まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第3回中国観音霊場めぐり~木山神社へ

2019年07月30日 | 中国観音霊場

第3回の中国観音霊場めぐりの目的地は、第4番の木山寺である。大阪から阪急高速バスで落合サンプラザ前まで来て、後は歩くだけである。落合サンプラザから木山寺まではスマホの経路図によると約4キロ、1時間で行けるとある。落合サンプラザから歩き始めたのは11時前である。

まずは木山街道とも呼ばれる県道に沿って歩く。10分足らずで出てきたのは箸立天満宮である。菅原道真にゆかりがあるという。記事によって違いがあるが、道真がこの地を訪ねたのは、父が美作国の国守を務めた時とも、道真が大宰府に左遷される時とも言われている(その実は両方だったのかもしれないが)。その立ち寄りの際に食事を取り、その時使った箸を地面に突き刺したところ、地面から芽が出てやがて大きく成長したという。それが今にも伝わる「箸立天神伊吹ひば」である。こうしたところで菅原道真ゆかりのスポットで出会うとは思わなかった。

石の鳥居に出る。木山鳥居という。ここも美作落合の集落の中だが、山の麓に沿って道が伸びている。ここからが木山神社への参拝道のようだ。上り勾配を覚悟して歩き始める。

古い家も並ぶ道をテクテクと歩き、再び県道に入った後、木山神社まであと1キロの看板を見る。私は今回来るのは初めてだが、地元の人たちによっては身近な存在の神社なのかなと思う。中国自動車道の下もくぐる。

少しずつ上り道になるのを堪えながら歩く。途中に「十五丁」と書かれた石碑に出会う。先に「十八丁」というのも目にしたので、これは木山神社、いやその奥にある木山寺への標石だろう。こうした目印が残っているのも、歩いて木山寺を目指すという人がそれなりにいたのかなと思わせる。

じわじわとした上り。夏の暑さということで汗もジトジトと出てくる。ともかくは手前の木山神社を目指そう。とりあえずそこで休憩ということにする。

標識が出た。このまま正面を行けば木山神社。そして左折して3キロ先に木山寺とある。まあ、左折して3キロというのはクルマで行く場合ということだろう。スマホの地図では木山神社の奥の道を進めば1キロなく、それこそ「数丁」で寺に着くとなっている。

朱塗りの鳥居に出る。境内にはこの石段を上がればよい。じわじわ上りの後の石段というのは結構堪える。ともかく気合を入れて上りきる。そして広がるのは山間にあって堂々とした造りを持つ神社の境内である。まずは古くの絵馬をあちこち飾った建物が休憩スペースとして開放されており、木の長椅子にどっかりと腰を落とす。まずは涼んでからお参りとしよう。

・・・先ほどから木山寺、木山神社がごちゃごちゃと出てきているので、ここで一度整理してみる。

木山寺と木山神社は、元々は木山宮として一つのものだった。言うなれば神仏習合である。平安初期、京都祇園の八坂神社の分霊を祀ったのが由来とされており、1200年の歴史を持つ。それが明治になり神仏分離が行われ、木山寺と木山神社に分かれた。さらに太平洋戦争後、戦前から計画されていた里宮の造営事業が実現し、木山神社は木山寺がある山頂から境内社がある山麓に移り、本殿も新たに造営された。その本殿、拝殿は国の有形登録文化財にも指定されている。

まずは拝殿にて参拝し、横並びの天満宮、そして善覚稲荷神社にも手を合わせる。この稲荷神社の額の署名を見るに、少し消えかかっているが「平沼騏謹書」とある。平沼・・・騏一郎ではないかな。岡山県出身、戦前の元首相である。ちなみに養子は「たちあがれ日本」の代表を務めるなどしたガチの右派の平沼赳夫氏。

さて木山神社にお参りし、後は山道を数百メートル行けば山頂の木山寺というところ。スマホ地図によると神社の横を上るように案内されるので進んでみるが、何か様子がおかしい。この先木山寺という標識もないし、道も草が生い茂ってあまり先に進みたくないように思う。これは、参道として整備されていないのではという気になる。仮に四国の遍路道ならば、この先に札所があるのなら山道も草が刈られていたり、手作りの標識も出ていて迷わないようになっている。もちろん、同じ水準で比べることはできないのだが、木山寺までは、スマホでは道が続くと認識されていても、実際に歩くとなると道は閉ざされているのではないかと危惧する。そうなれば無理に進むのはやめたほうがよさそうだ。

・・・となると、先ほどの標識まで戻って、木山寺まで車道を3キロ歩くしかない。これは想定外で、この暑い中で上り坂の距離が増えることになる。あらら・・・。

でもまあ、行くしかない。美作落合駅まで復路を歩くことを思うとキツいのだが、ここまで来たら木山寺までたどり着かないと・・・。

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第3回中国観音霊場めぐり~中国道高速バスに乗る

2019年07月28日 | 中国観音霊場

関西も梅雨が明け、本格的に暑い日が続くようになった。また猛暑日や夏のゲリラ豪雨、台風の直撃といったニュースに触れることになるのだろうか。そう思ううち、27日には今年初めての台風上陸となった(大きな被害が出なかったのは幸い)。

さて、第3回となる中国観音霊場めぐりである。西国四十九薬師めぐりと交互に記事にしているように思う。

第3回だが、札所番号順で行けば次は第4番の木山寺となる。ただ霊場会の番号や納経帳の番号は特別霊場の誕生寺である。さらに、前回終えた駅または路線から地続きで行くなら、第5番の法界院から行くのもありだ。第3回は7月の有給取得を兼ねて行うのと、翌日は通常業務なので早めの日帰りである。時刻表のシミュレーションでは、木山寺だけか、誕生寺と法界院の2ヶ所セットのいずれかとなる。

結局は木山寺を選んだ。ここに行くだけなら比較的早く帰宅することができる。しかし公共交通機関のアクセスは悪く、歩く距離も長い。しかも夏の最中だが、行っておかなければ先に進むことができない。現時点で、岡山、広島の2県の札所まではいつ頃に回ろうかと考えているのもある。

木山寺の鉄道の最寄り駅は姫新線の美作落合で、木山寺や中国観音霊場のホームページではタクシーで20分とある。ただ姫新線、列車の本数は少ないし、美作落合までたどり着くのも時間がかかる。

他に手段がないか探すと、意外なものが出てきた。阪急高速バスの大阪~新見・三次行きで、中国自動車道を走る中で1日4往復が美作の落合インターに停車する。さらに、落合サンプラザというバス停もある。ショッピングセンターの名前のようだが、地図で見ると美作落合駅から木山寺寄りにある。サンプラザから木山寺への徒歩ルートを調べると約4キロ、1時間とあり、これだと徒歩でもそこまできつくないだろうと踏む。最後、木山神社から木山寺までは山道を行くようだが、この時点では普通に行けるだろうと計算していた(・・という書き方をするところを見ると、実際行ってみたらそうではなかったのだろうと思われるが、それは後の話)。

高速バスの時間だが、朝の1便は阪急梅田7時30分発で、落合サンプラザ10時34分着である。また帰りは3便で落合サンプラザ16時04分発で、阪急梅田19時17分着である。バスで3時間というのも許容範囲内だ。有給を7月25日に消化すると決めて、まずは行きのバスを押さえる。まあ平日とあって乗客も少なそうだ。ただ帰りだが、同じように予約する前に少し考えた。美作落合で時間をもて余さないかと。

姫新線の美作落合駅発で14時46分の津山行きという列車がある。落合サンプラザ~木山寺と往復して、帰りはもう少し頑張って美作落合駅まで歩くとして、4時間あれば踏破できるのではないか。そして津山まで列車に乗れば、久しぶりの姫新線乗車となるし、津山発の高速バスにも乗れる。どうせ次は誕生寺、法界院という津山線シリーズで、行き帰りのどちらかで津山駅に降り立つのは間違いないから地続きにもなる。

ということで、帰りは津山駅15時30分発の大阪駅行き高速バスを予約する。もっともこの路線は、予約なしでも空席があれば直接乗り込んで、かつICカードでの決済ができるのだが。

いつもながら出発前のプランニングに記事を費やしているが、25日朝、阪急梅田三番街のバスターミナルに現れる。普段の出勤と変わらない時間に家を出たので特にしんどいわけでもない。ビジネス客もいれば年輩の旅行者もいる。登山用の大きなリュックも並んでいるが、どこに行くのかな。この後に松本行きというのがあるので、それに乗って信州の夏山を目指すのだろうか。

7時30分、前に停まっている松江・出雲行きに続いて発車。梅田を出た時点では数人の乗車で、私が陣取ったのは運転席後ろの最前列。理想は反対側の最前列だが、阪急高速バスはこの席は「予備席」として販売していない。運転手の荷物置き場兼休憩スペースとして活用しているようだ。

そろそろ出勤の人が増える梅田を抜け、新御堂筋から新大阪バス停に向かう。JR高速バスは新御堂筋の側道にバス停があるが、阪急高速バスは通過して、一度Uターンもして新大阪駅北側の阪急専用乗り場に着く。最近できたのか、こうしたバス停があるとは知らなかった。

この後は桃山台駅に接する千里ニュータウンバス停に停車して、中国自動車道に向かう。ただ時刻は8時前後、道路も混雑、渋滞する。その辺りはダイヤにも織り込んでいるとは思うが、まあいい。美作落合での4時間の滞在には影響しないだろう。

池田から中国自動車道に入る。この先は渋滞もなく、順調に走る。乗車で扱いのため宝塚インター、西宮北インターで一度降りるが、いずれも乗車はない。ただ西宮北インター到着時点でダイヤから10分遅れとの案内があった。この10分がこの先巻かれるのかはわからないが仕方ない。

西宮北インターを過ぎると、次の停車は津山インターの先にある津山北バス停である。中国自動車道には津山までいくつものバス停があるが、それらは素通り。そこは津山や西脇便とのすみ分けだろう。阪急高速バスのこの路線は美作~備中~備後の山間部と大阪を結ぶのが大きな役割と言える。西宮北出発時点で10人ほどの乗車率で、後はそれぞれゆったり腰かけて進む。

