あのフランスで行われた100万人以上にも及ぶ人々による行進に、各国から首脳が駆けつけ、一緒に行進したというニュースも実は、
本当は、首脳たちだけは、護衛の人たちを引き連れて、別の通りを歩いていたというのに、写真を工作して報じたということを知り、
原子力を搭載したタンカーの出動とともに、ますますこれは、単純に考えるべき事件ではないという思いを強く持っています。
新聞の報道を読む時も、テレビやラジオから流れるニュースを聞く時も、鵜呑みにするのではなく、自分でもそのことについて調べるということが大切です。
こんな社会の中に暮らしているからこそ。
ここに、智さんのブログ『とべないポスト』に掲載された、ひとつの記事を紹介させていただきます。
↓以下、転載はじめ
不用意な翻訳が新たな誤解を…。
「許す」と「赦す」
「不用意な翻訳により、新たな誤解が生じないことを祈りたい」
翻訳家、関口涼子氏は、ニホンの文化水準の低さを痛烈に批判し、いとも簡単に、社会が誤った方向へ誘導される危うさを憂いている。
「許す」と「赦す」 の区別ができていないことは、語学というよりは、精神文化の問題だろう。
入試至上主義の社会は、フランスで起きた事件報道で、文化水準の低さをさらけ出してしまった。
オピニオンリーダーとも言うべきメディアの水準が、政治の質を決めると言われてきたが、
悪政の元凶を垣間見た思いだ。
お二方の同じような文章があったので、ご紹介させていただくこととし、自らの戒めとしたい。
剱
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『SYNODOS』2015.01.14
「許す」と「赦す」 ―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題
関口涼子 / 翻訳家、作家
「シャルリー・エブド」誌襲撃事件の後、フランスと日本のメディアによる報道を追っていて、
この事件への反応や解釈が、両国でまったく異なっていることに気がついた。
大まかに言えば、フランスの場合は、
『シャルリー・エブド』の編集方針に賛成でない人、あるいは同誌を読んだことがない人でもほぼ全員が、
同誌への抗議の手段として、殺人という最大の暴力が行使されたことに、激しく怒りを覚えたのに対し、
日本の場合には、
「テロは良くないが」というただし書き付きで、
「でも表現の自由と騒ぐのは西欧中心主義ではないか。表現の自由にも、他者の尊厳という制限が設けられるべきでは」
と表明することが、少なからず存在した。
ここでは、その点については触れない。
それとは別に、取り急ぎ指摘するべき問題が、一つあるからだ。
1月13日付読売新聞の夕刊、国際欄に出ていた記事のことだ。
今日14日水曜日、襲撃事件後初めて発行される『シャルリー・エブド』最新号の、表紙のデッサンに触れたその記事では、
「最新号の表紙には、ムハンマドとされる男性が、泣きながら『ジュ・スイ・シャルリー(私はシャルリー)』との標語を掲げる風刺画が描かれている。
この標語は、仏国民が事件後、表現の自由を訴えるスローガンとして使った。
表紙には、ムハンマドのターバンの色とされ、イスラム教徒が神聖視する緑色を使った。
また、『すべては許される』との見出しも付け、ムハンマドの風刺も『表現の自由』の枠内との見解を訴えたと見られる」
とある(AFP通信を始め、他の幾つかの日本のメディアにも、「ムハンマドへの風刺も許されるという意味と見られる」とあった)。
この記事には、多くの事実誤認が見られる。
政治学者の池内恵氏によると、緑はムハンマドのターバンの色ではなく、
そもそも、シャルリー誌の表紙絵の男性も、緑のターバンなど被っていないのだから、
単に、一般的に、イスラーム教というと緑とされているから、背景に緑を用いたのだろう、という。
また、ムハンマドの表象自体は、一般的ではないとはいえ、イスラーム世界でもかつては伝統的に存在していた。
中世イランのミニアチュールなどでは、ムハンマドが描かれている。
そしてなにより、私が翻訳者としてこの記事で指摘したいところは、この記事に見られる重大な誤訳なのだ。
「Tout est pardonné」の意味
この表表紙には、ふたつの文章が記されている。
