ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

許すまじ、未来を見殺しにする政府

2012年07月13日 | 日本とわたし
未来を守ってくれない政府から

送られてきたのは、

積算線量計という名の


「お守り」でした。


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ニッポンのデモ金

2012年07月12日 | 日本とわたし
官邸前抗議集会。俗名『紫陽花革命』

毎週金曜日の午後6時から8時まで、時間厳守で行われてる。
前々回に一度だけ、早めに切り上げられた。
官邸に突進する勢いでもって、警官や主催者の静止を聞かずに、どんどん前に押し出してきた集団がいたからで、
その、突然の中断については、ネット上でいろんな意見が交わされた。

「緩い」とか「軽い」とか言う人もいる。
あんなやり方では何も変わらんと、吐き捨てるように言う人もいる。
けど、やっぱりわたしには、どうしても、あの集会がおもしろい。
おもしろいという言葉は適切ではないかもしれんけど、それでもやっぱりおもしろい。



あそこの場にれっきとして存在する、ひとりひとりの自主的な選択、
まるで、夕飯の準備が終って、ちょっと一息つきに表に出たみたいな格好で、
あるいは、仕事帰りに、すぐに家に帰るのもしょうもないからと、フラッと立ち寄ったみたいな顔つきで、
そうかと思たら、意を決して、お金をかき集め、遠い遠いとこから必死になってやってきた人なんかも混じってて、
とにかく、原発いらん!、野田はNOだ!と一緒に叫んでる。



続々と、毎週、決まった時間に、東京のど真ん中にあるパルコ(広場)に集まってくる日本の市民。
暴力を一切使わず、ただ立ち止まり、少し前に進むなどして、暮れていく空の下で、思いを声に出す。



原発反対。再稼働撤回。子どもを守れ。野田はノーだ。



わたしらが目の当たりにしてる問題は、数えきれんほどある。
いっぺんにはとてもやないけど解決せえへんし、時間もかかる。
原発のことばっかりに集中してる場合ともちゃう。
高線量の地域で、今なお暮らしてる、暮らさなしゃあない家族や子ども達の体の中には、日に日に放射能が溜まっていってる。
急がなあかんことはいっぱいある。
一刻も早う、なんとかせなあかん。
わたしらの闘うてる相手は巨大な力を持ってる。
今はまだ、本性を現してないし、牙も剥いてない。
これから先、いったいあいつらが、どんな態度に出てくるか、それはわたしにはわからへん。
けど、続けて、続けて、とことん続けて、ひとりでも多くの人が経験して、
そこからなにか、うっすらとしたんでもええから、自分の心のどこかに、思考の芽生えを感じ取って欲しい。
社会の物事を、自分のこととして捉えること、考えること。
これができる大人が、ひとり、またひとりと増えていくことが革命の始まり。

今日の官邸前には、鉄柵が配備されるらしい。
わざわざ新聞で、どういうふうに配備するかも伝えてくれるほどの心配り。
鉄柵って、お箸とかで叩いたら、けっこうすてきなパーカッションになるやろな。



ではここで、突然やけど、ツィッター友が教えてくれた、すてきな文章を紹介させてもらいます。
小沢健二さんという方が書かはった文章です。
これは、こそっと白状しとくけど、無断で書き写させてもらいました。
有断にしようにも、問い合わせの仕様が無かったんやけど、どうしても今日、ここに載っけておきたかった文章なので、叱られるのを覚悟で載っけます。


金曜の東京

ここ8年くらい僕は「うさぎ!」というお話を連載しています。
そのお話の中では抗議運動がいつも起こっています。
「うさぎ!」の中だけではなく、世界の大きな街ではいつも抗議運動が起こっています。
僕がよく知っている街の一つメキシコシティーでは、ひと夏に800ものデモ行進があります。
南米でもインドでもニューヨークでも、過去数世紀いつも抗議運動が起こっていて、どの街でも自然なものとして、ある意味しぶしぶ、行われています。
(そりゃ抗議する必要のある問題がなければいいのですが、個人にも社会にも、問題ってのは必ずあるわけで。)

なので、そうですね、「普通」の都市では、デモは「是か非か」と論議するようなものではないと思います。
車が走っている限り交通事故があるように、社会がある限りデモがある、という存在の仕方だと思います。

いつだか久しぶりに帰った日本で免許証の更新講義を受けていたら、
教官のおじさんが「皆さん、私はこんな風にね、安全教習なんかしてますけど、いくら教習なんかしても、交通事故は絶対になくなりません!
車が走っている限り、事故は起こります。
確率をゼロにすることはできませんっ!」と真理を言い放って、思わず拍手しそうになりましたが、
デモも多くの街ではそういうものとして、仕方なく、社会にあると思います。


むしろ訪れて怖いのは、デモが起こらない街です。
いわゆる独裁者が恐怖政治を敷いている街では、デモは起こりません。
そのかわり、変な目くばせが飛び交います。

人びとは暗号のような言葉で喋ります。
ある中東の王国の街で話していたら、友人が、
「いやあ、今の王様と先代の王様を比べたら、俺は先代の王様の大ファンだね」と言って、こっちに強い目くばせを送ってきたことがあります。

どういうことかと言うと、彼は今の王様の政府が大嫌いなのです。
その王様がペコペコと頭を下げてアメリカの言いなりになっていることが嫌いで、そのアメリカと軍事連携しているイスラエルが嫌いで、
根底からぶっ壊してしまえと思っているのですが、それを口にしたら誰が警察の手先で、いつ通報されるか分かりません。
なので「先代の王様のファン」と言って、目くばせを送るのです。

ところがそういう街で、突然でっかいデモが起こって、血まみれの戦いになったりします。

デモが起こらない、表面上は静かな都市には何か深い、暗い理由があることが多いと思います。
まあどこかには理想郷のような国があって、みんなが笑って暮らしているのかも知れないけれど……。