加西サービスエリアで休憩となる。高速バスとともに団体の観光バスも多く停まっている。バスツアーの人たちも土産物や車内でのおやつをあれこれ物色している。

兵庫県から岡山県に入ると、姫新線の線路もチラチラ視界に入る。中国自動車道と並走する区間が多いのも路線が苦戦する要因の一つである。

落合インターで一度外に出る。今は真庭市というところの中心部に当たる一帯である。左手に沿うのは、吉井川、高梁川と並ぶ岡山県の三大河川である旭川。美作落合は旭川を行く高瀬舟の水運の拠点として栄えた歴史がある。

そして、10分遅れのまま、落合サンプラザに到着。予想通りショッピングセンターである。地元の人たちにとってなくてはならないスポットなのかな。広い食品コーナーもあるし、うどん屋とラーメン店も入っている。これが四国の歩き遍路で、なおかつ遍路道沿いにあったらオアシス、ベースキャンプになることだろう。木山寺まで行った後はここで麺でもすすって、美作落合駅に向かうとしよう。

そして木山寺に向けて歩く。ただその前にまず目指すのは、途中にある木山神社。木山寺と木山神社、この2つにあるのは神仏習合、神仏分離ということで・・・。

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第17番「国分寺」~近畿三十六不動めぐり・5(天神祭を前にして・・)

2019年07月26日 | 西国四十九薬師

第3回の四十九薬師めぐりで三重の石薬師寺、四天王寺を訪ねたその次は、大阪市内である。国分寺は近畿三十六不動めぐりの札所で訪ねたことがある。札所としての不動明王は境内の隅の「みのり不動尊」というもので、寺の本尊としては薬師如来であるというのはその時触れたことである。

大阪市内なのでそれこそいつでも行けるのだが、早い時期に行こうと、先の薬師めぐりからちょうど1週間後の7月21日に出かける。国分寺は大阪メトロの天神橋筋六丁目駅からすぐのところにあり、谷町線の大日方面側の地上出口から出るとより近い。外の暑さに触れる時間も短い。

この日はちょうど参議院選挙の投票日。投票当日なので選挙カーが走ることもなく、駅前で候補者が演説するわけでもなく静かだ。なお、大阪選挙区では定数4人に対して12人が立候補した。その夜の選挙特番では、放送開始から5分もしないうちに4人の当選確実が報じられた。維新の現職と新人の2人、そして公明、自民の各現職である。大阪独特の事情かもしれないが、改めて維新の強さを感じたものだ。別に選挙特番を見続ける意味はないかとテレビを消した。私は今回期日前投票を利用したが、気になるのは全体の投票率。最終的に50%を割ったそうだ。率はオリックス・バファローズの勝率を辛うじて上回ったようだが、そんな次元の低い争いだったとは情けない!

・・この記事は札所めぐりのものだった。目の前に国分寺の門が建ち、中に入る。大阪市内にあることを差し引いても小ぢんまりした境内と感じるのは前回と同じだ。

国分寺の歴史は飛鳥時代、斉明天皇にさかのぼる。法相宗の道昭が孝徳天皇の菩提を弔うために建てた寺で、当初は長柄寺という名前だった。長柄は今も地名や阪神高速の入口の名前で残っている。奈良時代に聖武天皇が全国に国分寺建立の詔を出した際、摂津の国分寺となった。ただ、天王寺区にも摂津の国分寺跡とされる地があるそうだ。関連はわからないが、時代によって移り変わりがあったのかもしれない。

その後は大坂夏の陣の兵火に遭って全焼、江戸時代に復興、明治の廃仏毀釈で衰退、明治から大正で復興、太平洋戦争中の室戸台風と空襲で灰塵に帰し、戦後にまた復興して1965年に現在の昭和金堂が建てられた。大阪にあって災難と復興を繰り返して現在に至っている。本尊薬師三尊像と四天王、十二神将像が祀られている。

右手が不動堂。その奥に建つのがみのり不動尊だ。

また金堂の左手が阿弥陀堂と、弘法大師の石像である。国分寺は戦前の写真ではもっと境内が広く、金堂も大きかったように見えるが、戦争や周りの復興・都市化で今のようなコンパクトな寺になったわけだ。

そんな中に慰霊の建物がある。扉の銘板には、天六ガス爆発事故で犠牲になった方たちの名前が記されている。1970年、地下鉄谷町線の建設工事で、地中のガス管から漏れた都市ガスが引火して大爆発、死者79名、負傷者420名の大惨事となった事故である。大阪の市街地での大規模災害としては1972年の千日デパート火災に次ぐものである。今の天六や千日前の平和な様子からはそうした様子はうかがえないが、これも防災の面からは忘れてはならない出来事と言える。

納経所に向かう。こちらでは普通のバインダー式の西国四十九薬師の朱印の他に、薬師如来の真言「おん ころころ せんだり まとうぎ そわか」に漢字の音を当てた墨書のバージョンを勧められる。漢字でどのように書くのかは画像をご覧いただくとして、「(こういう墨書を授けるのは)ウチだけですよ」とのことで、こちらもありがたくいただく。

さてこれで、次の行き先を決めるくじ引きとサイコロ。今回出たのは、

1.三田(花山院)

2.高野山(龍泉院、高室院)

3.湖南(善水寺)

4.伏見(法界寺、醍醐寺)

5.名張(弥勒寺)

6.加古川(鶴林寺)

兵庫、和歌山、滋賀、京都、三重と広範囲に出る中で、結果は「6」。西に振れて加古川である。この鶴林寺は新西国三十三観音で訪ねたところ。時間を置いて訪ねるとまた違った楽しみがあるだろう。

時間はまだ午前中だが、暑いし早々とこの日のお参りは終了。歩いてすぐの天神橋筋商店街のアーケードに入る。

7月24日、25日は天神祭。メインとなる大阪天満宮はこの先だが、商店街も天神祭ムード一色だ。またそれぞれの神輿も姿を見せている。これを女性だけでかつぐ「ギャルみこし」も天神祭の名物である。

ここまで来たら「天満酒蔵」に行くところだが、この日は酒肴、もとい趣向を変えて環状線ガード下の「千歳屋」の立ち飲みに入る。瓶ビールが安く、アテも庶民的で安いのが揃っている。寺参りの後の暑気払いはやはりこれに限る・・・。

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大相撲名古屋場所観戦記・後編

2019年07月24日 | 旅行記D・東海北陸

大相撲名古屋場所9日目の観戦記の続き。時刻も昼ほどとなり少しずつ場内の客も増えてきた。ここでまた場内の探索とする。入場口も人が増えており、公式グッズ売り場には先ほど引退した豪風改め押尾川親方の姿もあり、子どもたちの記念撮影に応じていた。

一角の窓に面して人垣ができている。別に売店に行列しているわけではなく何やら外を見ているようだ。方向としては地下鉄市役所駅から歩いてドルフィンズアリーナに入ってきたほうだ。確か建物の手前に関係者用の駐車スペースがあったようだが。

見ているのはまさにその駐車場。というのも、力士・関係者の出入口がこちらにあるそうで、取組を終えて歩いて建物を後にする力士や、出入りする親方たちを見ることができる。駐車スペースはカラーコーンに名前を書いた紙を貼って区分けしており、建物にもっとも近いところは八角理事長のクルマのスペースのようだ。また関取もここまでクルマを乗りつけるようである。

過去の他の人の観戦記を見ると、名古屋場所はアリーナの前の広いスペースを利用して力士の「入り待ち」ができるとあった。しかしこの日来てみると、熱中症予防のために「入り待ち」は取りやめているとのこと。力士も直接クルマを乗りつけるということで、その場所を窓越しに見ようという人が集まっているのだ。

通路に出てきたのは13時から行われるちゃんこ鍋の販売。一杯400円で日によって味付けが変わるそうだが、この日は出羽海部屋レシピの醤油味。それを待つ行列がアリーナの2辺にわたって延びている。普段、何か外食するのに並ぶのを嫌う私だが、この日だけは特別である。災害に遭って配給の炊き出しに並ぶようだが(それは考えすぎか)、40分くらい並んだか。その間に館内から大きな歓声と拍手が起こった。元大関の照ノ富士(現在は幕下)が勝ったようである。

そしていただいたのがこの一杯。食べるのは外のバルコニーでというので気分転換にもなる。

場内に戻ると幕下も後半で、この頃になるとプロとして年数を重ねて一つの「相撲の型」になっている力士同士の取組が続く。やはり序ノ口、序二段のぎこちない相撲とはスピードも違うが、これでもまだ「力士養成員」、つまり給料の出ない番付である。

そして十両の土俵入り。いよいよ関取衆の姿を見ることになる。

幕下の上位5番。次代に期待される納谷(大鵬の孫、貴闘力の子)、豊昇龍(朝青龍の甥)が相次いで登場し、それぞれ美ノ海、千代鳳という関取経験者に勝利した。(ただ場所が終わると二人とも負け越しという結果で、さらなる精進ということになった)

朝の8時すぎから同じ建物にいると時間の感覚が変わって来るのか、十両の取組になると塩をまいたり仕切りの回数が増えたりするが、それほど時間も長く感じない。

そして幕内の土俵入り。人気力士の時はより一層拍手が大きくなる。ただ東方の最後に出てきたのは関脇の御嶽海。東方2大関の休場によるものだから仕方ないが、やはり物足りない。

一方の西方の土俵入り。こちらは最後に髙安が登場して大きな拍手が起こる。前日の中日まで1敗で、そこまで全勝の両大関を追いかけていたが、前日の玉鷲戦で相手の小手投げで左腕を痛めた。そのため出場が危ぶまれたがテーピングをして土俵に上がってきた。まあ、そこはあの元横綱がいる部屋だからかな・・・。

横綱の土俵入り。横から見るというのも現地観戦ならではだが、やはり見事だ。鶴竜の正統派の雲竜型と、白鵬のオリジナルな仕草も混ぜた不知火型の二つを堪能する。両方に「日本一!」と飛ばす声援も聞こえる。

幕内の前半は小兵力士が沸かせる。豪快な塩まきでも人気の照強はベテランの栃煌山を見事寄り切り、7勝2敗の好成績。照強はさらに勝ち星を積み重ね、一時は「幕尻優勝」の可能性も残すほどだった。最終的に12勝3敗で敢闘賞を受賞、3敗は優勝した鶴竜に次ぎ、白鵬に並ぶ「準優勝」である(大相撲には「準優勝」の制度がないのだが)。

