ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

「読売新聞1月13日付・国際欄の記事の誤訳から、『赦し』についての考察」

2015年01月15日 | 日本とわたし
あのフランスで行われた100万人以上にも及ぶ人々による行進に、各国から首脳が駆けつけ、一緒に行進したというニュースも実は、
本当は、首脳たちだけは、護衛の人たちを引き連れて、別の通りを歩いていたというのに、写真を工作して報じたということを知り、
原子力を搭載したタンカーの出動とともに、ますますこれは、単純に考えるべき事件ではないという思いを強く持っています。

新聞の報道を読む時も、テレビやラジオから流れるニュースを聞く時も、鵜呑みにするのではなく、自分でもそのことについて調べるということが大切です。
こんな社会の中に暮らしているからこそ。


ここに、智さんのブログ『とべないポスト』に掲載された、ひとつの記事を紹介させていただきます。

↓以下、転載はじめ

不用意な翻訳が新たな誤解を…。

「許す」と「赦す」

「不用意な翻訳により、新たな誤解が生じないことを祈りたい」

翻訳家、関口涼子氏は、ニホンの文化水準の低さを痛烈に批判し、いとも簡単に、社会が誤った方向へ誘導される危うさを憂いている。                 

「許す」と「赦す」 の区別ができていないことは、語学というよりは、精神文化の問題だろう。

入試至上主義の社会は、フランスで起きた事件報道で、文化水準の低さをさらけ出してしまった。

オピニオンリーダーとも言うべきメディアの水準が、政治の質を決めると言われてきたが、

悪政の元凶を垣間見た思いだ。


お二方の同じような文章があったので、ご紹介させていただくこととし、自らの戒めとしたい。



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『SYNODOS』2015.01.14

「許す」と「赦す」 ―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題
関口涼子 / 翻訳家、作家


「シャルリー・エブド」誌襲撃事件の後、フランスと日本のメディアによる報道を追っていて、
この事件への反応や解釈が、両国でまったく異なっていることに気がついた。

大まかに言えば、フランスの場合は、
『シャルリー・エブド』の編集方針に賛成でない人、あるいは同誌を読んだことがない人でもほぼ全員が、
同誌への抗議の手段として、殺人という最大の暴力が行使されたことに、激しく怒りを覚えた
のに対し、

日本の場合には、
「テロは良くないが」というただし書き付きで、
「でも表現の自由と騒ぐのは西欧中心主義ではないか。表現の自由にも、他者の尊厳という制限が設けられるべきでは」
と表明
することが、少なからず存在した。

ここでは、その点については触れない。
それとは別に、取り急ぎ指摘するべき問題が、一つあるからだ。


1月13日付読売新聞の夕刊、国際欄に出ていた記事のことだ。

今日14日水曜日、襲撃事件後初めて発行される『シャルリー・エブド』最新号の、表紙のデッサンに触れたその記事では、

「最新号の表紙には、ムハンマドとされる男性が、泣きながら『ジュ・スイ・シャルリー(私はシャルリー)』との標語を掲げる風刺画が描かれている。
この標語は、仏国民が事件後、表現の自由を訴えるスローガンとして使った。
表紙には、ムハンマドのターバンの色とされ、イスラム教徒が神聖視する緑色を使った。

また、『すべては許される』との見出しも付け、ムハンマドの風刺も『表現の自由』の枠内との見解を訴えたと見られる

とある(AFP通信を始め、他の幾つかの日本のメディアにも、「ムハンマドへの風刺も許されるという意味と見られる」とあった)。


この記事には、多くの事実誤認が見られる。

政治学者の池内恵氏によると、緑はムハンマドのターバンの色ではなく
そもそも、シャルリー誌の表紙絵の男性も、緑のターバンなど被っていないのだから、
単に、一般的に、イスラーム教というと緑とされているから、背景に緑を用いたのだろう、
という。

また、ムハンマドの表象自体は、一般的ではないとはいえ、イスラーム世界でもかつては伝統的に存在していた
中世イランのミニアチュールなどでは、ムハンマドが描かれている。


