている。ところによっては歩道の幅が私の肩幅より狭く、一歩踏み外せば崖を転がり落ちかねないというのもあった。トレッキングポールの力を借りつつ何とか通過する。こういうのも含めて、3本目、4本目の足として機能するポールや杖は必要なものだと感じる。

危険防止だけでなく足の痛みを予防するために購入したポールだが、歩くうちにやはり左膝の後ろがピリッと来てしまった。と言ってもひどいものではなく、歩く分には何とかなる程度である。少しずつ善峯寺までの距離が近づき、ところどころの道標で気持ちを切り替えていく。

善峯寺の展望所に続くポイントに着いた。少し横道に入るが、そこを行くとちょうど善峯寺の境内を右手(南西側)から眺めることができる。もちろん前回はこの位置からの眺めを見ることはなかったので新鮮な感じである。立派な山寺だなと感心する。

ここまで来れば後の道のりは早く感じることができて、境内の奥の駐車場入り口から境内に入る。楊谷寺から1時間半弱の歩きであった。天候にも恵まれたし、途中では良い眺めを楽しむこともできた。新西国の札所と西国の札所を歩いて結ぶということでそれほど有名なコースではないのかもしれないが、素朴な感じも残す古道であった。

駐車場から一旦正面の山門に行き、入山料を支払う。この日後半の目的地である・・・・。
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第17番「楊谷寺」~新西国三十三所めぐり・22(め組のひと)

2016年12月13日 | 新西国三十三所
楊谷寺の山門をくぐる。山門といえば両側に仁王像がそびえて・・・というイメージがあるが、ここでは門の両側にいるのは風神と雷神。これは珍しいのではないだろうか。

山門をくぐると正面に本堂がある。まず手水を使って本堂の前に立つが、「靴のままお上がりください」という貼り札がある。正面の障子が閉じられているが、そう書かれているのなら中に入ってもいいのかなと思い、障子を開けてみる。

すると、中は特別なスペースではなく、普通に賽銭箱の前に立ってお参りすることができる。両側には「十一面観音」と書かれた提灯がいろいろとぶら下がっている。まずはここでお勤めを行う。本尊の厨子の扉は毎月17日のみ開くということで、この日はそれが叶うことはなかったが、多くの人たちの長年の信仰がうかがえる。

本堂の中で、履物を脱いでそのまま本堂を抜けて奥の院に行くことができるとの貼り紙がある。靴はビニール袋に入れて、寒いので足下が冷える中を上がる。本尊の厨子の裏側も見た後で、廊下から奥に向かう。

本堂の裏には庭園が広がっている。浄土苑という京都府の名勝にも指定されている庭園で、配置された石には十三仏が祀られているとされている。小ぶりな庭園であるが、寺の本堂の裏にこうしたものが広がっているのが奥ゆかしい。

さらに奥に進むと、上書院というのがある。この書院から見下ろす庭園というのが見事だそうだが、これも毎月17日限定での公開という。普通の日は扉が閉ざされている。うーん、こういうことなら、今月でなくてもどこかの月の17日を狙ってくるのがいろいろと見ることができてよかったかなと思う、

その上書院の裏に、水琴窟がある。楊谷寺では「心琴窟」という名前がある。視覚が不自由な人にも、寺や庭園の雰囲気を感じてほしいということで設けられたものである。視覚が不自由な人がここまでたどり着くのも一苦労だと思うが、手水を地面に落とし、竹筒を地面に当てて耳をつけると、水琴窟独特の音が響いてくる。寺の雰囲気と言われるとどこまで感じることができるのかなと思うが、耳を澄ませて心を研ぎ澄ませるのが良いのだろう。

視覚が不自由な人と書いたが、この楊谷寺は昔から眼病平癒のご利益があるとされている。これも弘法大師が絡む伝説なのだが、ある時、寺のそばの溜まり水で、一匹の猿が子猿のつぶれた眼を一心不乱に洗っている姿を見た。そこで祈祷を行ったところ、子猿の眼が開いた。弘法大師はこの不思議な水にさらに祈祷を行い、眼病に悩む人たちのための霊水にしたという。

上書院から階段はさらに上に続いており、そのまま渡り廊下で奥の院とつながっている。この奥の院は江戸時代に中御門天皇により観音像が祀られたのが由来である。こちらは安産のご利益があるとされている。本尊の左には観音の眷属二十八武衆が祀られており、山門にいた風神雷神もこの中に含まれている。