そして今や角界でトップクラスの人気と言ってもいい炎鵬。この日は長身の貴源治相手に正面からぶつかり、そのまま寄り切った(最後は足を取っていたようで、決まり手は足取り)。これで6勝3敗。翌日にも勝って幕内初の勝ち越しに王手をかけたがそこから3連敗。勝ち越しが厳しいかと思ったがそれを乗り越え、最終的に9勝6敗で技能賞を受賞した。

またこの日は尾車部屋の力士への声援も大きかった。向正面の一角に尾車部屋のタオルを持ったファンが大勢いて、部屋の矢後、友風に対してコールを送っていた。友風(トモカゼ)は言いやすいのか、私の後ろのイス席にいた外国人の観客も「トモカゼ!トモカゼ!」と一緒にコールしていた。尾車親方・・・そういれば津市出身の元琴風である。この人たちは津からの応援団なのかな。このうち矢後は敗れたが、友風は輝に勝ち、7勝2敗とした。友風はその後も好調をキープし、大関不在ということもあり13日目には結びの一番で鶴竜に初挑戦することになった。そしてはたき込みで鶴竜に今場所唯一の黒星をつける初金星を挙げた。最終的には11勝4敗で殊勲賞を受賞した。

その後も遠藤、朝乃山など注目力士の取組に歓声が挙がる。場所の雰囲気、熱気を直接味わうのは貴重な体験である。

ご当地という点で一番人気と感じたのは御嶽海。力士タオルが出る数は圧倒的に多い。それにしてもタオルを掲げるようになったのはいつ頃だろうか。プロ野球の応援でも選手ごとのタオルが売られており、球場に行くと「いったいこの人は1試合に何枚持ってきているのやら」と思わせるファンも見かけるが、考えれば手軽な応援グッズだと思う。もっともそうした場合のタオルはあくまで掲げるもので、汗や手を拭くものではないようだが・・・。で、肝心の御嶽海は阿炎に投げられて敗け。

そして3大関休場の中、最後の砦で1敗をキープする髙安が登場。相手は正代で、まあ普通に取れば髙安が勝つかなと思う中、負傷の左腕も使って前に出る。しかし土俵際で逆転の突き落としを食らって敗れる。これには場内からは「やはり厳しいのかな」とのため息が出る。

髙安は翌日勝って勝ち越したものの、その次の白鵬を前にして休場。4大関全員が休場という初めての事態となった。取組中の負傷が原因だからある程度仕方ないが、結果だけを見れば大関陣に喝が入ることになってしまった。

いよいよ最後の両横綱の登場である。まずは全勝の白鵬。この日の対戦は逸ノ城である。こちらも過去の対戦からして白鵬が無難に勝つのかなと思った。

しかし立ち合いで正面から当たると、逸ノ城がそのまま巨体を活かして前に出る。白鵬に油断があったのかもしれないが、そのまま西土俵に寄り切って逸ノ城の勝ち。座布団が何枚か飛んだ。白鵬はこの後14日目に琴奨菊に敗れるのだが、いずれもパワー相撲の力士相手に正面から寄られての敗け。一部記事ではそのことをもって白鵬の衰えを指摘するものもあった。さて、どうだろうか。

そして迎えた結びの一番。ここまで大関、横綱が相次いで敗れて鶴竜もどうかという雰囲気も少しはあったように思うが、相手は初顔の明生。動き回って少し粘ったが、まだ前頭上位に上がりたての力士で、さすがに鶴竜を破るだけの力はまだなかった。流れを見れば鶴竜が危なげないという感じで寄り切って全勝をキープ。鶴竜は先に書いたように13日目に友風に敗れたが、それ以外は安定した相撲で14勝1敗で名古屋場所を制することになる。

弓取式は春日龍。弓取式も場所に来ないと最初から最後まで見ることはできない。NHKの中継も、結びの一番から18時の中継終了まで何分かは時間があるが、弓取式を映すことはあまりない。やはり結びの一番の解説や、横綱のコメントを出すことで手一杯なのだろう。ただ最後の儀式なのだから、画面の隅でもいいから映してあげればいいのにとも思う。

波乱もあった9日目もこれで打ちだしとなり、終いの太鼓の音に送られながら大勢の人とともに外に出る。なお名古屋城の外では、投票を6日後に控えた参議院議員選挙の活動が行われて、選挙区、比例の2人の候補者本人が支援を呼びかけていた。相撲観戦帰りで数千人の客が出てくる時間帯は選挙活動の貴重なチャンスなのだろう。連日、候補者が代わる代わる出ているのかもしれない。

名古屋駅まで順調に戻り、予約していた近鉄特急の指定席を変更して早い時間の列車に乗る。当初は、名古屋駅近辺で軽く一杯やってから大阪に帰ろうかと思っていたが、ドルフィンズアリーナの中で十分飲んだのでもう早く帰ろうということもある。さすがに座席の埋まり具合もよく、デラックスシートの通路側しか空いていなかったがそれでも快適である。そのまま順調に大阪に戻った。

さて、大相撲の本場所は大阪場所、過去の東京場所に続いて、名古屋場所を初めて観戦することができた。となると残すは九州場所・・・となる。まあ今年は予定しないとしても、福岡は福岡ならではの面白さがあるだろうから、いずれは観に行きたい。後は、どこかの巡業かな・・・。

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大相撲名古屋場所観戦記・前編

2019年07月23日 | 旅行記D・東海北陸

大相撲名古屋場所は横綱鶴竜の7場所ぶり6回目の優勝で幕を閉じた。大関4人が相次いで休場という事態の中で、千秋楽まで両横綱による優勝争いが続いたことで一応の面目は保つ形になった。また友風、照強、炎鵬ら若手力士で新たに三賞受賞者が出るなど、土俵を沸かせる力士も多かったが、次の横綱、大関を狙う位置の力士たちはまだまだ力不足といったところだった。

15日、その名古屋場所の9日目を観戦した。名古屋場所は初めてだったので会場の様子も大阪場所とはまた違った面白さがあったので、西国四十九薬師めぐりの続きとして書いてみる。

前日は津駅前のホテルに宿泊し、15日朝、客室内で前日コンビニで買っていた朝食を済ませて6時27分発の名古屋行き急行に乗車する。名古屋までは営業キロだと66.5キロあり、急行だと1時間あまりかかるが、そこはクロスシート車両に座ることができて快適に移動する。

名古屋からは地下鉄東山線で栄まで向かい、名城線で市役所に到着。この時点で時刻は8時すぎ。9日目の取組開始は8時40分だから余裕で間に合う。いつ見ても独特な造りの市役所の建物を見て、堀に沿って二の丸を目指す。こちらには昨年「金シャチ横丁」という飲食店のゾーンができている。まだこの時間では開店していないが、名古屋城の新たなスポットとして注目されているようだ。

朝の太鼓の音が聞こえてくる中、二の丸にある愛知県体育館、愛称ドルフィンズアリーナに着く。さまざまな幟が並ぶ。

春場所の大阪府立体育館(エディオンアリーナ)は町中、狭い通りに面しているが、ドルフィンズアリーナは二の丸の中に建つとあって広い。また着いた時にはすでに入場も始まっていて、並ぶこともなく入場する。タマリ席、マス席、イス席で入場口が分かれていて、今回はマス席Cを取っているのでその入口から入る。もっとも、中の通路は席の種類で仕切られているわけでもなく、同じ並びである。係の人に案内されて2階の自席に向かう。

マス席C(一人用)は東西のマス席の一番後の列にあり、すぐ後が通路、そしてイス席である。感覚的には備え付けのイス席の上に櫓を組んだような高さで、座ると尻から腰にかけた高さに手すりが来る。この手すりが背もたれ代わりだ。

また、マス席というと4人がびっしり座って身動きが取りにくいイメージがあるが、このマス席Cは幅が結構広い。隣の席とは棒を目印にして区切っているが、座布団と、大きめのリュックを置いて座ることができる。この後実際座って観戦したが、リュックを立てれば空いたスペースに缶ビールやつまみは楽に並べられた。これはなかなかいい感じだ。

他には四隅にマス席Dというのもある。こちらは四隅のスペースに座布団を並べた広間と言っていいだろう。

もっとも、名古屋場所はイス席でも春場所と比べて土俵が近く見えるように感じる。その辺りは地方場所の良いところと言える。

取組の電光掲示板など見て、1階に下りる。入口正面には賜杯、優勝旗などが飾られている。

そして土俵周りへ。名古屋場所でも、序ノ口や序二段の取組くらいならタマリ席の客でなくても、そこに座っていても特に何も言われない(もちろん、自分の席で観戦するのが正しい)。中には序ノ口の力士であってもタマリ席から大きな声援が飛ぶこともある。そのタイミングからすると部屋の後援者だったり、また愛知県出身の力士に対するものだったりする。

このくらいの番付だと、勝って上の番付を目指すのは当然としても、「相撲を取りきる」ことが求められているように思う。確かに動きがぎこちなかったり、まだ体ができていない(中には私よりも痩せている・・)力士もいるが、とにかくお互い前に出て「相撲を取りきる」一番が多い。逆に、立ち合いで変化するとか、自分からはたきに行くような取組はほとんどない(流れの中で逆転の突き落としはあるが)。この段階の力士には部屋の親方もそうした指導を徹底しているのかな。

正面側、向正面、花道横など場所を変えながら観戦する。いずれもテレビとは違った角度で新鮮だし、特に花道横は出入りする力士の表情もはっきりわかる。勝った力士に拍手すると頭をちょっと下げたり、逆に負けて首をかしげたり舌打ちする力士の顔もわかる。

しばらくはそうやって観戦だが、タマリ席では飲食はできない。まだ午前中だが、後は自席にてビール、日本酒などいただきながら観戦とするか。そろそろ売店も準備が本格的にできたようだ。

相撲のグッズ、土産物はどの店も豊富に取り揃えている。また飲食物は弁当や助六寿司、いろいろつまみもある。一応焼き鳥があり、つまみで買い求めたがどう見てもスーパーのお惣菜コーナーにあるパックだ。まあ、国技館のように専門に作っているわけではないから、これは雰囲気のものだ。ちなみに食事なら館内にレストランがあり、取組を終えた力士がここで食事をすることもあるそうだ。

そんな中、土俵には春日岫(東序二段7枚目)が上がる。序二段とはいえ、私の地元藤井寺市出身の唯一の現役力士。私が観戦した時はいつも敗けていたように思うが、この日は勝武士相手に土俵際で投げを打っての勝利。これには上段からコールさせてもらった。ちなみに名古屋場所は5勝2敗の成績で、来場所は三段目に復帰できそうだ。

