まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第11番「鏑射寺」~近畿三十六不動めぐり・11(今空海・中村公隆師による不動護摩供)

2018年01月30日 | 近畿三十六不動
28日の初不動の日に訪ねた鏑射寺。10時からの法要を前に護摩堂には大勢の人がやって来ている。私が来た時は場所取りの座布団や毛布の間隔がまだ空いていたが、それがどんどん詰められる。最後は隣の人と膝どうしが接するし、前後の人とも間隔が近い。堂内は三間四方といったところだが、80人以上は入っただろうか。さらに入れない人たちが縁側に二重三重に座る。護摩堂の外には五色の幕が張られているので多少は風避けになるのだろうが・・。

参詣者の中には輪袈裟をしている方も目立つ。よく見ると鏑矢が2本交差した紋が描かれている。鏑射寺は聖徳太子が鏑矢を奉納したことから興ったとされているから、寺の紋章なのだろう。前には「鏑射寺奉賛会」の文字が入る。寺の檀家というよりは純粋に鏑射寺を、それよりも山主の中村公隆師を慕う人たちと言えるだろう。あちこちで参詣者同士が挨拶しあっているのを見ると、表現は悪いがサークルの常連さんの集まりに素人が初めて来ていきなり紛れてしまったかなと思う。あるいは、選手の応援歌や振り付けを知らないのにライトスタンドの真ん中に来てしまったプロ野球ファンのようだとか。

正面の不動明王像を見る。おそらく昭和に中村師が再興した時に造られたものだろうが、護摩供の煤を受けてか黒く、しかし鮮やかに磨かれたように光っている。金色を施した眼光が鋭い。

時刻となり、護摩壇の周りに6人の僧侶が座る。そして最後に高齢の僧が入って護摩壇の正面に座る。この方が中村公隆師だ。御年91歳とのことだがかくしゃくとした感じである。周りの人たちもははーっ!という様子で師を迎える。

周りの僧のリードでお勤めの手順が始まる。それに唱和する声が響く。私も最初の懺悔文から般若心経や、大日如来、虚空蔵菩薩、不動明王の真言までは何とかついていく。だが、次のお経を唱え出したところで、手持ちの巡拝用の経本にはないものなのでここで脱落、仕方ないので手だけ合わせて周りに視線を向けてみる。周りの人たちは鏑射寺用というか、厚めの経本を持っている。前に座っていた方の経本を覗き込み、後でそれに書かれていた漢字を並べてみると、読んでいたのは理趣経であるとわかった。真言宗がベースとしている密教について説いた経典で、真言宗での葬儀では必ず唱えるそうだが、それと意識して耳にしたのは初めてである。読経の間、太鼓の音が軽快だからか、体を揺すり、リズムを取るように経本を読む人もいる。

理趣経が終わると護摩供もメインに入り、炎が本格的に燃え盛る。今度は般若心経に戻り、それを繰り返し唱える。おそらく10回は続いた。そして次は不動明王の真言である。これは何べん続いたか数えられない。法具を振ってリードを取る僧も腕が疲れるようで大変だ。

護摩堂内に煙が行き渡ったところで徐々に炎が収まり、護摩供は無事に終わった。1時間ほどが経っていた。この後、中村師が皆の方に向き、挨拶というか法話をいただく。「今空海」というから厳しい姿をイメージしていたが、語り口は温かい感じである。

その中で「この初不動から節分までの1週間、特別な形で護摩供を修めさせてもらいます。途中、どないなるんかなと思ったところもありましたが・・」とある。何かトラブルでもあったのかなと。

また理趣経の偈文の一節「大欲得清浄、大安楽富饒」を説く。理趣経は人間の欲望を肯定するものとして説かれているのだが(それがあまりに拡大解釈されすぎて違った教えになった歴史もあるのだが、まあそれは置いておくとして)、「大欲」というのは、単に自分の中のちっぽけな欲望ではなく、大きな欲、広く人々を救済するくらいの欲があれば、その中から清らかなものを得ることができるし、安らかな境地をふんだんに得ることができる・・・ということ。それは、世のため人のために何か良いことをするということにもつながるという。

「ずっとお経を唱えて祈りを捧げてますが、この年になってようやく『入り口』に来たと思います」とする一方で、「今年は終わりのほうで何か大きな動きがあるように思います」と結ぶ。うーん、一度聴いただけで全てを理解できるものではないが、ともかく理趣経というものに触れたこと、そして自分のことだけでなく、自他を同じものと見て広い心で接すること・・を聴いたことで、ここまで来た甲斐があったというものだった。後は経典を手に入れるのか、あるいは中村師の著作を買うのか、それもいいかなと思う。

護摩堂の外に出ると信徒というのか世話役の方が出ていて、温かいお汁粉とお茶が振る舞われた。お堂の中は人が多くて護摩供の間はそれほど寒さを感じなかったのだが、やはり外に出ると空気が冷たい。普段は食べないがお汁粉で回復した感じである。

さてこれで鏑射寺を後にする・・・の前に、次の行き先のサイコロである。

1.生駒(宝山寺)

2.豊中宝塚(不動寺、中山寺)

3.山科(岩屋寺)

4.東住吉(法楽寺、京善寺)

5.大津(円満院)

6.左京(曼殊院)

そして出たのは「5」、大津である。円満院って大津のどの辺やねん・・と検索すると、それは三井寺のすぐ横である。また、近畿三十六不動にはいくつかある「門跡寺院」というのがあるが、その中で初めての当たりである。出かけるとすればまだ寒い時季になるのかな。

次の行き先も決まり、今度は道場駅まで下り坂を行く。時折小雪も舞う中を歩くのは私だけのようだ。それを見かねてか、途中1台のクルマが「駅まで乗りませんか?」と声をかけてくれた。そこはお気持ちだけいただき、そのまま駅に着いた。車道の下り坂だったこともあり、行きが30分のところ、帰りは20分あまりで到着した。

改めて「道場」の駅名標を見る。道場というのは先ほどの鏑射寺から来ているのかな・・・と検索してみる。確かに地名の由来はあった。しかし鏑射寺は関係なかった。そもそも道場という町の中心はこの駅ではなく、三田からの神戸電鉄の沿線である。その地に浄土真宗で皆が念仏を唱える場所である「道場」があったのが由来だそうだ。

時刻は12時前。さすがにこの時間から帰宅は早い。これまでと同じく、札所めぐりのプラスアルファということで何かをくっつけるのだが、今いるのは道場で、この先は武田尾、西宮名塩、生瀬と続く。何もこの時季に行かなくてもと言われるかもしれないが、立ち寄りとしたのは・・・・。
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第11番「鏑射寺」~近畿三十六不動めぐり・11(28日は不動明王の縁日)

2018年01月29日 | 近畿三十六不動
毎月28日は不動明王の縁日である。18日が観音菩薩、21日が弘法大師の縁日というように、それぞれ特別な日ということで行事が開かれるところが多い。ただ、なぜ28日が不動明王の縁日なのだろうか。ネットや書籍を見ても、その由来を記したものが見つからない。ただ何となく昔から28日で受け継がれているところがある感じだ。

さて、近畿三十六不動めぐりの11ヶ所目は、偶然にも札所番号が第11番の鏑射寺。神戸市にある寺だが、最寄り駅はJR宝塚線(福知山線)の道場。駅から距離は1.7キロとあり、徒歩でも行ける範囲だが、寺までは上り坂が続くという。

鏑射寺のホームページに行事案内があるのを見ると、毎月22日が本堂での例祭の祈祷、そして28日が10時から不動護摩供とある。そして、初不動にあたる1月28日はちょうど日曜日。かなり寒くなりそうな日だが、これはどんなものか行ってみるのも面白いだろう。

不動明王の護摩供といえば、先の記事にも書いたが成田山では職場の祈祷として受けているし、比叡山の無動寺では大阿闍梨の護摩供を受けたりと、この不動めぐりの中には「体験型」が含まれるようになっている。また、山主の中村公隆という方は、ネットの記事では「現代の弘法大師」「今空海」とも称される人物で、全国に慕う人たちがいるという。どんな方なのかは後に書くとして、初不動の護摩供に出られるのかも楽しみに出かけることにする。

朝の8時前、JR大阪駅に現れる。ホームには臨時特急の「かにカニエクスプレス」が発車を待っている。この列車ではないが、以前にこの旅行商品で餘部まで行ったのを思い出す。正に今がカニのシーズンである。ただ、このところ積雪が続くのも気がかりだ。この後、快速と各停を乗り継いで道場に着く。

駅の日陰には薄く雪が積もっている。また駅のトイレも水道管が凍結しているのか使用中止とある。駅前にはチタンの加工工場があり、煙突から白い煙が上がっているが、見ようによっては温泉の湯煙にも見える。時刻は8時半を回ったところで、上り坂は30分くらいかかるか。護摩供が10時からなので時間が早いかなと思うが、道場の駅前にいても見るものはないのでそのまま鏑射寺を目指すことにする。少し行った踏切を渡ると一本道で、ひたすら上りとなる。

途中の斜面には雪が残っているし、結構太い氷柱も伸びている。ちょっと触っただけでは折れない太さ、硬さである。ふと、「ここは神戸市だったよな」と思う。

地図を見ると鏑射寺の上に武庫の台ゴルフコースというのがあり、その送迎のクルマも走る。ただそれ以上に結構な数の一般のクルマが私を追い越すし、タクシーも走る。皆がゴルフの人ではないだろうし、地図を見ると行き止まりの道である。この人たちは鏑射寺を目指すのだろうか。

結構高度が上がり、駅から30分ほど歩いたところで石垣が見え、道端の駐車スペースに先程追い越していったクルマが並ぶ。すぐ上にも駐車場がある。ここが鏑射寺である。雪をまとった山の中の寺という風情である。