デモが起こる都市より、デモが起こらない都市の方が怖いです。


東京も割とでもが起こらない都市で、デモの起こるニューヨークやメキシコシティーから帰ると、正直言って不思議というか、
中東の王国を訪れた時のような、ちょっとした緊張感がありました。

抗議するべき問題がないからデモがないのか。
それともどこかの王国のように、心理的に、システマティックに抑えこまれているのか。
何か他の理由があるのか。
ひいき目も人情もあって、客観的に見ようとするのは、結構勇気のいることです。

でも最近は毎週金曜にデモがある、とか聞くと、そうか、東京も「世界標準」に戻ってきているのかな、と感じます。

抗議に慣れていない街なので(昔は凄かったのに。いや1950年代とかではなくて、東京が凄まじかったのは戦前です。
相次ぐ革命運動!
次々と首相暗殺!……というモノローグは『東京の街が奏でる』でやりました)、
不安もあると思いますが、理由はどうあれ、しつこいですが抗議行動が起こるのは世界の大都市では普通です。
交通事故という問題を解決した人がいないように、くり返される抗議運動を解決する人もいないでしょう。

体に熱が出るように、社会に抗議は起こります。


さて、熱にはクスリで鎮める対処法と、わざと熱を出させてしまう対処法があります。

抗議運動への対処法も似ています。
一つは、警棒でぶっ叩いて鎮める方法。
これは後にしこりが残ります。
でも、多くの都市では大抗議が起こると地元の警官ではない警官たちが導入されて(しがらみがないし、後で住民と顔を合わせることもないので)、基本的に武力で威圧して事態を鎮めます。

もう一つは、熱を出させる方法。
わざと、みんなのお腹の中のムラムラを吐き出させてあげる方法。
これについては「うさぎ!」別冊の「企業的な社会、セラピー的な社会」で詳しく触れています。

洗練された、進んだ対処法は、この「上手に熱を出させる」ほうだと思います。

さっき、ひと夏に800のデモがメキシコシティーであると書きました。
メキシコは全国でデモが盛んな、社会意識の極めて高い国です。

多くのデモが起こるから、メキシコはどんどん「革新的な」「左寄りの」社会になっていくか?というと、実はそうでもないのです。
先日の選挙の結果、メキシコは大きく「古い体質の」「保守的な」「右翼的な」体制になりました。

保守的なのがお好きな方は、叩きのめすだけでなく、熱を吐き出させて対処する方法もあることは、知っておいた方がよいと思います(まあ、頭の良い日とはとっくに知っていますが)。

逆に保守的なのが嫌いな方は、熱を全部吐き出してしまわないように、熱を体の中に残しておくようにする必要があるのかもしれません。


もう一つ、日本語でも遂に「対案」とかいう言葉が流れ出したので、2008年の「うさぎ!」第11話で既出の話ですが、書いておきます。

今の世界は、どこの国でもアングロ(イギリス)・アメリカ型の人間管理手法をコピペする世界です。
日本だけが例外ということはなくて、「説明責任」とか「トリックルダウン」とか、そんな日本語あるの?みたいな言葉が、人間管理手法の輸入とともに、日本語の中に入ってくることに気づいている人も多いと思います。

イギリスは人間管理とか心理誘導の技術にとても長けていて、
サッチャー首相の頃、80年代には、TINAと呼ばれる説得論法がありました。
"There Is No Alternative"の略。
訳すと「他に方法はない」ということ。
「他に方法はあるか? 対案を出してみろ! 出せないだろう? ならば俺の方法に従え!」という論法の説得術。

しかし、これは変な話です。

医者に通っていてなかなか治らないとします。
患者は文句を言います。
「まだ痛いんですよ! それどころか、痛みがひどくなってます! 他の治療法はないんでしょうか?」と。

それに対して医者が「他の治療法? どんな治療法があるか、案を出してみろ! 出せないだろう? なら黙って俺の治療法に従え!」と言ったら、どう思いますか?

治療法を考えるのは医者の仕事ですし、治らなかったら医者を変えたり、漢方にしたりするのは自然です。
患者がすべきことの一つは、痛い限りは「痛い!」と切実に訴えることです。
その訴えを聞いて「これは新しい病気かもしれない」と気づいて治療法を見つける医者がいたりして、「医学の進歩」ってのがあるわけです。

患者が黙って、効かない治療を文句言わずに受け続けていたら、医学の進歩ってのはありません。
むしろ医学は、痛みを訴える患者に感謝するべきところ。

同じように、社会をどうするか考えるのが職業の人は、人の「痛い!」という切実な声を聞いて、心を奮い立たせて問題に取り組むのが正しいはずです。

なのに一般の人が「この世の中はヒドイ! 痛い!」と声を上げると、
「じゃあお前ら、対案は何だ? 言ってみろ! 対案も無しに反対するのはダメだ!」と押さえつける政治家とか専門家とか評論家とかがいるのは、むちゃくちゃな話です。

専門家同士が「お前の案は何だよ?」とやり合うのはわかります。
お互いに怒り合うのが彼らの職業なのですから。

でもみんなが専門家になるべきでもありません。
「何だか知んないけど痛いんだよ! どうにかしてよ!」と訴える人によって医学が進歩したように、
ただ生きているのが痛いから抗議をする人は、「世の進歩」の一部を担っていると思うんですが、どうでしょうか。

音楽では、楽器も弾けない人に「あのアルバムは駄作だ!」なんて批判されるのは普通です。
それに対して僕らが「じゃあ対案は何だ? 言ってみろ! お前が良いアルバムを作れないなら、黙ってろ!」とやり返すことがあるでしょうか?