まず、ムハンマドと解釈されるような男が、「Je suis Charlie」と書かれた紙を掲げ、涙を流している。
そしてその上には、「Tout est pardonné」と書かれている。
読売新聞の記事は、「Tout est pardonné」を、
「すべては許される」と訳し、何でもありだ、という、言論の自由(というか「勝手」)を示したものだとしているが、
これはまったく逆の意味だ。
「すべてが許される」であれば、フランス語では、「Tout est permis」 になるだろう。
「許可」を意味する「Permission」から来ている「Permis」と異なり、
「Pardonné」 は宗教の罪の「赦し」に由来する、もっと重い言葉だ。
そして、
「permis」であれば、現在から未来に及ぶ行為を許可することを指すが、
「pardonné」は、過去に為された過ちを赦すことを意味する。
「Tout est pardonné」は、直訳すれば「すべてを赦した」になる。
しかし、これは同時に、口語の慣用句であり、日本語で一番近い意味合いを探せば、
たとえば、
放蕩息子の帰還で親が言うだろう言葉、「そのことについてはもう咎めないよ」、
または、
あるカップルが、深刻な関係の危機に陥り、長い間の不仲の後、最後に「いろいろあったけどもう忘れよう」という表現になるだろう。
これは、ただの喧嘩の後の仲直りの言葉ではない。
長い間の不和があり、それは実際には忘れられることも、許されることも出来ないかもしれない。
割れた壺は戻らないかもしれない。
それでも、この件については、終わったこととしようではないか、
そうして、お互いに辛いけれども、新しい関係に移ろうという、
「和解」「水に流す」というきれいごとの表現では表しきれない、深いニュアンスがこの言葉には含まれている。
画面上、この文章は、預言者ムハンマドが言ったとも取れるし、『シャルリー・エブド』誌側の言葉とも取れる。
つまり、複数の解釈を許しているのだ。
ムハンマドが言ったとすれば、それは、
「君たちの風刺・または思想をも「わたしは寛容に受け止めよう」ということであり、
『シャルリー・エブド』誌の側としては、
「わたしたちの仲間は死んだ。
でも、これを憎悪の元にするのではなく、前に進んでいかなければならない」ということを意味するだろう。
読売新聞の記者は、このデッサンに、「自分が読みたいことを読んだ」のかもしれない。
イメージは曖昧であり、ときに、自らが含んでいない解釈も許してしまう危険性があるが、
この文章と結びつけられたときのメッセージは明白だ。
「Tout est pardonné」を、「すべては許される」とすることで、この読みの多様性が全て消えてしまう。
「殺されたシャルリーは自分(ムハンマド)でもある」
それから、預言者ムハンマドが「Je suis Charlie」 、
つまり、「わたしはシャルリーだ」と書かれた紙を持っていることが重要だ。
これは、単に、預言者ムハンマドも、自分たち『シャルリー・エブド』誌の味方なんだよ!と言いたいのではない。
「わたしはシャルリーだ」とムハンマドが言うことは、
「殺されたシャルリーは自分(ムハンマド)でもある」、
つまり、宗教の名の下に、暴力の行使によって相手の制圧をしようとすれば、あなたたちが信じていると思っている宗教もまた死ぬのだ、と、
このムハンマドのイメージは、犯人たち(または犯人と意見を同じくする者たち)に訴えかけているのだ。
その意味ではこれは、どれだけムハンマドが描かれていようと、イスラーム教の批判でもなければ、イスラーム教徒に対する侮辱でもない。
むしろ、今後起きるであろうイスラーム嫌悪に対する歯止めであり、
テロ行為に走ることは、自分たちの信ずるイスラーム教の許すことではないと考える、フランスに住む多くのイスラーム教徒を代弁しているとも言えるのだ。
この絵を描いた漫画家、ルスは、ここで描かれているのは、何よりも先ず「涙を流す人間のイメージ」であって、
たとえムハンマドだとしても、自分が描いたムハンマドのキャラクターは、
虐殺を行った犯人が妄信していたムハンマド像よりも、ずっと平和的なのでは、と発言している。
それでは、これは、単に平和と未来を望む、真面目な絵なのだろうか。
『シャルリー・エブド』誌の漫画家たちは、悲劇を前にして、ユーモアの精神を忘れてしまったのだろうか?