この奥の院には本堂から上書院を経て渡り廊下で来ることもできるが、もちろん外の坂道を通って来ることもできる。坂道の途中からは本堂を中心とした境内を見下ろすこともできる。なかなか堂々とした境内だと思う。

坂を下り、いったん本堂の前を通り過ぎて境内の反対側に行く。こちらには先ほど書いた弘法大師の霊水「独鈷水(おこうずい)」が湧いている。江戸時代にもこの水で眼病が治癒したということがあったそうで、明治に至るまでこの水は天皇家に献上されていたという。今は参詣者が自由に汲むことができる。木の蓋を取ると湧水がたまっており、これを備え付けのコップに注いで口に含む。果たして眼病に効くか。子どもの頃から近視で眼鏡が手放せなく、そのくせ最近では近くの細かな字を見るのが少しずつしんどくなってきた私(年のせいとか、スマホの見過ぎのせいとかいうのは置いておくとして)、こうした霊水というのもありがたいなと思う。もっとも、帰宅後に見た楊谷寺のホームページによれば、この水は飲むというより、「観音様にお祈りしながら目を洗ってください」とある。うーん、持参のペットボトルに水がまだあるからと、ここで汲んで帰らなかったのだが、飲むのではなく目を洗うのなら、ペットボトルに入れて持ち帰ればよかったかなと思う。

ここまでお参りすると楊谷寺の見どころは一通り回ったということで、朱印をいただく。待っている間にお守りその他の品物を見るが、やはり目に関係するものが多い。「眼力」と書かれたお守りもあるし、目にやさしいという飴やお茶もある。飴はブルーベリー味なのだが、「め」の文字があしらわれているのを見ると、「粋な事件(こと)起こりそうだぜ めッ!」というラッツ&スターの「め組のひと」のフレーズが頭によぎる。

さて、時間はまだ10時半前だが、ここで次の行き先を決めるくじ引きとサイコロ。

1.高槻(安岡寺、神峯山寺)

2.太子町(西方院、叡福寺、当麻寺)

3.貝塚(水間寺)

4.大阪市内(太融寺、鶴満寺)

5.龍野(斑鳩寺)

6.京都市内(誓願寺、大報恩寺)

今回は6つのうち4つが大阪府内。くじ引きの選択肢がだんだん少なくなる中、大阪はまだまだ残っている。そして出たのは・・・「2」。当麻寺は奈良県だが、太子町とは隣接している。いずれも自宅から近いエリアであり、朝ゆっくりの出発でも十分回れるところである。次回はもう少しコンパクトな記事になるだろう。

さて、これで楊谷寺の参詣は終わるが、この後で向かうのは西国20番の善峯寺である。公共交通機関で行くなら、来た道を奥海印寺まで戻り、バスで長岡天神に出る。その後で阪急で2駅の東向日まで移動して、善峯寺へのバスに乗る。バスはいずれも1時間に1本のペースであり、乗り継ぎが上手くいくかどうかであるが、行けないことはない。

ただここで、前の記事にも書いたように、この日はトレッキングポールを持ってきていることを改めて書いてみる。これを活用する場面ということだが、これからやってみるのが、楊谷寺と善峯寺の間を徒歩で結ぼうというのである。もちろん平坦な道ではなく、西山の山道を歩くものである。この道は「西山古道」と呼ばれており、両方の寺の間は4.5キロほどある。最近までは荒れていたそうだが、地元のNPOの人たちの尽力により、西山三山を回るハイキングコースとして整備された。せっかくなので、歩いてこの両寺を結んでみようというのである。まだ午前中だし、時間はたっぷりある。善峯寺まで歩いた後で、そこから東向日に向かうバスに乗ればいいことである。

そのハイキングコースだが、まずは何とも物々しい感じで出発することに・・・・。
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第17番「楊谷寺」~新西国三十三所めぐり・22(西山三山)

2016年12月12日 | 新西国三十三所
早いもので今年もあと3週間。12日は「いい字いい字」ということで、京都の清水寺で今年の漢字一文字の発表があった。選ばれたのが「金」ということで、リオ五輪の金メダルラッシュとか、舛添前知事の公金疑惑とかが選ばれた要因とある。ただこの文字、以前にも選ばれてなかったか。金メダルと政治とカネのことで。歴史は繰り返すというか何というか。