そんなことをするのは、よっぽど才能のない人だけだと思います。


それに、今の社会だって、最初からはっきりした「案」があって、その通りに出来てきたものではないのです。
「とりあえず」とか「現場との折り合い」とか「意外な展開」とかが重なって、今の世の中が出来ています。

社会は巨大なものなので、最初から細部まで予測できる人なんていないし、予測できない細部が、決定的な違いを作ったりします。

だから、事前からみんなを完全に納得させられる「対案」を持っていた人なんか、実は歴史上いたことがないと思います。

過程、プロセスの中から、現実が生まれる。
荒っぽさとか、偶然を経て。

思い当たる人は、多いと思います。


僕は訪れている街でデモが起こっていたら、とりあえず行ってみます。
デモの現場は、騒がれている問題以外にも、その街の暮らしにどんな問題があるのかわかりやすい空間です。
みんながワアワアと、饒舌になっているし(外国人が抗議運動に行くのは違法な国もあるので、行く人は気をつけて)。

そこで見かけるのはー

自分の政党に勧誘するのに熱心な人
その場のリーダーであることに酔ってる人
不気味な人
すてきな人
すり
物売り
ミュージシャン(必ず)
情報収集員(各国、各社の)
武器を持った人(警官は合法。その他は違法)
乞食
そして大勢の、本当に大勢の、大人や子ども。

ブルックリン、ニューヨーク
2012年 7月11日 小沢健二


「原発問題」については昨年7月の第24話で書いています。
興味のある方は、図書館などで読んでみて下さい。
「我ら、時」にも、もちろん、入っています。
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7月18日、大阪市役所前、日本のおかん大集結!

2012年07月12日 | 日本とわたし
関西*母と科学者の会による大阪市への申し入れ

(随時、賛同者などを追加していきますので、このページも随時更新します)

☆7月11日、肥田舜太郎先生が、賛同人に加わってくださいました!
☆7月12日、矢ヶ克馬(琉球大学名誉教授)が、賛同人に加わってくださいました!



「母と科学者の会」による、大阪市への申し入れを行います。
その後、科学者の先生と一緒に、記者会見を行い、翌日、大規模な座り込み行動を行います。

みなさん、ぜひ、1分1秒でも結構です。
私たちと一緒に、抗議の声を、大阪市役所前であげてください。

7月17日(火) 母と科学者の会による、大阪市長への申し入れ 14時~記者会見
7月18日(水) 市役所前にて、大規模座り込み 10時~15時・11時から12時をメイン


【呼びかけ文 お母さんたちへ】

3.11以来、災害廃棄物の広域処理、再稼働の問題で、少なからず声を上げてきたお父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、お子さんのいらっしゃる方、いらっしゃらない方、すべての方々に呼びかけます。
我が子の命を守るひとりの母として、また、母のような心で活動を続けてこられた、全国の方々に呼びかけます。

このまま、災害廃棄物の広域処理、大飯再稼働を、許してもいいですか?

国と大阪市は、此花区という土地で、放射性物質の付着した災害廃棄物を燃やし、
すぐ近くの北港処分地という、命の母なる「海」に、その灰を「ポイッ」して、広域処理の問題を幕引きにしようとしています。

此花区は、路地裏から「じゃりン子チエ」が現われそうな、人情味あふれる素朴な町です。
そういう町に、危ないものを押し付けて、幕引きを図ろうとしているのです。

阪神間の近隣市町村が、受け入れ慎重となる中、危険なものを此花区に押し付けて、終わりにしようとする大阪市の構図は、
福島県民に、危険を知らせず、無用な被ばくをさせた、国の構図と全く同じです。


そして、火消しも終わっていないのに、また別の火遊びを始めるという暴挙により、大飯原発は再稼働してしまいました。

3.11以降、大切な子どもさえも、少なからず犠牲にしながらやってきた、私たちのこの1年余の活動はなんだったのでしょう?
一定の成果は上げましたが、みなさん、これで引き下がって本当にいいですか?
犠牲にしてきたものの数々を、思い出してください。
絵本のひとつも読んであげられず、泣きながら寝かせてしまった、子どもたちの犠牲をこのままにして、本当にいいですか?

みんなで、大阪市長橋下に、腹の底から声を届けましょう。
私たちは、「子熊を殺されかけた母熊です」。


<><><><><><><><><><><><><> <> <><><><><><><><><><><><><> <>

7月18日、大阪市の民生保健委員会の始まるこの日、
すべての力を結集して、なんとしても、議会に予算を通させないよう、声を上げましょう!


ひとりひとりが、これまで声を上げてこられたこと、言いたかったこと、胸に秘めてきたことのすべてを、
この日、大阪市長、大阪市議会に届けましょう。
東京と大阪という二大巨頭で、広域処理を行うことによって、これを、この国のスタンダードにしようとする、悪政を止めましょう!

【日時詳細】

7月17日(火) 記者会見 14時より 大阪市役所5階 記者クラブ

7月18日(水) 大阪市役所前 座り込み行動 10時~15時(11時から12時をメインに)




みなさん、自信を持ってください。
あなたの活動は、命を守る活動です。
誰に恥じることもない。
多くの人々が応援してくれています。

どうか、これを最後の座り込みにするつもりで、みなさん、万難を排してお集まりください。


ご賛同いただける場合は、
下記↓宛まで、
kawanishikodomo@gmail.com

・「賛同します」の言葉
・団体名(個人名)
・個人名の方は肩書き(なしでもOKです)
・(団体の場合は担当者の)連絡先
を明記し、送ってください。

よろしくお願いし致します。



↑わたしからも、日本のおかんとして、日本中のおかんに頼まさせてもらいます!
よろしゅうお願いします!
行ってください!
とにかく行って、1分でもええから、市役所前でお尻をドカンと降ろしてきてください!

島田市の深刻な汚染を、環境省が認めました?!
なんでやねんっ!!

