まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

大相撲広島場所を観戦~やはり力士は絵になるな

2024年10月31日 | ブログ

10月26日の大相撲広島場所。プログラム前半は稽古公開だったが、11時50分から取組開始である。まずは序二段の取組が9番組まれている。序二段といえば東西それぞれ90枚以上あるが、その中で広島場所に参加する力士はどのように決まるのだろうか。必ずしも序二段上位とは限らないし、関取衆の付き人としてか、あるいは「強化指定力士」のようなものか。

その後も三段目、幕下と取組が進む。かなりの巨漢力士や元関取、中にはショーを意識して仕切り時ににらみ合いをする取組もある(本場所なら絶対審判から怒られるだろう)。このあたりの番付にも個性的な力士、将来を期待される若手も多く、それを楽しみにするファンも多い。

幕下までの取組が終わり、再び翔大夢、もといショータイムである(翔大夢とは、この日序二段で土俵に上がった「しょうたいむ」という四股名の力士)。まずは髪結実演。モデルは翔猿である。向正面からなので力士の表情はうかがえないが、床山の手さばきで結われる後姿を見るのも新鮮である。

続いては相撲甚句。中には先ほど土俵で取組を見せたばかりの力士も。こういうところではご当地ネタを含めるのが定番のようで、一節に「カープ」の言葉が入り、会場から大きな拍手が起こる。

そして巡業で人気のイベントの初切。こちら西方から登場するのは朝天舞。後でプロフィールを見ると、序二段ながら現在43歳、最高位も幕下である。それでも現役を続けて、一つの芸である初切を務めるのだからある意味才能があるのだろう。

これに対するは千代北海。初切を盛り上げるには東西の力士、そして行司が一体となる呼吸がカギを握る。

まずは、先ほどのちびっこ相撲でも登場した塩まき。

その後も息の合った掛け合い、荒技で土俵を盛り上げる。乱闘あり、途中からはプロレスやボクシングにもなったり(ウエスタン・ラリアットも出たぞ)。もっとも、元々の相撲というのはこうした荒々しい武術だったとも言われている。

最後は勝ちを確信した朝天舞が行司に投げ飛ばされて終了。

続いては綱打ち実演。照ノ富士の登場に大きな拍手が起こる。こちらも向正面ならではで、横綱の顔は見えないものの綱が結わえられる様子は見える。これも貴重なものを見させていただいた。数分のこととはいえ、本場所なら毎日、そしてこうした巡業などでも土俵入りの前には欠かせない作業。横綱も忙しい限りだ。

そして、関取衆の土俵入り。東西の花道に力士たちが並び、ファンも周りを取り囲む。

まずは東方から。赤ちゃんをだっこするのは、この日の稽古中の多くの時間を花道での握手、記念撮影、サインで終始和やかに対応し、その後はちびっこ相手に汗をかいた高安。

その後も力士たちは声援に手を振って応えながら上がる。この近さから土俵入りを観るのは初めてで、やはり力士は絵になる。

替わって西方力士は座席のすぐ横を通る。こちらで子どもを抱いているのは大栄翔。

これで広島場所の場内もいよいよメインイベントの雰囲気となる。

この後は照ノ富士の土俵入り。露払い・翠富士、そして太刀持ちは別の一門だが平戸海である。さて横綱だが、11月の九州場所への出場については明確にしていないようである。

故障続きで稽古が不十分でも、本場所にフル出場できれば優勝、あるいは優勝争いできる力はあるのだが、この先どこまで相撲が取れるのだろうか。横綱土俵入りを生で観たのがこの広島で最後・・ということになってしまうのかどうか・・・。

主催者挨拶があり、関取衆の取組。ウクライナ出身で、この巡業後の番付発表で新入幕が発表された獅司も登場する。獅司はこの数番後の取組にも登場。誰か急遽休場となった力士の代役かな。

前半で大きな声援を受けたのはやはり高安。2階席の何分の1かはどこかのこども園が団体で陣取っており、先ほどのちびっこ相撲の時も園児が出ていたようで大きなコールが起こっていた。その高安、相手の時疾風と激しい攻防の末、最後は相手を投げ倒して子どもたちを喜ばせる。

幕内力士どうしだが、時間の関係か、仕切りは1回だけ、あるいは初めに仕切った後、塩を取りに行かずにそのまま立ち合いという取組もあった。何だろう、前半の序二段、三段目、幕下以上に淡々と進んでいるようにも感じられる。

また館内が沸いたのは、宇良対遠藤。激しい差し手争いを制した遠藤の勝ち。

元大関どうしの御嶽海対正代も、仕切り時にわざとにらみ合いをしたり、激しい攻防を見せた後、正代が御嶽海を土俵下に押し出した。手を出した正代を御嶽海が一瞬土俵下に引き落とそうとするのもお約束だろう。

これより三役ということで東西の花道から土俵も賑やかになる。・・・のはいいが、巡業となるとどうしても番付順の取組とせざるを得ず、休場者もいることから連日、平戸海対大栄翔、阿炎対霧島、琴櫻対豊昇龍という小結、関脇、大関どうしの対戦となっているようだ。巡業期間中の対戦成績がどうなのかは知らないが、日によってはあえてお互い勝ったり負けたりをしているのではないかと思う・・・。

この日のこれより三役は、まず大栄翔が平戸海に勝ち、阿炎が霧島を圧倒。

結びの一番は豊昇龍が琴櫻を寄り切っての勝利。まあ、午前中も三番稽古をしていたし、巡業の取組の一番の勝ち負けに一喜一憂するものではないだろう。横綱・照ノ富士もいる中、新大関・大の里の昇進が大きな刺激になっているであろう両大関、九州場所では意地とプライドを見せてほしいものである。

最後は琴翼による弓取式。大相撲広島場所も無事お開きとなる。

これで退場。せっかくなので土俵に近づく。すると、徳俵に手をかけてはがそうとする男性の姿。最初は関係者の人が土俵の撤去作業に当たっているのかなと思うがどうもそうではなく、縁起物だから持ち帰ろうというようだ。まさかこうしたところで相撲の神事を意識することになるとは・・。

・・・さてこの後、バスと広電を乗り継いで帰宅したのだが、しばらく自宅にいた後、持ち物を入れ替える形で出発し、再び西広島駅から山陽線に乗る。

広島まで出て、鹿児島中央行きの「さくら563号」に乗る。この時間から九州行きの新幹線に乗るとは、先日訪ねたばかりの九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの続きかのための前泊か、それとも・・・。

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大相撲広島場所を観戦・・巡業ならではの稽古風景

2024年10月30日 | ブログ

11月10日から始まる大相撲九州場所の番付が発表された。すでに発表されているが新大関に大の里が昇進し、新入幕、帰り入幕、新十両、帰り十両、幕下陥落・・と入れ換えが大きい。

これに先立ち、10月26日に行われた大相撲広島場所を観戦した。秋巡業の最終盤である。前日の25日が岡山、そして26日が広島、さらに27日が倉敷(水島)という、何とも変則的な移動のようだが・・。

広島で巡業を観るのは初めてである。とはいえ昨年同じ東区スポーツセンターで行われた安芸場所に行こうと思い、チケットも確保していた。しかし昨年の安芸場所、日本シリーズのバファローズ対タイガースの第1戦と重なった。高倍率となった抽選の結果チケットに当選したものだから、そりゃ野球優先でしょう。

そして今年も日本シリーズ第1戦と大相撲広島場所が重なったが・・・・まあ、大相撲でしょう。

会場には力士たちの幟が並び、早い時間から多くの客が開場を待つ。そして触れ太鼓が叩かれ、入場。

今回確保したのは向正面の溜席(もっとも、席種は選べても指定はできず、どの方向になるかも含めて中国新聞の販売店から配達されたチケットを見てのお楽しみ)。本場所ではよほどのことがない限り座るチャンスはないのだが、この辺りは巡業ならではである。ただ、記念座布団(持ち帰り可)はあるものの、一人当たりのスペースは実に狭いし、要は体育館の地べたに座るようなもので結構きつい。

さて土俵上では幕下以下の力士たちによる申し合い稽古の最中。向正面にいるので土俵上の取組がよく見えたのはよかった。向正面に場所担当の親方衆が座っており、土俵上の力士たちにアドバイスを送る。ちょうど部屋の稽古場と同じような立ち位置なのだろう。

しばらくして、観客で混雑するコンコースに向かう。飲食の売店もあるし、力士との握手コーナーもある。私が訪れた時は志摩ノ海、武将山といったところが笑顔で観客を出迎えていた。

幕内力士の場所入りもある。ちょうどすれ違ったのは高安。上方漫才では「高安を見て思い出したけど、君とこの奥さん元気か?」

センターの入口から玄関にかけて多くの人が入り待ちをしている。そこにやって来たのは横綱・照ノ富士。大きな拍手が沸き、スタッフからは「力士には手を触れないでください!」との呼びかけがある。やはり間近で見ると迫力ある。