・・・その清水寺は現在順次修復中で、清水の舞台のある本堂も来年から修復に入るのだとか。お参りはできるが、右手に清水の舞台、左手に京都の街並みという、京都を代表する景色はしばらく見られないとある。修学旅行の生徒にはちょっと残念だろう。

さて、話は12月、前回から中7日での新西国三十三所めぐりである。22番目に訪ねるのは、京都でも長岡京市にある楊谷寺(ようこくじ)である。こちらも私は初めて聞く名前である。また、京都の人たちも楊谷寺と呼ぶ人は少ないそうで、「柳谷観音」の名前で通っているとのこと。

その楊谷寺、開創は清水寺と同じ延鎮僧都。清水の観音の姿を拝みたいと日夜祈願していると、ある夜の夢に観音が現れて、都の西にある柳の茂る谷に行けという。僧都がその場所に行くと光明が差しており、そこには観音が立っていた。その姿を彫り、この地に安置したのが楊谷寺の由来とされている。清水の観音が夢に出たのが由来だから「西の清水」とも呼ばれている。また京都の中の東山に対して西山とされている。この西山という場合は、西国の20番札所である善峯寺、そして光明寺とセットで「西山三山」と称される。別に東山に対抗するわけではないが。

今回楊谷寺を訪ねるに当たっては、先日の立木山寺と同様に近くの西国札所の2巡目をやるということで、善峯寺とセットで行くことにした。光明寺は・・・またの機会ということで。

例によって交通アクセスを調べる。毎月17日は観音の縁日ということで、この日はJRの長岡京、阪急の長岡天神、西山天王山を結ぶ送迎バスを寺が走らせている。ならば次の週末だし、それに乗ればいいのだが17日は都合が悪い。17日以外は自力で行くのだが、アクセスは長岡天神から阪急バスで奥海印寺というところまで行き、そこから徒歩で40~45分とある。その阪急バスは長岡天神から済生会病院や奥海印寺を通る循環ルートで、1時間に1本のペースで出ている。路線図を見ると午前中が反時計回り、午後が時計回りに回るのが特徴的で、奥海印寺は最も遠い南西に位置している。まあ、楊谷寺に行く分にはどちら回りでも変わらない。

前回、大津石山から帰宅する途中に、登山用品のモンベルに立ち寄ってトレッキングポールを新たに買い求めた。今回、山坂歩きになることを見越してのことである。トレッキングポールなら四国に持っていっている金剛杖があり、いわゆる「遍路ころがし」も乗りきったのだからそれを持っていけばいいのだが、あれが特別なのであり、関西についてはもう少しコンパクトにできないかという思いがある。翌朝には回復するとは言え、当日膝の後ろを痛めるのもしんどい。ならば一度使ってみようかと。

11日の朝、それをリュックの横にくくりつけて出発。これを使う場面はいずれ来るだろうし、使ってみたいコース取りをした。

梅田から阪急で長岡天神に到着。特急も停まる駅だが駅前はロータリーもなく手狭で、バスに乗るには駅を出て通り沿いまで行かなければならない。案内に沿って進むと学習塾の前にバス停がある。次は8時45分発の循環ルート。やって来たバスに乗り、駅の西側に広がる住宅地の中をゆっくりと、少しずつ高度を上げて走る。途中から乗ってくる客は、このままぐるりと回って駅に行く客である。

済生会病院を過ぎ、長岡天神から10分足らずで奥海印寺に到着。バス停に寺の名前はあるが、近くにそうした名前の寺は見当たらない。バス停の前には京都縦貫道の高架があり、そのたもとには最近整備された里山公園がある。しかしコンビニなどはない。

ふと、十八丁と書かれた道標を見かける。高速道路の工事で移されたのだろうか。十八丁とは楊谷寺までの距離だろう。2キロ弱だが、地図を見ると府道がぐにゃぐにゃにカーブを描いており、上り坂が予想される。

府道なのでアスファルトの道だが、それなりの勾配はある。ポールの出番はまだかなとそのまま歩く。時折自転車と行き交う。上り下りがトレーニングに適しているのだろう。

石の道標は時折登場する。途中からは両側に竹藪が目立つ。柳谷観音というから柳の木があるというものでもないようだ。もっとも、「楊」と「柳」は同じ「やなぎ」と読んでもそもそも別の植物だそうだが・・・。

その竹も、無造作に生えているのがあるかと思うと、一方では人が入って手入れしている光景も見られる。竹どうしの間隔を開けて、竹の根元には肥料らしきものが入ったビニール袋が置かれている。