土俵上の中入にはまだまだ時間があるが、ブログを書いているほうがいい加減に長くなってきた。ということで、この一文にて、中入・・・。

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第34番「四天王寺」~西国四十九薬師めぐり・4(キンミヤ&ホッピーと西青山駅)

2019年07月22日 | 西国四十九薬師

津駅に隣接するホテルグリーンパーク津にチェックイン。「アスト津」という、高さ94メートル、三重県で2番目に高い(1番は100メートルの四日市港ポートビル)ビルの高層階にある。

部屋は山側、海側とあり、今回は海側の部屋を選択。こうして見ると海岸も比較的近い。イオンの大型ショッピングセンターはあるが、他にそれほど高い建物はない。それどころか駅のすぐ近くにも住宅地があるし、駐車場の空きスペースになっているところも目立つ。県庁所在地の玄関口にしては少しさびしいようにも見える。海岸の遥か向こうに陸地が見えるのはセントレアだろうか。

宿泊者用のクーポンがついていて、同じビルの地下にある日本海庄やなど数軒で使えるとある。津の名物は何かなというところだが、ご当地メニューに「津ぎょうざ」がある。これはまだいただいたことがなく、近くで食べられそうなところということで、同じビルの地下の焼鳥屋にあるというのでとりあえずそちらに向かう。決め手はホッピー&キンミヤだ。

さて一杯目。見た目は生ビールだが実はこれはキンミヤのホッピー割。ホッピー&キンミヤも店により出し方があるが、ここの場合は店のほうで最初から割ったものを出す。

店の口コミでは鶏の刺身料理が美味いとのことだったが、あえなくも「この時季はやっていません」とのこと。あらあら。ならばと普通の焼鳥の盛り合わせに、「津ぎょうざ」を注文。

津ぎょうざは1985年頃、学校の給食メニューとして出されたのが由来だという。子どもたちの栄養と満足感を考えたそうだ。そして2008年から津市が飲食店に呼びかけてご当地メニュー化したそうだ。定義は「直径15cm以上の皮を使うこと」「油で揚げること」の2つで、具材は特に規定はないようだ。今回は2個いただいたが、ホッピーにも合う。ただまあ、これは好みの問題だが餃子は焼き餃子のほうが美味いかな。

こちらの店を出て、改めて駅前に出る。何軒か飲み屋が集まる中で、三重県の地産地消を売りにしている創作料理の店を見つける。しまった、最初からここにすればよかったかなと中をのぞくと残念ながら満席。ホッピーを優先した結果である。

ならば、他にもビアガーデンなどもあるがホッピー&キンミヤで押そうと、隣接する別の焼鳥店に入る。チェーン店ではあるが地元の人たちで賑わっているようだ。こちらではホッピー(業務用)とキンミヤが別、しかもキンミヤは最初からジョッキには入っていなくて別のグラスで出てくる。こちらのほうが東京の大衆酒場風でよろしい。アテは焼鳥やキャベツというところで、津で伊勢湾の魚をいただこうとかいうのはどこかに飛んで行った。

さてキンミヤ焼酎がいい感じで回ってきたところで店を出たが、このまま部屋に戻るのも惜しい、どこかに列車に乗って行こうという気になった。JR・・・では無事に帰れるか覚束ないし、この日は近鉄の「週末フリーパス」を持っている。

ちょっと南に行ってみようか・・・と、やってきた19時39分発の松阪行きの急行に乗る。これが早い時間なら松阪まで行って松阪牛のホルモン焼きとか味噌だれの焼鳥で一杯・・・と行くところだが、飲み食いのほうは先ほど十分に済ませている。まあ、乗りに行ってそのまま引き返して来よう。

19時54分、伊勢中川に到着。ふとここで下車したくなった。頭に浮かんだのは、近鉄の中でも「秘境駅」としてランクされている西青山駅。夜はどんな感じだろうか見てみたくなった。ちょうど、19時57分発の名張行きが発車を待っている。

2両編成だがそこそこの乗客を乗せて発車。この区間は近鉄大阪線という主要路線の中でもローカル線の雰囲気があるところで、途中の小さな駅に停車しては乗客を少しずつ降ろす。外も暗いのでよく見えず、そのまま長い青山トンネルに入る。

トンネルを出たところが西青山で、20時20分着。迷うことなく近くのドアから降りる。降りたのはもちろん私だけ。いや、私だけでよかった。もし「秘境駅」で他に見知らぬ誰かがいたらそのほうがビビッてしまいそうだ(相手もそう思うだろうが)。

駅は「秘境駅」と言われてはいるが国道165号線沿いにあり、クルマの往来はそこそこある。外に出ると国道を走るクルマの走行音が結構響く。

外にあるのは駅のトイレと公衆電話ボックスのみ。ちなみに西青山駅で検索すると、候補に「幽霊」とか「心霊写真」とかいうキーワードが続きで出てくる。主にはここから少し離れたところにある旧青山トンネル(列車衝突事故もあった)のことを差すが、中には駅前のこの電話ボックスも「心霊スポット」として紹介したものもある。

「秘境駅」の訪問記にはそこの駅で野宿した・・というものもあるが、私にはとても無理だ。幸い列車はまだまだ走っており、折り返しの伊勢中川行きは20時27分。つまり駅の滞在はわずか7分。まあ、それを見越しての駅訪問だったが、これだけでも十分だった。この時間に西青山駅から乗車しても、他の客が別に珍しいものを見るような反応がなかったのは幸いだった。

夜のローカル列車、「秘境駅」を味わい、これで津に戻って休むことにする。翌日15日はいよいよ大相撲名古屋場所の観戦。早い時間に名古屋入りするため、ホテルでの朝食は取らずに朝6時台の出発である・・・。

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第34番「四天王寺」~西国四十九薬師めぐり・4(MieMu 三重県総合博物館)

2019年07月21日 | 西国四十九薬師

7月14~15日、西国四十九薬師めぐりの三重北部シリーズと大相撲名古屋場所観戦をくっつけたお出かけ。その薬師めぐりは14日の早い時間に終わった。後は夕方までどのように過ごすかである。

津というところは近鉄やJRで何度となく通っているが、目的地として訪ねるのは初めてである。歴史的なスポットならば津城が挙げられるが(それを言うなら先ほど訪ねた四天王寺も由緒あるところ)、それよりも私の興味をひいたのが三重県総合博物館である。「MieMu(みえむ)」の愛称もある。ここの展示がなかなか面白いというので、札所めぐりを早い時間で済ませて午後の時間をここに充てようというものである。

MieMuへは津駅から徒歩25分とあるが、ここに来て雨が少し強くなったので無理をせず三重交通のバスに乗って行く。立ち客も大勢出る。それだけ人気のスポットなのかな。

バスに乗ること7~8分で総合文化センターのバス停に着く。道を挟んでMieMuと総合文化センターが並ぶ一帯である。駐車場も広く取られているが次々にやって来るクルマで結構混雑している。

MieMuは2014年に開館した新しい博物館である。元々は県立博物館があったのだが、「三重県の多様で豊かな自然と歴史・文化を紹介する」「三重の自然と歴史・文化は、県内全域で一様ではなく、地域ごと、集落ごとにみていくと、その地域独特の自然や歴史・文化がみられます。そういう地域ごとの、よそにはない『すごさ』を集めて、改めて三重全体の『すごさ』とし発信していこうとする」という「三重の持つ多様性の力」(三重県総合博物館展示案内より)というテーマを持つところである。

三重の多様性というのは以前から感じていたところで、伊勢、伊賀、志摩、紀伊という4つの国があり、紀伊半島にあって南北に長く、それを感じるということで三重県を舞台に「サイコロの旅」をやったこともある(結果は桑名から熊野市まで回った)。それを紹介するというのも面白そうである。

博物館というと堅苦しい、重々しいというイメージがあるかもしれないが、建物も新しいし、交流スペースも多く設けられて開放的である。

もっとも、多くの客が訪ねているのは企画展によるところもあるのかなと思う。この時(2019年7月6日~9月16日)に開催されていたのは、「この男がジブリを支えた。 近藤喜文展」。スタジオジブリの高畑勲・宮崎駿両監督から厚く信頼を寄せられたアニメーターで、MieMuの開館5周年記念の特別展示である。

日本のアニメは素晴らしい作品が多く、国内外問わず熱心なファンも多い。中でもジブリ作品というのは作品の質やストーリー、メッセージ性に富むとされている。ただ悲しいかな、私はほとんどジブリ作品を鑑賞したこともなく、それは高い鑑賞眼が求められたり、作品に込められた文明批判を読み取る気持ちを持って観なければならないものだという印象を持っている。

それはさておき、企画展なので入場する。アニメの原点となるイメージボードの原稿の展示が多い。一つの作品を創るにあたり、作品の世界観や雰囲気を一度絵にして、そこからストーリーを膨らませ、またキャラクターに動きをつけていく。その過程がよくわかるようになっている。代表作とされる『火垂るの墓』でも、キャラクター一人一人の設定や、ストーリーが進むにつれて設定の細かなところを少しずつ変えるように指示を出したり、それぞれに命を吹き込むかのような作業を積み重ねた様子がよくわかる。

他には、『ふとふり返ると』という、画文集の展示がホッとさせる。日常の風景、季節の移り変わりを細かく捉えたスケッチ集で、人々の表情も豊かに描かれている。

ただ、この近藤喜文という人はこれから円熟味を増すかと言われていた矢先、1998年に47歳の若さで亡くなったという。

企画展を見終えた後で、基本展示室に向かう。展示室内をぐるぐる回るようなルートになっている。まずは三重の自然ということで、大地の成り立ちやかつて存在した巨大生物について紹介する。

続いては三重の豊かな山、海と、そこで暮らす人々の紹介である。動植物の剥製や標本も数多く並ぶ。また博物館の学芸員が現地に出向いて暮らしの様子を取材したフィールドノートも展示されているし、昔の人々の暮らしを収めた写真もデジタル化されてタッチパネルで見ることができる。山といえば北は鈴鹿山脈、南には日本有数の降水量がある紀伊・熊野の山々がある。

