まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

夜行バス「ギャラクシー号」にて帰阪

2020年01月18日 | 旅行記B・東北

4日間にわたる年末年始紀行もようやく最終の夜となった。帰りに乗るのは福島・郡山~京都・大阪を結ぶ夜行バス「ギャラクシー号」である。近鉄バスと福島交通が運行しており、元日夜の福島~大阪便は福島交通の担当。ネット予約時に座席図を見るとちょっと変わった形だったので確認すると、2階建てタイプの車両とあった。

今回は郡山駅から乗る。改札を出るとイルミネーションが出迎える。その中に「楽都 郡山」とある。郡山は戦後の復興の中で音楽活動が盛んになり、市民の人たちの音楽への情熱がいつしか「楽都」に発展したという。その復興の様子は「東北のシカゴから東北のウィーンへ」と称されるそうだ。

駅前にもオブジェがあり、郡山で結成された音楽グループのGReeeeNの歌詞も紹介されている。今も地元の若者が集まり、イルミネーションとともにスマホカメラに収まっている。

コンビニで何がしか買い求めてバスが来るのを待つ。先に名古屋行きの便が来て、その後に大阪行きが来た。果たして2階建て車両だ。郡山駅からは10人あまりが乗車のようである。

今夜の座席は1階席の入口脇。2階は3列シートが並ぶが、1階席は1-2人掛けシートが2列だけ。その中の2列目の1人掛けシートである。前には先客がいるが後ろは席がないため、リクライニングも気を使わずに済む。もっともこの日はこのスペースが荷物置き場になっていて、そう深くはシートを倒せなかったが。

この先2ヶ所乗車停留所がある。消灯までまだ時間はあるし、通路向こうの2人掛けシートはまだ客がいない。夜行バスではタブーだが、カーテンを開けて外の景色を見る。スマホの位置情報ではまず国道4号線を南に向かっているようだ。

20分あまり走った須賀川で、1階席の通路向こうの2人席に男性が一人ずつ座った。この先須賀川インターから東北自動車道に入る。最後の矢吹泉崎バス停では乗客がなく、後はこのまま京都、大阪を目指す。1階席はちょっとした個室感覚で、夜行バスとはいえどもある程度は眠りのよい状態で一夜を過ごせそうだ。

22時すぎ、栃木県に入った那須高原サービスエリアで休憩。外に出られる休憩はこの1回だけということでほとんどの客が外に出る。トイレを済ませて土産物コーナーに向かう。

高原に近いサービスエリアということで乳製品や肉製品、洋菓子などが並ぶ中、やはり栃木~宇都宮ということで餃子の土産も並ぶ。そこで見つけたのが「ご飯にかけるギョーザ」の小瓶。こうしたものがあるのは初めて知ったのだが、発売以降テレビでもたびたび紹介され、ネットでも話題になっているそうだ。名前の面白さにひかれ、今回の旅の最後に思わぬ形で栃木土産も加わった。

餃子の餡をご飯にかけて・・というものだが、肉の代わりにおからを使っている。また歯ごたえの面ではピーナッツを使っている。餃子の風味はごま油とラー油。帰宅後にご飯にかけていただいたが、食感は餃子そのもので美味かった。また冷奴に乗せてもよかった。他にも薬味代わりに使えそうだ。

後は眠るだけである。1-2列シートのために3列シートよりも通路が広く取られているので隣を気にすることもない。まあ、それでも乗務員の休憩のために停車する時は目が覚める。スマホで位置を確認すると、1時半で東名高速道路の足柄サービスエリアだったが、その次が5時前で新名神高速道路の土山サービスエリアだったので、その間はしっかり眠ったようである。

定刻では京都駅着が6時23分とあったが、40分ほど早く到着した。ここで下車する客もそれなりにいる。

確か時刻表では名神大山崎、高槻、茨木を経由するとあるが、多客期ということで客扱いは行わないという。そのため京都駅からは第二京阪~近畿道~阪神高速東大阪線~環状線~守口線という変わったルートを通り、東梅田に到着。東梅田と、次の湊町バスターミナルでほとんどの客が下車した。

定刻では8時着のところ、40分早いままにあべの橋に着いた。ここで下車するのは私だけだった。終点はUSJということで、私のキャリーバッグだけをポンと下ろすと、そのままあっさりと行ってしまった。終わりは何ともあっけないものだった。

まだ7時30分にもなっていないが、百貨店の初売りを待つ客の行列が伸びている。構内には琴のメロディも流れる。正月朝独特の雰囲気である・・・。

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駅前温泉と会津郷土料理

2020年01月17日 | 旅行記B・東北

会津若松駅に戻り、雨の中を駅前にある「富士の湯」に向かう。前の記事で、温泉に「心当たり」があると書いたのはここのことである。

とはいうものの久しぶりに来るところで、確か以前は光明石を使った人工温泉ではなかったかと思うが、今は天然温泉を名乗っている。それでも入浴料金が450円と安く、タオル類を借りようとしたら280円の「やすらぎセット」というのがあった。合計730円で館内着つきなら妥当な値段である。

浴槽はさまざまあり、まずは室内には大浴場と薬湯、サウナがある。また外には石造りの露天風呂、壺湯、炭酸泉などが揃っている。いろいろな風呂を入り比べるというのもよい。外はガラス窓で仕切られているが、先ほどの雨が雪に変わった。1日の中で目まぐるしく天気が変わる。

会津若松に来たら歴史ある東山温泉に浸かるのがよいのだろうが、駅前で銭湯価格で入れる「富士の湯」は鉄道旅行の強い味方である。元日営業で大勢の客で賑わっているが、観光で訪ねた人も少なからずいるかもしれない。

しっかり入った湯上りだが、ビールは夕食時までお預けとしてしばしリラックスすることにする。2階に休憩処があるが、やけに静かだと思ったらここは仮眠室の扱いで、「やすらぎセット」の館内着利用のみが入ることができるとある。タオルを借りるつもりで追加購入したが、休憩処利用もできるとあれば、さらにお得感が出てきた。

他にも寝ている人がいるが、静かだし、ホットカーペットが敷かれているし、これはリラックスできる。元日の昼下がり、ちょっとだけ「寝正月」としよう・・・。

心身がリラックスできたところで、そろそろ夕食の時間である。入ったのは駅前の「こだわりやま」で、別に会津若松のオリジナル店ではなく、大手居酒屋チェーンの支店である。会津の郷土料理をいただける店ということで事前にグルメサイトで検索したが、行くのは元日ということで多くの店が休業であった。ただその中で、チェーン居酒屋だが会津料理もいろいろあるのを見つけ、また座席のみ予約していた。前夜の新潟同様、開いている店が少ないので満席だったら困る・・・ということで予防線を張ったのだが、結果としてはそこまでする必要もなく、スムーズに入ることができた。

会津に来たからには馬刺しである。この店でも一番人気のメニューだという。盛り合わせがあり、赤身、ふたえご、あともう一つはどこだったか珍しい部位の三種が出てきた。これを辛子味噌、にんにくをふんだんに混ぜていただく。会津で馬肉が郷土料理なのは、元々交通の要衝で馬の需要があり、その中で自然と馬肉を食べる文化が育ったとか、戊辰戦争の時に負傷した兵士の回復のために馬肉を食べさせたというのが広まったからとか、いくつかの要素があるそうだ。ただこれは前に別の店でいただいた時に聞いた話として、現在流通する馬肉の多くは外国からの輸入品か、あるいは外国から生体の馬を輸入して、日本で飼育した後に加工したもので、純国産というのはなかなか出回らないという。まあ、私としては特に地元産にまでこだわってはいないのだが。

いきなりメインディッシュを味わった形だが、これでひとまず安心し、あとはこづゆ、にしん山椒、いか人参という昔からの郷土料理をいただく。このこづゆ、会津では元々武家の食事メニューだったが、今でも祝い事の席に必ず出るという一品である。この後会津若松を出発する時に土産物コーナーをのぞくと、自宅でも手軽に食べられるようにカップに湯を注ぐタイプのものや、具材をレトルトカレーにしたものなどもあり、身近な一品といってもいい。もっとも、こづゆと、前日までいただいた新潟ののっぺ、似たメニューである。

こうしたメニューとなると、飲み物も自然に地酒に移行する。ここも別紙や壁紙に地酒のメニューが並び、会津の酒がその特徴とともに紹介される。その中で南会津の「國権」の力強い書体に引かれて一杯飲む。その字体を見て、会津の「ならぬものはならぬものです」という精神や、そういえば自由民権運動も盛んだったよな等と想像しながらいただく。他には猪苗代の「七重郎」というもの。

十分満足して、これで会津若松めぐりは終了である。外は暗くなり、雪もいつしか止んだようである。駅内の土産物コーナーで買い物をして、バッグの中は越中、越後、庄内、そして会津のいろいろなもので一杯になった。これを片付けるのには結構時間がかかりそうだが、その分長く旅の思い出に浸れそうである。

会津若松発19時05分の郡山行き快速に乗る。当初、遅れている会津鉄道の列車の接続を待つために発車が数分遅れるとの案内があり一瞬ヒヤッとしたが、乗り継ぎ客もほとんどなかったようで定刻に発車する。夜なので磐梯山も猪苗代湖も見ることなく淡々と進む。

20時15分、郡山に到着。これから乗るのは21時発の夜行バス「ギャラクシー号」だが、列車が無事に間に合ってよかった。最後はこのバスに乗れば、あべの橋まで乗り換えなしである・・・。

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会津若松の羽黒山「元朝まいり」

2020年01月16日 | 旅行記B・東北

鶴ヶ城の「元旦登閣」から循環バス「あかべぇ」に乗って会津武家屋敷に着く。「あかべぇ」はこの先東山温泉まで運行するのだが、昼の時間帯は東山温泉まで行かずここで折り返す。

会津武家屋敷は確か以前にも入ったことがあるスポットで、武家屋敷だけではなく資料館や体験工房も備えた「会津の感動歴史ミュージアム」という。元日も開いているので入ればよいのだが、なぜか見送る。この時の気持ちを振り返るに、ちょっと工房や土産物販売が前面に出ているように感じられ、ならば別にいいかとなったようである。

東山温泉までは歩いてもそれほど遠くないが、だらだらした上り坂が続く。おまけに、これから向かう場所への分かれ道から先はさらに上りとなる。今からこれでいい「準備運動」か。

着いたところには「羽黒山」と大きく書かれた額が掛けられた鳥居がある。その奥には樹齢も長そうなもみの木がご神木のように伸びている。ここは羽黒山湯上神社。2020年の初詣は出羽三山の一つ、羽黒山ということになった。

もちろん、会津と出羽は離れていて、ここにあるのは出羽三山そのものではないが、密接なつながりはあるそうだ。歴史を見てみると、羽黒山湯上神社は奈良時代に行基により開かれたとある。三本足の烏に導かれたのがこの地だそうで、その由来も出羽三山の羽黒山と似たものがあるそうだ。長く修験道の拠点として神仏習合の歴史があったが、明治以降は堂宇は廃されて現在の神社となった。

