ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

『原発は自国に向かう核兵器』1月11日の佐賀県知事選・玄海原発再稼働反対の島谷候補を応援しよう!

2014年12月29日 | 日本とわたし
kumakaさんから、こんなお願いが届きました。

↓以下、ご紹介します。

以下の文章は、田中靖枝さんという方が書かれたものです。
佐賀県民ではありませんが、脱原発を願う立場から行動されています。
この文章は公示前仕様なので、応援したい候補者名はありませんが、今日はもう25日なので、投票をお願いが出来ますね。
島谷ゆきひろさんです。
http://shimatani-yukihiro.com/

街頭で配るビラとしてではなく、JAなどの組織を対象に作られ、昨日80ぐらいのJAと漁協にFAXされたそうです。

※その前に一つ、8時間にも及ぶ21日に行われたIWJの饗宴。
その中で発言された「標語」。

【原発は自国に向かう核兵器】

参加された方が教えて下さいました。
発言者は誰かはっきり分かりませんが、広めたいとおっしゃっています。
(多分あの経済学者さんというぐらいには分かっています)
この標語も、まうみさんのHPにアップしていただけると嬉しいです。


↑以上、ご紹介おわり


この、島谷ゆきひろさんが立候補されている佐賀県の知事選。
ツィッターでも、ちだいさんが、このようにツィートしておられました。



わたしたちは、手をつないでいかなければなりません。
声を重ねていかなければなりません。
島谷氏のように、その場限りのでまかせではない、選挙のためだけの口約束でもない、反原発への意思と地域への愛情を持つ人を支えること、
わたしたちの手で、わたしたちの声で、小さな町や村、そして市や都道府県を救わねば、いったいどこの誰が救ってくれるというのでしょう。