また海も伊勢湾、志摩半島のリアス式海岸、熊野の雄大な黒潮と多岐に渡る。その土地に応じた長い暮らしの歴史もわかりやすく紹介されている。

また、昔から東西交流のさまざまな姿を見せていたのも三重である。東海道もあれば伊勢参りも盛んで、海上輸送でも栄えたところである。かつての史料と模型を上手くミックスしているので入りやすい。熊野詣でからの西国三十三所めぐりの様子もあれば、伊勢参りの御師屋敷の様子も詳しく紹介されている。

御師屋敷での本膳のメニューの豊富さも三重、伊勢の豊かさを映し出している。

結局企画展と基本展示を合わせて2時間ほどいたが、展示の量も豊富だし、三重に関する書籍を自由に閲覧できるコーナーもある。なかなか充実したスポットだった。

再びバスで津駅に戻る。この日の宿泊は津駅前に建つ「アスト津」ビル内にあるホテルグリーンパーク津である。ここからは津の夜の時間を楽しむことに・・・。

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第34番「四天王寺」~西国四十九薬師めぐり・4(津にも四天王寺あり)

2019年07月20日 | 西国四十九薬師

津駅を出て少し歩く。県庁所在地のある駅前にしては、飲み屋街もあるにはあるが少しさびしい感じである。津駅近辺はどちらかといえば官公庁のほうが多く、繁華街といえばここから南、近鉄で1駅先の津新町駅からも少し離れたところにあるそうだ。

駅から歩いておよそ10分、三重県庁の近くに四天王寺はある。通りには「四天王寺のお薬師さん」と大きく書かれたパネルがある。写っているのは薬師如来像で、国の重要文化財に指定されている。

四天王寺といえば聖徳太子が建てた、日本で最も古い時代に属する大寺として有名である。そして四天王寺と聞けばもちろん大阪の天王寺を連想するし、先日も新西国三十三所めぐりのイベントでも訪ねたところである。

今回四十九薬師めぐりをするにあたって、津にも四天王寺があることを初めて知った。大阪の天王寺から派生した寺なのか、それとも別の時代に建造されたたまたま名前が同じ寺なのかなと調べてみると、寺の言い伝えでは建てたのは聖徳太子その人とある。聖徳太子は物部氏との戦いの前に四天王像を刻み、「もし勝利すればお礼に寺を建てる」と必勝を祈願した。その勝利で大阪に四天王寺が建てられたのは歴史的に知られているが、津の四天王寺の歴史紹介では、聖徳太子は全国に「4つの四天王寺」を建てたといい、津の四天王寺はその中の一つだという。

四天王寺が4つ・・・これは初めて聞いた。何だか歴史ミステリーのようだ。そして今に伝わっているのが大阪の四天王寺と津の四天王寺である、というわけだ。こうなると残りの2ヶ所はどこに建てられたのか気になるが、不明のようだ。大阪の四天王寺は難波津に近く、日本が文化的に進んだ国であることをアピールする狙いもあってそこに建てたと思うが、伊勢の津の地を選んだのはどういう経緯だろうか。東国へのアピールもあったのか。はたまた、四天王寺が4つあるのは、四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)それぞれに一つあてがって畿内~紀伊半島の護りとしたのか。

そうした寺の歴史だが、聖徳太子が建造して以降、次に触れているのは江戸時代のことである。戦乱や兵火による焼失と復興を繰り返したが、江戸時代に津城に入った藤堂高虎、高次の保護により改めて復興し、現在に至っている。山門は当時の建物とあるが、本堂は太平洋戦争の空襲で焼失した後に住職の托鉢によって建てられたものである。コンクリート造りの立派なものだ。現在は曹洞宗の寺院で、定期的には一般の人も対象とした坐禅会も行っているそうだ。

扉から中に入ってお参りができる。結構広い畳敷きの広間で、曹洞宗の勤行集が置かれている。正面には本尊の釈迦如来像。札所めぐりでは真言宗や天台宗、あるいはそれらから派生した宗派が多いが、曹洞宗は珍しい。いつものお勤めのやり方でいいのかなと思いつつ、般若心経を唱える。般若心経は日蓮宗と浄土真宗以外ならOKと聞いたことがあるような。

その脇に祀られているのが薬師如来。平安時代の作とされており、幾多の戦火、太平洋戦争の空襲も生き延びた像である。案外小さな像だが、四天王寺が西国四十九薬師の一つになったのもこの像のおかげである。

境内を散策する。西国三十三所の本尊の石像もある。

また、「土俵人生がぶりより 琴風豪規」と書かれた石碑もある。琴風(今の尾車親方)がなぜ?と見ると、津の出身とあった。現役時代はケガにも苦しみながら、がぶり寄りを得意とした力士。また尾車親方としても多くの関取を輩出している。こうした、そこの出身の力士やプロ野球選手の記念碑の類に出会うのも旅先の楽しさの一つである。

境内に続いて広い墓地がある。永代供養の観音像も立つ。その中で、結構多くの人が墓参りに訪れていた。この日は7月14日、この辺りは7月にお盆を迎える風習があるのかな。

その墓地の一角に、織田信長の母・土田御前の墓がひっそりと立つ。本能寺の変で信長が亡くなったことを受けて、当時いた安土城を脱出、信長の子・信雄を頼って伊勢に逃れた。後に津城を構えた信包(信長の弟)の庇護を受けて生涯を閉じた。そうした人の墓があるのも、四天王寺の歴史の深さと言える。

一通り回って、バインダー式の納経帳用紙にて朱印をいただく。

そして、次に訪ねる札所を決めるくじ引きとサイコロ。本堂の外でアプリを操作すると・・、

1.大阪キタ(国分寺)

2.但馬(大乗寺、温泉寺)

3.海南(禅林寺)

4.大原(三千院)

5.三井寺(水観寺)

6.奈良市北部(般若寺)

・・あら、伊勢の次は但馬とかいう、西国四十九薬師めぐりのエリアを大横断する出目もある。私の札所めぐりはそれぞれ単独で、次に行ける機会があればその時に行けばいいのだが、これが今からそこに直接移動しなければならないルールだったらエラいことになる・・(と言いつつ、それもまた面白いだろうと思う自分がいるのだが)。

その中でサイコロが出したのは・・「1」、大阪市内。ふぅ・・。まあ、ここはここで手軽に行ける。

歩いて津駅まで戻る。早朝から特急に乗ったこともあり、三重県北部の2ヶ所を回ってもまだ13時半。時間配分はうまく行ったと思う。そして空いた午後の時間を利用して、津で今一番人気とも言われているスポットに行くことにする。ここに行くために早い時間に出て、石薬師のバスも早い時間に乗ることにしたとも取れるが・・・。

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第33番「石薬師寺」~西国四十九薬師めぐり・3(四日市あすなろう鉄道)

2019年07月18日 | 西国四十九薬師

石薬師寺の参詣を終えて近鉄四日市に向かう。ちょうど東海道を東に進む形で、バスは国道1号線を走っていたが、途中で県道に入って内部駅前に到着。近鉄四日市に向かうならこのままバスに乗ればよいのだが、そこは乗り鉄、内部でわざわざ下車して、四日市あすなろう鉄道に乗ることにする。

四日市あすなろう鉄道の内部線。元は近鉄内部線の終着駅だったが、2015年、「公有民営方式」という、四日市市が線路や車両を保有し、四日市市と近鉄が出資した会社が運行する方式で現在の鉄道となった。そこに至るには先ほど乗ったような路線バスもあるし、そもそも国道1号線など道路の発達で利用客が停滞していた時期があった。これに対して近鉄はバス転換(BRT)を提案し、四日市市は鉄道による存続を主張した。で、最終的に合意したのが「公有民営方式」というものである。また四日市あすなろう鉄道は近鉄グループの企業として、今でも近鉄の路線図には各駅が掲載されている。

四日市の近郊路線として一定の役割はあるだろう。そういう時間に乗ったことがないので事情はわからないが、朝や夕方は道路の渋滞を嫌ってあすなろう鉄道を利用しようという人もいるはず。ただもう一つ大きいのは、今や全国で数少ないナローゲージ路線というのが、「オンリーワン」の存在感を出しているのもあるのではないか。鉄道ファンの姿も見かける。

ナローゲージの車両はなかなか替えが利かないと言われているが、その中でも従来の車両をリニューアルしてサービス向上に努めている。シートもゆったりしたものになったし、内装も落ち着いたものになった。また車体も「なろうブルー」と「なろうグリーン」の2種類の塗装があるが、「なろうブルー」を順次「なろうグリーン」に塗り替えているという。

乗ったのは11時05分発のあすなろう四日市行き。内部を出た時は空席もあったが、駅ごとに客が増えてくる。旧東海道に近いところ、家も立ち並ぶ中をトコトコと走る。四日市まで17分の乗車時間だ。

ここで再び近鉄名古屋線に乗る。今回は四日市は乗り換えだけということで、駅構内のスタンドで伊勢うどんの昼食とする。さらに、四日市といえば・・・ということで、構内のファミマで「地酒」として売っているキンミヤ焼酎の瓶を2本購入(画像は、津のホテルの客室で撮影)。一応リュックの中に収まったが、酒瓶をガチャガチャ言わせながら寺参りというのも、まあ、それはそれで。

四日市から津へは別に急ぐわけでもなく、料金不要の急行で移動する。近鉄の急行もある程度長い区間の利用があり、大阪線や名古屋線ではトイレつきのクロスシート車やL/Cカー(時間帯・曜日によってクロスシートとロングシートの両方に対応)が導入されており、移動も快適である。

津に到着。JRと共同の駅舎、改札の駅である。東口に出るまでにJR紀勢線のホーム上を通る。こちらも特急南紀や快速みえが走るが、やはり近鉄と比べれば利用客も少ない。

ここから目指す四天王寺までは徒歩で向かう。この日の三重県は雨の予報もあり、先ほどの石薬師では何とか持ったが、ここに来てパラパラと雨粒が落ちてきた。何とか大雨にならずに済むように・・・。

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第33番「石薬師寺」~西国四十九薬師めぐり・3(東海道五十三次と佐佐木信綱)