やってしもてからでは遅いんです。
しもたっ!となんぼ悔やんでも、いっぺん貼り付いた放射能は、ニタニタ笑いながら、数十年、数百年、数千年、ずっとずっと居座るんです。

そんなとこで子どもが遊び、犬を散歩させ、農家の皆さんは食べもん作りたいですか?
ユニバーサルスタジオかて、行きたい人おらんようになりますやん。
焼却灰の埋め立てもあるんやから。

もうほんま、あかんねんからあかんねん。
まず、おかんが気がつくのが早いっちゅうのが世の常です。
気づいたおかんが、頭から湯気出しながら、しょうもないことウダウダ言うてるおとんを教育し、世の中を変えていく。
中には気がつかん鈍感なおかんもいるから、気がついてしもたおかんはしんどいんです。

そやし、市役所前に行って、日頃のうっぷん晴らしてきてください。
ほんで、なんや、わたしだけちゃうやんと、仲間の顔を眺めて元気つけてきてください。

7月18日、大阪市役所前に、そんなかっちょええおかんがぎょうさん集まってくれますように!
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「今回の原発事故は、紛れも無く、日本人の手によるものなのです」

2012年07月11日 | 日本とわたし
『星の金貨プロジェクト』というブログに掲載されている記事を紹介します。
このブログを書いていらっしゃる小林さんは、ほんとうの今を知りたいという気持ちから、日々、海外で報道された記事を翻訳しておられる方です。


日本の行政機関による、原子力発電に対する過剰なまでの肩入れ
投稿日: 2012年7月12日 作成者: admin

【人間が作り出した災害、福島第一原発事故】

「日本の従順すぎる国民性が、福島第一原発の事故を「作り出してしまった……」


ナタリー・キョウコ・スタッキー / ザ・インデペンダント(英国)7月6日




昨年発生した福島第一原発の事故について、国会が任命した独立調査委員会は、
事故の発生を予見することは可能であった、したがってこれを予防することもまた可能であった、と厳しく断罪しました。

委員会は、2011年3月11日に、東北地方を襲った地震と津波によって起きた福島第一原発の事故が、
政府機関と産業界の間の、「馴れあい」によって引き起こされたものであり、
それを生んだ「日本の社会の中に、染みついてしまった慣習」について、非難
しました。

報告書はさらに、マグニチュード9.0の地震そのものによって、福島第一原発が損傷を受けた可能性について言及し、
日本の原子力発電所の安全性についても、厳しく問いかけています。
これまで、東京電力は、福島第一原発の事故は、地震そのものではなく、その後に起きた巨大な津波によって破壊された、と主張し続けており、
その津波も、予見不可能な、偶発性の高いものであった、としてきました。

もし、国会事故調査委員会の指摘が、事実であれば、震災後、すべて停止していた原子炉の中、
つい先週、再稼働した、大飯原発を含め、地震多発国日本での、原子力発電には、重大な懸念があります。
「事故の、直接的な原因のすべては、2011年3月11日の前に、予見できたはずである。
しかし政府、規制当局、そして、東京電力によるなれ合いによって、その機会は失われてしまった」




福島第一原発で、電源喪失が発生した結果、6基の原子炉のうち3基までが、メルトダウンを引き起こし、近隣住民70,000人以上が、避難しなければなりませんでした。
これらの人々は、現在、仮設住宅や避難所暮らしを強いられていますが、
日々のニュースは、故郷の放射線量について、帰郷して暮らせる日が、はるか遠くにしかないことを伝えています。

報告書の中、日本人特有の、権威・権力に対する従順さについて指摘した一節は、とりわけ衝撃的であるかもしれません。
調査委員会の黒川委員長は、以下のように記しました。
「今回の事故に関する、広範な事実の中、とりわけ、世界中の関心を持つ人々に、この報告書だけで伝えることが不可能なことがあります。
それは、今回の事故の背景となった、怠慢を生んだ、日本人の意識です」
「これを認めることは、非常につらいことではありますが、今回の事故は、紛れも無く、
『日本人の手によるもの』なのです。
それを作り出したおおもとは、日本社会の中に染みついている、慣習にほかなりません」
「権威・権力に対する卑屈な姿勢、権力にたてつくことへのためらい、現実を見ながら軌道修正を繰り返すことができない教条主義、群れを作り群れを守ることが第一のように思い込む習性、そして島国根性」




日本の行政機関による、原子力発電に対する、過剰なまでの肩入れは、
電力業界・原子力産業界をして、厳しい監視を歯牙にもかけない、
『何をやっても許される』力を、持っているかのように思い込ませてしまった。
黒川委員長は、こう指摘しました。

http://www.independent.co.uk/news/world/asia/fukushima-disaster-was-profoundly-manmade-7917945.html

+ – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – + – +

小沢氏を中心とする、新党『国民の生活が第一』が発足し、『脱原発』を明言しました。
これに対し、自民党の石原幹事長は、「原発を止めて、国民の生活が守れるのか?!」とコメントしました。
コメントする際、鼻で笑うような態度でしたが、私だけがそう感じたのかもしれません。

自民党、公明党、そして民主党の、もうひとつの『3党合意』は、原発ルネッサンスの推進です。
なぜなら、福島第一原発の事故の後も、自民党と公明党は、『原発ルネッサンスの推進』について、一切撤回する、とは言っていません。

アメリカの共和党の、かつての推進派ですら、『もう原発ルネッサンスなど、この地上には存在しない』と言っているのに、です(http://kobajun.chips.jp/?p=2516)。
「自民がだめだから民主。でも民主もだめだったから、やっぱり自民……」と、この2党で政権のキャッチボールをさせていたら、
絶対に、原発は止まりもしないし、下手をすると、減りもしないかもしれません。