そしてなにより、私が翻訳者としてこの記事で指摘したいところは、この記事に見られる重大な誤訳なのだ。

「Tout est pardonné」の意味

この表表紙には、ふたつの文章が記されている。

まず、ムハンマドと解釈されるような男が、「Je suis Charlie」と書かれた紙を掲げ、涙を流している。
そしてその上には、「Tout est pardonné」と書かれている。

読売新聞の記事は、「Tout est pardonné」を、
「すべては許される」と訳し、何でもありだ、という、言論の自由(というか「勝手」)を示したものだとしているが、
これはまったく逆の意味だ。

「すべてが許される」であれば、フランス語では、「Tout est permis」 になるだろう。
「許可」を意味する「Permission」から来ている「Permis」と異なり、
「Pardonné」 は宗教の罪の「赦し」に由来する、もっと重い言葉だ。

そして、
「permis」であれば、現在から未来に及ぶ行為を許可することを指すが、
「pardonné」は、過去に為された過ちを赦すことを意味する
「Tout est pardonné」は、直訳すれば「すべてを赦した」になる

しかし、これは同時に、口語の慣用句であり、日本語で一番近い意味合いを探せば、
たとえば、
放蕩息子の帰還で親が言うだろう言葉、「そのことについてはもう咎めないよ」
または、
あるカップルが、深刻な関係の危機に陥り、長い間の不仲の後、最後に「いろいろあったけどもう忘れよう」という表現になるだろう。

これは、ただの喧嘩の後の仲直りの言葉ではない

長い間の不和があり、それは実際には忘れられることも、許されることも出来ないかもしれない。
割れた壺は戻らないかもしれない。
それでも、この件については、終わったこととしようではないか、
そうして、お互いに辛いけれども、新しい関係に移ろうという、
「和解」「水に流す」というきれいごとの表現では表しきれない、深いニュアンスがこの言葉には含まれている。


画面上、この文章は、預言者ムハンマドが言ったとも取れるし、『シャルリー・エブド』誌側の言葉とも取れる
つまり、複数の解釈を許しているのだ。

ムハンマドが言ったとすれば、それは、
「君たちの風刺・または思想をも「わたしは寛容に受け止めよう」ということであり、

『シャルリー・エブド』誌の側としては、
「わたしたちの仲間は死んだ。
でも、これを憎悪の元にするのではなく、前に進んでいかなければならない」
ということを意味するだろう。


読売新聞の記者は、このデッサンに、「自分が読みたいことを読んだ」のかもしれない。
イメージは曖昧であり、ときに、自らが含んでいない解釈も許してしまう危険性があるが、
この文章と結びつけられたときのメッセージは明白だ。

「Tout est pardonné」を、「すべては許される」とすることで、この読みの多様性が全て消えてしまう


「殺されたシャルリーは自分(ムハンマド)でもある」

それから、預言者ムハンマドが「Je suis Charlie」 、
つまり、「わたしはシャルリーだ」と書かれた紙を持っていることが重要だ。

これは、単に、預言者ムハンマドも、自分たち『シャルリー・エブド』誌の味方なんだよ!と言いたいのではない

「わたしはシャルリーだ」とムハンマドが言うことは、
「殺されたシャルリーは自分(ムハンマド)でもある」、

つまり、宗教の名の下に、暴力の行使によって相手の制圧をしようとすれば、あなたたちが信じていると思っている宗教もまた死ぬのだ、と、
このムハンマドのイメージは、犯人たち(または犯人と意見を同じくする者たち)に訴えかけているのだ。

その意味ではこれは、どれだけムハンマドが描かれていようと、イスラーム教の批判でもなければ、イスラーム教徒に対する侮辱でもない

むしろ、今後起きるであろうイスラーム嫌悪に対する歯止めであり、
テロ行為に走ることは、自分たちの信ずるイスラーム教の許すことではないと考える、フランスに住む多くのイスラーム教徒を代弁しているとも言える
のだ。

この絵を描いた漫画家、ルスは、ここで描かれているのは、何よりも先ず「涙を流す人間のイメージ」であって、

たとえムハンマドだとしても、自分が描いたムハンマドのキャラクターは、
虐殺を行った犯人が妄信していたムハンマド像よりも、ずっと平和的なのでは、と発言している。

それでは、これは、単に平和と未来を望む、真面目な絵なのだろうか。
『シャルリー・エブド』誌の漫画家たちは、悲劇を前にして、ユーモアの精神を忘れてしまったのだろうか?

