まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

本年もありがとうございました

2017年12月29日 | ブログ
本年も残すところあとわずか。

今年のニュースを振り返ると、トランプ大統領、森友学園・加計学園問題、衆議院解散総選挙、金正男暗殺に北朝鮮核開発、そして貴ノ岩への暴行問題・・・他にもいろいろあったと思うが、目に触れる機会が多かったのはこのあたりだと感じる。やはり明るいニュースというのは少なかったのかなという気がする。

私のほうはといえば、野球はバファローズが最初は飛び出したが、結局は春の珍事で終わり、後はほとんど見せ場もなかった。マレーロのベース踏み忘れ本塁打に、プロ野球10万号本塁打が話題だった。一方独立リーグは滋賀に新球団のユナイテッドが誕生、前後期とも下位に沈んだが、ドラフトで一人指名選手が出た。来年以降も頑張ってほしい。

そして、今やこのブログの記事の多くを占めるようになった札所めぐり。昨年の年越しは徳島の日和佐をベースとして徳島南部、室戸、徳島市内を回ったのに始まり、今年は高知から愛媛に至り、今治まで進んだ。今のペースだと来年もまだ残ると思うが、こちらも引き続き楽しみたい(そういえばこちらの野球ではマニー・ラミレスのプレーを観たことが印象に残った)。他には新西国めぐりの満願、近畿三十六不動めぐりの開始がトピックスだった。翌年は西国三十三所がいよいよ開創1300年の節目ということで、こちらの2巡目も進めるところである。

また新たな年も、町歩きがたのしめるように健康に留意して、心身ともに健全であるよう心がけたい。

最後になりますが、本年も当ブログをご覧いただき、ありがとうございました。来年も、皆さんのご支援をよろしくお願いいたします。
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第14回四国八十八所めぐり~第55番「南光坊」

2017年12月27日 | 四国八十八ヶ所
第54番の延命寺から加計学園(岡山理科大学獣医学部)の前を通って第55番の南光坊まで歩くという変則ルート、ここでいったん今治駅に向かう。

時刻は14時、ここまで思っていたよりも速いペースで来ている。帰りの列車を今治16時06分発の特急しおかぜ24号にしていたが、このペースだと、駅に近い南光坊にお参りした後の時間が中途半端に余る感じである。かと言って今治城など見物するには慌ただしいかなと思うし、いつかどこぞでしたような「お参り後の昼飲み」ができる店もなさそうだ。まあ、今治シリーズは次に続くので、今回は帰りを繰り上げ、1本早い15時01分発の特急しおかぜ22号に乗るとして、駅の窓口で指定席を変更してもらう。

駅前通りを中心部の方に歩き、地図を見てそれらしい角を曲がる。駅から5分で着いたが、ここは境内の真ん中を道路が横切っていて、いきなり本堂の前に出る。山門は右手の離れたところにあり、駅からもう少し進んでから曲がればよかった。一度山門から出て、改めて入り直す。

山門は1998年の再建と新しいもので、金剛力士像が2体で門番をしているところが多い中、南光坊では門の表と裏で四天王が番をしている。合わせて、八十八所で山門がここまで大きいのも珍しい。

そして改めて本堂に向かう。こちらも1981年の再建と比較的新しい。本尊は大通智勝如来(だいつうちしょうにょらい)という、初めて聞く名前である。法華経の中に登場して、その息子の一人が過去世の釈迦如来とされているのだという(法華経の中では、別に大通智勝如来がそう言ったのではなく、釈迦如来のほうが「私の親父は・・・」と言ったとされているそうだ)。日本でこの仏像というのは非常に少ないそうだが、今治の駅前にある、さほど広くない境内にデンと構えているのはなぜだろうか。

それは南光坊の歴史的な位置付けによる。四国八十八所で「坊」とついているのはここだけで、坊とはどこかの寺の支院、お堂の一つという意味である。その本家というのが、大三島にある大山祇神社である。昔から水軍の守り神として信仰を集めたところ。寺ではなく神社というのが、昔の神仏習合の名残がうかがえる。先に書いた大通智勝如来というのは、大山祇神社の大山積大明神の本地仏とされている。

大山祇神社は大三島にあるが、今のようにしまなみ海道ですぐに行けるわけではなかった時代、悪天候などで海を渡れない時のために、四国の本土側に別宮が置かれ、いくつかの僧坊ができた。その一つが南光坊である。昔は辺土修行として実際に大三島まで渡っていたのだろうが、八十八所のルート制定の中で、別に今治の別宮でもええで・・という感じで札所の一つになった形である。

本堂でお勤めする時は本尊の真言を唱えるのだが、通常は「おん~そわか~ 」とか「のうまくさんまんだ~」など、何といっているのかという節回しなのだが、ここでは「南無大通智勝如来」である。こうしたところも独特である。「勝」の文字があるからか、「必勝祈願」でのお参りも結構あるようだ。

大師堂にもお参り。先の山門や本堂より古い大正時代の建物である。今治は太平洋戦争での空襲で市内のほとんどが焼け、南光坊も本堂や山門など多くが焼失したが、大師堂は無事だったそうである。焼夷弾がなぜか大師堂の屋根を滑り落ち、建物と、中に避難していた人たちが助かったという伝説がある。

さて、南光坊と道を一つ隔てたところに大山祇神社の別宮がある。大通智勝如来も元々ここに祀られていたが、明治の神仏分離、廃仏毀釈の時に、当時薬師堂だった今の本堂に移されたという。今、四国八十八所めぐりで南光坊はもれなく訪ねるだろうが、隣の別宮にはどのくらいの人たちが気にかけているのかなと、ちょっと気にしてしまう。

納経所に向かう。南光坊のページを出して納経帳を差し出すと、なぜか一度納経帳をパラパラとめくり一番後ろのページを見る。そこには私の名前と市までの住所を書いているのだが、それをチラリと見て元のページに戻り、さらさらと筆を進める。これはどういうことかな。その後朱印を押して「ご苦労さまです」と言われただけだったが。

これで南光坊まで終わり、駅に戻る。次はここから始めることにして特急に乗る。やって来たのはアンパンマン車両。別に狙ったわけではないが、乗るのは初めてである。天井にもアンパンマンのキャラクターたちが描かれている。子ども連れには楽しい車両だと思う。そんな中、夕食には早いがとりあえず打ち上げとして、売店で買ったもので「飲み鉄」に走る。

壬生川、伊予西条と走り、車窓には石鎚の山々が広がる。今治の次はこの東予エリアを回るわけで、一応ルートも考えているが、改めて愛媛県の広さを感じている。四国めぐりとしての愛媛県は、振り返ると今年の夏休みを利用して宿毛から南予に入ったのが最初だが、同じ県、同じ国でも西と東では雰囲気が結構違うように思う。今は、もう少し伊予、愛媛に触れることができるのを楽しみとして、この次も楽しみたい。

そのうちウトウトしたようで、香川県に入ったところの間近に海を見る区間は過ぎていた。気付けば宇多津まで来ていて、列車も高松行きと岡山行きに分かれるところだった。

この後は瀬戸大橋。ちょうど日の入りが近い時間で、景色を見ると自然に「瀬戸の花嫁」のメロディーが頭に浮かぶ。今回、周防の柳井から四国に入り、瀬戸の花嫁で四国を後にする、瀬戸内の循環ルートで回ったのが印象に残ることだった。

最後はアンパンマン車両らしく、戸田恵子さん・・・もといアンパンマンの声で「ご乗車ありがとうございました」とあり、岡山に到着。予定より1時間早く本州に戻ったので新幹線も変更。17時38分発のみずほ616号にする。運よく2列シートの両方が空いていて、ゆったりと新大阪まで戻ることができた。

これで年内の四国めぐりは終わり、年末年始は別のところに行くのでしばらく間隔がある。先に書いたように愛媛はまだまだ札所があり、もう少し雰囲気を楽しみたいところである・・・。
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第14回四国八十八所めぐり~第54番「延命寺」

2017年12月25日 | 四国八十八ヶ所
予讃線の途中下車と1日4便の路線バスを組み合わせてやってきた延命寺。寺の周りは田園に囲まれていて静かなたたずまいである。

まず山門があり、続いて中門がある。中門が小ぶりな感じだが、元々は今治城の門の一つで、天明年間にここに移されたのだという。

移されたといえば延命寺そのものも移されてこの場所にある。元々は聖武天皇の勅願で行基が不動明王を祀って開いたのが最初とされ(この「聖武天皇の勅願~行基が本尊を祀って開いた」という組み合わせ、このところ続いているように思う)、後に弘法大師が再興して円明寺と名づけられたとある。当時はここから6キロほど北に行った、海に近い近見山にあったそうだ。近見山は今では今治の街並みや、来島海峡、瀬戸内の島々を見下ろす展望台があることで観光スポットになっているが、五来重の『四国遍路の寺』によれば、古くからの海洋信仰にもとづき海が見えるところでの修行(辺地修行)を行ったところが後に札所になったというから、元々はそうした修行の地であったことがうかがえる。

円明寺は古くは多くの塔頭寺院を持っており、鎌倉時代には凝然という僧が「八宗綱要」という、当時の仏教の解説書のようなものを著したという。「八宗」というのは奈良時代の「倶舎」、「成実」、「律」、「法相」、「三論」、「華厳」の6つ、そして平安時代の「天台」と「真言」の2つを指す。当時にはある程度広まっていたはずの浄土宗や禅宗に関しては、まだ体系化するだけの内容がなかったのか、あるいは凝然のところまでは届かなかったのか、最後にさらりと触れる程度だったという。まあ、浄土宗や禅宗、あるいは日蓮宗も天台宗をベースにして生まれたもの、と考えれば、天台宗の説明で事が足りるという考えだったのかもしれない(読んだことがないので意図はわからないが)。

再三の戦火、火災に遭い、江戸中期の享保年間に現在のところに移転した。そして明治になると、隣の第53番の円明寺と同じ名前では混同してややこしいということで、現在の延命寺という名前に変わった。

中門をくぐると、薬師堂(元々は延命寺の奥ノ院だった)、納経所の前を通る。納経所の前には「納経はお参りの後で」という貼り紙がある。まず正面の本堂に向かう。こちらは不動明王が本尊で、このところ近畿三十六不動めぐりも並行しているので身近になっている仏である。再三の火災から逃れてきたことから「火伏せ不動尊」という愛称がある。まずはお勤めを一通り行うが、この記事を書きながら思ったのが、「聖不動経を唱えなかったなあ」というもの。それ用の経本を持ってこなかったのは仕方がない。