アスファルトの府道をじわじわと上がること40分、ようやく楊谷寺に到着した。外観をパッと見た印象は、左右に石垣の広がる山城。別に武家勢力が陣取ったわけではないが、この山奥に堂々とそびえた歴史を感じさせる。これにはうならされた。

まずは歩いたことにやれやれとしながら、境内に続く石段を上がる・・・・。
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第13番「石山寺」~西国三十三ヶ所めぐり2巡目・9(33年に一度の御開扉)

2016年12月08日 | 西国三十三所
立木山寺から旧参道経由で南郷に戻り、バスで石山寺の山門前に到着。ここは西国札所としてだけでなく、観光地としても有名であり、いつも多くの参拝者、団体で賑わっている。山の中に静かにたたずむ岩間寺と対照的に、瀬田川沿いの開けたところに位置するのも開放的な雰囲気である。

さて今回は、山門の周りに「南無観世音菩薩」の色とりどりの幟が目立つ。その理由は本尊の如意輪観音像の御開扉である。それが何と33年に一度のことという。33年前といえば私は小学四年生か。阪神の日本一、タイガースフィーバーよりも前ということか。そして33年後とは・・・私、生きてるかな?

今年は西国の2巡目で、新西国など、どこか近くに行ったその足で訪れるとしており、石山寺をマークしていたわけではなかった。本尊の御開扉があるのを知ったのは、この日の朝、石山駅前で松尾芭蕉の像の横に立て札があったのを見たからである。加えてラッキーだったのが、期間が翌日の12月4日までだったこと。最終日1日前に滑り込みで見ることができたわけで、滋賀行きが次の週末なら間に合わなかった(もちろん、この記事をご覧になって「よし行こう!」と思っても、次は33年後である)。普段札所めぐりをしていても「見仏」にはあまり執心しないのだが、日頃は見られないものが見られるのはうれしい。これも何かのご縁だと思う。

本尊は内陣の奥に安置されているが、今回はこの内陣にも上がることができ、間近に見ることができる。特別拝観ということで、通常の入山料600円とは別に500円かかる。別料金は内陣の入口で支払うとある。

境内に入り、多宝塔を見上げる硅灰石の大岩塊を見る。石山寺の名前の由来である。

そして本堂へ。参詣者でかなりの賑わいである。中は撮影禁止なので写真はないが、外陣からも、内陣の奥に本尊の如意輪観音の上半身を見ることができる。まずは遠くに本尊を見ながらのお勤め。参詣者も多いので、邪魔にならないように柱の陰でうにゃうにゃと。

ここから内陣に入るのに特別料金であるが、本尊の全身を間近で見ることができるとあればここは入る。靴をビニール袋に入れて、先の人に続いて中へ。

石山寺じたいは奈良時代、聖武天皇の勅願による建立であるが、その後火災もあり、今見ている如意輪観音像は平安後期のものだという。岩盤に蓮華座を敷いた上に、右足を左足に乗せて座っている。紐が垂れていて、この先が本尊の手と結ばれている。紐を手にすることで本尊と結ばれるわけだが、長い信仰の現れか、紐の先がだいぶほつれている。順番に手にとって拝むが、中には一歩後ろに下がって、長い間如意輪観音像を「見仏」している人もいる。『見仏記』のお二人も間近で見たのだろうか。

他にも同じ重文の不動明王像や、以前の本尊の胎内仏で、飛鳥時代や白鳳時代のものとされる如来、菩薩像も公開されている。これはパンフレットで知ったが、33年に一度の開扉に加えて、内陣の裏側まで入ることができるのは今回が初めてだという。西国開創1300年というのも関係しているのかな。

このような特別な期間ということもあり、本堂内の納経所も長い行列である。3名体制なのだが、一人で何冊ももらっていたり、果ては「◯◯トラベルです!!」と、団体の添乗員が割り込んできたりでなかなか進まない。まあ仕方ないか。

2巡目ということもあるし、本尊の開扉という思わぬ展開もあって、今回はお腹いっぱい。本堂を出て、多宝塔やら、紅葉も見られる境内を一巡するが、それはもう歩いて回るだけだった。最後に土産ということで、好物であるしじみ、小鮎の佃煮、鮒寿司を門前の土産物店で買い求め、そのままバスに乗る。往復で経路を変えるなら1キロ歩いて京阪の石山寺駅に行き、京阪ルートを利用となるが、やはり脚の痛みもあり、石山から新快速に乗るほうを選んだ。もう少し時間が遅ければ石山、大津の店を開拓する楽しみもあるが、この日はこれでおしまいとして、そのまま大阪に戻る。

