まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

マツダスタジアムでのカープ戦チケット確保

2019年02月27日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
オープン戦も始まり、そろそろプロ野球のニュースも目立つこの頃。

バファローズのファンクラブ会員向けに4月の公式戦のチケット販売が始まり、週末試合の指定席を予約。いずれもドームで、神戸の試合が平日しかないのがもったいないと思う。今年は10連休となる期間で、どのように過ごそうかはまだきちんと決めていないのだが、野球を観て過ごす、いいじゃないですか。後は3月に発表される独立リーグの日程次第だ。

ところで25日、カープのマツダスタジアムでの公式戦チケットの整理券を獲得するための抽選券の配布をめぐって、スタジアム周辺が騒動になったというニュースがあった。スタジアムから広島駅近くまで5万人が行列したとあるが、私が広島勤務時代に駅から職場への通勤に歩いていた道でもあり、あの踏切まで列が延びたのかと驚くばかりである。バファローズでは絶対にあり得ない光景やな(苦笑)

カープのチケット販売方式は独特のやり方のようで、球団の歴史的な背景まで言及されることなのでここでは触れないが、やはり黒田、新井の復帰、リーグ3連覇や最近のカープ人気の過熱ぶりである。私もバファローズの交流戦観戦でマツダスタジアムに何度か訪れたが、以前はチケットも前売りのプレイガイドで普通に買えた印象がある(三塁側下段の指定席や上段中央の指定席だが)。

実は今年はマツダスタジアムで3年ぶり、また週末試合ということで、プレイガイドの先行抽選の申し込みをしていた。第5希望まで申し込めるとあり、6月22日、23日に分散して応募していた。その結果発表の前に上記の騒動があったものだから、これも無理だろうなと思っていた。

そして結果発表を見ると・・・「当選」とあった。もっとも中を見ると、当選していたのは第5希望の23日のビジターパフォーマンス席で、他は1階の指定席にしていたが全て落選。カープファンによるチケット争奪戦の中、ビジターの中でも最も不人気の球団相手の席なので何とかなったのかな。

まあ、最近ではビジター席とは言いながらもカープファンが購入して、カープファンが入れないのを逆手に取ってわざと席に着かずにコンコースで立ち見するとか、カードによっては席の一部をカープファンのために開放して販売するとか、それなりに問題がある。その中でビジター席を第5希望にしたのは、私の普段の観戦が外野スタンドで応援団のリードに合わせてというものではないのだが、ここなら入れるのかなと。まあ、ありがたくチケットを確保したのだから、初めて入ることになるこの席からの眺めを楽しむことにしよう。

そういえば3年前のマツダスタジアムでのバファローズ戦と言えば、カープ鈴木誠也が2試合連続でサヨナラ本塁打、3戦目でも8回に決勝本塁打を放ち、緒方監督に「神ってる」と言わしめたカードである。私は2戦目の最後を前泊したホテルで、そして3戦目を現地で観戦したのだが、その後マツダスタジアムからどうやって大阪に帰ったかよく覚えていないという苦い思い出がある。この年のカープはカード辺りから走り出してそのままリーグ優勝に進んだわけだ。

訪ねればその時以来となるが、今から楽しみである・・・。
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カラバイヨが引退

2019年02月26日 | プロ野球(独立リーグほか)
プロ野球独立リーグのBCリーグの群馬ダイヤモンドペガサスに所属するカラバイヨが引退を発表したという。すでに現在はアメリカにあるトヨタのディーラーとして働いているのだとか。

残念だけど年齢のこともあり、メジャーやNPBでの活躍も望めないし、群馬としても若返りを図るということだろうか。ともかく、お疲れさまでした。

カラバイヨといえばバファローズファンとしてもインパクトあった外国人選手で、高知、群馬での活躍が認められ、2010年、長打力不足にあえいでいたバファローズに加入すると、デビュー戦初打席でホームランを放つ(その試合、ナマで観戦していた)。ただその後は故障もあり翌年末で戦力外に。ただ、BCリーグ・群馬に復帰すると打点、本塁打でのタイトルも獲得したし、BCリーグ三冠王やMVPにも輝いた。

それを受けて2015年、外国人打者の不振もあって長打力不足にあえぐバファローズと再契約をして、一時は4番を張った。この頃になるとインタビューにも日本語ペラペラで対応するというのも話題となったが、年齢的なものもあったのだろう戦力外となった。

そしてまた群馬に選手兼コーチで復帰したのだが、選手としては格の違いを見せつけた。2018年は本塁打王、打点王にも輝き、それぞれ2位のベテラン・井野口との大砲2門でBCリーグを制覇した。四国アイランドリーグの年間チャンピオンの香川オリーブガイナーズとの独立リーグチャンピオンシップにも出場し、私も四国八十八所めぐりの道中でその姿を目にすることができた。その試合では本塁打、打点をあげることはなかったが、結果として現役最後の姿を目にしたわけで、改めて惜しいと思った。

引退後の進路としてバファローズやダイヤモンドペガサスに携わることなくアメリカに渡ったのは残念だが、就職先がトヨタのカーディーラーというのが面白い。日本語を操れるというのが日本のクルマの販売にも貢献することだろう。ただそれでも、またいつか日本の野球場での姿を見てみたいと思う。

ともかくも、お疲れさまでした・・・。
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第24回四国八十八所めぐり~遍路は続くよどこまでも

2019年02月24日 | 四国八十八ヶ所
2月10日、大窪寺のお参りを終えて長尾からことでんに乗って高松築港に戻る。時刻は17時を回ったところで、大阪には19時発の高速バスで戻る。この間の時間を利用して、結願後の一杯ということにする。

前日ライオン通りで入った「ふるさと」のような店が本来ならいいのだろうが、帰りの時間があるので前回も入った高松駅横の「庄や」に入る。歩いた後、また88番まで訪ねることができたことでジョッキのビールがより美味く感じられる。ちなみにこの大ジョッキが1杯「880円」(税抜)なのも、偶然とはいえ八十八所めぐりの後にふさわしいかと。

連休の中日のためか、19時発の高速バス(阪急バス)は空席が目立つ。隣の席も空いたままで発車する。道路も特に渋滞なく、このまま大阪に順調に着きそうだ。

道中、過去の四国めぐりのことを振り返る。回ごとに訪れた札所や、往復の交通手段について書き出してみる。改めて、結構区切ったものだと自分でも思うところだ。

【京都三弘法まいり】2016年7月 東寺、神光院、仁和寺

【第1回】2016年7月 往路:難波からJRバスで徳島 (1)霊山寺、(2)極楽寺、(3)金泉寺、(4)大日寺、(5)地蔵寺、(6)安楽寺、(7)十楽寺 復路:徳島からJRバス 宿泊:徳島 その他:一番前札所・十輪寺談義所

【第2回】2016年8月 往路:梅田から阪急バスで土成 (8)熊谷寺、(9)法輪寺、(10)切幡寺 復路:徳島からJRバス 宿泊:なし

【第3回】2016年9月 往路:土讃線阿波池田から徳島線鴨島 (11)藤井寺 復路:鳴門からJRバス 宿泊:鴨島 その他:徳島インディゴソックス戦観戦(鳴門)

【第4回】2016年10月 往路:和歌山から南海フェリーで徳島 (16)観音寺、(17)井戸寺、(12)焼山寺、(18)恩山寺、(19)立江寺 復路:徳島から南海フェリー 宿泊:徳島(2泊)

【第5回】2016年11月 往路:高速舞子から神姫バスで徳島 (20)鶴林寺、(21)太龍寺 復路:徳島から阪急バス 宿泊:なし

【第6回】2016年12月~2017年1月 往路:難波から徳島バスで宍喰 (22)平等寺、(24)最御崎寺、(25)津照寺、(26)金剛頂寺、(23)薬王寺、(13)大日寺、(14)常楽寺、(15)国分寺 復路:徳島からJRバス 宿泊:日和佐(2泊) その他:鯖大師、日和佐で年越し

【第7回】2017年1月 往路:難波から徳島バスで室戸 (27)神峯寺、(28)大日寺 復路:高知からJRバス 宿泊:奈半利

【第8回】2017年3月 往路:坂出から土讃線特急で後免 (29)国分寺、(30)善楽寺 復路:高知からJRバス(夜行) 宿泊:なし

【第9回】2017年5月 往路:坂出から土讃線特急で高知 (31)竹林寺、(32)禅師峰寺、(33)雪蹊寺、(34)種間寺、(35)清瀧寺、(36)青龍寺 復路:高知から土讃線特急 宿泊:高知(2泊) その他:安楽寺、高知ファイティングドッグス戦観戦(高知)

【第10回】2017年7月 往路:難波からJRバス~土讃線鈍行で窪川 (37)岩本寺、(38)金剛福寺 復路:中村から近鉄バス(夜行) 宿泊:中村

【第11回】2017年8月 往路:難波からJRバス(夜行)~土讃線鈍行で中村 (39)延光寺、(40)観自在寺、(42)仏木寺、(41)龍光寺、(43)明石寺 復路:松山からJRバス 宿泊:愛南町、宇和島(2泊) その他:十夜ヶ橋、愛媛マンダリンパイレーツ戦観戦(宇和島)