ここには、三つ目の意味が隠されている。

今回、諧謔精神は、事件の後、当該誌を読んだことさえなかったのに、
あわてて猫も杓子も、「わたしはシャルリーだ」と言い出した現象に向けられている

「しょうがねーなー、チャラにしてやるよ」

つねに資金繰りに苦心していた、公称6万部、実売3万部の弱小誌、しかも紙のメディアという、およそ時代遅れのこの雑誌は、
多くのフランス人にもやり過ぎだと捉えられていたし、正面切ってこの雑誌が好きだと言う人はほとんどいなかった

それが、今回の事件以後、突如、全国的に有名になり、最新号は300万部印刷された。
政府からの補助金も出たし、個人の寄付も集まった。
1月11日に行われた、反テロ・追悼集会では、フランス全土で370万人を超える参加者を数える、フランス史上最大規模の抗議集会となった。

表紙の絵を描いたルスは、襲撃事件が政治的に利用されることに違和感を表明し、
11日の集会は、「シャルリー・エブド」の精神とは正反対だ、と批判している。

もう一人の生き残った漫画家ウィレムは、
「いきなり、自分たちの友だと言い出す奴らには、反吐が出るね」と、辛辣なコメントを述べてさえいる。

しかし、そういう、お調子者のフランス人、自分たちを担ぎ上げて利用しようとする政治家たちをも、
「Tout est pardonné しょうがねーなー、チャラにしてやるよ」、と笑い飛ばしているのが、この絵なのだ。

今までの『シャルリー・エブド』誌の風刺絵の中には、鋭いものも、差別表現ぎりぎりのものもあったが、
今回に関しては、お見事、というほかない。

ルスは、この絵を表紙にすると決めるまで、何日も、同僚たちと編集会議を重ねたという。

襲撃の直後に編集室に入り、同僚の死体を目撃した彼にとって、最新号の絵を描くことには、自信が持てなかったという。
最初は、同僚たちが倒れている状況を描き、イスラーム過激派を描き、そして、最後には、銃弾の跡ではなく、
「笑うことの出来る絵」を描きたい、と思ってたどり着いたのが、この表紙の絵なのだ。



文化翻訳に関する多くの問題

『シャルリー・エブド』誌襲撃事件は、文化翻訳に関する多くの問題を、結果的に提起している。

イメージが、文化を越えてどのように読まれていく(=翻訳される)のかという問題もあるし、「自由」の概念の翻訳問題もある。

読売新聞の記事が、「Tout est pardonné」を「すべては許される」と訳してしまった背景には、
「リベルテ(自由)」という概念が近代、日本語に翻訳される際に、「勝手」と同義と捉えられていたという状況も思い起こさせられる

また、漫画の翻訳を生業のひとつとしている者としては、漫画におけるテキスト部分がどれだけ重要なのかという、日頃から抱えている問題を改めて考えることになった。
多くの場合、人は、漫画における文章を、副次的なものと考えがちだ。
日本でこの表紙を目にした人の中には、絵だけから、
「今回は暴力的でないからいい」と考えた人もいれば、
「ムハンマドが描かれているから、やはりイスラーム教徒に対する侮辱だ」と考えた人もいただろう。

それは、イメージを見ればそれで事足れり、と考えているからだろう。
しかし、イメージに付随する言葉は、イメージの解釈に方向性を与え、意味づけをするものなのだから、けっしてないがしろにされるべきではない。

