まつなる的雑文~光輝く明日に向かえ

まつなる兄さんのよしなしごと、旅歩き、野球、寺社巡りを書きます。頼りなく豊かなこの国に、何を賭け、何を夢見よう?

第24回四国八十八所めぐり~第86番「志度寺」

2019年02月13日 | 四国八十八ヶ所
源内通りを歩く。沿道には平賀源内が残した言葉を紹介するパネルも飾られている。ちょうど通りの突き当たりが志度寺の山門である。五重塔も見える。山門と五重塔の組み合わせはなかなか様になる。

山門の手前に塔頭寺院の自性院があり、「源内さんのお墓」の立て札がある。源内は江戸で獄中死して、親友の杉田玄白らの手で浅草に葬られたが、自性院が平賀家の菩提寺のため、参り墓を建てたとも実際に分骨されたとも言われている。いずれにしても志度の人たちにとって今に至るまでの偉人であることがうかがえる。

さて志度寺、山門をくぐるとやたらと緑が多く感じる。ただ何だか雑然と並んでいるような・・・。境内というよりどこかの屋敷の手入れされていない庭に入ったかのようである。木の間を縫うように標識に従って本堂に出る。まずはここでお勤めである。

志度寺の歴史は古いようで、7世紀の前半、推古天皇の時代に、志度の海岸に流れ着いた檜の霊木を尼が持ち帰り、十一面観音像を彫って祀ったのが始めとされている。奈良時代に藤原不比等やその子房前らの手で伽藍が建てられ(だから先ほどその駅名があったのかな)、その後も栄えたが、戦国時代には土佐の長宗我部元親にも攻められ(阿波や讃岐の札所はほとんど彼の戦火に何らかの形で巻き込まれたように思う)、江戸時代に高松松平家の手で復興した歴史を持つ。

本堂と並ぶ大師堂にも手を合わせる。

この後で三尊像や閻魔堂、薬師堂などを回るが、どこか違和感を覚える。先に「どこかの屋敷の手入れされていない庭」と書いたが、よく見れば手入れはされているものの、植木鉢なども並んでいてどこかの植木市の屋外売り場に見えなくもない。どういう経緯でそうなったのかはわからないが、山門前から見た姿が由緒ある大寺の風情だったのに対して、境内が無駄に草木の生える状態だったのは意外である。

あくまで訪ねた時の印象なので、時季を変えれば違った景色が見られることだろう。

さて時刻は12時半前、志度寺から次の長尾寺までは約7キロ。この時間なので歩きへのプレッシャーはない。ともかく南に向けて歩き始める・・・。
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第24回四国八十八所めぐり~讃岐が生んだもう一人の天才

2019年02月12日 | 四国八十八ヶ所
中央公園から歩いて瓦町駅に到着する。駅は「瓦町FLAG」という駅ビルと一体化している。

このビルは1990年代に、瓦町駅の駅舎建て替えも含めた再開発のために建てられたもので、当初はことでんとそごうが共同出資した「コトデンそごう」としてオープンした。しかしそごう自体の低迷や店舗としての売り上げも伸びず、ことでんの本体の経営にも影響した。2000年代に入って天満屋に経営を引き継ぎ、一時は業績も回復したがやはり低迷、2014年に閉店した。現在はことでんが双日グループと提携し、2015年からは百貨店方式ではなく複合ビルという形で「瓦町FLAG」という名前になった。高松の中心にある瓦町において、街の「フラッグシップ」として未来に向けた旗を掲げるという意図がある。現在も店舗のリニューアルが進められており、近日オープンのフロアもある。

バッグをコインロッカーに収めて、10時26分発のことでん志度線の志度行きに乗る。駅ビルの建設にともない、志度線は琴平線、長尾線と線路が分断され、改札口の中だがホームも完全に独立している。ことでんはこの3線で成り立っていて、瓦町にはその3線が集まる。ただそれぞれがバラバラのダイヤを組んでいて独立運転しているのは、大阪でいうなれば阪急の梅田か十三かを連想させる。

行き止まり式のホームから出発。土曜日の午前中、乗客もまばらである。また駅ごとに下車する客のほうが多いので数も少しずつ減っていく。そのうち私の乗った車両には他の乗客がいなくなった。

前回の四国めぐりでは車窓に広がる屋島、そして五剣山にある札所を回った。いずれも香川独特の地形に歴史を持つところだった。今回は前回下車した琴電屋島、その先の八栗(前回の帰りは八栗から乗らず、少し南にあるJRの古高松南から乗ったのだが)から次へのつなぎということにする。

国道11号線、その先にJR高徳線の線路を見ながら東に進む。塩屋を過ぎて急なカーブに差し掛かるところで、車窓左手に海が姿を現す。志度にかけてちょうど入り組んでいるところで波もほとんどない。こうした地形を利用してか、この一帯では牡蠣の養殖も盛んで、牡蠣を殻つきのまま豪快に鉄板で焼く牡蠣焼きが名物だという。

房前では線路横に愛染寺という寺がある。どこかアピールしてくる感じだったのでスマホで検索すると、江戸時代に現在の四国八十八所のルートを定めてPRし、いわば「四国遍路の父」とも言える真念法師の終焉の地だという。八栗寺から志度寺までガチで歩く遍路ならその途中で立ち寄るであろうスポットだ。

11時ちょうどに終点の志度に到着する。ここまでで乗客も減っていて、下車したのは私ともう一人だけ。折り返しの列車にはそれより多い数の客が乗り込んだのが救いといえる。

さてこれから志度寺を目指すが、少し早く昼食とする。ことでんの志度駅のすぐ南には国道11号線を挟んでJR高徳線の志度駅があり、その西隣にうどん店がある。さぬきうどんについていわゆる通ではないのだが、「牟礼製麺」というこの店に入ってみる。

中は昔ながらの雰囲気で地元の人向けのうどん店という感じである。標準的なセルフ方式ということで、かけうどん(大)を注文し、天ぷら、おにぎりも取る。だしもいりこと昆布という讃岐のスタンダードな味だ。

ただ牟礼製麺で扱うのはうどんだけではないようだ。先客が食べていたのは日本そばだったし、後から入った客は中華そば、次の客は中華そば(大)を注文する。後で知ったことだが、この牟礼製麺は製麺所としてうどんだけではなく日本そば、中華そばも扱うそうで、グルメサイトの口コミを見るとうどん以上に中華そばが評判のようだ。他の客が注文した中華そばをちらりと見ると、純和風のスープに入った昔ながらの中華そばで、1杯300円というこちらも昔ながらの価格である。現在ラーメンの専門店に行けば1杯800円、1000円も当たり前というご時世だが、その中にあって300円とは、その辺の社員食堂かそれ以下の値段である。そうしたことは知らなかったのでこの日はそのままうどんをいただいたが、もし次に志度駅前に来ることがあれば中華そばに挑戦しようと思う。

志度寺へは駅から徒歩でも数分で、現在の国道11号線の前身の一部である旧志度街道を歩く。現在は「源内通り」と呼ばれている。

「源内」とは江戸中期の科学者・平賀源内である。この志度の出身ということで地元の人は「源内先生」「源内さん」として親しんでいる。この平賀源内という人物、先に「科学者」と書いたが、その肩書はもっと他にあり、ウィキペディアの記載では「本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家として知られる」とある。

街道沿いには駅の東西に分かれて旧宅と記念館があるが、人物紹介や資料展示は志度寺寄りの記念館のほうということでそちらに向かう。中の撮影は禁止なので建物の外観のみの写真だが・・・。

中は源内の志度、高松藩での生い立ちに始まり、諸国行脚や数々の業績について触れられている。奥のシアター室では源内の生涯を10分ほどのアニメで紹介しているので、まずそちらを見たほうがわかりやすい。子どもの頃に読んだ歴史漫画のシリーズの中に平賀源内があり、さまざまなことを手掛けながらなかなか世に認められないもどかしさが描かれていたのを思い出す。。

源内は12歳の時に、掛軸に細工をした「お神酒天神」というのを作った。掛軸の天神様の顔のところをくり抜き、その後ろに白色と赤色に塗った紙を垂らしておく。普段は白色の顔だが、特利を置いて糸を引っ張るようにすると、紙がずり上がって顔が赤くなったように見える仕掛けである(記念館の売店ではそのペーパークラフトも売られている)。源内はこれで大人たちを驚かせ、「天狗小僧」と呼ばれた。その評判で藩医のもとで本草学を学ぶようになり、長崎にも留学してオランダ語や医学、絵画を学んだ。