では、田中さんの文章を紹介させていただきます。

↓以下、紹介はじめ
________________

佐賀県の皆様へ            

原発事故避難計画を考える会・福岡 田中靖枝 

これからの原発をどうするか、佐賀県の未来を選択する県知事選が、1月11日に迫っています。
 
総選挙が終り、政府は、原発再稼働へ向かって加速しています。
福島原発事故の経験から、避難計画の作成が再稼働の要件に加えられました。
しかし、事故が起る可能性があることを前提とした「再稼働」に、本当に正当な理由があるのでしょうか。
原発の燃料であるウランも化石燃料と同じ、限りある資源です。
 
~~~~~~ 投票に行く前に考えてみて下さい~~~~~~~~~

*12番目に、原発をやめる方法も提案していますので、お時間のない方は最後だけでも読んでください**

1. 
政府は、再稼働しないと電気料金が上がって企業が海外に出ていく、と言います。
しかし、企業が海外に出始めたのは、ずっと前からです。
労働力が安く、土地も原料も安いからです。
また、少し前には「化石燃料の輸入による貿易赤字が4兆円」と言っていましたが、実際の輸入量は減っています。
赤字の金額が増えたのは、円安によるものです。

2. 
再生エネルギーを全て買い取れない、と電力会社が言い出し、経産省が追認しました。
全てを買い取る為には、送電網の増強が必要で、4兆~6兆円かかると経産省の研究会が試算しています。
一方で、原発を安全に運転する為の新規制基準に適合するための費用として、電力10社は2.2兆円を見込み、
今後、さらにその費用は膨らむと見られています。
福島の除染には、すでに2兆円の税金が使われ、こちらは果てしなく続きます。
再生エネルギーの買い取りを促進するために投資した方が、市民への負担は間違いなく減って行きます。

3. 
九電は、電気料金の値上げをほのめかして、再稼働を正当化しています。
原発の為にウラン燃料を買い込んでいたのに、原発がとまり、在庫のウラン燃料を消化できず、
新しく燃料を仕入れたので、燃料代が嵩んで、赤字になったというのです。
「事故を起さずに、放射能も出さないようにして」再稼働すると言っていますが、
福島原発事故を見てなお 、「原発は安全だ」ということができるでしょうか?
九電は、新規制基準に合わせるために、3,000万円をつぎ込んでいます。
これも、赤字を膨らませる一因です。
しかし、それは企業が持つべき責任であって、そのツケを、事故が起きるかもしれない危険性と一緒に市民に回すことは、
どんな企業にも、決して許されることではありません。

4.
「電力の安定的供給に責任がある」
これも再稼働の理由です。
しかし、 九州の原発はまもなく3年間、全て止まったままです。
全国でもここ1年、原発は一基も動いていません。
電気は安定して供給され続けています。

5. 
福島第一原発でも問題になっている使用済み核燃料は、保存する場所がありません。
再稼働すれば、玄海原発の使用済み核燃料プールは、4年で溢れます。
少なくとも、核のゴミをこれ以上増やさないようにすべきです。

6. 
原子力規制委員会は、新たに設置した基準を、”世界一厳しい”と言っていますが、本当はとても甘い基準です。
福島原発の時のような、過酷事故対策として必要不可欠であるフィルター付きベントを取り付けるまでに、5年の猶予が与えられています。
また、厳しくするのであれば必須である、「コア・キャッチャー」もついていません。
コア・キャッチャーとは、欧米で進められている、原子炉がメルトダウンした時に備える設備です。
古い原子炉に付けるのは値段が高いから、と原子力規制委員長・田中俊一氏は公言しています。
安全性より企業の利益を優先させている、と言わざるをえません。
また、田中委員長は、記者会見で、
「天災事変がいつ起こるかわからないから、社会的活動をすべてやめてくださいというわけにはいかない」と言って、火山学者を批判しています。
この発言を含め、田中委員長は、信頼に足ると言えるでしょうか?

7.
原発事故が起ったら、誰が責任を取るのでしょうか?
福島原発事故の後、政治家、電力事業社、原発メーカーで、家を追われるような罪滅ぼしをした責任者はいません。
一方で、今なお、福島の12万もの人々が故郷を失って、救われないまま放置されてます。
被害者を守り、加害者に責任を取らせるのが社会の規則である筈ですが、どうしてそうならないのでしょう?
黙認している私たち有権者にも、その責任があるのではないでしょうか?

8.
再稼働の条件として、避難計画の作成が、原発から30キロ圏内の自治体に義務づけられました。
佐賀県も福岡県も、計画が完成したと言っていますが、その実態は、住民と避難場所の「数合わせ」をしたことに留まり、