「Tout est pardonné」の意味が分からなければ、このイメージの重層性を読むことは不可能だ。
ここにもまた、文化翻訳の問題が横たわっている。

14日発行のこの号は、25カ国で販売され、アラビア語、英語、トルコ語、イタリア語など、複数の言語に翻訳されるという。
不用意な翻訳により、新たな誤解が生じないことを祈りたい。
http://synodos.jp/international/12340

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BLOGOS
Aquila Takeshi Aoki
2015年01月15日

シャルリー・エブド紙「Tout est pardonné(All is forgiven)」に込められた真意

襲撃事件後のシャルリー・エブド紙の今週号の表紙には、「私はシャルリー」と書かれた紙をもったムハンマドの風刺漫画が描かれ、
その上に、フランス語で、「Tout est pardonné(英訳するとAll is forgiven)」と書かれています。

これを受けて、日本の一部の新聞社は、表現の自由のもとなら、(ムハンマドの風刺も含めて)「何でも許される」という意味に取っているようです。

しかし、これは「All is forgiven」の真意を読み誤ったものだと思います。
これは、基本的な英語力、もしくは国語力の問題であり、大変失望します。

何でもやっていいよというのは、「許可」を意味しますが、
自分に悪いことをした人のことをゆるすというのは、「責めない、とがめない」ことを意味します。

私は、前者を「許し」と書き、後者の場合は「赦し」と書くことで、区別するようにしています。
後者の「赦し」には、自分に悪くした人のことを憎まないという、強い決意が必要であり、たやすくできるものではありません

あなたは、自分の家族を殺した犯人を赦せますか?

シャルリー・エブド紙の弁護士は、確かに、
「神を冒涜することも含めて表現の自由の権利を守る」という趣旨の発言をしていますので、
その流れで、宗教的権威を揶揄することも含めて、「すべてのことは許される」という意味で、報道陣が理解したのかもしれませんが、
イスラム過激派が、シャルリー・エブド紙の漫画家を殺害したことに対して怒りの拳を挙げることが、今週号の風刺漫画の趣旨ではないと思います。

これは、今週号の表紙を描いた漫画家が、涙を堪えながら行った記者会見を見てもわかることです。

この風刺画を描き終えた作家が,「Tout est pardonné(All is forgiven)」と、泣きながら叫んだことの真意は、そこにあるのではありません。

英ガーディアンの記事は、「All is forgiven」の意味を、正しく伝えています。

シャルリー・エブド紙の女性コラムニストZineb El Rhazoui氏が、
この言葉は、「襲撃犯を、人として赦すことへの呼びかけ」であると説明しています。

襲撃犯を憎み、ののしり、怒ることでは、問題は解決しません。
この闘いは、過激派思想に不幸にも洗脳された若者たちに向けられたものではなく、
近代の価値観を暴力で覆そうとする、イスラム過激思想に向けられたものです。

憎しみに対する憎しみは、問題をさらに複雑にしていきます。
しかし、愛と赦しがそこに加わるとき、憎しみ合っていた人間同士の関係に、変化の兆しが現れ始めます

この地上において、正義と平和を同時に実現することは、たいへん難しいことです。
正義を振りかざしても、和平が訪れることはありませんし、かといって、悪から目をそらして仲良くしても、偽りの平和になるだけです。

「All is forgiven(すべては赦される)」-この言葉には、人類の未来が託されていると思います。


最後に、宗教を侮辱する表現の自由が許されるか、という問題について触れたいと思います。

これは、非常に難しいテーマであると思います。

私はキリスト教を真剣に信じる者の一人ですが、その立場からあえて申し上げますが、
この社会で、神を冒涜する自由がなければ、神を賛美する自由もない、と私は考えています。

公の場で、宗教を批判する自由を規制する社会は、個人が公の場で、信仰を告白する自由も制限する可能性があります。
アメリカ社会は、そうなりつつあると思います。

最近のアメリカ映画に、『God’s Not Dead(邦題「神は死んだのか」)』がありますが、
この映画の脚本は、アメリカの大学のキャンパスで起きた、数々の訴訟事件をもとに作られたもので、
哲学の授業で、「神は死んだ」と書いて署名するように教授に求められた学生が、
自分はクリスチャンだからという理由で、署名を拒んだことから物語が始まります。