道なりに上がるとお堂が出てきた。不動明王を祀る護摩堂である。「近畿三十六不動」の札も掛かっていて、ここが目的地である。

さて普段なら、お堂の外に立って般若心経や不動明王の真言などのお勤めをするところだが、正面の障子が開いていて、何足かの履き物も見える。これは中に入っていいのかな、ならば中でお勤めをしようかと上がると、畳の上には何枚もの座布団や毛布、膝掛けが広げられ、障子や柱にもたれて座っている人も何人かいる。これは、護摩供までまだ1時間近くあるが、場所取りをしているのだろう。すでに護摩壇の周りの最前列と、もたれることができる後の場所は埋まっていて、座布団を借りてその間のスペースにリュックを置いて場所を確保する。この時間で早すぎることはなかったわけだ。

この後の護摩供の時に読経があるだろうと、私のお勤めは省略して、待つ間に境内を一回りすることに。外では顔を合わせた人どうしが挨拶しあっている。「今年もよろしく」などと言っているから、不動護摩供にはお互いよく来ているのだろう。

護摩堂に隣接する三重塔には虚空蔵菩薩が祀られ、方丈の本堂には大日如来が祀られている。本堂には先に来ていた人たちが扉を開けて中に入ったので私も続く。照明もなく、最初は暗く感じたが、目が慣れてくると少しずつ仏像の姿が浮かび上がる。さらに隣には大師堂もあり、こちらも暗い中に入ってお参りする。

さて、護摩堂、三重塔、本堂、大師堂と見たが、いずれも比較的新しい感じの建物に見える。また仏像も何百年前のものというよりは現代的な感じがする。山の中の寺院だが、古くささやボロボロした感じがないように見える。

これは、寺の歴史に関連することである。それを書き出すと・・・

この地に寺を建てたのは聖徳太子とされている。仏教の道場として鏑矢を奉納したことから「鏑射寺」の名前がついたという。なお、隣の三田市の「三田」というのは、三福田(敬田、恩田、悲田)という仏教の考えを実現するモデル地区から来ているとか。その後、弘法大師や西国三十三所を再興した花山天皇にも縁があるという。弘法大師はさておき(置くのか?)、花山天皇については、近くの三田に西国番外でもある花山院があるのでなるほどと思う。その後、兵火や山火事で焼け落ちたが、江戸末期に再興された。

しかし、明治の廃仏毀釈(札所めぐりをする中でこの単語に出会う数が増えて、個人的には最近明治政府に対するウンザリ、憤りが増えているのだが)の中で、鏑射寺は三田の不逞の輩の手で焼き払われる。

その後、復興を願う人たちの声もあったが、1959年に現在の山主である中村公隆師がこの地に入り、66年に護摩堂を建立した。続いて73年に三重塔を建立した。本堂や大師堂に至っては平成になってからの建立である。つまり、現在の鏑射寺の姿はほとんどが山主の中村師が一代で再建したと言える。その中村師はさまざまな神通力、法力を持っていて、御年90を過ぎてもさまざまな発信をしているそうだ。それが現代の弘法大師と呼ばれる所以だという。

境内には四国八十八所、西国三十三所のお砂踏みがある。もっとも雪が積もっていて「お雪踏み」になるのだが、この石像たちは江戸末期の再興の時に置かれたもので、ここだけは先の不逞の輩の廃仏毀釈を免れたそうだ。それにしても、いかにこの手合いが思想を持たない、いい加減な連中だったかというのを現している。

境内を回るうちに参詣者、護摩供の参列者が増えてきた。混雑しそうなので、先に納経所に向かう。ここは護摩木の受付も兼ねていて、さまざまに護摩木を書く人たちで混んでいた。せっかくなので私も1本奉納させていただく。そして一緒にバインダー式の近畿三十六不動の朱印も先にいただく。順序が逆になるが、この時はもう先にいただいておいたほうが良いのではないかという気がしていた。

護摩堂に戻る。まだ9時40分ほどだが、10時の護摩供を前にお堂の内外は大変なことになっていた・・・・。
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第22番「不動院」~近畿三十六不動めぐり・10(伏見に来たと言えば・・)

2018年01月27日 | 近畿三十六不動
竹田の北向不動院、さらには院政、鳥羽・伏見の戦いの歴史に触れたところで、竹田駅に戻る。近鉄で桃山御陵前に移動する。駅名は違うが京阪の伏見桃山駅とは数10メートルしか離れておらず、実質乗換駅と言ってもいいだろう。伏見桃山駅の踏切を渡ると大手筋の商店街である。このアーケード街に来るのも久しぶりである。職場では年始と期首に寝屋川の成田山不動尊(この近畿三十六不動めぐりの中でも登場)と伏見稲荷に参拝するのが行事となっているのだが、かつて、「直会」ということでこの伏見桃山で下車して、伏見の酒とともに食事をして気持ちを新たに・・ということをやったことがある。人によってはお参りよりもこちらが目当てという方もいたようないてなかったような・・・(今は行事の中身も見直して、そうしたことはやらなくなったのだが)。

今回、この大手筋商店街で出かけたのが「吟醸酒房 油長(あぶらちょう)」。ここは伏見の酒造組合の全ての銘柄を取り揃えている販売店である。酒どころとして知られる伏見には現在19の酒造メーカーがあるという。見学や直売を行っているメーカーもあるのだが、あれこれ比べてみようとすると、意外とそうした店は少ないのだという。例えば酒造の直営でない、一般の居酒屋が伏見にてAというメーカーのものを置いたとすれば、同じ伏見のBやCが黙っていないだろう。なかなか商売がやりにくいのかもしれない。そこで思い切って「全部取り扱う」と言い切るところが強気だなと思う。

この油長は、店の奥のカウンターで利き酒ができるのが特徴である。買う買わないは別として、伏見の酒を少し楽しもうという向きには面白い。これまでの「直会」は昼食の店に直行だったので立ち寄ることもなかったが、今回初めて入ってみる。

利き酒を希望するとカウンターに通される。システムとしては、最初にお猪口3杯で3種類、またはグラスで1種類から注文することができる。で、対象となる酒が常時80~90種類ある。同じメーカーでも本醸造、吟醸、純米、純米大吟醸とあるし、期間限定や油長限定(この店でしか扱っていない)ものもある。酒の感じもいろいろあり、メニューを見るだけで圧倒される。

そんな中で選んだのが「豊祝 竹酒」「富翁 祇園物語」「神聖 山田錦」。ちょくちょく「呑み鉄」的な記事を書いているが、日本酒についてそれほど詳しいわけではないので、メニュー上のキャッチコピーを見て良さげなものを選んだだけだ。店員に「何がおススメですか?」と訊いても「それはお客様の好みですから」と返されるだけだろう。そしてセットについてくるのはふき味噌と冷奴。ただこの冷奴は醤油をかけて食べるのではなく、酒と酒の間で舌をリセットするのだという。豆腐のチェイサーというのも初めてだ。なお、別料金で一品料理もいろいろあるので、その気になればグラスでもって本腰を入れて飲むこともできる(店のスタンスとしてはあくまで「利き酒」なので、呑兵衛の長居はお断りのようだが・・)。

第2陣、次行ってみよう。「慶長 伏見の酒山田錦35」「玉乃光 クラシック山廃」「栄勲 古酒(15年)」。伏見といえば黄桜、月桂冠、松竹梅が全国的に有名かと思うので、それを除いて6種類を注文したのだが、いろんなものが入って来て何とも言えない心持になったことである。この6種の中であえて1つを選べと言われたら・・・・慶長かな。ただ、他の組み合わせならもっと違う答えになるだろうし、要は1回や2回ではわからないということだ。

カウンターで利き酒の途中にいただいたパンフレットでイラスト地図を見ると、「酒粕ラーメン」というのが目に留まる。酒どころ伏見らしい一品かと思うが、これも初めての味なので行ってみることにする。着いたのは「玄屋」というところ。

居酒屋の一品に粕汁があるが、この酒粕ラーメンは粕汁をラーメンに合うようにアレンジしたものである。トッピングに大根の千切りと油揚げが入っているのが粕汁らしさを残している。どんなものかと口をつけてみると、濃い目の味噌ラーメンという感じもする。身体も暖まる感じだ。これまで知らなかったが、なかなか面白く、伏見の味の一つだと思う。

さて、後はぶらぶらと歩いて中書島駅を目指す。老舗の鶏料理店は行列ができているし、黄桜のカッパカントリーにも立ち寄る。こちらでも酒造の資料を見たり、ちょいと一杯や買い物を楽しむ。

龍馬通りという商店街を過ぎて、寺田屋の建物も見る。坂本龍馬は昨年が没後150年だったか・・・まあ、別にどうでもいいが。

中書島からの帰りは京阪の特急に乗ることとして、せっかくなのでプレミアムカーを利用する。乗り心地のせいか、歩いた後の利き酒が回って来たか、そのまま大阪市内まで運ばれる。

さて、近畿三十六不動もこれで10の位に乗った。まだまだこれからである・・・。
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第22番「不動院」~近畿三十六不動めぐり・10(院政と維新の舞台)

2018年01月25日 | 近畿三十六不動
近畿三十六不動めぐりは竹田の北向不動院で終わりだが、この一帯は歴史の一場面で登場するところである。それが平安末期の院政時代である。院政として上皇自らが権力を握ったのが白河上皇。以後、鳥羽上皇や後白河上皇など、摂関政治の衰えと武家政権の誕生までの間、大きな存在感を示したところで、数年前の大河ドラマの平清盛でも、この辺りの泥々した人間関係が描かれていた。

この院政の舞台となったのが鳥羽殿、鳥羽離宮であり、まさに北向不動院が建っているのもその中である。当時の地形は鴨川、桂川の流れがもっと大きく、今は普通に宅地や田畑になっているところは川の中だったりする。城南宮などは目の前に川というか、川の流れでできた巨大な池に面していたとされている。

竹田駅から不動院まで歩く途中、隣接する形で安楽寿院というのがある。ここは鳥羽離宮の東の端に阿弥陀堂を建てたのが由来である。本尊の阿弥陀如来は柵で仕切られた収蔵庫に安置されていて、気軽にお参りできるのは手前の大師堂と阿弥陀堂である。一時は寺の領地も多く持っていたが、南北朝や戦国の戦乱で勢力を縮小した。