さて1月から始めた新西国めぐり、年内および年始の時期で、もう少し進めておきたいところである・・・。
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第20番「立木山寺」~新西国三十三所めぐり・21(石段は厳しかった・・・)

2016年12月06日 | 新西国三十三所
・・・陽岱鋼は巨人に行くのか。何かこう、前々から裏で話がついていた感じがしてならない。どうせバファローズやイーグルスとの交渉というのも、両球団の話を右耳から左耳に聞き流していたんでしょう。となると、バファローズとしては糸井の人的補償選手の選定を見直しにかかるのだろうか。まあ、それも数日のうちにわかることである。

・・・そんな陽岱鋼のことはさておき、とりあえずブログの中の私にとってクリアすべきなのは、目の前にある800段の石段である。バスを降り、交通量の多い道路を渡って石段の下に出る。山の上に物資を運ぶためのモノレールもある。寺にはクルマで行くことはできない。麓の手水場でまず手を清めてから上る。

800段の石段と書いているが、これまで出合った札所での昔ながらの石が並べられた参道ではなく、コンクリート製なのである。だから普通の公園の階段と変わらない。また中央に手すりがあり、これで左側通行を仕切っている。てっきり山道を想像していたのだが意外だった。

そうした「階段」なので、途中には多くの踊り場がある。そうしたところには弘法大師像や地蔵、観音像もあり、立木山寺を詠んだ壇信徒の方々の歌碑も立っている。麓には五丁の石碑があり、上るうちに数が減る。

このくらいなら何とも思わない方も多いだろう。この時も、私がこれから上ろうというタイミングで、上から走り下りてきた高校生くらいの人が、一番下まで来てそのまま折り返して駆け上がって行った。地元の人にとってはちょっとしたトレーニングコースなのだろう。

私はといえば・・・気合いで上るが、やはり途中で何度も立ち止まって呼吸を整える。800段くらいなら楽に行かなければならないのだろうが、先ほどの岩間寺の往復の後であり、しんどいものはしんどい・・・。

ただそれも時間にすれば10分あまりかかったかというもので、力業で何とか上りきって境内に出る。やれやれ。

山の中腹を切り開いたような境内である。その中央に弘法大師像があるのだが、菅笠をかぶり、手には錫杖など持っているという姿ではなく、鹿の背中に横向きに乗っている。昔のカップルの自転車の二人乗りのような姿である(今時、そういう乗り方するカップルはいないか)。

なぜ弘法大師が鹿に乗っているか。寺の由来と関係があるそうだ。弘法大師がこの地に立ち寄った際、瀬田川の対岸に光輝く霊木を見つけた。しかし川の流れが急で対岸に渡れない。するとそこに一頭の白鹿が現れて、大師を乗せて対岸まで渡した。その後、白鹿は観音菩薩に姿を変えて消え去った。このことから、霊木を彫って観音像にして祀ったのが立木山寺の由来とされている。また、この出来事が弘法大師42歳の時のことだったとして、立木山寺は厄除けの信仰を集めるようになったそうである。

本堂に行く。先ほど境内に着いて少し休むうち、本堂にお参りする人で柏手を打つ人が多いのが気になっていた。ここは寺であり、神社とは違う。寺で柏手を打つとは常識のない人たちだなと思う。

・・・ただ、改めて本堂や境内を見回すと、ここは神社の佇まいに似ているのではないかと感じられた。そういえば石段にも山門はなく、しめ縄だけがかけられていた。また本堂の中央も鰐口をゴーンと鳴らすのではなく、紐を引いて鈴を鳴らす。弘法大師がどうだとかいうことを知らなければ、神社風のお参りにもなるのかと。柏手を打つのも無理もないかなという気がする。

ここも新西国式にお勤めして、少し上がったところの厄除けの鐘を撞く。明るい音がした。最後は奥の院。道了大師を祀っているところである。

お参りをすませて朱印をいただく。対応するのは学生風の女性だが、ますは納経帳を丁寧に押し戴いてから筆を走らせる。住職クラスのさらさらとした草書体(というより、達筆すぎて何が書かれたのかわからないのもたまにあるが)ではなく、書道の教科書のような「立木観音」のはっきりした文字が新鮮である。それを書き終えた後に再び押し戴いて返してくれる。

