ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

写真

2015年01月10日 | ひとりごと
ただいまマイナス9℃、堂々たる冷えっぷりです。
空はきっぱりと晴れています。



それでもこの気温はまだ暖かな方で、おとといの木曜日の夜は、マイナス15℃まで下がりました。
その一番冷え込んだ日の夜の8時ごろ、近くのモールの中にあるアップルストアに、デスクトップのコンピューターを担いで出向いて行かなければなりませんでした。

デスクトップの、毎日数時間は必ず使っているパソコンが、いきなりダメになってしまったからです。

その朝、アップルの方から、ヨセミテという新しいシステムをインストールしませんか?というお知らせが届きました。
今のパソコンは、ちょうど2年前に購入したものなので、そういう新しいシステムにも対応できるだろうと、インストールボタンをクリックしました。
そしてインストールが始まったのですが、作業が終了できませんという知らせが画面に出て、そのままフリーズ。
後ろのスィッチで強制終了をし、その後またスィッチを入れても、同じ画面しか出てきません。
うーん、これはどうしたものかと困り果て、トラブルシューターのチャットで相談してみました。
相手から言われる通りの作業をしても埒があかないので、アップル店のジーニアスカウンターという、たいていのことなら直してくれるスタッフに予約を取り、診てもらうことにしました。

こちらに引っ越してから15年、Macのコンピューターはわたしの大親友です。
日本に居た時は全くといっていいほど、パソコンに縁も興味も無かったのですが、
9.11を目撃してしまったショックを癒そうと、セラピーのようなつもりで、当時まだ中学生になったところの息子たちに宛てた手紙を書き始めたことから、パソコンとの親密な付き合いが始まりました。

毎日書き物をしたり、ニュースを何紙も読み比べたり、そして小説もどきのような話を書き始めたことがきっかけでこのブログも書くようになり、
今では家族の中の誰よりも(コンピューターエンジニアの長男を除いて)、パソコンの前に座っている時間が長いかもしれません。
その割には、パソコンに対する知識が希薄で、トラブっては相談する息子たちには、
「それだけ使ってて、そんな程度の知識しかないっちゅうのはどういうこと?」などと呆れられて…でもだからといって学ぶことも無く…。

再三、いつ何時、何が起こるかわからないから、写真とブログと音楽だけは、とにかくバックアップしとくべきと言われていたのに、
この新しい(といっても、2年前に購入したものですが)パソコンには、古い方のパソコンからのデータも全部移動させてあったのに、
だから、もしものことが起こったら嫌だな~などと、ふと心配になってはまた忘れ、未だバックアップをしていないままのパソコンに…その事件は起こったのでした。

でも、ジーニアスやもんな。多分なんとかしてくれる、今までのように。
しかも、今回の件はそもそも、アップル社の方からのお勧めやったんやし。
それに従うて作業しただけやったんやし。

カウンターに座って1時間半。
対応してくれた男性スタッフも、いろいろと頑張ってくれたのですが、蘇ってはくれませんでした。

「どうしてもデータを失いたくないという場合は、専門機関に依頼する方法があるけども、1000ドル以上はかかります。
前の古いパソコンに残ってるデータだけでもいいから戻したい場合はここで、費用は100ドルでできます。
でも、今回のこの故障は、理由が見当たらないとても奇妙なものなので、初期化するしかないと思います。
データは全部消えますが、どうしますか」

なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?