照ノ富士は秋巡業も糖尿病や膝の故障で一時離脱していたが、前日の岡山から復帰したそうだ。巡業中相撲を取るのは難しいだろうが、この日のプログラムでは綱打ち実演、横綱土俵入りもある。そのために顔を出すだけでも大変だと思うが、今できる最大の「務め」なのだろう。一方、感染症のため離脱した新大関・大の里は巡業復帰は見合わせ、九州場所に向けて調整するという。プロ野球でいえばキャンプとオープン戦を兼ねたようなものだから、公式戦である本場所に向け、調整はそれぞれでよいのではないかと思う。

さて会場に戻ると、関取衆も土俵下にぽつぽつ顔を出し、親方衆に挨拶をしている。

そして土俵がいったん掃かれ、関取衆が幕下以下の力士にぶつかり稽古で胸を出す。どういう組み合わせで稽古が行われるのかはわからないが、幕下以下の力士にとっては違う部屋の関取にぶつかる機会かもしれず、これは貴重だろう。関取の付き人の役目もあってのことだろうが、巡業に同行できるというのは期待の現れではないだろうか。

ぶつかり稽古を終えた幕下以下の力士と入れ替わるように関取衆が集まり、琴櫻、豊昇龍の両大関も姿を見せる。

そして、照ノ富士が稽古まわし姿で土俵下へ。やはり姿を見せるのと見せないのとで、会場の雰囲気も大きく違う。後の九州場所の番付発表時点では場所への出場についてはノーコメントだというが・・。

関取衆の申し合いが進んだ後、琴櫻、豊昇龍の両大関による三番稽古に入る。

ただその中に割って入るのは平戸海。この日の稽古全体を通して、幕下以下の力士のぶつかり稽古に胸を出し、関取衆との申し合い、そして大関同士の三番稽古の間にも入り、もっとも多く番数をこなしていたのではないかと思う。

取組の合間に、土俵下にいた照ノ富士から手の使い方についてアドバイスを受けたり、兄弟子の佐田の海からタオルで土を払ってもらったり、稽古中もっとも目立っていた(というか、私が追いかけていた)ように見える。

両大関と平戸海の稽古が終わり、最後は関取衆どうしのぶつかり稽古。その平戸海と佐田の海という同部屋同士の稽古もあれば、ベテランの錦木が若手相手になかなか押させなかったりと、白熱したものであった。こうした稽古を土俵近くで観ることができただけでも満足である。

さてこの後は一転して興行ムードとなる。まずはちびっこ相撲。2階席に陣取った保護者たちからも大きな声援が起こる。子どもたちを迎えるのは翔猿、御嶽海、正代、そして高安という豪華なメンバー。先ほど稽古の土俵に立たなかったのはこの役目があったためのようだ。それにしても、4人中3人が元大関というのもすごい顔ぶれである。

幼稚園か、小学校低学年か、小さい子どもたちが現役の力士に挑むというのは微笑ましく面白いものである。力士側もそこは心得たものでさまざまな演出で盛り上げる。

終盤は翔猿があおったりしてなぜか塩の投げ合いになり・・・。そして最後は実際にわんぱく相撲で将来有望であろう少年のガチンコ勝負に会場も盛り上がる。中国地方、特に山陽側ではなかなか有名な力士が出てこないのだが、こうした子どもたちとの触れ合いを通して、将来の力士、関取が誕生すればと思う(そもそも、地方巡業というのは大相撲のスカウトの場でもあったし・・)。

ここでしばらくインターバルとなり、昼食タイム。予約した弁当、会場で購入した焼き鳥、そしてアルコール類だが、この狭い溜席で食べるのも一苦労である。

そして序二段の取組を皮切りに、巡業はいよいよ盛り上がる後半戦へ・・・。

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第18回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~これで鹿児島県コンプリート

2024年10月29日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは鹿児島県最後となるさつま町の2ヶ所を回り、その後はかつての国鉄宮之城線~山野線をたどる形で熊本県の水俣に到着。水俣病資料館を見学した後、レンタカーの返却のために再び鹿児島県は出水に戻る。

国道3号線を走り、袋駅を過ぎると肥薩おれんじ鉄道と並走したまま鹿児島との県境に差し掛かる。その名も境川という川が境目だという。

さてこのまま出水駅近くのトヨタレンタカーに戻ればよいのだが、さすがに予約した新幹線の列車まで時間がありすぎる。もう1ヶ所くらいどこかに寄れそうなものだが、ここで思いついたのが温泉である。午前中から訪ねていた薩摩川内市、さつま町で立ち寄り入浴をしようと思えばできたのだが、先に進む中でパスしていた。どこか近くに温泉、スーパー銭湯でもあればと思い、地図で検索する。

そして見つけたのが、国道3号線をそのまま走った「天然温泉ぬくもりの湯」。地元の人たちで賑わっている。大浴槽は通常と深層の2層構造。サウナの後の水風呂には大量の天然水が噴き出ている。また露天風呂横のリラックスゾーンも広く、さまざまな組み合わせで整うことができる。宿泊施設も併設されており、駅からは離れているが国道沿いということでドライブやツーリング利用で人気のようだ。

これで今回の札所めぐりの締めもできたかなということで、駅近くのトヨタレンタカーにて返却。このまま出水駅まで送っていただけるとのことだったが、道向かいのコンビニで買い物するということで辞退。まあ、駅まで歩いても5分ほどで到着する。

出水からは16時47分発「つばめ328号」博多行きに乗る。前回、新八代からの帰りに乗ったのと同じ便である。6両編成の3号車指定席を予約したが、乗車すると先客がいる。

声をかけると相手は「なぜ声をかけてくるのか?」という表情をしていた。ただこれもわからないでもない。普段なら九州新幹線の6両編成の1~3号車は自由席である。この方もそのつもりで鹿児島中央か川内から乗ったのであろう。しかしこの日は3連休最終日とあってか、3号車も指定席に変更されており自由席は1~2号車のみである。駅でも案内はしていただろうが、乗り慣れているほどスルーしそうである。納得されたようで後方の自由席に移動する。その後も車内放送や乗客、車掌の声掛けで席を立ち、後方の自由席に移る光景が見られた。

「指定席は満席です」という放送もあったが、新八代から熊本を過ぎ、その後の駅でも満席になるほどの乗客はない。どういうことだろうか。

そして久留米に到着。ここで、お揃いのユニフォームというのかジャージというのか、一団が乗り込んできた。背の高い女性、外国人の姿もある。背が高いのはバレーボールなのかな? そういえば近くには鳥栖を本拠地とした久光製薬の女子チームがあったな・・と検索すると、この日(10月14日)は久留米でSVリーグのSAGA久光スプリングス対KUROBEアクアフェアリーズ戦が行われたとある。ということは乗り込んだのは黒部の御一行かな・・(ただこの時間から九州~山陽~サンダーバード~北陸新幹線とは、結構ハードな移動。この日のうちに富山に帰れたのかな??)。

さて私はといえば、「バリ得つばめ・こだま」利用のため、博多到着後はしばらく改札内で滞在し、18時53分発「こだま776号」広島行きに乗り継ぐ。広島行きということでのんびり過ごす・・。

これで九州八十八ヶ所百八霊場めぐりも南部の鹿児島シリーズが終了。隣の宮崎県とも絡めながら大隅から薩摩半島、そして北薩と回った。欲をいえば大隅側の佐多岬とか、いっそのこと大きな寄り道で種子島に(鉄砲だけに)弾丸で渡れないかと検討したこともあったが、さすがにそれは札所めぐりから離れすぎたかな。それでもローカル線や観光列車に乗ったり、新たな発見もあった。薩摩のさまざまな歴史に触れることもできた。あえて一つだけ残念だったことを挙げるとすれば、鹿児島で観戦予定だったホークス対バファローズの一戦が雨天中止になったことかな・・。

そして九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは次回から熊本シリーズである。もっとも前回、八代と人吉の札所を先行して訪ねており、次は球磨郡である。アクセスをどうするかということはあるが、部分的に運転再開のローカル線・くま川鉄道の沿線で、実際はクルマの力によるところが多いだろう。次回以降も楽しみである・・・。

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第18回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~水俣病資料館

2024年10月28日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

ちょっと間隔が空きました。

今回の九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは宮之城線~山野線をたどるルートとなり、いったん熊本県に入り、水俣に到着。これまで鉄道で通ったことはあっても、街中に入るのは初めてである。

そして、水俣といえば・・とは失礼かもしれないが、連想されるのは水俣病である。小学校の社会科で「四大公害病」として習ったのがはじめで、水俣病、新潟(第二)水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそく・・・というのをセットで覚えたかな。

ただ、小学校の頃のそうした地名の刷り込みというのはある意味恐ろしいもので、「水俣=公害の町」というのが私の頭の中でインプットされてしまった。大学生になって初めて九州を訪ね、鹿児島線の水俣も通過したが、町もくすんだ様子だったし、今も病気にあふれているのかなという勝手な印象を持った覚えがある。いや、振り返ると失礼な限りなのだが・・。