境内には飲食物を売るところはないが、休憩所の御茶屋がある。ここではお茶のほかに、ゆず湯、昆布茶のお接待がある。参拝者たちが思い思いに周りの床机に腰かけて休んでいる。これは地元の人たちのご厚意によるものか。本坊の脇で割烹着姿で談笑しているご婦人がたがいたが、この人たちの手によってサービスされているものである。別に料金を申し受けるとは書いていないが、お盆の上には小銭が集まっている。こういうちょっとしたお互いの心遣いがいいなと思う。

ここでお茶をいただきながら、次の行き先を決めるくじ引きとサイコロである。

1.長岡京(楊谷寺)

2.龍野(斑鳩寺)

3.太子町(叡福寺、西方院、当麻寺)

4.加古川(鶴林寺)

5.高槻(安岡寺、神峯山寺)

6.貝塚(水間寺)

幅広いエリアの中で、ここで出たのは「1」。5月の鞍馬寺以来、久しぶりの京都府である。この寺は西国20番の善峯寺、紅葉の名所でもある光明寺とともに「西山三山」と称されるところ・・って、また山歩きのコースになるのか。楊谷寺は最寄りのバス停からでも徒歩45分とある。

・・・さてここから来た道を戻るのだが、境内からすぐ下のトイレのところまで下りる階段で、左膝の後ろがビリッとした。あ~あ、やっぱりか。今回は大丈夫だろうと、岩間寺の往復と立木山寺の上り階段は何とかなったが、やはり最後の下りで痛めるということになった。原因は私の肥えすぎがほとんどだとしても・・・それ以上にクセになっているのではないかというのが心配である。次は何か対策をしておかないといけないな。

そこに立て札があり、右手の階段ではなく、左手に道があるのを示している。階段ができる前の参道で、麓の南郷のバス停まで十八丁あるという。下り階段の五丁か、緩やかな坂道の十八丁か。さほど迷うことなく、十八丁の歩きを取った。最初に緩やかな下りの石段があるが、これならまだ行ける。その後は坂道で、やはり杖があったほうがよかったが、あの階段を下りることを思えばましだった。こちらのルートですれ違う人もちらほらいた。

この参道、ところどころに土砂崩れの痕跡が見られる。入口に「先の8月の豪雨で被害、仮復旧」とあるが、いつの8月だろう。今年は、関西でそこまでの豪雨のニュースはなかったと思うので、何年か前のことだろう。ただ、今でも他の山に抜けるルートは閉鎖されているようだ。

40分ほどで下り終え、南郷の集落に出た。バスの時間まで間があるので、先ほどバスに乗った南郷洗堰まで歩いて戻る。

ここまで来れば山登りはおしまい。この後、本日最後の札所・石山寺にバスで向かうが、この日(3日)に行ってラッキーだった。そのことは次の記事にて・・・・。
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第12番「岩間寺」~西国三十三ヶ所めぐり2巡目・8(古池と観音経と洗堰)

2016年12月05日 | 西国三十三所
山の車道を上がって到着した岩間寺。木々が色づくのを見ることができる。そういえば今年は紅葉をまだ見ていなかったなと思う。まずは仏足石と観音像を見る。前回はこの仏足石の部分がすっぽりと雪で覆われていたのだが、今回はそれをきちんと拝む。また、この奥に鐘があったので撞いてみる。鐘があったことも前は気づかなかったな・・・。やはり一度目と二度目では気づかなかったことがあることに気づかされる。

岩間寺は山門はなく、参道の両側で銅像の仁王像が出迎えてくれる。そして小ぢんまりした境内に入る。目に入ったのはイチョウの葉のじゅうたん。正面にある大イチョウは樹齢450年という。その下の祠の屋根にもイチョウの葉が積もっている。12月、冬というよりは晩秋の趣である。境内の一角には地元の農産物を売る屋台も出ている。

ということで本堂に上がり、お勤めの準備をする。するとそこにやって来たのは巡礼用の白衣を着た男女二人連れ。菅笠も背中にかけているが出で立ちそのものは身軽である。そこはクルマで来たということにしても、西国の札所で白衣姿を見るのは珍しい。そのお二人、私が外陣でお勤めをするのを待っている様子である。四国めぐりをしている人のブログだったか何だったかで、「般若心経を前の人にかぶせるのはマナー違反」というのがあったのだが、まさかそれを実践しているとか?