朝の冷え込みで境内の通路も一部凍結している。猫が2匹、寒い中お堂の縁で丸くなっている。人に慣れているのか、触っても逃げようとしない。ふと見るとあちこちに猫にエサを与えないようにとの注意書きがある。

安楽寿院のすぐ南に近衛天皇陵であるというので行くと、そこには多宝塔がある。天皇陵というと、百舌鳥・古市古墳群にあるような前方後円墳で堀に囲まれたものをイメージするが、ここは多宝塔で、さらに現在の建物は江戸初期に豊臣秀頼の手で再建されたものという。まあ、古墳時代とされる頃が特殊だったのか、後世になり浄土教も広まる中でその形式で祀られたのか、天皇陵というものの見方がいろいろ広がりそうである。

安楽寿院にあるのが鳥羽天皇陵。こちらは屋敷風の門の後ろに小さなお堂が見える。天皇としての知名度なら鳥羽のほうが高いと思うが、近衛のほうが多宝塔で目立っているように見える。まあ、どちらも安楽寿院の一部のようなものと言ってもいいかと思う。この鳥羽天皇陵に近いところに北向不動院がある。つまりこの辺り一帯が鳥羽離宮の一部で、院政の時に建てられたお堂が寺となり、当時の天皇たちも自分たちの土地?に葬られたということになるのかな。

先の記事の通り北向不動院にお参りした後、西に向かう。すぐそばの阪神高速京都線の高架下を渡ったところにあるのが白河天皇陵である。まあ、かつての院政の舞台ではあるが、今は高速道路と高架下のクルマの量が多いところである。さぞやかましいことかもしれない。白河上皇は、自分の思いのままにならないものは3つ・・・鴨川の水、サイコロの目、山法師・・と挙げていたが、今だとクルマの音もそこに入るのかなと思ったりする。

ここまで来ると城南宮も近いので歩く。気づくと、白河天皇陵の西側にはいわゆる「お二人様専用ホテル」がこれでもかと並ぶ。通りに面しているだけで5~6軒あり、通りを入るとまだまだあるようだ。改めて地図を見ると、少し行くと名神高速の京都南インターがある。インターの近くにこの手のホテルが並ぶのはよくあることだが、京都南が特に多いのは何か背景があるのだろうか。どなたか詳しい方がいれば教えていただきたい。

さて、ホテル街から南に行くと城南宮に着く。鳥居には「城南離宮」の額があり、院政時代の名残を表している。元々この地に神社はあったそうだが、平安京ができてからは都の南を守る神社として位置付けられ、院政時代にいろいろ造営された。貴族たちの熊野詣での際には城南宮で方違のお籠りをすることにもなっていたそうである。

現在は厄除け祈願の神社として参拝する人も多い。本殿は修復工事の最中でフェンスに覆われているが、拝殿には次々と祈祷を受ける人たちが入って行く。

城南宮は神社だけでなく庭園も有名である。昔の貴族の遊びの一つ「曲水の宴」が再現されているのもこの庭である。パンフレットには季節の花が美しく咲く写真が飾られているが、残念ながら1月の時季、しかもこの日は冷え込みも厳しく、花というものはほぼ何も咲いていない。季節に左右されないのは、かつての離宮のものを再現したという枯山水くらいだろうか。

その庭園の一角にギャラリーがあり、「明治元年」に関する絵画や資料の展示会が行われていた。明治元年・・・1868年。そして今年は2018年、いわゆる「明治150年」に当たる。日本が近代国家に向けて歩んだ明治の初めということで、一つ近代を見直そうとの行事やイベントがあちらこちらで行われるようだ。そしてこの城南宮は、明治の始まりの舞台ともなっている。明治政府軍と江戸幕府軍が戦った戊辰戦争の始まりが鳥羽・伏見の戦いであるが、その鳥羽というのは正に鳥羽離宮のことである。薩摩軍が城南宮や安楽寿院に陣取り、大坂から攻めてきた幕府軍を撃退した。これで幕府に大きな打撃を与え、その後の江戸開城や上野、長岡、会津、函館五稜郭などの戦いにつながる。

院政の舞台と、そこから700年ほど後の明治の始まりというのが同じところで繰り広げられたというのも、京都という町の歴史の深さである。この700年というのは、日本で武士が政治の中央への足がかりをつかみ、権力を担い、そして無くなっていくだけの時間にも相当する。

さて、城南宮からさらに西に行くと鳥羽離宮公園がある。こちらは鳥羽離宮の南殿の跡地が見つかったところであり、鳥羽・伏見の戦いの激戦地ともなった場所である。まさに700年の歴史が同居しているところだが、明治150年の現在は少年野球やサッカーのグラウンドとして地元の人たちが気軽に利用する公園である。さまざまな時のさまざまな人たちの関わりで現在がある。平和な光景であればあるほど、昔の人たちの努力に思いを馳せたいと思うのである。

さて、ここまで来たところで今回の竹田・鳥羽めぐりは終了して、竹田駅に戻る。この日はちょうどこれから京都市内で都道府県対抗の全国女子駅伝が行われるのだが、ここは洛南である。また、鳥羽・伏見の戦いというなら、鳥羽から伏見に行くのも面白いかと思う。目指すは伏見桃山の商店街ということにして、再び近鉄京都線に乗る・・・。
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第22番「不動院」~近畿三十六不動めぐり・10(都を南から守護する不動明王)

2018年01月23日 | 近畿三十六不動
今年に入って結構たて続けに記事を載せているが、実際出かけたのは12月31日~1月1日、3日、7日のことである。ごくまれに、「まつなるは半月の間ずっとほっつき歩いているのか?」と言われることがあるのだが、1日の行程を書くのに4~5日かかっているだけのことである。そこのところはご理解のほどを・・。

さて、そう言いつつこの記事だが、この前の岡山行きから1週間後の1月14日のことである。近畿三十六不動めぐりもいよいよ10ヶ所目で、前回の比叡山の無動寺でのくじ引きサイコロを受けて出たのが不動院。最寄り駅は近鉄・京都市地下鉄の竹田である。近鉄京都線というのもなかなか乗る機会がないし、竹田駅が目的地というのも初めてである。自宅のある藤井寺から竹田へのルートだが、乗り換え案内のサイトだと、京阪で丹波橋まで行って近鉄に乗り換えるのが最短かつ運賃が安いルートとして表示される。それはそうだろう。

ただ、たかが近畿三十六不動の札所めぐりである。京阪には帰りに乗ることになると思うので、行きは変化をつける、できれば「循環ルート」にしたい。ならば、藤井寺から橿原神宮前まで行き、そこから近鉄橿原線~京都線と乗って竹田に行くのがいいかなと思う。

さて、21日の朝6時すぎに出発。出かけるなら早いほうがよく、回るところを回り終えれば帰るだけのことである。各駅停車を乗り継いで橿原神宮前に着き、京都線へは特急を張り込んで丹波橋を目指す。7時24発の京都行きにはビスタカー車両があり、どうせならと2階建ての上段の席を購入する。

冬の景色、この日は関西でも寒気がやってくるという。雪を見ることはなかったが沿線も寒々しい景色である。池などは氷が張っている様子に見える。ただ遠くの生駒山をはじめとした周りの山々はけっこうはっきりと見える。

大和郡山城や薬師寺の横を通り、大和西大寺から京都線に入る。JRの学研都市線とも並走し、かつての巨椋池の埋め立て地にできた田畑など見るうちに丹波橋に到着する。おそらく、普通に大阪市内から京阪を経由すればもう少し早く着いたであろう駅である。後続の各駅停車に乗り、8時22分、竹田に到着する。京都市地下鉄の駅でもあり、地下鉄の車両も停まっている。

不動院へは竹田駅から歩いて10分ほどのところにある。途中で見たものもあるがそれは別に書くとして、東側の門から入る。ただこちらはメインの入口ではなさそうで、南側に立派な門があったので改めてこちらから入る。「北向山不動院」というのが正式な名称である。

不動院が開かれたのは1130年、平安末期のこととされる。興教大師覚鑁(かくばん)上人の手による(「真言宗中興の祖」とされ、後には真言新義真言宗を開いた人物)。鳥羽天皇の病気平愈の祈祷を行ったところ回復したことから、勅願として不動明王を本尊とするお堂を建てたのが始まりである。寺はこの地から都を守るとして北向に建てられたことから、北向山の名前がついたという。なお、現在の本堂は江戸中期の建物。

朝9時前のことで、寺の人が境内の掃除やら本堂横に五色の幕を貼ったりと忙しい感じの中、また地元の人が散歩の途中で軽く合わせる中、階段の下でお務めとする。後でバインダー式の朱印をいただこうと向かいの建物の寺務所のインターホンを鳴らすと、本堂の後ろから寺の人が顔を出し、本堂の階段を上がった2畳ほどの小部屋に案内される。

境内のすぐ西を阪神高速京都線が走り、少し北には名神高速が走る位置で、周りも住宅や店舗が広がる町中の小ぢんまりした寺。コンパクトな中にいろいろなものが詰まっている。秘仏とされる本尊不動明王の姿を彫った石像もある。狭いながらも不動明王を前にした護摩供ができるスペースがあるし、裏手には水の行場もある。こちらの不動明王は苔に覆われている。地元の人たちに古くから親しまれているのかなと思う。

ここで、次の行き先を決めるくじ引きとサイコロ。そこで並んだのは・・・

1.大津(円満院)

2.河内長野(明王寺)

3.左京(曼殊院)

4.東山(聖護院、青蓮院、智積院)

5.神戸北(鏑射寺)

6.嵯峨(大覚寺、仁和寺、蓮華寺)

そして出たのは「5」。近畿三十六不動めぐりで初めての兵庫県である。最寄り駅はJR福知山線の宝塚と三田の間の道場だが、初めて聞く名前の寺である。神戸北と言いながら、地図で見る限りでは山の中の寺に見える。「鏑射」というのは(少なくとも「不動院」よりは)どこにでもある名前ではない。面白い由緒があるのかなと、次の参詣が楽しみである。