東山温泉じたい来るのが初めてだが、目的地が羽黒山湯上神社というのはなぜか。会津若松の観光サイトで見つけてしまったのだから仕方がない。会津若松で元日でも回れるところというので検索したら、まず先ほどの鶴ヶ城の「元旦登閣」があった。会津盆地の眺めも見られたし、縁起物もいただいたのでよかった。

そこに出てきたのが、「東山羽黒山元朝まいり」というものである。福島県の観光情報サイトの記事には、「みちのく独特の白い雪の中、1225段の階段の参道を登り元朝参りする会津の伝統行事。善男・善女で賑わいを見せる。天平元年(729年)建立で会津地方で最も古くから参拝者で賑わう寺社の一つです」とある。今は昼を回っているが、夜から朝にかけては地元の人や東山温泉の宿泊客が初詣に多く訪ねたのだろう。

そこにある「1225段」に目が止まった。札所めぐりをする者に対する何か挑発のような、誘惑のようなものを感じた。ただ冬のことである。雪に覆われていたらいくら伝統行事といえども無理な話だろう。そこは天候を見て決めようと思っていた。それが見ての通り、雪など全くない市内である。これは行かなければならないだろう。

階段の登り口の両側に小屋があり、両側に座る巫女さんから「おめでとうございます」と声がかかる。1200段か・・西国や四国を見て、遍路道ではなく境内の参道でこの数の階段を上らせるところがあったかなと振り返る。

階段の脇には「◯番」と刻まれた石の観音像がある。これは1丁ごとと間隔が決まっているわけではなく、いわゆるお砂踏み霊場なのだが、これが三十三番まで数えられると到着なのだろう。歩く時の目安になる。

もっとも、観音像も長年の風雪のためか崩れているものも多い。そうした脇には地元の人が改めて奉納した像も並ぶが、観音像とは限らず、大日如来や不動明王も多い。阿弥陀如来もあったかな。そこは神社だからこだわりはないのだろう。それにしても、神社の参道に今でも三十三観音が並ぶというのも貴重なケシキだと思う。

ただ、坂は結構ハードだった。上り始めからいきなり真っ直ぐ伸びる長い階段である。それでも下りて来る人と「おめでとうございます」と声を掛け合いながらすれ違う。賑わうというほどではないが、子どもからお年寄りまでそこそこの人がお参りしている。日付が変わる頃から明け方にかけてはより多くの人が上ったことだろう。帰宅後に過去に参拝した人の記事など見ると、積雪時の参拝は実に難儀するもので、途中で断念して引き返すケースもあるようだが、この日は全く問題ない。
 
途中立ち止まって息を整えたり、階段脇の観音像を数えながら歩くこと25分くらい、ようやく最後の石段が現れて、その奥に小さな木造の社殿が見えた。
 
「羽黒山」の額がかかる社殿は防寒のためか扉が閉められていたが、お参りの人が入れ替わり出入りする。雰囲気からして普段は無人かと思うが、元朝参りだからか中には巫女さんもかしこまって座っている。ここで手を合わせて、2020年の初詣とする。
 
外にはスポーツウェア姿の男性の姿がある。会話しているのを聞くと、この日すでに7往復くらいしているという。1225段は格好のトレーニング場のようだ。そういえば社殿の壁には(もちろんいけないことなのだが)、どこかの部活で登頂したことがいくつも落書きされている。
 
私もゆっくり下る。終盤のほうで、先に下りていた男性がまた小走りに上ってきたので道を開ける。それにしてもタフな方だ。
 
上り口の巫女さんから「よくお参りでした」と送られ、樽に入ったお神酒をいただく。往復で1時間あまりの道のりだった。
 
帰りは東山温泉の旅館街を歩く。チェックインには早い時間のためか人の姿はまだほとんど見えない。東山温泉は先ほどの羽黒山と同じく行基により開かれた長い歴史があり、江戸時代には会津藩の湯治場であった。民謡で「朝寝朝酒朝湯が大好きで」と歌われた小原庄助が入っていた朝湯とは東山温泉とされる。
 
せっかくなのでと案内板を見ると、この先に足湯があるという。それならと行くが・・・冬季休業。浴槽はあるが湯は入っていない。まあ、そうだろうな。
 
戊辰戦争の時には新撰組の土方歳三も傷を癒したそうで、その岩風呂もある。ただこれは見学用で立入禁止。
 
元日なので閉まっていた観光案内所には日帰り入浴可能な旅館の案内図が貼られていたが、時間も合わないし値段も高い。まあ、ここで無理に入浴しなくても、私にはこの後に心当たりがあるので、そちらに向かうことにする。
 
帰りのバスは東山温泉経由だったので乗り込む。循環ルートの北東部を通り、橡生の飯森山入口からは白虎隊史跡帰りの客が乗り込んでくる。もうすぐ駅というところで雨が落ちてきた。先ほど羽黒山湯上神社を目指す途中で雲が広がってきたのだが、ここで雨になったか。羽黒山の神と観音さんは雨を避けてくれたようだ。
 
駅に到着。まだ早い時間だが、町歩きはおしまいにして郡山行きの列車までゆったり過ごすことにする・・・。
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鶴ヶ城「元旦登閣」

2020年01月14日 | 旅行記B・東北

元日の午前、会津若松の駅前は青空が広がっていた。久しぶりに会津を訪ねるのだが、その時は2月の雪の時季で、雪のイベントも行われていた。この冬は暖冬傾向ということはかねてから言われていたが、ここまでとは思わなかった。新潟、山形まで来たところで、前日の大晦日は強風こそ吹いたものの、降ったのは雪ではなく雨だったし、吹雪くということはなかった。

全国各地のスキー場でもこの冬は雪不足のために営業ができないという悩みがあるようだ。その原因は地球温暖化にあるとする声も高くなっている。私も冬の鉄道の旅では雪景色を期待して出かけることが多く、今回もそれを意識したコースを取ってはいるのだが、山間部に薄くあった程度である。ただ一方では地元の人たちにとっては雪がないのはありがたいことではないのかとも思う。雪国では道路の除雪作業、家の雪かき、それが連日続く。それがカネになるのならまだしも、日々の暮らしの中で余分な時間と労力が割かれているのではないか。「雪が少なくて面白くない」というのは、雪がない地域に住む人間の勝手な言い分ではないかとも思うのだが・・(と書く一方で、雪解け水は農業のための水資源になるから翌年の作業に影響するのでは、という声もある。一概に良し悪しは言えない)。

というか、「雪がなくて物足りません」って、雪国の連中は何を贅沢なことを言っているのか?これまで悩まされてきた雪による障害がなく、快適な暮らしが得られているではないか?「表日本」からの差別がなくなってよいことではないのか??どないせえちゅうねん???その「北から目線」、実にムカつく。私、何か間違ったこと言ってますか??

さて、会津若松である。見どころがいろいろある中で行き先は絞った。たたその中で鶴ヶ城は外すことはできないだろう。元日は休館となる施設が多い中で、鶴ヶ城は毎年「元旦登閣」というのが恒例となっているそうだ。そしてあともう1~2ヶ所回った後で会津料理で一献、郡山に移動である。

鶴ヶ城をはじめとした市内の観光スポットには循環バスの「あかべぇ」、「ハイカラさん」がある。これに乗ればよいのだが、せっかくなので歩いて向かうことにする。多少ひんやりとはするが澄んだ空気を感じると、大阪にいるのとさほど変わらないようにも思う。

街の中心部を歩いて30分ほどで鶴ヶ城内に入る。途中で長い行列ができているが、城内にある稲荷神社へのお参り客である。

今の鶴ヶ城の元となる黒川城は約600年あまり前の南北朝時代に芦名直盛により建てられた。その直盛だが、当初築城のための縄張りをするもののなかなかしっくり来るものができなかった。そこでこの地の田中稲荷に祈願したところ、夢の中で狐のお告げを受けた。直盛が目覚めて外を見ると雪が積もっており、狐らしき足跡が残っていた。この足跡をたよりに城の縄張りを行ったところ、見事なものが出来上がった。これにより建てたのが黒川城で、田中稲荷を城内に勧請したのがこの鶴ヶ城稲荷神社である。これだけ並ぶとは、地元の人たちには身近な初詣の神社なのだろう。たださすがに長時間並んでまでとは思わず、列の向こうからちょっと手だけ合わせる。

やってきた天守閣。鶴ヶ城の天守閣は明治時代に解体され、戦後になってから復興再建されたものである。私が見覚えがあるのは黒い瓦屋根だったのだが、今来てみると赤くなっている。これは2010年~2011年にかけて行われた修復工事によるもので、何でも解体される以前は赤い瓦屋根だったそうである。白虎隊も仰ぎ見た当時の姿に再現したということか。

天守閣の入口では「縁起めしべら」というものをいただいた。「食事に不自由しない」とか「敵を召し取る」という意味がある縁起物である。これも「元旦登閣」の先着順の進呈だそうだ。また「初夢大抽選会」というのもやっていて、縁日にあるようなくじを引くのだが、残念ながらこちらははずれだった。

まずは鶴ヶ城の歴史ということで、先に書いた芦名直盛からはじまって、伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝、加藤嘉明、保科正之といった歴代の黒川城~鶴ヶ城にかけての城主の紹介がある。復元された甲冑も飾られている。

保科正之以降は松平氏が代々治めた会津だが、やはり歴史の中で大きく登場するのは戊辰戦争、白虎隊である。特に白虎隊は悲劇のヒーローとして現代でも人気が高く、こちらの展示コーナーは特に大勢の人が時間をかけて見学している。

数年前の大河ドラマの主人公である新島八重のパネルもある。新島襄の妻ということだが歴史的知名度があったわけではなく、やはり東日本大震災からの復興支援で無理にでも東北を取り上げなければならなかったのだろうと推察する向きもある。まあそれでも、今は会津ゆかりの歴史的人物の一人となっている。さまざまなきっかけはあるものだ。

最上階から会津盆地の景色を見る。見渡す限り雪の気配はない。城内の松に被せられた雪避けも今のところは効力を出していない。

元旦登閣は好天という巡り合わせで満足して、鶴ヶ城を後にする。次は循環バスの「あかべぇ」で東山温泉に向かう。別に温泉に入るわけではなく、たまたまあるスポットを見つけ、そこを初詣の地とすることにしたからである。新年早々、そこそこハードな初詣になったのだが・・・。