その後も江戸や長崎で学び、それを活かした源内の業績を並べてみると、

・江戸で薬草の物産会を開催した。

・伊豆や秩父で鉱山開発を行った。

・さまざまなペンネームで『根南志具佐』や『風流志道軒伝』などの戯作、『神霊矢口渡』などの浄瑠璃脚本(今でも演じられる)を書いた。

・今でも香川で「源内焼」と呼ばれる陶芸の技法を開拓した。

・火浣布(かかんぷ)という、耐火性のある布を開発した。他にも発明、開発品は数々。

・西洋画の技法を伝え、司馬江漢や『解体新書』の挿絵を担当した秋田藩の小田野直武らに影響を与えた。

などなどあるが、中でも有名なのは、

・オランダで発明されたエレキテルを修理して復元し、医療器具として用いた(実際は見世物だったようだが)。

・土用の丑の日にうなぎの蒲焼を食べることをPRした。

の2つだろう。

記念館にはエレキテルの模型が置かれて、その原理を体験することができる。エレキテルはハンドルを回して摩擦により発生する静電気をエネルギーとして箱の中の蓄電池のようなものに集めておき、銅線どうしを近づけることで放電する仕組みである。ハンドルを回してピカッと光るのも見ることができ、大型のものだと蛍光灯も一瞬点くほどのものだ。修理と言っても図面やマニュアルがあるわけではなく、自分の力だけで復元させたというのが源内の優れた所以である。

こうして見ると源内の業績は数々あるのだが、歴史的に誰もが知っている有名人というほどでもないだろう。当時の人から見れば奇才すぎてついて行けなかったとか、現代につながる実用的な発明ではなかったとか、最期は人を殺めた疑いで牢に入れられ獄中死したとかで、評価がいろいろ分かれているのだろう。あまりにもマルチすぎていわゆる「器用貧乏」だった側面も否定できない。

讃岐の天才、偉人ということでまず挙げられるのは四国八十八所の巡拝の対象である弘法大師空海だろう。弘法大師に関する伝説の数々はこれまでの巡拝の中、あるいは歴史の時間で登場する業績にも現れている。空海が讃岐の西・善通寺ゆかりなのに対抗するわけではないが、讃岐の東・志度にはもう一人の天才、平賀源内がいる。もう少し後の時代に生まれていたら、果たしてどのようなことを成しただろうか。

記念館の近くにさぬき市役所があり、建物のすぐ裏は海岸である。また市役所にはコミュニティバスが待機していて、車体には「上がり三ヵ寺まいり」のラッピングが施されている。コミュニティバスには結願の帰りに乗る予定だ。改めて上がりに挑むべく、志度寺に向かう・・・。
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第24回四国八十八所めぐり~いよいよ結願に向けて

2019年02月11日 | 四国八十八ヶ所
2016年の7月に京都三弘法(東寺、神光院、仁和寺)、四国第一番前札所(談義所十輪寺)、そして第1番の霊山寺から始まった私の四国八十八所めぐり。公共交通機関をベースとしてその中に歩きが入る(途中2回のレンタカー利用もあり)スタイルで、「夜の八十八所」やら、四国アイランドリーグの野球観戦も入れるということで、ガチの歩き遍路ではなかったのだが、これまでの回数を重ねてようやく残り3所となった。

さぬき市にある第86番志度寺、第87番長尾寺、そして結願所である第88番大窪寺の3つは「上がり3ヶ寺」と呼ばれている。何だかゴルフの「上がり3ホール」のようだが、88の寺の残り3つだからいよいよ大詰めの感じである。

時期をどうするかということだが、2月の3連休中の9~10日とする。寒い季節だがこの日にしたのは、1泊2日で回り、3日目は「オフ」とするため(もっとも、行くことを決めた後に3日目の11日に外での仕事が入ったため「オフ」にはならなかったのだが)、また4月30日で終わる「平成」のうちに結願後の高野山のお礼参りまで行うためである。

ちょうどこの3ヶ寺をさぬき市のコミュニティバスが結んでいる。「公共交通機関遍路」としてはこのバスを活用すれば1日で回ることができるのだが、さすがに最後ということもあるし、少しずつ結願への実感を楽しもうと、今回志度寺~長尾寺の7キロ、そして長尾寺~大窪寺の16キロは歩こうと思う。ただ大阪からの移動を考えれば1日で歩いて戻るのは難しいようで、初日は志度寺~長尾寺、2日目に長尾寺~大窪寺と分ける。宿は高松市街に取ったため、今回キーとなるのはことでんの長尾線ということになる。

2月9日、朝の湊町バスターミナルから6時55分発のバスに乗り込む。四国めぐりにあたってこのバスターミナルも何度も利用したが、いよいよ最終回である。始発のJR大阪駅から乗ってきた客も含めて車内はほぼ満席である。

この週末は北日本に「史上最強」の寒波が来たとニュースになっていたが、関西から四国にかけてはこの時季らしい真冬の寒さである。そのせいか外もどんよりした雲が広がる。雨が降らないことを祈るばかりだが・・・。

連休だが阪神高速の渋滞もなく、順調に明石海峡大橋を渡り淡路島へ。室津パーキングエリアもほとんど混雑していない。

鳴門海峡を渡り、高速近くにある第1番霊山寺の境内も見る。思えば四国めぐり初日は7月、30度を軽く超える暑さだった。その時は暑さにやられた感じで、2日目の途中でギブアップしたことも思い出す。

香川県に入り、各停留所で少しずつ下車客がある。その一つに高速志度がある。遠くに志度寺の五重塔が見えるが、今回はいったん高松市街まで行き、その後でこのバス停近くの道路も歩く予定だ。

途中の渋滞がなかったためか定時より15分ほど早く走行しているようだ。高松市街に入り、これまでなら終点高松駅まで乗っていたが、10時前、一つ手前の県庁通で下車する。ことでんのターミナルである瓦町駅に近いためである。この日の宿も瓦町駅と高松駅の中間地点である。

バス停の前は中央公園ということで、像が立つ菊池寛、そして水原茂、三原脩の両監督像に挨拶?して、結願に向けての無事を誓う。これから出発である・・・。
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第23回四国八十八所めぐり~第85番「八栗寺」

2018年12月30日 | 四国八十八ヶ所
八栗ケーブルに乗る。戦前は八栗登山鉄道という会社がケーブルカーを運営していたが、戦時中に不要不急路線として休止された。戦後の1964年に八栗ケーブルによって再開され、現在は四国ケーブルが運営している。四国ケーブルは八十八所めぐりの第21番の太龍寺、そして第66番の雲辺寺のロープウェイも運営しており、公共交通機関での八十八所めぐりにとっては頼もしい存在である。

八栗寺はケーブルカーが敷かれるくらいの山の上にあるということもそうだし、ケーブルカーの需要があるくらい多くの人が参詣しているとも言える。屋島のようにスカイウェイがあるわけでもないから、クルマで上がるのもきついのだろう。

待合室でしばらく過ごして、15時30分、数人の客と共に乗り込む。車両は1964年の開業時の日立製作所の車両である。先日も近畿三十六不動めぐりで生駒聖天の宝山寺に行ったが、その時もケーブルカーに乗っている。電車ともロープウェイとも違う独特の乗り心地、悪くない。

5分ほどで八栗山上駅に着く。出迎えるのは鳥居である。少し歩くと境内だがケーブルからだと裏から入る形になる。先に多宝塔と大師堂に着くが、やはり本堂から先にお参りしたほうがよいと一旦素通りする。さらに、やはり山門から入らないとということで本堂の前も素通りして山門から入り直す。遍路道をずっと歩いて来るとこの山門から入るわけで、先ほどの屋島寺とは逆のパターンだ。

弘法大師がここで虚空蔵求聞持法を修めた時、天から五本の剣が降り、蔵王権現が現れてこの地が霊地であると告げた。そこで弘法大師は剣を山に埋め、大日如来の像を祀った。それが五剣山の由来だという。また、五剣山の頂上から8つの国が見えたことから「八国寺」とされた。「八栗寺」という名前は、弘法大師が唐に渡る前に入唐求法の効力を試すために焼き栗を八つ植えておき、唐から戻った時にそれが成長していたのを見たことからついたという。梨の実を石のようにしたり、焼き栗から栗の木が生えたり、弘法大師も食べ物に対していろいろと忙しいのである。

改めて本堂を見ると、背後の五剣山の異様な姿を仰ぎ見る形である。この五剣山も信仰、修行の地であるが、現在では落石の危険があるために入山が禁止されている。もっとも、個人のブログなどでは結構登頂している人もいるようだが。

八栗寺は長宗我部元親の兵火で焼かれたが(この武将、いったいいくつの札所の寺を焼いたことやら)、江戸時代に高松松平家の保護もあって再興され、その時に本尊が聖観音となった。

また本堂の手前の聖天堂で歓喜天が祀られている。ケーブルカー、崖の下の本堂、歓喜天・・生駒聖天と共通している。この聖天堂は、江戸時代に木食以空上人がこの地こそ歓喜天を祀るのにふさわしいとして建てられたものである。五剣山というのがそれだけ霊地として魅かれるものがあるのだろう。

私はいただかなかったが、納経所では八十八所の通常の朱印のほかに、八十八所で唯一という歓喜天の朱印もいただける。

順序が逆になるが、ケーブル駅へ戻る途中で大師堂でお勤めとして、八十八所の石仏が集まる一角にも立ち寄る。この石仏は五剣山の中に点在していたものを集めて祀ったものである。

次のケーブルは16時15分。待つ間、梅昆布茶のお接待を受ける。下りの乗車は私一人。この日は17時15分が最終便だが、初詣の期間は運転時間を延長、大晦日から元日にかけては終夜運転とある。高松の人たちにとっては初詣の名所の一つなのだろう。