アメリカの大学のキャンパスでは、教職員や学生の、個人的な信仰のゆえに差別したり、侮辱することが問題となる一方で、
大学教授が、個人の宗教観について授業の中で触れたり、学生が、レポートなどで自分の信仰について触れることも、難しくなってきています。

アメリカでは、公共の場所で、他人の信仰を侮辱できない(それは当然のことですが)と同時に、
公共の場所で、自分の信仰について語ることも、難しくなっています。

それは、公共の場所で、中立性を担保するためには良いことかもしれませんが、
見方を変えれば、人に、無宗教あるいは無神論であることを強要すること、でもあります。

特定の個人を、イスラム教徒だからという理由だけで、あるいは、キリスト教徒であるという理由だけで、ユダヤ教徒であるという理由だけで、差別することがあってはいけません。
しかし、そのことと、宗教を風刺することとは別だ、と思います。

宗教的権威を風刺することをやめると、宗教界が堕落してしまうこともあります。
聞きたくないことにも耳を傾けることで、宗教的指導者が高ぶりや過ちを修正する、機会が与えられることもあります。

宗教的権威を批判したり、宗教を侮辱することを、よくないことだとして規制(自主規制も含みます)してしまうと、中世の抑圧の時代に逆戻りします
それは、宗教を信じる人にとってもそうでない人にとっても、たいへん不幸なことを招きます

神を冒涜したり、宗教を侮辱することも含めて、人間には自由があります
その自由を規制する社会は、個人が信仰を告白する自由も抑圧してしまう危険性があります
宗教について笑う自由と、それを聞く心のゆとりがある社会は、個人の信仰の自由も保障する社会だと思います。

宗教を信じる者であってもそうでなくても、
ときに、侮辱的と感じる表現に対して、忍耐と寛容さを持たなければならない
と思います。

それは、人間に学ぶ機会を与えます。

もちろん、侮辱することだけを目的としたヘイトスピーチのようなものは別ですが)。

そして、それは、キリストが十字架上で
「父よ、彼らをお赦しください」と、敵のために祈りをされた、愛と赦しの精神に近づくことであると思います。
http://blogos.com/article/103494/

↑以上、転載おわり
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戦争という落とし穴に落ちていく滑り台に、乗らないための学び

2015年01月15日 | 日本とわたし
フランスの事件以来、まるで絵に描いたように、『テロとの戦い』という文字があちこちで流されています。
原子力を積んだタンカーが動き始めたりして、きっと軍需産業の役員たちは今頃、ようやくやってきた大きなチャンスに浮き足立っているか、自分たちの姿が一切表に出ないよう、細心の注意を払っているのでしょう。
アメリカがそうでした。
9.11の同時テロの後の高揚は、本当に恐ろしく、なんとしても止めよう、裏にある真実を見ようとどんなに頑張っても、大きな波に流されていきました。
インターネットがここまで発達している現代のアメリカでも、リベラルな新聞やテレビまでもが、戦争の正当性を語るようになった時、ああもうだめかもしれないと思いました。


戦後70年 吉永小百合の祈り
「NHKアーカイブス」2015年1月4日より
↑↑↑
この動画をこちらに載せることができません。
下記の青文字をクリックして、ご覧ください。
http://video.fc2.com/content/20150107HtdXYzEK

<文字起こし>

やはり戦争っていうのは、人間を、人間同士殺し合うことですよね。
だから、昔から、戦争によってどんどん歴史が変わってきたっていうことはありますけれども、
やはり、どんなことをしても避けなければならないし、
人間は頭脳っていうのを持っているわけだから、もっともっとこう考えて、いろいろな道を選択すべきだっていうことは、思っているというか、願っていますね。
で、原爆はやはり、もう二度と地球上で使われてはいけない。
そのために、きちっと、唯一の被爆国のわたしたちが、そのことをきちんと知って、それで世界の人に語っていかなきゃいけないと思っています。