その後、石牟礼道子著「苦海浄土」で地域の人たちの苦悩を知ったり、また水俣市も日本で初めて「環境モデル都市づくり宣言」を出して、環境保全の最先端を行くようになったというのを知ったことで、見方も変わった。九州八十八ヶ所百八霊場めぐりでは札所以外のスポットを回ったり九州の鉄道に乗ったりとある中で、札所とは関係ないが水俣には立ち寄ろうと思っていた。

さてレンタカーは道の駅を含む「エコパーク水俣」に入る。現在は道の駅のほか公園やグラウンドが広がり、「恋人の聖地」スポットもある。元々このエリアは水俣湾で、それこそ水俣病の原因物質であるヘドロが溜まっていたところであるが、これを埋め立て、環境と健康をテーマにした公園として整備されている。

その一角にあるのが水俣市立水俣病資料館。入館は無料である。

まず紹介されるのは水俣の歴史。もっとも戦国武将がいたわけでもなく江戸時代に城下町だったわけでもないが、半農半漁といいつつ目の前の不知火海は天然の漁礁として古くから漁業が盛んだったところ。

その水俣の歴史を変えたのが日本窒素肥料の水俣工場(資料館の展示では現在水俣病患者の補償などを行う「チッソ」で統一されている)。日本の化学工業をリードする企業に成長し、工業都市・・というか別の見方では「企業城下町」となった。その一方で、目の前の海でいくらでも獲れる魚のおかげで日々の生計を立てていた家も多かった。

昭和31年、原因不明の脳症状があらわれた患者について診察した結果、これが初めての水俣病の公式確認となった。チッソの工場から海に排出されたメチル水銀が食物連鎖や体の表面からの取り込みで魚介類に蓄積され、その魚を捕食する大きな魚に吸収され、最後は人間がいただいて・・。

石牟礼道子「苦海浄土」の直筆原稿、本人による朗読にも触れることができる。

漁業で生計を立てていた家は収入が途絶え、医療費の負担もあってたちまち困窮に陥った。患者たちはチッソに対して補償を求め、チッソとしてもそれなりに対応はしたとはいえ、水俣では地域社会の分断ともいえる社会的被害を受けた。水俣病は伝染病であるとして患者や家族への差別、中傷も多数あった(水俣病は伝染しないというのは科学的にも証明されているそうだ)。これには水俣の大きな産業としてのチッソとの関わり度合にもよるだろう。

・・こうした相互理解の不足による地域社会の分断・・。水俣病に限らず、その前の広島、長崎の原爆でも被爆者に対する地域社会の扱いもそうだったし(「ピカ」がうつるというやつね)、それから数十年経った現代でも新型コロナウイルスに対して(こちらはうつるけど・・)地域社会からの差別、偏見、中傷があったことは記憶に新しい。結局、人間の根っこはそういうものなのだろう。

ただ現在の水俣は、「もやい直し」という環境復元に力を入れ、環境モデル都市としてさまざまな情報発信を行っている。また、タレントで魚類学者のさかなクンも、水俣の海のPR大使を務めている。

水俣病資料館に隣接して、環境省の水俣病情報センターがある。こちらは水俣病や水銀についてもう少し学術的に踏み込んだ紹介が中心である。さまざまなアプローチから水俣病について知ることができる。この屋上からは目の前の恋路島、不知火海を望むことができる。

景色を見れば風光明媚なところで、現在はかつての「豊穣の海」を取り戻しているとされている。数十年前にそうした公害があったことも教科書の中の過去の話かもしれない。ただ、こうした資料館を中心に情報発信することは有意義なこと。広島には原爆被害を伝える広島平和記念資料館があるし、阪神淡路大震災、東日本大震災も関連の資料館が後世に伝える役割を果たしている。この水俣病資料館も、近代の産業発展の裏の面を知る、そして現在の環境保全につながる取り組みを知るところとして、一度訪ねる価値があると感じられた。

この後はしばらく海岸べりをぶらつく。今は地元の人の憩いの場である。

そろそろ、レンタカーの返却場所である出水に向かうことに・・・。

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第18回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~薩摩大口から水俣へ

2024年10月25日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

札所めぐりなのか、現役および廃線の鉄道めぐりなのかという今回の九州八十八ヶ所百八霊場めぐり。宮之城線の薩摩永野、そして永野金山の跡を見た後、宮之城線の終点、山野線との接続駅である薩摩大口を目指す。かつての薩摩大口駅跡に「大口ふれあいセンター」という建物があり、その中の伊佐市大口歴史民俗鉄道記念資料館にかつての資料が展示されているという。

かつての宮之城線に沿うなら県道407号線に入るところだが、今回はカーナビそのままで国道504号線で先ほど経由したさつま町役場の薩摩支所まで行き、県道を経て国道267号線に出る。まあ、このほうが安全なルートなのだろう。

さつま町から伊佐市に入り、途中、「曽木の滝」への案内標識を見る。今回はそのまま立ち寄ることなくそのまま国道を走ったが、スケールが大きく、「東洋のナイアガラ」とも称される名瀑だとあった。このエリアになかなか来ることがないだけに、後で振り返ると進路を変えて寄ってもよかったかな・・と思う。また伊佐市は焼酎発祥の地とされ、沿道にもさまざまな焼酎の看板が見える。

ふと右手に小さな公園が見える。動輪と駅名標「はづき」が目に入る。かつての羽月駅跡のようだ。そしてすぐに姿を見せたのが「ラーメン駅前」。宮之城線の現役当時からの店かどうかは知らないが、これも面白い。ただ全くのノーマークで、急停車することもできずそのまま通過。少し先でUターンしようかとも思ったが、店の前に入店待ちの人もいたようなのであきらめてそのまま走る・・。

羽月の次が薩摩大口である。一応カーナビで近辺を入れており、大口ふれあいセンターらしき建物に近づいたが、周りはフェンスで覆われている。どうもおかしいなと思ううちに案内終了。とりあえずクルマを停めてみたが・・現在、大口ふれあいセンターの大規模改修工事に加えて、伊佐市の庁舎をここに新たに移転する建設工事が行われているとのこと。あらあら。

それでも少し離れたところに、薩摩大口駅跡として線路に乗った車掌車、腕木式信号機が保存されている。まあ、これで札所めぐり、武家屋敷群の散策と合わせてかつての宮之城線跡めぐりができたことでよしとしよう・・(何だか、当初の目的と逆になっているようだが・・)。

駅前には新たな公園とバス停ができている。バス停の行き先を見ると宮之城、水俣、鹿児島空港とかつての宮之城線、山野線との分岐点の役目は今もあるようだ。

さて、ここからは進路を西に、水俣を目指す。今度はかつての山野線と並走するのだが・・ここまで来ると旧駅に立ち寄ることもなく、ひたすら国道268号線を走る。国道と並走する脇道はかつての線路跡だったり、かつての山野駅跡も残っていたそうだが、宮之城線のようにマークしていたわけではない。そもそも山野線の山野ってどこなん?というくらいのものだった。

そして国道と旧山野線跡は早々と別れる。地図で見返すと、鉄道は山野川沿いに走り、いかにも難所というところ(鉄道もループ線があった)を抜けてようやく熊本県に入る。一方の国道も登坂車線が続く区間があるものの、トンネルで県境を越える。途中、水俣~大口~鹿児島空港というリムジンバスともすれ違う。

水俣市に入り、かつての山野線と並走する県道も合流したようだが、そのまま走る。これは後で知ったことだが、山野線の起点の水俣から途中の久木野までの廃線跡は、全長約13キロの「日本一長~い運動場」として整備されているとのこと。サイクリングや散歩のコースとして知る人ぞ知るスポットだという。

南九州道の延伸区間の工事現場にも出会う。

さてレンタカーは九州新幹線、肥薩おれんじ鉄道のガードをくぐり、国道3号線に出る。水俣の市街地に入って来た。水俣という地名から連想するのが水俣病で、この後、関連の資料館に行こうと思うが、食事をどうするか。

そこで目に入ったのが、味千ラーメン。熊本どころか世界各国に広がるチェーン店だが、まあ、水俣とはいえ同じ熊本県に来たことで、ここで一杯としよう。美味しくいただいた。

そして現在は道の駅を含め全体が公園となっている一角に向かう・・・。

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第18回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~薩摩永野・かつてのスイッチバックと金山の駅

2024年10月24日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

今回の九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは目的地である第46番・峰浄寺、第48番・薩摩薬師寺を回り、鹿児島県内の札所をコンプリートした。この後はレンタカーの返却地である出水に向かうのだが、まだ昼前。もう少しこのエリアを回ることにしよう。

先ほどから触れている国鉄宮之城線。薩摩薬師寺を出発して国道267号線を行くと、「求名駅前」というバス停を過ぎる。一応、薩摩薬師寺の最寄りのバス停と言っていいのかな。