【第12回】2017年10月(※9月は台風接近で延期) 往路:岡山から予讃線特急で松山 (44)大寶寺、(45)岩屋寺、(46)浄瑠璃寺、(47)八坂寺、(48)西林寺 復路:松山からJRバス 宿泊:松山

【第13回】2017年11月 往路:難波からJRバスで松山 (52)太山寺、(53)円明寺、(49)浄土寺、(50)繁多寺、(51)石手寺 復路:松山から中国バスで福山 宿泊:松山

【第14回】2017年12月 往路:柳井から防予フェリーで三津浜 (54)延命寺、(55)南光坊 復路:今治から予讃線特急 宿泊:三津浜

【第15回】2018年2月 往路:大阪南港からオレンジフェリーで東予 (56)泰山寺、(57)栄福寺、(58)仙遊寺、(59)国分寺、(61)香園寺、(62)宝寿寺 復路:今治からせとうちバス 宿泊:今治 その他:62番礼拝所

【第16回】2018年4月 往路:岡山から予讃線特急で伊予西条 (63)吉祥寺、(64)前神寺、(65)三角寺 復路:川之江から予讃線特急~快速 宿泊:川之江 その他:愛媛マンダリンパイレーツ戦観戦(川之江)

【第17回】2018年5月 往路:梅田からせとうちバスで伊予西条 (60)横峰寺 復路:伊予西条から予讃線特急 宿泊:伊予西条(3泊) その他:石鎚山登山

【第18回】2018年7月 往路:梅田からJRバスで観音寺 (66)雲辺寺、(67)大興寺、(70)本山寺、(68)神恵院、(69)観音寺 復路:観音寺からJRバス 宿泊:観音寺

【第19回】2018年8月 往路:岡山から瀬戸大橋線~予讃線で丸亀 (71)弥谷寺、(72)曼荼羅寺、(73)出釈迦寺、(74)甲山寺、(75)善通寺、(76)金倉寺、(77)道隆寺 復路:丸亀から四国高速バス 宿泊:丸亀(3泊) その他:香川オリーブガイナーズ戦観戦(丸亀)、少林寺

【第20回】2018年9月 往路:岡山から瀬戸大橋線~予讃線で海岸寺 (78)郷照寺 復路:宇多津から瀬戸大橋線 宿泊:なし その他:海岸寺

【第21回】2018年10月 往路:岡山から瀬戸大橋線~予讃線で八十場 (79)天皇寺、(80)国分寺、(81)白峰寺、(82)根香寺 復路:高松からたかなんフットバス 宿泊:高松 その他:独立リーググランドチャンピオンシップ香川対群馬(高松)

【第22回】2018年11月 往路:三宮からジャンボフェリーで高松 (83)一宮寺 復路:高松からたかなんフットバス 宿泊:なし

【第23回】2018年12月 往路:三宮からJRバスで高松 (84)屋島寺、(85)八栗寺 復路:高松から阪急バス 宿泊:なし

【第24回】2019年2月 往路:難波からJRバスで高松 (86)志度寺、(87)長尾寺、(88)大窪寺 復路:高松から阪急バス 宿泊:高松

高速バスがもっとも多く各県との行き帰りに利用したが、他にも鉄道の特急あり鈍行あり、フェリーもある。四国との行き来にわざわざ広島や山口を経由した回もあった。多種多様な乗り物に乗れたのは思い出に残る。

また、八十八所めぐりの中で私が勝手に「ミッション」と定めた「各県でのアイランドリーグ観戦」も、3シーズンかけて合計6試合となった。張泰山やマニー・ラミレスといった異国のスターが日本のNPBを目指す若い選手たちとプレーする様子も観られたし、最後に独立リーグチャンピオンシップも観戦できたのは札所めぐりに色を添えてくれた。個人的には、アイランドリーグと八十八所が何かでコラボレーションできないものかと思うのだが・・。

さて、八十八の札所を回った後は高野山の奥の院に向かうのが通例とされている。納経帳、納経軸にも高野山の欄があるものが多い。弘法大師にゆかりがあるとされる霊場を回ったのだからということのようだ。このため、四国は24回に分けて回ったが、その続編があるということである。現在進行中の近畿三十六不動めぐりも最後に訪ねる35番、36番が高野山にあることから、これとまとめて高野山に上がり、最後に奥の院に向かうことにしよう。「平成」の終わりまでには行っておきたいと思う。

ただその前に、「四国を回るのは大窪寺で終わりにする」のと、「第1番の霊山寺まで行って『一周』しないと『満願』にならない」という考え方がある。昔は大窪寺からそのまま海の方向に抜けて、香川東部の三本松から出ていた航路で大阪に向かい、そのまま高野山に向かうという行き方もあったようだが、現在はいくつかのルートで阿讃の山を越えて霊山寺まで行くのがメインとなっているようだ。そうすることで四国を一巡したことになり、二巡目につながるというものである。大窪寺まではあくまで八十八所の最後の札所、結びという意味での「結願」であり、「満願」というのは霊山寺まで行って初めてそう言えるとのことだ(これは1番から始めて88番で終わった場合で、途中の札所から始めた場合はその札所まで戻ってきて「満願」となる)。

とすれば、私も高野山に行く前に、その間を埋めて霊山寺に戻るためにもう一度四国に渡ることにしようと思う。この区間を走る高松道は高速バスで何度か行き来しているし、霊山寺のすぐ横も通っているのだが、やはり降りてたどってみたい。

ちなみに、歩き遍路全長1200キロのうち、私が実際に歩きで回ったのがどのくらいなのか、帰宅後に試算してみた。私の場合公共交通機関をベースにしているので、途中の駅やバス停からの徒歩移動などを含むのだが、およそ300キロという数字が出た。まあ、「歩き遍路」を名乗るには到底少ない数字ではあるが、それでもそのくらいあったのかと思う。ただ、途中の立ち寄りのおすすめスポットの見落とし、見過ごし、割愛もあるし、歩きならではで見つかるものもあるだろう。その点での物足りなさがないわけでもない。また逆に、クルマで回ったらまた違う景色が見えるのかもしれない。

こう書くと、1巡したら何か迷いが消えるとかいうきれいごとではなく、1巡したためにかえって「ああしたい」とか「こうすればよかった」と煩悩の塊が大きくなった部分があるのではないかとも感じる。何とも皮肉なものだ。四国を何度も巡るというのは、案外そういうところから来ているのかもしれない。私が実際にもう1巡するかどうかは別としても。

まさに、「遍路は続くよどこまでも」・・・。
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第24回四国八十八所めぐり~第88番「大窪寺」

2019年02月22日 | 四国八十八ヶ所
大窪寺の山門の前に立つ。鉄筋コンクリート造りで、両側に立つ仁王像も色がはっきりついていて力強い。

八十八所の最後の札所だからきちんとお参りしなければなと、山門をくぐったところの手水を使い、石段を上がる。するとそこに出たのは大掛かりな造りの大師堂である。いやまずは本堂に行かなければと、いったん素通りする。

そして本堂のある境内に着いたのだが、こちらから来ると右手から石段が続くのが見える。うーん、本来の大窪寺への参道はこの石段からだろう。先ほどくぐった鉄筋コンクリート造りの山門は車遍路の入口のようだ。まあそれでも立派な門だから、こちらを大窪寺の正式な山門にしても別に問題はないと思う。

とはいうもののここは改めて昔からの山門をくぐる。石段の向こうには本堂が見えてくる。

大窪寺は奈良時代に行基が草庵を建てて修行したのが始まりだという。その後、弘法大師が谷間の窪地にお堂を建てて薬師如来像を安置し、唐から持ち帰った錫丈を納めた。その場所が窪地にあったことから「大窪寺」という名前になったそうだ。

境内を囲むように寄進者の石柱が並ぶ。多くの寺院はこの手の石柱には「金何百萬園」、そしてそれに続く寄進者の名前が彫られたものがずっと四方を囲むのだが、大窪寺の場合は寄進の金額のところに「結願御礼」という言葉が並ぶ。各地の人たちからの寄進が並ぶのだが、その中に私の地元藤井寺からの寄進の石柱を見つける。この方は今もご存命なのかな?

