・・・まだ20日の旅行記が続きますが、しばらくのお付き合いのほどを。
東室蘭の駅前をしばらくぶらついた後、11時56分発の苫小牧行きに乗車。ここから電化区間となり、乗り込むのは北海道独特の赤い塗装の電車である。広々としたボックス席に陣取る。客室内の入口に「冷房車」という札が出ているのは北海道ならではだろう。東京や大阪の近郊の車両であれば夏は冷房がかかるのは当たり前、弱めの車両に「弱冷車」という但し書きを入れるのだから、ところ変われば考えが変わるものだ。
ここからは太平洋の外海に沿って快調な走りを見せる。広大な敷地を利用した郊外型の大型店舗も時折見られるが、漁村や工場なども見ることができる。
温泉で有名な登別に到着。ここからバスで20分ほどで全国的に有名な登別温泉に行くことができるが、今日はこのまま乗車する。特急ならいざ知らず、鈍行列車が到着しても乗り降りするのは地元客とおぼしき人ばかり。
北吉原から萩野にかけては日本製紙の大きな工場を見る。萩野、そういえばかつてJRコンテナの業務に就いていた時、コンテナ取り扱い駅の一覧に北海道の小駅の名前が出ていたような記憶があったが、やはり製紙工場につきものの専用線があったそうだ。どうやら昨年春限りで貨物の取り扱いはやめたそうで、引込み線には雑草が生い茂っている。
そういえばもう一つ、ここの日本製紙の工場はかつての「大昭和製紙北海道」で、都市対抗野球でも同社の野球部(現在は休部し、市民チーム”ウィードしらおい”として活動中)が「白老町代表」でよく出場していたのを覚えている(何せ、実家が毎日新聞購読だったもので、夏になれば同大会の様子が連日2ページ使って報道されていたのを読んでおり)。それらのことで、白老というのは結構な工業の町なのかなというイメージを持っている。
ただ今回下車したのは、白老駅に近いところに、アイヌ民族に関する展示を行っている「白老ポロトコタン」というスポットがあることから。今回の旅の中で数少ない観光地めぐりで、当初のプランでは明日の最終日に訪れる予定のところが、午前中の予定が前倒しになったことからこのタイミングで行ってみようというものである。
駅は思ったよりも大きく、駅員もいれば観光案内を兼ねた土産物コーナーもある。私がパンフレットを探していると、そこの係の人からどこに行くのかと尋ねられる。白老ポロトコタンだと答えると、わざわざ駅の外に出て、駅横の歩道橋を渡っていく道筋を教えてくれた。また、「こういうのをやっていますからぜひのぞいてください」と渡されたチラシ。「しらおいチェプ祭」というのだそうだ。チェプとは、アイヌ語で「魚」を意味するとか。
10分ほど歩くと公園にさしかかる。すると遠くから何やら歓声が起こっている。そちらまで歩くと、大きなビニールプールがしつらえられ、子どもたちがプールに足をつけて何やら動き回っている。何でも「サケとニジマスのつかみどり」という、祭りのイベントの一つとか。サケなんぞつかみ取りにしてもいいのか、いやつかみ取りできる魚なのかと一瞬思うが、こちらではいいんでしょう。結構大物をつかむ子もいれば、魚のすばしっこさに翻弄される子もおり、見ていて面白い。
ステージではカラオケ大会が行われていたり、飲食物のテントも多くでており、要は地元の人たちの秋祭りである。チラシには第21回とあったから、結構定着してイベントなのだろう。
さて、昼食は済ませたはずだがテントをのぞいてみると、サケの切り身を太い串に指し、炭火で豪快にあぶっているコーナーがある。チマチェプ(焼き魚)という料理で、10cm×20cm×5cmほどの分厚い切り身が一切れ100円という安さ。せっかくなので一切れ購入し、旬の風味を堪能する。思わずビールがほしくなるところだが、ここはぐっとこらえることに・・・。