さつま町役場の薩摩支所の前を過ぎ、カーナビに案内されるままさつま広瀬インターから北薩横断道路に乗る。鹿児島空港から県北を結ぶ道路である。向かうのは出水とは正反対の方向だが・・。

2つ先の永野インターで下車。書いていなかったが、これから向かうのは宮之城線の薩摩永野駅である。永野鉄道資料館というのが残っているので行ってみることにする。

薩摩永野は、宮之城線の宮之城から延伸して1935年に開業した駅で、スイッチバックの構造を持っていた。これは木次線の出雲坂根のように勾配を克服するというよりは、薩摩大口に向かうに当たり、大きな集落があった薩摩永野を経由させるために取られた方策という。

駅跡に到着。現在の駅舎は当時のものではなく公民館を兼ねて建て替えられたものだが、往年の駅もこんな感じだったのかなとイメージさせる。スイッチバックということで、駅名標の次の駅名である広橋と針持が同じ側に書かれている。また壁にはかつての写真や、沿線を描いた絵画が掲げられている。そして改札口も木造駅舎らしく復元されている。

展示コーナーの扉には鍵がかけられている。見学希望の方はこちらへと、管理人らしき方の携帯電話番号が書かれているが、わざわざ一人のために開けていただくのも申し訳ないので、ガラス越しに見ることに。

さて、外である。まず目につくのはスイッチバック駅らしくクロスした線路跡。ここに腕木式信号機、かつての車掌車が安置されている。線路脇に並ぶのは桜の木で、春は花見の名所ともなるようだ。

ホーム跡には駅名標、そしてかつての保線車両が残る。

しばらく構内をぶらつく。薩摩の奥地といえば失礼だが、宮之城線の沿線にここまで多くの駅跡が記念に残されているとは、地元の人たちの思いが感じられる。

さてこの後は薩摩大口を目指すのだが、構内にある看板に「永野金山」という文字が見える。永野(山ヶ野)金山は江戸時代に発見されて以降、薩摩藩の手により金や銀が採掘され、藩の貴重な資金源となった。明治以後も近代化され採掘が続けられたが、戦後の1965年に閉山となった。宮之城線が薩摩永野まで伸び、スイッチバックする構造になったのも、この金山に従事する人たちで賑わっていたからと言われている。

金山といえば先日佐渡金山が世界文化遺産に登録されたが、ここ永野金山は一時期佐渡をしのぐ産出量を誇っていたそうである。その遺構もあるというので行ってみることにしよう。

しばらく行くと「永野金山 鉱事場地区 鉱業所跡」の案内標が見える。明治以降、大規模な精錬所と金山の本部事務所にあたる鉱業館があったところという。この鉱業館の館長を一時務めていたのが、西郷隆盛の長男・菊次郎である。台湾の宜蘭庁長や京都市長などを歴任した後、鹿児島に戻りこの金山の経営に携わった。夜間学校を建てたり、職員クラブや娯楽場を開いたりと、金山で働く人たちに対する当時ではまだ珍しかった福利厚生の充実に力を注いだという。

掘り出した金鉱を輸送するトロッコの橋脚跡に向かう。鹿児島の市電よりも前にポール式の「電車」で運搬されたことが特筆されている。

ここで掘り出された金鉱をその後どのようにして運ぶのか・・と考えた時に、先ほど訪ねた薩摩永野駅が登場する。この金山からの貨物、あるいは金山で働く人やその家族を運ぶため、ここまで線路を延ばしたといえる。そして、地形の関係もあって薩摩大口へはスイッチバックで向かうことに・・。

今も集落が残る。その中で「金山」の名前がつくものとして「永野金山郵便局」。閉山後も唯一残る公共インフラと言えるだろう。

この先の胡麻目坑口跡に着く。明治以降に整備された坑道で、鉱石の搬出や人員輸送には電車が使われ、先ほど見た鉄橋を渡り精錬所に運ばれていったと紹介されている。坑道入口の上に薩摩藩の家紋があるのは歴史の名残である。

同じ敷地には、永野金山を発見した内山与右衛門の石碑と、坑夫専用の風呂の跡が残る。風呂があるとは福利厚生の一環に見えるが、これは苦肉の策だったという。ある年、自然金がたくさんついた鉱石を鉱夫が勝手に持ち出し、密売して利益を上げるという事件が続発した。そこで風呂を造り、入浴している間に持ち物の検査をするという方法が取られたという。

これで永野金山跡を見たことにする。このすぐ先は霧島市、かつての大隅国に入る。地図を見ると肥薩線の大隅横川駅までさほど遠くなく、宮之城線も薩摩永野から先、薩摩大口ではなくそのまま東の大隅横川に向かっていればどうだっただろうか。

ここでUターンして、先ほどの薩摩永野駅跡を通過。この先、かつての薩摩大口駅を目指すことに・・・。

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第18回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第48番「薩摩薬師寺」(薩摩で一風変わった札所にて・・)・・)

2024年10月23日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりはさつま町の宮之城を行く。第46番・峰浄寺から第48番・薩摩薬師寺に向かう。

宮之城温泉というのがある。ここに来るまでにあちこちの温泉の案内板があり、せっかくなのでどこか1ヶ所に入ってもいいかなと思う。その中で、竹細工で知られる宮之城らしい「ちくりん温泉」という看板に惹かれて行ってみたが、あくまで宿泊用の施設のようだった。まあ、温泉はこの先どこかで入れるかどうか・・。

進むうち、カーナビには出てこない高架道路が現れた。北薩横断道路という。鹿児島空港を起点として、さつま町、出水市を通り、東シナ海沿いの阿久根市を結ぶ道路として現在一部区間が開業している。こういう道路がかつての宮之城線、山野線に替わって県内北部の都市間を結んでいる。

いったん「ちくりん温泉」に向かったために遠回りとなったが、再び国道267号線に入り、薩摩薬師寺への案内板を見る。細い道を通り、山の麓に広がる境内に到着。こちらも山門があるわけでなく、本堂もコンクリート造りの新しい建物である。

手前の建物は「薩摩薬師温泉」。薬師如来といえば健康のご利益があるとされ、温泉との相性はいい(温泉街に薬師如来を祀っているところも多い)。ただこちらの入浴は午後からとある。現在、まだ午前中だ。

本堂の手前に鳥居が見える。まずはこちらの石段を上るのが正式な参詣の順路だという。こちらは鎮守の八幡神社。ちょうど岩屋をくり抜いた形で、八幡神やその他諸仏が祀られている。何だろう、廃仏毀釈のイメージが強い薩摩にあって、こうした神仏習合の名残もあるのかな。

本堂に上がる。扉が開いているので中に入り、さてお勤めをというところで外から「八十八ヶ所ですか?」と声がかかる。住職のようだ。朱印帳を預け、まずはお勤めとする。

薬師寺というから本尊は薬師如来だが、堂内を見渡すとグランドピアノが置かれていたり、前衛的な絵画が壁面に飾られていたり、先ほど訪ねた峰浄寺とはまた違った新しさを感じる。聞くところでは本堂内にドラムが置かれていることもあるそうだ。音楽活動のために本堂を開放しているし、宗教・宗派に固執することなく自由な信仰を・・というのが薩摩薬師寺の考えだという。

自然と、住職との会話になった。ここ薬師寺を開いたのは住職ご自身とのこと。薩摩といえば明治の廃仏毀釈を徹底的に行ったことで知られるが、そうした時代を経た後も真言宗の信徒は意外と多いのだという。長く高野山で修行し、高野山から勧請した薬師如来を本尊として寺を開いたとのこと。私が広島から来たというと、広島市や廿日市市の真言宗寺院と交流がある関係で広島には何度も訪ねており、最近のJR広島駅の再開発の様子には驚いたという。

ここ薩摩薬師寺は九州八十八ヶ所百八霊場の第48番だが、「実は3代目」という話をしていただいた。九州八十八ヶ所百八霊場は1984年(今からちょうど40年前だ)、弘法大師の入定1150年を記念して創設されたのだが、第48番は当初、鹿屋にある寺院が名乗っていたという。ただ諸事情で札所を返上し、今度は吹上の寺院が継いだがこれも返上となった。そこで霊場会から薩摩薬師寺に第48番の継承の話が舞い込み、住職は何度も辞退したものの最後は押し切られる形で札所の一つとなった。九州八十八ヶ所百八霊場はあくまで真言宗寺院で構成する(本家の四国八十八ヶ所は他宗派も混在するが)ことを旨としており、鹿児島では数少ない寺院として引き受けることになったとのこと。

朝早くから巡拝の方が来て朝食もそこそこに対応する日もあるが、やはり来ていただくのはありがたいとのことだ。

宮之城線について訊いてみる。宮之城線の線路は寺の近く、国道に並走しており、住職も子どもの頃、列車が走っていたのを見ていたという(話をつなぎ合わせると、鎮守の八幡神社はその昔からあり、宮之城線も走っていたが、薩摩薬師寺が建立されたのは宮之城線の廃線後ということになる)。