本堂に向かう。薬師如来が祀られていることを示す「瑠璃光殿」の額が掲げられている本堂前には線香の煙がもうもうと上がっている。結願の寺ということで、歩きとかクルマとかは関係なく訪ねる人が絶えないのだろう。

外陣でお勤めとする。「霊場結願所」という額が掲げられている。

先ほど通りすぎた大師堂に向かう。何やら石像が集まっている。よく見ると四国八十八所の札所番号が振られていて、それが順番に並んでいるようだ。姿形がバラバラなのは、各地の「お砂踏み霊場」から集めたものだろうか。結願の寺にて、改めて各札所の本尊が「ようお参りでした」と出迎えているかのようである。

こちらも最近の建物だろうか、改めて大師堂でもお勤めとする。最後に回向文を読み終えて手を合わせた時、「これで一段落、ともかくも回ることができました」というようなことを小声でつぶやいた(ように思う)。

大師堂の横には「寶杖堂(ほうじょうどう)」というのがある。四方をガラス張りにした建物で、中には何百本あるだろうか、金剛杖、さらには先達のみ持つことを許される錫杖が収められている。四国八十八所を回り終えた後、その証として金剛杖を大窪寺に奉納する人が多いのだという。その杖をこの寶杖堂にて保管し、毎年春分の日と8月20日にお焚き上げの法要を行うとある。西国三十三所の「満願」の札所である谷汲山華厳寺にも、本堂の後ろに杖や笈摺を奉納するためのお堂があったが、回り終えたことを記念して置いてくるというのは一般的なことなのだろうか。

ただ私としては、これまで短い距離だったかもしれないが一緒に歩き、アイランドリーグ観戦の時には球場にも持ち込んだ金剛杖をここで手放すのはもったいないなと思った。金剛杖が「弘法大師の化身」だからというわけではなく、シンプルに札所めぐりのパートナーだったとも言える。

杖には他の人のものと間違えないように、また四国を回ることを意識して、四国アイランドリーグの各球団のロゴとマスコットをあしらったミニステッカーを貼っていた。それも大窪寺まで来るとすっかり剥げて姿が分からなくなった。これも私なりの積み重ねと言ってもいいだろう。やはりこの杖は大阪まで持ち戻ることにする。

本堂エリアに戻り、納経所に入る。これで納経帳の八十八の欄も埋まった。合わせて「平成31年」の結願記念のスタンプも押される。

大窪寺では「結願証」を出してくれる。これは歩きやクルマ関係なく結願した人は誰でもいただけるので、堂々と?いただくことにする。見本も掛けられていて2000円とある。A3用紙サイズだが賞状入れの筒も付くので持ち運びにも問題ない。これを求めると、紙切れに名前を書くよう言われる。墨を擦り直し、きれいな楷書で名前を一字一字書いてくれる。これもよい記念だ。結願した方の記事では納経帳の全ページを確認されたというのもあるが、この時はそのようなこともなかった。

写真ではむき出しのままだが、この後でガクブチを購入して部屋に飾っている。

帰りのバスまで時間はたっぷりある。これなら朝の出発をもう少し遅らせてもよかったが、この山の中に来ることも今後しばらくはないことで、ゆっくりする。門前には道を挟んで2軒の食堂兼土産物店がある。そのうちの「八十場庵」に入る。ここの「打ち込みうどん」が大窪寺の名物とされている。

注文したのは猪肉入りの一品。白味噌仕立ての出汁に里芋、大根、にんじん、ごぼう、豆腐、油揚げが入る。体にもよさそうで美味しくいただく。先ほど結願したことで祝杯をあげてもいいところだが、それは夕方に取っておくことにする。

15時51分のコミュニティバスまでそれでも時間はあるのでその辺りをぶらつく。旧遍路道の丁石をたどってきていつしか行方不明になったのだが、一丁石というのが門前に置かれている。きちんと祠に納められている。

納経軸や御影の表装を手掛ける店もある。やはり八十八もの欄があるだけに表装したらものすごい長さになりそうだ。西国三十三所の納経軸が実家に置かれているのだが、あれでも広げたら床に着くくらいの長さで、飾るということもなく閉まったままだ。

志度行きのバスがやって来た。「上がり三ヶ寺まいり」のラッピング車両だ。白衣に菅笠のガチの歩き遍路らしい男性2名と、遍路というよりは普通に大窪寺にお参りに来たらしいご婦人3人組が乗る。土日祝日は1乗車500円一律で、発車前に運転手がそれぞれ行き先を訊いて回る。途中長尾で降りるのは私だけで、他の人は志度まで行く。

やはりバスは速い。国道377号線を下り、二十丁石の旧遍路道との分岐点を数分で過ぎる。一応途中の停留所にも停まるダイヤなのだが、途中の乗降もなく一気に過ぎる。六十五丁石からは先ほど歩いた旧遍路道ではなくそのまま県道3号線を走るが、結構カーブが多い。ご婦人の手からこぼれた土産物の袋がバスの右から左へと滑っていく。

山道を下って長尾の町中に入る。そのまま直進ではなく介護センターや亀鶴公園などのスポットにも立ち寄る。それでも、4時間かけて歩いた道を30分で戻ってきた。コミュニティバスを運行しているのは大川バスで、長尾の停留所は本社営業所にある。長尾駅からすぐのところだが、ちょうど高松築港行きが発車するところで、急いで乗り込む。

帰りはバタバタしたが、ことでんの電車に揺られながら、ともかく巡拝が終わったのだなと少しずつ実感が湧いてくるのを感じる。別に何か悟りを得られたとか、これで人生が変わったとかいうのではないけれど・・・。
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第24回四国八十八所めぐり~結願の寺に到着

2019年02月21日 | 四国八十八ヶ所
大窪寺に向けて県道3号線から国道377号線に差し掛かる。そこで12時のチャイムが鳴ったのは学校のチャイムのようだ・・・と思ううちに出てきたのは学校らしい建物。手前には休憩用のベンチもあるが、校舎には「天体望遠鏡博物館」の看板が見える。

この建物はかつて「多和小学校」だったところだ。2012年に122年の歴史を閉じた小学校(さかのぼれば明治時代、日清戦争よりも前に開かれた小学校ということになるのだが)の廃校舎を利用して、2016年にできた施設である。こうしたところに天体望遠鏡の博物館があるというのは夜の星空を楽しむことができる環境ということだろう。実際、観測のイベントも行われることがあるそうだ。

また校内には「結願の郷」という建物で土地の農作物や手作りの産品などが売られていて、休憩もできる。ちょうど12時すぎだが食事は大窪寺のお参りが終わってからにしようということで、ここはいったん休憩とする。お茶と小袋の節分豆のお接待を受ける。トイレも最新の設備を揃えていて、大窪寺に向けての最後の休憩スポットとしては快適なところだ。

係の人から「今から大窪寺ですか?」と訊かれる。「ずっと歩いて?」となるが、そこは正直に鉄道やバス利用中心だったが、最後は歩いてたどり着くつもりと答える。まあ、ローカル列車、ローカルバスなどの乗り物のダイヤをどう組み合わせるかというのも遍路旅(遍路を旅と言ってはいけないのかもしれないが)の楽しみである。別に誰かをだますつもりでもないのだが、たまたま最後の区間を歩いているだけでも「遍路道を全て歩いて来た」と見られるものなのかなと思う。

店内には「結願御礼」というどぶろくの四合瓶が置かれている。結願の記念に買ってもいいかなと思ったが、これからまだ5キロ以上あるし、瓶を担いでいくのもちょっと・・・という感じで見送る。持ち運びが容易な300ミリリットルやワンカップなら何本か購入するところだったが・・(何本も買うたら余計重たなるやろが)。

しばらく休憩した後、国道を歩く。まただらだらとした上り坂となる。それを上りきったところで三十四丁石の案内板がある。カウントダウンが七十丁から始まったから半分を過ぎたところである。丁石は国道の拡張工事にともない崖の上に移したとあるが、それらしき姿は見えない。

ここから下りに転じて、左手に休憩所のベンチがあって三十丁。いよいよ大詰めかなと思う。ここからは道路拡張工事の対面通行区間を過ぎて山村風景の集落を過ぎる。ここまで来ると時間を気にせず淡々と歩くばかりである。

二十丁のところで旧遍路道は国道と分かれて左手に伸びる。後はこの道なりに行けば大窪寺に至る。前日はにわか雨が降ることもあったが、この日は冬の穏やかな日差しが差し込む。少なくとも雨に打たれながらとか、夏の猛暑で汗だく・熱中症になりかけながら大窪寺にトボトボとたどり着くということもなく、この時季を選んだのは悪くないなと思う。

道端に十六丁石を示す矢印がある。わざわざ脇道を指していて、民家の庭先のようなところも通る。川沿いの細い道に建てられた名残だという。どう見ても民家の軒先で、こういうところを通って大丈夫かと思うが、遍路道を示す矢印のステッカーも貼られているのでそのまま進む。次の十五丁石は地元の家らしい墓石とともに覆いにかぶさって安置されていた。

さらに十四丁、十三丁となると完全に畑の中を歩くし、さらにその先の藪の中にある。夏場だったら草むして歩くどころではないのではないか。また途中に門扉を開けるところもあり、大丈夫か、不法侵入になっていないかヒヤヒヤする。最後に昔の姿を残す遍路道らしいところを歩いたといえば聞こえはいいが、果たしてどうだろうか。丁石にそこまでこだわらず普通に車道を歩けば十分だと思う。

そのまま進むとようやく車道に戻り、「大窪寺 0.7k」と手書きの遍路道の標識が出てきた。これには私ですらうなったので、ここまで1200キロをずっと「ガチの歩き遍路」で来た人ならよりグッと来るものがあるのではないかと思う。スポーツの実況なら、「さあ、いよいよ残り1キロを切って来た!! ビクトリーロード! 栄光のゴール、結願までは残りわずかです!!」とでも言うか。ただ、周りには他に歩く人はおろか、家はあるが住む人の気配がほとんど感じられない静かな集落である。淡々と歩くが、最後はまた上り。わずか数百メートルと思うが結構ダラダラ続くように感じられる。