ずっとこの言葉が頭の中をぐるぐるぐるぐる回っていました。
バックアップしてなかったわたしが悪い。
それはその通りなのだけれども、でもそれでもやっぱりなんで?と思う気持ちが離れません。
写真と作曲データと録音を戻すためだけに1000ドル。
ブログは、gooさんの有料システムのおかげで、データは保存されている。
でも、ブログに載っけてない写真と、息子たちのために作ったアルバムと、作曲途中の音源と演奏録音は消える。

「どうしますか?いったん家に戻って考えますか?」
「初期化…」
「え?」
「初期化してください」

初期化の作業を見つめているうちに、どうしようもなく悲しくなって、フェイスブックにこう書き込みました。
『今、アップルストアにきています。
ジーニアスカウンターに座って、自分のコンピューターのデータがぜーんぶ消されていくのを惘然と眺めています。
バックアップしなくてはいけない、明日は絶対しよう、と思っては忘れ、また思っては忘れてして、結局しないまま、
今朝、Yosemiteという新しいシステムをインストールしようとしたらいきなり…。
ショーティの最期の姿や、いろんな旅行の思い出が…。
自分の油断を呪いながら、ぼんやりと待っています』

するとすぐに、何人かの友だちから、温かな励ましや同情の言葉が入り、パソコンに精通している友人からは、親切で丁寧でわかりやすい提言をもらいました。

ありがたくてありがたくて、涙が出そうになりました。
空になってしまったパソコンを抱え、また車に戻り、深呼吸の白い息を何度か吐き、ショーティの名前を一回呼んで、車を発車させました。

わたしは、自分が子どもだった頃の写真がほとんどありません。
親の倒産や借金の取り立てに遭い、時には家具の引き出しの中に入ったまま持ち去られたり、捨てられたりして、一冊のアルバムも残りませんでした。
いつもはほとんどそんなことは忘れているのですが、何年かに一度、消えてしまったたくさんの写真に、想いを馳せることがあります。
そんな時、寂しい思いで胸の中がいっぱいにならないよう、こんなふうに考えるようになりました。

写真は、この世からさよならするまでの間の、とても個人的な楽しみ。
だから死ぬ前に(もちろんそんな余裕がある死に方ができた場合に限りますが)、写真はすべて処理することになる。
そうならば、写真を持たないわたしには、そういう手間をかけなくても済むではないか。
ひとつでも思い煩うことが少なく死んでいけるなら、それはそれでいいではないか。

その反動か、息子たちが幼児だった頃、カメラを買うお金が無かったわたしは、それでもなんとかして撮り残しておきたくて、
安売りのコンパクトカメラ(この名前が前は『バカチョンカメラ』と呼ばれていて、わたしも何の気無しにそう呼んでいましたが、この名前を聞くたびに傷ついていた人がいたことに気付きもしませんでした)を購入して、よく写したものです。
なので、息子たちの写真は、とてもたくさんあります。
でも、当の息子たちがその写真を眺めることは、滅多にありません。
あまりにもどうでも良さそうなので、二十歳の誕生日にかこつけて記念アルバムを作り、押し付けてやったりしました。
あ、でも、次男のアルバムはずっと遅れて、去年の、もう26歳になってしまった誕生日にプレゼントしたのでした…ごめんよ。

そんなだから多分、彼らの写真は、今後もずっとお蔵入り、ということになるのかもしれません。
彼らがもっともっと歳を取り、昔のことを思い出したくなるような時が来たら、もしかしたら箱の中からごそごそ取り出して、見たりすることがあるかもしれません。

今のデスクトップのパソコンを使うようになってからちょうど2年。
相棒のサラと、何度も何度も撮り直した練習録音も、新しい曲の音源も、すべて消えてしまいました。
その2年の間に撮った写真は、このブログの記事に載せたもの以外はすべて、消えてしまいました。
家族と行った旅行の思い出やショーティとの毎日、特に最期の2週間の、それはそれは濃密で悲しい愛しい思い出を、わたしは消してしまいました。

もう二度と目で見ることができないそれらの写真を今、目を閉じて、心のスクリーンに映し出しています。


さて、新年の『小確幸』(小さくでも確実な幸せ・村上春樹氏の造語)。


すっかり食べきってしまった黒豆の残り汁に、やき餅をつけて…。
う~ん、しゃ~わせ!

大鍋いっぱいに煮たので、まだまだ次がございます。


さあ、元気出そう!
コメント (12)
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