2019年07月17日 | 西国四十九薬師

西国四十九薬師めぐりもまだ3ヶ所目だが、回るのは33番、それも三重県だ。四十九薬師もいろいろなところを回らせてくれる。

今立っているのは国道1号線にある石薬師バス停。石薬師は東海道五十三次の宿場の一つで、どこかしらにそのような名残がないか探してみる。旧東海道というのもあるはずだ。

国道1号線を少し四日市方向に歩くと、次のバス停の手前に分岐があり、「東海道 石薬師宿」の立札がある。この道が旧東海道のようだ。合わせて、「これより南 石薬師宿 信綱かるた道」という案内板がある。信綱というのは先ほどバス停の名前にもあった佐佐木信綱(国文学者・歌人)で、ここが出身地ということで地元の顕彰会が旧東海道沿いに信綱の短歌を50首掲示しているとある。案内板の横にさっそく第1番がある。

すぐ脇には地蔵堂がある。旅の安全を願って宿場町の入口に建てられたものだという。中をのぞくと地蔵像があり、西国三十三所の納経軸も掛けられている。

およそ1.8キロの宿場町の旧街道沿いに石薬師寺もあるようで、宿場町歩きと札所めぐりを兼ねることになる。歴史的な建物が保存されている様子はないが、それだけに佐佐木信綱を推しているようにもうかがえる。20~30メートルに一つは信綱の歌が出てくる。

石薬師が東海道の宿駅として制定されたのは1616年のことという。その名前はこれから向かう石薬師寺から取ったが、宿場としての規模は小さいほうだったそうだ。先ほどバスで通った途中に隣の庄野宿があるが、こちらも小さな宿場。それぞれもう少し頑張って歩けば東は四日市、西は亀山という規模の大きな宿場町があり、まあ、石薬師、庄野は農村の休憩ポイントの役割のほうが高かったようである。それでも、かつての本陣だった小澤本陣跡に解説板があり、かつての宿帳には赤穂の浅野内匠頭の名前も残されているとある。

本陣跡の近くに天野記念館という建物がある。アマノ株式会社という、タイムレコーダーや、コインパーキングの料金精算機などのメーカーがあるが、その創業者である天野修一という人が石薬師の生まれで、後に地元のために建てたものだという。

そして、ちょうど宿場町の真ん中あたりに来たところで、佐佐木信綱記念館に着く。中は資料館にもなっており、入館無料ということもあって少し入ってみる。

佐佐木信綱は1872年に石薬師で生まれた。記念館の敷地内には生家も保存されている。父が歌人だった影響もあってか、5歳から短歌を作ったそうだ。展示品の中には8歳の時詠んだ歌の短冊というのもある。

その後は短歌の会を主宰して短歌誌『心の花』を発行したり、多くの弟子を輩出したりした。中でも有名な詞とされるのが『夏は来ぬ(きぬ)』という唱歌で、「卯の花の 匂う垣根に時鳥 早も来鳴きて 忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ」というもの。文語なので現代風に言うなら「夏が来た」という意味だ。また同じ唱歌でも今は唄われないが、日露戦争の旅順の戦いで日本が勝利した後、乃木希典とステッセルが対面してお互いを讃えあった『水師営の会見』の作詞もしている。他にも学校の校歌の作詞も多くあり、隣接する石薬師小学校の校歌ももちろん信綱のものである。

またもう一つ大きな功績として万葉集の研究がある。現在の万葉集研究の権威とされるのは、新元号令和の考案者である(とほぼ確定されている)中西進氏だが、万葉集の膨大な数の歌を分類・体系化したのは信綱が最初だという。展示品にはその書籍もあり、令和の出典となったあの序文が書かれたページが開かれている。

また、信綱による『新訓万葉集』という岩波文庫の上下巻も展示されている。東西の古典文学や思想本を網羅した岩波文庫だが、その最初の刊行本がこの『新訓万葉集』なのだそうだ。文庫の最初に収められたのが万葉集というのも、令和の選定過程に通じるものがあるように感じる。

なお名字が「佐佐木」というのも由来があるそうだ。元々は「佐々木」だったのだが、中国に旅した時のこと、彼の国に「々」という文字がないことを知った。このことから「佐佐木」と改めたそうだ(戸籍上では「佐々木」のままのようだが)。

日本の短歌に大きな功績を残した佐佐木信綱という人物について触れ、再び石薬師寺を目指す。次のバスまで2時間近くあった待ち時間も気づけば後1時間ほど。これで寺にお参りして宿場町の南端まで行けばちょうどよい時間だ。国道1号線を跨ぐ橋を渡ったところに寺の大きな看板と門があるが、どうもこちらは裏側のようだ。街道をもう少し歩いて小ぶりな門の前に出る。

門をくぐると緑が多く、石もゴロゴロして庭のようにこしらえられている。ただ何だか雑然としたように見えなくもない。

青もみじが生い茂る境内の参道を歩いて、正面奥の本堂に着く。まずはお勤めとする。本堂外の柱には「嵯峨天皇勅願」「石薬師密寺」の札が掲げられている。

石薬師寺の由来がある。奈良時代に泰澄がこの地で大きな石を見つけ、そこに薬師如来を感得し、お堂を建てて供養したのが始まりとされている。後に弘法大師空海がこの石に薬師如来像を刻んで供養したことで人々の信仰を集め、嵯峨天皇の勅願寺ともなった。当時は西福寺瑠璃光院と呼ばれたそうだ。石薬師寺となったのは江戸時代、宿駅の制定と前後してのこととあるが、おそらく昔から「西福寺」というよりは「石の薬師さん」とでも呼んで親しまれていたのだろう。今の本堂はそれからしばらくして再建されたものである。

本堂の前に歌川広重の浮世絵の東海道五十三次を模写したパネルがある。石薬師宿の全景を描いたものだが、畑の向こうに宿場町の屋根が並び、奥には鈴鹿の山がそびえるというシンプルな構図。左手に大きなお堂が見えるのが、今目の前にある石薬師寺の本堂である。のどかな景色といえばいいが、これだけを見ると宿場町の中には広重が描きたくなるようなネタはなかったのかなとも思う。

納経所に入る。寺も宿場町の歴史とともにあり、先の広重の絵をカバーにあしらった納経帳も置いている。大阪から来たと言うと「薬師霊場も広いから大変でしょう」と話される。「この寺も昔はもっと広かったそうですが、江戸時代に東海道を造るとして切り取られ、(横を通る)国道1号線を通すとして削られ、なかなか大変な歴史ですよ」とも言われる。確かに境内の東を旧東海道、西を国道1号線が通っていて、ちょうど挟まれた位置にある。

これでお参りを終え、さらに歩いて宿場町の南端を目指す。JR関西線の踏切・橋梁の前に大きな木がある。これが宿場町の南口で、一里塚でもある。ようやく着いた。

ここで折り返して、佐佐木信綱記念館のバス停まで歩いて向かう。途中寄り道すると、源範頼(頼朝の弟、義経の兄)の蒲桜というのがある。平家征討に向かった範頼は、石薬師寺で必勝を祈願した際、馬の鞭で使っていた桜の枝を逆さまに地面に刺して祈ったという。後にその枝から芽が出て、成長したのがこの桜の木なのだとか。範頼に蒲の冠者という呼び方があったことから蒲桜だという。また近くには範頼を祀った神社もある。

バス停まで戻ると、2時間に1本のバスがあと数分で着く頃だった。宿場町を往復してちょっとしたウォーキングの感じだった。 ここからバスで近鉄四日市に向かうが、ルート図を見ると途中で内部駅前というバス停がある。内部といえばナローゲージの四日市あすなろう鉄道の終着駅。ならば、この先は乗り物の時間はさほど気にならない行程だから、一丁乗ってみようか・・・。

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第33番「石薬師寺」~西国四十九薬師めぐり・3(札所めぐりと大相撲名古屋場所)

2019年07月16日 | 西国四十九薬師

現在熱戦が繰り広げられている大相撲名古屋場所。10日目を終えて、横綱鶴竜が全勝をキープ。前日逸ノ城に金星を配給した白鵬が1敗で続き、以下2敗で髙安らが追う展開である。また、今場所の取組で古傷が悪化して休場となり、来場所の幕下陥落が避けられなくなった安美錦が引退を表明した。

・・・西国四十九薬師めぐりの記事なのになぜいきなり大相撲の名古屋場所の話題なのかだが、今回は一度のお出かけでこの二つを一緒に回ったためである。

先に予定が決まっていたのは大相撲のほうである。話は5月までさかのぼるが、これまで名古屋場所を生で観戦したことがなく、どんなものか一度行ってみようということで、相撲協会公式サイト「チケット大相撲」での選考抽選販売にて、7月13日~15日の連休中のチケットを申し込んだ。すると9日目の15日、マス席C(一人用)が当選した。ということで7月15日を観戦日として、前日の14日は名古屋近辺の乗り鉄、町歩きでもしてそのまま名古屋に宿泊と決めた。

ただ6月になると、7月13日~14日に出張業務の予定が入ることになった。これは15日当日に新大阪から朝一番の新幹線で名古屋へ移動である。私の場合、相撲を生で観戦するなら朝から会場入りして序ノ口から弓取式までと決めているので(もちろん、途中で食事や買い出しなどで席を外すため取組全部を見るわけではないが)、8時頃には会場に着いておきたいところだ。となれば近鉄特急では間に合わず新幹線となる。

ところが事情が変わり、7月に入ってから、13日~14日の出張業務の予定がなくなった。ならば当初の予定どおり、前日から名古屋入りしようかと思う。そこでふと思ったのが、ここに西国四十九薬師めぐりをくっつけてしまおうというものである。

前回、6月29日に第8番の室生寺を訪れて、ここで出たくじ引きとサイコロの結果は「三重編」。第33番の石薬師寺、第44番の四天王寺である。四天王寺といっても大阪のそれではなく、津にも四天王寺という名前の寺がある。この2ヶ所は大阪から日帰りでも十分回ることができ、6月末の時点ではいつ行くかこれから考えようという状況だったが、今回名古屋まで行くのだからとそこにくっつけてることにした。宿泊は名古屋でもよいのだが、この時点では適当なホテルも見つからないのもあって、初めて泊まる街である津で駅前のホテルを予約した。6時台の近鉄に乗れば8時すぎには名古屋入りできそうだ。こうなれば新幹線に乗らずとも「週末フリーパス」で往復に近鉄を使えば、13日~15日の3日間、4100円で乗り放題となる(特急券は別払い)。