それでも遠くに山門の屋根がチラリと見えた。ああ、着いたんやなとスピードを上げて、大窪寺の立派な山門の前に出た。別に誰かがゴールテープを持っているわけでもなく、拍手が起こるわけでもない。単に「着いたな」というくらいのものである。

回り方は人それぞれ、私もここまで結構変わったやり方で来たが、ともかく八十八所目の札所に着いた。長尾寺を出たのが朝の9時で、大窪寺に着いたのは13時半。やれやれと、最後の札所にて手を合わせることに・・・。
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第24回四国八十八所めぐり~結願への旧遍路道カウントダウン

2019年02月20日 | 四国八十八ヶ所
前山の「おへんろ交流サロン」を後にして、大窪寺までは「旧遍路道ルート」を行くことにする。やはり初めてということもあるので古くからの道をたどろうというものだが、歩き遍路の方のブログなど見ると女体山越えの記事のほうが目立つ。

県道を数10メートル長尾よりに戻ったところに入口がある。ここを行くわけだがすぐに急な上り勾配になる。最高地点のところで先ほどのサロンとは約250メートルの高低差があるそうだ。また道端に待機場所として番号が振られた標識を見る。実はこの先に残土処理場があり、この道をダンプカーが行き来するという。そのダンプカーのすれ違いポイントだ。先ほどのサロンの方は「日曜日なんでおそらくダンプカーは来ないと思うけど・・・」とのことで、果たして行き交うダンプカーはおろかクルマも見かけなかった。クルマなら県道を行けばいいことだし、人家も全く見かけない。

今回はこのまま車道を歩いたのだが、実はこの旧遍路道には別に「迂回路」がある。車道はダンプカーが行き交うので危ないとして、近年地元の人たちが中心となって尾根道を新たに開いたものだ。上り坂の途中に入口があったはずだが、おそらくわたしが見落としたのだろう。車道をずっと歩くことになったが、皮肉なもので残土処理場の入口あたりが平野部を遠くに眺望できるスポットだったりする。

ダンプカーが入るのもそこまでのようで、この先は細い車道が続く。なぜか自転車が道端の林の中に投棄されていたりする。

サロンから35分ほどで休憩スペースに出る。この辺りが最高地点だろう。案内板には源義経が屋島に向かった道とある。ようやく下り道に転じる。

少し歩くと大窪寺まで七十丁の道標に出る。ここから丁石が道端に残される区間ということで、残り7.6キロ、いよいよ結願に向けてのカウントダウンがここから始まると言ってもいいだろう。再び人家も出て来て、六十六丁の石を過ぎると県道3号線に合流する。ここには六十五丁の石がある。

この後はクルマの多い県道と、極端な細道の旧遍路道を出入りする。その途中、県道から脇に入って、このルートならではの立ち寄りスポットとされる細川家住宅に向かう。看板に従って行くと民家の裏手、ちょっと坂を上がったところにある。

細川家住宅は18世紀初めの建物とされていて、国の重要文化財である(遍路とは直接関係ないので寄る寄らないは個人の判断だとか)。母屋と納屋の2棟が残されていて、いずれも茅葺き屋根、土の壁である。阿讃地方の特色をよく残しているのが文化財としての評価だが、似たような造りの建物、前回屋島で立ち寄った四国村にもなかったっけ?

母屋の中は居間と囲炉裏の間、台所という質素なもの。この時季だから思うのだろうが、外は土壁といっても冬はかなり寒そうである。讃岐平野の真ん中ならいざ知らず、阿波に近い山の中では生活には厳しい環境だったのではと推察する。

セメント一塊を「豆腐」と表現しているセメント工場の横を過ぎ、また県道3号線に入る。この辺りは多和地区という。多和駐在所前で西から来た国道377号線と合流する。ちょうどこの手前で、12時を告げるチャイムが鳴ったが、その響きは学校で流れるチャイムと同じものだった・・・。
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第24回四国八十八所めぐり~おへんろ交流サロン

2019年02月19日 | 四国八十八ヶ所
大窪寺に向かう前山ダム湖のほとりにあるのが「道の駅ながお」、その一角に「おへんろ交流サロン」というのがある。前山地区活性化センターの建物を利用しており、休憩も兼ねて入ってみる。

入ると女性の係員が出迎えてくれ、お茶のお接待をしていただく。また「おひとつどうぞ」ということで、缶に入った笑い文字がかかれた飴やティッシュケースもいただく。

「今から大窪寺ですか」ということで、「歩き遍路大使の任命というのをやってますんで、どうぞこちらにご記入を」と用紙を渡される。

これまでの記事でもずっと書いてきたことだが、全行程1200キロに及ぶ四国八十八所めぐりの道すべてを歩きで踏破したわけではない。もちろん区切りでの四国行きだし、鉄道や路線バス(中にはレンタカーも含む)をベースにしており、実際に歩いたのはそのうちどのくらいになるかはいずれ計算しなければならないのだが、いずれにしてもこのブログで何度か表現している「ガチの歩き遍路」ではない。

ならば事情を話して辞退すればよいことなのだが、せっかく勧めていただいているのだし、これもお接待の一つかなと解釈してそのまま「任命」を受けることにした。用紙に記載した住所を見た係の人は「藤井寺って、西国さんの札所(葛井寺)ですね。西国は回りはったん? 私も葛井寺に行ったことがあって、あそこは平地だから楽やったけど、その前の槇尾山(施福寺)はしんどかったわ・・。あんな山道やと思わんで、上にいったら自動販売機も何もなくて・・」と話す。確かに、四国の寺は「遍路ころがし」の先にある焼山寺や鶴林寺などにしてもクルマで上がれるし、寺の境内にも何がしかの設備はあった。そう言われれば施福寺は山道を歩かなければたどり着けないし、山の上には(昔は売店があったそうだが)お堂以外何もない。

しばらくして「任命書」をいただく。任命番号(毎年7月1日~翌年6月30日までの通し人数)と氏名が書かれている。いただいたのは1000番台。2004年から始めたこの「任命書」、例年2500~3000名が授与されているようで、年間の歩き遍路の数も概ねそのくらいと言ってもいいだろう(ちなみにこの2月10日は、私の前に3名ほど「任命」の手続きが行われたとのこと)。メッセージには「貴方は四国八十八ヶ所歩き遍路約1200kmを完歩され、四国の自然、文化、人との触れ合いを体験されたので、これを証すると共に、四国遍路文化を多くの人に広める遍路大使に任命致します」とある。何だか複雑な気持ちだが、「1200km完歩」のところはさておき、四国のさまざまなものに触れることができたのは確かである。また、どのくらいの方が目にしているのかはわからないが、その経験をこうした雑文に書いて発信することで、ほんの少しでも四国遍路文化に興味を持つ方が出れば幸いだと思う。

また記念品として、歩き遍路のバッジとDVDをいただく。DVDは四国遍路のスライドショーだということで、この文を書いている時点ではまだ見ていないのだが、どのようなものか楽しみである。

サロンの中は四国遍路に関するさまざまなものが展示されている。中央には四国全土の立体模型があり、各札所の場所がランプで表示できる。これまで平面地図でルートを見ていたが、こうして立体にしてみると決して平坦な道のりではないことがわかる。

かつて在任中の合間に歩き遍路を結願した菅直人元首相の色紙もある。

また資料室には四国遍路に関するさまざまな歴史史料が残されている。やはり現在の遍路の形の原型ができたのは江戸時代の中期以降で、納札や納経帳も残されている。

驚くのはこの真っ赤な納経帳。回数を重ねると朱印も「重ね印」になるのだが、生涯に八十八所を308回巡った方のものである。308回・・・生活のほとんどが札所めぐりではないかと思う。いや待てよ、上には上がいるもので、確か第6番の安楽寺だったか、その門前に500回の結願を記念して石柱を立てたというのがあり、そしてさらに回数を640回超に伸ばしていた(2016年7月時点)。改めてこの遍路文化の奥の深さを感じる。

また明治から大正にかけての大先達で、道標の設立にも尽力した中務(中司)茂兵衛に関する史料もある。もちろんこの方の納経帳も真っ赤。

奥には日本の各都道府県ごとの里程図が展示されていて、それぞれに納札を入れるケースがある。ここを訪ねた記念に納めるのだろう、私も大阪府のケースに1枚入れておく。

この展示コーナーは勉強になるが、これが88番を前にした場所にあるというのはどういう理由だろうか。例えばこれから遍路を始める1番の霊山寺の近くにあってもおかしくない、というより、いろいろ知ってもらおうと思えばそちらにあるのが自然ではないかなとも思う。それが結願の前にあるというのは、これまでの振り返りということもあったり、あるいは一通り回った後なら史料の理解も深めやすいということがあるのだろうか。

これからどのルートをたどるのか係の人に尋ねられる。旧遍路道ルートをたどる旨を告げると、ルートの紙をいただく。基本的には普通の道路ということで、最初に上り坂が続くものの標識もあるし難所らしいところはないとのこと。ポイントの写真も見せていただく。

さてここから大窪寺まで11キロ。最後に「歩き」での到達を目指して出発する・・・。
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第24回四国八十八所めぐり~大窪寺への遍路道