政治とは、自分たちの生活やいのち、そして、子供たちの未来の上にまで、まともにのっかっている、
その危機感を、失わないようにしたい
ものです。


以上転載終わり。



10日間あまり、ほとんどパソコンの前に座れず、だから情報を得ることもなく、
けれども、官邸前デモの間だけは、iPadを寝床に持ち込み、早朝こっそり起きて、その様子を見守っていた。
ツィッターを数分だけ斜め読みしたりもした。
大飯原発の再稼働を阻止しようと、雨の中、ろくに眠りもしないで、反対を訴えていた人達の様子も見た。
鹿児島の、脱原発を明確に主張して選挙に挑んだ候補者が、破れたことも知った。

双葉町の町長の話をかいつまんで読み、被災地に今も暮らす人達の環境が、いかに酷いものであるか、
人が、普通に暮らしていてはいけない所に今も留まっている、留められていることの不可解さを、改めて認識した。

ツィートなどで情報を発信したり得たりしている人の数は、やはりこれほど少ないということか。
マスコミが、被災地の本当の様子を、事故現場の状況の事実を伝えないから、人はこれほどに知らないまま、他人事のように思って生きているのか。
だから、マスコミや官僚や政治家が悪いのであって、知らないままの、知ろうとしないままの人は無実なのか。
 
騙されるまま騙されていたから、知らない方が知ってしまうよりうんと楽だったから、
だからこんなふうに、いつの間にか、といっても40年以上もの長い時間をかけて、日本の国は放射能汚染に囲われてしまっていた。
わけのわからない健康被害が出て、苦しむ人は苦しみ、難を逃れた人は何も気づかず、どちらも当たり前のように生きている。

本当にこのままでいいの?
こんなふうに、仕方が無い、受け止めるしかない、どうしようもない、頑張っても何も変わらないと、
またこれまでと同じ道に戻って、自分の無関心が、放射能汚染にまみれて生きることを強いられるのを承知で、自分を、そして他人を、小さな子ども達や自然を殺していくの?
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熱波とともに母去りぬ

2012年07月10日 | 家族とわたし
母が連れてきた熱波が、すっかり去り、肌寒いぐらいの朝になった。
今日は10日。旦那の47才の誕生日。これで我々の間の年の差は8才に戻る。別にどうでもいいことだけど。

帰りは、うちから車で30分弱の所にある空港から旅立つので、気分はかなり楽ちん。
丸11日間の滞在中、母がリラックスできたのは多分、最後の2日間だけだったと思う。
自分が善かれと思って気遣ったり、やったりすることのほとんどが、うまく伝わらないどころか、否定されたりしたのだから。
でもまあ、旦那もわたしも、そして母も、いい年をして、自己主張をしてしまうタチなので仕方がない。
気を遣って欲しくないのも、気を遣いたいのも、その狭間でうろうろして疲れてしまうのもみな、それぞれの性質の現れなのだから。
こうやって、何度も失敗を重ねながら、少しずつうまくやっていける方法や道を探し出していくしかない。
母は、ライオン・キングの鑑賞と、超ウマの中華料理を食べた日の後、丸2日間、家でゆっくり過ごした。
よく笑い、よく食べ、よく寝た。
そして、わたしのiPadでゲームをしたり、新聞を読んだりした。
わたしが気功のクラスに行っている間に、ひとりで散歩に出かけたり、家の中で軽い運動をしたりした。

母の滞在の最後の晩、いろんなことが頭の中に思い浮かんできて、全然眠れなかった。
思いっきり目が腫れたまま朝を迎えた。

出発記念。


もういっちょ!


ボケボケのまま高速で車を走らせていると、真逆の方向に向かっていることに気がついた。
げげっ!
母にバレないよう、適当に誤摩化して、コソコソと家の方に戻る。
朝の通勤ラッシュをご丁寧にも二度やり過ごし、空港に着いたまでは良かったが、そこでまたまた問題発生。
ターミナルの駐車場が見つからない。
いつもなら、スイスイと行く道を、ぐるぐるぐるぐる同じ所を回っているのに気がついた母。
「あんた、なにやってんの……」
最後まで心配をかけた。

早めに出かけたのに、15分遅れで到着し、カウンターで手続きを済ませ、セキュリティーチェックの列の手前で別れた。
離れた母に、ありがとう、と口で伝える。
母は、腕時計を外した方がいいか?などと心配している。
X線検査がしっかり行われていて、乗客全員がバンザイをして検査を受けている。
母に、バンザイするように動作で伝える。

無事に検査を終え、荷物をまとめて、彼女はゲートの向こうに消えていった。
バイバイ、来てくれてありがとう。ごめんな。

家に戻ると、ムクゲの花が、爽やかな風に揺られて笑っていた。


今回に懲りずに、また母は来てくれるだろうか。


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のぶちゃんのひとり旅 その5

2012年07月10日 | 家族とわたし
とにかく母に、一度でもいいから、ブロードウェイのショーを観せてあげたいと思っていた。
けれども、英語の問題があるから、なんでもいい、というわけにはいかない。
なので、ライオン・キングならいいかも、と思った。
一度観て、いっぺんにファンになった、あのコスチュームの斬新さと演技の可笑しさ。

ところが、座席のチケット料金一覧表を見て仰天!
決めたのが遅かったからか、わずかしかない安めの席(それでも100ドル近い?!)は全滅。
210ドルか167ドル、もしくは134ドルの席がポツポツとしか残っていなかった。
万事休す!
しかもわたしに甲斐性が無いばかりに、このチケットの額の2人分は、母に払ってもらうことになっている。
う~む……。

母は、ライオン・キング、などと言われても、その内容がさっぱりわからず、なのでかなり躊躇していた。
当たり前だ。
わたしがもし母なら、多分断る。
それでも、どんどん悪化してきた状況を打破するためにも、このショーは大事だと思い、心苦しくも粘ってみた。
数時間、あーだこーだと言いながら、パソコンの前でもめた後、とうとう決めて、少し離れた同じ列の二階席を注文した。
あとは野となれ山となれだ。

Eチケットをプリントアウトするのに、またまた問題発生。
向こうから送られてきたEメールに、二枚のうちの一枚しか情報が入っていない。
電話で文句を言って、あと一枚の分も送ってもらった。
よっしゃ~!いざいざ~!