続いて石段を上がった上にある大師堂でもお勤めする。なお、大師堂の横に、1992に埋められたというタイムカプセルがある。開封するのは50年後の2042年と書かれているが、どのようなものが埋まっているのだろうか。

これで納経所に戻る。他にクルマで回っている人が何人かいたが、先ほどバスで追い越した歩き遍路の男性は、さすがにこの時間ではまだ延命寺にはたどり着かないようだ。

境内の一角には、江戸時代に四国遍路を現在の形に整備したとされる眞念の道しるべや、越智孫兵衛の墓がある。越智孫兵衛とは江戸時代・元禄の頃のこの地の庄屋である。当時、松山藩の農民たちの年貢は「七公三民」という厳しいものだった。それを憂いていた孫兵衛、ある時池の普請を命じられた時、農民たちに握り飯の弁当ではなく、竹筒に麦粥を入れて持参するように指示した。昼時に竹筒を口にしている農民たちを見た役人が、どぶろくでも飲んでいるのかと孫兵衛に質したところ、「いつもは稗の粥を食べているが、今日は藩の御普請ということで特別に麦の粥を持参した」と答え、年貢が厳しくて農民の日々の食べ物にも苦しんでいることを申し立てた。それを聞いた役人たちは気の毒に思ったか、後に年貢を「六公四民」に引き下げる沙汰が下った。またこの他に孫兵衛は農民の生活向上に取り組み、その後の享保の飢饉の時には、周りの村で多くの死者が出たのに対して、この村では一人の餓死者も出さなかったという。延命寺では毎年8月7日に孫兵衛の慰霊祭を行っているそうだ。

さて、続いては第55番の南光坊に向かう。延命寺を出たところに、これはクルマで回る人向けへのメッセージとして「旧へんろ道を散策してみませんか」という看板がある。うーん、気持ちはわかるが、この区間だけ旧遍路道を歩いても、またクルマを取りに戻ってこなければならないとなると・・・。

私はといえば、ここから南光坊までの4キロほどだけが今回の四国めぐりでの「歩きでの移動」なのであまりエラそうなことは言えないが、ともかく向かうことにする。時刻は13時を回ったところで、この時間なら16時の特急には十分に間に合う。ただ、私は旧遍路道をそのまま向かうつもりはなく、途中で別ルートを歩くつもりである。

この辺りは阿方という集落で、田園と住宅が混ざり合ったところを歩く。道しるべも所々にあってわかりやすい。途中で、先ほど触れた越智孫兵衛の顕彰碑に出会う。竹筒に麦粥の話はこの顕彰碑で知ったことである。普通、藩に対してこのような訴えをすると死罪も免れないところだったが、訴えが認められ、しかも天寿を全うできたとは、よほど徳があった人なのかなと思う。

しまなみ海道の高架橋に出る。遍路道はこの下をくぐって行くのだが、私はここで矢印を無視して左に曲がり、坂道を上がっていく。左手には最近開発された住宅地が広がる。「今治しまなみヒルズ」というところで、今治新都市構想の一環(住宅地区)である。これを手掛けているUR都市機構のホームページによれば、国道196号線、今治インターチェンジ、そしてJR今治駅のいずれもクルマで2~4分でアクセスできる「快適な交通環境」がうたわれている。もっともそれはクルマを持っていることが前提ではないのかと思うが、この辺りのの人にとってはそれが当たり前なのだろう。

回り道をしているのは別にしまなみヒルズを見るためではないが、その先にある。もうお察しの方もいらっしゃると思うが・・・。

そう、この学校。正式に来年4月の開校が決まっているのだから、いつまでも「加計学園」と言わずに「岡山理科大学獣医学部」または「岡山理科大学今治キャンパス」と呼ぶべきなのだろう。学校法人名がまず先に目が入るし、野党や一部マスコミがいつまでもこの問題に執着していることから、「加計学園」ということで世の中に定着するのだろう。それはさておき、前回、しまなみ海道をバスで通った時に遠くにチラッと見た建物が、延命寺と今治駅、南光坊を結ぶ途中にあるものだから、これはぜひ通ってみようと思っていたことである。

この日は日曜日ということで工事はお休みで、工事車両の入口もフェンスで締まっている。世間を賑わせていた時ならマスコミ関係者、政治関係者の姿も見られたのだろうが、人の姿は見えない。前の道路も普通の生活道路という感じで地元のクルマが行き交うだけである。入口のところに工事の届出書類の掲示があり、発注者に確かに加計学園の文字がある。気になるのは工事を行っているのがすべて岡山の建設業者というところだが、これを今治の業者にさせるというのはちょっと無理があるのかなと思う。野党や一部マスコミの側からすればそこも気に食わない、安倍首相のお友達だけが利益を得るのだと騒ぐことなのだろうが、やはり学校法人としては勝って知ったる業者に構想段階から任せるところだろうし、岡山の建設業者としてもどこへ下請けを出すかと言われれば、他地方の一見の業者よりは普段から使っている業者となるだろうし・・・。あくまで私の勝手な推測だが、加計学園に限らず、他の学校法人や企業が同じように新たなキャンパスや生産拠点を建設するとなると、安倍首相のお友達とかそういうことは関係なく、同じようにするのではないかと思う。

私個人としては安倍首相の政治姿勢については、好きか嫌いかと聞かれれば嫌いと答えるほうだが、この加計学園問題については、そこまで首相の資質と絡めて責められることなのかな?と思うし、この獣医学部についても来年4月に開校して、その先の学生への適正な教育を行い、獣医師への道が広がって社会に貢献できればそれでいいのではないかと思う。

・・・キャンパスの横を通りながらそんなことを考えていると少しずつ下り坂になり、予讃線の高架橋の下に出た。ここから駅までは少し距離がある。そこで気になるのが、今治駅から獣医学部までの「足」である。学生の数もそう多くないがスクールバスを出すのか、あるいは獣医学部に通うような学生だからクルマ通学が当たり前なのか・・・私が心配することではないが。

何だか延命寺の記事というよりは、越智孫兵衛とか、加計学園とか、相変わらず余計なところが長くなった。そろそろ南光坊である・・・・。
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第14回四国八十八所めぐり~菊間瓦と遍照院

2017年12月24日 | 四国八十八ヶ所
菊間は昔から瓦の生産が盛んなところで、駅舎も瓦屋根の屋敷をイメージした造りである。予定ではここで1時間近くの途中下車の後、次の列車で大西駅まで向かい、そこから第54番の延命寺まで歩くことにしている。ただ、見どころとしては菊間の瓦と番外霊場の遍照院である。ちょっと急ぎ足になるかな。

まずは瓦についてのスポットということで、「かわら館」に向かう。ちょうど駅の山手側に見える。今治方面のホームから跨線橋を渡り反対側のホームに出ると改札口のない出口があり、そこから出ればすぐに建物の前である。いきなり鬼瓦のお出迎えである。また、玄関には愛媛出身力士の元・玉春日(現在の片男波親方)の顔をデザインした瓦がある。

こちらでは瓦造りの歴史や、現代の匠たちの作品が紹介されている。建物に入った時点で、「ここと遍照院で1時間だけというのは無理があるな」と思い直した。

菊間瓦の歴史は750年ほどあり、古くは伊予の河野氏の城にも使われたそうだ。原料の粘土や燃料の松葉に恵まれていて、温暖な気候で雨が少なく、自然の乾燥に適していたことに加えて、瀬戸内の海運を利用した輸送が便利だったことが瓦造りが発達した背景だという。その後、安土城築城の際に菊間を訪ねた一観上人により木型製法が伝えられた後で質の良い瓦の生産量が増えたという。江戸時代になると松山城や大山祗神社などの近隣の寺社でも使われていて、明治になると新たに造営する皇居にも納められた。皇室御用瓦としてのお墨付きの証が残されている。菊間瓦の製造組合によると、他の屋根材、瓦と比べても、美観、耐久性、防水性、快適性、低価格という面で優れているとしている。

現在は再建されたり葺き替えられたりしたのだろうが、昔に使われていた瓦灯籠や、松山城や近隣の寺社の瓦などがさまざまに並ぶ。当時のものがよく残るものだなと思う。

展示品の一つに「被爆瓦」というのもある。広島の原爆被害に遭った建物の瓦は今でも川底や地中に数多く埋まっているそうだが、そのうちの1枚を広島の平和記念館から永久貸与という形でいただいたものだ。原爆の熱により火ぶくれして、一部が泡状になっているが、瓦の形はきちんととどめている。原爆(核)はあらゆるものを一瞬に溶かしたり、また爆風で建物も吹っ飛ばされた中でよく残ったものだなと思う。ここに展示されているからには菊間の瓦だろうが、それだけ丈夫なものだという現れと言える。

菊間瓦の伝統、技術は今でも受け継がれていて、鬼瓦などは芸術品の要素もある。また、遍照院では節分の日に大きな鬼瓦の御輿をかついで境内を回る厄除けの行事もあるそうだ。

最上階の4階に上がると、なぜかバイクがデンと据えられている。これも菊間瓦でできている・・・わけはなく、この階は地元出身の芸術家の展示コーナーである。このバイクをデザインした人が菊間の出身なのだという。

他にも、家族連れ向けのコーナーとして粘土細工による瓦造りの体験コーナーや、あるいは屋外が公園になっているのだが、このシーズンだからか、日曜日なのに訪ねていたのは私一人。ゆっくりと見ることができたのはよいがもう少し人出があってもいいよなあと思いつつ、かわら館を後にする。踏切を渡り、海沿いを走る国道196号線まで出て遍照院に向かう。

一応山門というのか、遍照院の標札が出ているのは国道に面した海側である。通常なら仁王像が並ぶ山門だが、ここは菊間ということで先ほどの大きな鬼瓦が門番をしている。これはこれで迫力があり、海のほうを向いてにらみを利かせている感じである。

遍照院の由緒は、弘法大師が42歳の時に四国を回った際、厄除けを祈願して自身の像を本尊として安置し、厄除けの秘法を残したことと伝えられている。近くの人たちには厄除け大師として親しまれており、四国札所としては、特に個人で回る場合は番外霊場の一つとしてお参りする人が多いそうだ。ということで、納経帳の朱印はいただかないとしても、弘法大師信仰の寺との一つとしてここはきちんとお参りしておこう。2日目の昼近い時間になってようやく白衣と輪袈裟を取り出す。寒いので上着の上から白衣をつける。こういう時、白衣は大きさを調節できるからいい。