2019年02月18日 | 四国八十八ヶ所
2月10日、いよいよ88番の大窪寺を目指す。行きは長尾寺から大窪寺まで歩き、帰りはさぬき市のコミュニティバスに乗る予定である。時刻表を調べたところでは、帰りの大窪寺発は13時30分、15時51分発とある。高松を早朝に出れば13時30分発に乗れるだろうが、そこは急がず15時51分発に乗ることを目指す。

急がずということなら宿泊のホテル川六でしっかり準備しようと、朝風呂にも入り、バイキング形式の朝食もしっかりいただく。セルフ式のミニさぬきうどん(冷凍もの)があるのも香川らしいし、瀬戸内おでんなるものもある。

ホテルをチェックアウトして、瓦町ではなく高松駅まで歩く。大阪への帰りは高松駅から高速バスに乗る予定ということで、いったん高松駅のコインロッカーにバッグを預ける。この日の香川県の降水確率は0%~10%、空も明るい。

高松築港から長尾線の電車に乗る。40分ほど揺られて長尾に到着。これから大窪寺に向かうが、その前にせっかくなので前日お参りした長尾寺に向かう。

朝8時半の長尾寺は境内の掃除や、地元のお年寄りが挨拶代わりに手を合わせるなど朝の風情である。もう一度本堂、大師堂にてお勤めとして、これからの道のりの無事を誓う。

長尾寺から大窪寺まで16.5キロという表示がある。また境内には案内板があり、大窪寺まではいくつかのルートがあると示している。途中の前山ダムまでは同じだがそこから分岐するということで、大きく二つの系統がある。一つは県道3号線や旧遍路道を通るルート。もう一つは女体山を越えるルート。歩いて大窪寺に向かった人のブログなどいろいろ見る限りでは女体山越えルートを取った人のほうが多いようだが、私は旧遍路道ルートを取ってみようかと思う。歴史的に見てかつての遍路が通った道で、女体山越えは比較的最近に開かれたルートだというのと、本音のところでは岩場もある山を無理に越えなくても・・・というのがある。いやいや難所を越えてこそ感動が大きいのだという声が大きいのはわかるが。

時刻はちょうど9時、笈摺を羽織って金剛杖を手に出発する。門前にかつての銀行らしい建物があり「結願亭」とある。かつての百十四銀行の建物を活かしてうどんや木製品など販売しているようだ。

他に歩き遍路らしい人の姿は見えない。早くに出立する人は門前の旅館に泊まるだろうし、「上がり3ヶ寺」の志度寺を朝イチで訪ねたならばちょうど長尾寺に着く頃かと思うがそれらしい人も見えない。まあ、2月の一番寒い時季だからな・・・と歩き始める。

門前の集落を抜けて県道3号線に向かう。交差点にあるのは「秋田清水九兵衛地蔵坐像」。明和9年(1772)年の建立とある。さぬき市に入るとこうした由緒あるものの解説板が目立つ。

県道を南下すると、入谷製麺の前を通る。さぬきうどんの名店めぐりの記事で目にしたことのある名前だが、ここだったのか。ただ結構前に休業しているそうで「食堂は閉店しています」との貼り紙がある(麺じたいは作っているのかな?)。

「弁慶の馬の墓」というのがある。源義経率いる軍勢が屋島攻めの際にこの辺りを通ったのだろう。わざわざ馬のために墓を建てるとは愛馬として親しんでいたのだろうか。なおこの奥には宗林寺という寺があり、「俳諧の寺」との石碑もある。俳諧にはそれほど興味がないので立ち寄らなかったが、境内には種田山頭火のものを中心に30基以上の句碑があるそうだ。

鴨部川のたもとに「弘法大師御休息所」の札がかかった庵がある。「川原の庵」というそうで、石の弘法大師坐像や阿弥陀三尊を祀っているとある。また、元々は別の場所にあったのが大正元年に洪水に遭って現在地に移転したとある。さらに昭和49年になって付近の道路工事をするにあたり、洪水で行方不明になっていた手水鉢が出てきたともある。

鴨部川を渡ると、県道とは別に旧遍路道が続いていてこちらを歩く。

昔ながらの静かな集落が続く。その中に釈迦堂や光明真言二百万遍の記念碑がある。案内板では「ここを通過するお遍路さんは、それぞれに懇ろに合掌して通るのである」というので、私も合掌して過ぎる。

一心庵というのがある。1764年、印誉意心法師の草創とある。江戸時代に一般民衆の遍路が盛んになった頃からの歴史が今でも残されていることがわかる。

地蔵菩薩や不動明王、弘法大師などの石像が集まる一角に出る。台座の上にある地蔵菩薩が「高地蔵」という。毎年3月に法要が行われるようで、案内板によれば「近在のいやしの空間」とある。

この先にも道祖神やら祠、江戸時代の道標が点在し、歩く中でも退屈することがない。

また、こうした石像の合間にもこの方のポスターが現れる。本当、お地蔵さんとどちらが多いことやら。

再び県道に合流し、上り坂となる。向かうのは前山ダム。前方から来るクルマがスピードを緩め、運転席の窓が開いて「がんばってください!」と声がかかる。こういう形で声をかけていただくというのもこれまでめったになかったことで、手を挙げて答える。

前山ダムは先ほど触れた鴨部川の治水と、当時の長尾町、志度町の水道用水確保のために1975年に完成した。現在はダム湖の周りにキャンプ場や道の駅もある。

そのダムの入口に遍路道の看板が出る。大窪寺まで車道直進なら10.6キロ、左折してダムを渡ると女体山越えのコースで7.8キロとある。距離だけなら女体山越えのほうが短いが、車道直進なら所要約2時間50分とあるところ、1時間余分にかかるという。「登坂峻険約500m 絶景感動のコース也」と付け加えられている。ちなみに遍路道のいたるところに目印で貼られている矢印のシールは「左」を指している。いわゆるガチの歩き遍路の正統ルートは女体山越えなのかなと思う。この「登坂峻険」とか「感動絶景」という言葉に魅かれるのかな。

ダム湖を左手に見て歩く。この先、道の駅に並んであるのが「遍路交流サロン」。どのコースをたどるにしても、歩いて大窪寺を目指すならぜひとも立ち寄るべきスポットだという。長尾寺から1時間20分、まずはこの交流サロンに休憩を兼ねて立ち寄ることにする・・・。
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第24回四国八十八所めぐり~酒場詩人も訪れた「ふるさと」居酒屋

2019年02月17日 | 四国八十八ヶ所
87番の長尾寺を訪ねた後、駅すぐのことでん長尾駅から電車に揺られて瓦町に戻る。長尾寺の周りには歩き遍路向けの旅館もあり評判もよいそうなのだが、私のスタイルとしてはどうしても街中のホテルになってしまう。また翌日は結願ということで前祝もしたいし・・・と理屈をつけてみる。

瓦町駅でコインロッカーからバッグを取り出して歩く。高松市の繁華街に当たるがまだ15時を回ったところでそれほど人出もない。そんな中で入ったのはライオン通り。なぜライオンなのだろう。通りの北の突き当りに百貨店の三越があるからなのかと思っていたが、かつてこの通りに「ライオンカン」という映画館があったことからだそうだ。

この日宿泊するのはライオン通り商店街から少し入ったホテル川六エルステージ。かなり前に一度宿泊したことがあるが、今回は高松の繁華街に近いところで泊まってみようと予約していた。建物は本館、エルステージ館、禁煙館と3つに分かれていて、今回泊まるのは禁煙館である。部屋は小ぶりだがシングルルームとしては十分だ。

時間はまだ早いが、ライオン通りにはさまざまな飲食店が集まっていて店選びには不自由しない。何か郷土料理の店があればと歩く中で、瓦町寄りに「ふるさと」という店を見つける。店の前で「今からでも入れますよ」と女将さんに声をかけられたのでその日の口開け客として入り、カウンターに通される。

「今日はホテルの割引券をお持ちか、ご紹介か何かですか?」と尋ねらる。割引券は持っていないが川六に泊まっている旨を告げると、現金扱いで10%オフにするとのこと。その後でメニューの中から本日のおすすめをあれこれ案内してくれる。そうするうちに次々と客が入ってきて、カウンター、上がりも結構賑わってきた。この後は満員御礼となった。先の問いかけにはホテル泊と答えた人もいれば、地元という答えもある。県内外で知られた店というのかな。

まずは魚をということで、造りの盛り合わせをいただく。この日はオリーブハマチ、かつお、サザエの三種。オリーブハマチは香川県の木であるオリーブの葉を餌にまぜて育てた養殖のハマチで、オリーブに含まれるポリフェノールの効果で肉の酸化や変色を抑えることができ、さっぱりした味わいが得られるという。変な脂臭さがないのもよい。それにしても四国は柑橘系の果実を利用して養殖したブリやハマチ、タイが目立つ。各県ごとにすだち、ゆず、みかん、そしてオリーブと、それぞれ木が違うのも特徴である。

店の看板メニューは讃岐コーチンを使った骨付鳥という。最近では高松市内でも扱う店が増え、先ほど乗った長尾線の駅近くや、このライオン通りにも店を見かける。その中で讃岐コーチンとはブランド鶏のようだが、ちょっと値段が張るので迷うところだ。