ここには、三つ目の意味が隠されている。
今回、諧謔精神は、事件の後、当該誌を読んだことさえなかったのに、
あわてて猫も杓子も、「わたしはシャルリーだ」と言い出した現象に向けられている。
「しょうがねーなー、チャラにしてやるよ」
つねに資金繰りに苦心していた、公称6万部、実売3万部の弱小誌、しかも紙のメディアという、およそ時代遅れのこの雑誌は、
多くのフランス人にもやり過ぎだと捉えられていたし、正面切ってこの雑誌が好きだと言う人はほとんどいなかった。
それが、今回の事件以後、突如、全国的に有名になり、最新号は300万部印刷された。
政府からの補助金も出たし、個人の寄付も集まった。
1月11日に行われた、反テロ・追悼集会では、フランス全土で370万人を超える参加者を数える、フランス史上最大規模の抗議集会となった。
表紙の絵を描いたルスは、襲撃事件が政治的に利用されることに違和感を表明し、
11日の集会は、「シャルリー・エブド」の精神とは正反対だ、と批判している。
もう一人の生き残った漫画家ウィレムは、
「いきなり、自分たちの友だと言い出す奴らには、反吐が出るね」と、辛辣なコメントを述べてさえいる。
しかし、そういう、お調子者のフランス人、自分たちを担ぎ上げて利用しようとする政治家たちをも、
「Tout est pardonné しょうがねーなー、チャラにしてやるよ」、と笑い飛ばしているのが、この絵なのだ。
今までの『シャルリー・エブド』誌の風刺絵の中には、鋭いものも、差別表現ぎりぎりのものもあったが、
今回に関しては、お見事、というほかない。
ルスは、この絵を表紙にすると決めるまで、何日も、同僚たちと編集会議を重ねたという。
襲撃の直後に編集室に入り、同僚の死体を目撃した彼にとって、最新号の絵を描くことには、自信が持てなかったという。
最初は、同僚たちが倒れている状況を描き、イスラーム過激派を描き、そして、最後には、銃弾の跡ではなく、
「笑うことの出来る絵」を描きたい、と思ってたどり着いたのが、この表紙の絵なのだ。
文化翻訳に関する多くの問題
『シャルリー・エブド』誌襲撃事件は、文化翻訳に関する多くの問題を、結果的に提起している。
イメージが、文化を越えてどのように読まれていく(=翻訳される)のかという問題もあるし、「自由」の概念の翻訳問題もある。
読売新聞の記事が、「Tout est pardonné」を「すべては許される」と訳してしまった背景には、
「リベルテ(自由)」という概念が近代、日本語に翻訳される際に、「勝手」と同義と捉えられていたという状況も思い起こさせられる。
また、漫画の翻訳を生業のひとつとしている者としては、漫画におけるテキスト部分がどれだけ重要なのかという、日頃から抱えている問題を改めて考えることになった。
多くの場合、人は、漫画における文章を、副次的なものと考えがちだ。
日本でこの表紙を目にした人の中には、絵だけから、
「今回は暴力的でないからいい」と考えた人もいれば、
「ムハンマドが描かれているから、やはりイスラーム教徒に対する侮辱だ」と考えた人もいただろう。
それは、イメージを見ればそれで事足れり、と考えているからだろう。
しかし、イメージに付随する言葉は、イメージの解釈に方向性を与え、意味づけをするものなのだから、けっしてないがしろにされるべきではない。
「Tout est pardonné」の意味が分からなければ、このイメージの重層性を読むことは不可能だ。
ここにもまた、文化翻訳の問題が横たわっている。
14日発行のこの号は、25カ国で販売され、アラビア語、英語、トルコ語、イタリア語など、複数の言語に翻訳されるという。
不用意な翻訳により、新たな誤解が生じないことを祈りたい。
http://synodos.jp/international/12340
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BLOGOS
Aquila Takeshi Aoki
2015年01月15日
シャルリー・エブド紙「Tout est pardonné(All is forgiven)」に込められた真意
襲撃事件後のシャルリー・エブド紙の今週号の表紙には、「私はシャルリー」と書かれた紙をもったムハンマドの風刺漫画が描かれ、
その上に、フランス語で、「Tout est pardonné(英訳するとAll is forgiven)」と書かれています。
これを受けて、日本の一部の新聞社は、表現の自由のもとなら、(ムハンマドの風刺も含めて)「何でも許される」という意味に取っているようです。
しかし、これは「All is forgiven」の真意を読み誤ったものだと思います。
これは、基本的な英語力、もしくは国語力の問題であり、大変失望します。
何でもやっていいよというのは、「許可」を意味しますが、
自分に悪いことをした人のことをゆるすというのは、「責めない、とがめない」ことを意味します。
私は、前者を「許し」と書き、後者の場合は「赦し」と書くことで、区別するようにしています。
後者の「赦し」には、自分に悪くした人のことを憎まないという、強い決意が必要であり、たやすくできるものではありません。
あなたは、自分の家族を殺した犯人を赦せますか?
