

第14番の常楽寺から第15番の国分寺までは歩いても1キロほどで、郊外の住宅地を行くうちに到着した。平坦なところに位置する。

国分寺といえば奈良時代、聖武天皇の命で全国に造られた寺院である。そのうちのいくつかはこうして寺として今も伝わっていたり、寺はなくとも地名として残っている。四国は4つとも八十八所の霊場として数えられている。境内の看板によると、阿波の国分寺は当初広大な敷地を有していたようである。今は多くが住宅や田畑になっていて、国分寺の境内も小ぢんまりしたものであるが、一部は歴史公園として整備されているようである。資料館が年末年始休みのため行かなかったが、府中(こう)といい、この辺りが阿波の国のかつての中心だったことをうかがわせる。
こうした国の命令で建てられた寺院も、時代が経過して政府の力が弱くなると廃れるものである。国分寺も「国営」だったから多くが廃れたのだろうか。もっとも、阿波の国分寺は例によって長曽我部元親の兵火で失われ、江戸期に蜂須賀氏で再興された。その時管理に当たったのが曹洞宗の僧侶ということで、今も曹洞宗である。四国八十八所は弘法大師信仰だからすべて真言宗かと思いきや、長い歴史の中でいろいろ宗派の転向もあるようだ。



その本堂だが、現在改修工事ということで囲いがされており、拝観は仮に横のお堂で行われている。こちらでお勤めを行う。


そして横にはまだ新しい感じの大師堂がある。見ようによってはこちらが今の仮本堂に見えるところである。
さて、お勤めをしている中であったこと。地元の人らしいおばあさんと、その娘か嫁らしい女性の二人がやってきて、今の仮本堂、そして大師堂の前に備え付けの納札箱をガサガサとやりだした。「金があったわ」「今年は錦はないのう」などとやり取りしている。
ここで金とか錦とか言っているのは、納札の色のこと。1巡目でペーペーの私を含めて、4巡目までは納札の色は白。先達を名乗れるようになると色紙の納札となり、50巡以上で金、そして100巡以上で錦が使える。金や錦は札所などで売られているわけではなく、先達会が発行している。それだけ貴重なものである。
納札をいただくのは、その人の功徳をもいただくという考え方がある。納札は四国巡拝する人の名刺の役割もあり、お接待をいただいたお礼に差し上げたり、知り合った遍路巡拝の方からいただくことがある(私は徳島を全て回ろうかというのにこれまでそういうやり取りはないのだが・・・)。その中で金や錦はレアでありがたみがあるとして、これを持つとお守りのようなことがあるという。
・・・だからと言って、納札を箱をあさっていただくのはいかがなものかと思う。「今年は」と言うくらいだから、この人たちは毎年箱をあさっているのだろうが、ルール、モラルとしてどうなのだろうか。札の主からすれば複雑な気分かもしれないだろう。その人から直にいただくならありがたいのだろうが、箱をあさってそういうのをもらって(くすねて)嬉しいのだろうか。どなたか、ご見解をお寄せいただければ。

納経所に向かう。「元日で歩きですか、あと2つがんばってください」てな言われる。「あと2つ」というのは、徳島市内5ヶ所めぐりで、国分寺が3つ目、この後は観音寺と井戸寺があるということである。この2つは以前先に回っていて、前の3つを埋めるように動いているのは以前からの記事で書いていることであるが、ここは励ましとしてありがたく受け取る。
そろそろ寺を後にしようと山門に戻ると、年配の男性から声をかけられた。この元日は新たな歩きの人が減ったと話される。2016年が「4年に一度の逆打ちにご利益がある年」で、その影響で回る人が多かったが、2017年はその反動で回る人じたいが少なくなるのではと言っていた。
二言三言交わして、それではと辞去すると、しばらくして「ちょっと待って」と声がかかり、「お接待」と煎餅が入った袋を渡された。おおっ、こういう形のお接待は初めてである。ウエストポーチから納札を出してお礼をする。「ああ藤井寺ですか、西国の。知ってますよ。これは高野山に納めさせていただきます」と返された。
かつて藤井寺といえば、近鉄バファローズともに「藤井寺球場のあるところですね」と言われることがあったが、近鉄バファローズもなくなり、藤井寺球場もなくなると、それは昔話となり、そう言われることもほとんどない。今は、こうした四国八十八所にいるからかもしれないが、「西国5番葛井寺」で説明したほうが反応ありそうだ。

そのいただいた煎餅の袋の中に「一歩二方」と書かれた小冊子が入っていた。後でそれを開くと、「今日までの生き方の中で 善・苦どちらとの出会いが多かったですか」に始まり、「あなたは最近 ゆったりと空を見つめましたか 月・星に見とれましたか 月に一日は静けさの中で 自然を観じて見ましょう」という一節もある。

また、「遍路(人世)とはあせらない事 遍(あたり)山・川・海の景色を見ながら 路(道)山・川・海の音を心眼に刻み先へ」「お四国とは 現在の中に過去を宿し 縁と潮騒と空気を観じながら 自分に合った癒しを見付ける処」とある。さらに裏表紙には「一歩二方=昨日を踏まえ 明日を見つめ 今日の一歩を前へ」と結ばれている。ここに挙げたのは一部で、他にもいくつかの詩的表現が書かれている。

これは誰か名のある人の名言というよりは、煎餅をくれた男性の独自の言い回しなのかもしれない。一通り読み、そしてこの後も折に触れて読んでみると、四国を回ることについて、単なる朱印集めや、あせって先を急ぐ行程を組むのではなく、四国の自然を感じながら(「観じる」というのが、「止観」や「阿字観」の「観」につながる文字選びなのかなと思う)、自分の足でじっくりと回ることの素晴らしさを説いた文なのかなと思う。
「なぜ四国を回っているのか」と訊かれて、「西国三十三所を回った後で、やはり遍路巡拝における『メジャー』に挑んでみたかったので」と答えたことがある。国分寺で出会った男性にもそう話した。ただ、四国というのは他の札所めぐりとは違い、そうした「意味合い」がやはりいろいろと受け継がれ、またそれを信じて回っている人が多いように思えた。私のこれまでの巡拝を否定するつもりはないが、「発心の道場」としての阿波徳島を回り終えたことで、次なるステップに向けて自分の気持ちも新たにしたいものである。この男性は常に国分寺にいるに違いなく、「一歩二方」の小冊子を受け取ったことのある方も多くいることと思うが、私にとってはまず最初の国を(イレギュラーな順番だが)回ったことに対する一種の「修了証」だと勝手に解釈している。これからの高知、愛媛、香川についても、気持ちを新たにして回りたいものである。

さてこれで第16番の観音寺まで行けば、一応は徳島市内5ヶ所めぐりも一本の線でつながる。次も3キロほどということで、改めて一歩を踏み出すのであった・・・・。、