境内にクルマが次々と入ってきて何だか慌ただしい感じの中、本堂の下でお勤めである。この本堂の鬼瓦ももちろん菊間の瓦である。一応本尊は聖観音像ということになっているが、実質は弘法大師を拝むところと言っていい。

さてこれで、松山と今治の間を鹿島と菊間の途中下車でつないだことになるが、ここからどうするか。菊間から12時すぎの列車で大西に移動するとして、それまでで昼食にするか。・・・とその前に、遍照院に隣接する駐車場に「菊間」と書かれたバス停がある。土日祝日は1日4便しかないが、せとうちバスの今治行きがここ始発で出ており、次が12時23分発とある。待ち時間はそれほどでもない。実はこのバス、延命寺に近いところを通るのでルート選びの候補にしていたのだが、ふと、始発であるここから乗ってしまおうかと思う。大西まで列車で行ってそこから歩くよりも早く着くし、また大西で少し待ってバスに乗るとして、乗るのは同じ便のバスである。そうしよう。

そうと決まれば食事ということで、ちょうど遍照院と同じ駐車場にコンビニがあるので何か買って遍照院のベンチで食べようかと思ったが、ふとその横に何だか小汚い感じのラーメン店があるのが目に入る。「1~3月限定 やくよけうどん やくよけラーメン」という看板もあるし、遍照院の真ん前にあるのだからきちんと商売しているのかなと思って、看板と幟に釣られて入る。店内は小汚ないが、年配の男性二人が切り盛りし、先客もいたのでなぜか安心。奥にある鍋ではおでんがぐつぐつ煮えているし、ビールは冷蔵庫からセルフで取る仕組みのようで、ラーメン店兼一杯飲み屋の感じ。

メニューを見ると「焼豚玉子飯」の文字が目に入る。元々今治の中華料理店の賄い飯だったものがいつしかメニュー化され、今では今治を代表するB級グルメとなっている。菊間も今治市ということで、それならラーメンとのセットで注文する。

そして出てきたのがこの一品。目玉焼きを2個乗せるのが決まりだそうだ。下にあるのはラーメンに入る焼き豚と同じもの。その下に海苔を敷いていて、甘めのタレがかかっている。皿の半分ずつ、玉子の黄身をつぶして焼き豚と混ぜていただくそうで、元々がシンプルな材料、作り方だから外れはない。ラーメン定食の付け合わせとしては堂々としたものだ。もっとも、今治に来て機会があれば食べればいいかなという感じで、焼豚玉子飯があるから今治に来よう、今治に泊まろう・・・とまでは思わせるほどではない。今治の味としては、やはり焼き鳥とか鯛料理のほうが気になる。

食事を終えた12時、バスまで時間があるから遍照院のベンチで待つことにして境内に戻ると、太鼓の音が聞こえてきた。本堂に行くと10数人の人が堂内に座っている。毎週日曜日の12時から定例の祈祷を行っているそうで、先ほどから境内に停まっていたクルマは祈祷を受ける人たちのものだったようだ。祈願文が読み上げられ、太鼓の音とともに各種お経、真言を唱える僧侶の声がマイクを通して聞こえてくる。15分ほど続いたが、結構真言のテンポが速かったように思う。

祈祷も終わったところで時計を見るとバスの時間も近くなり、今治方面からバスがやって来た。菊間が終点ということで、遍照院の駐車場で折り返す。土日祝日ダイヤでは1日4便しかない中での貴重な1本によくタイミングが合ったものだと思う。そんなダイヤだからか、乗り込んだのは私一人である。この先の国道は前回福山行きのバスで通った区間だが、こうした路線バスで行くのもまた違った感じがする。

しばらく走ると、左手に歩行者の姿。白衣姿、頭に巻いたタオル。朝方、三津浜から乗った列車で光洋台で下車した歩き遍路である。あれから5時間ほどが経過しているが、菊間まで来ていたのである。遍路道は途中海から離れて山越えとなる区間もあり、そうしたところもたどった健脚である。遍照院にはお参りしたのかどうかは気になるが、私が食事をしている間に通り過ぎたのだろう。

太陽石油のプラントの横を過ぎ、大西駅の近くを通過して国道から分岐する。ここからが新たに通るルートで、桜ヶ丘団地のバス停で下車。バス停のちょうど横から延命寺への遍路道が続く。バス停でもう一度白衣を羽織り、てくてく歩く。見た目は歩き遍路だが、その実は多くを列車、バスで移動した「単なる札所めぐり」ある。

桜ヶ丘団地のバス停からだと10分も経たないうちに延命寺の山門にさしかかる。1泊2日の行程で、2日目の午後になってようやく初めての札所である・・・。
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第14回四国八十八所めぐり~鹿と寅の島へ

2017年12月23日 | 四国八十八ヶ所
伊予北条から渡し船に乗って鹿島に到着。乗って来たのは私ともう一人だけである。島にも案内所はあるが人の気配はない。

船着き場に真新しい感じの石碑がある。「お遍路が一列に行く虹の中」とある。この句の作者は故・渥美清さん。あの寅さんである。映画のロケか何かで訪ねたのだろうか。

渡し船は30分ごとに出ているので適当な時間で戻ることにして、まずは鹿島神社に向かう。鹿島というのは信仰の島なのだろうか。その昔、神功皇后が朝鮮遠征の戦勝を祈願したところとされている。

鹿島神社の前には浜辺が広がる。夏場はここでバーベキューもできるそうだ。ここから四国の本土を見るのもいいものだ。この先には島を一周する遊歩道があるのだが、土砂崩れがあるということで、砂浜が切れたところで立入禁止となっている。島の西側の沖合には伊予の二見というのがあり、ちょうど伊勢の二見浦のように、しめ縄で結ばれた夫婦岩がある。それを間近で見るなら遊歩道を歩くことになるが、立入禁止とあっては仕方がない。

鹿島の中心は高さ114メートルで、頂上まで遊歩道が整備されている。せっかくなので歩いて上ることにする。ここで金剛杖が役に立つ。

登山口のところに柵があり、中には20頭くらいの鹿がいる。遠巻きに私のほうを見ている。しかし私が柵に近づくと一斉に逃げ、また離れたところでじっと私のほうを見る。こんな感じで多くの鹿に対峙するのは初めてで、妙な緊張感が走る。

鹿島には昔から野生の鹿が棲んでいるそうで、私がいる時は出なかったが、鹿島を訪ねた人の旅行記などを見ると遊歩道で遭遇したという記事もある。松山市では一部の鹿を保護して、柵の中に住まわせている。鹿は九州方面にいる種類だというが、なぜこの島に野生の鹿がいるのだろうか。鹿が泳いできたか、ひょっとしたら昔は陸続きだったので渡って来たのか。あるいは逆に、鹿島という島だから鹿がいなければと、昔のある時代に誰かが鹿を持ち込んだのか。

遊歩道を上る。かつては水軍を持っていた河野氏も砦を構えていたそうで、石垣の跡も残っている。そして麓から15分ほどで頂上へ。一角には、神功皇后が立って戦勝を祈願したとされる「御野立の巌」という岩がある。そして現在は、恋人の聖地の一つに挙げられている。

島の頂上とあって四方の景色がよく見える。風はやや強いが雲はほとんどなく空気が澄んでいて、遠くの島々も見ることができる。これは素晴らしい景色だ。スマホの地図で景色の位置関係を確認しながら眺めると、はるか遠くに見えるのは本州、呉の方面ではないかと思う。ちょっとした立ち寄りでこれだけの景色に出会えたのはよかった。

遊歩道を下りて、鹿島博物展示館に入る。ここでは鹿島の自然や歴史についての紹介があるが、見どころは隣接する鹿園である。こちらでも鹿が保護されている。落石や転落などによる事故防止や、樹木の保護、そして繁殖が目的という。こちらも人見知りするようで、私が柵に近づくと一斉に後ろに引いて行く。観光客にエサをねだりに近づいてくる奈良や宮島の鹿とは対照的だ。奈良や宮島で思い出したが、ここにいる鹿も神の使いということになるのかなと思う。神功皇后にもゆかりがあるし。これらの鹿たちのためか、鹿園の横には鹿塚というのもある。

海に突き出した建物がある。太田屋という食堂兼旅館で、鯛めしもいただけるという。ただここも夏季限定の営業のようで閉まっている(本土側に本店がある)。伊予北条の鯛めしは鯛一尾をまるごと米と一緒に炊くタイプである。ちょっと今回の四国めぐりでは鯛めしをいただく機会がなさそうなのが残念だ。

その向かいの商店も夏季限定営業で閉まっているが「寅さんの故郷」という貼り紙や渥美清さんの雑誌記事の切り抜きが窓に貼られている。渥美さんは東京の下町の出身で、20代の頃、浅草の銭湯で、後に脚本家として活躍する早坂暁さんと知り合う。いわゆる「故郷」というのがない渥美さんは、伊予北条が故郷である早坂さんに何度も同行し、その中で沖合にある鹿島をずいぶん気に入ったそうである。先ほどの句碑の設立には早坂さんの協力もあったという。そういう島だったとは知らなかったが、確かに瀬戸内の穏やかな景色は、どこかに懐かしさ、心の故郷を感じさせるものがあると思う。

鹿に寅さん・・・小さいながらも見どころの多い鹿島であったが、そろそろ四国めぐりのルートに戻ることにする。9時30分発の渡し船で伊予北条に戻る。

駅でしばらく待った後、10時02分発の伊予西条行きに乗り込む。再び海沿いを走り、浅海を過ぎると今治市に入る。これで、四国めぐりの松山シリーズは終わり、今治シリーズに進む。そして立ち寄りを決めていた菊間で下車する・・・。
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第14回四国八十八所めぐり~何だか、愛媛旅行のついでに札所を回るようだが・・

2017年12月22日 | 四国八十八ヶ所
12月17日、前日は1日かけて松山・三津浜に移動しただけの形になったが、この日ようやく札所に向かう形になる。行程からいえば、何だか柳井、三津浜の見物がメインで、帰りがけに札所に立ち寄るように見えないこともないが・・。

今回訪ねるのは今治市内6ヶ所のうち、最初の2つとなる第54番の延命寺、そして第55番の南光坊。特に南光坊は今治駅から徒歩5分という近さで、今回はそのまま今治から特急と新幹線の乗り継ぎで大阪に戻ることにする。今治を16時すぎに出る特急の指定席を押さえていて、そこがタイムリミットだ。