シャルリー・エブド紙の弁護士は、確かに、
「神を冒涜することも含めて表現の自由の権利を守る」という趣旨の発言をしていますので、
その流れで、宗教的権威を揶揄することも含めて、「すべてのことは許される」という意味で、報道陣が理解したのかもしれませんが、
イスラム過激派が、シャルリー・エブド紙の漫画家を殺害したことに対して怒りの拳を挙げることが、今週号の風刺漫画の趣旨ではないと思います。
これは、今週号の表紙を描いた漫画家が、涙を堪えながら行った記者会見を見てもわかることです。
この風刺画を描き終えた作家が,「Tout est pardonné(All is forgiven)」と、泣きながら叫んだことの真意は、そこにあるのではありません。
英ガーディアンの記事は、「All is forgiven」の意味を、正しく伝えています。
シャルリー・エブド紙の女性コラムニストZineb El Rhazoui氏が、
この言葉は、「襲撃犯を、人として赦すことへの呼びかけ」であると説明しています。
襲撃犯を憎み、ののしり、怒ることでは、問題は解決しません。
この闘いは、過激派思想に不幸にも洗脳された若者たちに向けられたものではなく、
近代の価値観を暴力で覆そうとする、イスラム過激思想に向けられたものです。
憎しみに対する憎しみは、問題をさらに複雑にしていきます。
しかし、愛と赦しがそこに加わるとき、憎しみ合っていた人間同士の関係に、変化の兆しが現れ始めます。
この地上において、正義と平和を同時に実現することは、たいへん難しいことです。
正義を振りかざしても、和平が訪れることはありませんし、かといって、悪から目をそらして仲良くしても、偽りの平和になるだけです。
「All is forgiven(すべては赦される)」-この言葉には、人類の未来が託されていると思います。
最後に、宗教を侮辱する表現の自由が許されるか、という問題について触れたいと思います。
これは、非常に難しいテーマであると思います。
私はキリスト教を真剣に信じる者の一人ですが、その立場からあえて申し上げますが、
この社会で、神を冒涜する自由がなければ、神を賛美する自由もない、と私は考えています。
公の場で、宗教を批判する自由を規制する社会は、個人が公の場で、信仰を告白する自由も制限する可能性があります。
アメリカ社会は、そうなりつつあると思います。
最近のアメリカ映画に、『God’s Not Dead(邦題「神は死んだのか」)』がありますが、
この映画の脚本は、アメリカの大学のキャンパスで起きた、数々の訴訟事件をもとに作られたもので、
哲学の授業で、「神は死んだ」と書いて署名するように教授に求められた学生が、
自分はクリスチャンだからという理由で、署名を拒んだことから物語が始まります。
アメリカの大学のキャンパスでは、教職員や学生の、個人的な信仰のゆえに差別したり、侮辱することが問題となる一方で、
大学教授が、個人の宗教観について授業の中で触れたり、学生が、レポートなどで自分の信仰について触れることも、難しくなってきています。
アメリカでは、公共の場所で、他人の信仰を侮辱できない(それは当然のことですが)と同時に、
公共の場所で、自分の信仰について語ることも、難しくなっています。
それは、公共の場所で、中立性を担保するためには良いことかもしれませんが、
見方を変えれば、人に、無宗教あるいは無神論であることを強要すること、でもあります。
特定の個人を、イスラム教徒だからという理由だけで、あるいは、キリスト教徒であるという理由だけで、ユダヤ教徒であるという理由だけで、差別することがあってはいけません。
しかし、そのことと、宗教を風刺することとは別だ、と思います。
宗教的権威を風刺することをやめると、宗教界が堕落してしまうこともあります。
聞きたくないことにも耳を傾けることで、宗教的指導者が高ぶりや過ちを修正する、機会が与えられることもあります。
宗教的権威を批判したり、宗教を侮辱することを、よくないことだとして規制(自主規制も含みます)してしまうと、中世の抑圧の時代に逆戻りします。
それは、宗教を信じる人にとってもそうでない人にとっても、たいへん不幸なことを招きます。
神を冒涜したり、宗教を侮辱することも含めて、人間には自由があります。
その自由を規制する社会は、個人が信仰を告白する自由も抑圧してしまう危険性があります。
宗教について笑う自由と、それを聞く心のゆとりがある社会は、個人の信仰の自由も保障する社会だと思います。