12月23日、冬至の次の日ということで日がもっとも短い時季である。また午後から曇り時々雨の空模様ということもあって外も暗くなってきた。帰りのバスまで時間はあるが、早く高松の駅まで戻りたくなった。行きに見たうどんの山田家は営業しているが、見送ることにする。もったいないと言えばもったいないのかもしれないが・・。

ケーブルの駅から歩くこと20分でことでんの八栗駅に着くが、時刻表を見るとちょうど瓦町行きが出たばかりで、次は20分待ちである。そこで向かったのは少し南にあるJR高徳線の古高松南。ちょうど16時47分発の列車に間に合った。高松までは20分、こちらのほうが速い。

帰りも青春18きっぷを使って鈍行乗り継ぎとするか高速バスにするか迷っていたのだが、結局19時ちょうど発の高速バスに乗ることにした。乗り換えなしで大阪まで戻れるというのはやはりポイントである。

それまでの間に入ったのは、高松駅横の庄や。チェーンの居酒屋だが、そのエリアの名物も結構メニューにあるのが特徴で、高松店では中四国のメニューがいろいろと並ぶ。この日はそれなりに歩いたのでビールが美味しい。料理ではオリーブの葉の粉末を餌に混ぜて養殖したオリーブハマチの刺身が、身が締まった感じでよかった。

また、今ではすっかり高松名物となった骨付鳥もある。今回は親鳥をいただいたがもちろん雛鳥もあり、食べ比べもできる。

19時の高速バスは阪急バス。この便の乗客は10人ほど。連休中ではあるが年末ということで遠出する人もそれほどいなかったのだろう。おかげで帰途もゆったりと過ごし、途中渋滞もなく順調に大阪まで戻ることができた。

さて、四国八十八所めぐりもこれで残すのは3ヶ所となった。これまでつないでつないで来たが、最後は一気に行こうと思う。何だか名残惜しい気もするのだが・・・。
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第23回四国八十八所めぐり~屋島の戦い

2018年12月29日 | 四国八十八ヶ所
屋島山上にある屋島寺から、次の八栗寺に向かう。公共交通機関利用ならシャトルバスで琴電屋島まで下りて、ことでんで八栗、徒歩20分ほどで八栗ケーブルの乗り場に着くのでというルートになる。ただ今回、屋島の東にある山道を歩いて下り、そのまま八栗ケーブルに向かうことにする。少しでも歩こうということもあるが、このルート沿いに源平の屋島の戦いに関する史跡があることも理由である。時刻は14時、先ほど降っていた雨も何とか止んだ感じである。

鮮やかな朱塗りの山門を出る。駐車場から来るとこの門から入るためか、こちらから出入りする人のほうが多い。そのために最近塗り直したように見える。

屋島の戦いの屏風絵をパネルに貼った土産物店の横を抜け、屋島の東側に向かう。

雲に覆われて眺望はあまり利かないが、ここからの眺めもなかなかのものである。正面にコブが盛り上がっているように見えるのが五剣山で、これから目指す八栗寺はその中腹にある。屋島と五剣山の間の入江で源平の戦いが繰り広げられた。

遍路道を示す道標がある。いきなりの急な下り坂である。その注意を促す張り紙もある。特に雨模様ということでぬかるんでいるところも多く、下りるのに慎重になる。上りならしんどいしキツいが、地面を這ってでも前に進めば何とかなる。一方の下りは下りで、どこに足を下ろすか、また杖をどこに突くか選びながら進む。それでも注意書きの通りに足を滑らせたことも何度かあった。杖を持っていて何とか尻餅はつかずにすんだが、ここは地味に遍路ころがしである。

途中の道路は屋島スカイウェイである。屋島へのクルマでのアクセス道で、かつては有料だった。この道を歩行者が歩けるのかわからないが、屋島寺から八栗寺に向かう時はスカイウェイを横断して進むことになる。

下り坂で足元に注意しながら歩くうち、辺りが開けてきた。猪よけのフェンスが現れた。30分近くかかったが、民家が近いエリアに着いたことになる。フェンスから先は舗装された下り坂である。

佐藤継信の碑に出る。佐藤継信・忠信兄弟は奥州藤原氏の家臣の家に生まれ、源義経が奥州から参戦する時に郎党として仕えた。継信は、屋島の戦いにて、平教経が義経を狙って放った矢を代わりに受けて、そのまま戦死した。その様子は平家物語で示され、名場面の一つになっている。継信が戦死したのはここよりも南で、碑があるのは江戸時代の松平家によるものだという。それはいいとして、この碑の周りには明治以降の軍人の碑もいくつか並んでいる。まあ、「佐藤継信は『忠臣』である」という一種の戦前信仰の現れで、自らの墓石を継信の周りに建てさせたのだろう。

安徳天皇社に着く。一ノ谷の戦いに敗れて四国に逃れてきた平氏は、壇ノ浦の入江に面して背後は険しい屋島、前方には五剣山ということで地の利を得たところとして行宮を建てた。現在は陸続きになっているが当時の屋島は島だったそうである。当然源氏方は瀬戸内海側から攻めてくるものと想定していた。

ところが源義経は小松島から四国に上陸し、またも背後を突く形で平氏の前に現れる。ちなみに上陸したのは四国18番の恩山寺の近く。その上陸の地を訪ねたのもかなり前だなと思い出す。

安徳天皇社の本殿の裏に石が積まれた一角がある。屋島の戦いで戦死した武士たちの墓があちこちにあったが、いつの頃からか里人たちがこの一角に集めて供養したものだという。この地は「壇之浦」というが、下関の壇ノ浦とやはりつながりがあるのだろうか。

もし平氏が屋島の麓ではなく、屋島の山上に行宮を構えていたらこの戦いはどうなっていたかと想像する。古くは中大兄皇子が白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れた後、逆に攻め込まれた場合の備えとして屋島に山城を造ったこともある。

この後は菊王丸の墓、義経の弓流しなどがあり、相引川を渡る。これで屋島側から五剣山側に移ることになる。五剣山は日本でも最高級の石とされる庵治石の産地であり、墓石をはじめとした石材店も沿道に目立つ。

遍路道は洲崎寺という寺を経由するが、この境内にも屋島の戦いについて紹介した庵治石のパネルや、屋島をかたどった枯山水が見られる。

少しずつ上り坂になる。ケーブルカーの近くに「山田家」といううどん店がある。「水曜どうでしょう」の四国八十八所めぐりの中でも絶賛されていて、うどんを取るか札所を取るかというところでうどんを取ったくらいのものである。電柱にも看板が次々と貼られていて、これは立ち寄りたいものだと思う。ただ、まずは札所である。

八栗のケーブルカー乗り場に到着。ちょうど15時15分発の便が出たところで、次は15分後の15時30分。そろそろ帰りの時間も気になるところである・・・。
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第23回四国八十八所めぐり~第84番「屋島寺」

2018年12月27日 | 四国八十八ヶ所
四国村の見物を終えて屋島寺に向かう。シャトルバスで行く方法があるがここは徒歩で上ることにする。

徒歩ルートの上り口は琴電屋島の一つ瓦町寄りの潟元駅が最寄りとなる。今回は四国村から1駅ぶん戻る形で住宅街を歩き、屋島小学校の前に出る。ここからは道なりに上っていく。

小学校のからの道は急な勾配である。トレーニングで走る人がいるが、この急坂では脚もほとんど上がらない。

遍照院というお堂の前を過ぎると、遍路道のあの案内板が出る。屋島寺の本堂まで実測で1665メートルとある。この時は目に入らなかったが、道路標識では勾配21%とある。かつてケーブルカーも走っていたし、屋島の形状を見るとそれもうなずける。今回は金剛杖を持っているが、途中にはお接待で竹杖が置かれている。

上り坂はある地点で階段となり、クルマはその先入れない。そこには石仏が並んでいて、加持水とある。弘法大師が屋島に上る途中で休憩したが周囲に水場がない。そこで加持祈祷をすると水が涌き出たという。しかも、干ばつで周囲の川や井戸の水が枯れた時もこの加持水は枯れることがなかったとも言われている。弘法大師には水にまつわる伝説が多い。

また上ると「喰わずの梨」という木がある。弘法大師が屋島に上る途中に立派な実をつけた梨の木があり、梨をもいでいたおばあさんに一つ所望した。しかしおばあさんは「この梨は水気がなくて喰えたものではない」と嘘をついて梨をあげなかった。その後、梨を売りに出したところ本当に水気がなく喰えたものではなくなっており、以後もこの木になる梨は固くて食べられなくなったという。お接待、施しについて説いた話だと思うが、弘法大師の食べ物への恨みは結構あるなと思う。思い出すのは、阿波の牟岐にある別格二十霊場の鯖大師。ここも、馬方が積んでいた鯖一匹を恵んでくれなかったからと馬を腹痛にして動けなくしている。探せば他にも弘法大師の食べ物の恨みはあるかもしれない。話としてわかりやすいこともあるだろう。

急な坂だが、舗装されていたり石畳が敷かれていて、いわゆる遍路ころがしのような何とも言えないハードさに比べればいくらかマシな感じである。すれ違う人たちも軽装、中には手ぶらの人もいて、地元の人たちが足腰を鍛えるのに上り下りする道のようだ。ただこの日は、ここで雲が広がって空からパラリと雨粒が落ちてきた。天気予報が当たった形だが、まだ折り畳み傘を出さなくても耐えられるくらいである。