「核兵器を持つことで安定が保たれてる」、とかって言いますけれども、やはりもうこれは異常な兵器だと思いますし、
あのもう、核廃絶ということを、声に出して言いたいと思います。




核廃絶はもちろんのこと、戦争という事象の現場がどのようにむごたらしいものであるか、
それは、指令や命令を出すだけの上の人間はもちろん、戦争に行かないわたしたちのような者には、実際に経験することはありません。

でも、これまでの戦争で起こった事実を、丹念に読み聞きしていくことで、想像し、理解していくことはできます。
わたしたちのような、幸運にも戦争に巻き込まれずに生きられている者は、その奇跡のような毎日を当たり前のように受け取るのではなく、
世界市民として、ともに、核を二度と使わない、増やさない、殺しあわないという信条のもとに、皆が暮らせる世界を作るべく、
それを実現するのにどれほど難しく時間がかかろうとも、声を上げ続け、引き継いでいってもらえるようにしたいと思います。



小笠原事件(おがさわらじけん)とは、1945年(昭和20年)に日本軍が米軍の捕虜8名を殺害し、そのうち5名の人肉を嗜食したとされる事件である。
別名、父島人肉食事件。

出典
小笠原事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/小笠原事件

小笠原事件概要
1945(昭和20)年2月23日から25日にかけて、小笠原諸島の父島に配備されていた陸海軍の混成団の一部将校らが、米軍の捕虜を殺害して人食していたことが、
戦後の東京裁判BC級戦犯の、公判で明らかになった。

小笠原諸島は東京市(現・東京都)に属し、南に約200キロにある島で、父島を中心に大小の島からなる。
当時、東京市の防衛の要であった硫黄島と東京市の中間にあり、軍需物資を中継する重要な島だった。
このため、大本営も、従来の父島要塞司令部を改編し、陸軍は混成第一旅団(5個大隊を基幹)など約9000人、海軍は通信隊など6000人を再配備した。

米軍の機動部隊は、前年の1944(昭和19)年7月にサイパン島を攻略し、日本守備隊が玉砕。
このサイパンを最前線基地として、連日、東京への空爆を行った。
大本営は、米軍の次の目標は硫黄島とみて、父島に約15000人からなる部隊を配置したのだった。

同年8月31日から9月2日にかけて、いよいよ父島に対する空爆が始まった。
米空母から「アベンジャー」爆撃機が次々に、父島に向かって出撃していった。
一方、父島守備隊は、高射砲や機関砲で応戦し、5機の米軍機を撃ち落した。
この内の1機が、後の第41代米国大統領となる、ジョージ・ブッシュ中尉だった。
ブッシュは、からくもコックピットから脱出して、パラシュートで離脱。
その後、味方の潜水艦に救助されたが、同乗していた2人の乗組み員は、行方不明となった。


1945(昭和20)年8月15日終戦。
9月2日に、父島に米艦が到着し、立花陸軍中将を正使、森海軍中将を副使として、降状手続きを行った。
この時、米軍側は開口一番、
「パラシュートで脱出した米軍パイロットは何名いたか。その後、どうなっているか知りたい」との質問に日本軍側は、
「防空壕で全員爆死した」と回答。
これに対して米軍側は、露骨に不機嫌な態度になった。

その後、日本兵の復員は順調に進んだが、何故か的場陸軍少佐の大隊だけは、復員が許可されなかった。
この時、米軍側は、的場大隊以外の部隊から、様々な情報を収集していた。
証拠固めができた1946(昭和21)年2月になって、米軍側は、
「捕虜になった米軍パイロット達は、残虐行為の末に殺害され、人食された。
この事件の主犯は、陸軍では立花中将と的場少佐、海軍では森中将と吉井大佐である」として、グアムの軍事裁判に起訴した。
立花ら4人は大筋を認めて、小笠原事件に関与したとする軍人ら、25人が逮捕された。
http://jikenshi.web.fc2.com/newpage441.htm