さて、それぞれの札所へのアクセスである。このうち四天王寺は津駅から徒歩10分ほどで行けるとあるが、気になるのは石薬師寺である。案内によると最寄駅はJR関西線の加佐登もしくは河曲とあるが、駅からもそこそこ距離がありそうだ。もう少し調べてみると、近鉄鈴鹿線の平田町駅と近鉄四日市駅を結ぶ三重交通のバスが見つかった。おっ、近鉄使えますやん。石薬師寺へは途中の上田口、もしくは佐佐木記念館のバス停から歩いて5~10分ほどで行けるようだ。このように札所への公共交通機関ルートを見つけるのも、私の札所めぐりの楽しみの一つだ(・・に止まらず結構なウエイトを占めているようだ)。

ただネックとなるのはそのバスの本数で、平田町から四日市に抜ける便は双方向とも日中2時間に1本しかない。平田町から石薬師に行って折り返すなら現地で1時間弱の滞在となる。寺に行くだけなら1時間足らずでも十分で、大阪近辺ならそれだけで次に行っても特にどうとも思わないだろうが、ここについてはなぜか「2時間では長いが1時間足らずでは収まらない」のではという気がした。まあ、四日市に抜けて行程に変化も生じるし、仮に石薬師で時間が余っても致し方ない。

そして出した行程は、平田町8時45分発のバスに乗って12分ほど走った佐佐木記念館のバス停で下車して石薬師寺に参拝し、10時45分発のバスで近鉄四日市に抜ける。そして近鉄名古屋線で津まで南下して四天王寺に参拝して、そのまま津に宿泊とした。

これだけなら13時すぎには2ヶ所を回り終える。何なら、2時間後のバス(佐佐木記念館から四日市に乗る予定のバス)から始めても夕方までに回り終えることができるが、やはり朝早く出ることにする。今回の目的地である薬師めぐりを早く済ませて、そのぶん津での時間を生み出そうとしたからだが、その様子は後ほど書くことにする。

また大相撲の観戦記は西国四十九薬師めぐりとは別のカテゴリで、この薬師めぐり時系列の続きで書くことにする。別に相撲ブログではないのだから、大相撲の記事に速報性がなくてもかまわない。

・・・ということでいつも以上に前置きが長くなったが、7月14日、6時30分発の名古屋行き特急に乗るために大阪難波駅に現れる。大阪難波から近鉄特急に乗るのも久しぶりである。

この列車でまずは津に向かう。列車は名阪ノンストップではないがアーバンライナーの車両で、途中停車しながら伊勢に向かう。

津に到着。ここでいったん改札を出て、コインロッカーにキャリーバッグを預ける。この日は津に戻るのだからこれはあり。

実は、津で改札口を出るのは初めてである。これまでの鉄道旅で何度も通っているし、三重県内の他の主要な市で宿泊したこともあるが、なぜか津は降りたことがない。この日の宿泊を津にしたのは、県庁所在地ながら影が薄いようにも見えるこの地に足跡を残そうというのが大きい。単に名古屋場所だけ考えるなら、名古屋は厳しいとしてももう少し近い場所に泊まればいいわけで。

ホームに戻ると、反対の伊勢中川方面のホームに、クラブツーリズムの団体専用列車「かぎろひ」号がドアを開けずに停車していた。時間調整だろう。中を見るとそれほど多くの客がいるわけではなかったが、この先向かうのは伊勢から志摩か、はたまた大阪か。

そのまま後続の急行に乗る。転換クロスシートの車両で、この線ではロングシートとクロスシートが混在する中、移動環境としてはよい。

伊勢若松に到着。ホーム向かいに停車中の平田町行きに乗り継ぐ。路線図だけ見れば終着駅に短く延びる「盲腸線」だが、実は鈴鹿市の中心部はこの沿線にあり、終着駅の平田町からはホンダや旭化成の鈴鹿工場が近い。以前に「三重県内サイコロの旅」でも少し歩いたところだ。

列車が平田町に着いたのが8時42分、改札口を出るとちょうど8時45分発の近鉄四日市行きバスが入ってきた。乗り遅れると2時間待ちなので慌てて乗り込む。乗客は他にいなかった。

バスは旭化成の工場や鈴鹿高校の前を過ぎ、鈴鹿川を渡る。その向うに延びるのは国道1号線。いうなれば東海道だ。JR関西線の加佐登駅も遠くに見える。そのまま国道1号線を走り、石薬師寺の最寄のバス停である上田口、さらに佐佐木記念館でも下車せずそのまま乗る。降りたのは佐佐木記念館の次の石薬師バス停である。

石薬師は東海道五十三次の宿場町の一つである。ただ、近年人気の旧東海道ウォーキングとか、かつての宿場町を訪ねて昔の風情を感じる・・・という類のテレビ番組や紀行文を通してもさほど有名ではない。ちなみに石薬師の東の宿場町は四日市、西の宿場町は庄野とされている。

目の前の国道1号線はひっきりなしにクルマが通るが、はて、宿場町の面影はあるのだろうか。西国四十九薬師めぐりとしての石薬師寺は少し離れているが、果たしてそこまで無事にたどり着けるか。意外な展開になったなと思いつつ、まずは宿場町・石薬師を一通り歩くことに・・・。

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その力「ここ(後半公式戦)」で魅せろ!魅せろ!

2019年07月12日 | プロ野球(バファローズ・NPB)
プロ野球はオールスター戦が開催。なぜ2試合ともセ・リーグ主催(東京、甲子園)なのか疑問で、パ・リーグをバカにした扱いだが、まあ、いろんな大人の事情があるのだろう。

試合前にホームラン競争の1日目があったそうだ。ホームラン競争は両リーグから4人ずつ出場して、1回戦と準決勝を各球場で行い、決勝は2戦目で行う。1日目はジャイアンツ坂本対マリーンズレアード、スワローズ村上対バファローズ吉田正の組み合わせ。

その中で吉田は、村上が4本放ったのに対して5本で逆転勝利。続く準決勝でも、先攻の坂本が3本だったのに対して、4球で4本のホームランであっさり勝負を決めた。

これらはスマホの記事で見たことだが、ここは面目躍如ではないかな。明日はベイスターズ筒香対ライオンズ山川、カープ鈴木対ライオンズ森のホームラン競争で、その勝者と吉田による決勝戦もある。

その中からだと山川が勝ち抜くように思うが、個人的に鈴木に頑張ってほしい。ただ最後は、吉田に勝ってほしいなあ(チームが最下位なので、せめてこうしたことでも記事になれば)。

・・ただ、オールスターのホームラン競争で優勝したとしても、やはりほしいのは後半公式戦での一発。開幕当初に吉田の成績が伸びなかったことも苦戦の原因の一つで、このところ調子を上げて来たのをいい感じで維持して、後半戦に爆発させてほしい。

何とか踏ん張ってきたがこのところ疲れの見えるバファローズ投手陣に対して、これからは打撃がカバーしなければ。その中軸である吉田の力を魅せるのは後半戦。オールスターをきっかけでもいい。全身全霊かけろ・・・!
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第2回中国観音霊場めぐり~第3番「正楽寺」

2019年07月10日 | 中国観音霊場

伊里駅から徒歩50分で正楽寺に到着した。結構汗もかいた。

寺に入る前に、熊沢蕃山の邸宅跡と、肖像画を彫ったレリーフを見る。熊沢蕃山は江戸時代の陽明学者。近江の中江藤樹の下で陽明学を学び、岡山藩主・池田光政に仕える。池田光政は前回第2番の餘慶寺を訪ねた時にも触れたが、陽明学を篤く信奉しており、その影響で神仏分離もいち早く進めた藩主である。蕃山は光政の下で藩の行政にも携わり、光政が名君と呼ばれる中での有能な実務担当者だったが、幕府の政治を批判することもあったため、藩内の反対派や朱子学者らとの対立の末、岡山城を追われてこの地に隠棲した。邸宅跡と言っても数メートル四方の塀に囲まれているのはそうした棲み家だったからか。

蕃山はその後も幕府の政治を批判することがあり、いくつかの藩の預かりや蟄居を繰り返して、最後は下総の古河藩で亡くなった。しかし後に蕃山の考え方は評価を受けることになり、藤田東湖、山田方谷、吉田松陰など幕末の活動家にも影響を与えたとされている。また最近では、治山治水をベースとした政策が日本におけるエコロジー思想の先駆者であると評する向きもあるそうだ。

さて、正楽寺である。杉の木に囲まれた仁王門に出る。門をくぐると右手に鐘楼が建つ。正面には十一面観音を祀る本堂と大師堂が渡り廊下で結ばれて並んでいる。寺の雰囲気として、四国八十八所にもこのような寺があったように感じる。

他に参詣の人はおらず、一人で本堂前でお勤めとする。その合間に空気を切り裂く音がする。そう、新幹線。般若心経を読む間に新幹線の走行音を耳にするのは他の札所めぐり通しても初めてである。本堂横の木々の隙間からも白い車体が走り抜けるのがちらりと見える。

正楽寺の由来に触れておく。奈良時代、この辺り一帯の寺院の由来に出てくる報恩大師により創建されたという。その後衰えたが、鎌倉時代に信賢が再興して伽藍を整備したとされる。

しかし江戸時代初期に火災に遭い、伽藍は焼失。そこで岡山藩の池田氏が寺を保護して、伽藍の整備をバックアップした(あれ、池田光政は神仏分離を進めた陽明学信奉者ではなかったっけ・・と思うが、岡山藩、池田氏の長い歴史の中の話ということで)。当時は池田氏の祈願寺として、また歴代藩主の位牌も安置されている。本堂や鐘楼、仁王門は江戸時代の建物として今に伝わっている。

本堂横の大師堂にもお参り。そこには「和気郡八十八ヶ所第76番札所」との立て札がある。和気郡・・またエリア限定の札所めぐりやな。せっかくなのでこの札所についてスマホで調べると、1918年(大正7年)に選定されたとある。現在は平成の町村合併により和気郡がなくなったので「旧和気郡八十八ヶ所」と呼ぶそうだが、四国全土を回るのは難しいとしても、地元のいろいろな寺やお堂、祠をお参りして回ることについて、備前のこの地の人も信仰篤く、あるいはちょっとした遠出の感覚で手を合わせて来たのだろう。

納経所に向かう。インターフォンを鳴らすとしばらくして普段着ながら僧侶(ご住職?)が出て、朱印帳に朱印と墨書をいただく。中国観音霊場では朱印に加えて本尊の御影をいただけるのだが、ここではそれに加えて、何かを引き出しから出して袋に入れたものと合わせて返していただいた。