ここからだと薩摩求名が最寄り駅で、現在も宮之城~大口間の南国交通バスが走っている。ひょっとしたら、先ほどの峰浄寺と合わせて、日中の時間をかければ川内からバス乗り継ぎで2ヶ所を回ることができたかもしれない・・。

しばらく話をして寺を後にする。クルマに乗り込み、さて出発というところで敷地の入口で住職が合掌してお見送りである。鹿児島の最後の札所は、一風変わった雰囲気だが実にありがたいものになった・・。

ともかくこれで九州八十八ヶ所百八霊場の鹿児島県内はコンプリート。次回からは熊本県内シリーズだが、前回に八代と人吉の計5ヶ所をすでに回っており、九州一周のコマも一応八代まで進んでいる形である。その中で、前回残す形となったくま川鉄道沿線の2ヶ所から始めることになる。

さてこの後だが、クルマをもう少し東に走らせて、宮之城線の廃線跡でもっとも往年の雰囲気を残しているという薩摩永野を目指すことに・・・。

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第18回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~第46番「峰浄寺」(宮之城にて八十八ヶ所めぐり)

2024年10月22日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

レンタカーで薩摩川内市からさつま町に入る。

先ほど、かつての国鉄宮之城線の入来駅跡(入来鉄道記念公園)を通った。宮之城線では廃止後も広場や記念碑等を設けて歴史を伝えるスポットとして整備された駅跡がいくつもあるそうだ。今回は札所めぐりがメインということで、国道や県道から外れてその全てに立ち寄ることはできないが、単調になるかもしれないと思われたドライブも一気に楽しみが出てきた。廃線、廃駅跡めぐりについては他の方がブログ等で詳しく書いてらっしゃるので、それらを読むことにしよう。

国道328号線から国道267号線に入り、宮之城を目指す。宮之城は現在のさつま町の中心で、周りの商店や人家も少しずつ増えてきた。

いったん宮之城の中心を過ぎ、川内川を渡る。やがてこれから目指す第46番・峰浄寺の看板が現れ、脇道に入る。そして広い駐車場にレンタカーを停める。

特に山門はなく、開放的な雰囲気である。一枚石の手水場で手水を使い、修行大師像に一礼して本堂へ。

峰浄寺の歴史は九州八十八ヶ所百八霊場の中では新しく、1942年に高野山の教会支部を開いたのが始まりで、現在の寺の称号を得られたのが1982年。本堂や庫裏はそれよりもさらに新しく、平成になってからの建物に見える。

中に入ってのお勤めとする。本尊は聖観音。

朱印をいただく前に、境内の他のお堂も回ってみる。まず隣には十二支えと地蔵像が並ぶ。その奥には大師堂がある。

さらに進むと「宮之城八十八ヶ所入口」の石碑があり、その奥の祠は四国第1番・霊山寺である。地元の方が、四国に巡礼に行くことができない人たちのためにと四国八十八ヶ所の本尊を勧請して整えられた写し霊場である。

ならば行ってみよう。特に険しい坂があるわけでもなく、札所も近い間隔で並んでいる。不動明王を祀るお堂もある。第36番・青龍寺の不動明王が折り返し点にあたる。

鹿児島といえば廃仏毀釈のイメージが強く、仏教には縁が薄い地域かなと勝手に思っていたのだが、八十八ヶ所百八霊場めぐりで実際に訪ねるとそれは昔の話で、他の地域と同じく篤い信仰心を持った方がいらっしゃるというのを感じる。寺としての歴史は浅いとはいえ、地元の人たちに支えられていることがうかがえる。

最後は第88番・大窪寺に到着。

寺務所にて朱印をいただく。寺務所の奥には信徒会館があり、絵画展や講演会などのイベントも定期的に行っているそうだ。

さて、次の第48番・薩摩薬師寺に向かう前に、かつての宮之城駅跡にある宮之城鉄道記念館に立ち寄ることにする。宮之城の中心に戻り、さつま町役場にほど近いところにある。

かつての映像を見ると、ちょうど駅前にロータリーができていたが現在もその形は変わっていない。ただ駅舎は取り壊され、現在はバスターミナル、そして「さつま物産館」の建物である。

そのロータリー内の駐車スペースにレンタカーを停め、まず外を見る。記念碑のほか、腕木式信号機、ポイント、動輪、かつての蒸気機関車の先頭部分が残されている。

建物の中はバスの待合所であり、物産コーナーには地元の産品や、地場産業である竹細工の工芸品が並ぶ。その一角が宮之城線関連の展示コーナーである。

運賃表や行先標、タブレット閉塞機などが並ぶ。また、「国鉄宮之城線廃止日の各駅長印」として、昭和62年1月9日限りの楠元、入来、宮之城、薩摩永野、大口の各駅長印が押された色紙が飾られている。

それぞれの開業日を見て、川内から少しずつ路線を伸ばしたことがわかるが、宮之城までが大正15年なのに対して、薩摩永野までは昭和10年、さらに終点・大口までは昭和12年と時間を要している。まずはこの辺りの中心である宮之城まで鉄道を建設することが目的で、薩摩大口まではその延長・・という構想だったようだ。

この後はもう少し奥に進む格好で、第48番・薩摩薬師寺を目指すことに・・・。

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第18回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~入来麓武家屋敷群と宮之城線

2024年10月21日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

10月14日、川内にて朝を迎える。まずは朝風呂に入り、レストランでの朝食である。この日は祝日だが月曜日ということで、現場に出るとおぼしきユニフォーム姿の人も目立つ。

この日は川内から内陸のさつま町にある札所2つをめぐり、九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの鹿児島編を終了することになる。一応、川内駅からバス路線も出ているがあまりにも本数が少なく、また乗り継ぎも大変なのでここはレンタカー利用である。

ルートとしてはさつま町に向かった後、伊佐市を経由していったん熊本県に入り、水俣に出る。時間があれば水俣病の資料館を見学し、返却は出水。同一県内なら乗り捨て無料というトヨタレンタカーならではの特典を活かす。この日乗ったのは昨年生産が終了したコンパクトカーのパッソ。

さて、今回川内から出水までたどるこのルートだが、かつてこの地域を走っていた国鉄宮之城線、国鉄山野線に沿う形でもある。沿線にはかつての駅を利用した資料館もあるようで、これらを組み合わせてみよう。これらの両線じたい乗ったことがなく写真や旅行記で目にしただけで、ローカル線としてもどちらかといえば地味な部類(失礼)といえるのだが、昔と現在の路線図を見て鹿児島県北部から線路がごっそり消えるというのも、地元の人からすれば結構大きな出来事ではなかっただろうか。今回、九州八十八ヶ所百八霊場めぐりというご縁があり、初めてこのエリアを訪ねることにする。

8時すぎに出発。まずはさつま町の宮之城にある第46番・峰浄寺を目指す。地図で見れば川内川に沿って東郷バイパスを走るのが近道のようだが、寺に行くまでに1ヶ所立ち寄りとして別の道路を走る。鹿児島空港へと続く道である。

沿道では翌日の衆議院議員総選挙の公示を控え、立候補者のポスター掲示板を設置する工事の光景が見られる。鹿児島県北部の鹿児島3区はいずれも前職の自民党・小里泰弘農水大臣、立憲民主党・野間健氏の2名による与野党一騎打ちである。前回の選挙では野間氏が当選、小里氏が比例復活だったが、今回も接戦が予想されているそうだ。

道の駅樋脇を通過。

国道328号線に出て、まず立ち寄り地としてやって来たのが入来麓の武家屋敷群。前日、薩摩藩の外城として出水麓を訪ねたが、この日宮之城に行くまでにちょっと立ち寄ることにした。薩摩川内市の入来支所が目印である。

ここ入来だが、知覧、出水とともに鹿児島三大武家屋敷群として県ではPRしている。・・・ならば、知覧の武家屋敷も行っておけばよかったかな。前々回、知覧には行ったのだが時間の関係で武家屋敷はパスしたので・・。

入来麓は鎌倉時代に、宝治合戦の恩賞として薩摩北部を与えられた渋谷氏が入り、入来院氏を名乗ったのが始まりである。居城として山城である清色城を築き、その麓の樋脇川に囲まれた一帯に集落が形成された。入来院氏は南北朝の戦いでは南朝方に属して北朝方の島津氏と戦ったが破れ、その後は島津氏に帰順、戦国時代には当主の娘が島津貴久に嫁ぎ、島津義久、義弘、歳久の兄弟を産んだ。

まずはその清色城跡に行ってみる。石段を上がった現在の小学校にかつての屋敷が置かれていたようだ。

少し坂を上り、城の入口に着く。この先、シラス台地特有の切り立った空堀を有する縄張りが特徴で、その前に堀切(切通)が立ちはだかる。ただ、この先は大雨による土砂崩れがあるため、立入禁止となっていた。