そろそろ到達というところに屋島の登山回数の「番付」が張り出されている。そうした面があるというのは意外だった。

山門に着く。上り口から30分くらいかかったが、クルマやシャトルバスだと境内の反対側にある駐車場に着くのでなかなか見る機会のない建物である。

境内を進むと中門に出る。ここは屋島の展望スポットである獅子の霊巌に続く道のため行き交う人も多い。

屋島寺を開いたのは唐の鑑真和上という。唐から幾多の困難を経て日本に来た時、屋島の山上に瑞光を見つけ、普賢菩薩を祀ったのが始まりとされている。その後、鑑真の弟子の恵雲律師が伽藍を開いたり、水が出ないとか梨の実を分けてもらえなかったとかに対して自らの法力を誇示した弘法大師(別にディスってません)が中興の祖とされてたりしながら、江戸時代に高松藩の保護も受けて現在に至っている。屋島といえば源平の戦いで知られるが、これについては後で触れることにしようと思う。

歴史あるお堂の一方で境内は現代風の雰囲気である。正面の本堂は江戸時代前期の再建という。高松藩主松平頼恭による「廣大智慧觀」の額が存在感ある。これは観音経の一節で、本尊は千手観音である。

本堂横の蓑山大明神の鳥居のたもとに巨大な狸の像が並ぶ。狛犬ならぬ「狛狸」かな。これは「太三郎狸」と呼ばれていて、屋島寺の守護神、四国の狸の総大将として信仰を集めている。神仏習合の象徴とも民間信仰の対象ともされている。

他には七福神の像やそれぞれのお堂もある。まあそれよりも、屋島寺というところは、屋島の観光に来て道順からして必ず境内に入る、そして拝む人は拝む・・・という感じの札所やなとの印象が強くなった。

境内を回り、朱印をいただく。これで84番目、この後は85番に向かうということで、そろそろ八十八所めぐりの終わりを意識するところである。

この後、獅子ノ霊巌に向かう。沿道に何軒かの土産物屋が続くが、店頭には狸の置物も見られる。それ以上に置かれているのがかわら投げ。源平の屋島の戦いで源氏が勝った時に陣笠を投げて勝鬨を挙げたのを言い伝えとして、素焼きのかわらを展望台から海に向かって投げるとある。受験の合格祈願、開運厄除け、家内安全などのご利益があるという。こういう「投げるもの」というのは多くはその辺に的があり、その輪の中を通すことができればご利益があるとされるが、屋島ではそのようなものは見えない。ならばその辺に投げておけばいいのかな。

獅子ノ霊巌から眺める高松の市街地は知る人ぞ知る観光スポットだそうだが、この日は小雨が降るためか、残念ながら展望台から高松の市街地への眺望はそれほどでもなく、そろそろ引き返す。これから85番の八栗寺に向かうのだが、昔の遍路道をそのまま残す区間でもあり、どのようなペースで回ることにするか・・・。
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第23回四国八十八所めぐり~四国村

2018年12月26日 | 四国八十八ヶ所
84番の屋島寺に向かう坂道の途中、屋島神社に隣接してあるのが四国村である。四国村とは、「見たことのある 初めての場所」というのがキャッチコピーで、四国のさまざまな民俗的に貴重な建物を一ヶ所に集めて1976年に開かれた施設である。「四国版明治村」とでもいうところかな。瀬戸大橋線の列車で坂出に入る手前にも看板があるので名前は知っていたし、この機会に一度訪ねてみようと思ったのだ。

その前に食事ということで、四国村の入口前にある讃岐うどんの「わら家」に入る。江戸時代末期の藁葺き屋根の民家をそのまま移築した建物である。

こちらのおすすめは釜揚げうどん。中ジャンボサイズをいただく。家族やグループ向けにはたらいサイズなんてのもある。つけ出汁は一升徳利に熱いのが入っていて、徳利の口を縛る藁ひもを持って徳利を傾けて湯飲みに注ぐ。いりこがベースだというがカツオの濃さもある。麺もなかなか腰と風味があり、普段釜揚げうどんは注文しないのだが、これはいけた。

さて腹もできたところで四国村に入る。入園料は1000円としっかり取る。まず出迎えるのはかずら橋。池の上を渡していて、本家の祖谷のかずら橋に行ったことがないのでわからないが、それより短く、水面からの高低差もないにしても結構スリルがある(かずら橋を渡らず池の周りを歩いても先に行くことができる)。

続いては小豆島の能舞台。スタンド型の客席も設けられ、ここで上演することもあるのだろう。

石垣のある立派な民家に出る。伊予の河野家住宅で、国指定の文化財である。寒い地域のため各部屋に囲炉裏がある。園内にはこうした民家が多く残されているが、保全のために入れるのは土間までで、座敷に上がることはできない。

円錐形の屋根を乗せた円柱の建物がある。砂糖しめ小屋というもので、「讃岐三白」の一つとされる砂糖を生産した建物である。中央に石臼と腕木があり、この腕木を牛が引いて建物の中をぐるぐる回る。その動力を利用して石臼に差し込んだサトウキビから汁を絞りだし、その汁を煮詰めて砂糖を精製したという。讃岐と砂糖というのも結び付かないのだが、薩摩から航海の途中で流れ着いた者から伝わったものだという。

左甚五郎の墓というのもある。讃岐でその生涯を終えたのだとか。

こうした昔の建物が続くかと思えば、いきなりコンクリート打ちっぱなしの建物も現れる。この四国村ギャラリーという建物、すぐにピンと来る方もいらっしゃるだろうが、安藤忠雄デザインで2002年に開館した。香川で安藤忠雄といえば直島の美術館が有名だが、四国村ギャラリーはそのついでで造ったのかな?と思わせるような、入口から地下に潜る建物である。

館内の展示作品はメソポタミア発祥のラスター彩の文物が中心で、それよりも目立つのはその先の庭園。勾配を活かして階段を造り、水の景色を演出している。エッシャーのだまし絵の1枚のような水の流れだが、残念ながら水は元に戻らず、そのまま下に流れ出る(機械で汲み上げてまた上から流している・・のはナシで)。

高台には大久野島にあった灯台が建ち、洋風の家屋が並ぶ。「退息所」という、灯台守の住宅である。昔の映画に「喜びも悲しみも幾年月」というのがあり、その世界と重ねての紹介である。このうち手前にある江埼退息所は元々淡路島の北端、明石海峡を望む場所にあって保存されていた建物だという。それが阪神・淡路大震災で被災したことから、四国村に移築して修復したのだとか。なかなか懐も深いのである。

順路に従って進むと今度は土佐和紙の原料である楮(こうぞ)を蒸すための小屋もあるし、平家の落人伝説がある祖谷の民家も見られる。祖谷の家では主家に対する隠居家があり、家督を譲ると主家に隣接した隠居家に移るのだという。

ここまで来ると、四国のそれぞれの国、それぞれの時代の建物がいろいろ出てきて、それらを消化するのも結構しんどくなってくる。まあ、四国村を短時間で消化しようというのそもそもの間違いなのかもしれないが。

丸亀藩の御用蔵では淡路島、阿波の人形浄瑠璃の衣装の展示がある。

また醤油蔵では讃岐東部での醤油造りの紹介がある。かつての麹室も復原されている。

他にもさまざまな建物があり、順路もアップダウンあり、風情ありで、四国の各地や各時代を縦横に回ってそれぞれの民俗を知る感じのスポットだった。今回1時間あまりで一巡したが、じっくり見物するなら少なくとも2時間、お好きな方なら半日を充てていいところだろう。1000円という入園料は十分価値があった。

屋島山上へのシャトルバスは四国村の駐車場前にも停まるが、ここまで来たのだから歩いて上がろうと思う。屋島観光のホームページにて、歩き遍路と関係なくても歩いて上がるコースも紹介されていたし・・・。
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第23回四国八十八所めぐり~屋島と八栗を目指す

2018年12月24日 | 四国八十八ヶ所
2016年の7月に第1番の霊山寺を訪ねてから2年半になろうかというところで、四国八十八所めぐりも最終盤に近づいてきた。これまでの22回で83番の一宮寺まで訪ね、残りも一気に回ろうと思えば回ることができるところまできた。

ただ、そのつもりで時刻表を見てプランニングしたものの、これを一気に回るのももったいないかなという気になった。そこで、残り5ヶ所のうち、84番の屋島寺と85番の八栗寺だけでも先に回れないかと考える。いずれも山に建つ札所ということもあるし、観光スポットとしても知られるところである。

当初は青春18きっぷを使っての日帰りを考えていた。自宅からの乗り継ぎだと高松に着くのは10時26分で、寺2つなら日中で回ることは十分可能だと思うが、見物したいところもあるし、歩きの移動もある。もう少し早く着きたいところだ。