「正楽寺は岡山藩の鬼門を守る寺としての歴史があります」と説明される。鬼門とは、ざっと言えば北東の方向で、岡山藩池田氏としてその方角(にしてはそこまででもないと思うが)に位置する由緒ある正楽寺をそれに見立てたのだろう。納経の人に渡しているというその札は、不動明王。シール式で、そのまま壁に貼ってくださいとのことだが、これを私の住む部屋に置き換えると北東はトイレで、そこには烏枢沙摩明王が陣どっている。ただ、札の裏面に(北向の)玄関の上に貼ってくださいとある。現在の住宅事情を考慮してのことか。帰宅後、この画像を撮った後で早速玄関の目の上の位置にペタンと貼りつけた。

これにて正楽寺を後にする。日生に向かう道は山越えのようなので、そのまま来た道を引き返す。目指すのは伊里駅11時45分発の播州赤穂行きの列車で、この時間帯は1時間に1本だけ走る。伊里駅からの往路の所要時間から逆算して正楽寺を出発したので何とかなるか。

果たしてこの時は播州赤穂行きの列車に悠々間に合い、一駅、日生に向かう。ここで下車する。時刻はちょうど昼時だ。

日生は駅の向かいにフェリー乗り場がある。少し待てば小豆島(大部)行きのフェリーがでる。小豆島に行ったこともない私、一瞬、このフェリーに乗り、日生の沖合いに浮かぶ島々の景色を楽しみ、そのまま小豆島まで行くのも面白いかなと思った。ただまあ、行って帰ることを考えると・・・。

日生の名物はカキオコである。牡蠣を具材にしたお好み焼だが、もちろん旬は冬。逆に夏はエビオコをアピールしているが、広がりは今一つのようだ。カキオコも店じたいが冬季限定営業のところがある一方で、年中出している店もある。ただ、年中出すといっても夏場は冷凍ものを使うそうだ。

町中にカキオコ、またはエビオコを探して散策してもいいのだが、歩くのも暑いこともあってか、駅すぐ横、観光案内所も入った建物にある「レストラン夕立」に入る。見た目は普通の食堂だが、年中カキオコが出る一方で、冬は牡蠣の単品もメニューにあるようだ。この店にしたのは、表のメニューに日生の魚料理があるのを目にしたからである。

欲張って・・ということで、刺身定食とカキオコの両方をいただく。相手するのは岡山工場出しのキリンラガー。

刺身も8品くらいはあった。生のタコ刺身があるのも瀬戸内ならでは。他に酢の物、サラダ、茶碗蒸しもあり、ビールのお供には十二分。

そしてカキオコ。画像ではほとんどわからないが、ノーマルは牡蠣が8個入っている。この時季なので牡蠣が小ぶりなのは仕方ないが、味は濃厚だ。まあ、燻製や佃煮といった牡蠣の加工食品は年中いただけるから、それの一種だと考えればよい。

中国観音霊場は瀬戸内と日本海の両方を巡る。となると海の幸を味わうのが楽しみで、特に冬は牡蠣、フグ、カニという三本柱が出揃う。巡拝のスケジュールとにらめっこだが、できれば地元の味覚も楽しみたい。プランニングが楽しみだ。

結局この日はレストランでくつろいだところで終了。次の列車で播州赤穂に戻り、そのまま乗り継いで大阪に戻った。

さて、札所順でいえばこの次は特別霊場の誕生寺、続いて第4番の木山寺、第5番の法界院である。誕生寺と法界院は津山線の同じ名前の駅から徒歩圏内だが、木山寺は津山の向こう、姫新線の美作落合駅が最寄りだが駅からも結構距離がある。これから夏場は青春18きっぷも投入できるが、鉄道利用だと1日で3ヶ所を回るのはほぼ無理で、2回に分けるか、1泊するか。参詣順の入れ替えもやむを得ない。また時刻表をあれこれいじくり回すことにしよう・・・。

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何をやらせても中途半端で、何ら結果を残さない人っていますよね。

2019年07月09日 | プロ野球(バファローズ・NPB)

バファローズ・山﨑福也。あんたのことや。

先発ダメ、中継ぎダメ、点差に余裕のあるリリーフダメ。

ただ、なぜか知らないが1軍のあれやこれやで起用される。

不思議といえば不思議な能力ですなあ。

まあ、私も人のことは言えません。今の組織では同じようなことを言われているので、結構親近感沸きますなあ・・・。

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第2回中国観音霊場めぐり~「頓宮」ゆかりの地

2019年07月07日 | 中国観音霊場

6月の第1回に続いての中国観音霊場めぐりである。今回訪ねるのは第3番の正楽寺で、備前市にある。今後のスケジュールを見て、7月7日に行くことにした。天気は晴れの予報で、気温も30度超えの真夏日になるのが気になるが、順番ならば致し方ない。

正楽寺の最寄駅は赤穂線の伊里。駅から東に歩いて行くのだが、備前市関連の案内を見ても駅から徒歩54分としているものもあれば、徒歩30分と書かれているものもある。中には一つ手前の日生から歩いて50分近くというのもある。確かに地図だけ見れば伊里から行くのとほぼ変わらないように見えるが、確かあのあたりは山で、赤穂線はそれをぐるりと回っているのではなかったか。山越えのルートというのもしんどそうなので、ここは伊里駅から歩いて行くことにする。

この日は大阪を朝6時25分発の快速で出発。真夏日になる予報なのであればなるべく午前中のうちに行っておくことにする。今回は「夏の関西1デイパス」を購入している。播州赤穂まではフリー区間に入っていて、大阪から往復するだけでも元が取れる。その先は別払い対応とする。ちなみにこの「関西1デイパス」だが、この春から発売方法が変わっており、前日までの購入が必要で、かつ、駅のみどりの「窓口」での発売は行わないことになっている。みどりの「券売機」で購入するか、ネット販売(e5489)であらかじめ購入したものを窓口で引き換えるかになっている。

姫路で8時08分発の播州赤穂行きに乗り継ぎ、8時40分、播州赤穂着。次の伯備線直通備中高梁行きまで20分ほどあるので、いったん駅前に出る。

赤穂といえば赤穂義士、出迎えるのは大石内蔵助の像である。この先にある花岳寺は赤穂浅野家の菩提寺として、また浅野内匠頭と義士たちの墓もあるが、新西国三十三所の札所として訪ねたことがある。いろんな三十三観音霊場があるなというところだが、実は現在回っている中国観音霊場の他に、播磨(赤穂)、備前、備中、備後に広がる「瀬戸内三十三観音霊場」なるものがあり、花岳寺はその札所の一つでもある。

また赤穂も北前船の寄港地だったとかで、この5月に他の港町とともに北前船関連のスポットとして「日本遺産」に認定された。

駅にはこうした顔出し看板がある。「赤穂義士ライダー47」というものだが、なぜに赤穂義士に仮面ライダーなんだろうか。

時間となり備中高梁行きに乗車。9時32分、伊里に到着。ホーム1本だけの無人駅である。駅舎にはカラオケ喫茶店が入っているようだ。

待合室に、備前市にある「日本遺産」の構成文化財を紹介したパネルがある。「近世日本の教育遺産群-学ぶ心・礼節の本源-」というタイトルで、江戸時代に各藩で開かれていた藩校や郷学など、武士だけではなく多くの庶民にも読み書きそろばん、礼儀の教育が行われ、それがいち早い近代化の原動力となったとして評価するものである。備前市だと代表的なのが旧閑谷学校であるが、岡山藩で陽明学者として活躍した熊沢蕃山の邸宅跡というのもある。この邸宅はこれから訪ねる正楽寺のすぐ横にあるそうだ。

駅前には備前市のコミュニティバスの時刻表がある。山陽線の吉永駅との間に日曜日でも日中1時間に1本程度運行されているとある。この後で車両を見かけたが、コミュニティバスといっても10数人が乗るマイクロバスである。またこれから目指す正楽寺方面にも運行があり、この先でバス停も見かけたが、朝と夕方だけの運行のようである。やれやれ、やはり歩いて行かなければならない。

県道262号線を歩く。 伊里小学校、伊里中学校、公民館など集落の「文教地区」を過ぎる。横を流れる川では消防団の人が出て何やら訓練の様子だ。西日本豪雨からちょうど1年ということもあるのかな。

道沿いには集落が広がるが、コンビニはおろか一般の商店もなく、その中を淡々と歩くのみである。そんな中で見つけたのがこの表札であり、工場の看板である。その名は「頓宮」。

これを目にして思いつくのが、今季バファローズに入団したこの選手。そういえばとプロフィールを見ると、出身はここ備前市である。学校が伊部小学校、備前中学校とあるから備前市でも伊里ではなく伊部の出身ということか。珍しい名字だが調べてみると、元々の言葉の意味は「仮の宮」。名前としては近江の甲賀郡頓宮村というのが発祥の地とあり、現在では日本で約1000人の「頓宮さん」がいて、その半数が岡山県にいるとのこと。この家や工場のご主人も家系図をたどっていけば頓宮選手につながることだろう。頓宮選手はルーキーながら開幕スタメンにも名を連ねるなど期待されたが、現在はプロの壁にぶち当たっている状況。これからの奮起が期待される。

駅から30分ほど歩いたところで、前方に高架橋が見えてきた。上に架線が張られている。山陽新幹線だ。ちょうど相生~岡山間で、比較的トンネルが多い区間である。しばらくこの高架橋を見ながら、新幹線の様子を気にしながら歩く。時折地響きの音が遠くから続くと、それが新幹線が来た合図である。この区間は16両編成の「のぞみ」もあれば、8両編成の「みずほ」、「さくら」、そして6両編成の「こだま」と、車両数もまちまちであり、走行音もそれだけ差がある。いずれにしても通過するのはほんの数秒のことだが、一日に何度となく走行音が響く環境、地元住民の人はどう感じているのだろうか。

岡山ブルーライン(県道260号線)に続く蕃山交差点でようやく正楽寺への案内板が出る。まあ、正楽寺への交通機関はクルマを前提としており、ブルーラインの蕃山インターからすぐということになっている。その先の細道を歩くと前方に寺の境内らしきものが見えてきた。駅から結局50分ほどかかってようやく到着。ここで、寺のすぐ後ろを新幹線が轟音を出しながら通過するのを見る・・・。

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