三津浜を朝出発してそのまま今治に向かえばもっと早い時間に着き、他の札所も回れるところだが、今回は2つに絞り、その代わりに途中寄り道をしながら今治に向かう(そうすると余計に、帰りがけに札所に立ち寄った感じがするなあ)。それは同じ今治市内の菊間町で、瓦の生産で有名なところであるとともに、四国八十八所の番外寺院である遍照院という寺がある。また、延命寺への行き方も、予讃線の大西駅、または今治駅から歩く、あるいは路線バスに乗るなどいくつかの組み合わせがあり、三津浜駅を何時の列車に乗るかによっても効率は変わってくる。一応このダイヤで動こうというプランは持って来た。

ただ、現地に来て沿線ガイドや地図など見ていると、もう一つ立ち寄りたくなったところがある。伊予北条の沖合に浮かぶ鹿島である。伊予北条から渡し船で3分ということもあり、これまで訪ねたことがないだけに一度行ってもいいかなと思う。その後の列車やバスの組み合わせが変わることになるが、あとはその時の状況に任せることにする。

ホテルで朝食をとってからの出発予定としていて、予約時の案内では7時からとなっていた。しかしチェックイン時に、6時10分から提供可能との案内があった。これは前夜の夕食にもいた少年野球チームや高校の部活動チームが6時30分~7時30分で朝食をとるため、混雑を避けるために前倒しでレストランを開けるためである。ということは、その時間から食事とすれば予定よりも早く出発できる。当初はJRの三津浜7時55分発の列車に乗ろうと思っていたが、朝食が早くなったので1本前の7時27分発の今治行きに乗ることにする。

ホテルを出発。前回は三津駅からバスと徒歩で第52番の太山寺、第53番の円明寺と回り、伊予和気駅に行っている。今回同じルートをたどってもいいが、一応伊予和気駅までは進んでいるということで、一つ松山寄りの三津浜駅に向かう。ホテルAZの前の道を一直線で10分ほど歩く。途中にスーパーやコンビニはあったが、居酒屋のような店は見当たらなかった。

三津浜から2両編成の列車に乗る。この日は今治から特急に乗ることもあり、青春18きっぷは使わない。日曜の朝ということで乗客も少なく、郊外を走る。長かった松山シリーズもいよいよ終わりに近づく。前回乗車した伊予和気も無事に通過する。

2駅目の光洋台では白衣姿に金剛杖、頭にタオルを巻いた歩き遍路が降りていった。前日に太山寺、円明寺を回り、光洋台駅でゴールとして松山市内かどこかに泊まり、今朝はここから歩き再開ということか。それにしてもこの季節、歩いて回る人は極端に少ないことだろう。

海の景色もちらり見えたところで、7時45分、伊予北条に到着。ここで下車する。鹿島への渡し船は駅から歩いて5分ほどのところにある。鹿島に行くのはお参りの要素もあるかなと、ここに来てようやくケースから金剛杖を取り出す。白衣はまだリュックにしまったままだ。

駅前通りの突き当たりに白い鳥居が立ち、その向こうにあるのが鹿島である。その間は200~300メートルくらいだろうか、泳ぎの達者な人なら泳いで渡れるだろうし、ゴルフの飛ばし屋ならドライバーでボールが届くかもしれない距離である。

夏は海水浴やバーベキューなどで賑わうそうだが、この時期は客足もほとんどなさそうだ。それでも渡し船は30分ごとに出ている。次の出航は8時03分、乗り込んだのは私ともう一人リュック姿のお年寄りだけ。

海の上にいるのは実質2分ほどだが、その間に愛媛出身の友近さんの声による案内が流れる。わずかな時間なのだが、その中にちょっとした笑いも入れてくる。前回松山駅では観光ポスターに出ていたし、それに鹿島の渡し船とは、地元でも地道に営業しているなと感心する。

そして初めての鹿島に上陸する。しばらくの時間を過ごすことに・・・。
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第14回四国八十八所めぐり~三津浜にて

2017年12月21日 | 四国八十八ヶ所
三津浜に着く。ホテルには歩いて10分ほどの距離だが、少しこの町を回りながら行くことにする。

聖徳太子の頃の歌にも出てくる熟田津はこの辺りとされているがはっきりとした痕跡があるわけではない。江戸初期に松山藩の港として整備されたのが始まりとされている。以後、松山の海の玄関口として栄えることになる。

太平洋戦争で松山の市街地は空襲に遭ったが、三津浜の辺りは免れたために昔ながらの姿を残すことになった。しかし中心部から離れていることや、松山観光港はあるものの海が玄関口ということがなくなったためか、人の流れも変わり、三津浜は寂れるようになる。ただ最近はレトロの町並みとしての人気もあるようで、古い家屋を改装して新たな店がオープンしている。ちょうど今回来る直前に見た旅番組の「遠くへ行きたい」で松山をやっていたが、その中でも三津浜に新たにできたパン屋さんやアートの店などが出ていた。まあ、それらにはあまりとらわれずに気ままに歩くことにする。

まず現れたのは、石崎汽船の本社ビル。大正時代の建物で、最近まで実際に本社ビルとして使っていたそうである。

入り江に沿って歩く。対岸の丘にあるのは中世の河野氏の拠点の一つ、湊山城である。ちょうど港を見下ろす位置にあり、正に砦に適したところである。舟が出入りするためか、その湊山地区との間には橋がなく、その代わりに渡し舟が出ている。随時運航、運賃無料である。松山で渡し舟を見るとは思わなかった。

この後は細い路地を歩く。古民家を改装した鯛めしの店や、土塀の残る家、昔の病院など。古い井戸もある。

先ほど、柳井の町を歩いたばかりなのでつい比較してしまうが、柳井は観光も意識して通りも整備していて、ある程度の知名度も得ているのに対して、三津浜はたまたま残った町家を何とか若い人に受けるように発信しようという感じである。松山の観光はどうしても道後温泉や松山城が有名で、三津浜はまだ知る人ぞ知るという感じだが、これからじわじわと人気が出てくるのかもしれない。

そんな三津浜の町が前面にPRしていると言っていいのが「三津浜焼き」。つまりは広島風のお好み焼きである。三津浜焼きは四国めぐりの中で、宇和島での四国アイランドリーグの観戦の時に球場の屋台に出ていたのを食べたことがあり、そこで初めて三津浜焼きという名前を知った。四国めぐりが松山まで進んだら食べてみようかと思っていたところ、こうして三津浜に来ることができた。

町内には三津浜焼きの店が結構あるようで、「三津浜焼き」の幟を出す店がある一方、単に看板に「お好み焼き」と書いた店も多い。はたまた、「広島風お好み焼き」の看板の上に「三津浜焼き」の幟を出す店もある。これらの微妙な感覚は何となくわかる。広島に住んだことがあるから感じたが、広島の人たちはわざわざお好み焼きに「広島風」とはつけない。あえて区別しとるんは、広島の店なのに関西風お好み焼きを売り物にしとる「徳川」くらいじゃろう・・・というのはさておき、三津浜焼きという呼び方への受け止め方はさまざまあるようだ。

そんな中で、伊予鉄道の三津駅に近い「日の出」という店に入る。こちらは「三津浜焼き」ではなく「お好み焼き」と呼ぶ店の一つである。鉄板の前に5~6人が座るだけのカウンターの店だが、鉄板の上ではまさしく出来上がりの最中である。カウンターの先客の数より三津浜焼きの数が多いのは、持ち帰り用である。待っている間にも注文の電話がかかってくる。

三津浜焼きは見た目広島風と似ているが、違いがいろいろある。そば、うどんをつけるのが一般的だが、先に生地の上に乗せてしまう。このため「そば(うどん)台付」との言い方がある。また肉も豚ではなく牛肉で、しかも牛脂がつく。肉以上に必須なのはちくわかかまぼこ。そして焼き上がった最後に魚の削り粉をかける。ルーツは同じ一銭洋食として、さまざまに派生したもの。そして、辛さに応じて3種類あるソースを使いながらいただく。見た目は少々雑だが味はしっかりしている。松山の味の一つをいただいたことで満足だ。

これで町歩きはおしまいとして、三津駅から線路沿いに少し歩いたホテルAZにチェックイン。九州を中心に展開するホテルチェーンで、松山ではまだ新しい感じのビジネスホテルである。こちらは学校の部活動の宿舎としてもニーズがあるようで、この日は広島の少年野球チームや、関西、九州の高校からの3チーム(おそらくバレーボール)の宿泊があった。

泊まって飲みに行くなら松山駅前でいいところ、店が少ない三津浜に泊まったのは、のんびりしたいということもあるが、それに加えて、ホテルにバイキング形式の夕食があり、今回はこれでいいかということもあった。

チェックイン時の案内で、先に部活動の団体が食事するので時間をずらすようお願いされていたこともあり、19時過ぎに食堂に向かう。一応団体用と個人用で席が分かれているが、ちょうど団体用の席では先生と生徒の食事の最中である。料理はバイキングだが、別に松山らしいもの、四国らしいものはない。安くて腹にたまりそうなものがほとんどだが、そこは値段相応である。むしろ、食べ盛りの生徒たちにはこうした料理のほうがいいだろう。ショートカットの女の子たちが、代わる代わる料理やドリンクバーのお替わりに来る。

それらを承知でここでの夕食を選んだのは、アルコール類が972円の追加で飲み放題になるということからである(何やねん、この飲んべえのおっさん(笑))。フロントに申し出ると食堂でジョッキを渡されて、生ビール、松竹梅、白岳しろ、二階堂、黒霧島、鏡月(サワーのベースとして)などがセルフサービスでいただける。これはすごい。

こういうホテルだからか、部活動の先生もさりげなくジョッキのお替わりを注ぎに来るし、何かの工事で長期滞在らしい職人さんたちもまずここで一杯引っかける感じだ(現場との移動はクルマなのだろう)。土曜の夜で明日は休みだし、職人さんたちはこれから道後にくりこもうかという勢いである。一方私はといえば並んでいるものはいろいろ楽しみ、その結果道後へくりこみ・・・にはならずすっかり満足して部屋に戻る。「飲む打つ買う」ではなく、「飲む飲む飲む」、ノムさんの三冠王というていで。

この記事をご覧の方の中には、「二次会として、三津浜焼きを肴にビール飲めばいいのでは?」と思われるかもしれない。ただそこは、多くの店が19時には閉店ということがある。こちらのお好み焼きは、あくまで昼の食べ物なのだろう。

こうした感じで1日目は終わりだが、肝心なのは翌日(17日)の動きである。一応、プランニングをして三津浜まで来たのだが、翌日はどういう動きになることやら・・・?
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第14回四国八十八所めぐり~防予フェリーで三津浜へ