緊急時でパニックに陥るだろう住民の動きは、全く考えられていません。

9. 
漫画「美味しんぼ」がした問題提起について、議論がありました。
放射能汚染と鼻血の因果関係は、はっきり認めている学者が居る一方で、 否定する学者も居ます。
疫学的調査が必要です。
水俣病をはじめ、エイズ製剤事件、アスベスト、その他沢山のいわゆる公害病は、認定までに長い長い時間がかかりました。
風評被害でお米が売れなくなると嘆く農家と、放射能汚染された食品を摂取したことによって、実際に健康を損なった人達の、悩みは双方とも切実です。
このような不幸な対立の原因が、原発なのです。
「原発さえ無かったら」と壁に書いて、自殺した人も居ました。 

10. 
原発の輸出が、「国益のため」として進められています。
「国益」 と言うと聞こえがいいですが、実際に利益を得るのは、一部の非常に限られた人たちです。
相手国の住民が、必死に反対運動をしています。
そもそも、自国でも始末できない放射能を、未開発国に輸出することは、「道徳」に背いた行為ではないでしょうか。
それを正当だと認める理由を、こどもたちに説明できますか?

11.
原子炉は、コンピューターで動くと思っている人が多いですが、必ず生身の人間が中に入って、清掃や修理をしなければなりません。
敦賀原発で働いて病気になり、20代の若さで亡くなった嶋橋さんの、ご両親の言葉を紹介します。

「どんな病気でも…(我が子が)亡くなる時は…親は悲しいでしょう…。
だけども白血病で死ぬ時の、あの辛さを…ついて見てるのは……忍びないですねえ……」

原発はこのように、誰かの犠牲の上に成り立っています。
このように非人道的な方法で電気を作ることが、どういう理由で許されるのでしょう? 

12。
では、原発をやめる方法です。
今の政治家にまかせていても出来ないでしょう。
まず、市民が、税金を 「払う」だけでなく、「どのように使うか」ということに目覚めることが重要です。
オーストリアのギュッシング市では、1990年に、「打倒!化石燃料!」を合い言葉に、森林を活用するプロジェクトを始め、
今では地域のエネルギー自給にとどまらず、森林関連で外貨を稼いでいます。
「エネルギーの輸入はお金の無駄。利用されないまま、何千トンの木材が廃材として朽ちていくのに、なんで何千キロも離れたところから、化石燃料を輸入しなければならないのか?」
市長のパダシェさんの言葉です。
森林を、上手に持続可能なように伐採していけば、100年先のこどもたちに、豊かなまま残すことが出来ます。        
*参照「里山資本主義」(藻谷浩介、角川書店)

日本もオーストリアと同じように、森が沢山ありますが、森も林も林業も長い間、捨てられたままです。
豊かな森林と共に、平和に生きる道を選ぶのは、今です!
ここ日本にも、好例があります。
岡山県の真恵市には、30ほどの製材業者があり、経営不振を挽回すべく、元気な経営者たちが森林を活用して、エネルギーを賄っています。
新しい仕事が生まれ、雇用促進に役だっています。
広島県庄原市でも、同じことが実践されています。
 
これは小さい町のことだ、と思われるかもしれません。
しかし、玄海町は人口6,000人。
そして、町と市が集ったのが、県です!
20市町がある佐賀県を考えると、最初は民間だけでは無理。
「公的な支援」が必要です。
「公的支援」とは、もともと私達の税金です。
  
税金の使い道を決定するのは、政治のリーダーです。
リーダーには、高い見識と、100年先を考える先見性が求められます。
それを選ぶ市民も、100年先を考えなければなりません。

必要なのは、「市民の決断」と「政治のリーダーシップ」です!
 
________________
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敵戦車への肉弾戦という惨たらしい死に方をした『ぼくもいくさに征(ゆ)くのだけれど』詩人・竹内浩三

2014年12月29日 | 日本とわたし
いつも記事を読ませていただいているHitoshi Kawashimaさんが、ご自身のFacebookに記載されたこの詩に、心を打たれました。

そしていろいろと読み進めていくうちに、戦争というものに巻き込まれるような国になることを、わたしたち大人が手をこまねいて見ていては絶対にいけないと思いました。

カネに困ってくると戦争を仕掛け、燃料を独占するために戦争を仕掛けする連中の手口が、なんとなくぼんやりながらも見えてきた今、
そんな連中らの、これまでのようなやりたい放題を、放置していいはずなど無いのです。

戦争などという、使用期限を守りたいがための、生産工場と流通機関の儲けを求めるがための、さらには、新しく開発した武器の殺傷効果を見てみたいがための人殺しを、