その後、玉石積みの石垣、そして生垣が今も残る町並みを歩く。

少し外れたところに、三十三観音塔がある。案内板と見た時には、三十三の観音像がずらり並んでいるのかなと想像したが、あったのは1基。ただよく見ると、この四面に西国三十三所の本尊が彫られている。一度手を合わせると三十三のご利益をいただけるというやつだ。

ちょうど町並みの真ん中に、国の重要文化財である旧増田家住宅が建つ。母屋は明治初期、石蔵は大正時代に建てられたものだが、近世の麓の屋敷の姿を受け継いでいるとのこと。

最後に、入来麓のシンボル的存在といえるかやぶき門に出る。中世の様式を伝えているもので、表札をよく見ると「入来院」とある。今も代々住んでらっしゃるのかな。

まだ朝9時頃とあって人通りもほとんどなく、静かな中で散策することができた。ドライブコースを地図で見る中で初めて知ったスポットだったが、「薩摩の武士が生きた町」として日本遺産にも認定されている「麓」の一つである。そうした歴史の一端に触れることができた。

さて、改めて峰浄寺に向かうべく国道328号線を行く。すると前方に古びた踏切の警報機が目に入る。これは宮之城線関連かと、思わずハンドルを切って駐車場に乗り入れる。

かつての入来駅の跡地で、現在は入来鉄道記念公園として整備されている。集会所らしき建物はSLの姿を模しており、枕木跡がそのまま残っているかのような歩道もある。

この鉄道公園までは川内駅からの鹿児島交通バスが1時間に1本の割合で出ており、鹿児島市内から宮之城に向かうJR九州バスも経由している。乗り継ぎながら、かつての宮之城線に近いところをバスでたどることができる。

この入来を過ぎると、薩摩川内市からさつま町に差し掛かる・・・。

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第18回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~川内にて一泊

2024年10月20日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

肥薩おれんじ鉄道で川内に着いたのは16時すぎ。北薩にあって工業も盛んで、川内原発もある。この九州八十八ヶ所百八霊場めぐりで初めて宿泊する地である。

駅のコンコースには「薩摩川内市誕生20周年」を祝う横断幕が掲げられている。平成の大合併で誕生した薩摩川内市は、先ほど海の彼方に見た甑島列島も含まれており、面積は鹿児島県内で最も広い市である。

駅前には大伴家持の像が立つ。「万葉集」の編者である大伴家持だが、各地の国主にも任じられており、一時は薩摩守を務めていた。現在の鹿児島県の県庁は鹿児島だが、その昔の薩摩の国府は川内に置かれていた。当時の薩摩、大隅で勢力を持っていた隼人に対する最前線としてこの地が選ばれたそうだ。

駅周辺にホテルがいくつかある中、選択したのはルートイン薩摩川内。やはり大浴場と朝食がポイントである。駅から5分ほど歩いた国道3号線沿いにある。

チェックイン後、大浴場「旅人の湯」に入浴。しばらく部屋でゆっくりする。

さて夕方、飲食店が集まる一角に向かう。訪ねたのが日曜日ということで定休日の店もある中、予約していたのが「炭匠だん」という店。地産地消の店を示す緑の提灯も掲げられている。

こちらの売りは「ごいし鶏」。「ごいし」とは「碁石」で、羽が白黒で碁石のように見えることからその名がついた地鶏である。

その「ごいし鶏」の刺身盛り合わせをいただく。もも、むね、レバー、砂ずり、ささみ。鶏を刺身、しかも盛り合わせでいただくというのも南九州ならではだろう。今回が鹿児島編最後の夜ということでしっかり美味しくいただいた(次の熊本では馬刺しを追い求めるのだろうが・・)。

魚ということではきびなご。日によっては鹿児島のブランド鯖である「萬サバ」が出ることもあるそうだが、この日は並ばなかった。

私が座っていたカウンターの横に焼き場があり、豪快に炎を上げている。店名が「炭匠」だから炭火焼きが名物で、「火柱焼き」をいただく。

追加の飲み物は焼酎ハイボール。芋焼酎は苦手なのだが、鹿児島に来たなら何らかの形で飲まざるを得ない。川内でポピュラーな焼酎「蔵の神」を超強炭酸で割った一品。こういう飲み方なら多少はいけそうだ・・。

飲むうちに次々に客がやって来る。地元では予約必須の人気店のようだ。一通りいただいたところで店を後にする。

飲んだ後のラーメンはよろしくないのだが、通り沿いに「十八番」というラーメン店の看板を見つけ、締め代わりに入店する。鹿児島を中心に展開するチェーン店で、こちらも鹿児島の味として美味しくいただく。

この後ホテルに戻り、もう一度入浴して部屋でゆっくりする。翌日10月14日は川内駅前からレンタカーで出発し、北薩の札所めぐりである・・・。

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第18回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~川内に到着

2024年10月19日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

出水で途中下車し、出水麓の武家屋敷群の見学の後、14時54分発の肥薩おれんじ鉄道隈之城行きに乗る。こちらは同鉄道の公式キャラクター「ディーゼルガールズ」のラッピング車両。

出水といえばツルが渡来して越冬するところである。例年1万羽を超える数がやって来るそうで、今回の旅の後、10月18日には今季初めて9羽の渡来が確認されたとのこと。

折口を過ぎると再び海沿いの景色が広がる。先ほどの不知火海とは対照的な東シナ海である。同じ海でも内海、外海それぞれの景色が広がるのが肥薩おれんじ鉄道の売りである。

漁港のある阿久根を過ぎ、牛ノ浜へ。

ここから薩摩高城まで海岸沿いを走る。いよいよ南国に来たと感じる。新幹線とはまた違った楽しみである。遠くに見えるのは上甑島。

駅ごとにぽつぽつ乗客があり、川内川を渡り16時03分、川内に到着。出水から川内まで、海を見ながらの1時間の乗車はほどよい乗り心地であった。

気動車はこの先JR鹿児島線の1駅先の隈之城まで行くが、この日の宿泊地ということで下車する。

前々回の九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの鹿児島編のゴールが川内駅ということで、1日かけてようやく今回のスタート地点に着いた形である・・・。

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第18回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~出水武家屋敷群へ

2024年10月18日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

八代から肥薩おれんじ鉄道で不知火海の車窓を楽しみ、出水に到着。ここで列車を降り、出水の武家屋敷群に向かうことにする。駅からはおよそ2キロの道のりである。

せっかくなのでどこかで昼食を・・と思うが、駅から武家屋敷群に向かう道中では店じたいほとんど目にしない。もっとも、さすが北薩地方の中心で新幹線も停まるところ、翌日レンタカーで出水に戻った時、ロードサイドにさまざまな店、スポットがあった。

その中で見つけたのが「ダイニングおきしん」。居酒屋がベースで、ランチ営業もやっている・・ということでいいのかな。

テーブルに通されるとさまざまな定食が並ぶ。そして昼飲みも可能。まずはビールをいただく。

食事として頼んだのは「活〆萬サバのゴマサバ丼」。萬サバとは鹿児島北部の長島で養殖されているサバで、脂のノリがよく身が締まっており、かつアニサキス等の心配もないという。同じ九州の東、佐賀関の関サバにも負けず劣らぬ美味との評判だが、現在流通は鹿児島近辺に限られていることから知名度はそこまでないそうだ。私もここに来て初めて目にしたブランドである。

ゴマサバは九州では一般的な食べ方で、切り身を一切れつまんで食べることもしながら、最後は丼で掻き込む。これで郷土料理を一つクリアした形だ。

改めて武家屋敷群を目指す。途中「国鉄便小荷物取次店」という看板を見る。今でも個人商店で宅配便の取次が行われているが、「国鉄便」そして「小荷物」とは・・もう何十年前のことだろう。あえてネタで出しているのかとすら思う。

そして諏訪坂から武家屋敷群に入る。薩摩独特といえる丸石を積んだ石垣、そしてよく剪定された生垣が並ぶ。観光用に開放された屋敷がある一方、現在も人が住んでいる屋敷も多く、逆に往年の雰囲気が残っているように感じられる。

その中で、観光用の牛車に遭遇。人の徒歩よりゆったりした速度で、武家屋敷群の観光案内をしているという。わざわざ「黒毛和牛」とうたっているのには複雑な心境だが・・。

出水麓歴史館に入る。「麓」というのは本来の意味のように山の麓ということもあるが、薩摩にあっては本城の鹿児島城(内城)を守備するために、薩摩藩内各地の山城跡の周辺に配置された外城のことである。薩摩の島津氏は豊臣秀吉の九州平定や関ヶ原の戦いを経ても武士の数が多く、鹿児島の城下に住まわすことができなかったため、藩内の各地に外城を構えて武士を配置した。薩摩藩独自の制度である。