2017年12月20日 | 四国八十八ヶ所
柳井の町歩きを終えて隣の柳井港駅に向かう。ここから松山・三津浜まで出ているのが防予フェリー。柳井が本社で周防と伊予を結ぶからこの名前はすんなり耳に入るが、これが逆なら「予防」フェリーとなって何だか別の意味になる。

駅から国道を渡った正面が乗り場で、12時25分の出航を前にトラックやクルマが待機している。旅客での利用者も10数人くらいいて、この時季としてはこのくらいの乗船率なのかな。クルマには九州のナンバーもあり、福岡あたりから松山に行くルートの一つなのだろう。

三津浜からの便が着いて車両や乗船客がぞろぞろ降りた後でまず徒歩の客から案内される。客室は2階で、両側に3人がけのシート、中央に桟敷席がある。小さい子ども連れやトラックのドライバーなどは桟敷席に向かう。

定刻に出航。3階の甲板は風が吹いて寒いので、客室後方のデッキや左右の通路で外の景色を見る。四国へのアクセスにフェリーを選んだのは和歌山~徳島の南海フェリー以来2回目だが、たまにはこうした手段で行き、四国は海の向こう側という雰囲気を楽しむのもよい。

進行左手には先ほど通ってきた海岸が広がり、右手には少しずつ周防大島の姿が大きくなる。その間にかかるのは大島大橋である。1976年にかけられたもので、当時としては長い橋だったのではないだろうか。それよりも意外だったのは橋がかかる前に大畠から国鉄の連絡船が出ていたことである。今でも宮島の連絡船がJRに引き継がれているが、あちらは何と言っても宮島の観光客が多い。周防大島はそこまで観光のイメージはなく、島の人たちの生活の足としての連絡船ということか。

瀬戸内海で3番目に大きな島とあって左手の本土と同じくらいの規模の陸地が続くように見える。広島に住んでいた時にドライブで一度周防大島の端まで行き、今を一周したことがあるが結構時間がかかったのを覚えている。

周防大島といえば民俗学者・宮本常一の出身地として知られる。また個人的には元南海の鶴岡一人監督のルーツが周防大島だと聞いている。宮本常一の説では、周防大島は昔から「世間師(しょけんし)」という能力を持つ人が多いのだという。「世間師」とは、広く世間を知る人という意味だそうだが、世間を知るのも本で知識を得るというよりは、人を見る、あるいは町を見る、ということを通して身につけた観察眼である。観察を通して多くのものを得るということで、宮本常一は多くの人や町やモノを見ることで民俗学を築き上げたし、鶴岡監督は多くの選手を発掘した。その最たるものが野村克也だろう。フェリーに揺られながらそんなことに想いを馳せたりする。また回ってみたい島である。

周防大島の周りには多くの小島があり、進むに連れて次々と姿を変えていく。そうした景色を見るのも面白く、席に座るよりは通路やデッキをぶらつく時間のほうが長くなる。

大島の最東端に近い伊保田港に立ち寄る。防予フェリーの1日4往復が寄港するところで、大島から松山への足となっている。船はそのまま前向きに着岸して、車両甲板の前方の空きスペースにクルマが3台バックで入ってくる。このスペースを確保しておくために、伊保田港を利用するクルマは必ず事前予約しなければならないという。

ここまで右手に広がっていた周防大島もそろそろ尽き、愛媛県に入っていく。大きな島では中島、興居島というところがあり、これらの島を近くに見る機会もなかなかない。そうするうちに前方に四国本土が広がってきた。何だか新鮮な景色に見える。

そしてやって来た三津浜。柳井から2時間半の航路だったが、退屈には感じなかった。やはり左右に広がる「防予のしまなみ」の景色のおかげである。このコースを選択して面白かった。

この港に来るのは初めてである。これまでになく変わった形での四国入りとなったが、ここに来るまでの間に結構いろんなものを見たので、はるばる来たぜ三津浜へ・・という感じである。

さてここから歩いてホテルに向かうが、そのわずかな距離の間にもいろいろなものがあった。それは次の記事にて・・・。
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第14回四国八十八所めぐり~柳井の町並み

2017年12月19日 | 四国八十八ヶ所
四国八十八所めぐりの記事なのに、山口県の町歩きのことを書くのも妙なことだが、松山・三津浜に渡るまでの時間として四国八十八所のカテゴリで書く。

柳井で2時間ほどを過ごすわけだが、背中のリュックはコインロッカーに預け、金剛杖だけ持つ。手ぶらに杖だけとは、他の人が見たら妙に感じるかもしれない。

駅前の通りを歩く。電柱が見えずすっきりした感じである。「麗都路(レトロ)通り」という名前で、歩道には彫刻や柳井のレトロ建物を描いたパネルが並ぶ。

数分で柳井川に出る。柳井は室町時代、周防・長門を中心に栄えた大内氏が東の港として開き、また江戸時代には毛利氏の長州藩の岩国支藩である吉川氏が治めたところである。当時は駅前の橋のところが港だったが、その後干拓や港の新設もあり、現在の陸地の形になったそうだ。「カニが横断します。ご注意ください」という看板があるが、それは海の近さを現すのかなと思う。

そしてこちらが白壁の町並みである。200メートルほどあり、軒先には金魚のちょうちんがぶら下がっている。金魚のちょうちんは昔からあるのかと思い調べてみると、幕末の頃に、青森のねぶたをヒントに創作されたものが最初で、今の形になったのは戦後のことである。例年は夏祭りで飾るところ、今はデスティネーションキャンペーンの一環で飾っているという。夜にはちょうちんに灯りがともるそうで、それなら本州側に泊まればよかったかなと思う。またこの町並みも観光客相手の店というよりは、普通の商店や民家が多い。そうしたところも、知る人ぞ知る町という感じである。

柳井は山陽線の駅だが、新幹線は通っていない。むしろ岩徳線~新幹線という、岩国と徳山を結ぶルートからは大回りである。まあそれが柳井の町並みが開発から守られて今の渋い姿になったことにもつながったといえる。

その一軒が町並み資料館になっていて、柳井の歴史や民俗資料の展示、幕末の勤王の僧侶である月性上人や作家の国木田独歩の紹介がある。

柳井は醤油造りも行われていて、町並みから少し入ったところに、創業天保元年という佐川醤油店がある。「甘露醤油」というのが有名だそうだ。その蔵が見学用に解放されている。入口に、これまでロケで訪ねた有名人の写真が飾られている。中でも目を引いたのは、日本テレビの「鉄腕DASH」の企画だったソーラーカーの旅で、TOKIO の長瀬智也さん、山口達也さんが訪ねたとある。昔のことで内容は覚えていないが、ここでは醤油造りを体験したそうである。その時二人が履いた長靴が神棚のように飾られていた。よほど印象的な出来事だったのかな。

「甘露醤油」というのは、醤油を吉川の殿様に献上したところ、「甘露、甘露」というお褒めの言葉をいただいたことからついた名前で、結構濃い醤油である。今はこれを伝統の商品とする一方で、味も濃口から薄口まで種類を増やし、また納豆加工品も出している。蔵の奥では現役で発酵中の樽が並び、柳井にこうしたところがあるのかとうならせる。せっかくなので、持ち運びにじゃまにならない形で小サイズのものを買い求めた。まだ自宅ではいただいていないが、私も「甘露、甘露」という言葉を出すのだろう。

町並みを出て少し行くと、湘江庵という寺がある。見た感じでは普通に町中にある寺だなと通りすぎるだけだが、この寺が柳井という町の名前の由来だとされている。用明天皇の頃というから聖徳太子の若かりし頃である。豊後の満野長者の娘である般若姫が召されて飛鳥に船で向かう途中にこの地に立ち寄り、井戸の清水をいただいた。そのお礼にと柳の楊枝を井戸のそばに差すと、一夜にして柳の巨木になったという。柳と井戸で「柳井」・・・(柳と井戸だと幽霊をイメージするし、柳の下に猫がいるならネコヤナギである)。その湘江庵は虚空蔵菩薩を本尊とする。

再び白壁の町並みに戻る交差点に、一軒広い屋敷がある。「むろやの園」というところで、菜種油で財をなした小田家のかつての屋敷を見学用に開放したところだ。「むろや」というのは屋号で、吉川氏に重用されて商人なのに武士の待遇を受けるまでになったという。中には生活用具など多数あり、建物も含めて全てが件の有形民俗文化財に指定されているそうだ。中に入ると管理人の方から全体の案内があり、どうぞごゆっくりとなる。別に映像による紹介があるわけではないが、「小田家コレクション」とでもいうべきものが母屋や蔵にてんこ盛りである。見る中で興味深いものもいろいろあった。

ただ気になるのが、これだけのものが柳井の観光や町並みのキャンペーンやパンフレットでほぼ取り上げられていないこと。小田家というのが、先ほどの町並みや醤油蔵と一線を引いているのか、あるいは町並みから一線を引かれているのかどうなのか。

こちらの見学まで終えたところで列車の時間が近くなった。駅まで戻る。柳井から三津浜へのフェリーには売店などがないとのことなので、ここで昼食を仕入れることにする。駅構内のセブンイレブンが土産物店を兼ねている。その中に、岩国の銘酒「獺祭」の各種の瓶が並んでいる。何がきっかけだったか、一時期獺祭、獺祭というのが幻の酒のごとくに世間に広まったことがあった。こちらに来てみると普通に並んでいて「本数制限はありません」との貼り紙もあった。さすがに一升瓶や四合瓶をかついで四国八十八所を回るわけにはいかず、これは三津浜のホテルでいただこうと、300ミリリットルの小瓶を買い求める。

これでフェリーに乗る前の一時として柳井を後にして、隣の駅の柳井港に向かう。ようやくここから四国を目指すことに・・・・。
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第14回四国八十八所めぐり~愛媛に行くのにどこへ向かうのやら

2017年12月18日 | 四国八十八ヶ所
前回から中3週間での四国行きとなる。この先は私のスケジュールの関係で間隔が空くため、それを埋める意味合いでここに1回入れた形である。

前々回、前回で松山市内の8ヶ所回りを終えて、次からは今治シリーズに入る。こちらは第54番の延命寺から第59番の国分寺までの6ヶ所がある。公共交通機関も使って集中して回れば大阪から1泊2日で行けるとは思う。