さて、この不動院の周りは平安の頃に一時代を築き栄えたところである。不動院ともども、当時の歴史を辛うじて伝えるスポットが結構あり、それらを書くだけで一つの記事になりそうだ。これも京都の歴史の一場面ということで書くことに・・・。
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久しぶりに「ミシュラン居酒屋」へ

2018年01月22日 | 旅行記F・中国
福塩線で福山に到着。駅のホームから福山城の石垣が見える。ここから山陽線は列車の本数も増えるので、少し改札の外に出てみる。

福山はバラの町として知られている。前に福山の駅前に降り立ったのは夕方暗くなってからのことでよく見えなかったが、バラ園が設けられている。太平洋戦争の空襲で大きな被害を受けた福山、その復興の一つとして、人々の心に和らぎを取り戻すそうと植えられたのがバラで、今では市内で100万本のバラがあるという。

その一方で福山城の天守閣広場にも向かう。天守閣に上がるのは省略したが、こちらも福山の町のシンボルではある。福山城は江戸時代初期は水野氏が代々城主を務めていたが、後継ぎがなくお家断絶。その後城主になったのは阿部氏で、その7代目の正弘は老中として、ペリー来航時の日米和親条約の締結に当たった人物である。

こちら福山も草戸千軒遺跡を紹介する広島県立の歴史博物館や、鞆の浦もあるし、また久しくゆっくり訪ねてみたいところである。そう考えれば隣の尾道も長い間行っていないし、かと言って四国めぐりと絡ませるのは多少無理があるかな・・・。

山陽線の相生行きで岡山に向けて移動する。岡山の一つ手前の北長瀬でスーツ姿、振袖姿の若者たちがどっと乗ってきた。この日は1月7日、岡山市の成人式が行われたその帰りである。会場が岡山ドームというところで、以前は操車場があったところである。このところの成人式のニュースといえば、一部の自治体で一部の新成人が酒を飲んで式場で暴れたとか、どこぞの町長が流行りの1曲を唄うとか、そういうのが目立つのだが、今年の成人式は横浜や八王子での「はれのひ」事件の話題一色となった感じがある。この日の時点ではそういう事態になるとは露知らず、翌日8日の成人の日当日に突然の店舗閉鎖、新成人が着付けができなかったり、あるいは預けた振袖も持ち逃げされていたりと、大きな騒動となる。まだ社長の行方はつかめていないようだが、実に腹立たしいことで、厳罰に処してもらいたいものである。

岡山に到着。相生行きなのでそのまま乗っていればいいところ、満員の新成人とともに列車を降りる。時刻は16時を過ぎており、新成人はこれから同窓会を兼ねてどこか出かけるのだろうか。私はその様子を見つつ、一旦駅の地下街に入り、高島屋のところから再び地上に出る。そこで向かったのはこちらも久しぶりの「鳥好本店」である。

「鳥好」はこのブログでも何回か登場している。ある時はこの店に来ることを主な目的として日帰り旅を行ったこともあるが、記事をたどってみると店に入るのは5年ぶりに近い。実はこの日に途中の見どころを省略したり、途中下車せずに列車を乗り通したりしたのは、なるべく早い時間にここに来ることを意識したためである。久しぶりの訪問だし、別に店の人と顔なじみというわけではないのであくまで一見の客のように入る。16時の開店からまだ時間は経っていないが、カウンターは1席だけ空いていた。テーブル席も半分以上が埋まっている。

店名に「鳥」がつくだけにメニューのトップには焼鳥が来るが、あての種類は豊富である。正月明けのことで海の幸が一部売り切れ、あるいは仕入れがないものはあるが、およそ居酒屋メニューはさまざま揃っている。以前にあった珍しいオリジナルメニューの一部が消えていたが、そこは見直しというところだろう。また、前に来た時よりも各地の地酒の種類が増えているように思う。

今回の記事をご覧いただいた方はお気づきかどうか、この日は昼食を取り損ねている。だからというわけではないが、こちらで取り返しているような感じだ(体に良くないことは重々承知なのだが・・・)。

17時頃になると次々に客が入って来て、テーブル、そして奥の座席もいっぱいになり、予約のない客が満席で入れない事態にもなった。さすがは「ミシュラン居酒屋」である。このミシュランの評価は、この料理がめちゃくちゃ美味いからというよりは、こうした客同士がガヤガヤして、店員が忙しく客の間を回っている風景が日本の大衆酒場らしいからということでつけられたものであり、私も久しぶりにその雰囲気を楽しむことができてよかった。これ、どこかで列車を1本遅らせていたら、ひょっとしたら満員で入れなかったかもしれないなあ。

一方で、鳥好以外の岡山の居酒屋も開拓してみたいなという思いもある。これはまたの機会ということで・・・というのを今回繰り返して書いているように思う。日帰りではなかなか時間が限られてしまうが、いずれにしても「三備」は何やかんやでこれからも足を運ぶ地域になりそうである・・・・。
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井原鉄道 夢やすらぎ号

2018年01月21日 | 旅行記F・中国
吉備線で神社めぐりをした後、備中高松城跡や最上稲荷、足守など他の見どころはあるのだが、それはまた次の機会にすることにしてそのまま終点の総社に向かう。伯備線で北に向かうこともできるのだが、ここで選んだのはさらに西へ向かう第三セクターの井原鉄道である。

平成11年1月11日・・・。この1並びの日に開業した井原鉄道。元々、井原から山陽線の笠岡、そして福塩線の神辺を結ぶ軽便鉄道の井笠鉄道というのがあり、国鉄は吉備線の延長で総社から神辺を結ぶ井原線を計画していた。昭和40年代に井原線の建設が始まり、路線買収で井笠鉄道は廃止された。ただ、国鉄ローカル線を取り巻く環境が厳しくなり、井原線も一部高架橋や路盤が建設されていたが凍結されることになった。年月が経過して、岡山・広島両県や周辺自治体によって第三セクターの井原鉄道が設立され、工事が再開された。そして上記の開通である。開業当時、私は広島に住んでいたこともあって、開業して間もない頃に乗り鉄でやってきたことがある。その時に出会った珍駅名もあるのだが、それは後で触れることにする。

総社発13時05分の神辺行きに乗る。総社から清音までは伯備線の線路を走るが、それぞれホーム、改札口は別である。なお井原鉄道のほうは係員不在でワンマン列車での精算方式だが、伯備線の線路でも井原鉄道の列車に乗る場合は青春18きっぷは使えず、井原鉄道の運賃を支払うことになっている。また土日祝日には「スーパーホリデーパス」というのが1000円で発売されていて、総社から乗る場合は運転士から購入することができる。

さてその車内に入って驚いた。木目調の座席が並び、ボックス席にはテーブルも据えつけられている。こういう感じの車内デザインと言えばあの人しかいないな・・・と思って検索してみると、果たして、多くの観光・イベント車両の内装のデザインを手がけてきた水戸岡鋭治氏によるものである。2005年に導入された車両で「夢やすらぎ号」という。水戸岡氏はこういうところでも商売していたとは。この車両は特別列車ではなく、日によって定期列車として運用されているもので、同社のホームページには運航予定が掲載されている。事前にこの車両の情報がなかっただけに、上手い具合に乗りあわせたものだと思う。うーん、これなら神辺までの1時間を呑み鉄ですごすのも面白いかなと思ったのだが、あいにく総社の駅には売店はなく、駅前にもコンビニらしきものはない。

車内には地元の人もいれば、わざわざこの車両目当てで来たとおぼしき人もいる。ボックス席は1~2人ずつ乗る形で発車。清音まで伯備線を走り、ホームの先に改札口で仕切られた井原線乗り場に着く。ここからが井原鉄道の路線である。高梁川を渡り、高架橋を行く。最近になって新たに建設された第三セクター路線はほとんど高架橋の上を走るように思う。頭に浮かぶのは北越急行だったり、智頭急行、四国の阿佐海岸鉄道や土佐くろしお鉄道(ごめん・なはり線、宿毛線)というところだが、踏切の数を減らしたり、既設の道路への影響を最小限にするためのものだろう。

川辺宿を過ぎる。ここは西国街道の宿場町であるとともに、金田一耕助シリーズで知られる横溝正史が疎開したところとして知られる。そしてやって来たのがその名も吉備真備。吉備真備といえば奈良時代に遣唐使、そして政治家として活躍した人物。この辺りの出身で、町名は倉敷市真備(まび)町だが、井原鉄道の新駅には歴史上の人物の名前がそのままつけられた。昔乗りに来た時にはここで下車して、駅から北にある公園に行った記憶がある。ちなみに同じ岡山県内の第三セクター線の智頭急行には宮本武蔵という名前の駅がある。

次に目指すのは矢掛。こちらも西国街道の宿場町があったところ。途中下車しようかなとも思ったのだがこのまま「夢やすらぎ号」に乗り続ける。ここはある程度まとまった町で、高架橋から町の様子をうかがうがさすがに本陣や古い町並みは見えない。ただ沿線にはところどころに昔ながらの立派な造りの屋敷が目立ち、ある程度高い位置を走るのでそうした車窓が見えるのは面白い。

車庫のある早雲の里荏原に到着。こちらも歴史上の人物シリーズで、伊勢新九郎、後の北条早雲がこの地で生まれたとされることから来ている。かつて早雲の父が構えた山城もあるという。駅前には、北条早雲から氏直までの小田原の「北条五代」を大河ドラマに・・という幟が出ている。今となっては大河ドラマは各地の観光PRの場となっているように思うが、同じ戦国ものでもなかなか取り上げられない北条氏というのは意外と面白いのではないかな。

井原鉄道の本拠地で沿線の中心である井原に到着。列車行き違いのためにしばらく停車する。駅舎が弓のように湾曲した形になっているのは、那須与一ゆかりの地にちなんでいる。那須与一といえば源平の屋島の戦いで、扇の的に矢を見事に当てた弓の名人だが、後にこの辺りを領地として与えられ、その墓も残っているという。ここまで、金田一耕助、吉備真備、北条早雲、そして那須与一と、結構幅広い時代の歴史上の人物が出てきた。午前中の吉備線と合わせると、吉備地方の風土というか、歴史の豊かさというのを想像させる。