宗教を信じる者であってもそうでなくても、
ときに、侮辱的と感じる表現に対して、忍耐と寛容さを持たなければならないと思います。
それは、人間に学ぶ機会を与えます。
(もちろん、侮辱することだけを目的としたヘイトスピーチのようなものは別ですが)。
そして、それは、キリストが十字架上で
「父よ、彼らをお赦しください」と、敵のために祈りをされた、愛と赦しの精神に近づくことであると思います。
http://blogos.com/article/103494/
↑以上、転載おわり
本当は、首脳たちだけは、護衛の人たちを引き連れて、別の通りを歩いていたというのに、写真を工作して報じたということを知り、
原子力を搭載したタンカーの出動とともに、ますますこれは、単純に考えるべき事件ではないという思いを強く持っています。
新聞の報道を読む時も、テレビやラジオから流れるニュースを聞く時も、鵜呑みにするのではなく、自分でもそのことについて調べるということが大切です。
こんな社会の中に暮らしているからこそ。
ここに、智さんのブログ『とべないポスト』に掲載された、ひとつの記事を紹介させていただきます。
↓以下、転載はじめ
不用意な翻訳が新たな誤解を…。
「許す」と「赦す」
「不用意な翻訳により、新たな誤解が生じないことを祈りたい」
翻訳家、関口涼子氏は、ニホンの文化水準の低さを痛烈に批判し、いとも簡単に、社会が誤った方向へ誘導される危うさを憂いている。
「許す」と「赦す」 の区別ができていないことは、語学というよりは、精神文化の問題だろう。
入試至上主義の社会は、フランスで起きた事件報道で、文化水準の低さをさらけ出してしまった。
オピニオンリーダーとも言うべきメディアの水準が、政治の質を決めると言われてきたが、
悪政の元凶を垣間見た思いだ。
お二方の同じような文章があったので、ご紹介させていただくこととし、自らの戒めとしたい。
剱
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『SYNODOS』2015.01.14
「許す」と「赦す」 ―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題
関口涼子 / 翻訳家、作家
「シャルリー・エブド」誌襲撃事件の後、フランスと日本のメディアによる報道を追っていて、
この事件への反応や解釈が、両国でまったく異なっていることに気がついた。
大まかに言えば、フランスの場合は、
『シャルリー・エブド』の編集方針に賛成でない人、あるいは同誌を読んだことがない人でもほぼ全員が、
同誌への抗議の手段として、殺人という最大の暴力が行使されたことに、激しく怒りを覚えたのに対し、
日本の場合には、
「テロは良くないが」というただし書き付きで、
「でも表現の自由と騒ぐのは西欧中心主義ではないか。表現の自由にも、他者の尊厳という制限が設けられるべきでは」
と表明することが、少なからず存在した。
ここでは、その点については触れない。
それとは別に、取り急ぎ指摘するべき問題が、一つあるからだ。
1月13日付読売新聞の夕刊、国際欄に出ていた記事のことだ。
今日14日水曜日、襲撃事件後初めて発行される『シャルリー・エブド』最新号の、表紙のデッサンに触れたその記事では、
「最新号の表紙には、ムハンマドとされる男性が、泣きながら『ジュ・スイ・シャルリー(私はシャルリー)』との標語を掲げる風刺画が描かれている。
この標語は、仏国民が事件後、表現の自由を訴えるスローガンとして使った。
表紙には、ムハンマドのターバンの色とされ、イスラム教徒が神聖視する緑色を使った。
また、『すべては許される』との見出しも付け、ムハンマドの風刺も『表現の自由』の枠内との見解を訴えたと見られる」
とある(AFP通信を始め、他の幾つかの日本のメディアにも、「ムハンマドへの風刺も許されるという意味と見られる」とあった)。
この記事には、多くの事実誤認が見られる。
政治学者の池内恵氏によると、緑はムハンマドのターバンの色ではなく、
そもそも、シャルリー誌の表紙絵の男性も、緑のターバンなど被っていないのだから、
単に、一般的に、イスラーム教というと緑とされているから、背景に緑を用いたのだろう、という。
また、ムハンマドの表象自体は、一般的ではないとはいえ、イスラーム世界でもかつては伝統的に存在していた。
中世イランのミニアチュールなどでは、ムハンマドが描かれている。
そしてなにより、私が翻訳者としてこの記事で指摘したいところは、この記事に見られる重大な誤訳なのだ。