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磐越西線で会津の地へ

2020年01月14日 | 旅行記B・東北

明けて2020年。この記事を掲載しているのはもう松の内も明けた頃合いだが、紀行文の中では謹賀新年、本年もよろしくお願いしますである。

このブログでは元日付で「謹賀新年」の投稿を行っているが、夜中に一度目が覚めた時にスマホでポチポチ入力したものである。そしてもう一眠り。なんとまあ。

起きたのはいつもの生活と同じ朝の5時、テレビをつけると「日本で一番早いお笑いバトル」という「フットンダ王決定戦」をやっている。「布団がふっ飛んだ」というダジャレにかけて、大喜利のお題が出てそれがウケたら布団が飛ぶというやつである。このところの年越し旅行で、年明けになぜかチラ見する番組である。

それはいいとして、途中のCMがローカル局らしい。新潟の街並みや、富士山などをバックにして地元企業の「謹賀新年」のメッセージが流れるCMである。そのCMを出すのも地元の「◯◯工業」とか「△△不動産」とか、新潟市内のスナックとか、日常の番組ではCMなど流さない企業がほとんど。ここに初詣の案内ということで白山神社や新潟県護国神社も加わる。これは他の局も同じようなものだったから、元日の早朝のスポンサー枠を埋めるのも大変なのかなと思う。

何となくボーっと過ごすのももったいなく、大浴場でシャキッとした後で朝食会場に向かう。新潟の郷土食材もあるし、正月ということでおせち食材もあり、雑煮の注文もできる。本格的な正月料理は翌朝大阪に戻ってからのことだが、まずは旅先で年の始めである。

さて朝の8時、結局新潟市内の神社には向かわず新潟駅に向かう。仮設の8・9番線から出るのは8時25分発の快速「あがの」会津若松行きである。この日は会津若松に向かい、日中はこの町中で過ごした後で郡山に移動。郡山から大阪行きの夜行バス「ギャラクシー号」に乗る。大阪まで夜行バスに乗るのなら新潟からでも長岡からでも便があるが、ここまで来たのだから久しぶりの会津若松も訪ねてみようと思った。

「あがの」はキハ110の3両編成。元日だからか乗客の数もそれほどなく、誰もいないボックス席もある状態で発車する。会津若松までは2時間20分の旅だ。

新津から磐越西線に入る。雪がちらついており、車窓ではおそらく数センチくらいしかないだろうが積もっている。内陸部に入るからだろうか。

馬下、咲花あたりから阿賀野川沿いに走る。ここからは渓谷が左右に移るが、車内が空いているのでその都度席を変えて車窓を見る。この時季なのでモノトーンの風景だ。磐越西線の新津から会津若松までの区間は「森と水とロマンの鉄道」という愛称があるが、その名前がよく合っているように感じる。

いつしか新潟県から福島県に入る。だからというわけではないが空も晴れて来たし、雪もなくなった。

喜多方からはそこそこの数の乗客があった。左手には磐梯の山々が見えるはずだが高いところは雲に覆われている。もうすぐ会津若松である。

10時46分、会津若松の行き止まりホームに到着。この駅のホームに降り立つのも久しぶりである。この日は夕方まで会津若松を回ることに・・・。

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酒田にて

2020年01月12日 | 旅行記B・東北

大晦日の酒田駅前。強風のために列車ダイヤが乱れているが、幸いなことに雨はやんでいた。帰りの新潟行き「海里」の発車まで時間があるので、少し町歩きをする。

酒田駅は2019年の元日に降り立っている。その時は新庄から陸羽西線、最上川下りを楽しんだ後に「きらきらうえつ」に乗ったのだが、駅前が再開発に向けて更地になっていた。現在、ホテルや図書館などの複合施設やマンションの建設の工事が進められていて、2020年度には一部が先行開業するという。そうなればこの駅舎も建て替えようという話がでるかな。

酒田は昔から最上川の水運から栄えた港町で、江戸時代には北前船の航路が整備されて交易の中心となった。町の自治を担ったのが三十六人衆で、北前船の交易を通して京の文化も入って来ていた。今の市役所前にその紹介

その酒田の繁栄ぶりの事例として井原西鶴の『日本永代蔵』で紹介されたのが、旧鐙屋である。廻船問屋として米や紅花などを扱い、その才覚と堅実な商売で発展したという。普段はその建物内部も公開しているが、年末年始の休業中だった。

町中には三十六人衆の一つであった本間家の旧屋敷もある。本間家は江戸時代以来社会貢献を方針とした家だそうで、戦後になって別荘を開放したのが本間美術館だが、いずれも年末年始休業である。

さらに進んで着いたのは山居倉庫。酒田の観光のシンボルといえるが、明治時代に建てられた米の保管倉庫である。現在も現役の農業倉庫として使用されている。観光スポットとして紹介されるのがケヤキ並木との組み合わせである。ケヤキ並木には夏の直射日光、冬の季節風を防ぐ役割がある。ちょうどこの日の天候だと風よけになるのだが、それでも吹き込むものは吹き込む。

倉庫の一つは庄内米の歴史資料館だが、こちらは冬季休業中。やはり冬、年末年始の旅行というのはこうした制限が出てしまう。

しかし、こちらも倉庫を活用した「酒田夢の倶楽」は観光物産館ということで開いていた。観光バスも横付けされて団体客が買い物の最中である。最上川の川下りとセットのコースなのだろう。せっかくなので地酒やレトルト芋煮、こんにゃくなど買い求め、新潟だけではなく山形にも来た印にする。

また展示コーナーではアート水引が飾られている。2020年の干支であるねずみや、その他の縁起物の数々がある。ちょっと正月気分を楽しむ。

酒田といえばドラマ「おしん」の舞台としても知られている。放送があったのは私が小学生の時で、子どもなのでドラマのストーリーがどんなものかはよく知らなかったとしても、冬の山形の雪景色と「大根めし」という単語が印象に残っている。今では炊き込みご飯としての大根めしのレシピがネットでもいろいろ出ているが、明治時代におしんが食べていた大根めしというのは、貧しくて米の不足を補うために大根を入れたもので(たいていはほとんどが大根だったようだ)、決してごちそうというものではなかったという。

現在NHKのBSで全編再放送されているためか、「おしん」も注目されているようだ。私もドラマを見る時間はないので改めてウィキペディアなどであらすじを追ってみたが、実に複雑だ。明治時代からドラマ放送時の「現在」までが舞台なのだが、特定の人物ではなく「当時の日本女性」をイメージして作られたストーリーということで、さまざまな要素が盛り込まれている。だからドラマは大人になってからの話のほうが長いのだが、こうしたスポットで紹介されるのは少女時代の「おしん」である。

こちらでは山形の人形作家の手による「おしん」の名場面の人形ギャラリーがある。やはり酒田を訪ねた人にこのドラマのことを知ってもらおう、思い出してもらおうということである。私もここを訪ねたことで酒田に来た甲斐があったと思う。

元々(列車が定刻で走っていた場合)はこの先港を望む日和山公園にも行こうかと思っていたが、風も強いしちょっと時間がかかるかなということで、ここで折り返しとして駅に戻る。時刻は15時を回っていたが、新潟方面への列車は14時30分発の「いなほ10号」の発車を待っているところだ。この「いなほ10号」は本来なら秋田始発の列車だが、折り返しとなる「いなほ1号」が酒田~秋田間が運休となったため「いなほ10号」も酒田始発での運転となっている。発車準備ができて、信号が変わり次第出発するという。

列車の遅れは1時間というところ。このぶんだと「海里」が発車するのも定刻の16時から少なくとも1時間は遅れるということになる。それだと新潟に着くのは19時半とか20時とかになりそうだ。この夜は新潟に泊まるのだから問題はないが、実は大晦日ということで19時に居酒屋の席の予約をしている。それに遅れるのもどうかな・・という気持ちもある。

私は「海里」の指定席券はそのままに、券売機で新潟までの自由席特急券と乗車券を購入した。そしてホームに停まっている「いなほ10号」に乗り込んだ。指定席だけではなく青春18きっぷの「貯金」も吐き出す形になるが、このまま新潟に戻ることにした。この先ダイヤがどうなるかわからないし、安全策を取った。新しい観光列車に乗れないのは残念だが、冬の日本海の景色は往路で十分見たし、新しい列車ならこの先乗る機会もあるだろう(これが廃止間際の列車だったらまた違った判断をしたかもしれないが)。

「いなほ10号」は15時30分、1時間の遅れで出発。鶴岡である程度乗車があり、やれやれという感じで乗り込んで来る。そのまま日本海に向かうので、少しずつ暗くなる中、窓越しに目を凝らして景色を眺める。途中で若干の徐行もあったが、そのまま約1時間遅れを状態で走り、新潟に到着した。

なおこれは後で知った情報だが、この夜、羽越線の下り三瀬~鶴岡間が運転見合わせとあった。これは強風の影響ではなく羽前水沢での信号点検のためだそうだが、結局運転再開は元日の朝までかかったようだ。結果論だが早めに新潟に戻ってよかったと思う。

さてこれから新潟での年越しである・・・。

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国鉄型気動車と大晦日の強風

2020年01月10日 | 旅行記B・東北

村上駅でホームの先に停まっていた気動車を見て心の中でうなる・・・何やら怪しげな行いだが、今回の巡り合わせは年の最後にラッキーなことだと感じた。

新潟地区では国鉄型車両の置き換えが進められていて、かつての鉄道旅行では当たり前に乗っていた車両も少しずつ減っている。特急型の485系の改造で最後まで残っていた「きらきらうえつ」は2019年秋に引退したし、115系が限られた運用となったこともこの旅の記事で触れている。

そこにもう一つ、キハ47、48という気動車が加わる。JR東日本でも置き換えが進められていて、新潟地区については2019年度中に全面的に引退するという。JR東日本の非電化ローカル線で主力の110系に加えて、ハイブリッド型の車両が増車される。まあ、快適性は向上するから地元の人には良いニュースだろう。

そのキハもすでに車両を減らし、運用も限られるから今回出会えるかどうかだったが、まさかここで目にするとは。しかも4両編成。青春18の乗り継ぎ客を当て込んだか、あるいは酒田に着いてから切り離して運用するのかもしれない。

後ろ(新潟寄り)2両はキハ48、47の国鉄急行色。国鉄時代はこの色が使われることはなかったのだがかつての風情を出している。また前2両はキハ47の新潟色。青バージョンと赤バージョンである。さまざまな色の組み合わせ4両は、引退前の大盤振る舞いのように見える。わたしの場合は、SLよりもこうした気動車のほうに懐かしさを感じ、それを惜しむ気持ちも強い。

4両のうち、かつての急行色のキハ48に乗る。寒地仕様でデッキがあるのが急行の姿に近い。

酒田までは2時間少し。発車まで時間があるのでいったん改札を出て、売店で飲み物を仕入れる。アテは村上名産の鮭の酒ひたしである。日本海を眺めつつの一献、これこそ「飲み鉄本線日本海」なり・・・。

先ほどから雨が続く。窓に水滴がつくがそれは仕方がない。鮭の遡上で知られる三面川を渡りしばらくすると日本海に出る。前々日、前日とは明らかに迫力が違う白波が押し寄せる。これが冬本来の?日本海の表情と言えるだろう。