思わぬ寄り道を楽しみ、目的地のポロトコタンへ。ポロトコタンももちろんアイヌ語で、ポロ→大きい、ト→湖、コタン→ラーメン屋・・・ではなく町村(こう書くと北海道出身の元官房長官みたいやな)という意味。村にはポロト湖が面しており、園内にはアイヌ語で家を意味するチセが並ぶ。ちょっとした歴史村の趣き。
受付をくぐるとまず現れるのが、高さ10mはあろうかという大きなコタンコロクル(村長)の像。この村の守り神みたいなものだろうか。札幌ラーメンの店に行くと、よくこういう像がカウンターに置いてあって・・・(だからラーメン屋から離れなさいって)。
ちょうどアイヌに関するガイダンスと古式舞踊の披露の時間ということで、チセの中に入る。中には囲炉裏がくべてあり、その煙の上にはたくさんのサケの干したものがぶら下がっている。アイヌの伝統的なつくりの住居を実際に建て、こうやって現役のものとして維持管理しているようだ。
まず、アイヌの衣装を身にまとった男性が、アイヌ民族の歴史や衣食住についてのガイダンスを行う。北海道を初めとして、東北北部、千島、サハリンに住んでいたアイヌ。自然との調和の中で独自の生活様式と文化を育んできた民族である。それが、江戸時代になり、松前藩が北海道に拠点を構えるようになってからは、「和人」がアイヌを半ば支配する構図となり、明治になって日本と同一化されることになる。現在ではアイヌと和人の区別がつかなくなっている一方で、ようやくアイヌの先住性を認める国会決議が行われたところである。
ガイダンスの中で私がハッとさせられたこと。部屋の脇には漆器づくりの桶のようなものがいくつか置いてあったのだが、これはアイヌと松前藩の交易の中でアイヌにもたらされたもので、「宝物」とされたものらしい。ただし「この桶一つ得るのに、クマの毛皮なら10枚、サケの燻製なら100匹で交換だったらしいです。だから、桶の数でその家の財力がうかがえたといえます」というもの。
ちょっと待って。それって、交易として「割の合うもの」かな・・・と思うのだ。失礼ながら桶のほうだって、それほど上等なものには見えないし・・・。係の人はやんわりとした言い方だったが、ほとんどタダ同然でサケにクマを召し上げ、それを本州に流すことで利益を上げていたということである。そして北海道の物資はどうやって本州にもたらされたか、それは北前船ということになる。
物流、交易の歴史の一つとしての北前船というものに個人的に興味を持ち、昆布もそうだし、北海道から多くのものをもたらし、上方の文化伝播の役割を担ったということに歴史の面白さを感じている。鉄道の旅に出ても、北前船ゆかりの港町では資料館に入り、交通・物流についてちょいと学ぶことがある。ただその北前船の役割を語るのは常に本州側、和人側の視点であり、逆を返せばアイヌにとっては搾取の歴史だったということには思いがなかなか及ばなかった。
別に北前船を悪者というつもりでもないし、アイヌの肩を持つわけではない。ただ歴史の中のある出来事が、視点によっては違ったものとして受け止められることがあり、そういう見方をもっと身につけなければわからないことも多いということである。そのことに改めて思いをいたしたのは、ポロトコタンに来ての大きな収穫だったと思う。
・・・そんなことを、アイヌの衣装をまとった人たちによるムックリの演奏や、子守唄の披露、最後に囲炉裏を囲んで繰り広げられたイヨマンテ(クマの霊送りの踊り)を眺めながら思っていたことである・・・・。
古式舞踊の見学の後は、敷地内の民族博物館で改めてアイヌの歴史、衣食住、風習についての展示を見て回る。最後にはアイヌと和人の関わりについて書かれた書籍、リーフレットを計4冊も買い求めたため、バッグが一気に重たくなった。少しでも日本史のある側面についての理解の一助になればと思う。
なかなかに充実したひと時を過ごし、白老14時56分発の赤い電車で東室蘭に戻り、さらに乗り継いで室蘭に向かうことにする。持っていた「大阪市内発新千歳空港行き」の乗車券はしばらくポケットにしまい、別払いの旅となる・・・・。(続く)