その代わりというわけではないが、この日は「裏メニュー」で讃岐コーチンの朝取れ生レバーがあるとのことで、そちらを注文する。今は牛の生レバーの提供が禁止されていて、生レバーなら鶏肉となるのだがどこの居酒屋にでもあるものではない。「新鮮ですがなるべく早く召し上がって」と勧められる。結構濃厚な味だ。

また焼き魚もお勧めとのことで、いくつかある中から「びんぐし」という初めて接する名前の魚を選ぶ。ご主人が「こういうやつです」と見せてくれたびんぐしは、セトダイという名前のある瀬戸内の魚で、イサキ科に属する。びんぐしという名前は、背びれが女性の日本髪に差す櫛の形に似ているからだとか。やって来た一品は身が締まっていて、塩味もほどよく効いていた。しっかり身をほぐしていただく。

これらに相対するのは観音寺の「川鶴」。枡でいただく。

続いては綾川の「綾菊」の冷酒。綾菊は香川でもポピュラーな銘柄だが、この一品は10年ほど前に香川大学、香川酒造組合、農協が共同開発した酒米「さぬきよいまい」を使ったもの。香川オリジナルの酒である。

さまざまなものをいただき、これで翌日の結願に向けて景気づけとなった。案内の通り、会計は1割引き、さらに10円単位は切り捨ててくれた。その会計の際、入った時は気づかなかったがあの「酒場詩人」・吉田類さんの2枚の色紙があるのが目に入った。後で「酒場放浪記」のサイトを見ると、高知県出身ということで、また飲みどころとして地元高知の店は多く紹介されているが、他の四国3県は八十八所めぐりと絡めての訪問である。昼に寺参り、夜は酒場めぐり・・・ええやないですか。四国八十八所めぐりの「夜の部」を「夜の八十八所めぐり」などと言って居酒屋で楽しんでいるが、やはり「先達はあらまほしきものなり」、である。ここ「ふるさと」は事前にチェックしていたわけではないが、酒場めぐりの大先達である吉田類さんも訪ねた名店だったとは、何かのお導きだろう。

まだ時間が早いのでアーケード街をぶらつく。高松のアーケード街の総延長は2.7キロと意外にも日本最長なのだという。そのシンボルがクリスタルドームだ。他にも大衆酒場あり、また高松に来ることがあればのぞいてみたいものだ。

締めはうどんということで、「うどん市場」にてつけぶっかけうどんをいただく。うどん店でありながらビールあり、地酒の飲み比べあり、しょうゆ豆などのつまみや骨付鳥まである店(さすがにアルコールは飲まなかったが)。

ホテルに戻り、大浴場にてリフレッシュする。いよいよ翌10日は結願に向けて大窪寺に行く。その前にしっかり眠ることに・・・。
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第24回四国八十八所めぐり~第87番「長尾寺」

2019年02月16日 | 四国八十八ヶ所
志度寺から歩いて長尾寺に到着。境内に入るのに石段も何もなく、また外塀もないため境内までクルマでも入ることができる。

山門の脇には経幢(きょうどう)が2基、祠に収められて立っている。経幢とは経文を埋納する施設や供養の標識として立てられたもので、長尾寺のものは鎌倉時代後期に奉納された歴史的にも古いものだという。

山門をくぐる。山門に鐘がぶら下がる珍しい造りだが、やはり町中のためか撞くことはできない。

長尾寺は奈良時代、行基が聖観音像を安置したのが始まりとされている。また弘法大師が唐に渡る前に入唐求法の成功を祈願して7日の間護摩供養を行い、7日目の夜に護摩符を丘の上から人々に投げ与えたという伝説がある。これが現在も「会陽(えよう)」という行事で伝わっている。会陽と聞いてイメージするのは、岡山の西大寺の大会陽である。夜中、宝木をめぐってまわし姿の男たちが奪い合うというあの行事。一方長尾寺では本堂の上から餅を撒いたり、150キロの大鏡餅を持ち上げて歩いた距離を競い合う正月の風物詩となっている。

歴史としては幾度かの兵火で堂宇が失われ(おそらく、あの戦国大名の兵火にも遭ったのだろう)、慶長年間に生駒氏による復興、さらに江戸時代には高松松平氏の保護を受けたという。また、五来重の『四国遍路の寺』では、長尾寺はもともと志度寺の一つの支院で、それが独立したものだと推定している。

「七観音随一」といく額が掲げられる本堂、そして隣に並ぶ大師堂でお勤め。

本堂の脇には、「静御前剃髪塚」がある。静御前といえば源義経の側室。義経が兄頼朝と対立して落ちのびる際に別れ、捕えられて鎌倉に送られ、頼朝の前で「しずやしず~」の舞を舞ったことで知られている。その後の消息はよくわかっておらず諸国に伝説があるそうだが、ここ長尾寺では、静御前の母の磯御前が讃岐の生まれということで静御前も讃岐に渡り、長尾寺で出家得度したという。

こちらの境内でも梅の花が開いているが、梅ということでよく似合うのが天満宮。境内の一角に長尾天満宮の拝殿がある。天満宮といえば菅原道真だが、道真が讃岐の国司だった時に長尾寺の明印という僧と親交があったという。道真が九州に流される時、讃岐にも立ち寄り、明印と詩のやり取りをして別れを惜しんだ。そのことから後に天満宮が建てられたとある。

納経所で朱印をいただく。

これで残すは88番の大窪寺となったが、これは翌日の10日に向かうとして、この日の行程はこれで終了。

すぐ近くにあることでんの長尾駅に向かい、瓦町に戻ることにする。この長尾線は長尾寺への参拝路線として建設された歴史がある(その後、讃岐白鳥までの延伸も計画されていたことがある)。2両編成の列車に揺られて高松市街に戻るが、また翌日ここにやって来る・・・。
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第24回四国八十八所めぐり~さぬき市に残る遍路スポット

2019年02月15日 | 四国八十八ヶ所
志度寺から長尾寺を目指して、左手にオレンジタウンの住宅地を見ながら歩く。JR高徳線の線路も近くにあり、新型車両の特急「うずしお」が快音を響かせながら高松へと向かっていく。

歩いている県道3号線沿いに小屋がある。「萩の木地蔵休憩所」とある。遍路道には地元の人たちの手で整備されている休憩所がいろいろあるのだが、ここはベンチだけでなくお堂の造りである。

扉を開けて中に入る。元々は道沿いの地蔵堂だったのだろう。それを1間四方の小屋のような形で休憩所としている。お地蔵様の前で人一人が横になるくらいのスペースがあり、「お泊りの場合は賽銭箱をお地蔵様のほうに預けてください」という内容の貼り紙がある。

中には訪問ノートやさぬき市の観光パンフレットもあり、小さな納札箱もある。外国人の訪問も意識しているのか英語での案内表示もある。地元の人らしい手書きの案内によると、今から千数百年前に弘法大師が志度から長尾に向かっていたところ、この地に萩の木があり、これを採取してお地蔵様の像を彫り、その萩の木があったところに安置したという。また一方では、志度寺の本尊十一面観音を彫った木のあまりで造られたものだとか、さまざまな言い伝えがあるようだ。

ここまで県道3号線沿いに歩いてきたが、この萩の木地蔵の休憩所からはかつての遍路道に入る。地元さぬき市の手による案内板に従って先に進む。県道3号線から分かれる遍路道にはこの先さぬき市による標識が出てくるが、八十八所の結願に向けての応援であったり、さぬき市の観光PRの一つという感じにも見える。

先ほど萩の木地蔵の小屋で休憩したが、皮肉なことに外に出るとポツポツ雨が落ちてきた。事前の予報で天気が不安定とは聞いていたが、まあ小雨かと思うとそのうち強くなってきた。慌てて折り畳み傘を取り出す。

細道を歩くうちに、玉泉寺という寺がある。新四国曼荼羅霊場の札所にして「長尾寺奥の院」の立札がある。札所の長尾寺に着く前に奥の院に着くというのも妙な感じだが、雨も降っていることだし雨宿りではないが立ち寄ることにする。

石段を上がると背の低い藤棚があるために境内は狭く感じる。この奥が本堂で「日切地蔵菩薩」の額が掲げられている。日切地蔵とは、日を限って念ずれば功徳があるという地蔵菩薩である。

「大師堂はこの奥」という案内板がありそれに従うと、一般の札所にある独立した建物ではなく、小さな祠がある。ここには「満願大師堂」との手書きの額があり、中には小さな弘法大師像が安置されている。その両側には四国八十八所の公認先達たちの錦や金の納札が飾られている。まだ結願には至っていないし、四国八十八所で「満願」というのは、88番の大窪寺まで行き、さらに第1番の霊山寺に戻って「四国一周」したことを指すそうだから(これは1番から回った場合であって、他の番号の札所から始めた場合はその札所まで戻って「満願」となる)、少し気が早いように思う。

しばらく滞在して遍路道に戻る。先ほどの雨は通り雨だったようでしばらくすると止んだ。日切地蔵が何かしてくれたのかもしれない。

この週末は北日本から東日本にかけて観測史上最強クラスの寒波がやって来ていたが、こちらでは沿道で梅の花がほころびかけるなど、春の訪れが少しずつ近づいているようである。県道から離れて長尾の田畑の集落の中を歩いていく。江戸時代に建てられた石の道標も所々に残されている。