またまた旦那が送ってくれる。
3時間もの間、適当に時間をつぶして待っていてくれると言う。
なんという親切!
ショーの後、もし母が元気そうだったら、クィーンズ島の息子のアパートまで行ってみようと、またまた内緒で計画する。
ショーが母の心を溶かしてくれますように!


おなじみのショット。


2階席だというのに、エスカレーターでどんどんどんどん昇る。


離れて座っているわたし達に、心よく席を替わってくれた方達に感謝!
席は二階の最前列。
小柄な母にも舞台の様子が丸見えの、最高の条件だった。
ただ、このショーのウリである、客席からの登場を、丸々楽しむことはできなかったのだけど……。

そしてなんと、母は、劇の笑いどころで、周りの英語人達と一緒に「ワハハ!」と笑った。何度も。
さすが、若い頃はハリウッドオタクで、今も映画やドラマは洋物しか観ないだけのことはある。
楽しそうに鑑賞している母をチラチラと横見しながら、やっといいことができたと、ホッと胸を撫で下ろす。

主役の男前さんと一緒に写真を撮って、と母。ご機嫌である。


無事にもめることもなく、クィーンズ島の息子のアパートに寄ったまでは良かったが、やはり説明不足でウロウロする母。
けれども、こぎれいに、きちんと暮らしている孫の様子を見て、しきりに感心していた。
小1時間ほどいる間に、なんとかおもてなししようと、母が観たいだろうと思えるビデオをテレビにセットするも、
「いや、クリント・イーストウッドは嫌い」(西部劇のリメイク)
「なにこれ、こんな日本人をバカにしたん、観とないわ」(ソフィア・コッポラ監督のロスト・イン・トランスレーション)と、
見事に撃沈……。
またまた少しヤバい雰囲気になりかけたのだが……。

息子のアパートの近所にある、小さな中華料理屋に入ったところ、それが大ヒット!
堅焼きソバの海鮮野菜あんかけ、蒸し青梗菜、豚肉ともやし炒めがもう、美味いのなんのって。
みんなの気分がぐんぐん上昇していくのが目に見えるようだった。
両脇にある鏡の中に映る、無限の繰り返しに目を丸くしたり(母はたまに、なんでこんなこと知らんの?ということを知らない)、
テレビの画面の中で観た、紙製のお持ち帰りの容器を見て、針金の取手が付いているのに感心したり、
そしてこの夕焼けだ。


マンハッタン島に戻る間に、どんどん沈んでいく。


街中に入った頃には、もう燃えているようなぐらい。


バイバイ、やっと実現した、楽しかった日。


おかえり蜘蛛。
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のぶちゃんのひとり旅 その4

2012年07月10日 | 家族とわたし
母の滞在中、パソコンの前に座れなかったので、一気に写真を見い見い、日記を書いているのだが、
どうやら、一日にダウンロードできる枚数制限に到達してしまったらしく、続きは明日にしなければならないようだ。
やれやれ。
ツィッターといい、ブログといい、ろくに規約を読まないまま適当にやっているので、たまにこんな感じで、えっ?という事に出くわす。

とりあえず、マンハッタン島を船に乗って見学した夜のことを、写真が切れるまで。

この日は、旦那の友人ティムも一緒に行く予定になっていた。
けれども、母にはそのことを伝えなかった。
ティムの奥さんと娘達は今、日本に滞在していて、だから彼は、独り身の間に、旦那と小さな旅行に出かけたがっていた。
前日も、旦那と彼は海に行き、誘いに来たティムと母は会っているのだけれど、しかも彼は、日本語が旦那同様堪能なのだけど、
それでも多分、ティムも一緒だと言うと、それならわたしは行かないと言い出すに決まっていたからだ。

いつそのことを言い出そうかと思案しながら、旦那の運転でマンハッタンに。

車から降りた所に、馬に乗ったおまわりさんがやって来た。


女性だ。わたし達の方をチラリと見て、微笑んでくれた。


やっぱり気温が高くて暑いので、無理の無いようにと、波止場近くのドイツ料理の店に寄って腹ごしらえ。
そこにティムがやって来た。
母は当然、キツネに騙されたような顔をして驚いていた。
わたしはすっトボケて、メニューを読むのに熱中しているふりをしながら、白々しいウソをついた。
「あれ?わたしも知らんかったわ。旦那と約束してたんかなあ……」

そして、そこでまた一騒動。
メニューがさっぱりわからないまま、ビールとつまみ程度の軽い料理(良質のホットドッグのようなもの)が運ばれてきて、そこに、駐車場探しで苦労した旦那がやっとやって来て、
そうこうしているうちに、時間が押してきたので、ろくにきちんとした料理を食べないまま、船に乗ることになった。

7時前というのにこの日差し。夜景なんて見られるのかしらん……。


船の屋根から生える根性草。


ワイルドなボート。高速船らしい。


やっぱり船の上も暑い。真ん中の背の高いビルが、グラウンド・ゼロに建設中のワン・ワールド・トレードセンター。


工事中のてっぺん。「あそこに人が居たらもっといいのに」と、母は何度も言う。


9年前に、母と弟と3人で、グラウンド・ゼロを訪れた時、このビルの前で写真を撮った。


やっと日が暮れてきた。


自由の女神はやっぱり魅力的。


ケリーとウーヴェが住むスタテン島とマンハッタン島を往復する巨大フェリー。前に一度、間違えて乗った。無料というのがすごい!