同じく本堂内で先達用の納経帳に朱印をいただく。西国2巡目ではカラーの本尊御影をいただいており、朱印300円、御影200円、そして入山料と合わせてちょうど1000円である。朱印をいただいた後で、「中に入っても構いませんから、どうどゆっくりお参りを」と言われたその顔に見覚えがある。こちらの住職(いや、確か岩間寺の住職は醍醐寺の住職が兼ねていて、醍醐寺から管理のための僧侶を派遣しているのではないか・・・岩間寺檀信徒のホームページによれば)である。前に来た時はその檀信徒のホームページのイメージでかなり強欲そうな表情に見えたのだが、今こうして接すると物腰も柔らかそうな感じである。一体あのホームページ(最近更新されていない)に書かれていることって何だったのかと思う。

朱印をいただき、内陣にも入る。その間に巡礼二人連れのお勤めが始まったのだが、その声を聞いて驚く。「仏前勤行集」というのがあり、そこに般若心経を初めとしていくつか唱える文言や真言があるのだが、それぞれに前置きの文がある。そこまで一つ一つ唱えている。これまで見た中でここまで経本をきちんと読んでいる人を見たのは初めてである。

本堂の横に池がある。その昔、松尾芭蕉が「古池やかわず飛び込む水の音」の句を詠んだのがこの池であるという言い伝えがある。この季節に蛙はいないが、水が流れる音と観音経の声が静かな境内に響き合って聞こえる。

岩間寺は巨木にゆかりのある寺で、先の大イチョウもそうだし、本堂前の夫婦桂、そして本尊の胎内仏がこの木から彫られたという伝説がある桂谷大樹もある。こうした自然とよく溶け込んでいる岩間寺、往復の道はハードであるが、なかなか素朴な風情のあるところだなと、2回目にして改めて感じる。

帰りは途中の奥宮神社まで山道を歩く。上醍醐まで続く山道と分岐して15分ほど歩くと神社の境内に出る。奥宮神社というと岩間寺の奥の院のように思われるが、創建されたのは意外にも昭和45年と新しい。京都と滋賀の境目にある岩間山を古来からの神のご加護で守ろうということからである。

この境内からは瀬田川から近江平野、さらには琵琶湖まで眺めることができる。前回は雪も降るくらいだったから何も見えなかったのだが、今回は近江八幡あたりまで見ることができる。やはり天気のいい時に来るのがよい。

さてここから下りである。上りは上りで体力を使う感じだったが、下りになると足に来るのがわかる。実は今回迷ったのだが、四国に持って行っている金剛杖を持って来なかった。岩間寺の山道、そして立木山寺の800段の石段があるとわかっていたが、岩間寺は前回杖なしで来たし、800段の石段も他の札所で経験済みで何とかなると思い、結局持たなかったのである。歩幅を縮めて少しずつ歩くため、この後、中千町のバス停までの時間は上りとさほど変わらなかった。

次は立木山寺に移動する。バス停で時間を見ると、10数分後で11時29分発の新浜行きというのがある。このバス停には30分に1本の割合で便があるのだが、そのほとんどが新浜行きである。ただし、この新浜というのは立木山寺最寄りの立木観音前の手前である。結局はそこで降りて、石山駅から本線の系統を走る後続の便を待つか、いっそのこと立木山寺まで瀬田川沿いに歩くかである。とりあえずバスに乗る。

10分ほど走ると、「次は南郷洗堰です」という放送が入る。それを聞いて降車ボタンを押す。同じ後続のバスを待つなら、このまま新浜というところに行くよりは、瀬田川沿いの歴史スポットである南郷洗堰を少し見ようというところである。名前は聞いたことがあるが実物を見たことがなかった。

南郷洗堰は1905年に竣工した治水設備。琵琶湖と、琵琶湖から流れ出る瀬田川流域の水害の軽減を目的として造られたものである。明治時代は琵琶湖とその下流にもさまざまな手が加えられ、南郷洗堰の建造、宇治川と巨椋池の分離、そして新淀川の建設というのは当時として大型プロジェクトだったとされている。現在はその水門は100mほど下流の瀬田川洗堰にその役割を譲り、端のほうだけ遺構として残されている。

水害を防ぐということで南郷洗堰の果たした役割は大きいのだが、これで一つ思い出したことがある。近江八幡の長命寺に行った際に水郷めぐりの舟に乗ったのだが、その船頭の話では、この洗堰で川の流れが一度寸断されたことで、琵琶湖の生態系が変わったとある。その例として挙げられたのがウナギで、昔は琵琶湖でも天然のウナギが獲れたのだそうである。それが洗堰で下流、あるいは海から稚魚が遡上するということがなくなったという。どうしても川の上流から下流ということを考えてしまうが、自然界では「逆の流れ」というのもあるのだないうところである。