遍路道はいったん長尾寺の東門の前を過ぎる。ここは一度通り過ぎ、山門に回り込む。志度寺から途中の休憩や参詣を入れて1時間40分ほどで到着である・・・。
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第24回四国八十八所めぐり~志度寺から長尾寺へ歩く・・国民民主党とオレンジタウン

2019年02月14日 | 四国八十八ヶ所
四国八十八所の「上がり三ヶ寺」を歩きで結ぶ。9日の午後はその前半区間の志度寺から長尾寺を目指す。志度寺の境内に引き続いてブルゾンの上に笈摺を羽織り、杖を突いて歩き始める。志度寺の境内には他にも白衣や笈摺姿の人はいたが、歩いて次に向かう様子ではない。

まずは山門から左に曲がって南下し、国道11号線を渡ると県道3号線に入る。長尾寺へは基本的にこの道を歩くようだ。JR高徳線の踏切も渡る。

歩く中、至るところにこの方のポスターを見かける。この四国めぐりでは、札所が進むに連れて道端のポスターの移り変わりも感じられるのだが、香川での坂出シリーズあたりからは玉木雄一郎・国民民主党代表の独壇場となる。

この香川2区は香川1区となる高松市中心部を三方から囲む形で存在していて、西から坂出市、高松市の一部、さぬき市、そして香川東部全域と広い。遍路道には道標となるお地蔵さんもあるが、玉木氏のポスターはこの先の大窪寺までの間にお地蔵さんの数倍ほど目にすることになる。代表を務める国民民主党は国政の世論調査では支持率1%にも満たず、最近では野党の覇権を握るべく「汚沢」自由党と連携とかいうのがニュースになったくらいのものだが、遍路道における玉木氏の支持は圧倒的なのかなと感じる。それなら、菅直人元首相のようにガチの歩き遍路をやればいいのに・・(岡山理科大学今治キャンパスの創設に反対した獣医師界のお坊っちゃまには無理だろうが)。

高松自動車道の下をくぐる。大阪からの往路で通過した志度のバス停は西に300メートルとある。志度寺からここまで20分ほど歩いたが、まあ、大阪から志度寺への最短ルートと言えなくもない。

ここから少し上り坂となり、長行池という溜め池に沿う。池の向こうに広がる住宅地はオレンジタウンである。アメリカのハリウッドのロゴを模した「ORANGE TOWN」のロゴが家の間から見える。

JR四国の不動産事業として1998年から分譲が始まり、当時としては珍しいカタカナ駅名の「オレンジタウン」駅もある。それなりに人気なんだろうな・・と、この記事を書くにあたりオレンジタウンについていろいろ検索したのだが、ネットには「失敗」「多難を極める」といったマイナスの言葉が目につく。

どうやら、開発から20年を経過してもまだ全体の3分の2が空き地なのだという。商業ゾーンの新設などテコ入れはしているそうだが、当初の目論見通りとはいかないようだ。特急も停まるオレンジタウン駅の利用客も1日100人台でしかないという。何が原因なのかはよくわからないが、香川には香川の住宅事情があるのだろう。

そんな中、さぬき市役所から大窪寺に向かうコミュニティバスが私の歩く横を過ぎていく。公共交通機関遍路なら1日4本のこのバスに乗ってこそ・・だが、時刻表はわかっていて歩きを選択した身である。ただ、走るバスに誰も乗っていないのが気になる。自治体のコミュニティバスといえば平日の昼間のみ運行がほとんどで、週末の観光客が使えない舐めた設定が多い中、さぬき市のバスは土日も運転している。「上がり三ヶ寺」めぐりへの配慮だと思うが、肝心の利用がなければいずれ運行を取り止めるのでは・・?と、自分のことを棚に上げて心配してしまう。

歩き始めてまだ1時間も経過していないが、例によってあれこれ書き乱れて長くなったので、続きはこの後で・・・。
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第24回四国八十八所めぐり~第86番「志度寺」

2019年02月13日 | 四国八十八ヶ所
源内通りを歩く。沿道には平賀源内が残した言葉を紹介するパネルも飾られている。ちょうど通りの突き当たりが志度寺の山門である。五重塔も見える。山門と五重塔の組み合わせはなかなか様になる。

山門の手前に塔頭寺院の自性院があり、「源内さんのお墓」の立て札がある。源内は江戸で獄中死して、親友の杉田玄白らの手で浅草に葬られたが、自性院が平賀家の菩提寺のため、参り墓を建てたとも実際に分骨されたとも言われている。いずれにしても志度の人たちにとって今に至るまでの偉人であることがうかがえる。

さて志度寺、山門をくぐるとやたらと緑が多く感じる。ただ何だか雑然と並んでいるような・・・。境内というよりどこかの屋敷の手入れされていない庭に入ったかのようである。木の間を縫うように標識に従って本堂に出る。まずはここでお勤めである。

志度寺の歴史は古いようで、7世紀の前半、推古天皇の時代に、志度の海岸に流れ着いた檜の霊木を尼が持ち帰り、十一面観音像を彫って祀ったのが始めとされている。奈良時代に藤原不比等やその子房前らの手で伽藍が建てられ(だから先ほどその駅名があったのかな)、その後も栄えたが、戦国時代には土佐の長宗我部元親にも攻められ(阿波や讃岐の札所はほとんど彼の戦火に何らかの形で巻き込まれたように思う)、江戸時代に高松松平家の手で復興した歴史を持つ。

本堂と並ぶ大師堂にも手を合わせる。

この後で三尊像や閻魔堂、薬師堂などを回るが、どこか違和感を覚える。先に「どこかの屋敷の手入れされていない庭」と書いたが、よく見れば手入れはされているものの、植木鉢なども並んでいてどこかの植木市の屋外売り場に見えなくもない。どういう経緯でそうなったのかはわからないが、山門前から見た姿が由緒ある大寺の風情だったのに対して、境内が無駄に草木の生える状態だったのは意外である。

あくまで訪ねた時の印象なので、時季を変えれば違った景色が見られることだろう。

さて時刻は12時半前、志度寺から次の長尾寺までは約7キロ。この時間なので歩きへのプレッシャーはない。ともかく南に向けて歩き始める・・・。
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第24回四国八十八所めぐり~讃岐が生んだもう一人の天才

2019年02月12日 | 四国八十八ヶ所
中央公園から歩いて瓦町駅に到着する。駅は「瓦町FLAG」という駅ビルと一体化している。

このビルは1990年代に、瓦町駅の駅舎建て替えも含めた再開発のために建てられたもので、当初はことでんとそごうが共同出資した「コトデンそごう」としてオープンした。しかしそごう自体の低迷や店舗としての売り上げも伸びず、ことでんの本体の経営にも影響した。2000年代に入って天満屋に経営を引き継ぎ、一時は業績も回復したがやはり低迷、2014年に閉店した。現在はことでんが双日グループと提携し、2015年からは百貨店方式ではなく複合ビルという形で「瓦町FLAG」という名前になった。高松の中心にある瓦町において、街の「フラッグシップ」として未来に向けた旗を掲げるという意図がある。現在も店舗のリニューアルが進められており、近日オープンのフロアもある。

バッグをコインロッカーに収めて、10時26分発のことでん志度線の志度行きに乗る。駅ビルの建設にともない、志度線は琴平線、長尾線と線路が分断され、改札口の中だがホームも完全に独立している。ことでんはこの3線で成り立っていて、瓦町にはその3線が集まる。ただそれぞれがバラバラのダイヤを組んでいて独立運転しているのは、大阪でいうなれば阪急の梅田か十三かを連想させる。

行き止まり式のホームから出発。土曜日の午前中、乗客もまばらである。また駅ごとに下車する客のほうが多いので数も少しずつ減っていく。そのうち私の乗った車両には他の乗客がいなくなった。

前回の四国めぐりでは車窓に広がる屋島、そして五剣山にある札所を回った。いずれも香川独特の地形に歴史を持つところだった。今回は前回下車した琴電屋島、その先の八栗(前回の帰りは八栗から乗らず、少し南にあるJRの古高松南から乗ったのだが)から次へのつなぎということにする。

国道11号線、その先にJR高徳線の線路を見ながら東に進む。塩屋を過ぎて急なカーブに差し掛かるところで、車窓左手に海が姿を現す。志度にかけてちょうど入り組んでいるところで波もほとんどない。こうした地形を利用してか、この一帯では牡蠣の養殖も盛んで、牡蠣を殻つきのまま豪快に鉄板で焼く牡蠣焼きが名物だという。

房前では線路横に愛染寺という寺がある。どこかアピールしてくる感じだったのでスマホで検索すると、江戸時代に現在の四国八十八所のルートを定めてPRし、いわば「四国遍路の父」とも言える真念法師の終焉の地だという。八栗寺から志度寺までガチで歩く遍路ならその途中で立ち寄るであろうスポットだ。

11時ちょうどに終点の志度に到着する。ここまでで乗客も減っていて、下車したのは私ともう一人だけ。折り返しの列車にはそれより多い数の客が乗り込んだのが救いといえる。