そこで考えたのが高速バスでの移動だが(新幹線+マリンライナーというのは置いといて)、前にも乗った大阪からの高速バスでも高松到着は10時18分。これだと鈍行乗り継ぎと変わらないなと見ていると、高速バスでも神戸三宮発というのがあった。新神戸始発で三宮は7時05分発、高松には9時57分に着く。20分ほどの差だが、このルートで行くのも初めてのことで乗ってみることにした。前日にネット予約したが空席も十分あるようだ。12月23日、連休の中日は天候が少し心配だったが早朝に出発する。

自宅を始発で出発するのはいつものこととして、今回は梅田から阪神電車で移動。神戸三宮で下車してバスターミナルに向かう。

やって来たのは西日本JRバスの車両。今回は最後部の座席を確保したが、半分以下の乗客で出発する。生田川から阪神高速神戸線に乗り、そのまま次の停留所である高速舞子に向かう。ここでも乗車があったが、合計で半分あまりというところだ。中には金剛杖を手にした人もいる。お、これは同好の士かな。4列シートだが隣の乗客もおらず、ゆったりとして四国に向かう。この日の天気予報は午後から下り坂だが今のところは晴天である。まずは順調に淡路島を縦断していく。

大阪から高速バスで四国に向かう時、2時間に1回のペースで休憩を取ることからその定番として淡路島の室津パーキングエリアに立ち寄るのだが、この便は神戸始発のためか、室津は通過する。休憩地として立ち寄ったのは洲本の先にある緑パーキングエリア。設備はトイレと自動販売機のみだが、その名のとおり周囲は緑に囲まれていて、ちょっと散策するスペースもある。淡路島が発祥の人形浄瑠璃について紹介する案内板もある。

淡路島を過ぎて四国に入る。高松自動車道は4車線化の工事中だが、今年の夏に高速バスで通った時と比べても工事が進んでいるのがわかる。2018年度中の完成を目指しているとのことである。

四国に入ると鳴門西から各停留所で少しずつ下車がある。高速志度では金剛杖を手にした男性も下車して行った。ふと遠くには寺の塔が見えるが、あそこが86番の志度寺だろうか。

高松中央インターで高松道を下り、そのまま市街地に入る。途中渋滞するところもなく、9時57分定刻に高松駅の高速バスターミナルに到着した。これからすぐにことでんの高松築港駅に向かう。

今回乗るのはことでんの志度線だが、琴平線、長尾線が高松築港を発着するのに対して、志度線はことでんのターミナルである瓦町から分岐する形である。かつては瓦町でスイッチバックして高松築港に乗り入れていたが、瓦町駅の改築にともない、完全に線路が分断される形になった。琴平線、長尾線のホームから志度線のホームへは長い連絡通路(動く歩道もある)をたどってたどり着く。後でよく考えれば、屋島にはJRの高徳線も並走しており、所要時間もJRのほうが若干早い。しかも、高速バスが着いたタイミングでちょうど高徳線の列車があり、こちらが瓦町で乗り換えている時間には屋島に着いていた。まあそれは結果論として。

瓦町からガトゴト揺られること15分、琴電屋島に到着。1929年に建てられたという木造の洋風の駅舎が今でも残っている。

屋島寺は駅の目の前にそびえる屋島の山上にある。かつてはケーブルカーが出ていたが2004年に運転休止、翌年に廃止されている。山上へは1時間に1本の割合でシャトルバスが出ていて、これに乗れば10分でアクセスすることができる。

ただその前に、屋島の麓にかねてから気になっていて、屋島に来たらここは訪ねようと思っているスポットがある。今回高松へのアクセスの時間を気にしていたのもそのためで、まずは坂道を上ってそちらに向かうことに・・・。
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第22回四国八十八所めぐり~栗林公園と高松の野球人に乾杯

2018年12月01日 | 四国八十八ヶ所
ことでんの栗林公園駅で下車する。ここから西に数分歩くと栗林公園の東口に出る。ここを訪ねるのも20年ぶりくらいだと思う。あまり「庭園」というところに行かないからだろう。

入口では大陸の言葉が聞こえる。ここもインバウンドの恩恵を受けるスポットということか。この香川県も、高松空港に中国や台湾、韓国などからのLCCが就航していたり、瀬戸内海の島々や直島のアート、金刀比羅宮もPRされている。またこの栗林公園もミシュランガイドに掲載されているそうだ。研究機関の分析では、香川を旅行する外国人は訪日回数が多い人の割合が高く、その分富裕層の割合も多いのだとか。それでもそのうち、八十八所の札所だったり、個人でやっている製麺所タイプのうどん店にも大挙して押し寄せることになるのかもしれない。

入園する。園内は広いのでどのように回っても良いので、ともかく時計回りに外周を回ってみることにする。栗林公園は江戸時代のはじめ、当時高松藩を治めていた生駒氏の家臣の屋敷の庭が始まりとされている。後に松平氏が高松藩に入った後に大きく拡張され、明治になって一般に開放された。

やって来たのは南東の角にあたる飛来峰。栗林公園の写真といえばここから見た園内の景色が多い。眼下の南湖方面を見ると、弧を描く偃月橋、掬月亭といった風雅な建物が見える。背景となる紫雲山と合わせると一つの箱庭のような景色だ。そこに小舟がやって来るのもよい。

公園の池は昔から錦鯉が泳ぐことでも知られているが、今年の春、鯉ヘルペスの被害で鯉が大量死したことがあった。これを受けていったん全ての鯉を処分し、前日の11月23日に新たに錦鯉を放流したばかりである。ただし、水温が下がる12月から3月までは、錦鯉が消化不良で内臓障害を起こすということでエサやりは禁止である。この日見た感じでは鯉が泳ぐ姿は見えなかったが。

ところどころに紅葉の色づきもあり、秋の風情を感じるところだ。

園内をぐるりと散策して、最後に商工奨励館に出る。明治時代に香川県博物館として建てられた回廊式の建物。中には香川の伝統産業の展示や実演もあるが、その中に讃岐うどんの歴史を紹介するコーナーというのがある。やはりうどんは漆器などと並んで伝統産業という位置づけなんだろうな。小麦、塩、出汁(いりこ)、醤油という香川の産物の結集みたいなところがある。

名園に来て1時間ほどいたにも関わらずざっくりとした記述になってしまったが、公園を後にする。隣接する県の物産館で土産物を購入して、駅方向に向かう。東口からだと高松駅まで3キロ弱ということで、そのまま歩くことにした。中央通りをずっと道沿いに歩くコースだ。文字通り高松市の中心部を通る道であり、オフィス街でもある。

まずそこで目にしたのが、高松出身で戦前から戦後にかけての政治家・三木武吉の像である。戦後の保守合同で現在の自由民主党の結成に力を尽くした人物である。

高松市役所の南に中央公園というのがあり、子どもたちがボール遊びなどしている。その一角に立つ二人の帽子にユニフォーム姿の銅像を見つける。高松が生んだ二人の名将、左が水原茂、右が三原脩である。

写真では見づらいが、水原はジャイアンツ、三原はライオンズ(西鉄)のユニフォーム姿で、ちょうど「巌流島の戦い」と呼ばれた1956~1958年の日本シリーズの監督の姿をモデルにしたものだ。同じ香川出身で、高校、大学、そしてプロと常にライバルとして歩んだ両雄は香川が誇る野球人である(これに中西太が加わるのだが)。この中央公園は戦後の復興土地区画整理事業により1947年から1982年まで市営球場があったことから、それを記念する意味もあって銅像が建てられたとある。

そのまま中央通りを歩き、高松駅に戻って来た。時刻は17時前、バスの時間までは2時間あまりある。頃合いとしては早めの夕食ということでどこかで一杯と行きたいところだが、駅の周辺は近年再開発されたこともあってか、居酒屋もそう多くはない。

そんな中、高速バスターミナルのロータリーからすぐのところにある焼き鳥の「若大将」という店に入る。香川で鳥料理といえば骨付鳥が連想されるが、あくまで普通の串に刺して出す焼き鳥屋である。出張者や仕事帰りの人が電車に乗る前にちょっと焼き鳥でもつまんで行こうかという雰囲気の店。

小ぶりなカウンターに陣取る。料理の注文はカウンターにあるメモ用紙に書いて渡す。まあ、そのほうがお互い間違いはないだろう。焼き鳥の前に香川名物のしょうゆ豆やささみのタタキなどをアテにしてまずはビールでのどを潤す。

焼き鳥はセットメニューのほか、単品は2~3本がセット。タレ・塩の選択はなく、多くはタレで出すようだ。それぞれなかなか歯ごたえあったし、合鴨も豚トロと食感が似ていて美味かった。

飲み物でうなったのは、フリージングレモンサワーというもの。カチコチに凍らせたレモンのスライスが10個ほどタワーのように連なって出てくる。いわゆるインスタ映えを狙った一品かな。これはレモンが溶ける前に一杯飲んでしまうので、「中身」のお代わりをすることになる(最初からそれ前提なのだろう)。ビールの後はずっとこれになった。

そろそろ時間が近づいて来たので店を後にしてバスを待つ。19時15分発のフットバス大阪行きはほぼ満席で出発する。夜のことで外の景色も見えず、淡々とバスの揺れに身を任せる。