この先しばらくは海を間近に、小さな港と岩場が繰り返される。風光明媚なところはたいてい険しい地形なので列車はトンネルに入ることが多いのだが、昔懐かしい気動車の旅を存分に楽しめる。当初は、新潟から酒田行きの「海里」に乗りたかったのだが満席だった。ただこうした鈍行プランにして、現地では実に満足である。

もっとも、外は押し寄せると沿岸の岩がすっぽり洗われるほどの波である。風も強い。駅に停まって発車するまでの間、風のために車両が揺れるくらいだ。そのため、風の確認として一時停止するところもあった。

鼠ヶ関で新潟県から山形県に入り、あつみ温泉に着く。車掌が何やら連絡を取っている。その後の案内で、強風のため羽前水沢までの間は徐行運転で行くとあった。先ほど村上までの列車の中で、羽越線強風のため「いなほ1号」が酒田~秋田間で運転取り止めになったという情報に触れたが、それをきっかけに他の特急にも遅れや運休の影響が広がりつつあるようだ。羽越線は単線と複線が入り交じる路線のために、これからも上り下り合わせての影響も広がりそうである。この先どうなるかだが、ならばどうなるのかの成り行きをじっくり見てやろうという気になる。別に酒田に急いで着かなければならないものではない。

あつみ温泉を出ると徐行運転になる。期せずして、列車の中から日本海をよりじっくり眺める機会となった。駅に着くたび時刻表と見比べると遅れが10分、20分と少しずつ広がる。こうなると全体のダイヤにも影響が出るわけで、さすがに新潟への帰りも少し気がかりになる。

その日本海とは三瀬でお別れして、庄内平野に入る。次の羽前水沢に着くと、速度を通常に戻すとの案内がある。ここまでで32分の遅れである。なお羽前水沢はJRコンテナが何基も置かれている。かつては近くの化学工場の専用線と貨物駅があったが、現在はトラックを使ったオフレールステーションである。

冬の田んぼは白鳥の越冬地。あちこちで数羽~数十羽単位で羽を休めている。

羽前大山で、私の後ろのボックスシートに座っていた家族連れが降りる。クラゲの展示で最近知名度が上がっている加茂水族館に向かうようだ。当初は鶴岡で降りるようだったが、水族館までの距離だと鶴岡よりも羽前大山が近いとして降りた。ただいずれの駅からも歩いて行ける距離ではない。「タクシーくらいあるだろう」と話していたが、果たしてどうだろうか。

鶴岡から広い庄内平野を酒田に向かうが、余目からまた徐行となる。この先最上川を渡るのだが、2005年12月に特急列車の脱線事故が起きたところだ。当時は荒天で雪や雨も激しかったところに、局地的な突風が発生して列車が弾き飛ばされた。それだけに強風時の列車運転についてはシビアになっている区間だ。幸い、徐行にて最上川を渡ることができた。

結局40分あまり遅れとなり、終点の酒田に到着した。改札口付近では、秋田、新潟両方面に向かう客がこの後の列車の運転がどうなるか、駅員にいろいろ問いかけている。私が帰りに乗る予定の「海里」も、定刻なら先ほどの普通列車の数分後に酒田に着くはずだが来る様子もない。「海里」の発車は16時なので時間はあるが、ダイヤはどうなっているか。

駅前には数台の観光バスが停まっている。秋田までの代行運転用だ。ただ、先ほどの駅構内もそうだったがさほど混乱した様子はない。

いずれにしても時間はあるから、町の中心の観光スポットまで歩いてみることにする。キャリーバッグをコインロッカーに入れて、強風の駅前に出る・・・。
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旅の終わりは三陸自動車道と、再びの新幹線乗り継ぎ

2019年09月25日 | 旅行記B・東北

長かった宇都宮~三陸~岩泉の旅もそろそろ終わりに差し掛かる。一つの旅行記の記事でブログを1ヶ月以上引っ張ったのも初めてのことで、相変わらずの長い記事でうんざりしている方もいらっしゃるだろうが、それだけ印象に残る旅だった。この1ヶ月以上の間で世の中もさまざまな動きがあったわけだが、それはまた(逆にネタがない時にでも)書くことにする。

さて、最終日8月17日は岩泉にて龍泉洞の見物と、移動を兼ねてかつての岩泉線跡に沿って走り、昼前の時刻で茂市を出発した。すぐに国道106号線に出る。閉伊川に沿って走る。

市街地に入る手前の宮古根市インターから三陸自動車道に入る。この自動車道は部分的に少しずつ工事が進められたものであり、現在は気仙沼市の一部区間を除けば仙台港北インターから自動車専用道路で宮古まで結ばれている。その長さは約230キロ。松島以北は無料区間という位置づけである。宮古から北も順次工事が進んでいて、それらを合わせると2020年度末までに仙台から三陸側を経由して八戸にいたる道路網が完成する。なお三陸自動車道というのはこれらを合わせた総称で、細かくは「◯◯バイパス」とか「△△道路」とかいう呼び方である。

ほとんどの区間が片側1車線ずつ。地方によくある自動車道のこの構造だが、高スピードで駆け抜けようとあおってくるのが必ずいるのであまり好きではない。まあそこは需要と供給もあるし、費用面のこともあるのだろう。まずは片側1車線ずつの道路でもいいから、震災復興の後押しになるようネットワークを作るということが重要なのだろう。

前日に国道45号線の下道で少しずつ走ってきたところだが、自動車道となるとそれらをスムーズにかわして行く。特に渋滞することもなく山田町、大槌町、釜石市と南下する。国道45号線より内陸や高台に建設されたところが多く、インターチェンジが町並みから離れているところも多い。釜石の中心部もこの日の時間次第では回ることもできたかもしれないが、先の記事にもあるようにレンタカーの返却時間というのがある。またの機会に委ねるとする。

三陸自動車道は走りやすい道路だが、高速道路のように決まった間隔でサービスエリアやパーキングエリアがあるわけではない。そんな中、休憩ポイントとなるのは大船渡市に入って一度インターチェンジを出た45号線沿いにある道の駅「さんりく」。前日、三陸駅前の「ど根性ポプラ」に立ち寄る前に通っている。 こちらで「浜どこラーメン」という海鮮ラーメンと、単品の焼きホタテをいただく。

後はひたすら南下である。陸前高田では移転住宅の向こうに「奇跡の一本松」も見渡せるが、全体的に国道45号線と比べれば景色を楽しめるポイントは少ない。まあ、高速道路、自動車専用道というのはそのようなものだろうが。 自動車道は気仙沼市街に入る手前で一度途切れる。ここでしばらく渋滞に入る。

本吉から再び自動車道で、後はそのまま走る。時間からしてこのまま有料区間も利用しないと返却が間に合わない。幸い車線も増えてクルマの流れもより順調になったので、少しだけスピードを上げる。結構無茶したかもしれない。そのおかげかどうか、16時ちょうど、仙台駅前のオリックスレンタカーに到着した。車両確認を終えて無事返却である。

さてこれから新幹線乗り継ぎで大阪に戻る。大阪に深夜到着する時刻から逆算して、仙台17時43分発の「やまびこ154号」の指定席を取っている。あれ、レンタカーの返却は16時だったではないか。列車がそれなら17時返却でも間に合ったのではないか。

そこは、万が一大渋滞に巻き込まれてしまったら、ということで余裕を持たせたわけだが、仮にスムーズに、ともすれば早めの返却で時間が空いた場合は、仙台の味でも楽しもうかと思っていた。仙台も大きな街、昼飲みの大衆酒場くらいあるだろう。

ただ実際に16時にレンタカーを返却して、荷物を抱えて駅に向かううちに、もうこのまま帰ろうという気になった。やはり荷物が多いのと、疲れもあって早く大阪に戻ったほうがよさそうだ。残された休暇は翌日の18日まで。手持ちの指定席を先行列車に変えようとしたが、Uターンラッシュの最中で軒並み満席である。しかし東北新幹線は仙台始発の「やまびこ」も結構出ていて、並べば自由席に座れるのではないかと思う。

そのままホームに上がると、列車待ちの列はできているものの、数えれば2人席の窓側でも確保できそうだ。16時34分発「やまびこ148号」である。 仙台を発車したところで缶ビールの栓を開ける。あては夕食前に「ほや水明」と牛たんの燻製。これで十分だ。

福島で「つばさ148号」を後部につなぐ。そろそろ日が傾く頃である。仙台発車時点では自由席も結構空席があったが、むしろ福島、郡山、宇都宮と停まるごとに乗客が増える。

関東平野に日が落ちる。またこれらの地も訪ねたいなと思ううちに、列車の到着も近づく。18時36分、東京着。

東京駅はこの時間でもごった返している。駅弁コーナーでは売り切れの商品も多い中で弁当の取り合いになっている。予定より早く着いたので、この後に乗る予定ののぞみの指定席も早い時間に変更しよう。券売機では19時10分発「のぞみ125号」広島行きにこのタイミングでE席に空席がある。誰かが直前で変更したのだろう。これで着席して予定より1時間早く帰宅できる。駅弁もいろいろあるが、帰宅のお供に久しぶりに崎陽軒のシウマイ弁当を手にする。後はこれで2時間半は快適に・・・。

長かった旅も無事に戻ることができた。

久しぶりの東北被災地訪問の旅では、復興が進んだところ、途半ばのところ、ほとんど手つかずのところ、さまざまあった。もっとも、訪ねているのが仙台より北のところばかりで、仙台から南、さらに福島県には行っていない。また、訪ねたことがあるエリアでも、震災関連で訪ねていない、知らないスポットもたくさんあるし、今回まわってみてもこれで震災について理解した、学べたと言えるのか、言っていいのか。そうしたモヤモヤは消えていないし、却って高まってしまったのではないかと思う。

旅行記の中で、わかったような口を数々ほざいているが、地元の方々からみれば上っ面だけで実は何もわかっていないということになるのだろうか。

「復興」の定義って、いったい何なのだろうか、改めて考えることになる旅だった・・・。

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岩泉線廃線跡を行く~夏草の線路たち

2019年09月24日 | 旅行記B・東北

岩泉駅跡から国道455号線を走る。線路の路盤跡の行方を気にしながら走るうち、右手にちょっとした空間が見え、「二升石駅待合室」の看板がかかる小屋が見えた。

その敷地の中に入る。野菜の無人販売所があり、その奥の築堤を上がったところにホームと線路が見える。

近づくとホームの足場の向こうに線路や路盤もしっかり残っているのが見える。ここは岩泉の隣の二升石(にしょういし)で、岩泉までの開業時にできた駅である。二升石とは変わった名前だなと思うと、この辺りの旧家の庭園に米が2升入るくらいの大きな窪みがある石があったからとか、小本川に屏風二双ほどの大きさの石があったからとか言われている。