これ以上、世界は許してはいけません。
そして世界というのは、わたしたちなのです。
わたしたちひとりひとりの世界が、しっかりと立ち、戦争というものをこの世から無くしていくために、まずひとりで声を出していかねばならないのです。
その声は、自分の部屋の中でもいいし、駅の待合室でもいいし、バスの中でも、会社の休憩室でも、喫茶店でも教室でもいい。
小さくても、たどたどしくても、なんでもいい。

戦争に、あなたの子を行かせてはなりません。
誰の子も行かせてはなりません。
敵戦車への肉弾戦、などという、世にも愚かな行為を押し付けられて、殺されてはなりません。
そんなことをさせようとする政治家は、決して許してはなりません。

そういう声はこの、戦争ばかりやらせようとする悪党が、堂々と生きているアメリカの中でも、上がってきています。
日本を、こんな恐ろしい罠にハマってしまった国のようにしてはいけません。



では、Hitoshiさんの言葉とともに、今から12日前の、12月18日に書かれた記事を、ここに転載させていただきます。

↓以下、転載はじめ

『ぼくもいくさに征(ゆ)くのだけれど』

街はいくさがたりであふれ
どこへいっても征くはなし 勝ったはなし
三ヶ月もたてば ぼくも征くのだけれど
だけど こうしてぼんやりしている

ぼくがいくさに征ったなら
一体ぼくはなにするだろう 
てがらたてるかな

だれもかれもおとこなら みんな征く
ぼくも征くのだけれど 征くのだけれど
なんにもできず
蝶をとったり 
子供とあそんだり
うっかりして戦死するかしら

そんなまぬけなぼくなので
どうか人なみにいくさができますよう
成田山に願かけた




太平洋戦争が激しさをます時代に、個性あふれる豊かな言葉を、詩というかたちで遺し、映画作りを志し、勉学に励んでいた青年、竹内浩三の青春に迫り、
戦争が奪った若い命ひとつひとつのかけがえのなさ、尊さに気づかせてくれるドキュメンタリー番組『ぼくはいくさに征くのだけれど~竹内浩三 戦時下の詩と生」(シリーズ 青春が終わった日、2007年NHK制作)』
http://v.youku.com/v_show/id_XNDAwODg0NjY4.html

再放送が、今夜12月18日(木)深夜 (=19日未明)に、BSプレミアムである。

詩と映画と漫画とクラシック音楽を愛し、芸術のなかに自分の生きる道を探っていたごく普通の学生だった彼が、
ぼくたちのために遺してくれた言葉を、彼と同じ目線で感じとれるに違いない、今の若い人たちに知って欲しいと思う。

上に紹介した詩『ぼくもいくさに征くのだけれど』は、
勅令により学業を中断させられ、軍隊への入営を目前にした、21歳頃の作品。
昭和20年、才能にあふれたこの青年は、フィリピンの激戦地で、23歳の若さで戦死した。

先週、この番組をたまたま見た。
安倍首相が、いよいよ戦争を見据え、憲法改悪や武器売買の段取りをつぎつぎと本格化させながら、
選挙戦が始まった途端に、そのことにだんまりを決め込み、国民の目を欺こうとしていたその時期に、
こんなドキュメンタリーを放送するとは、NHKもなかなか味なことをする。
良心をもって内部で戦っている放送人たちが、まだいるということなのだろう。

詩人竹内浩三のことを、ぼくは迂闊にも、これまで知らずに来てしまった。
すぐに詩集を探し、手に入れた。
そこに収録されている彼の詩や、映画のシナリオや、日記を、いま夢中で読み出しているところだけれど、
とり急ぎ今夜の放送のことをお知らせしたく、この記事を書いてみた。

最後にもう1つ、やはり21歳の頃書かれた詩を紹介する。
入営前で、まだ戦地にも行っていなかった彼が、自分が戦死してお骨になって帰ったあとの、戦後日本の姿に思いをいたして書いている、まったく驚嘆すべき詩だ。
21歳の若者が、ここまで考えねばならなかったことに、ほんとうに胸が痛くなる。
そして今、若者たちが、また彼と同じようなことを考えねばならなくなる時代へと、確実に逆戻りを始めている日本の社会に、ぼくは戦慄する。
若者達の青春をむごたらしく奪い、靖国の英霊に祀りあげたのは誰だったか?
二度と、戦争の惨禍だけは繰り返さぬことを誓って、ぼくたちは平和憲法を作ったのではなかったろうか?


『骨のうたう』
戦死やあわれ
兵隊の死ぬるや あわれ
とおい他国で ひょんと死ぬるや
だまって だれもいないところで
ひょんと死ぬるや
ふるさとの風や
こいびとの眼や
ひょんと消ゆるや
国のため
大君のため
死んでしまうや
その心や
苔いじらしや 
あわれ兵隊の死ぬるや
こらえきれないさびしさや
なかず 咆えず ひたすら 銃を持つ

白い箱にて 故国をながめる
音もなく なにもない 骨
帰っては きましたけれど
故国の人のよそよそしさや