来年完成する、グラウンド・ゼロのビル街。どんなに建て替えたって、あの日のことは忘れない。


ブルックリン橋。この橋の線の美しさには、いつも見とれてしまう。


電力会社。一気に心は日本にぶっ飛ぶ。


セメントの山。


マンハッタン橋。


砂糖工場。


夕暮れのエンパイアー・ステート・ビルディング。


ペプシコーラの工場。


夕日が当たり、宝石が散りばめられたドレスをまとっているような、シティー銀行ビル。


ハドソン河の真ん中に、こんな岩島が。ニューヨークの摩天楼は、巨大な岩盤の上に建っている。


鳥の憩いの場。


水上タクシー。


いきなり、船上の客が、同じ方向の写真を撮り出したので見てみると……、


どんどん陽が暮れて、


やっと明かりが灯った。


母が好きな寸胴なビル。


最近できた二本のとんがり。


エンタープライズにも明かりが。



船から降りてしばらく、車を取りに行ってくれた旦那を待ち、家に戻った。
船の上で、水しか飲まなかった母とわたしは、お腹がペコペコに減り、だから自然に不機嫌になる。
家に着くなり、わたしは久しぶりにパソコンの前に座り、ツィッターを読んでいると、旦那が「ちょっとちょっと」と呼びに来た。
母が、シリアルを食べようとして、けれどもどこに何があるのかよくわからなくて、すっかりパニクっている。
車の中で、「帰ったらインスタントラーメンでも食べたらええやん」と話していたのを思い出し、慌てて鍋を出した。
少し喧嘩のような言い合いをして、できたラーメンをふたつの碗に分け、黙り込んだまま食べた。
「もうわたしのことは放っといて。好きなようにするから。世話になったら余計に気を遣うことになってしんどい」
超不機嫌にそう言って、母はまた、自室にこもってしまった。

ドイツレストランからずっと、メニューをあれだけ必死で読んで、ほとんど決めていた料理を頼まなかったことを怒っていた。
ワケがわからないことだらけで、おまけに暑くて、夜景だってそれほどきれいじゃなくて、お腹がペコペコで、そしてなにより、娘がきちんと納得のいく説明をしてくれない。

母はきっと、そう思っているのだろう。
けれどもわたしも疲れた。
母の方だけ向いているわけにはいかないのだ。

ああ辛い。
どうしたらいいのかはわかっている。
昔の、いい子ちゃんの、母好みの返事ができる娘に戻ればいいのだ。
けれどもそれはもうできない。
そんなことをしたら、今度はわたしの頭がおかしくなってしまう。

大切な大切な母なのに。
せっかくの旅を、楽しい思い出でいっぱいにしてあげたいのに。
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のぶちゃんのひとり旅 その3

2012年07月10日 | 日本とわたし
旦那の提案で、近所の公園に散歩に行った。
もちろんかんかん照りで、気温は100℉近い。
けれども、木陰に入ると、とりあえず涼しい。


暑さで澱んでいる小川。


旦那と母のツーショット。


旦那はこの時撮った、母とわたしの写真を、わたし達に無断で携帯からFacebookに送った。ぐぉらぁ~!!


帰り道、母に見せたい所があると、車を走らせていると、
うわっ!


なんちゅう魅力的なイボイボな塔。


なんとも古めかしい教会だった。


敷地の周りをうろうろしていた旦那が姿を消したと思いきや、教会の世話をしているとおぼしき女性を連れて現れた。
閉まっているのをわざわざ開けてもらい、中を見学させてもらう。


うつくしい……。


一応洗礼を受けた、かつてはクリスチャンの旦那が、お祈りの仕方を母に話している。


簡素な祭壇だが、細部に美しい彫刻があり、造った人達のこだわりが伝わってくる。


窓の上も、


ひんやりとした祈りの場には、窓から差し込んでくる光も柔らかい。


後方奥には、ものすごく大きなパイプオルガンが。


生の音を想像してみる。


聖なる水。



旦那が母に見せたかったのはここ。昔ながらのダイナー。


1951年からやってま~す!


ダイナーというと、日本からこちらに遊びに来てくれた人を必ず一度は連れてって、運ばれてくるお皿の上に乗っかってくる食べ物の量に、思いっきりびっくりしてもらうのだけど、
今回母の場合は、その中でも量が少なくて、質がいいことで有名なダイナーに連れて行った。
それでも「うわ~!」とびっくりしていたので、多分、ここのような、古き良き時代のスタイルを固持している店だと、呆れて椅子からずり落ちてるかもしれない。


おまけ写真。


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のぶちゃんのひとり旅 その2

2012年07月10日 | 家族とわたし
今回の母の旅の目的は、これ、独立記念日パレード鑑賞!

オールドカー自慢のパレードの後、先頭に立ってやってきたのは、日頃お世話になっているおまわりさん。


追っかけられるとビビるスポーツカー仕様のパトカー。


バグパイプのおっちゃん達。


やたらと派手な方々。


母の大好きな消防車。


バグパイプ第二弾。


水鉄砲だぜぃ!沿道の人達は、大人も子どもも、水をかけられては大笑い。


二年前まで、わたしもこのトラックの荷台に乗って、クラリネット吹いていた。


ジャズバンドも荷台でノリノリ♪


中高生対象に、誰でもジャズミュージシャンに♪という教室がある。わたしの生徒もふたり、ここに入っている。


ホームレスの人達のための食堂で、毎日ボランティアで働いている人達。


NYCから、ゲイとレズビアンの人達も参加。


息子達も演奏していたマーチングバンド。


南米から。


なぜかボブ・マーレィの顔が……母はけっこう気味悪がっていた。


森を大切にしよう~の団体。もちろん水鉄砲隊。


かけるかける。


エルビス・プレスリーが好き過ぎて、今もこうやってエルビスになりきって行進するおじいちゃん。



そして夜。
町の花火が翌日の晩に順延になったので、隣町の花火を観に行く事に。
前に観ていた場所に行くと誰もいない。
え?
花火を打ち上げる場所が変わっていた。
そこで、どこか穴場はないものかと、山の上に行ってみると……。

こんばんは。


どんどん日が暮れていく。


同じことを考える人が続々やって来て……、
始まった!