その中にあって出水は肥後との境に近く、薩摩藩の防衛上重要な場所として「麓」の中でも最初に整備され、周囲よりも高台に屋敷を並べ、規模も最大であった。

展示室で取り上げられていたのが、山田昌厳という人物。安土桃山~江戸時代にかけての島津氏の家臣で、関ヶ原の戦いにも参戦した。後に島津氏の家老として、また地頭として出水に任じられ、「出水兵児」と呼ばれる気風を造ったという。

展示の一つに二つのお椀があり、どうぞ開けてくださいとある。そして蓋を取って驚いたのがカエルの模型。もう一方のお椀には針が浮かんでいる。これも山田昌厳にまつわる逸話だそうで・・昌厳が出水に赴任した時、地元の武士たちが歓迎の宴席を設けた。昌厳が出された吸い物のお椀の蓋をとったところ、中から出てきたのはカエルの煮物。地元の武士たちが昌厳を笑おうと仕掛けたいたずらだったが、昌厳は平然としてカエルを口にした。

後日、昌厳がお返しの宴席を設け、武士たちが参列すると吸い物のお椀がある。何か仕返しがあるのかと武士たちが蓋をとると、中に入っていたのは針。さすがにカエルのように口にすることもできず、武士たちは降参したという・・。

この逸話をもって昌厳の度量の大きさが伝えられているとされるが・・・現在の尺度で見るとどうなんだろう。正直、どっちもどっちだと思うが・・・。

改めて町並みをめぐる。歴史館の向かいは小学校で、かつては藩主の宿泊所であった御仮屋があった。その校門にもかつての屋敷門が残されている。

すぐ近くに公開されている武家屋敷が2軒ある。まず入ったのは竹添邸。元々は相良氏の一族だったが、島津氏との和睦の後は島津氏に仕え、後に出水麓の要職を務めるようになった。現在の建物は火災の後、幕末~明治に再建されたものである。広間から座敷、奥座敷とぐるりと回る。

続いて、税所邸。出水麓で現存する最古の武家屋敷で、大改修のうえ一般に公開されている。元々は加世田にいた一族だが、出水麓への移住を命じられ、こちらも要職を務めた。

薩摩藩内にはこうした「麓」が数多くあり、そこに住む武士は「郷士」と呼ばれた。鹿児島の内城とこれら「麓」といえば、組織内の本社-支店のようにネットワークとして機能する分にはよい制度に見える。ただ、当初は鹿児島城下に住む「城下士」と同等とされていたが、時代が下るにつれて身分差が生じ、それが固定されるようになったという。現代の会社組織のように定期的に「麓」の要職の武士が異動するわけでもなく・・・。

それでも「麓」における「郷中教育」が機能して有能な人材が育ち、これが後に明治維新の原動力となった。

さてこの後しばらく町並みをぶらつく。昔ながらの門構えを保つ屋敷もある。そうかと思えばキリスト教の教会もあったり・・。

ただ、諸事情で維持するのが難しいのか、門の奥が草生しているところもある。こうした地区では屋敷の新築、改築もさまざまな制約があるだろうし、観光でやって来るのと住むのとでは事情が大きく変わることだろう。

諏訪神社に着いたところで、再び観光牛車に出会う。

これで一回りしたことにして、駅に戻る。ただその途中、「日本一のお地蔵さま」の看板に引っかかる。向かったのは八坂神社。

神社の境内にお地蔵さまというのも神仏習合を感じさせるが、社殿の横に大正時代に建立した巨大な石の地蔵像が立つ。日本一というのは、一枚岩から切り出した一刀彫りの石像の大きさのことで、台座を含めると4.15メートルあるという。

そのまま歩いて出水駅に戻り、再び肥薩おれんじ鉄道にて川内を目指す・・・。

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第18回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~肥薩おれんじ鉄道で不知火海を行く

2024年10月17日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりだが、とりあえず初日の10月13日は札所めぐりはなく、九州の鉄道旅行記である。札所を目印としつつ九州のあちらこちらを回ることができるのがこの札所の面白さと思う。初めてというところも結構あったなあ。

さて今回、札所めぐりの前泊地である川内を目指す。新幹線乗り継ぎで新八代に到着し、鹿児島線で1駅、八代に移動。ここから肥薩おれんじ鉄道に乗る。川内を目指すならそのまま新幹線で行けばよいところ、ここはかつての本線であり、現在は第三セクターのローカル鉄道に揺られるのもいいだろう。

肥薩おれんじ鉄道に乗るのは2004年3月、九州新幹線の新八代~鹿児島中央間の先行開業の時以来である。当時は1回目の広島勤務で(この直後、大阪への異動となるのだがその時はつゆ知らず)、九州新幹線が開業したニュースを見て、ふと行ってみようと思ったら夕方の便が取れた。そして新幹線~つばめリレー号~新幹線「つばめ」に乗り、その夜は鹿児島に宿泊。翌日、その「裏」を行こうということで、鹿児島線と肥薩おれんじ鉄道を乗り継いだというもの。当時の記録や画像が手元に残っていないのだが、九州新幹線の開業とセットだったことは覚えている。

肥薩おれんじ鉄道は貨物列車用に電化が維持されているが、旅客列車はすべて気動車である。

9時57分、新八代を出発。まずは球磨川を渡る。

次の肥後高田では自転車持参の客が乗って来る。昼間の時間帯の列車については無料で自転車の持ち込みができるそうだ。

温泉がある日奈久温泉を出発。当初はこの駅での途中下車も考えたこともある。日奈久温泉、ちくわ、ゴリけんさん・・というキーワードが浮かぶ。そしてホームでは日奈久温泉の下でくまモンの像、そして端にひっそり立つのは種田山頭火である。放浪の俳人・山頭火は放浪の旅で日奈久を訪れ数日逗留したが、温泉も山も海もよいと絶賛したという。その時逗留した木賃宿「織屋旅館」は、山頭火がめぐった各地の宿の中で唯一現存する建物だったが、2016年の熊本地震で被災、その後、クラウドファンディングも得て復旧したとある。

・・・そこまで書くなら途中下車すればよかったのだろうが、山頭火については帰宅後、この記事をまとめるに当たり改めて「へぇ~」と思ったことである。これ以降の熊本編でどうすべえか・・・。

肥後二見からは八代海、不知火海沿いに走る。青空が広がり、対岸の天草もくっきりと見える。右後方に突き出ているのは雲仙かな?日本の「内海」の中でもっとも「外海」との閉鎖性が高く、それだけ穏やかな海である。

次の上田浦からもしばらく海沿い。肥薩おれんじ鉄道としてはセールスポイントで、こうした海を眺めつつ食事を楽しむ観光列車「おれんじ食堂」も人気である。

佐敷に到着。前回の九州八十八ヶ所百八霊場めぐりの帰途、芦北の海岸べりを回った時の玄関駅である。かつては天草へのフェリーも出ていたところ。国鉄時代からのものであろう駅名標が出迎える。

九州新幹線の高架線が近づき、新水俣に到着。いずれも新幹線開業とともにできた駅である。

新水俣発車後、すぐに水俣に到着。当初は水俣で途中下車して(これまで下車したことがない)、水俣病関連の資料館に行くことも考えたが、バスでの移動で本数も限られている。翌日、レンタカーでの札所めぐりの帰途、残り時間により立ち寄るかどうか決めることにする。今回はまず鹿児島県に入ることを選択した。

次の袋を過ぎると鹿児島県に入り、再び不知火海を望む区間となった。

11時17分、出水着。ここで列車を降りる。ここで下車としたのは、鹿児島県に入ったこともあるし、北薩の有名スポットである武家屋敷群を少し見物しようというもの。なお、翌日川内からレンタカーでさつま町の札所をめぐった後、出水で返却し、新幹線に乗る予定である。見ようによっては、今回の札所めぐりのゴールでありながら、出水で下車した時点でスタートで、川内での宿泊を挟みながら1日かけて一周するともいえる。

ここでも肥薩おれんじ鉄道の硬券入場券を購入し、荷物をコインロッカーに預ける。駅前には蒸気機関車が展示されている。案内板によると昭和天皇当時の御召列車を牽引したこともあるそうだ。

元々の玄関口だった在来線側から連絡通路を通り、新幹線側に出る。とりあえず、新幹線駅がどのような様子なのか見ることに。一応、こちらの物産コーナーで土産物や駅弁を買うことができるが、コンビニで並ぶような商品は薄い。最寄りのコンビニまでは少なくとも5分ほどはかかるようだ。

ここでの時間は武家屋敷群の見物とする。レンタサイクルもあるがここは歩くことに・・・。

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第18回九州八十八ヶ所百八霊場めぐり~いよいよ鹿児島編も最後・・・

2024年10月16日 | 九州八十八ヶ所百八霊場

九州八十八ヶ所百八霊場めぐりは、当初は前月のお出かけにて鹿児島県の北部・さつま町にある二つの札所である第46番・峯浄寺、第48番・薩摩薬師寺を訪ね、鹿児島編を終了する予定だった。