カニバリズム

一体、どのような経緯で、捕虜の人食に至ったのか。
その後のBC級裁判で、明らかにされた。

1945(昭和20)年3月に、前任の師団長が自決。
その後、副官の立場にあった立花と森が、中将に昇格。
全体の指揮権は、立花が握ることになった。
立花中将の副官的存在が、的場少佐であった。
的場は気が荒く、酒乱の傾向があり、気に入らないことがあると、部下を半殺しの暴行を加えて、周囲を恐れさせていた。
実際に、柔道、剣道など、合わせて10段以上の腕前と大きな体躯は、周りを恐れさすには十分であった。

さて、ここで、陸軍と海軍の高級将校達の酒盛りが、連日行われた。
終戦末期の物不足の中、貴重品である酒を連日酌み交わした。
だが、〝つまみ〟が無い。
そこで立花らは、米軍捕虜の肉を食べて戦意高揚を図ろうと、軍医に捕虜の解体を命じた。
針金で大木に縛りつけた米軍捕虜に、立花が、「日本刀の凄みを披露する絶好の機会じゃ」と言って、試し切りの希望者を募って殺害。
その後、遺体を解体させて、宴会の〝つまみ〟にした。
後の日本兵の証言によると、米兵の手足の肉や内臓を立花が食べると、「これは美味い。お代わりだ」と、はしゃいでいたという。
http://14.xmbs.jp/ch.php?ID=ryuhpms56&c_num=159278


立花芳夫


出典
postfiles11.naver.net

立花 芳夫(たちばな よしお、1890年(明治23年)2月24日 - 1947年(昭和22年)9月24日)は、日本の愛媛県出身の陸軍軍人。
陸軍士官学校卒業(25期)。
兵科は歩兵科。
功四級。
参謀だった堀江芳孝少佐は、立花らの素行にかねてから不安を感じており、
捕虜のウォーレン・アール・ボーン海軍中尉(グラマンF6F戦闘機パイロット、所属部隊、母艦は不明)を、自分の英語教師として身近に置くことで守っていたが、
外出後に戻ると、すでに処刑されて喰われた後だった。
的場少佐の部下の供述調書によると、この時に的場少佐が発した命令は、次の通り。

一、大隊は、米人飛行家ボーン中尉の肉を食したし
二、冠中尉は、此の肉の配給を取り計らうべし
三、坂部軍医は処刑に立会い、肝臓、胆嚢を取り除くべし


1945年3月9日 午前9時 大隊長 陸軍少佐的場末男
発令方法…冠中尉並に坂部を面前に呼び口頭命令、報告は立花旅団長へ、通告は堀江参謀へ


一方で、当時少尉候補生として、父島に配属されていた土屋公献(元日弁連会長)は、
ボーン中尉を殺したのは事実だが、ボーンの遺体を損壊して食べた事実は無いと、食人行為については、否定している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E4%BA%8B%E4%BB%B6



終戦後の発覚

立花、的場、吉井、伊藤、中島昇大尉ら、5名が絞首刑(森は終身刑、但し、別途オランダによる裁判で刑死)、終身刑5名、有期刑15名となった。
立花と的場は、処刑されるまでの間、米兵たちの憎悪の対象となり、激しく虐待され続けた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E4%BA%8B%E4%BB%B6

結局、8人の米軍捕虜を殺害し人食したこの行為で、立花、的場、吉井ら、5人が絞首刑となった。
吉井は軍事裁判で、
「無差別爆撃する米空軍が悪い。パイロットは処刑されて当然。人肉は戦意高揚のため食した」と供述。
更に、
「日本軍の戦陣訓である〝生きて陵辱の辱めを受けず〟という教えがあり、捕虜に対する行為は何をおいても許される」と主張した。



米捕虜の処刑に立ち会った、ある少尉の証言

父島事件とは、第二次大戦末期、東京都小笠村の父島で起こった、米国捕虜将校らの一連の処刑事件。
BC級戦犯裁判の一つとして知られるが、本日の報告では、処刑事件のうちの一件に立ち会ったという、ある少尉(正確には少尉候補生)の目撃証言の内容を伝えたい。