現在の井原はデニムの町としてPRしている。また「中世夢が原」という看板がある。この中世夢が原は井原市の美星町というところにあり、クルマでなければ行けないが、中世の町並みを再現したテーマパークである。昔訪ねたことがあるが、実にリアリティある町並みだった。時代劇のロケにもそっくりそのまま使われたことがあるのもうなずける。そうしたところもまた行ってみたいものである。

ここから西に走り、御領からは広島県に入る。備後の国である。14時08分、終点の神辺に到着。福塩線のホームの横に造られた行き止まり式のホームに降り立つ。なお、「スーパーホリデーパス」を買ったにもかかわらず途中下車も何もなく神辺まで来たが、普通運賃は総社から神辺まで1100円。パスは1000円だから1回乗り通しただけで元が取れた形である。総社から乗ってきた乗客の中には1100円を運賃箱に入れようとしたが、運転士から「ホリデーパスが1000円であるので、駅の窓口でそう言って買ってください」と言われた人もいる。こうした対応も第三セクターのローカル線ならではである。

今回は吉備線の延長で実に久しぶりに井原鉄道に乗ることができたが、次はここをメインに、途中下車しながら乗り歩いてみたいものである。

時間も時間なのでここで折り返すことにする。循環ルートを取ろうということで次は福塩線で福山に向かう・・・・。
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鼻ぐり塚と吉備津彦神社

2018年01月19日 | 旅行記F・中国
吉備津神社から吉備津彦神社まで歩くことにする。距離にすれば2キロくらいだろうか。右手には吉備の中山という小山がある。両神社はこの山裾に建っている。山の南側は昔は海だったところで、肥沃な土地と海に恵まれた吉備の人たちは、この山を神聖なものとして敬っていたという。 クルマがすれ違うのがやっとという幅の道を歩くうちに、「鼻ぐり塚」の看板が現れた。吉備津彦神社への途中で立ち寄りたかったのはここである。 鼻ぐりというのは牛につけられる鼻輪のことである。牛や豚といった家畜の供養のため、全国から鼻ぐりが奉納されていて、その数は700万個以上と言われている。福田海(ふくでんかい)という、1908年に設立された宗教の本部にある。修験道をベースにした教えのようである。鼻ぐり塚は境内の奥にあるそうで、拝観料は取らないが、鼻ぐり塚にお参りする人は入口で護摩木をもらい、100円を納めるようにとある。護摩木に名前と願いを書いて、柵を払って中に入る。途中に祈祷の舞台や不動明王を祀る岩があり、その奥である。 これが鼻ぐり塚。色とりどりの鼻ぐりがうず高く積まれていて、近づいてみると牛や豚の人形もある。また塚の左右に牛と豚の像が狛犬のように並ぶ。まずは護摩木と、改めて賽銭を納める。そういえば前日に焼肉を食ったよなと思い出しながら・・・。 鼻ぐり塚に来るのは初めてで、今回神社の間で立ち寄ろうと思ったのは、子どもの頃に見た「ウルトラマンエース」のためである。オンエアは私が生まれる前の話なので、見たのは何年も経ってからの再放送だが、その中に牛の超獣が出る話があった。大人になって改めてDVDでその話を見直したら、鼻ぐり塚が舞台だった。 あらすじを書くと・・・岡山出身のTACの隊員が帰省する時、新幹線の中でヒッピーの青年(若かりし頃の蟹江敬三さん)に出会う。青年は強引に岡山のガイドを頼み、隊員は鼻ぐり塚に連れてくる。そこに積み上げられた鼻ぐりを見て、青年は隊員が止めるのを聞かずに腕にはめる。すると青年の体から毛が生え、顔が牛になった。これまで人間に食べられた牛たちの怨みを思い知らせるとして、やがて巨大化したカウラという超獣が町を襲う。最後はウルトラマンエースの手で腕にはめられた鼻ぐりを壊すと、超獣の呪いが解けて青年は元の姿に戻った・・・という話である。鼻ぐり塚が出たり、超獣に襲われるのが岡山や牛窓の町だったりというロケ作品である。話としてはバチ当たりなことはしてはいけないとか、食べ物のありがたみをとかいう日本昔話のような内容で、分かりやすい。 塚の周りには地蔵や観音などの像が囲んでおり、福田海というのも従来の仏教に根ざしたものなのかなと思う。珍スポットとして紹介されることが多いようだが、20世紀の信仰の形の一つなのかなという印象を持った。 鼻ぐり塚を後にして東へ進むと、両国橋というのに出た。両国橋といえば江戸の隅田川にかかるあの橋を連想するが、こちらは小川をまたぐ2~3メートルくらいの橋である。ただ「両国」というからには・・そうか、備前と備中の国境ということか。後でわかったのだが、吉備の国を「三備」に分ける時に、吉備の中山のちょうど真ん中を境にしたのだという。その辺りに小川があったのだろう、橋を架けて両国橋としたわけだ。 山裾をたどる形で歩くうちに前方に備前一宮駅が見える。ちょうど列車が来て発車する。ここまで来れば吉備津彦神社は近い。改めて、こちらも吉備津神社同様に北に向いている鳥居の前に立つ。先ほどの吉備津神社からの分社といいながらも、1000年を越える歴史を持つ神社である。こちらはフラットな感じで、まず目につくのは安政の頃に建てられた巨大な石灯籠。何でも、先の大晦日からの年越しの夜にはこの石灯籠でプロジェクションマッピングが行われたそうだ。 こちらでは正面の拝殿で手を合わせながら、拝殿の中で祈祷を受ける人たちの祝詞を聞く。この後で横にある祠それぞれに手を合わせる。いずれも背後の森は吉備の中山であり、先の記事では鳥居や社殿が北向きなのは鬼門を守るためとかヤマト王朝を意識したのかもしれないと書いたが、そうではなくて、吉備の中山を神聖な山として崇めるために社殿ができたというのが正しいのだろう。 ここまで来れば備前一宮駅が近い。時刻は12時を回っていて、吉備線を乗り通すなら12時23分発の総社行きがある。沿線には他にも備中高松城跡、最上稲荷、足守の武家屋敷など歴史的なスポットが点在するが、これからどう回るか・・・。
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独特の歴史感ある吉備津神社へ

2018年01月18日 | 旅行記F・中国
桃太郎線(吉備線)の吉備津で下車。ここから歩いて吉備津神社を目指す。

先ほど備前一宮の駅を過ぎ、そちらは吉備津彦神社の最寄り駅である。吉備津神社に吉備津彦神社。似たような名前である。歴史的には吉備津神社は備中の一ノ宮、吉備津彦神社は備前の一ノ宮とされている。また、ここからは離れているが、備後の一ノ宮として、福山市の新市町に吉備津神社がある。いずれも吉備津彦命を祀っている。この中で備中の吉備津神社が元々は吉備の国の総鎮守だったのが、国が備前、備中、備後と「三備」に分かれたことで、備前と備後に分祀するようになったという。・・・それにしても、この記事だけでここまで「備」の文字はいくつ出てきたやら。

5分も歩くと昔ながらのものだろうか、松並木に出る。横の車道は参拝者たちのクルマで渋滞している。

そんな中で石段の下に出ると、そこも長い行列である。拝殿から石段の下までこんなに行列が続くのかと思いながらしばらく並んだが、石段は普通に参拝者が上り下りしている。よく見れば石段の下の手水場での列である。手水場が小さい感じで一度に使える人が少なそうだ。ちょっと礼儀に反するが、手水は省略して列を横切って石段を上がる。

石段を上がりきったらそのまま拝殿である。したがって外からの様子はわからない。ともかく、ここでお参りである。

そして境内へ。普段の神社詣とは順番が逆のようだが、吉備津神社はこちらから仰ぎ見るのがよい感じである。

本殿と拝殿はつながっていて、ともに室町将軍足利義満が造営したものである。現在は国宝にも指定されている。これだけ大きな社殿だと厳重に柵に囲まれているのが多いが、真横から間近に見られるのも変わった感じがする。まさか、横の広いところから社殿を仰ぎ見るために、拝むところが石段を上がってすぐのところにあるわけではないだろうが。この様式は吉備津造と呼ぶそうである。

変わっているといえば、社殿の向きもそうだ。神社といえば南を向いて建つのが多いイメージがあるが、吉備津神社は北東から北を向いている。鬼門を守る意味合いがあるとか、桃太郎伝説に絡めて北の方に鬼ヶ城があるとか、諸説あるようだ。あるいはヤマト王朝を意識したのかもしれない。

境内の一角はお守りやお札、おみくじのコーナーだが、その奥に千代の富士の優勝額が立てられている。昭和61年1月場所だから32年前のものである。国技館に飾られていたのはもっと大きいはずだからレプリカだと思うが、吉備津神社で千代の富士とは。ここの氏子が千代の富士の後援会長をされていたからという。これは想像だが、小さな体で大型力士に立ち向かい、投げ飛ばしたりする姿に桃太郎のイメージを重ねていたのかもしれない。その千代の富士こと九重親方は若くして亡くなったわけだが、このところの相撲界のゴタゴタをあの世からどんな思いで見ているのかなと思う。

この後は、本殿の上にある一童社へ向かう。こちらは学問・芸術の神様で、桃太郎を描いた絵馬には合格祈願があれこれ書かれている。

そして吉備津神社のもう一つの見所の回廊を歩く。神社でこうした回廊というのもあまりないのではないかと思う。

さまざまな独特のものがある吉備津神社はこれで回ったことにして、次は備前の一ノ宮である吉備津彦神社に向かうことにする。吉備線なら一駅だが、駅間の距離が短いのと、途中であるところに立ち寄ってみようと、歩いて行くことにする・・・。
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乗り鉄は吉備を目指す

2018年01月17日 | 旅行記F・中国
1月17日は阪神・淡路大震災のあった日。もう23年になるのかと思う。仕事の関係で就活を控えた大学生と話をすることがあるのだが、そうした彼らは震災の時にはまだ生まれていないという。最近は関西でも風化したかなと思うことがあるが、5時46分の時だけは、関西各局で慰霊祭の中継映像を流していた。