自分の事務や 女のみだしなみが大切で
骨を愛する人もなし
骨は骨として 勲章をもらい
高く崇められ ほまれは高し
なれど 骨は骨 骨は聞きたかった
絶大な愛情のひびきを 聞きたかった
それはなかった
がらがらどんどん事務と常識が流れていた
骨は骨として崇められた
骨は チンチン音をたてて粉になった
ああ 戦場やあわれ
故国の風は 骨を吹きとばした
故国は発展にいそがしかった
女は 化粧にいそがしかった
なんにもないところで
骨は なんにもなしになった



↑以上、転載おわり



いろいろと読みながら、この方の書かれた『竹内浩三』が、一番胸に届いたので、少しだけ引用させていただきます。

↓以下、引用はじめ

竹内浩三
戦争でつぶされた優しい命

2001年7月23日記
引用元:
http://higusumi.world.coocan.jp/japanisch/koramu/takeuchi-kozo.htm

日大芸術学部の映画科に入った彼は、質屋通いをしながら、それでも気楽に他人の家に泊って飯を食べたりして、図太く生活している。
クラッシック音楽が好きで、音楽喫茶に足繁く通う。
恋愛もあり、自分を裏切った女性を呪う。
姉宛ての手紙に、日記並みのプライバシーを書いています。
姉を、幼時から信頼していたらしい。
マンガの才能もあって、上手な絵が残っています。

ー中略ー

*竹内浩三について

竹内浩三は、1921年(大正10年)5月12日、三重県宇治山田市(現伊勢市)吹上町に、呉服店の息子として生まれる。
11歳の時母を、18歳の時父を失い、姉を郷里に残して、上京。
一浪後、1940年に、東京・江古田の日本大学専門部(現芸術学部)映画科に入学する。
しかし、時代は荒れ狂っていた。

1938年4月、国家総動員法公布。
1939年7月、国民徴用令公布。
同年9月1日に、第二次世界大戦が勃発。
1940年7月、大本営政府連絡会議は、武力行使を含む南進政策を決定。
彼が20歳となった1941年の7月には、南部仏印進駐。
12月8日には、日本軍がハワイ真珠湾奇襲攻撃をし、太平洋戦争勃発。


20歳で、太平洋戦争が始まる巡り合わせで生まれた者。
巡り合わせた時代は、その人にとって、成長の舞台であるとは言っても、殺し殺される戦場が良い舞台であるはずがない。
多くの有為の若者の命を奪い、傷付けた戦争。
音楽と文学を愛した竹内浩三も、この舞台に立たされることになる。


『五月のように』

なんのために
ともかく 生きている
ともかく

どう生きるべきか
それはどえらい問題だ
それを一生考え 考えぬいてもはじまらん
考えれば 考えるほど理屈が多くなりこまる

こまる前に 次のことばを知ると得だ
歓喜して生きよ ヴィヴェ・ジョアイユウ
理屈を云う前に ヴィヴェ・ジョアイユウ
信ずることは めでたい
真を知りたければ信ぜよ
そこに真はいつでもある

弱い人よ
ボクも人一倍弱い
信を忘れ
そしてかなしくなる

信を忘れると
自分が空中にうき上がって
きわめてかなしい
信じよう
わけなしに信じよう
わるいことをすると
自分が一番かなしくなる
だから
誰でもいいことをしたがっている
でも 弱いので
ああ 弱いので
ついつい わるいことをしてしまう
すると たまらない
まったくたまらない

自分がかわいそうになって
えんえんと泣いてみるが
それもうそのような気がして
ああ 神さん
ひとを信じよう
ひとを愛しよう
そしていいことをうんとしよう

青空のように
五月のように
みんなが
みんなで
愉快に生きよう



↑以上、引用おわり



竹内さんは、少し吃る癖がある、生きるということ、愛するということを人一倍真剣に考えていた、
かと思うと、よく借金をし、それで好きなものをついつい買ってまたカネに困るというような、ごくごく普通の若い男の子だったようです。
一番甘えたい時期に母親を亡くし、一番頼りたい時期に父親を亡くし、だからきっと、たったひとりの家族であったお姉さんを、心から慕っていたのだと思います。

そのお姉さんへ宛てた手紙をいくつか、これも同じく、上記のエッセイから引用させていただきます。

↓引用はじめ

「前に女のことを書いたはずですが、アレにはふられた。
それで、せっかくふられたのだから、悲しまないとソンだと思い、大いに悲しんだわけです。
それでおしまい。
「せっかく楽しいことがあるのだから、大いに楽しまねばソンだ」と云う考えはフツウですが、
「せっかく悲しいことが出来たのだから、大いに悲しまなければソンだ」てのは、少々おかしいようですが、
この考え方もメデタイ考え方で、こうすると、人生大いに生きがいがあるワケなのです。
ともかく、人生ってそんなものらしい」(1941年5月16日)