同候補生は日弁連元会長で、戦後補償裁判の一つで、現在係争中の重慶大爆撃訴訟の弁護団長を務めている土屋公献さん(85歳)。
この事件の、青年・土屋に与えた影響は大きく、弁護士活動の原点になった。

捕虜のパイロットは、父島に配置された部隊ごとに、一人ずつ預かったという。
魚雷艇隊では、ボーンを預かった。
処刑までの期間は、少なくとも一週間はあった。
この間、つたない英語で、ボーンと会話を交わす機会があった。
ボーンは、海軍中尉で22歳。
土屋さんは、少尉候補生で21歳。
当時、日本は数えで年齢を言う習慣があったから、「ボーンには『The same age(同い年だね)』と言ったことを覚えている」と、土屋さんは語っている。

処刑当日(ブラッドレーの著書によると、3月17日)、土屋さんは当直将校だった。
ボーンの目隠しをし、処刑場所に連れていくのも、土屋さんの任務。
既に処刑されることを覚悟しているとみえて、騒がず、わめかず、従容として、処刑場所に臨んだ姿が忘れられない。
「母一人、子一人」「国(米国)では、母が首を長くして待っている」。
土屋さんは、
「ボーンとの会話の中で、いまでも脳裏から離れない言葉だ」と話した。
「こういう人間を、むざむざと処刑するのかと思った」という。

土屋さんは当初、捕虜の首を切ることを命令されていた。
土屋さんは学生時代、剣道をしていて二段だった。
上官はそれを知っていて、そういう命令が出ていた。
軍隊では、上官の命令には逆らえない。
ところがその後、学徒出陣組の中に四段のいることが分かり、彼がボーンの首をはねた。
戦争が終わり、彼は戦犯容疑に問われ、逃げ切れずに郷里で自殺した。
土屋さんは、もしあのとき、当初の命令通り自分が切っていたら、自身が殺人容疑の戦犯になっていた。
土屋さんは、父島事件の真相の一端を、以上のように語った。

「実際、戦場とはむごく、愚かなもの。
そういう現実を目の当たりにしたことが、戦争を繰り返してはいけないという思いにつながり、弁護士への道を歩むことになった」と、土屋さんは締めくくった。

土屋さんの証言から考えなければならない点が、いくつか挙げられるように思う。
父島事件は、処刑した捕虜の人肉食事件にすり替えられ、事の真相があいまいにされてきたきらいがある。
例えば、秦郁彦氏の『昭和史の謎を追う(下)』(文春文庫)の第32章「人肉事件の父島から生還したブッシュ」で、秦氏は、
「殺害したあと、ボーンの肉や内臓を摘出して死体を損壊」との米軍事法廷の起訴状を引用しながら、
「人肉食への言及はないが、関係者の回想によると…」とし、人肉食に結びつけようとする文脈で、この部分は構成されている。

土屋さんの証言によると、ボーンの殺害された日、土屋さんは当直将校で、その深夜、飢えに苦しむ兵2人が、ボーンの遺体を掘り起こし食べようとするのを戒めており、
また、ボーンの首をはねた場所は「砂浜」(秦氏)でなく、米軍の砲弾で穴の開いた土の上。
「ボーンの肉を食った、というのは事実に反する」と、土屋さんの語気は鋭かった。

今後の私の課題の一つは、父島事件の戦犯裁判は、米海軍のグアム軍事法廷で開かれており、この記録をあたる必要がある。
しかし、戦勝国が敗戦国を裁いた戦犯裁判である以上、判決が、必ずしも公正な裁きを反映しているとは限らない。

土屋さんの証言には、記録と表現の上で、考えなければならない問題があることを提起していると、私は受け止めている。
しかし、土屋さんの証言によって、事件の真相の一端が、明らかにされたように思う。
http://www.powresearch.jp/jp/activities/workshop/chichijima.html

↑以上、転載おわり
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