さて、話は10日前の1月7日。この冬柳井、高岡、紀伊勝浦と使ってきた青春18きっぷがもう1回分残っている。日帰りで使おうということで、あちこち行き先を考えた。大阪から西、北、南と行ったので東へ行くか。名古屋とか知多半島、三河などが浮かぶ。また一方で、このところ年始に訪ねている鳥取はどうか、いやいや山陽筋で岡山、間の津山も楽しそうだ。四国は・・・八十八所めぐりの順番があるのでここは外すことにする。

こうした時はサイコロに身を委ねるのも面白い。実際それで行き先を決めたこともある。ただ、時刻表の地図を見る中で少しずつ形ができてきた。目的地は岡山にする。

その決め手は・・・また改めて書くとして、岡山には久しく乗っていない路線がある。岡山と総社を結ぶ吉備線。今は桃太郎線という愛称がある。このブログの中に吉備線に乗ったという記載がないので、結構間が開いている。岡山に行くなら津山の扇形機関庫が通年公開されるようになったのも気になるのだが、今回は吉備路ということにした。沿線には由緒ある吉備津神社、吉備津彦神社もある。1月7日はまだ初詣の時季ということで、正月のお参り尽くし(前日6日は、職場行事として成田山大阪別院と伏見稲荷大社の参拝)でいいだろう。

当日朝、ともかく朝一番から出かけようと大阪駅まで出て、6時25分発の快速姫路行きに乗る。車内では2人掛けのシートに身を任せ、あまりあれこれ考え込まないように進む。

姫路に到着。ここから山陽線経由で岡山に向かうが、この区間は昔から青春18の時期は席取りが厳しい。列車の本数が前後の区間より少ないし、編成も短い。さらに、姫路では違うホームへの乗り継ぎで階段の上り下りがある。で、接続は5分・・・まあ、席は空いてまへんわね。ここは列車の最前部、運転席の後ろに陣取る。前方を見て少しでも楽しもうということだが、運転手の所作や、播磨
~備前と移り行く車窓を見るのは面白かった。

9時29分、岡山に到着。鉄道の要衝として、中国地方では岡山が最も賑やかだと思う。山陽だけでなく山陰、四国を結ぶ列車が行き交うのが大きい。ここに来ると、どの方面の列車に乗るか目移りしそうだ。その中で今回は乗るのは、10時15分発の吉備線総社行きである。

少し時間があるので外に出る。桃太郎の像とも対面する。

さて吉備線、津山線のホームに向かうと乗車口には行列ができている。吉備路の初詣スポットに向かう人たちだろう。キハ47の2両編成は立ち客も多い中で出発した。

吉備線は岡山近郊の通勤通学路線でもある。その一方で、岡山の市内電車との乗り入れを意識したLRTへの転換話も出ていたのではなかったかと思う。富山ライトレールの例もある。それはどうなっているのかと記事を検索してみる。すると、昨年12月の山陽新聞の記事として、岡山市長の市議会の答弁で、JRや総社市との協議は続けるものの、現時点ではLRT化は厳しいとの見解を示したという。富山のそれが成功体験のように全国に広まるのかと思いきや、実現にはなかなかハードルが高いようである。

さて現在の吉備線は、桃太郎線の愛称を前面に出しているようだ。車両はキハ47、40の昔ながらの朱色だが、駅名標の枠は桃にちなんだピンク色だし、駅ごとの車内放送の前には桃太郎の歌の一節が流れる。

吉備津彦神社がある備前一宮で下車客があるがここは一度通りすぎ、次の吉備津で下車する。こちらで降りた人のほうが多かった。次の記事で書くが、神社としての由緒は吉備津彦神社よりも吉備津神社のほうが深いようである。吉備線に乗るのが久しぶりなら、これらの神社にお参りするのは子どもの頃を含めて過去にあったかな?という感じである。まあそこは、初めてという形で新鮮な気持ちでお参りすればよいだろう。

晴れの国らしい穏やかな空の下での神社めぐりである・・・。
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第1番「青岸渡寺」~西国三十三めぐり2巡目・19(帰りは紀伊半島一周へ)

2018年01月16日 | 西国三十三所
那智山16時25分発のバスに乗って勝浦駅に戻る。途中、那智の滝前や大門坂から外国人を含めた乗客があり、そこそこの人数である。16時50分に紀伊勝浦駅に戻ってきたが、そろそろ暗くなる時間帯である。

宿泊するならちょうどいい頃合いで、駅の裏手には最近できたらしいビジネスホテルもある。レンタカーつきの宿泊プランもあるようで、また南紀に来ることがあれば利用してみてもいいかなと思う。

・・・といいつつも、この時間から大阪に向けて帰るのである。17時38分発の紀伊田辺行きに乗り、以後、紀伊田辺、和歌山と乗り継げば23時16分に天王寺に着く。さすがに行きのような海の景色を見ることはできない。

ただ、先の記事で「乗り鉄の悪魔のささやき」と書いたことがある。それは逆に紀伊半島の東側を走るというものである。こちらは変則的で、17時03分発の特急くろしお13号で新宮まで行き、新宮17時55分発の多気行きに乗る。新宮へは17時28分発の鈍行でも間に合うが、これだと3分ほどしかなく、すぐの乗り換えとなってしまう。新宮駅に久しぶりに降り立つのと、夕食の買い物時間を確保するために特急で先行する。以後、多気から松阪に出て、松阪からは近鉄特急に乗る。新宮から多気までも3時間コースだし、くろしおや近鉄特急に乗る分が余計な出費となるが、その間の紀勢線を青春18きっぷ1回分でぐるりと回るほうが、旅としては面白そうだ。

そういうわけで、新宮までの乗車券と自由席特急券を購入して、くろしおの入線を待つ。やってきたのはオーシャンビュー車両で、この時間、そして次は終点新宮というところで自由席もガラガラである。海側に座り、目を凝らして外の景色を見る。カメラではなかなか上手く撮れないが、肉眼では、新宮手前の三輪崎の直線の海岸の景色を何とか眺めることができた。

新宮に到着。紀伊駅から和歌山県の紀勢線を延々とたどってきて、ようやく最後の駅である。ホームでは熊野三山の絵馬が飾られている。

次の多気行きまでの時間、改札の外に出る。久しぶりに訪れた駅だが、内装が新しくなったようだ。少し前まで、381系くろしおで使われていたパンダシートが待合室に置かれている。また売店型のセブンイレブンはあるが、昔は売っていた駅弁はもうやっていないそうだ。さんま寿司、めはり寿司というのを買って車内で食べたのを昔のこととして思い出す。

駅の外は真っ暗で、駅前には小さなイルミネーションができている。またすぐ向かいの徐福公園は門が閉まっているがライトアップされていて、夜空に朱色が映える。駅前のローソンでいろいろ買い求めて、まずは多気、松阪までの3時間コースに備える。

17時55分発の多気行きはキハ25のワンマン2両編成。途中、熊野市、尾鷲、紀伊長島以外は後ろの車両の扉は開かないので、そちらに陣取る。ロングシートの車両なので、空いていると余計に開放的に見える。ただ、寒いし、外も見えないのでは余計に淋しく感じられる。2両合わせて15人ほどで出発する。

紀勢線の東側といえば、昨年に「三重県サイコロの旅」で松阪から熊野市まで乗っている。まさかサイコロの目で熊野市に行くことになるとは思わず、このタイプの車両で往復する中で、三重県の長さというのを改めて感じた旅だった。今回、新宮からすぐの熊野川(新宮川)を渡り、ここまで長かった和歌山県に別れを告げたが、今度は三重県を長々とたどることになる。まず始めは鵜殿からである。

車内の乗客が少ない上に、乗った人がみんなごそごそと食べ物を出しているので、私も気兼ねせず?に食事とする。ちょいと呑み鉄も。アテの他に、先ほど紀伊勝浦の駅弁屋で買っておいた「紀州路」という、さんま寿司とめはり寿司の詰め合わせをいただく。昔は鯨の弁当もあったと思うが、これも需要がなくなったのだろう。リュックには土産として鯨のたれも入っているが、これは帰宅して後日の楽しみに取っておく。

熊野市に到着。ここで乗客が入れ替わる。ここから熊野灘に面したリアス式海岸の区間が続くが、もちろん海の景色は見えない。まだ18時台だが、周りにほとんど灯りがないので、どういうところを走っているのかもよくわからない。昨年の夏に乗った時の記憶を呼び戻す。ただそれも長くは続かないので、読書しながら進む。

尾鷲で乗客が減り、19時39分着の紀伊長島では後ろの車両からは他の客がいなくなった。ちなみに、紀伊長島から尾鷲、新宮方面は特急も含めてまだ列車はあるが、多気方面はこれが最終である。2分停車の後で出発、ここからは同じ三重県だが紀伊と伊勢の境である。当然、周りは真っ暗。そんな中で後部車両を独占した形で、もうどないなとなれという感じで列車に揺られる。当初の予定通りに西海岸を回っていれば、こんな心持ちにはならなかったかもしれない。

20時54分、終点の多気に到着。10分の連絡で、参宮線から来た亀山行きに乗り継ぐ。さすがにこのまや津や亀山まで行ったのでは今日中に帰宅できないので、松阪で下車する。21時39分発の大阪上本町行き特急がある。無事空席もあった。後でわかったのだが、この列車は土日ダイヤのみ運転のようである。1月3日が土日ダイヤだったからできた乗り継ぎで、いかに近鉄といえどもこの時間に特急に乗らなければその日のうちに帰宅できない。

先ほどまでの車窓を思うと、松阪の駅前は明るかった。伊勢平野まで出たことの安心感もある。松阪牛の店はまたの楽しみとして、特急に乗り込む。特急券は鶴橋まで買ったのだが、結局は循環ルートにこだわり、大和八木で下車して、橿原神宮前経由で藤井寺に戻った。天王寺、阿部野橋も経由しない面白さである・・・。