「Tout est pardonné」の意味
この表表紙には、ふたつの文章が記されている。
まず、ムハンマドと解釈されるような男が、「Je suis Charlie」と書かれた紙を掲げ、涙を流している。
そしてその上には、「Tout est pardonné」と書かれている。
読売新聞の記事は、「Tout est pardonné」を、
「すべては許される」と訳し、何でもありだ、という、言論の自由(というか「勝手」)を示したものだとしているが、
これはまったく逆の意味だ。
「すべてが許される」であれば、フランス語では、「Tout est permis」 になるだろう。
「許可」を意味する「Permission」から来ている「Permis」と異なり、
「Pardonné」 は宗教の罪の「赦し」に由来する、もっと重い言葉だ。
そして、
「permis」であれば、現在から未来に及ぶ行為を許可することを指すが、
「pardonné」は、過去に為された過ちを赦すことを意味する。
「Tout est pardonné」は、直訳すれば「すべてを赦した」になる。
しかし、これは同時に、口語の慣用句であり、日本語で一番近い意味合いを探せば、
たとえば、
放蕩息子の帰還で親が言うだろう言葉、「そのことについてはもう咎めないよ」、
または、
あるカップルが、深刻な関係の危機に陥り、長い間の不仲の後、最後に「いろいろあったけどもう忘れよう」という表現になるだろう。
これは、ただの喧嘩の後の仲直りの言葉ではない。
長い間の不和があり、それは実際には忘れられることも、許されることも出来ないかもしれない。
割れた壺は戻らないかもしれない。
それでも、この件については、終わったこととしようではないか、
そうして、お互いに辛いけれども、新しい関係に移ろうという、
「和解」「水に流す」というきれいごとの表現では表しきれない、深いニュアンスがこの言葉には含まれている。
画面上、この文章は、預言者ムハンマドが言ったとも取れるし、『シャルリー・エブド』誌側の言葉とも取れる。
つまり、複数の解釈を許しているのだ。
ムハンマドが言ったとすれば、それは、
「君たちの風刺・または思想をも「わたしは寛容に受け止めよう」ということであり、
『シャルリー・エブド』誌の側としては、
「わたしたちの仲間は死んだ。
でも、これを憎悪の元にするのではなく、前に進んでいかなければならない」ということを意味するだろう。
読売新聞の記者は、このデッサンに、「自分が読みたいことを読んだ」のかもしれない。
イメージは曖昧であり、ときに、自らが含んでいない解釈も許してしまう危険性があるが、
この文章と結びつけられたときのメッセージは明白だ。
「Tout est pardonné」を、「すべては許される」とすることで、この読みの多様性が全て消えてしまう。
「殺されたシャルリーは自分(ムハンマド)でもある」
それから、預言者ムハンマドが「Je suis Charlie」 、
つまり、「わたしはシャルリーだ」と書かれた紙を持っていることが重要だ。
これは、単に、預言者ムハンマドも、自分たち『シャルリー・エブド』誌の味方なんだよ!と言いたいのではない。
「わたしはシャルリーだ」とムハンマドが言うことは、
「殺されたシャルリーは自分(ムハンマド)でもある」、
つまり、宗教の名の下に、暴力の行使によって相手の制圧をしようとすれば、あなたたちが信じていると思っている宗教もまた死ぬのだ、と、
このムハンマドのイメージは、犯人たち(または犯人と意見を同じくする者たち)に訴えかけているのだ。
その意味ではこれは、どれだけムハンマドが描かれていようと、イスラーム教の批判でもなければ、イスラーム教徒に対する侮辱でもない。
むしろ、今後起きるであろうイスラーム嫌悪に対する歯止めであり、
テロ行為に走ることは、自分たちの信ずるイスラーム教の許すことではないと考える、フランスに住む多くのイスラーム教徒を代弁しているとも言えるのだ。
この絵を描いた漫画家、ルスは、ここで描かれているのは、何よりも先ず「涙を流す人間のイメージ」であって、
たとえムハンマドだとしても、自分が描いたムハンマドのキャラクターは、
虐殺を行った犯人が妄信していたムハンマド像よりも、ずっと平和的なのでは、と発言している。
それでは、これは、単に平和と未来を望む、真面目な絵なのだろうか。
『シャルリー・エブド』誌の漫画家たちは、悲劇を前にして、ユーモアの精神を忘れてしまったのだろうか?