こんな感じで進んでいくのかなと再び走るうち、国道455号線と国道340号線の分岐点に差し掛かる。整理すると、国道455号線は盛岡から岩泉を経て小本まで、一方国道340号線は陸前高田から遠野、茂市、岩泉、九戸などを通り八戸まで続く。岩手県の真ん中を455号線は横に、340号線は縦に走りちょうどクロス(一部重複区間あり)している。これから走るのは340号線だが、心なしか急に道が細くなる。これは「酷道」と書くほうの国道かな。まあ、この道の整備が不十分だったから岩泉線の寿命が延びたようなものだが。

浅内(あさない)駅跡はちょっとした集落の中にある。岩泉線が岩泉まで延びる前はここが終着駅だった。かつては貨物も取り扱う駅だった。駅舎が残っているが中は資材置き場になっているようで入ることはできない。またかつては構内だったところも今はどこかの現場事務所のようで、資材が置かれていたりスーパーハウスが並んでいる。

そんな中で残るのは給水塔。蒸気機関車が走っていた当時のものだと思うが、今はカラスの寝床になっているのか、てっぺんには黒い姿も見える。

この駅は見ておきたかった。11年前に岩泉線に乗った時、浅内駅にて駅舎の向こうに私の勤務先企業の社名が入った建物を見ている。まさかこんなところにウチの営業所があるのか?・・とその時はそのまま列車で過ぎ去ったが、その後調べてみても浅内に営業所が現存するということはなかった。

そして今、その建物の前に経っているがもちろん現役ではなく、中は物置のようで雑然としている。浅内駅はかつて貨物も取り扱っていた駅で、貨物列車ではこの辺りで産出される木材や、変わったものでは牛も運んでいたことがあったという。それを踏まえるとこの営業所はそうした貨物関連の担当だったのかな。今この建物や土地の所有者が誰なのかわからないが(まさか勤務先企業のままということはないだろうな・・)、看板の字体はもはや遺跡である。これはこれで残しておきたいなと個人的には思う。

この先も線路が並走する。ところどころでは線路を砂利で埋めてしまってクルマが通れるようにしたところもあるが、相変わらず橋脚も残っている。次の岩手大川駅は国道340号線から少し離れるが、そこまでわざわざ追いかけることもないかなとそのまま国道を走る。

この先が押角峠で、岩泉線の難色区間である。ちょうど行政区画も岩泉町から宮古市に変わる区間で、2010年の列車事故があったのもこの区間である。国道も急なカーブが続く。

これが先ほど触れたように岩泉線が存続していた理由だったのだが、今は逆に岩泉線のトンネル、線路を転用する形で新たな国道340号線と押角トンネルの建設が進められている。確かに、列車が走ることができるだけの勾配で造られているしトンネルは先に掘られているということで転用は容易だったのだろう。津波被災区間のBRT転換にもヒントを得たのだろうか。

下り坂となり、この先に「秘境駅」として知られていた押角駅があるはず・・と走らせると右側に標識がある。ミラーを見ると「押角駅」という道路標識がまだ残っており、クルマをいったん停める。

元々が「秘境駅」の中でも上位にランクされていたくらいだから周りに人家などなく、また2016年の台風10号ではかつての駅跡に続く橋も流されたそうで、今や立ち入ることはできない。それでも国道から続く道が広場になっていて、スーパーハウスが建っている。押角トンネル、国道340号線の工事に携わる業者の現場事務所のようだ。それはいいとして、2014年に廃止になった駅への案内標識がまだ残っているのはどうだろうか。ここまで来ると、岩泉線の廃線跡めぐりというのが地元の一つの名所になっていて、それの案内も兼ねてわざとそのまま残しているのかなと思ってしまう。特に押角の場合はこれしか目印になるようなものがなさそうだし。

坂を下ると集落が開けてきた。建設中の押角トンネルとつながるためか国道の道幅も広くなった。そんな中やってきたのが岩手和井内駅。比較的新しい待合室タイプの駅舎とホームが残されている。2014年(平成26年)4月1日からJR岩泉線に変わって東日本交通の路線バス岩泉茂市戦が運行開始するという当時のポスターが貼られている。このバスは茂市から岩泉(現在の終点は岩泉病院)まで朝、夕、夜の合計3.5往復、1時間40分で結んでいる。列車の時と本数が変わらないうえ、所要時間が鉄道で約1時間だったのが結構延びたように見えるが、岩泉町内では町営バスと共用する形でバス停を増やしたり、おそらくお年寄りの利用があるだろう病院まで行くようにしたのがせめてもの利便性向上だろう。

この岩手和井内駅跡から次の中里駅までは「レールバイク」の乗車体験ができる。鉄道の線路を自転車の2人乗り・4人乗りタイプのレールバイクで走るものだ。そのため、この両駅間が現在でももっとも現役当時の姿を残しているといってもいい。本物のレールの上を走るとはちょっとした運転手気分だろう。

しばらく走ると中里駅に着く。現役当時はホーム1本だけの簡易な駅だったところ。

どうやら線路とはこの中里駅を最後にお別れのようである。国道340号線から脇道に出て茂市駅前の集落に入る。岩泉駅を出たのが10時前で、時刻は11時30分。ちょこちょこ立ち寄りを挟んだらこんなものだろう。

最後に、こちらは現役のJR山田線の茂市駅をのぞいてみる。現役といっても現在この駅を発車する列車は、宮古方面が快速を含めて1日8本、盛岡方面にいたっては1日6本しかない。おまけに、盛岡方面行きのうち2本は途中の川内までしか行かない。そんな中での11時30分、駅には誰もいない。

ホームに入ってみる。跨線橋の登り口には板が打ち付けられている。今年の8月5日から使用停止となり、列車が発着する向かいのホームには踏切を渡るようにとある。老朽化しているのだろうか。

駅前の観光案内図には今でも岩泉線が描かれている。観光名所といってもキャンプ場や歌碑めぐりのようなところが多いが、いずれも岩泉線の駅から何キロという表記である。超ローカル線とはいえ何とか利用してもらおうというせめてものPRだったのだろう。地元の人に訊いたわけでもないので何とも言えないが、やはりどこかで岩泉線を惜しむ気持ちというのは地域として今もあると思う。あらかじめ何日付で廃止になると決まっていたわけではなく、事故が原因で寿命が切られたようなものだから余計に心残りというのがあるのかもしれない。津波で被災したことで鉄道は廃止となり、BRTで引き継がれたというのともまた違うし。

これで今回の旅での見物、見学するところはおしまい。後は16時までに仙台駅前に戻るということで残り時間は4時間半。間で昼食も挟むし、果たして間に合うかどうか・・・?

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岩泉線廃線跡を行く~波乱短命のローカル線

2019年09月23日 | 旅行記B・東北

私が岩泉線に唯一乗車したのは2008年の9月の連休の時である。当時は東京勤務で、利用したのはJR東日本の「岩手・三陸フリーきっぷ」というものだった。東北新幹線の東京から岩手県内の新幹線駅までの往復と、岩手県内のJR在来線、三陸鉄道、IGRいわて銀河鉄道の乗り放題がセットになったものだ。JRで未乗車区間だった山田線の釜石~宮古(震災復旧後の現在は三陸鉄道に移管)、そして岩泉線に乗車して本州のJR全線の乗りつぶしを達成した。その時の終着駅が岩泉だった。

当時書いたブログ記事で振り返ると、東北新幹線で新花巻まで来て釜石線に乗車。その後釜石から宮古を経由して茂市まで来て、夕方の列車で岩泉にやって来た。ただ今回のように龍泉洞を見ることもなく、また町並みを見ることもなく、折り返しの列車で岩泉を後にした。要は乗りに来ただけである。

さらに記事を進めると、その夜は宮古に宿泊し、翌日は浄土ヶ浜を見物している。その時の書き込みでは浄土ヶ浜の後は三陸鉄道で島越まで出て北山崎めぐりの遊覧船に乗り、臨時快速「さんりくトレイン北山崎」で盛岡に出て新幹線で帰京・・・とある。あら、北山崎を見るのは今回が初めてだと先の記事で書いたが、陸地の展望台から見るのは初めてとして過去に海からは見物していたのか。そういれば特別な車両に乗った記憶もかすかにあるようだが、何せその時の旅行記は浄土ヶ浜で終わり、続きは別の記事(野球関連)なのである。

旅の思い出を書き残しておこう、それもネット上で・・ということで13年前に今の形のブログを始めたのだが、旅行記が旅の途中で終わっているのはどういうことだろうか。今のように細かなところまでは書かないにしても、日本観光の「特A級」の名所を見たのなら何がしか書いているだろうし、特別な列車に乗ったならそれじたいで1つの記事にすることもできる。それがないというのは、当時はなるべくリアルタイムで書きたくて東京に戻った後観戦した野球を優先させたか、あるいはその旅の残りの行程がそれほどのものでもなかったのか、今となってはよくわからない。写真データを引っ張り出して来れば思い出すこともあるだろうが・・・。

この画像は、その時の岩泉駅のホームと列車である。

ついでに当時の他の画像データを見てみると、浄土ヶ浜を散策してさんま祭りで昼食をいただいた後は、宮古からいきなり「さんりくトレイン北山崎」に乗って、そのまま久慈まで展望車両で乗りとおしている。途中雨の景色も出ているから北山崎めぐりの遊覧船が欠航となったか、あるいは私の気が変わってそのまま乗りとおしたか。そして久慈まで行き、三陸鉄道の普通列車で宮古に戻り、そのまま山田線で盛岡に出ている。今のように何でもかんでも撮影していたわけではなく少ない写真からの推測だが、運転席前方の景色も何枚か写っていることから、ひょっとしたら席にありつけずに運転台横に立って過ごしたものと思われる。何や、この時に三陸鉄道にも乗っていたのか。

話を戻す。

岩泉線は小本川で採掘される耐火粘土の輸送のために山田線の茂市から建設された。その後、地元の建設運動により、町の中心である岩泉を経て小本(現在の三陸鉄道の岩泉小本)までつなぐ路線として計画された。

その後1972年に岩泉まで開業したが、その後は国鉄の赤字ローカル線問題の影響もあり、小本まで開通するどころか岩泉線そのものの廃止、バス転換が取りざたされる。しかし地元の存続運動により、並行する国道340号線がバスが運行できるほど整備されていないとして廃止は見送りとなった。全国で多くの路線が廃止となる中で何とかJR東日本に引き継がれた。

ただその後も岩泉線の利用者数は減少の一途をたどり、またバスも国道340号線を走らずとも直接盛岡や、小本から三陸鉄道に乗り継ぐ形で宮古まで結ぶ便などができて、地元にとっての利用価値はなくなった。最後のほうは1日3往復で、乗っている人といえば地元の人より鉄道ファンのほうが多いほどだと言われていた(私が乗った時もそんな感じだったと思う)。