さて、これで西国三十三所めぐりの中でアクセスに最も長い時間がかかるであろう札所に行ったわけだが、西国三十三所の札所会は、昨年出席した先達研修会での告知通り、新たな「納経」を仕掛けてきた。朱印の専用用紙を33枚、それを貼り付ける台紙・・・現在の住宅事情を考慮して、従来の掛け軸よりもコンパクトに、インテリアとしても飾れるようにとのセットである。これらは指定の札所で、先達なら無料でもらえるそうだ。また、この専用用紙で集めた朱印は、今後の先達昇補の一つにカウントするとか。・・・新たな挑戦である。次に那智を訪ねる時はこの台紙(まだもらっていないが)も手にしながら行くことになるかな。その時はどのようなアクセスをするだろうか・・・・。
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第1番「青岸渡寺」~西国三十三所めぐり2巡目・19(今年の新たな祈願)

2018年01月15日 | 西国三十三所
紀伊勝浦駅から那智山に向かうバスに乗る。路線バスのように後乗り前降りだが、車内はゆったりした二人掛けシートが並ぶ。途中那智駅に立ち寄り乗客があるが、先ほどの鈍行列車に乗っていた人の姿も見える。那智駅はホームの裏が砂浜になっているし、道の駅があって温泉施設も備えている。またバス代も安くなるので、こちらでバスを待つのもありである(特急が停まらないのだけは仕方ないが)。

ここから先は、2011年9月の紀伊半島豪雨の被害が大きかったところ。奈良、和歌山、三重の3県で88人が犠牲になり、3月に発生した東日本大震災ともども、災害の多い年を現す出来事だった。その後に建て直した家が目立つので集落としては一見新しいように見えるが、慰霊碑がちらりと見えたり、ところどころ更地のままの土地が見えると、爪痕はまだまだ消えないものだと感じる。今も川の護岸工事の最中である。

前回は雨の中を途中で降りて大門坂を歩いたが、今回はそのまま那智山に向かう。何せ、大阪から青春18きっぷ1回分で日帰り往復するのである。那智山での折り返しのバスまでの時間は1時間15分ほど。西国巡拝のバスツアーでももう少し滞在時間があったように思う。ただこの日は正月3日。山上は結構クルマで渋滞している。時間が少なくなりはしないかと余計に焦る。14時35分着のところ、結局10分近く遅れて到着した。参道には、青岸渡寺1300年と合わせて、那智大社1700年を祝う看板が出ている。この1700年前というのは仁徳天皇の年代とされているが、そこまで正確に遡れるとは知らなかった。

これから参道の400段ほどの石段を上がるのだが、ここで今後の行程を見直してみる。予定では帰りのバスは15時50分発だが、実はもう1本後の16時25分発でも、紀伊勝浦からの乗り継ぎには間に合う。これで那智山の滞在が少し延びる。また、ふとここで「行きと帰りで同じ線を通るのは・・・」という、乗り鉄の悪魔のささやきのようなものが出てくる。それについてどうするかは、また後で書くことにする。

石段を上り、青岸渡寺と那智大社との分岐に出る。ここで選んだのは那智大社。まずは鳥居をくぐり、境内に向かう。

すると、見覚えのある拝殿は高いフェンスに覆われていた。創建1700年の事業として、拝殿の改修と銅板屋根の葺き替えを行っている。この前に訪ねた富山高岡の瑞龍寺でも山門の改修工事中で、数日の間に偶然にもそんな場面に当たるかと苦笑する。いずれも文化財の維持と、後の世代に伝えるのに必要なことで、また新たな姿を見せていただけるのを楽しみにする。

拝殿で手を合わせることはできるので、列に並んで護摩木をお供えして、お参りをする。また、那智大社名物?の巨大おみくじにも挑戦。なかなか、示唆に富むお告げの言葉が書かれていた。

さて、この後でようやく西国めぐりとしての青岸渡寺である。連絡口?を抜けて今度は寺の領域である。こちらは那智大社ほどの混雑はないが、手水で清めて線香を供えようとすると、数が多いので炉に立てずに投げ入れるよう案内される。

こちらも正面では行列ができていて、まず並んで手を合わせた後で、横にそれて西国めぐりのお勤めとする。正月だから、そして西国の1番札所だからというわけではないが、観音経の偈文も唱える。その後で先達用の巻物型納経帳にご朱印をいただき、ようやくこいつの1番が埋まったかと、新たな年の気持ちのリセットとする。

ここまで来てバスの時間まで少し余裕ができたので、那智の滝まで歩く。まず、青岸渡寺の横のスペースで三重塔と滝との組み合わせの景色を見る(ここには、一番良さそうな位置に写真屋が陣取っている。客に記念撮影のシャッターを押しましょうと近づいて、「はい、な~ち!」と言ってシャッターを押す。その掛け声が気色悪いし、その後で自分たちが改めて撮る写真を売りつけようとするので、私は鬱陶しい連中としか見ない。だから近づけない)。ここから滝まで歩いて移動する。

那智の滝はやはり何度来ても雄大な景色である。この日は上から下まで流れていたが、1週間後のニュースでは滝の凍結も見られたそうである。

ここまで来て時間が出てきたので、滝の近くに行くことにする。延命の水をいただき、御滝拝所から滝を仰ぎ見る。この滝はいつからあったのだろうかと、思いを馳せる。先ほど、青岸渡寺1300年、那智大社1700年というのに触れたが、那智の滝はもっと古くからあるだろう。後ろに0が一つつくのかどうかは議論があるのだろうが・・・。

御滝拝所からの帰り道に拝殿があり、ここから改めて手を合わせる。昨年の末に職場でもいろいろあったので、ここは一個人としてだが、新たな年の仕事・職場が無事に運ぶようにと願う。

青岸渡寺、那智大社、那智の滝の三点セットを回り、時間が残ったので滝から那智山のバス停まで歩いて戻る。ここまで来てようやく折り返しである・・・。
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第1番「青岸渡寺」~西国三十三所めぐり2巡目・19(本州最南端の鈍行旅)

2018年01月14日 | 西国三十三所
西国三十三所の第1番である青岸渡寺を目指す青春18きっぷでの鈍行旅。紀伊田辺まで来て、次に目指すのは紀伊勝浦である。10時41分の新宮行きで紀伊田辺を出て、目的地の紀伊勝浦に着くのは13時26分、3時間近い道のりとなる。

その区間を走る車両は・・・もうわかっていることだが105系の2両編成、ワンマン運転である。始発駅なので全てのドアが開くのかなと待っていたが、開いたのは運転手横の一番前のドアだけ。車内保温のためということだが、それならそうと案内があってもいいのではないかと思う。乗ったのは20人あまりで、後ろの車両に陣取る。ワンマン運転のため、途中2両のドアを開けるのは駅員がいる白浜、串本、紀伊勝浦だけだという。本州最南端を行く路線はローカル線の旅でもある。

時間となり出発。まずは陸地を走り、白浜に到着。ここで下車する人が結構いる。紀伊勝浦や新宮まで行かなくても、白浜は鈍行での日帰り観光でも十分楽しめるところである。久しく訪ねていないが、温泉や南紀の海の幸をまた楽しんでみたい。ここから車内も空いたところで、ローカル線の鈍行旅らしくなる。ロングシートの車両ではあるが、体を横に向けて窓の外を見ても気兼ねしない。

再び太平洋、黒潮が姿を見せるのは周参見を過ぎてから。朝は天気が一時不安定だったが、ここに来て青空が広がる。窓の外にカメラやスマホを向ける乗客もいる。

見老津で特急との行き違いのために10分ほど停車する。運転手横のドアからホームに降りてみる。ホームから国道を挟んで海を見ることができる。ホームから海が近い駅というのも、あるようでなかなかないところである。

12時16分、串本に到着。言わずと知れた本州最南端の駅である。駅のあちこちにもそれをアピールするものが見られる。ここで27分停車ということで、今度は改札を出る。ちょうど昼時ということで何か仕入れたい。ここから潮岬、大島へは距離があるので行けないし、駅前に海が広がるわけではないが、本州最南端の駅らしくそれなりに開けている。これまで機会はないが、一度こうしたところに泊まってみたいなと思わせる。時間があるので、駅前のコンビニで昼食を仕入れ、さらに駅横の土産物店で早々と自分土産を買い求める。

串本は本州最南端の地ということでテレビの番組でも取り上げられることがあるのだが、この記事を書く前日の13日、テレビ朝日の番組でも紹介されていた。その番組のコンセプトは「日本人はあまり知らないけど、外国の人はよく知っている」というスポットや商品を紹介するもので、その一つとして「クシモト」も、1890年に起こったトルコの軍艦エルトゥールル号の遭難事故、そして地元大島の人たちの献身的な救出劇として取り上げられていた。串本町は今でもトルコとの交流を続けていて、トルコ出身の女性を町職員として採用したり、新たに着任した駐日大使の訪問を受けたりというのも紹介されていた。それは番組としてよかったのだが、「串本」って、日本人にそんなに知られていないところなの??ということに驚いた。まあ、こう書いているのは西日本の人間で、テレビ番組で調査した相手がどうせ東京の人たちばかりなのだろうけど、この件に限らず、最近は学校で日本の地理歴史は教えないんですかねえ・・・と思わせる場面が増えているように感じる。

串本を過ぎて、橋杭岩も車窓ごしにちらりと見える。本州最南端を過ぎ、また時刻も午後になったことで太平洋、黒潮もまた違った姿を見せる。こうした車窓を見るのも面白い。最初に、紀伊田辺から紀伊勝浦まで3時間近い道のりと書いたが、車窓に移り行く海を見ている分には退屈さを感じさせない。

13時26分、紀伊勝浦に到着。天王寺を出たのが6時50分だから、6時間半ほどかかったことになる。そして次に乗る那智山行きのバスは14時10分発で、終点に着くのは14時35分。これで7時間半コースである。やはり紀州の那智の地は同じ関西にありながらこれだけかかるものである(特急なら4時間半~5時間で着くが・・)。