ただ、私のこだわりというわけではないが、前回終了した札所と今回始める札所の間を何らかの形で通ったことにしたい。遍路ではなく単なる札所めぐりとは言え、西国や近畿三十六不動とは違って一つの円になるように回っておきたいところだ。とすると、いきなり今治に行くのではなく、前回終了した松山に一度行き、そこから今治までの道中をたどりたい。前回は松山から国道196号線で今治まで行き、しまなみ海道を経由して大阪に戻ったので、そこは踏破済みとしてもよいのだが・・。そうすると2日間で6ヶ所を回るのは少ししんどいかな、今治は今治で市内も回りたいし・・。

というわけで、1日目となる16日は松山を目指し、前回第52番の太山寺を訪ねるために降りた伊予鉄道の三津駅まで行く。三津の駅前にちょうどビジネスホテルがあるのでこちらを押さえて、翌17日はJRの三津浜駅から今治に向かう。第54番の延命寺、第55番の南光坊まで行き、今治駅で打ち止めというところだ。さらに行ければ第56番の泰山寺までかなと思うが、そこまで行けなければ次回に回すだけの話である。

さて松山までどうアクセスするかということだが、まずは新大阪6時25分発のさくら541号に乗る。これで岡山から7時23分発のしおかぜ1号に乗り継ぐと、10時05分に松山に到着する。前々回で使ったルートだが、日中を松山市内で楽しむことができる。

岡山に到着したが、下車せずそのまま乗り続ける。寝過ごしたわけではない。前回松山から戻った福山も過ぎ、見えてきたのは広島のマツダスタジアム。スタジアムに隣接する私の勤務先企業の建物、かつて私も働いていた建物も立派なビルになっているのに驚く。

広島で下車する。広島の宇品から呉を経由して松山に行く高速艇、フェリーが出ているのをご存知の方も多いだろう。まずはここで一旦改札の外に出る。駅コンコースも一新され、かつて乗り降りしていた頃と比べるとその変わりように驚く。階段にはカープのリーグ連覇を祝う大きなパネルも出ている。さらに駅前に出ると、ついこの間までなかった高層マンションが並ぶのにも驚かされる。新球場の建設に始まった広島駅前の再開発も見事に行われたことで、随分イメージが変わった。

ならばここから広電で宇品まで行くのかと思いきや、また駅に戻って券売機で青春18きっぷを購入し、改札でスタンプを押してもらう。実はこれからさらに西に向かい、山口県に入るのである。松山に行くのに山口県に行くとはどういうことか。実はこれ、現地で迷ったり計画を変更したのではなく、あらかじめこれで行くと決めたものである。ポイントは、宿泊が松山の駅前や市中心部ではなく、少し離れた三津浜というところにある。

広島からのフェリーが着く松山観光港は高浜の先にあるが、その松山市街地よりにある三津浜の港には、山口県の柳井からの防予フェリーが着く。話が長くなったが、今回四国へのアクセスに選んだのはこのフェリーである。広島~松山間は過去に利用したこともあるが、柳井からは初めてである。その前に、山陽線で通過するばかりで、白壁の町並みで有名な柳井に降りたことがない。松山に行くのに山口県を通るというシャレと、初めての柳井の町歩きをしてしまおうということから選んだ。ちょうど山口県でJRのデスティネーションキャンペーンも開かれている。

さらに、1日目で三津浜まで渡るか、あるいは1日目は柳井に泊まって翌日早朝に三津浜に渡るか、泊まりも柳井ではなくその先の徳山まで行って工場の夜景を見ようかとか、時刻表であれこれ考えた。結局、徳山まで行って泊まるのはさすがに四国八十八所めぐりから外れるなというのと、柳井に手頃なホテルがなかったので、三津浜宿泊を選んだ。

まずは柳井を目指すとして青春18きっぷを投入。この日については1回ぶんの元は取れないが、この後のお出かけでカバーできる。「Red Wing」の愛称の車両の岩国行きで出発する。沿線の懐かしいところ、変わったところの車窓を眺めながら。

岩国からは9時15分発の新山口行きに乗り継ぐ。2つ目の藤生から通津の間には左手に海が間近に広がる。あいにくの曇り空だが、カメラを向けながら海の景色を楽しむ。

由宇を過ぎたところだった。若い車掌が「お客様・・」と私の席に来る。車内改札かなと思ってきっぷを出そうとすると、「先ほどから海の写真を撮られてますね」と言う。列車の最後部の席だったので、私の様子を見ていたのだろう。「この先の神代駅を出てトンネルを抜けると、海が間近でおすすめのところを通るので、よろしければ」と勧められる。

車掌にそうしたことを言われたのは初めてである。果たして、神代から大畠の間は周防大島を目の前にちょっとした海峡の景色である。海も間近なところ。この後で車内でのきっぷ販売に回ってきた車掌にお礼を言う。

この後でフェリーに乗る柳井港を一旦過ぎて、9時48分、柳井に到着する。柳井港に向かう列車まで2時間ほどの時間ができる。柳井の白壁の町並みは駅から近いところにあるので、一回りするにはちょうどよい時間である・・・・。
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安藤忠雄展-挑戦-国立新美術館

2017年12月17日 | 旅行記C・関東甲信越
原宿駅から明治神宮、聖徳記念絵画館と歩き、やってきたのは六本木にある国立新美術館。今年で開館10年という。10年といってもできたのは2007年の1月だから、実質11年に近い。

私もこちらには東京在住時に一度だけ来ている。開館して1ヶ月ほどのことで、現代美術の展覧会の他に、国立新美術館を設計した故・黒川紀章氏の展覧会もあった。彼の「都市革命」というものに焦点を当ててさまざまな作品を紹介していた。黒川氏はその後に行われた東京都知事選挙に立候補し、当時圧倒的に強かった石原慎太郎氏に敗れたのだが、この時の私は黒川氏に1票を入れた。絶対に勝てるわけはないとわかっていたが、彼の考える都市のデザインが少しでも実現できれば面白いかなと思ったことがある。残念なことにその年の10月に亡くなり、国立新美術館が最後の大がかりな建築物となった形である。

で、その黒川紀章設計の国立新美術館で12月18日まで開かれているのが、「安藤忠雄展-挑戦-」である。黒川紀章氏が京大、東大で建築を学び、最初から建築の道を歩んだのに対して、安藤忠雄さんは元ボクサーという経歴もあり、独学で建築を学んだと対照的である。11月にたまたま安藤さんがテレビに出ていて、この展覧会について話していたのを見て面白そうだと思ったのだが、東京のことだし行く機会はないかなということでその後は気に留めていなかった。それが今回急遽東京に行くことがあり、ならばと訪ねることにした。現在の時刻は11時。10時の開館に合わせて行けばよいところ、新幹線からの時間が空いてしまうのでその間に明治神宮などを訪ねたわけだ。幸い入館待ち時間はなくすぐに入れる。同時開催で、アニメ映画『君の名は。』などで知られる新海誠さんの展覧会もあり、両方のチケットを求める人も多い。

会場に入る。入場待ちはないものの多くの人で賑わっており、展示物によっては行列ができている。まずは安藤さんの建築家としての原点である住宅。あの、コンクリートの打ちっぱなしの建物たちである。狭い敷地の中でいかに最大限のスペースを活かすか、住吉の長屋に始まりさまざまな独創的なデザインの住宅の模型、スライド画、設計図などが並ぶ。自身の仕事場も再現されている。元々関西を拠点に活動していたからか、物件も関西にあるものが多い。外観を見るだけなら現地に行ったほうが早いかな。世の中には全国の安藤建築を見て回るのを趣味にしている方もいるようだ。

ここで一度外に出る。今回屋外展示として「光の教会」の実物大を再現したとある。この展覧会の目玉と言っていいだろう。こちらについては撮影可ということで、ほとんどの人がカメラやスマホを十字架に向けている。時間帯によっては光の帯が中まで伸びるようだが、そうでなくても十字の部分だけが浮かび上がっているように見えて、ありがたみを演出しているように感じられる。

再び中に入り、続いては公共物。各地の博物館や美術館など。中之島プロジェクト、兵庫県立美術館、司馬遼太郎記念館など、どうしても関西の物件に目が行きがちだが、他にも渋谷の再開発や、外国の都市開発の事例などあり、幅の広さを感じる。

そして安藤建築でもう一つ目玉なのが、香川県の直島。今やアートの島として世界的に人気の直島だが、その核となる地中美術館は「自然と人間を考える場所」として造られた。その直島の模型と映像を組み合わせた展示もある。

他にも展示はたくさんあるのだが、そろそろ時間切れである。結局駆け足で見る形となった。足りないぶんは展覧会限定で販売という図録で見ることにする。4種類いずれかの安藤建築のデッサンと直筆のサインがついている。その中から光の教会を選択した。思わぬお土産に鞄がずっしりとした。

今回は思いがけず訪れたチャンスで東京のスポットをいくつか巡ることができた。久しぶりに歩いてみると今度はまた別のところも訪ねてみたくなった。今度は自分で時間を作って行ってみようか・・・。
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明治神宮界隈・・・ちょっとした東京の風情

2017年12月16日 | 旅行記C・関東甲信越
12月14日、この日は東京への日帰り出張である。私の場合、関東方面に行くこともなかなかない。今回は職場の中での「代打」という形である。

用事は午後の半日であり、午前中は要は移動時間である。いつもよりゆっくり家を出て、それに間に合うように新幹線に乗ればよいことだが、そこは旅好きというか貧乏性というか、早い時間に移動して、東京で時間を使えないかと考える。あれこれ候補が出て、一時は手前の新横浜で降りて横浜、あるいは三浦半島に踏み入れるのもありかと思ったが、さすがにそれは何かのトラブルで東京に行けなくなったら大変なことになる。とりあえず都の23区内には行くことにして、その中で東京勤務時代にもあまり訪ねることがなかったエリアに向かうことにした。

ということで、まだ夜が明けない新大阪駅に現れる。6時20分発ののぞみ号に乗る。この時間はまだそれほど乗客もおらず、新大阪駅始発の本数も結構あるので、のぞみの自由席でも確実に窓側に座れるくらいである。この日も寒さが厳しく、京都を過ぎると少しずつ外の様子も見えてきたが、山科や大津の町中も屋根が白くなっている。先日訪ねた比叡山の方向も白い。ここから米原に向かうにつれて路面の雪も深くなり、轍のところだけ線が見えるところもある。

伊吹山も雪化粧だ。こうした時季の東海道新幹線にはこれまでなかなか乗る機会もなく、珍しいものを見るように車窓の外を見つめる。京都から岐阜羽島までの遅れの原因の一つがこの雪である。

関ヶ原を過ぎると教科書通りの西高東低冬型の気圧配置で、雲一つないカラッとした晴天となる。短時間での車窓の変化は面白い。その中で、名古屋にはもう一つの理由で遅れて到着する。