そんな中で、2010年7月に発生した土砂崩れに列車が乗り上げる脱線事故である。それから長期の運休となるのだが、JRは岩泉線の復旧を断念。並行する国道340号線の改良にJRや岩手県が協力する話も出たことから、地元も廃止に同意した。結局、2014年4月に廃止となったが事故以来列車が運行されることがなかったため、いわゆる「葬式鉄」が列車を見送るとか、お別れのセレモニーが開かられることもなかった。岩泉まで開業してから廃止まで42年というのは短い歴史だったように思う。

こういう言い方は失礼と思うが、事故に遭った列車に乗っていた乗客は7名で、いずれも県外からの「乗り鉄」と推測されるそうだ。このうち3名が軽傷を負い病院で手当てを受けたが、結果的に岩泉線の負傷した人も時間が経てば「名誉の負傷」に変わったかもしれない。

さて、現在の岩泉駅である。この日は土曜日だからか商工会もお休みのようで駅舎には鍵がかかっている。前日のぞいていてよかった。

その代わりちょっと失礼して建物の裏にあるホーム跡に出る。駅名標も何もなく、線路跡には草が茂っていて線路があるのかないのかすらはっきりしない。ただホームから改札口に続く緩い階段は残っている。

また、改札口上には「歓迎 ようこそ岩泉へ」の横長の看板が掲げられている。この思いだけは線路がなくなっても変わることはないようだ。

さてここから国道455号線を小本川に沿って走る。早速、川を渡るコンクリートの橋脚が見える。脇道があるのでそちらに入り、橋脚のたもとに着く。銘板があるので見てみる。

「第8小本川橋りょう」とあり、設計は日本鉄道建設公団、「施行」は竹中土木とある。また昭和44年7月に着手、同年12月に「しゅん功」となっている。それぞれ「施工」、「竣工」ではないのかと思うが、まあ昭和のことだし、国鉄(役所)の仕事、またゼネコンの業界用語としてこういう標記で合っているのだろう。1972年に造られた橋なら現在でも普通に供用できるくらいの強度はあるだろう。ただ廃止されてから5年が経っているがそのまま残っているのは、解体するのがもったいなくて何かに利用しようと思っているのか、単にカネがないからなのか・・。

これから岩泉線の線路をいろいろ見ながら、茂市まで南下して行く・・・。

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龍泉洞見物

2019年09月22日 | 旅行記B・東北

8月17日、旅の最終日である。台風10号は前日夜に北海道の西で温帯低気圧に変わった。その影響かこの日は岩手県でも30度超え、35度近くまで気温が上がるのではないかとの予報である。

ただ天気はよい。これなら前日悪天候だった北山崎や黒崎灯台、またその手前にあり前日閉館時間を過ぎていた田野畑村の資料館に行ってもいいように思えた。しかしせっかく来たのだから龍泉洞には行きたいし、その後に行くとしたら時間が足りない。もう、行程だから仕方がない。

ゆっくり起床して朝食である。旅館の和定食ということで美味しくいただく。

龍泉洞へはホテルからクルマで5分ほどで行くことができる。見学が8時半からということでそれに合わせての出発である。観覧料は大人1000円だが、ホテルのフロントでは宿泊者向けに団体割引料金の観覧券があり、750円で購入できる。地元のシンボルとも言えるスポットだけにPRも兼ねているのだろう。

龍泉洞に向かう前に、前日暗くなってからのぞいた町並みに立ち寄る。町を包むようにそびえる山は宇霊羅山。「ウレイラ」とはアイヌ語で「霧のかかる峰」という意味だそうだ。龍泉洞はこの山の地下に広がっている。

また町並みにも昔ながらの建物や、龍泉洞の水が湧き出るスポットもある。ちょっとぶらつくにはいい感じのところである。前日もう少し早く来ていればこうしたところもいろいろ見ることができただろう。

町を離れ、山道を走って龍泉洞の駐車場に着く。まだ営業時間が始まったばかりだが大勢の観光客の姿が見える。やはりそれだけ名勝地ということだ。龍泉洞の名前にちなんだ龍の彫刻を見た後で、洞内に入る。洞内の気温は年間を通して10~11度という。外がすでに30度を超えようかという気温だけにより涼しく感じられる。

龍泉洞は現在確認されているだけで長さが3600メートルあり、このうちの700メートルが観光ルートとして公開されている。しかし現在も洞内の調査は続けられており、全長は5000メートル以上あるのではないかと推測されている。

洞内にはコウモリも生息していて、その巣穴もあるそうだ。コウモリにもさまざまな種類があり、龍泉洞では5種類が生息しているという。あまり見たいとは思わないが、コウモリのほうも観光客の前には姿は見せないようだ。

長い歴史の中でさまざまな形の岩がつくられている。亀に似たものや観音像、ビーナス像を彷彿とさせるものもある。観音像には賽銭箱があり、ビーナス像はわざわざ「洞穴ビーナス」とタイトルがつけられた額縁がある。こうした案内板があるからそう見えるのだが、何もない状態で岩の名前をつけることができるセンスというのはすばらしいと思う。

そして龍泉洞で特に見どころといえる地底湖に出る。現在は第三地底湖まで公開されているが、その奥には非公開の第四地底湖があり、さらにはまだ調査・解明されていない地底湖が複数あるとされている。この辺りの深い森林から集まったのが龍泉洞の地底湖であるが、照明の効果もあった神秘的なブルーに輝いている。底が見えそうで見えない。特に第三地底湖は水深が100メートル近くあるという。こういう地底湖では生物が棲むことはできるのだろうか(プランクトンくらいはいるだろうが)。

龍泉洞は、東日本大震災の時は地底が揺れたことで沈殿物が浮き上がり、透明度が一時的に失われたものの洞内に特段の影響はなく、1ヶ月半後には営業を再開した。しかし2016年の台風10号では地底湖の水が増水し、洞穴の入口から大量の水が流れ出て、洞内の照明灯も破損した。このため半年ほど休業となった。台風10号は岩泉に大きな被害を与えたと前の記事でも触れたが、こういうところにも影響していたとは。

ここで折り返しとなり、一気に階段を上がって出口に向かう。途中には洞内の冷気を利用したワインセラーが設けられている。そういえば前日の夕食の食前酒でこのブドウ酒があったような。

いったん外に出る。先ほどからそれほど時間は経っていないが余計に暑く感じる。川と県道を渡った向かい側にある龍泉新洞科学館に向かう。県道の拡張工事の時に見つかったそうで、鍾乳洞がよく発達していて学術的に貴重なことからそのまま科学館にしたものである。道路を拡張したら鍾乳洞が出て来たとは、地面を掘ったら遺跡や土器が出てくるというどこかの町とよく似た話である。

先ほどの龍泉洞は観光スポットということで洞内の撮影も自由だったが、こちらは科学館というためか内部の撮影は不可。そのため画像はないが、鍾乳洞が形成される現在進行形を見ることができる。下からタケノコのように伸びる石筍と、上からつらら状に垂れ下がる石が長い年月をかけてつながると石柱となるが、その途中の様子も見られる。さらに、人類の祖先が洞穴に住みついて原始生活を営んだ痕跡も残されている。土器や石器も出て来たし、食用の動物の骨も見つかったとある。さらには洞窟に描いたという壁画の痕跡も見られる。

特に自然科学、地学に興味のある人には面白く感じられるところだが、先ほどの龍泉洞とセットの観覧料であるにもかかわらず、科学館に入ってくる人はほとんどいなかった。

売店に立ち寄る。龍泉洞のミネラルウォーターやビール、地酒も並ぶ。もちろんビールを飲むことはできないので運転のお供にミネラルウォーターと、持ち帰り用として地酒「龍泉八重桜」を買い求める。これで内陸の観光もすることができた。

さてここからは仙台に向けての折り返しである。普通にカーナビでルート検索すると盛岡まで出て東北自動車道を通るルートが推奨される。盛岡まで出るのも時間がかかりそうだが、まあそうなのだろう。距離で見れば前日のルートを戻る形で国道45号線まで出て、並走する三陸自動車道を走ることになる。ただそこはあえて、岩泉に泊まった理由でもある岩泉線の廃線跡に沿っていったん茂市に出ることにする。距レンタカーの返却はこの日の16時ということにしているが、カーナビで時刻検索をするとそれをオーバーする。まあ、実際三陸自動車道は開通しているがカーナビが未対応だったり、あとは長い距離なのでスムーズに走れば時間を巻くこともできるかと思う。

町の中心部に戻り、岩泉駅跡にクルマを走らせる・・・。

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岩泉にて

2019年09月21日 | 旅行記B・東北

8月16日、今回の旅の最後の宿泊となる岩泉の「ホテル龍泉洞愛山」にチェックインする。1979年に開業というからちょうど40年である。建物は年季が入っているようだが、岩泉、龍泉洞観光の玄関口としての歴史がありそうだ。

部屋は8畳一間。今回の旅で唯一の和室ということで、洋室のホテルの椅子とテーブルと違う形でくつろげそうだ。部屋の窓からは周囲の山々を見ることができる。これまで津波の被災地ということで海べりをずっと回っていただけに、こうした山あいの町に泊まるのは旅の幅が広がって一層面白い。

食事の前に入浴とする。大浴場には「炭の湯」という名前がついている。温泉かと思ったが厳密には温泉ではなく沸かしたものである。ただ、その元の水は翌日訪ねる龍泉洞と同じ源泉の水で、石灰岩の地質を流れることで温泉のような水質に変わるそうだ。さらにその水を地元の木炭や玉川温泉のラジウム鉱石を通すことで柔らかく滑らかな湯の感触を楽しめるとある。ちょうど他の入浴客と入れ替わる形だったのでしばし浴槽を一人占めする。

ロビーで面白いものを目にする。「もう一つの岩泉線プロジェクト」と題して、ホテルの中に岩泉線全線を模したNゲージのレイアウトがある。壁伝いにずっと敷かれていて、山田線と接続する起点の茂市から各駅を伝って、終点の岩泉まで敷かれている。それぞれの駅や周囲の特徴も再現されているそうで、「秘境駅」として有名だった押角も奥のほうにあり、終点の岩泉の近くにはこのホテルも建っている。かつての走行風景の写真も飾られていて、当時をしのぶことができる。

岩泉線は波乱に富んだ歴史を送ったように思う。その詳細はまた後の記事で触れようと思うが、2014年に廃止となった。世間の一部には他の路線とごっちゃになって「東日本大震災の影響で廃止になった」と思っている人もいるようだが、岩泉線はまた別だ。震災前の2010年、押角~陸中大川間で土砂崩れがあり、そこに気動車が乗り上げる事故が発生した。結局そこからの復旧をあきらめる形で廃止となった。路線の廃止といえば、それを聞きつけた大勢のファンが殺到するとか、お別れ列車が走ることもあるのだが、岩泉線に関しては土砂崩れ→そのまま廃止という残酷な終わりとなった。この「もう一つの岩泉線」というプロジェクトも、現実的にはもう廃止確実だろうなという中で、それでも何らかの形で後世に伝えられないかという思いである。