ここには、三つ目の意味が隠されている。
今回、諧謔精神は、事件の後、当該誌を読んだことさえなかったのに、
あわてて猫も杓子も、「わたしはシャルリーだ」と言い出した現象に向けられている。
「しょうがねーなー、チャラにしてやるよ」
つねに資金繰りに苦心していた、公称6万部、実売3万部の弱小誌、しかも紙のメディアという、およそ時代遅れのこの雑誌は、
多くのフランス人にもやり過ぎだと捉えられていたし、正面切ってこの雑誌が好きだと言う人はほとんどいなかった。
それが、今回の事件以後、突如、全国的に有名になり、最新号は300万部印刷された。
政府からの補助金も出たし、個人の寄付も集まった。
1月11日に行われた、反テロ・追悼集会では、フランス全土で370万人を超える参加者を数える、フランス史上最大規模の抗議集会となった。
表紙の絵を描いたルスは、襲撃事件が政治的に利用されることに違和感を表明し、
11日の集会は、「シャルリー・エブド」の精神とは正反対だ、と批判している。
もう一人の生き残った漫画家ウィレムは、
「いきなり、自分たちの友だと言い出す奴らには、反吐が出るね」と、辛辣なコメントを述べてさえいる。
しかし、そういう、お調子者のフランス人、自分たちを担ぎ上げて利用しようとする政治家たちをも、
「Tout est pardonné しょうがねーなー、チャラにしてやるよ」、と笑い飛ばしているのが、この絵なのだ。
今までの『シャルリー・エブド』誌の風刺絵の中には、鋭いものも、差別表現ぎりぎりのものもあったが、
今回に関しては、お見事、というほかない。
ルスは、この絵を表紙にすると決めるまで、何日も、同僚たちと編集会議を重ねたという。
襲撃の直後に編集室に入り、同僚の死体を目撃した彼にとって、最新号の絵を描くことには、自信が持てなかったという。
最初は、同僚たちが倒れている状況を描き、イスラーム過激派を描き、そして、最後には、銃弾の跡ではなく、
「笑うことの出来る絵」を描きたい、と思ってたどり着いたのが、この表紙の絵なのだ。
文化翻訳に関する多くの問題
『シャルリー・エブド』誌襲撃事件は、文化翻訳に関する多くの問題を、結果的に提起している。
イメージが、文化を越えてどのように読まれていく(=翻訳される)のかという問題もあるし、「自由」の概念の翻訳問題もある。
読売新聞の記事が、「Tout est pardonné」を「すべては許される」と訳してしまった背景には、
「リベルテ(自由)」という概念が近代、日本語に翻訳される際に、「勝手」と同義と捉えられていたという状況も思い起こさせられる。
また、漫画の翻訳を生業のひとつとしている者としては、漫画におけるテキスト部分がどれだけ重要なのかという、日頃から抱えている問題を改めて考えることになった。
多くの場合、人は、漫画における文章を、副次的なものと考えがちだ。
日本でこの表紙を目にした人の中には、絵だけから、
「今回は暴力的でないからいい」と考えた人もいれば、
「ムハンマドが描かれているから、やはりイスラーム教徒に対する侮辱だ」と考えた人もいただろう。
それは、イメージを見ればそれで事足れり、と考えているからだろう。
しかし、イメージに付随する言葉は、イメージの解釈に方向性を与え、意味づけをするものなのだから、けっしてないがしろにされるべきではない。
「Tout est pardonné」の意味が分からなければ、このイメージの重層性を読むことは不可能だ。
ここにもまた、文化翻訳の問題が横たわっている。
14日発行のこの号は、25カ国で販売され、アラビア語、英語、トルコ語、イタリア語など、複数の言語に翻訳されるという。
不用意な翻訳により、新たな誤解が生じないことを祈りたい。
http://synodos.jp/international/12340
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Aquila Takeshi Aoki
2015年01月15日
シャルリー・エブド紙「Tout est pardonné(All is forgiven)」に込められた真意
襲撃事件後のシャルリー・エブド紙の今週号の表紙には、「私はシャルリー」と書かれた紙をもったムハンマドの風刺漫画が描かれ、
その上に、フランス語で、「Tout est pardonné(英訳するとAll is forgiven)」と書かれています。
これを受けて、日本の一部の新聞社は、表現の自由のもとなら、(ムハンマドの風刺も含めて)「何でも許される」という意味に取っているようです。
しかし、これは「All is forgiven」の真意を読み誤ったものだと思います。
これは、基本的な英語力、もしくは国語力の問題であり、大変失望します。
何でもやっていいよというのは、「許可」を意味しますが、
自分に悪いことをした人のことをゆるすというのは、「責めない、とがめない」ことを意味します。
私は、前者を「許し」と書き、後者の場合は「赦し」と書くことで、区別するようにしています。
後者の「赦し」には、自分に悪くした人のことを憎まないという、強い決意が必要であり、たやすくできるものではありません。
あなたは、自分の家族を殺した犯人を赦せますか?