そこに急遽入って来たのが、JR九州主催のリバイバル急行「ひのくに」乗車ツアー。これで八代に行き、そのまま市内の札所に立ち寄った後、1泊。翌日はレンタカーで人吉に移動し、人吉市内および周辺の札所をめぐった。この時は鹿児島県に入ることなく、エリアを先取りした格好である。

それから1ヶ月後となったが、スポーツの日の連休絡みで改めて北薩編とする。先にも触れたが、今回の二つの札所は内陸部のさつま町にある。この辺りはその昔、川内から国鉄宮之城線というのが走っていたところ。現在もバス路線はあるようで、バスと組み合わせて回るのも面白いかと思ったが、せっかくなので他のスポットも訪ねたい。ということで、九州一周の以前のコマが進んでいた川内に前泊し、翌朝にレンタカーで回ることにする。

さて、川内までである。広島から山陽・九州新幹線の「バリ得こだま・つばめ」プランで移動すれば午前中には到着するが、この日は夕方までに川内に着けばよい。ならば、八代から新幹線の並行在来線として切り離された肥薩おれんじ鉄道にトコトコ乗るのが面白そうだ。ということで、まず「バリ得」で新八代に向かうこととする。

10月13日、この日は晴れ予報。まずは定番の広島6時53分発「こだま781号」で出発。

新幹線といえば先日、東海道新幹線東京~新大阪間が開業60周年を迎えたとしてニュースになっていた。それに次ぐ形で、1975年3月に岡山~博多間の開業で全線開業となった山陽新幹線も、来年50周年を迎える。車端部にそのPRのポスターが出ていた。この1975年といえばカープがリーグ初優勝した年である。当時の選手も「優勝したのは山陽新幹線のおかげ」と語っていたそうだ。移動が格段に楽になったことが大きかったという。

8時21分、博多到着。そのまま8時40分発「さくら401号」に乗り継ぐ。今後、九州八十八ヶ所百八霊場めぐりも熊本エリアに入る中で、このルートを使う機会も増えるだろう。

筑前~筑後平野から肥後に入り、熊本に到着。

9時30分、新八代到着。「B&Sみやざき号」の乗換駅として、宮崎方面へのジャンクションの役割を果たす。

大分、宮崎両県が望む「東九州新幹線」。その構想じたいは古くからあり、現在の日豊線に沿う形で小倉から通すのがベースとなっているが、ここに来て地元のニーズは変化しているようである。まず大分としては、久留米あるいは熊本から久大線、豊肥線に沿う形がどうかと。そして宮崎としては、新八代から肥薩線、吉都線に沿う形がどうかと。共通するのは現在の高速道路の整備の後追いの形というのと、九州の中心都市である福岡(博多)、あるいは半導体製造工場の誘致で経済成長が見込まれる熊本とのつながりである。

「東九州新幹線」がどうなるかはともかく、八代から不通の肥薩線について、いつになるか目途が立たないが元の球磨川にへばりつくように復旧させる(しかも地元の利用はほとんどない)よりも、新幹線でなくともせめて現在の在来線電車特急がスムーズに走行できるだけの強固な路盤や橋梁を築いたほうがよいのではと思う。

さて、「バリ得」の乗車券は新八代まで有効で、いったん、肥薩おれんじ鉄道の起点である八代まで移動する。もう少し待てば、新八代から出水、川内に直通する同社の気動車に乗れるのだが(現に、その気動車もやって来たが)、ここはいったん、先行のJRの列車で八代に移動する。1駅間はICカードでの支払いとする。

八代に到着。いったん改札を出て、建物が別の肥薩おれんじ鉄道の八代駅に向かう。

こちらで、肥薩おれんじ鉄道の1日乗車券を購入。価格は3000円だが、この先終点の川内に行くまでどこか1ヶ所で途中下車するだけでも元が取れる。合わせて、懐かしい硬券の入場券も購入。この硬券の入場券、八代以外にもこの先係員がいる有人駅で発売されている。

先ほど新八代で見た気動車が入線。9時57分、川内行きである。ボックス席に先客がいたので、前方が見えるロングシートに陣取る。このまま乗り続ければ約2時間半後の12時25分に川内に着くが、いくら何でも早すぎるだろう。まあ、まず途中下車するなら主要駅で、かつ歴史的な町並みもある出水かなと思いつつ、車窓を楽しむことにする・・・。

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WEST EXPRESS銀河 復路・下関から乗車して日付変更前の広島で下車・・

2024年10月14日 | 旅行記F・中国

10月5日、朝の広島から「WEST EXPRESS銀河」に乗って下関に行き、山陰線~美祢線の代行バスに乗り、夕方に厚狭に到着。このまま広島に向かえば帰宅できるところ、あえて進路を逆に取って下関に向かう。下関には17時20分に到着。

下関に再び降り立ったのは、19時43分発の「銀河」京都行きに乗るため。日付変更前の広島まで乗車するのだが、せっかくなら始発から約4時間、しっかり楽しもうということでわざわざやって来た。

・・とはいえ、発車まで2時間以上ある。関門トンネルをくぐって九州に上陸することもできるが、今回は昼に続いて下関での一献とする。夜行列車に乗る前(もっとも、途中で下車するのだが)に心持ちよくなって・・というのも現在ではなかなかできないことだろう。

向かったのは、昼に訪ねた「大衆食堂 一善」・・の奥にある「豊丸水産」。飲み放題もあるし、ここは手堅くいく。

目についたところで、クジラのタタキ。先ほど「一善」では鯨カツ、鯨テキ、鯨汁といただいたが、タタキとは意外である。でもまあ、カツオと同じ赤身の肉である。刺身でちょっと感じる独特の臭みが中和されたように感じられる。

フクは天ぷらでいただく。

この店は剣先イカが推しのようで、まずは造りでいただく。身をいただいた後は頭とゲソを調理してくれるとのことで、塩焼きにしてもらう。

この後も飲み放題の時間を活かしてしかるべく飲み食いし、「夜行列車に乗る前の一献」とする。まだ発車まで時間があるのを確認し、駅に戻る。

駅の電光案内板には「銀河」の文字が見える。行き先の「京都」に旅情を感じる。

すでにホームには「銀河」がヘッドライトを灯して発車の時間を待っていた。時間があるので、ホームを歩いて6両の姿を見ることに。改めて、夜のホームによく似合う色だと思う。

簡易ベッド「クシェット」から、フリースペースの「遊星」を抜ける。

そして先頭の「ファースト」へ。出発時点ではこの状態だが、両側の座席を前に倒すとベッドになる仕組みである。うーん、このゆったりした区画で夜行列車の風情を味わいたいものだ・・。

復路の席もリクライニングシートで、さすがに下関発車時点では空いている状態だが、さすがに時間も早いのでとりあえず往路に続いて「遊星」のボックスシートに陣取る。このまま関西まで一夜を過ごすならいいが、その前の広島で降りなければならないし・・。

下関を発車。この後はゴトゴトとした揺れに身を任せる。「クシェット」かリクライニングシート利用か、発車後、ここ「遊星」に飲食物を持ち込んでの夕食タイムとなる。まだ時間も早いし、こちらのほうがゆったりと食事ができる。たまたまの相席同士で話が弾むボックスもあり、その会話内容には私も思わず「ウンウン」とうなずけるものもあった。

今回の「WEST EXPRESS銀河」の山陽ルート上りでは特に沿線でのイベントもなく、途中時間調整や貨物列車の通過待ちの停車はあっても基本的には往年の夜行列車のようにひた走るダイヤとなっている。その中で「遊星」は乗客をホッとさせる空間となっている。

そうこうするうちに新山口、防府と停車する。

柳井に到着。今朝到着した時は柳井市長らによるセレモニーもあったが、夜となると静かなものである。もっとも、昔ながらの夜行列車の旅としてはこのくらい静かなのがいいのかもしれない。

岩国に到着。自宅のJR最寄り駅の西広島に着くなら、岩国で下車して普通列車に乗り継ぐのが早い。ただ、ここまで来たなら次の広島まで行こう。広島まで行っても一応最終列車は残っている・・・。

最後は何とか寝過ごさないようがんばった末、23時43分広島到着。

日付が変わり、広島から山陽線の終電に乗車。それでも車内にはカープのユニフォーム姿の人が何人かいた。5日の夜はカープの今季最終戦。先発には今季限りでの現役引退を表明した野村投手が登板したとのこと。ファンの方々はナイター終了後も駅近辺で今季の「総括」を行っていたのだろう。お疲れ様でした。

今回、広島~下関間の往復乗車ができ、朝からの「ヒルネ」区間、そして日付が変わる前の夜行列車の雰囲気・・を1日で味わうことになった。これもある意味貴重なことだと思う。

「銀河」の山陽ルートは来年3月までの運行で、乗ろうと思えばまだチャンスはある。カレンダー的には土曜夜の関西方面への上り便だと思うが、次は下関まで出迎えずとも広島からの乗車で十分かな・・・。

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