南郷洗堰は石山駅から立木観音前を経由して大石まで行く系統のバス停で、本数は15分に1本と多い。やって来たバスに乗り、南郷、そして先ほどのバスの終点の新浜を過ぎる。新浜はコンビニはある以外は普通の住宅地だし、その先は道路の幅も狭くなり歩道も消えた。交通量も多いし、とても歩けたものではなかった。

こちらも10分ほどで立木観音前に到着。観音前というから立木山寺はすぐ目の前にあるのだが、それは800段の石段の上である。こちらは初めて訪れるところで、果たしてどうなるだろうか・・・。
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第12番「岩間寺」~西国三十三ヶ所めぐり2巡目・8(快晴の岩間山へ)

2016年12月04日 | 西国三十三所
まずお断りしておくが、今回の当初の行き先は新西国20番の立木山寺である。瀬田川沿いにある古刹であるが、そちらに行くのなら、同じ瀬田川エリアにある西国12番の岩間寺、13番の石山寺の「2巡目」も一緒に行こうということにした。当初は先月の27日に行こうと思っていたが、雨天のため1週間ずらした。結果としては朝から快晴に恵まれる形となってよかった。

大阪からゆっくり快速で座って来て、8時半すぎに石山に到着する。駅前では松尾芭蕉の立像と紫式部の絵が出迎える。

3つの寺の位置は石山駅から見て石山寺、岩間寺、立木山寺の順に並んでいる。それぞれ京阪バスでアクセスするのだが、どういう順番で行くか。石山寺は最後にするとして、岩間寺、立木山寺のいずれかである。岩間寺は中千町というバス停から徒歩50分の山道(車道)だし、立木山寺は行ったことがないのだがバス停から800段の石段が待っている。いずれもハードな道で、どちらから行こうか迷うところだ。

ここで京阪バスの路線図を確認するのだが、石山駅から見て石山寺~南郷~立木観音前~大石という系統が本数が多いのに対して、中千町を経由する系統は支線のようで少ない。本数の少ない方から先につぶしておくという考え方もあるが、あまり待ち時間が長いのもどうかと思う。ここは、時刻表を見て先に出るほうに乗ることにする。・・・やって来たのが8時47分発の新浜行きで、中千町を経由する便だった。まずはこちらに乗り、石山寺の前を通って瀬田川から山側のほうに入る。以前に通ったのを思い出す。

途中で滋賀大学の学生が降りるとガラガラになり、中千町バス停に到着。バス停前のコンビニでトイレと買い物をすると、「来年のカレンダーをお配りしています」と、店名の入った卓上カレンダーを渡される。

さてここから50分の歩きである。前回来たのは3月だったが、朝から雨が降っていた。おまけに途中で雨が雪に変わり、路面にもうっすらと雪が積もっていたのを思い出す。周りの景色も見えない。またその時は「岩間寺檀信徒」と「醍醐寺」の争いというのをネットで見ていたりしたものだから、余計に寒々しいイメージを持っていたこともある。(その時の様子はこちら

今回は12月だが、その時とはうって変わって雲一つない快晴。まあ前回歩いたことで「このくらいか」という見当もついている。落ち着いた気持ちで歩き始める。千町の集落を抜け、第二京阪を橋で越えると本格的な上りになる。朝着てきた上着を脱ぎ、長袖シャツ+ポロシャツ姿となる。

「子猫飛び出し注意」の看板が道端に立つ建設会社の横を通り、最近開発された墓地の前の空き地に立つ。ここからは岩間山の麓や瀬田川越しに近江平野を見ることができる。こうした景色は前回見ることもなかった。こうしたこともあるから、一度だけでの訪問ではわからないこともあるものだ。天候、季節によってずいぶん印象が異なる。上り坂はしんどいが、時折こうしたところで一息つきながら上って行く。前は見なかったが、歩いて降りてくる人の姿も見る。

結局バス停から歩いて45分ほどで岩間寺の山門前に到着。前は駐車場のところに係員がいて入山料を取っており、雪の中歩いて来た私を見て驚かれたものだが、今回行くと「入山料は納経所で」という貼り紙だけである。ようやく人心地つき、お参りをすべく本堂に向かう・・・。
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