シャルリー・エブド紙の弁護士は、確かに、
「神を冒涜することも含めて表現の自由の権利を守る」という趣旨の発言をしていますので、
その流れで、宗教的権威を揶揄することも含めて、「すべてのことは許される」という意味で、報道陣が理解したのかもしれませんが、
イスラム過激派が、シャルリー・エブド紙の漫画家を殺害したことに対して怒りの拳を挙げることが、今週号の風刺漫画の趣旨ではないと思います。
これは、今週号の表紙を描いた漫画家が、涙を堪えながら行った記者会見を見てもわかることです。
この風刺画を描き終えた作家が,「Tout est pardonné(All is forgiven)」と、泣きながら叫んだことの真意は、そこにあるのではありません。
英ガーディアンの記事は、「All is forgiven」の意味を、正しく伝えています。
シャルリー・エブド紙の女性コラムニストZineb El Rhazoui氏が、
この言葉は、「襲撃犯を、人として赦すことへの呼びかけ」であると説明しています。
襲撃犯を憎み、ののしり、怒ることでは、問題は解決しません。
この闘いは、過激派思想に不幸にも洗脳された若者たちに向けられたものではなく、
近代の価値観を暴力で覆そうとする、イスラム過激思想に向けられたものです。
憎しみに対する憎しみは、問題をさらに複雑にしていきます。
しかし、愛と赦しがそこに加わるとき、憎しみ合っていた人間同士の関係に、変化の兆しが現れ始めます。
この地上において、正義と平和を同時に実現することは、たいへん難しいことです。
正義を振りかざしても、和平が訪れることはありませんし、かといって、悪から目をそらして仲良くしても、偽りの平和になるだけです。
「All is forgiven(すべては赦される)」-この言葉には、人類の未来が託されていると思います。
最後に、宗教を侮辱する表現の自由が許されるか、という問題について触れたいと思います。
これは、非常に難しいテーマであると思います。
私はキリスト教を真剣に信じる者の一人ですが、その立場からあえて申し上げますが、
この社会で、神を冒涜する自由がなければ、神を賛美する自由もない、と私は考えています。
公の場で、宗教を批判する自由を規制する社会は、個人が公の場で、信仰を告白する自由も制限する可能性があります。
アメリカ社会は、そうなりつつあると思います。
最近のアメリカ映画に、『God’s Not Dead(邦題「神は死んだのか」)』がありますが、
この映画の脚本は、アメリカの大学のキャンパスで起きた、数々の訴訟事件をもとに作られたもので、
哲学の授業で、「神は死んだ」と書いて署名するように教授に求められた学生が、
自分はクリスチャンだからという理由で、署名を拒んだことから物語が始まります。
アメリカの大学のキャンパスでは、教職員や学生の、個人的な信仰のゆえに差別したり、侮辱することが問題となる一方で、
大学教授が、個人の宗教観について授業の中で触れたり、学生が、レポートなどで自分の信仰について触れることも、難しくなってきています。
アメリカでは、公共の場所で、他人の信仰を侮辱できない(それは当然のことですが)と同時に、
公共の場所で、自分の信仰について語ることも、難しくなっています。
それは、公共の場所で、中立性を担保するためには良いことかもしれませんが、
見方を変えれば、人に、無宗教あるいは無神論であることを強要すること、でもあります。
特定の個人を、イスラム教徒だからという理由だけで、あるいは、キリスト教徒であるという理由だけで、ユダヤ教徒であるという理由だけで、差別することがあってはいけません。
しかし、そのことと、宗教を風刺することとは別だ、と思います。
宗教的権威を風刺することをやめると、宗教界が堕落してしまうこともあります。
聞きたくないことにも耳を傾けることで、宗教的指導者が高ぶりや過ちを修正する、機会が与えられることもあります。
宗教的権威を批判したり、宗教を侮辱することを、よくないことだとして規制(自主規制も含みます)してしまうと、中世の抑圧の時代に逆戻りします。
それは、宗教を信じる人にとってもそうでない人にとっても、たいへん不幸なことを招きます。
神を冒涜したり、宗教を侮辱することも含めて、人間には自由があります。
その自由を規制する社会は、個人が信仰を告白する自由も抑圧してしまう危険性があります。
宗教について笑う自由と、それを聞く心のゆとりがある社会は、個人の信仰の自由も保障する社会だと思います。
宗教を信じる者であってもそうでなくても、
ときに、侮辱的と感じる表現に対して、忍耐と寛容さを持たなければならないと思います。
それは、人間に学ぶ機会を与えます。
(もちろん、侮辱することだけを目的としたヘイトスピーチのようなものは別ですが)。
そして、それは、キリストが十字架上で
「父よ、彼らをお赦しください」と、敵のために祈りをされた、愛と赦しの精神に近づくことであると思います。
http://blogos.com/article/103494/
↑以上、転載おわり