11日に発生した博多発東京行きののぞみ号の台車亀裂事故。「重大インシデント」に指定されたトラブルで、その列車が名古屋駅に留置されている。番線を一つ塞いでいるため、上り列車が1本ずつしか入ることができず、順番待ちのために遅れになっている。私の乗ったのは早朝の列車ということもあって、雪と番線塞ぎの影響は5~6分程度だったが、後の時間帯に移動してきた人に訊くと20分くらい遅れたとのことだった。この台車亀裂については技術面のほかに列車の運行面で問題になりそうなことで、今後の調査と対策が待たれるところだが、このところさまざまなメーカーで安全に対する信頼を損ねるような不祥事が相次いでおり、日本の企業から何かが失われているのではないかと気になることである(もちろん、私の勤務先企業とて当てはまることだろう)。

・・・名古屋から機嫌を取り戻したかのように再び順調に走る。天竜川の辺りから早くも富士山の頂上が見える。そしてもっとも眺めのよい富士川の鉄橋にさしかかる。頂上の雪が思ったほどの量ではないが、稜線がくっきりした富士山を見るのも久しぶりのことでラッキーだ。

品川に到着。ここで下車して山手線の渋谷、新宿方面行きに乗り換える。降りたのは原宿。私は原宿という柄ではないと思うが、竹下通りとは反対側、明治神宮にお参りに行ったといえば多少は納得していただけるか。日本でもっとも多くの初詣客が訪れるこの神宮に手を合わせておこう。

平日の午前中ということで参道を行き交う人も少ないが、修学旅行か何かか、揃いの制服を来たグループや、外国人観光客の姿も多い。その外国人も東洋から西洋までさまざまだ。

拝殿にて参拝。来年2018年は「明治150年」である。明治というのはそれまでと違い、日本の近代化がなされた時代と位置付けられていて、政府もさまざまな記念事業を行うようである。その象徴である明治天皇を祀る明治神宮としても力が入っているようだ。あまり明治、明治というと右翼化だと叫ぶ人たちも多いのだろうが、いろんな意味で転換期になった時代だし、光と影を含めていろいろと焦点を当てること自体は私は賛成である。個人的には、学校の日本史の授業でもっと時間を割いてほしいと思う。古代の、何がホンマかようわからん考古学の細かなところはどうでもいいとすら思っている。

さてここからはしばらく歩いてみる。左手に中央線を見るうちに現れたのが国立競技場。ご案内のとおり、2020年の東京五輪に向けての建て替え工事中である。周囲にクレーンが並び、出入口にはトラックが行き来する。最近東京五輪の施設に関するニュースを聞かなくなったが、こうして作業が進んでいるところを見るともう後は完成させるだけなのかなと思う。確か、今の都知事の就任当初は五輪会場と市場移転に関する話題ばかりだったと思うが、今は何かうやむやになった感じがする。それはそれでええんかいな?

国立競技場の工事現場をぐるりと回る形で歩いて着いたのが、聖徳記念絵画館。国会議事堂に似た建物は国の重要文化財である。こちらは明治天皇の生涯を描いた絵画が展示されている。ただ明治天皇のみならず、その時代の主な出来事を描いた絵画も「奉納」されていて、順に回ると幕末から明治の時代絵巻を見ているかのようだ。来年2018年が明治150年なら、今年2017年は大政奉還150年として、教科書などで有名な大政奉還の場面の絵を前面に出している。あの絵も聖徳記念絵画館の所蔵だという。それだけでなく、元々は明治天皇の出来事を描いたものが後に教科書にも取り上げられた・・というのがいくつもある。一つ一つの作品は熱のこもった、歴史をよく物語る絵画作品としても優れているものが多く、若い人たちにも一度訪ねてほしいスポットだと思う。

聖徳記念絵画館が知られるのは、その前から伸びるいちょう並木も大きい。この景色も楽しみに訪ねたのだが、さすがに時季が遅かったか。ほとんどの木がもう葉を落としてしまい、枝だけになっている。これはちょっと残念だ。外国人観光客のグループもいちょう並木でポーズをとって記念撮影や自撮りをしていたが、自然のことで仕方がないとはいえ残念だったかな。

さてこの後は時間が気になるところだが、あるスポットに向かう。ここまで長くなったので、それについては文章を分けてみよう・・・。
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第26番「無動寺」~近畿三十六不動めぐり・9(延暦寺西塔エリア)

2017年12月15日 | 近畿三十六不動
延暦寺バスターミナルから山内のシャトルバスに乗って西塔に移動する。車内は超満員、そして西塔からバスターミナル、比叡山上に向かう方面のバスを待つ列も長く伸びる。これは「ちょこっと関西歴史たび」の効果だろう。なお、この企画は12月10日で終了しているので念のため。

バス停から参道をぞろぞろと歩き、まず目に入るのがにない堂である。左手の阿弥陀如来を祀る常行堂、右手の普賢菩薩を祀る法華堂が対称に並び、その間を渡り廊下が結んでいる。その昔、比叡山で修行していた弁慶が、この廊下を肩にかけて担ったことから、にない堂と呼ばれるようになったそうだ。確かに天秤のようにも見えるが、いくら弁慶とはいえこれを担いだとするのは無理があるようにも思う。

その常行堂の前の苔むした一角がなかなかの風情である。

渡り廊下の下をくぐると、石段の下に西塔エリアの本堂である釈迦堂が見える。多くの人で賑わっているのが石段の上からもわかる。何せ、本尊の釈迦如来像は33年ぶりの御開帳で、内陣にいたっては初公開だというから、大勢の人が集まることだ。シーズンオフの冬に入る前の賑わいとも言える。外陣から釈迦如来を拝むにはそのまま入ればよいが、僧侶からの説明を聴き、内陣を拝観するには別途500円がかかる。それでもせっかくのことだからと、多くの人が内陣に向かっていた。

この釈迦堂は、延暦寺で現存する最古の建物で、元々は三井寺の弥勒堂だったものを豊臣秀吉が移したものである。比叡山延暦寺は1200年以上の歴史があり、天台の教えは受け継がれているものの、織田信長の焼き討ちということがあったよなと改めて思い出す。その本尊の釈迦如来は厨子に収められているが、案外小ぶりな感じである。

内陣に入る。拝観ルートは一方通行でもちろん撮影禁止。その中で四天王像や山王七社、八所明神の祠を見る。神社の祠が本堂に祀られているのは神仏習合の現れだという。また釈迦如来の脇の像の中に玄奘三蔵の像もある。

拝観ルートだと先に僧侶の説明、内陣の拝観と続き、釈迦如来に正面から手を合わせるのは最後となる。何だかあっという間の出来事のように思えた。ともかく、特別拝観はこれで終了である。

延暦寺はこの他に横川エリアがあるが、夏に新西国めぐりで訪ねているし、今回メインの無動寺と、特別拝観の西塔を回ったことで今回はパスする。ここで引き返すが、今度はバスに乗らず、とりあえず東塔エリアまで歩いて戻る。山内を少しでも歩くのもいいだろう。

その途中にあるのが浄土院。最澄の菩提所である。先ほどの人の多さが嘘のようにひっそりとしている。同じ菩提所でも、空海のそれは高野山の奥の院である。弘法大師御廟というのはあるにしても、彼の地では弘法大師は今でも修行の最中とされている。また、四国遍路の方々をはじめとして、多くの人がそこをゴールとして篤く信仰している。いつ行っても賑わっているように見える。それに比べると比叡山の浄土院は静かなもので、こうしたところにも同時代の両雄の姿が現れているように思う。

浄土院からの石段を上がり、また東塔エリアに入ってそのままケーブル駅まで歩く。巡拝チケットの特典を活かし、かつ往復で違うルートをたどって変化を楽しむのなら、比叡山上までバスで行き、ロープウェイ、ケーブル、叡山電車と乗り継いで出町柳に出るのがよいが、今回は再び坂本へのケーブルを選んだ。比叡山上へのバスのタイミングが合わなかったこともある。

そして乗った坂本へのケーブル。今度は最前列のポジションを確保して、少しずつ下る前面展望を楽しむ。またいつか、比叡山を訪ねることもあるだろう。

坂本に到着して、京阪坂本駅までまた穴太積みの石垣を見ながら歩く。

そこで駅前まで来たが、歩いた後というわけではないが、鶴喜そばの本店に立ち寄る。同じ麺だとは思うが、延暦寺の休憩所でいただいたのと比べても違う気がする。これは雰囲気のなせる技だろうか。

一方で気になるのは、鶴喜そばの隣にある日吉そば。司馬遼太郎の『街道をゆく』で、鶴喜そばと間違えて日吉そばに入る件があるが、そば屋の店員の表情からその心中の分析を真面目にしてみせるところが面白い。次に坂本に来ることがあれば日吉そばに入ってみようか。そばの美味しさに差はあるのかな。

この後は坂本駅から石山坂本線、大津線経由で三条に出る。もう大阪に戻るとして、どうせならと京阪特急のプレミアムシートを買おうとするが、何と40分先の便まで満席である。前に直前でも乗れたのは平日の昼間だったからで、やはり土日、また紅葉の時季となれば盛況のようだ。さすがに40分待つのもあほらしいので、普通車に乗る。幸い座ることができたが車内は満員だった。

さてこの記事を書いているのは12月14日だが、このところ急に寒さが厳しくなってきた。東京出張で朝の新幹線に乗ったが、京都や大津の市街でも雪だった。遠くの比叡山の方向はすっかり白くなっていた。こうした中でも修行は続く。そうした時季の比叡山というのもいずれ訪ねてみたいものである・・・。
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第26番「無動寺」~近畿三十六不動めぐり・9(阿闍梨による祈祷と加持)

2017年12月12日 | 近畿三十六不動
比叡山の無動寺谷に向かう。

比叡山の中には延暦寺を中心として、山間や谷に多くの塔頭寺院があるが、これから訪ねる無動寺はそのうちの一つで、エリアとしては東塔の一部になるが、別格「南山」という呼び方もあるそうだ。この寺を開いたのは先の記事でも触れた相応和尚であるが、一時は東塔、西塔、横川と並ぶほどの発言力を持っていたという。

その無動寺には比叡山のケーブル駅から下り坂を行くが、まず出迎えるのは鳥居と狛犬。その鳥居の扁額には「弁財天」の文字がある。寺の一角に鳥居があることを不思議に思う方も多いだろうが、かつての神仏習合というものがこうした形で残っていると知れば納得されるのではないかと思う。ともかく、無動寺を目指して坂をひたすらに下る。行きは下りだから楽勝かなという感じだが、帰りは同じ道を上ってこなければならないと思うと、あまり喜んでもいられない。