バスまで時間があるので、駅前の商店街を歩いて港まで出る。正月3日はまだまぐろの水揚げはなかったが、飲食店は観光客向けに結構開いていた。もう少し時間があればまぐろをいただいて・・・となるが、それはまたの楽しみとする。しばらく港から海を見ながら入れる足湯に浸かる。鈍行乗り継ぎにあって数少ない温泉との出会いである。

これから目指すのは那智山。ようやく、今回の旅の本当の目的地に向かう・・・・。
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第1番「青岸渡寺」~西国三十三所めぐり2巡目・19(青春18きっぷによる日帰り旅へ)

2018年01月13日 | 西国三十三所
2018年は西国三十三所の草創1300年のまさにその年に当たる。2016年~2020年の5年間を記念事業に位置付けているが、その真ん中となるとまたさまざまなことが行われることだろう。先達会からも年賀状代わりの案内が送られてきたので、また折を見て紹介したいと思う。

さて、年越しの高岡、白川郷、五箇山めぐりから戻って中1日の1月3日、青春18きっぷを手に出かけることにする。少し間隔が空いた西国三十三所めぐりの2巡目。ここまで18所を回って残り半分を切っているが、青岸渡寺、圓教寺、成相寺、松尾寺、長命寺、観音正寺(華厳寺はやはり最後にするとして)といった遠いところが残っている。その中で、新快速1本で行ける姫路や近江は置いておくとして、青春18きっぷの有効活用として丹後か紀州かということになる。そして丹後は・・・先日雪の中を歩いているし、丹後は雪ではなく雨だろう。ということで、日本海に対する太平洋を見ようということもあり、青岸渡寺を目指すことにする。

西国めぐりとして青岸渡寺に行くのは、2巡目だが3回目となる。1巡目の時には阪急交通社の日帰りバスツアーで、掛け軸の朱印をいただく2回目は前日松阪に泊まり、消えゆく国鉄型気動車に乗るために訪ねた。そして3回目・・・今度は天王寺側から青春18きっぷで行ってみようか。

青春18きっぷ1枚で天王寺から青岸渡寺(紀伊勝浦もしくは那智からバス)まで往復ができる。阪和線で天王寺まで戻るのは23時36分。青春18きっぷの耐久レースみたいなものだが、これをやってみることにしよう。

まず出発するのは天王寺6時50分発の湯浅行き。青春18きっぷの耐久レースとは言いながら出発がゆっくりのような気がするが、この後の列車の便は限られており、あまり早く出かけても途中での待ち時間が増えるだけである。

少しずつ外が明るくなる中、ウトウトしながら走り大阪から和歌山に入る。最初の駅は紀伊。これから延々と紀伊の国を鈍行で走ることになる。

和歌山に到着。この列車は湯浅行きだが、ここで下車する。次に乗る和歌山始発の紀伊田辺行きが15分後の8時05分発のため、最初から座って行こうということである。できれば、海の見える席を確保したい。

その列車は折り返しではなく、大阪側から客を乗せてやって来た。どうやら和歌山線の列車のようだ。来たのはかつて新快速でも使われていた117系で、これでゆったりと行けそうだ。無事に海側の席も確保する。

まずは海南を過ぎると下津の海が見えてくる。天気が晴れていることもあり、穏やかに見える。しかし南下すると雲が広がって来て、一瞬ではあるが雨も降ってくる。どうやら変わりやすい天気になりそうだ。

有田に差し掛かる。こちらは言わずと知れた紀州みかんの産地。私の大学の同級生が脱サラしてこの地でみかんの栽培に従事していて、この冬も美味いみかんを味わうことができた(彼はそれが生業なのできちんと買い求めた)。正月はまだまだ出荷で忙しいそうで、この時間も作業していることだろう。

湯浅では先の列車で終点まで来たらしい客を乗せ、切目、岩代という海岸線のきれいな区間に差し掛かる。前回青岸渡寺を訪ねた時は紀伊半島の東から入った後西海岸に回ったのだが、この区間は夜で何も見えなかった。この先の黒潮の景色も楽しみである。

9時55分、終点の紀伊田辺に到着。次の新宮行きの10時41分まで時間がある。後の鈍行では間に合わないのでどうしてもこの待ち時間は出てしまう。駅にいても仕方ないので外に出る。出迎えるのは弁慶の像である。

紀伊田辺は熊野古道への玄関口で、駅の横にはその観光案内所やバス乗り場もある。その中で、途中下車の合間に向かったのは駅からほど近い闘鶏神社。ちょうど3ヶ日、初詣に訪れる人の姿も結構見かける。

闘鶏神社の由緒は、允恭天皇の頃というから3世紀とされているが、熊野権現を勧請したのが始まりだという。さらに平安時代に熊野三所権現や天照大神などを勧請した。当初は田辺宮と呼び、ここを守るのは田辺別当であった。ここは熊野街道の中辺路の玄関口ということで、当時はやった熊野参詣の時にはここに立ち寄って参籠することが多かったそうだ。そう言われれば、拝殿の後にいくつかの祠があるが、熊野本宮大社のそれと同じようなものに見える。

田辺別当に湛増という人物がいて、その子が弁慶であると伝えられている。それで駅前に弁慶の像があるというわけだ。また境内には湛増と弁慶の像があり、その前には鶏も一緒にいる。田辺別当は田辺宮を守るだけでなく、当時この地に発達していた海賊たちを統括していた。実質、熊野の主と言ってもいい形で、当初は平氏とつながりを持っていた。しかし、源平の戦いの時にどちらにつくかということになり、鶏を紅白に分けて闘わせた。その結果、白の鶏が勝ったことから、白旗の源氏方につくことを決め、熊野の海賊たちを率いて瀬戸内海に向かったという。そのことから「闘鶏権現」と呼ばれるようになり、明治の神仏分離で現在の闘鶏神社という名前になった。

こうした由来があるためか、闘鶏神社は勝負事のご利益があるとされている。境内に神馬の像のほかに「競馬記念碑」というのがあったが、ギャンブルの方面にもご利益があるのかな。(後でわかったことは、かつては境内に馬場があり、流鏑馬や神事としての競馬が行われていたことを示すものだという)

他には藤厳(とうがん)神社というのがある。江戸時代、紀州藩の出先として紀伊田辺藩というのがあり、紀州藩の家老であった安藤直次が初代の藩主となった。現在の田辺の原形を作ったり、今では紀州名物の一つである梅の栽培を奨励した。その法名から「藤厳公」と呼ばれ、明治時代にその功績に感謝するために神社が建立された。

さてこれから目指す青岸渡寺は、言うなれば那智山である。熊野三社の一つに向かう前に、その別当宮であった闘鶏神社というのもいいだろう。そろそろ列車の時間が近くなり、駅に戻る。ここからがまた長い道のりである・・・・。
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帰りは呑み鉄にて・・・・(余計な書き足しあり)

2018年01月12日 | 旅行記D・東海北陸
元日の夕方、城端線て高岡に戻ってきた。次に乗るのは15時32分発の金沢行き。今度はあいの風とやま鉄道~IRいしかわ鉄道の直通列車である。券売機できっぷを買うと、中央には「倶利伽羅~金沢」と表示される。県境に近い倶利伽羅が両鉄道の境目であり、金沢で下車する時にわかりやすくするということか。

平地に下りると積雪はほとんどない代わりに雨である。その中を快走し、16時10分に金沢に到着。次に乗るのは16時31分発の敦賀行きで、敦賀までは2時間半の行程である。ちょうど夕方に差し掛かることもあり、売店でなにがしか仕入れる。バッグの中には昨夜のホテルでの「二次会」の残りもあるはずだ。ちょうど転換クロスシートで隣も空席のため、鈍行での呑み鉄である。まあ、正月だし・・・。それよりも前の席には中国人の6人のグループ、後ろの席は西洋人の男性と英語で会話する日本人女性のカップルと、鈍行の車内もインターナショナルである。

新幹線の白山基地への高架線を見ながら走るうちに外は暗くなり、駅ごとに地元の人たちが下車する。また小松では特急2本を先行させるために16分停車。長距離鈍行らしさも味わう。

福井に行くと必ず買うのがこの「味付けたら」。三国の業者が加工していて、ある意味福井のソウルフードだという。塩加減のキツさは身体に悪そうだが、クセになる一品。越前沖でたらがたくさん獲れるのかと思いきや、たらはオホーツクのものだというのは意外である。富山では昆布〆やら昆布巻きのかまぼこが郷土料理の一つだが、その富山では昆布は採れない。それと似た図式で、福井の味付けたらも北前船文化なのかな・・?と想像してしまう。

すっかり暗くなった18時05分に福井到着。ここでも12分停車だが、ホーム上の売店、今庄そばのスタンドは閉まっている。改札外の駅弁店も閉まっているのは正月だから早じまいのようだ。まあ、後は帰るだけだからとそのまま車内に戻る。

19時06分、敦賀に到着。後は湖西線、JR京都線に乗り継いで大阪に戻る。大阪に戻ると外はまだまだ明るいが、元日夜独特の人出の少ない光景だった。この風情も悪くない・・・。

(以下、余分の書き足し)
さて、この記事を書いているのは1月12日。前日はこの冬最強という寒波の襲来もあり、日本海側では大雪となった。そんな中で、新潟の信越線で起きた列車の立往生。JRの対応について賛否両論あるが、現場の状況を考えると、無人の雪原を歩かせるよりも、暖房の効いた車内にいてもらうほうがトータルで安全だと判断したのは理解できる。ただ、それをもっと早くきちんと説明してあげればよかったのではと思う。新潟の人が我慢強いのか知らないが、関西だと早い時点で乗客が勝手にドアを開けて降りだすか、車掌がシバかれるかのどちらかだろう。

それより気になったのが、立往生した車両のひ弱さ。最近のアルミ製か何か知らないが、車両が薄っぺらいな・・・というのが感想。昔の鋼鉄製の国鉄型車両ならこのくらいの雪(昔は普通に降っていたのでは?)なら多少強引に走り抜けたのではと思う。まあ、これは勝手な感想なのだが、ちょっと鉄道がいろんなところでヤワになってないか?と、この記事を見ながら思ったことである・・・。
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