「サミシサ二 ヤドヲタチイデ ナガムレバ イズコモオナジ アキノユウグレ。
そこで喫茶店に行く。
そしてアホみたいにコーヒーやらのんでいる。
女の子たちと冗談云うほど、いさましくないので、ただアホみたいにタバコをすっている。
きかなくてもいいレコードをきいている。
なにか話しかけようとして、ボクの見ている新聞をのぞきこみにくる女の子がいる。
するとボクはすましてその新聞をその人にわたし、又別の新聞を見る。こんなアンバイ」(1941年5月16日)

「僕は、孝行と云うことを否定するつもりはない。
(中略)
自分のしていることはいいことだと思いながらの孝行なら、 やらない方がいい。
やむにやまれぬ気持ちでやればいい。
(中略)
しかし、もしそのやむにやまれぬ気持ちが一向でてこなければ、それもしかたない。
恥じる必要もないし、自分をいつわってウソを行わなくともいい。
孝行にかぎったことではない」(1941年5月16日)

「学校は、芸術運動の団体結成で、ケンケンゴウゴウ。
ボクはクラスの委員になりそこねて、ケンケンゴウゴウ。
江古田の森が、新時代の文化の発生地になるのであると、ウソみたいなホントを云う。
そうだそうだとわめく。
いさましいことこのうえなし。
西洋の芸術はくずれつつある。
これはホントだ。
新しい日本芸術はエゴタから生まれる。
そうだそうだ!ケンケンゴウゴウ。
そして浩三君は昇天しそうなり、ケンケンゴウゴウ。
創作科にとてもきれいな女の子がいる。
そこでまたケンケンゴウゴウ」 (1941年5月16日)

「感情に負けまいとして、がむしゃらにいろんなことをした。
しているすきま、すきまに底知れぬ悲しみがときどきあらわれ、そのたびに歯をくいしばって、こらえた。
夕方になると、いちばんつらく、いたたまれなくなり、何度も友だちの家へ逃げこんだ。
初めの十日ほどは、友だちの家へ寝泊まりしたりした」(1942年7月3日)

今と変わらない学生気分が伝わってくる。
太平洋戦争に向けて緊迫していく現実も、学内には忍び込んでこないかのようだ。
文芸雑誌にも 参加して、活躍する。
しかし翌年の秋、彼は繰り上げ卒業をさせられて、軍隊に入営することになる。

彼は1942年秋、三重県の中部第38部隊に入営する。
彼の「骨のうた - 戦死やあわれ 兵隊の死ぬるやあわれ 遠い他国でひょんと死ぬるや …」は、入隊する寸前に書かれたそうだ。

『わかれ』

みんなして酒をのんだ
新宿は、雨であった
雨にきづかないふりして
ぼくたちはのみあるいた
やがて、飲むのもお終いになった
街角にくるたびに
なかまがへっていった

ぼくたちはすぐいくさに行くので
いまわかれたら
今度あうのはいつのことか
雨の中へ、一人ずつ消えてゆくなかま
おい、もう一度、顔をみせてくれ
雨の中でわらっていた
そして、みえなくなった


ー中略ー

戦友が彼の手相を調べて、こう言った時、彼のこころは揺れ動く。期待と不安。

「そしてぼくのを見てくれたのだが、見る定石として、被看者の過去の行跡を、たとえば両親がいないと、
女のことではなかなか悩むタチで、それが1度ならず2度あり、2度目の方が激しかったとか、
心臓が弱いこととか、そんなことを云い当てて、相手に手相を信じさせて、おもむろに未来をかたる。
50歳までは生きる。
安心した。
一生物質にはめぐまれる。
金持の家へ養子にゆく。
女房がやり手で、本人は好きな仕事をやっている。
道楽は食道楽。
子供は6人。
末の男の子で、少し苦労する。
1年以内に、死にぞこないに会う。
と云うのは、どう云うイミか。
とにかく、死にぞこなう。
そこで、精神的に人間が変わる。
結婚は、マンキの後、2年。
それと前後して、君の華々しい時代がくる。
世間的にも名声をハクする、と云ったふうであった」
(1944年7月23日)


9ヶ月後の1945年、4月9日、浩三はルソン島、バギオで戦死。
享年23歳。
敵戦車への肉弾戦という、悲惨な最期だった。

占いから1年以内である。
精神的に人間が変わるというのも、ある意味では当たっている。
精神の存在形態が変わったと言える。
占いの後半部はついに、この世で実現することはなかった。

次の詩は、彼の心深くに根差した淋しさを語る、遺書のような詩である。


『冬に死す』

蛾が
静かに障子の桟からおちたよ
死んだんだね

なにもしなかったぼくは
こうして
なにもせずに
死んでゆくよ
ひとりで
生殖もしなかったの
寒くってね

なんにもしたくなかったの
死んでゆくよ
ひとりで

なんにもしなかったから
ひとは すぐぼくのことを
忘れてしまうだろう
いいの ぼくは
死んでゆくよ
ひとりで

こごえた蛾みたいに


↑以上、引用おわり
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