さてこれから志度寺を目指すが、少し早く昼食とする。ことでんの志度駅のすぐ南には国道11号線を挟んでJR高徳線の志度駅があり、その西隣にうどん店がある。さぬきうどんについていわゆる通ではないのだが、「牟礼製麺」というこの店に入ってみる。

中は昔ながらの雰囲気で地元の人向けのうどん店という感じである。標準的なセルフ方式ということで、かけうどん(大)を注文し、天ぷら、おにぎりも取る。だしもいりこと昆布という讃岐のスタンダードな味だ。

ただ牟礼製麺で扱うのはうどんだけではないようだ。先客が食べていたのは日本そばだったし、後から入った客は中華そば、次の客は中華そば(大)を注文する。後で知ったことだが、この牟礼製麺は製麺所としてうどんだけではなく日本そば、中華そばも扱うそうで、グルメサイトの口コミを見るとうどん以上に中華そばが評判のようだ。他の客が注文した中華そばをちらりと見ると、純和風のスープに入った昔ながらの中華そばで、1杯300円というこちらも昔ながらの価格である。現在ラーメンの専門店に行けば1杯800円、1000円も当たり前というご時世だが、その中にあって300円とは、その辺の社員食堂かそれ以下の値段である。そうしたことは知らなかったのでこの日はそのままうどんをいただいたが、もし次に志度駅前に来ることがあれば中華そばに挑戦しようと思う。

志度寺へは駅から徒歩でも数分で、現在の国道11号線の前身の一部である旧志度街道を歩く。現在は「源内通り」と呼ばれている。

「源内」とは江戸中期の科学者・平賀源内である。この志度の出身ということで地元の人は「源内先生」「源内さん」として親しんでいる。この平賀源内という人物、先に「科学者」と書いたが、その肩書はもっと他にあり、ウィキペディアの記載では「本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家として知られる」とある。

街道沿いには駅の東西に分かれて旧宅と記念館があるが、人物紹介や資料展示は志度寺寄りの記念館のほうということでそちらに向かう。中の撮影は禁止なので建物の外観のみの写真だが・・・。

中は源内の志度、高松藩での生い立ちに始まり、諸国行脚や数々の業績について触れられている。奥のシアター室では源内の生涯を10分ほどのアニメで紹介しているので、まずそちらを見たほうがわかりやすい。子どもの頃に読んだ歴史漫画のシリーズの中に平賀源内があり、さまざまなことを手掛けながらなかなか世に認められないもどかしさが描かれていたのを思い出す。。

源内は12歳の時に、掛軸に細工をした「お神酒天神」というのを作った。掛軸の天神様の顔のところをくり抜き、その後ろに白色と赤色に塗った紙を垂らしておく。普段は白色の顔だが、特利を置いて糸を引っ張るようにすると、紙がずり上がって顔が赤くなったように見える仕掛けである(記念館の売店ではそのペーパークラフトも売られている)。源内はこれで大人たちを驚かせ、「天狗小僧」と呼ばれた。その評判で藩医のもとで本草学を学ぶようになり、長崎にも留学してオランダ語や医学、絵画を学んだ。

その後も江戸や長崎で学び、それを活かした源内の業績を並べてみると、

・江戸で薬草の物産会を開催した。

・伊豆や秩父で鉱山開発を行った。

・さまざまなペンネームで『根南志具佐』や『風流志道軒伝』などの戯作、『神霊矢口渡』などの浄瑠璃脚本(今でも演じられる)を書いた。

・今でも香川で「源内焼」と呼ばれる陶芸の技法を開拓した。

・火浣布(かかんぷ)という、耐火性のある布を開発した。他にも発明、開発品は数々。

・西洋画の技法を伝え、司馬江漢や『解体新書』の挿絵を担当した秋田藩の小田野直武らに影響を与えた。

などなどあるが、中でも有名なのは、

・オランダで発明されたエレキテルを修理して復元し、医療器具として用いた(実際は見世物だったようだが)。

・土用の丑の日にうなぎの蒲焼を食べることをPRした。

の2つだろう。

記念館にはエレキテルの模型が置かれて、その原理を体験することができる。エレキテルはハンドルを回して摩擦により発生する静電気をエネルギーとして箱の中の蓄電池のようなものに集めておき、銅線どうしを近づけることで放電する仕組みである。ハンドルを回してピカッと光るのも見ることができ、大型のものだと蛍光灯も一瞬点くほどのものだ。修理と言っても図面やマニュアルがあるわけではなく、自分の力だけで復元させたというのが源内の優れた所以である。

こうして見ると源内の業績は数々あるのだが、歴史的に誰もが知っている有名人というほどでもないだろう。当時の人から見れば奇才すぎてついて行けなかったとか、現代につながる実用的な発明ではなかったとか、最期は人を殺めた疑いで牢に入れられ獄中死したとかで、評価がいろいろ分かれているのだろう。あまりにもマルチすぎていわゆる「器用貧乏」だった側面も否定できない。

讃岐の天才、偉人ということでまず挙げられるのは四国八十八所の巡拝の対象である弘法大師空海だろう。弘法大師に関する伝説の数々はこれまでの巡拝の中、あるいは歴史の時間で登場する業績にも現れている。空海が讃岐の西・善通寺ゆかりなのに対抗するわけではないが、讃岐の東・志度にはもう一人の天才、平賀源内がいる。もう少し後の時代に生まれていたら、果たしてどのようなことを成しただろうか。

記念館の近くにさぬき市役所があり、建物のすぐ裏は海岸である。また市役所にはコミュニティバスが待機していて、車体には「上がり三ヵ寺まいり」のラッピングが施されている。コミュニティバスには結願の帰りに乗る予定だ。改めて上がりに挑むべく、志度寺に向かう・・・。
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第24回四国八十八所めぐり~いよいよ結願に向けて

2019年02月11日 | 四国八十八ヶ所
2016年の7月に京都三弘法(東寺、神光院、仁和寺)、四国第一番前札所(談義所十輪寺)、そして第1番の霊山寺から始まった私の四国八十八所めぐり。公共交通機関をベースとしてその中に歩きが入る(途中2回のレンタカー利用もあり)スタイルで、「夜の八十八所」やら、四国アイランドリーグの野球観戦も入れるということで、ガチの歩き遍路ではなかったのだが、これまでの回数を重ねてようやく残り3所となった。

さぬき市にある第86番志度寺、第87番長尾寺、そして結願所である第88番大窪寺の3つは「上がり3ヶ寺」と呼ばれている。何だかゴルフの「上がり3ホール」のようだが、88の寺の残り3つだからいよいよ大詰めの感じである。

時期をどうするかということだが、2月の3連休中の9~10日とする。寒い季節だがこの日にしたのは、1泊2日で回り、3日目は「オフ」とするため(もっとも、行くことを決めた後に3日目の11日に外での仕事が入ったため「オフ」にはならなかったのだが)、また4月30日で終わる「平成」のうちに結願後の高野山のお礼参りまで行うためである。

ちょうどこの3ヶ寺をさぬき市のコミュニティバスが結んでいる。「公共交通機関遍路」としてはこのバスを活用すれば1日で回ることができるのだが、さすがに最後ということもあるし、少しずつ結願への実感を楽しもうと、今回志度寺~長尾寺の7キロ、そして長尾寺~大窪寺の16キロは歩こうと思う。ただ大阪からの移動を考えれば1日で歩いて戻るのは難しいようで、初日は志度寺~長尾寺、2日目に長尾寺~大窪寺と分ける。宿は高松市街に取ったため、今回キーとなるのはことでんの長尾線ということになる。

2月9日、朝の湊町バスターミナルから6時55分発のバスに乗り込む。四国めぐりにあたってこのバスターミナルも何度も利用したが、いよいよ最終回である。始発のJR大阪駅から乗ってきた客も含めて車内はほぼ満席である。

この週末は北日本に「史上最強」の寒波が来たとニュースになっていたが、関西から四国にかけてはこの時季らしい真冬の寒さである。そのせいか外もどんよりした雲が広がる。雨が降らないことを祈るばかりだが・・・。

連休だが阪神高速の渋滞もなく、順調に明石海峡大橋を渡り淡路島へ。室津パーキングエリアもほとんど混雑していない。

鳴門海峡を渡り、高速近くにある第1番霊山寺の境内も見る。思えば四国めぐり初日は7月、30度を軽く超える暑さだった。その時は暑さにやられた感じで、2日目の途中でギブアップしたことも思い出す。

香川県に入り、各停留所で少しずつ下車客がある。その一つに高速志度がある。遠くに志度寺の五重塔が見えるが、今回はいったん高松市街まで行き、その後でこのバス停近くの道路も歩く予定だ。

途中の渋滞がなかったためか定時より15分ほど早く走行しているようだ。高松市街に入り、これまでなら終点高松駅まで乗っていたが、10時前、一つ手前の県庁通で下車する。ことでんのターミナルである瓦町駅に近いためである。この日の宿も瓦町駅と高松駅の中間地点である。

バス停の前は中央公園ということで、像が立つ菊池寛、そして水原茂、三原脩の両監督像に挨拶?して、結願に向けての無事を誓う。これから出発である・・・。
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