いつしかウトウトするうちに淡路島に入っており、室津のパーキングエリアで休憩。連中の中日だからか、また遅めの時間だからか道路もそれほど混雑していないようで、その後の明石海峡大橋も順調に通過。高速バスに乗るとほぼ毎回北神戸線~新神戸トンネルへと迂回するのだが、この日はそのまま神戸線方面に出た。途中の京橋でいったん降りて湾岸線に入り、淀川左岸線から梅田に向かうルートを取り、ほぼ定刻で大阪まで戻って来た。

さてこれで八十八所めぐりも残り5ヶ所となった。今のところ、一気に5つ回るか、これを2回くらいに分けて回るか思案中である。さらに、88番の大窪寺まで行ったらそれで終わりではなく、最後に1番の鳴門の霊山寺まで行って完結だとか、高野山へのお礼参りも含めてとか、そうした先もそろそろ見えてくる頃である。一つの目安としては「平成の終わり」までに回りきれるのかどうかというところだが、果たして・・・。
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第22回四国八十八所めぐり~第83番「一宮寺」

2018年11月29日 | 四国八十八ヶ所
隣接する田村神社が讃岐の一宮で、思いのほか見所があったので一つの記事となり、ようやく一宮寺の山門に出た。しっかりした造りの楼門である。

先の記事にも書いたが、元々は奈良時代に田村神社の別当寺として設けられた寺院である。後に弘法大師が聖観音像を祀り、真言宗の寺院となった。江戸時代になってどういう経緯があったのか松平家から別当寺の役目を解かれたが、その後は一つの独立した寺院として今に至っている。昔とは形が変わったにせよ、八十八所には4つの国とも国分寺や一宮神社の別当寺が札所として残っている。

境内の真ん中に巨大な楠があり、その奥に本堂がある。江戸時代の建物だという。白衣、笈摺姿の人もちらほらと見える。まずはこちらでお勤めである。

本堂から少し奥まったところに大師堂がある。こちらは比較的新しい建物のようで、本堂よりも大きく見える。外陣ではお守りなど扱っていて、賽銭を賽銭箱に入れると寺の人が鐘を一つ鳴らしてくれる。予約が必要だがこちらでは写経体験ができるそうだ。

他には菩薩堂や水掛け不動もあり、コンパクトながらも楠を中心に一通り揃っている感じである。また宝塔があるが、田村神社の祭神を祀ったものだという。

その中で目を引くものがいくつかある。まずは薬師如来。「地獄の釜」と呼ばれる石造の祠に祀られている。これは弘法大師が造ったもので、祠に頭を入れると境地を開くことができるとの言い伝えがある。しかし、悪いことをする人が頭を入れると扉が閉まり、地獄の釜が煮えたぎる音がして頭が抜けなくなるとも言われている。

昔、この地で暮らしていたおたねという意地の悪い婆さんが、そんなことはないと頭を祠に入れた。すると扉が閉まり、地獄の釜の轟音がして頭が抜けなくなってしまった。それでこれまでの意地悪を謝り、心を入れ替えると言うと頭が抜け、それからは親切な婆さんになったという話がある。

また、般若心経が彫られた石板がある。奉納したのは岸信介とある。地元出身の福家俊一という衆議院議員が、今あるのは岸信介先生のおかげだとして一筆してもらい、一宮寺に奉納したとある。・・・という解説の碑は、「じじい放談」、もとい「時事放談」で知られた細川隆元によるもの。弘法大師からいきなり昭和の戦後史まで飛んできた。福家さんも地元の名士として何か残したかったのだろうが、岸信介を持ってくるとはどうなんだろうか。

納経所への通路を挟んだところには「りえとまことの夫婦槇」というレリーフがあり、まだ若い槇の木が2本植えられている。説明文では、結婚式を控えて二人とも夭逝したとある。そして、二人が生きた証として槇の木を植えたとある。平成20年没とあるからちょうど10年前、りえさんとまことさんに何があったのか。また、このレリーフを奉納したのは愛知県小牧市の方とあるが、なぜ一宮寺にあるのだろうか。何らかの経緯があったのだろうがこれだけでは分からない。まあ、そこはあまり掘り下げないほうがいい事情があるのだろう。

こうして見ると、一宮寺はさまざまなものを受け入れるベースがある寺院なのだろう。

納経所で朱印をいただき、一宮寺を後にする。駅に戻ると高松築港への折り返し列車が着いたところで、また慌ただしく運転手と車掌が入れ替わる。

時刻は14時半を回ったところだが、次の第84番の屋島寺に行くには時間が厳しい。かと言って帰りのバス、その前の食事にはまだ時間がある。ここは高松市街に戻ることにして、久しぶりに訪ねるあの有名庭園に行くことにしよう・・・。
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第22回四国八十八所めぐり~讃岐一宮の田村神社

2018年11月28日 | 四国八十八ヶ所
ことでんの高松築港から第83番の一宮寺を目指す。最寄り駅は琴平線の一宮市で、乗った13時15分発の列車はちょうど一宮止まりの便だった。琴平線の日中のダイヤは毎時0分、30分発が琴平行き、15分、45分発が一宮行きとパターン化されている。

長尾線、志度線の分岐駅となる瓦町を過ぎる。次からはこの駅にも来ることになる。

20分ほどで一宮に到着した。行き止まり式の1番線に入ると、すぐに折り返すため運転手と車掌が慌ただしく入れ換わる。時刻表上では折り返し時間はわずか1分、まあ2両編成だからできるダイヤだろう。

小ぶりな駅舎を出る。一宮寺までは徒歩10分とあり、遍路道とは逆方向からのアクセスだが案内板もあり、道もわかりやすい。

近郊住宅地の中を歩き、一宮寺に続く小さな路地に標石があるのだが、先にその向こうに見える鳥居をくぐる。路地に並行して神社の参道が続く。

向かったのは田村神社。古くはいつの頃からか、定水井という井戸にいかだを浮かべて神を祀っていたそうで、奈良時代に行基の手により社殿が建てられたという。そして平安時代以降は讃岐国の一宮として広く信仰を集め、高松藩松平家からも保護を受けていた。

八十八所の一宮寺は義淵僧正(飛鳥の岡寺を創建した人物像)の手で開かれた寺だが、その名前からも察せられるように、行基が讃岐の一宮として田村神社の社殿を創建した時に別当寺とした。これまで八十八所を回る中で、阿波、土佐、伊予と同じように各国の一宮の別当寺としての歴史を持つ札所があり、明治の神仏分離、廃仏毀釈の目に遭ったことも共通しているのだが、一宮寺だけは江戸時代前期に松平家の手で田村神社の別当寺の役割を解かれ、分離されてしまった。そこに何があったのかはわからないが・・・。

ともかくここは田村神社に先に参拝する。この日も七五三参りの家族連れが見られ、拝殿の中では何組かが祈祷を受けているところだった。

また田村神社は讃岐の七福神の一つとして布袋尊も祀っている。あれ?讃岐で七福神と言えばこの夏に熱中症スレスレになりながら7つの札所を回ったのだが・・これは別の七福神ネットワークというところだろう。

田村神社はさまざまなものが詰まっていて、拝殿やお社が4つ続いたかと思えば七福神があるし、鳥居が連なるところもある。

満州開拓団の慰霊碑や、全国の一宮を書き連ねた石碑もある。全国の一宮か・・・世の札所めぐりの中にはこれに挑戦する方もいらっしゃるのだが、全てめぐるとなると完全に日本周遊である。昔の国ごとということで佐渡、隠岐、壱岐、対馬といった島も含まれる。

方角は瀬戸内の鬼ヶ島を指しているのか、腕を伸ばした桃太郎の像もあれば・・・、

これぞ見事に金色をあしらった布袋さんがどっかりと座っている。昔はともかく今はクルマで来る参拝者が多いのか、駐車場がある神社の北側にに大鳥居が建てられ、玄関口になっているようだ。そこで布袋さんのお出迎えである。

これで田村神社にお参りし、ようやく一宮寺である。独立した道路だが神社の一部という感じの細道を歩いて山門に・・・。
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第22回四国八十八所めぐり~高松への船旅

2018年11月27日 | 四国八十八ヶ所
神戸港を出航したジャンボフェリーの「りつりん2号」。風は吹くが天候もよいのでしばらく最上階の展望デッキで過ごす。ベンチがあればよいなというところだが、床には人工芝のマットが敷かれている。夏の多客期など、暑くても潮風を楽しみにここに寝転がって過ごす客もいるのではないだろうか。

三菱重工や三菱電機の拠点がある和田岬から外海に出る。この日は天候がよく、東の大阪方面から紀伊水道方面までも望むことができる。梅田のビル群や南港の咲洲庁舎もうっすらと見える。日本時間でこの日の未明、2025年の万博が大阪・夢洲で開催されることが決定した。そのアクセスはこれから整備されることになるが、その一つに、神戸港またはポートアイランドからの船便というのも検討されているそうだ。

船上から須磨の海岸を見るのも新鮮な感じである。そんな中、飛行機も何機か飛んで来る。神戸空港を離着陸するスカイマークの便。

出航から1時間、明石海峡大橋に近づく。このタイミングで大勢の乗客が展望デッキに上がって来た。この時間の便の見どころで、橋が近づくに連れてカメラやスマホが向けられていく。ちょうど橋の下をくぐる時には歓声があがった。