さて、前の記事で「無動寺には11時目処で訪ねる」と書いた。ネットで知ったことだが、無動寺の本堂に当たる明王堂では、毎日11時から護摩を焚いたご祈祷が行われるという。それだけなら、まあよくあることかなと思うところだが、その祈祷を執り行うのが阿闍梨だというから、これは行ってみなければとなる。

比叡山には天台宗としてもっとも厳しい修行とされる千日回峰行というものがある。それを平安時代に確立したとされるのが相応和尚というわけだ。比叡山内のあらゆるお堂や石仏など、あらゆるものに祈りを捧げながら山内の約30キロの道のりを700日歩き回る。その後で「堂入り」として、9日間にわたり、断食、断水、断眠、断臥という4つの「無行」に入る。その「堂入り」の「堂」というのが、これから行く明王堂である。この4つの無行に耐えた者は阿闍梨として、生身の不動明王とも言われる。その後の200日は広く大衆を救うための修行として、赤山禅院までの往復や、京都市内を回るとか、歩き回る範囲も広がる。そして千日回峰行の満了となる。これだけ聞くと、四国遍路の修行とはまた別のストイックなものを感じる。

そしてたどり着いた無動寺の明王堂。時刻は10時40分ほど。まずはお堂の外観を見る。脇には不動明王の功徳として「聖不動経」の読み下し文が紹介されている。近畿三十六不動めぐりでは般若心経の後に唱えるものだが、他のお経と違ってこれだけが読み下しになっているのは何か由来があるのだろうか。また本堂の右手には「建立大師」として、回峰行の修行姿の相応和尚の石像が祀られている。

ここから眺める琵琶湖、大津の市街地というのもなかなかのものである。

明王堂の正面には「中に入ってお参りください」との表示もある。障子の前には何足もの靴が並べられていて、そっと障子を開けると10人ほどの人が座っている。阿闍梨による祈祷を待っている人たちだ。私も後ろの空いているところに座らせていただく。ホットカーペットが敷かれ、ストーブも焚かれている。左手には寺の人がいて、参詣者の護摩木の奉納など受け付けている。今来ている人たちはこれまでも何度もお参りして勝手知ったる人たちばかりだろう。

外陣の一角に経本が積み上げられている。阿闍梨による護摩修法だから経本に従って執り行うのかと思い、それを一冊借りて手元に置いていると、寺の人がやって来て「今日から阿闍梨様が替わりまして、今度の阿闍梨様は経本いりまへん。(般若)心経だけでさしてもらいますよって」と、経本を回収して回る。昨日の阿闍梨と今日の阿闍梨の違いがわからないので、そうですかと返す。般若心経は私の手持ちの経本で十分だが、それがわからない人はどうなるのかなと気になる。そんな中、後から訪ねる人もいて、合わせて20人ほどが外陣に座ることになった。

11時前になり、まずは若い僧侶がやって来る。これから阿闍梨による護摩修法を始めるとの説明があり、阿闍梨が来るまでに不動明王の真言を唱えるようにと言われる。その僧侶のリードで手を合わせて不動明王の真言を繰り返す。この真言、真言宗と天台宗ではカナ書きにすると少しずつ異なる。微妙な発音の違いであり、これも何度も繰り返して唱えるとその差ははっきりしなくなる。

そうする内に正面の障子が開き、白装束の僧侶が入ってくる。こちらが阿闍梨。私よりも若い。比叡山で千日回峰行を修めた阿闍梨といえば限られた人で、ネットを見ても「○○大阿闍梨」と名前が出ているのだが、この日名前を紹介されたわけでもないので、誰だったかという詮索は行わない。ともかくありがたい方ということで、その修法を見守ることにする。

阿闍梨の祈祷の言葉があり、その後で般若心経を唱える。そして阿闍梨の祈祷の作法が続く中、外陣にいる人たちはひたすら不動明王の真言である。私もちらちらと阿闍梨の作法の様子に視線を送りながらの不動明王真言である。もちろん、カメラを向けようということにはならない。

30分ほどそのような感じだったか、修法が終わったようで不動明王真言も終わる。それまで本尊不動明王に対峙していた阿闍梨がこちらに向き直し、これから加持を行うという。その間参詣者たちは頭を下げてそれを受ける。経本の一節、真言、祝詞が混ざる独特の言い回しで、声に力強さ、迫力を感じる。これは(生身の)不動明王自らの加持である。最後に、参詣者一人一人の頭と両肩を数珠でなでる。素直にありがたさの気持ちが湧いてくる。

合わせて45分ほどの祈祷、加持を終えて阿闍梨は明王堂を出る。これで毎日の修法は終わりということで貴重な時間を過ごせたかと思ううち、寺の人から「お食事を用意していますので、石段を下りてお進みください」との案内がある。食事??これは無動寺からの「お接待」だそうで、修法に参加した人なら誰でも受けられるそうだ。何でも先ほど修法を行った阿闍梨も同席するというが、さすがにそれは恐れ多い。何度も来ている熱心な方ならともかく、一見さんで食事にありつこうというのは、何か違うのではと思う。

参詣者の中でも、食事に行く人とそうでない人が分かれているようだ。お礼の言葉だけ言って食事は辞退するのも全く問題ないようなので、私もそうさせていただく。辞去する前に、明王堂の中で近畿三十六不動のバインダー式のご朱印をいただき、先ほどの修法で護摩木を焚いた後の煙に、手持ちの数珠をかざしていただく。先ほどの修法と合わせて、貴重な一時を過ごさせていただいてありがたい気持ちだ。

これで明王堂を後にして、先ほど鳥居にも扁額があった弁財天もお参りする。さらに坂道を下ったところに弁財天を祀るお堂がある。こちらでも一通りお参りとする。

さて、明王堂での修法の雰囲気の中で、次に行くところを決めていなかったことに気づく。明王堂と弁財天の分岐のところで立ち止まり、ここでサイコロということにする。くじ引きで選択肢となったのは・・・

1.竹田(不動院)

2.吉野(如意輪寺)

3.神戸北(鏑射寺)

4.左京(曼殊院)

5.豊中宝塚(不動寺、中山寺)

6.山科(岩屋寺)

いずれにしてもスケジュール的に年明け以降のお参りになると思うが、この中でサイコロの目は・・・「1」。京都市南部の竹田である。竹田というところも鉄道で通るだけで降りたことがなく、どういうところなのか楽しみである。また新たな年に訪ねることにする。

これで無動寺は終わりということで、来た道を今度は上り坂でケーブル駅に戻る。時刻は12時を回ったところで、これから西塔に向かうことにして、その前に昼食とする。食事なら先ほどの無動寺のお接待にありつけば、阿闍梨との会話込みということで得だったと思うが、やはり自分で注文するほうがいいかなと思う。結局は東塔エリア内の休憩所での鶴喜そばということになるが、比叡山での食事はこれで十分。

さてここからは、「ちょこっと関西歴史たび」の舞台である西塔へ向かう・・・。
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第26番「無動寺」~近畿三十六不動めぐり・9(延暦寺東塔エリア)

2017年12月11日 | 近畿三十六不動
無動寺を目指すところで、まずは延暦寺の根本中堂がある東塔エリアに向かう。これは後で書く内容だが、事前の調べにて、無動寺にあまり早く行き過ぎるよりは、11時を目処に行くとよいということを目にした。現在の時刻は9時前。ならばもう少しゆっくり出ればよいのだろうが、この後に西塔エリアにも行くことを考えて、朝のうちに先に東塔エリアを回っておこうというものだ。

延暦寺の拝観券を引き換えて中に入る。この時間はまだ人の姿も少ない。まず工事中の根本中堂に向かおうとすると、境内のスピーカーから僧侶の読経の声が響く。開経偈、般若心経と進み、「南無根本伝教大師福聚金剛」という、最澄の宝号を唱える。真言宗、四国八十八所でいうところの「南無大師遍昭金剛」の位置付けだ。これらを唱えて「本日も一日ご無事で」というような一言で締めていた。会社の始業前に社歌を流したり、体操したり、スローガンを唱えたりというのと同じ朝礼のお勤めなのかな。また、工事関係者への「ご安全に」という祈りもあるのだろう。

その根本中堂に入る。現在大改修中でフェンスに囲まれているが、外陣に入ることはできる。まずはここで経本を見てのお勤め。先ほどあった「南無伝教大師福聚金剛」も唱えてみる。

この後は大講堂に上がる。根本中堂は厳かな感じがしたが、こちらは開放的である。大日如来を中心としつつ、仏教の各宗派、中でも天台宗から起こった各宗派の祖たちや、もちろん伝教大師最澄、遡って聖徳太子、さらにはインドや中国の高僧など、いわば仏教界のオールスターというか、レジェンドたちの肖像画や木像がずらりと並ぶ。賑やかといえば失礼だが、延暦寺が仏教の総合大学であるとの説得力を感じる。この中に含まれていないのが弘法大師空海だが・・。この大講堂の前に幟が並ぶ。今年2017年が相応和尚の1100年の御遠忌とあり、つい先月に大法要が行われたという。相応和尚といえば、天台宗の中の修験道に近い修行である千日大峰行の創始者である。そういえば前に新西国めぐりで比叡山に来た時に、国宝殿の企画展示で相応和尚と千日大峰行の展示をしていたのを見たが、それは1100年忌の行事の一つだったのか。今さらながら気づいた。そして、この相応和尚と、今回の目的地である無動寺は深い関係がある。無動寺に、1100年忌の年の最後に(サイコロの出た目で)訪ねることになったのも何かの引き合わせと思いたい。

この後は戒壇院、阿弥陀堂、法華堂を仰ぎ見て、まだ時間があるので別料金で国宝殿に入る。通常の展示室におわす仏像は薬師如来をはじめとして変わらないが、今回は近畿三十六不動めぐりで来ているためか、不動明王に目が行く。比叡山の北にある葛川明王院も峰行に関係するお堂として紹介されている。この葛川明王院、公共交通機関で行くなら近畿三十六不動めぐりの中で1、2を争う難所であるが、いずれは訪ねることになる。

今回の札所めぐりの主役は伝教大師最澄よりもむしろ相応和尚が相応なのかなという感じで、時間もちょうどよくなったので東塔エリアを後にしてケーブルの駅に戻る。さて、これから無動寺に向かうことに・・・。
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