先ほどのブルートレインと岩泉線の模型レイアウトで鉄道気分になったところで夕食である。パーティーにも使える広間にテーブルが並び、部屋ごとの料理も揃っている。

夕食は岩手の地のものを盛り込んだ「岩泉山海御膳」。造りにはマグロやカジキが並び、ホヤの姿造りもある。メインの焼き物は岩手牛と、カサゴの塩焼き。他の料理も岩手産、三陸産を工夫して様になっている。締めは鮭の釜めし。そりゃあ、地のものを売りにした居酒屋とか郷土料理店でアラカルトで注文するのと比べれば見劣りするかもしれないが、ホテル全体でみれば満足である。このコースをもって「三陸の味覚を十分に堪能した」と言いきってもいいと思う。

食後、少し外を散歩する。時刻はまだ19時だが灯りもほとんどなく真っ暗に感じる。これでは外で夕食処を探すのも大変で、2食付きにしてよかった。その中で町の中心部を流れる小川の流れに触れたり、提灯が並ぶ昔からの商店街に触れる。いずれにしても静かなところで、こうした夜も旅先ならではである。

部屋に戻りテレビをつける。売店で購入したのは龍泉洞の水から作られた地ビール。BSを含めればナイター中継もある中、チャンネルをいろいろ変える中で見つけたのが「サンテツがゆく」というNHKの番組。金曜日の19時半~21時のNHKは地域によってはオリジナルの番組の時間帯だが、「サンテツがゆく」はこの日東北地方限定で放送された特別番組である(後に特別版が全国放送された)。

途中から観始めたのだが、三陸鉄道のイベント列車を仕立てて、千原ジュニアさんとベッキーさんが三陸を南から北へ旅するものだ。途中の駅ではイベントがあったり、車内にはガイドとして震災の語り部をしている人や、「あまちゃん」の鉄道の場面で運転手をしていた本物の運転手が登場する。震災の体験談に二人が涙ぐむシーンもあった。

番組の後半には、薬師丸ひろ子さんがこの番組の企画として島越駅で行ったミニライブの模様も流れていた。「あまちゃん」の中では大物女優役として出演したが、撮影当時、島越駅は津波被害からの再建の途中だった。今年三陸鉄道が新たに開業したお祝いということで、ここをライブの会場に選んだとのことである。前日に三陸鉄道に乗ったこともあり、見た景色も流れたのでより親しみをもって観ることができた。

今回は東日本大震災の津波被災地を中心に回ってきたのだが、ここ岩泉も「被災地」である。といっても津波ではなく、震災後の2016年のことである。恥ずかしい話だがそこまでの被害だったとは来るまで知らなかった。

2016年8月末に発生した台風10号。日本列島の西側を通るかと思いきや、途中でUターンするなどして迷走し、上陸したのは大船渡だった。東北地方の太平洋側に上陸したのは気象庁が統計を取り始めて以来初めてのことだったという。北海道のじゃがいもの収穫に大きなダメージが出て、ポテトチップスの一部の生産・発売が中止になった・・ということで記憶している方もいるのではないだろうか。

この台風が岩泉を直撃し、高齢者施設を含めて24人が犠牲となった。町のいたるところが冠水して、数日にわたって孤立した集落もあった。

それにしてもこの数年、毎年夏になるとどこかしらで豪雨や台風の大きな被害が出ている。今年もこの旅と前後して、長崎や佐賀では豪雨の被害となったし、9月に発生した台風15号では千葉県内で大規模な停電が発生し、この記事を書いている時点でもまだ全面復旧していない。毎年のように「数十年に一度の災害」が連発するものだから、一つ一つ覚えていられないくらいだ。

さて翌日17日は旅の最終日。まずは岩泉に来たのだから日本三大鍾乳洞の一つである龍泉洞に向かうことにする・・・。

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かつての終着駅・岩泉へ

2019年09月20日 | 旅行記B・東北

普代村まで来たところで国道45号線を南下して、今回の一連の「被災地復興を見る」シリーズは一区切りとなる。翌日8月17日は三陸自動車道で仙台に戻るが、おそらくこれ以上震災遺構を見る時間はないだろう。

8年半前に発生した東日本大震災。今、これをどう伝えていくかが被災地の中でも課題になっていることが感じられた。被災した建物、例えば役所や学校といった公共施設を震災遺構として保存すべきかどうかは地元でも意見が二分されている。その結果、遺構として公開したものもあれば慰霊碑のみとしたものもあるが、結局ここに出てくるのは「被災者の感情」と「カネ」のいずれかなのだなと感じた。

そんな中、この一連の記事を書く中で震災からちょうど8年半との報道に接するが、明らかに扱いは小さい。全体的には風化と取られても仕方ないようだ。津波の語り部のツアーも、一時と比べれば回数や参加者数は減っているとのことで、また町並みの復興で新たな建物や整備された宅地群を見るとそこが被災地だったと言われてもピンと来ないという話もあるそうだ。次に震災について大きく取り上げるとすれば、ちょうど10年となる2021年なのだろう。

今は映像技術も発達し、また誰もがスマホなどで動画が撮れる。動画サイトには今でも津波の映像が多くアップされている。それらに自分から進んで接する、自分から震災や津波のことを学ぼうとする人にはいいのだろうが、そうではない人のほうが圧倒的に多い。そうした人たちにどうすれば関心を持ってもらえるかは、人間の心理にも関係することで絶対的な正解はないのだろう。かくいう私も常に震災を意識しているのかと訊かれればごめんなさいと言うしかない。

再び田野畑村に入る。向かったのは田野畑村の民俗資料館。時刻は16時を少し回っているが、資料館なら17時までは開いているかと駐車場に入る。他にクルマが1台も停まっていないのが気になるが。

そして玄関に向かうと、「本日閉館」の文字。アラッと思いよく見ると、16時で受付終了とある。他に見学者もいないからさっさと戸締まりもしてしまったのだろう。時間を読み違えた。ドアの向こうに「三閉伊一揆」と書かれた幟があるのだが、「本日閉館」を前にして一緒に討ち死にしてしまったようにも見える。

なぜ残念がるかということだが、江戸時代にこの一帯で起きた「三閉伊一揆」に関する展示がある。

江戸時代後期、ちょうど日本沿岸に外国船が相次いで姿を見せる頃である。ロシアのラクスマンの来航を機に、幕府は盛岡藩に北方の警備を命じた。これにともない盛岡藩は石高を増やされたが、実際の土地が増えたわけでもなく、一方で軍備だけは石高相当の負担となったために、財政が一層苦しくなった。

その中で石高のベースである稲作を強行したが、三陸沖の海霧から生まれた「やませ」が吹き寄せる。今のように寒さに強い品種のコメはないので、例年凶作となる。コメの不作をカバーするために領内に重税を課したため、民衆の不満が高まる。その結果の一揆である。民衆はさまざまな要求をしたが、その中で藩の枠を飛び越えて仙台藩に訴えたものもあったという。三閉伊の民衆を盛岡藩から仙台藩、もしくは幕府の天領に編入してほしいという内容だったとか。

一揆の結果、盛岡藩が頭を下げ、家臣たちにも罰を与える形で収束するのだが、お決まりというか、一揆の主導者は最後は捕らえられて処刑、あるいは獄死する。資料館の一角には一揆の英雄を称える像が建っている。

なぜ一揆についてここまで触れるのかだが、三陸の「やませ」と、中央から見た「暗い歴史」である。今でこそ岩手県は日本有数のコメどころで、高い質の品種も多い。また海の幸も豊富なところとして知られているが、私の勝手なイメージとしては冷害や貧困というのがついてくる。コメが不作の時は、いや不作だろうが豊作だろうが民衆はアワやヒエを主食としていたとか、娘を東京の金持ちに売るとか、あくまで社会科の資料集の1ページで見た印象を今もそのまま引きずっている。

それだけ厳しい土地なのである。それを何とかしないかと立ち上がった民衆がいたことに思いを致すことが大切なのだろう。それにしても、資料館の時間を確認せずに思い込みで乗り込むって・・・つくづく自分をアカン奴やと責めてしまう。

国道45号線から離れて、岩泉を目指す。内陸に入ったので、津波からもいったん離れることになる。

道の駅がある。鉄道の岩泉線は廃止になったが、道の駅はあちらこちらでドライバーたちの安息の地になっている。岩泉の町中よりかなり東よりだが、ここも人気スポットだという。

道の駅とは別経営ながら、さまざまなキャビンを構えた宿泊施設がある。その中に、3両つないだブルートレインの寝台車が見える。そのヘッドマークは「日本海」。かつて大阪と青森、函館を結んでいた寝台列車である。

このブルートレインも宿泊棟として開業している。外から見ると当時のB寝台そのままの造りだ。施設「ふれあいらんど岩泉」のホームページによると、4人向い合わせの寝台1ボックス単位や、1両貸切の料金がある。また3両のうち1両はA寝台だ。

もっとも寝台では文字通り寝るだけで、食事や入浴は隣接の建物でとある。家族連れ、グループ、部活の合宿での利用に適しているそうだ。それでも鉄道ファンが一人で1両まるごと貸切にすることもあるようで、ネットにはその旅行記もちらほら出てくる。1両貸切とは鉄道ファンとしては夢のようだが、ただ走行音も振動もない寝台車で一夜を明かすとは、眠ることができるだろうか。それでも、この宿泊施設の存在を以前から知っていたら、結果論かもしれないが今回の宿泊地に加えていた可能性は高い。トレーラーハウスとの対照というのもありだったかと思う。

岩泉の町内に入る。やって来たのはかつての岩泉駅。列車が来なくなって何年も経つが駅舎は商工会か何かが入っていて現役だし、駅前のバス乗り場では三陸鉄道の岩泉小本駅行きなどが発着する。翌日はこの岩泉線跡に沿って走ることになる。

この日の宿泊は「ホテル龍泉洞愛山」。老舗の観光ホテルである・・・。

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被災地復興を見る~田野畑、北山崎、黒崎海岸

2019年09月19日 | 旅行記B・東北

台風の間接的な影響で雨が強く降る中、島越駅から北に進む。走るのは県道44号線で、「陸中海岸シーサイドライン」という旅情をそそる愛称がついている。この辺りは海の近くを通る。これがもし青空が出ていればドライブとしては気持ちの良いところだろう。またこうした海を見ていると、震災があったことが嘘のように思えてくる。普段は穏やかな海なのだろうが、地震が発生し、津波が起こると人々に牙をむいて襲い掛かってくる。