この後は播磨灘に出るが、車窓の見どころがまず一区切りついたし、1時間風に吹かれるとさすがに寒くなってきたので船内に戻る。

船内には売店があり、小豆島や香川の土産物も買うことができる。今回上陸できないが、小豆島の醤油や森國酒造の地酒を購入する。さらにジャンボフェリーの「売り」の一つが立ち食いうどんコーナー。「うどん県」をPRする香川らしい(うどんそのものは冷凍品のようだったが)。注文したのは小豆島の醤油あげ煎餅を乗せた「しまうどん」という一品。フェリーのオリジナルメニューか、小豆島では一般的なトッピングなのかはわからないが、うどんの食感と出汁を浸して軟らかくなった煎餅の独特の食感を楽しむ。

この後はしばらくカーペット桟敷に横になる。普通の四国行きの旅行ならば、潮風に吹かれながらビール、あるいは小豆島の地酒(1合枡がついていた)を一杯やるところだろう。一瞬頭によぎったが、今回はこれから1ヶ所とはいえお参りがあるので我慢だ(帰りにフェリーに乗るのであれば間違いなく桟敷で酒盛りになるのだろうが)。少しウトウトしたり、スマホを触ったり、手持ちの文庫本を広げたりする。

出航から3時間、窓の外に大きな島影が見えたので展望デッキに上がる。小豆島である。東側から見ると険しい地形が見える。小豆島は海底火山が隆起して形成された島で、陸地のほとんどが山だという。フェリーはこれから島東部の坂手港に寄港する。

小豆島にはまだ上陸したことがない。紅葉の名所としても知られる寒霞渓、二十四の瞳、醤油、そうめんというキーワードが頭に浮かぶ(古いか)。一度は行ってみなければと思うのだが、最近、「小豆島に行くならただこれらの観光に行くだけでは済まなくなるのでは?」とも思うのである。

実は小豆島には「小豆島八十八ヶ所霊場」というのがあり、知多、篠栗と合わせて「日本三大新四国霊場」の一つとされている。この小豆島八十八ヶ所は弘法大師が讃岐と都との行き来の合間に山岳修行をして開いたとされており、江戸時代には四国に習うように八十八霊場のコースが出来上がったという。土庄を起終点として島を時計回りに一周するのだが、島へのアクセスも限られる上、公共交通機関もほとんどなく、山道の上り下りが繰り返されるハードなコースだという。小豆島に行くのならいずれはこの札所めぐり(奥の院を含めて94ある)もやることになるのかな、素通りとはいかないのかなとぼんやりと考える。

島の南側に回ると前方に坂手の集落が見えてきた。風が穏やかになってきた。周囲を山や岬に囲まれている分、港に適した地形なのだろう。少しずつ接近して接岸。ここで4分の3ほどの客が下船する。高松より小豆島が目的地という客が多かったのは意外だったが、ジャンボフェリーの実態は関西~小豆島がメインなのかもしれない。特にこの日は翌日の25日に土庄で「瀬戸内海タートルマラソン」というイベントがあり、それにエントリーするため前日に小豆島に渡った人も多かったのではないか。

坂手港を出航して船内に戻ると、桟敷席も椅子席もガラガラになっていた。高松までは1時間あまり、左手に四国本土の姿が少しずつ大きくなってきた。合わせて小さな島々が現れて瀬戸内らしい多島海の景色が広がる。

左手に現れる五剣山や屋島にはそれぞれ85番の八栗寺、84番の屋島寺がある。これらは次回に訪ねることになる。

独特の形をした屋島をぐるりと回り込むように進み、高松東港に近づく。4時間あまりの船旅は列車やバスにはない開放感があり、また桟敷で横になることもでき、なかなか快適な時間だった。小豆島八十八所は置いとくとして、四国行きの公共交通機関の一つとしてまた機会があれば乗りたい。

高松東港から高松駅までは無料のシャトルバスが出ている。10人ほどが乗り込み、10分ほどで駅前のバス乗り場に到着した。時刻は13時前、今回は日帰りのため、この時間から訪ねるとしても1ヶ所が精一杯である。

その前に昼食ということで向かったのはJR高松駅構内の「連絡船うどん」。かつての宇野~高松ルートではないが、フェリーで来たということもあってかつての雰囲気をしのぶのもよいだろう。この店はホーム側、駅の外側両方から注文することができる。もっとも店内の外側のスペースは限られているので、駅の外側からの客は外のテーブルに丼を持ち出してすすることになる。

さて・・・相変わらず札所までのアクセス記事が長いのだが、午後になってようやく本題である。ようやくこれから83番の一宮寺に向けてことでんで出発する・・・。
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第22回四国八十八所めぐり~日帰り瀬戸内クルーズ

2018年11月25日 | 四国八十八ヶ所
四国八十八所めぐりも第82番の根香寺まで終えて、残り6ヶ所となった。このうち5ヶ所はことでん沿いにあり、最後に奥まった大窪寺に行くということで、そろそろ終わりの形が見えてきた。

今回、このうちの第83番一宮寺を訪ねることにする。11月の連休だし、2泊3日あれば6ヶ所全て回ることができると思うが、ここは少しずつということで1ヶ所だけ日帰りで回ることにする。6つの寺を結ぶラインの中で、高松駅から唯一逆の方向にある一宮寺を押さえておけば日帰りでもちょうどいいかなと思う。

これまでもそうだったが、四国への行き帰りにさまざまなパターンを試してきた。その中でフェリーを使ったこともあったが(和歌山~徳島、柳井~三津浜、大阪南港~今治)、もう一つ、関西から四国へのメインルートの航路がある。それが神戸から小豆島を経由して高松に向かうジャンボフェリーである。これまで旅行で乗ったことはあるが、せっかくの八十八所めぐりのどこかで組み込んでみたいと思った。

ジャンボフェリーは夜行便もあるが、海の景色も楽しみたいので昼行便とする。行きと帰りのどちらに乗るかということだが、神戸からだと土曜休日ダイヤで8時、11時20分の出航、高松からだと6時、14時、16時30分となる。この中で、昼間の景色を見たいのと、四国滞在の時間が長くなるということで、神戸発8時の便に乗船して12時45分に高松東港に到着、帰りは夕方の高速バスで大阪に戻るというものである。

この帰りのバスだがフットバスを選択する。というのも、ジャンボフェリーとフットバスが同じ加藤汽船のグループ会社ということで、ジャンボフェリーとフットバスを片道ずつ利用できる「瀬戸内クルーズ&バスセット」というセット券があるため。これだと往復で4300円(フェリーの夜行便や土曜休日便を利用する場合は300円プラス)と、バスの片道運賃に数百円プラスしただけの価格で往復移動できる。これはフェリーの利用促進という意味合いがあるのかなと思う。

このセット券は窓口での購入となるが、バスの指定席はどうするのか。通常のネット予約ではなく、あらかじめ電話でセット券の利用であると告げて席だけ確保し、予約番号をもらうことになっている。

11月24日、3連休の真ん中、まずはフェリーターミナルに向かう。今回は阪神電車で神戸三宮に向かう。フェリーターミナルまでは有料の送迎バスも出ているが、特に大きな荷物を持っているわけでもなく、また時間にも余裕があるのでそのまま歩いて行く。東遊園地はバスツアーの集合場所になっているようで、ツアーの紙を持つ添乗員が何人も立っていて、中高年の方々が寒そうに立って集まっている。

神戸税関の横を通り、三宮から15分ほどでフェリーターミナルに到着。最近新しくなったそうだ。右手にはこれから乗船する「りつりん2号」が出航の準備中である。

乗船名簿に記入し、窓口で瀬戸内クルーズ利用であることを告げると紙の綴りが出て来て、フェリーの券片にスタンプが押される。バスの券片には電話予約したフットバスの予約番号、座席番号などを自分で記入し、帰りのバスの運転手に提示する。ちなみに、このセット券は別に日帰りで利用しなければならないわけではなく、有効期間は14日あるので使い方は結構自由である。

7時半頃に徒歩客の乗船案内があり、船内に入る。出迎えるのは小豆島出身の関取・琴勇輝。「神戸から小豆島へ」と書かれたジャンボフェリーの懸賞幕も見られる。

座席は椅子席とカーペットの桟敷席とに分かれており、桟敷席のほうに向かう。この日は乗客数にも余裕があったようで、全員が横になることができる感じである。また座席の至るところにコンセントがあるのもうれしい。スマホやタブレットを持つ人が多く、船内でのひまつぶしの手助けにもなっているようだ(椅子席は座席1席ずつにコンセントがある)。

一つ上の階はスカイラウンジ座席という、板張りの床にカーペットを敷いた一角もある。小ぶりなスペースのため、グループ客が陣取るのにはちょうどいい感じである。また他にも空いたスペースにはゴザが敷かれている。本当に客が多い時はここも「座席」ということになるようで、この日はそうした客はほとんどいなかったが、他の方の乗船記など拝見すると、盆や正月の多客期はゴザに腰かけるのもやっとということもあるようだ。

桟敷席を確保した後、出航の様子を見ようと最上階のデッキに上がる。これまでジャンボフェリーに乗った時はいずれも高松からだったので、こういう形で神戸港を離れるのを見るのは初めてだ。雲もほとんどない晴天で、神戸の街並み、六甲の山々もくっきりと見える。

さてこれから小豆島を経由して高松までは4時間45分、半日をこのフェリーの中で過ごすことに・・・。
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第21回四国八十八所めぐり~第82番「根香寺」

2018年10月19日 | 四国八十八ヶ所
白峰寺から遍路道を歩いて2時間弱でやってきた根香寺。こちらは堂々とした山門が出迎えてくれる。

根香寺も弘法大師、智証大師の両方が創建に関わっているとされる。弘法大師は五色台のうち青峰にお堂を建てて護摩供を修法したと伝えられており、また智証大師は蓮華谷の霊木で観音像を造り安置したとされる。この霊木が香木で、切り株から芳香を放ち続けたことから根香寺の名前がついたという。

またこの寺には牛鬼伝説が残されている。江戸時代、この地には牛鬼がいて危害を加えていたが、弓の名手であった山田蔵人高清により退治された。その牛鬼の角を切り取り、根香寺に奉納して菩提を弔ったという。山門の外、駐車場の奥に牛鬼の石像がある。わかりやすいキャラクターやな。

山門をくぐると石段はいったん下りになる。しかし30~40メートル歩くと再び上りの石段になる。山門を下った後で長い石段を上ることはこれまでにもあったが、いったん下るというのはなぜだろうか。

石段を上り、大師堂や納経所などがあるエリアまで行くともう一段石段がある。上ると神社の拝殿のような建物がある。ここから左右に回廊があり、本堂はその突き当り、正面奥にある。ただこの回廊は左側から時計回りに通ることができ、全国の信者から奉納された観音像がズラリと並ぶ。

まず回廊の半分を通って本堂の外陣に着く。ここでお勤めをした後、右側の半分の回廊を伝って元に戻る。こういう方式で回る札所というのも他にはなかったと思う。

石段を下りて大師堂に向かう。最近建てられた様子の建物である。

また反対側には五大堂があり、五大明王が祀られている。中でも中心となる不動明王は鎌倉時代、元寇の折伏祈願のために造られたものだという。

境内からは木々の向こうに高松の市街地を望むことができる。今回は先に市街地まで行っているが、順路通りで来ていれば根香寺まで来てようやく高松の街並みを見ることになり、安堵感がこみ上げるのではないかと思う。納経所で朱印をいただき、ベンチに腰掛ける。

ここまで歩いて来たのだからベンチで休憩がてら昼食としてもよいのだが、汗をぬぐって時計を見ると12時50分。そういえばとメモした根香口バス停の時刻表を見ると、次が13時42分、その次が14時47分である。リミットである15時42分より早い便に乗れるのは間違いないが、ふと、13時42分発に乗れないかと思う。納経所横の壁に貼られた地図によれば、バス停までは4キロとある。バスの時間まで50分、寺からは下り坂が続くだろうから時速も上がるだろう。これはチャレンジしてみるか。

この先遍路道は香西方面に続くがそこは通らず県道を歩く。また走り屋らしいクルマも行き交う。五色台というのはそういうスポットなのだろうか。歩くうちに展望も開けてきて、高松市街や、前日訪ねたレクザムスタジアムも遠くに見下ろす。グラウンドに人の姿も見えるが、グランドチャンピオンシップはこの日(8日)は丸亀での試合だから、別の何かの試合なのだろう。

最初はどうかなと思ったが、結構いい感じで下っている。少しずつ下の集落の姿も大きくなってきた。根香口のバス停に着いたのは13時38分、バス発車の4分前である。やれやれ。

高松駅へはことでんバスに揺られる。高松駅まではおよそ30分である。思っていたより早く到着するということで、予定していた16時30分発のバスを早い便に変更することにする。スマホをいじってみると、同じ高松エクスプレス号には空きがなかったが、別路線扱いとなる15時45分発のフットバスに空きがあった。

高松駅に到着。実は昼食がまだだったので、駅前のチェーンうどん店の「めりけんや」で釜玉うどんをいただく。後はターミナルで時間をつぶすなどするうちに時間となった。

フットバスは高松エクスプレスという会社が運行する路線バスで、高松~神戸間のジャンボフェリーの系統である。フェリーとの組み合わせだと特別なチケットが売られている。今回はたまたま利用することになったが、次回シリーズではその組み合わせで高松入りしてみようかなと思う。

高松駅発車時点で結構な乗車があり、市内の途中の停留所からの乗客と合わせるとほぼ満席となった。後は高松道から淡路島へと快走する。淡路島の室津パーキングエリアの手前でちょうど日が暮れた。

3連休の最終日ということで大きな渋滞が予想されたが、阪神高速の神戸線は渋滞していたものの、いつもの「迂回ルート」で新神戸トンネルを通ることで、10分程度の遅れで大阪駅(桜橋口)に到着。ここで大半の乗客が下車した。後は湊町バスターミナルに到着。早いバスにしたぶん早く帰宅することができた。

さてこれで八十八所めぐりは残り6ヶ所となった。一気に行こうと思えば行けるところなのだが、最後にもう少し楽しんでみたいし、いろいろな乗り物にも乗ってみたい。何だか複雑な気持ちである・・・。
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第21回四国八十八所めぐり~根香寺道を歩く

2018年10月18日 | 四国八十八ヶ所
81番の白峰寺から82番の根香寺まで5キロの道を歩く。この根香寺道は香川県の史跡にも指定されている。台風の影響かどうかはわからないがところどころぬかるんで泥水が出ているところもある。

500メートルほど進んだところに、囲いで覆われた摩尼輪塔がある。この塔は鎌倉時代に建てられたとの銘がある。横には江戸時代に建てられた「下乗」の石柱もある。ここからが聖域だから馬や輿から降りろというものだが、ここは先ほどの白峰寺の入口に当たるということか。

この先は石畳の道もある。ここまでは丁石が順調にカウントダウンされている。山道には違いないがそれほど急な勾配があるわけでもなく、いわゆる「遍路ころがし」とまでは行かない感じだ。ただ金剛杖はあったほうが気分的にもよい。

右手にフェンスが現れる。立入禁止の札もあるから何かなと思うと、自衛隊の演習場とある。自衛隊も遍路道ぎりぎりのところで敷地の境界線を設けたかのようである。

この先、ところどころ水が流れ落ちるところを通る。ちょうど三十四丁のところに閼伽井があるが、この周りもやや崩れている。ここでいったん休憩すると、後ろから白衣と錫杖姿の人が追い越して行った。「この間の台風ですかねえ」と訊かれるが、どうだろうか。

さらに進むと、「陸軍用地」という碑がいくつか見える。陸軍というから明治~昭和にかけて建てられたものだろうが、先ほどの自衛隊の演習場とも関係があるのだろうか。それとも五色台全体が陸軍の管轄にあったとか。

下り坂になり、後ろから走ってきた男性に道を譲る。この男性、先ほど摩尼輪塔の手前あたりですれ違ったのだが、その時も走っていた。あのまま白峰寺まで行って、まだ戻ってきたということか。トレーニングなのか、それとも「走り遍路」というのがいるのか。この根香寺への道中で歩行者に出会ったのは先ほどの白衣と錫杖姿の人と、この男性、そしてもう一人途中ですれ違っただけ。まあ、一定の間隔を持って歩いているから出会わないだけなのかもしれないが。

出発して50分ほどで二十五丁の丁石に着く。距離としては半分で、2時間と言われている中では結構いいペースで来ているのではないかと思う。

さらに10分ほど歩き、十九丁の丁石に着く。ちょっとした広場になっており、ちょうど西洋人の歩きのグループが席を立つところだった。根香寺からの十九丁地点は、東に根香寺、西に白峰寺、南に国分寺という道が合流している。私は前日国分寺を訪ねた後は電車で高松に行き、そして今朝は坂出から高屋回りで白峰寺に来たが、ガチの歩き遍路なら国分寺からこの十九丁地点まで上って来て、いったん白峰寺まで行き、そして同じ道を戻って根香寺に向かうルートなのだという。

しばらく上ると県道に出た。そこはちょうど坂出市と高松市の境界で、これで高松市に戻ってきたことになる。山道の遍路道はここまでで、ここから県道を歩く。それほど急なアップダウンもなく、一時の猛暑もすっかり収まった中では汗はかくものの気持ちのよい歩行だった。

県道沿いに足尾大明神というのがある。足の病気にご利益があるそうで、遍路道沿いだからか弘法大師も祀られている。

県道は結構クルマが飛ばして行く。普通のドライブがほとんどだが、時折スポーツタイプのクルマが轟音を鳴らして通り過ぎる。そんなところで再び山道の遍路道が分かれており、ほっとした感じでそちらに入る。山道はクルマの心配をしなくてよい。

途中に遍路小屋の休憩所がある。テントには、地元の障がい者施設の人たちが栽培したハーブで作ったとあるハーブティーのお接待があり、喉を潤す。ここまで来ると根香寺も近いようで、最後は山道を下って行く。

白峰寺から2時間弱かかったが根香寺に到着。早速お参りとする・・・。
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