田野畑駅を過ぎてしばらく走り、海べりの民宿が建つところに入江がある。明戸海岸というところだが、ここにも震災遺構がある。雨の中だが駐車場にクルマを停めて外に出る。

明戸海岸、明戸浜は江戸時代に盛岡藩による製塩も行われたところで、震災前は広い砂浜とクロマツの防潮林があったそうだ。また周囲にはキャンプ場やマレットゴルフ場、海産物販売所などがあるレジャースポットで、1969年に防潮堤が築かれた。しかし震災ではここも約17メートルの高さの津波が押し寄せ、防潮堤を破壊してしまった。

その破壊された防潮堤をそのまま震災遺構として残している。全長378メートル、高さ9メートルあった。現在駐車場がある防潮堤からまっすぐ延びたところにコンクリートの塊が見える。

ちょうどコンクリートの塊の周囲に見学用通路があり一回りする。海中に埋められている消波ブロックも打ち上げられている。ブロックの重量は1基8トンもあるそうだが、軽々と運ばれてきたものだという。そして引き波が防潮堤のブロックを破壊し、東日本大震災の前に防潮堤の無力さをさらした形になる。

新しい防潮堤は県道44号線の路盤も兼ねて新たに建造されたものだが、これで絶対大丈夫というわけではないことは地元の人たちも承知だろう。ただ外から来た者には実感しにくい。こうしたシーサイドラインからも見える場所にかつての防潮堤の遺構を残すというのは、被害の大きさを視覚的にとらえることができる。

県道44号線を走る。再び山の中に入り、案内に従って到着したのは北山崎。先ほどの鵜の巣断崖に続いての名勝地である。これまでずっと走って震災遺構や現在の町の様子を見てきた「被災地復興を見る」もここで終わり、この先は名勝地を見るドライブモードに切り替わる。

北山崎も三陸を代表する名勝地の一つである。先ほどの鵜の巣断崖とほぼ同じ高さ200メートルのところに展望台があり、田野畑村のホームページでの紹介文によれば、北山崎は日本交通公社(JTB)の「全国観光資源評価」の「自然資源」の部で「特A級」の評価を得ているとある。特A級とは、JTBの資料によれば「わが国を代表する資源であり、世界に誇示しうるもの。日本人の誇り、日本のアイデンティティを強く示すもの。人生のうちで一度は訪れたいもの」で、他には大雪山、奥入瀬渓流、十和田湖、尾瀬、日光杉並木、富士山、黒部、立山、穂高岳、吉野山、瀬戸内海の多島群、阿蘇山、屋久島、慶良間諸島といった限られた場所しかない(世界自然遺産に認定されている知床や白神山地が入っていないというのとはどういう関連があるかは知らないが)。今挙げたところでは訪ねたことがない場所のほうが多いのだが、今回こうして北山崎に来ることができた。

駐車場にクルマを停めて遊歩道を歩く。鵜の巣断崖とは異なり土産物店や食堂、民宿もある。ちょうど同じタイミングで観光バスの団体さんと一緒に歩くが、雨がますます強くなってきた。

そしてウッドデッキの第1展望台に着く。霧と雨でかすんでいる向こうに「海のアルプス」と評される断崖が広がる。ただ海べりに来ると今度は風も強くなってきた。折りたたみ傘が役に立たない。これは台風のせいだろうか。他の観光客も立っていられないとばかりにすぐに展望台を後にした。私も早々に引き返す。本当はこの先に迫力ある第2展望台、さらに先には第3展望台があり、海べりに下りることもできる。ただこの時はとてもではないが先に行く気になれなかった。北山崎滞在はごくわずかでクルマに引き返す。

続いては黒崎海岸に向かう。当初、この夜はここにある国民宿舎を予約していたが、旅の途中で気が変わって岩泉に変更した。

せめてどんなところか訪ねてみるのだが、先ほどからの大雨と強風が続いている。もし当初のままだと、翌日の天気がどうなるかはともかくとしてチェックイン後の時間が心細かっただろう。また周りには商店も何もない。

この黒崎には灯台がある。ちょうど北緯40度線上にあり、東北では日本海側にある男鹿半島の入道埼灯台と対をなしている。この北緯40度線上を西にたどると、北京、アンカラ、マドリード、ニューヨークという主要都市がある。ヨーロッパだとギリシャ~イタリア~スペインをたどるところで、ヨーロッパというのが全体的にイメージよりも北にあるのだなということも改めてわかる。

灯台は階段を下った岸壁にあるのだが、雨のためにあとわずか行くのをためらってしまう。まあ、黒崎宿泊を途中でキャンセルしたからこうなったのかなと思う。手前の「恋人の聖地」の写真だけ撮って、そのまま後にする。

県道44号線はまた高さを下げて普代村の中心にさしかかる。そのまま走り抜け、国道45号線に合流して普代駅に着く。

ここまで来て雨はピタリと止んだのは、やはり上記の理由だろう。 この日のドライブでは朝の時点ではこの先の十府ヶ浦海岸や陸中野田を経て久慈まで行けるかなとも思ったが、それは見通しが甘かった(ここまででもだいぶ無茶をして、途中の観光スポット、震災遺構もかなり割愛することになった)。岩泉に行く時間を考えれば普代で方向転換するのが限度のようだ・・・。

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被災地復興を見る~島越、鵜の巣断崖

2019年09月18日 | 旅行記B・東北

国道45号線をベースに北上する今回の旅。道端の標識で仙台からの距離が300キロを指している。乗り始めたレンタカー店は起点から少しずれているし、途中45号線を外れて走行したところもあるので完全に沿っているわけではないが、遠くまで来たものだと思う。

この次の目的地は田野畑村の島越駅だが、その前に被災地めぐりからいったん離れて鵜の巣断崖に立ち寄ることにする。宮脇俊三の初期の紀行文『汽車旅12ヵ月』でスリルある場所として紹介されたのを読んだのは随分前のことだが、訪れるのは初めてである。この日もレンタカーだから立ち寄ろうとしたのであって、公共の乗り物だとバスの便もなく、1日2便、予約制の観光乗合タクシーで行くことになる。

国道45号線から右折して人気の少ない集落の中を抜ける。そのどん詰まりに駐車場がある。断崖の展望台へは遊歩道を10分ほど歩くことになる。

松林が続き、歩道にはふかふかしたウッドチップが敷き詰められている。ただ雲のような海霧のような、どんよりした空である。そしてこの先にあるのが断崖・・・となると、何かサスペンスとか、自殺とか、そうしたネガティブな言葉も連想させる。決して鵜の巣断崖が悪いわけではなく私が勝手に思っているだけだが、そういえば宮脇俊三は『殺意の風景』でも鵜の巣断崖を舞台にしているなと思い出す。

もっとも、鵜の巣断崖がモデルとして登場する文学作品といえば、吉村昭である。『星への旅』は太宰治賞に選ばれ、吉村昭が作家として、その後三陸や東北を舞台にした作品を多く書くきっかけとなった作品である。その一節が文学碑として飾られている。碑文にはこのように刻まれている。

「水平線に光の帯が流れている 漁船の数はおびただしいらしく 明るい光がほとんど切れ目もなく 点滅してつらなっている それは夜の草原に壮大な陣を布く 大群の篝火のようにみえ 光が水平線から夜空一面に広がる 星の光と同じまたたきを くりかえしていた」

展望台からその景色を見る。遥かに東に広がる水平線も壮大だが、やはり見どころは隆起海岸である。五層の屏風のような断崖が続く。高さは200メートルほどという。柵で囲った展望台がある。真下は木で覆われているので恐怖感はそれほどなく、山の上から遠くを展望するのと似たような景色である。今は昼なので真逆だが、夜に来ると吉村昭の文章のような景色が見られるかもしれない。ただ、夜にここに来るというのは結構勇気が要りそうな気がするのだが・・。

駐車場に戻ると雨が落ちてきた。そういえば当日(8月16日)、台風10号はまだ日本海を北上しているところだった。

島越駅に向かう。鵜の巣断崖から直線距離だと3~4キロという距離だが、先ほど見た断崖には道は通っていない。いったん国道45号線に出て、少し走って県道に入る。道をたどると10キロ以上かかる。その間に200メートルの高さを下って、海べりに出る。

島越からは北山崎めぐりの遊覧船が出るのだが、台風の影響によりこの日は運休とある。そのためか人の姿もほとんど見えない。漁港を抜けた先にあるのが島越駅である。

元々は海側に駅舎があったが、震災の津波で駅舎だけでなく高架橋の線路ももろとも流されてしまった。営業再開に当たっては山側に元の駅舎をモデルとして新たに駅舎が建てられている。駅周辺の集落も内陸の高台のほうに移転したようである。

雨の中駅舎内に入る。震災関連の展示コーナーがあり、震災前の島越駅周辺のジオラマや、岩隈久志投手のメジャー時代に寄贈されたユニフォームが飾られている。

その奥には三陸鉄道の車両をバックにした横綱白鵬関と志村けんさんのパネルや、鉄道写真家の中井精也さんの三陸鉄道写真の数々が飾られている。

さらには、ホワイトボードに描かれた寄せ書きの中に、田老に続いてバッファローマンのイラストに出会う。多くの人が三陸、そして島越に思いを寄せて来たか。展示にはその感謝の気持ちも込められている。

列車が来ない時間帯だが、ホームに出てみる。線路を挟んで駅前に慰霊碑、そしてすぐ先では防潮堤の工事が進んでいる。防潮堤といえば、この三陸鉄道も営業再開に当たっては高架橋ではなく土台を築き、いざという時の防潮堤の役目を持たせている。

待合室には吉村昭の文庫が並ぶ。先ほど触れた『星への旅』だけではなく『三陸海岸大津波』の取材でも何度となく三陸を訪れた縁もあり、吉村自身が著作を寄贈したのが始まりだったが、震災の津波で流されてしまった(吉村は2006年に亡くなり、東日本大震災を見ることはなかったのだが、もしその時存命だったら何を思い、何を文章としただろうか)。駅舎の再建にともない、吉村の夫人で作家の津村節子さんが改めて「吉村文庫」として作品を寄贈した。

駅舎を出て海側に向かう。元々はこちらが駅の玄関口だった。今は「島越ふれあい公園」として慰霊碑が建てられている。そしてかつての駅の名残として、旧駅舎の水色の丸屋根、駅舎へ続く階段(の一部)が置かれている。震災遺構という扱いではないそうだが、かつて親しまれていた駅舎のせめてもの名残である。

そんな中、津波にも耐えて当時の姿をそのまま留めているのが、宮沢賢治の「発動機船 第二」の詩碑である。賢治が三陸を旅した時に、田野畑から宮古まで船で移動した時の光景を詠んだ詩の一節である。当時はもちろん三陸鉄道も通っていなかったから、沿岸の集落から集落への移動は船というのが一般的だったこともうかがえる。

ポールのようなオブジェが立つ。先端の高さは17メートル、これは東日本大震災の津波と同じ高さとある。これも津波を忘れないようにとのことだ。

ここに来て雨が強くなってきたが、もうしばらく田野畑村を走ることにする・・・。

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