なんと、雑木林の向こうで開く花火は、かなり上に上がった花火しか見えず、残念賞。


日本の花火を知ってる者にとっては、やや気落ちするが、それでもまあ、最後はそれなりに派手にやってくれた。



まあまあ、無事に済んだ独立記念日。
それにしても暑い……。
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のぶちゃんのひとり旅 その1

2012年07月10日 | 家族とわたし
母が、今朝11時の便で、日本に戻っていった。
先月の29日にこちらに着き、丸11日間の滞在の後、旦那の47才の誕生日の朝に、家の前で記念写真を撮り、空港に向かった。

77才にして、実に9年ぶりの、大きな荷物を運びながらのひとり旅。
さぞかし心細かっただろう。
けれども彼女は、冒険好きで、人にものを尋ねることを躊躇しない、活発なところもあるので、とりあえず無事に着くだろうと思っていた。

彼女にわたしの寝室を譲り、わたしは今のソファーベッドに寝た。
彼女がこちらに着いた途端、前代未聞の熱波がやってきて、連日100℉前後の、とんでもなく暑い日が続いた。
せっかく、北アメリカ東海岸特有の、涼しい夏を経験してもらおうと思っていたのに……。
涼しくなるのを待ってると旅が終ってしまいそうなので、仕方なく、まずはコレ↓に出かけたのだが、これが失敗だった。



当たり前だけど、天井に乗るんだから暑い。
ただでさえ暑いのに、熱波中だとさらに暑い。


マンハッタン島を半分に割って、真ん中から上、真ん中から下のコースがあったので、
グラウンドゼロの新しいビル(夜になるとやたらとキラキラ光る工事中のビル)見たさ(←わたし)に、ダウンタウン用のチケットを買った。
ところが、乗ってみると、バスはぐんぐん、ハーレムの方向に走って行くではないか?!
間違えた……わたしが……。

やけくそでビルを撮る。横で母は、早くもバテ気味。


セントラルパーク入り口付近。


トランプタワー前。


がんばってトランペットを吹いてる金色のにいちゃん。


こんな感じのビルがごろごろ建ってるマンハッタン。


ハーレムの中の教会。


突如現れたおトボケな像。


多分、聞き間違いでなかったら、この教会の円形のステンドグラスは、世界一の大きさ。


工事だって高いとこ!?


めちゃくちゃデカい教会。


ここらへんで、さらに、焼き魚の気分な母とわたし。

唯一の救いは、やたらと陽気なガイドの兄ちゃん。
彼は元音楽学校の生徒で、声楽を学んでたそうで、突然話の途中でオペラのアリアを歌い出す。
ここが兄ちゃんが通ったマンハッタン音楽学校。


前方左側の、白いシャツを着たのが兄ちゃん。


ハーレム名物アポロ劇場。


あぢぃ~……。


タマネギな屋根。


なぜか飛行機が回転中。


やっと真ん中に戻ってきた。


ここでやめときゃよかったのだ。
けれども、買った下町見学用のチケットが、また使えそうだということで、ケチ根性がフツフツとわいてきて、下町に向かうバスに乗り換えてしまった。
母はもう、とっくの昔にバテてしまっていたのに。

さて、これは誰でしょう?


エンパイア・ステート・ビルディング!(←!マークをつけるのも恥ずかしいぐらい、毎週のように見ている自分……)


俗名アイロンビル。


奥に、目当てのビルが見えてきた。けれども、独立記念日直前の、混み混みのマンハッタンの、平日の夕方という、超~渋滞に巻き込まれ……。


ヨレヨレのビル。


やっと着いた頃には、母はもうすっかりダウン。
「あんた、このビル見たいがために、ここまで来たん?」と、かなり呆れていた。


また同じバスに乗って中心部に戻る気がしなかったので、地下鉄でバスターミナルまで戻り、バスで帰ることにした。
母は、疲れるわ、暑いわ、お腹が減るわ、喉が渇くわ、訳わからんわ、わたしに振り回されっ放しやわで、どんどん機嫌が悪くなった。

そもそも、こちらに来たその晩から、母は混乱していた。
彼女はついつい気を遣う。いつものノリで、必要以上に。それが彼女の当たり前なのだから。
けれども、旦那にはそれが鬱陶しい。
日本に10年住んで、日本流、母流の気遣いをわかってはいるけれど、そういうものが存在しない世界に戻ってからは、特に疎ましく思ってしまうのだ。
日本に居る時も、会う度に妙な状況に陥り、気持ちのすれ違いのオンパレードだった。
なので、嫌い、とかいう感情ではなく、ただうまく噛み合ないことが多くて、旦那は勝手に24時間ポリシーなるものを作った。
母と一緒に居る時間は24時間以内。
どちらも、自分の主義主張を曲げないのだから仕方がない。
そのふたりの間に入って、右往左往するのがわたしだった。
こちらに来て12年経ち、旦那との生活も20年経ち、かなり旦那サイドに寄り添っているわたしはもはや、母の側に立てなくなっていた。
それに加えて、原発事故後のわたしの行動を、あまり良く思っていない母とは、放射能汚染のこと、デモのこと、政治のこと、すべてについて意見が食い違った。

それが母にはショックだったのだろう。
それでなくても心細いのだ。
けれども、ついつい感情的になってしまうのを抑えるのに必死で、あまり優しくしてあげられない、いい年をした娘のわたし……。
時々、そんな自分が情けなくて、落ち込んでは立ち直り、とにかくこの11日間を、楽しい時間にしてあげようと思っていた。

それなのに……バスの中では二人とも口をきかず、家に着くなり母は、部屋にこもってしまった。

今回の旅は、こちらに着いてからの体調次第で、計画を立てようと言っていた。
77才。
だから無理をしない。ぼちぼち考える。でも、どこかひとつ、小旅行がしたい。それが母の希望だった。
それが、突然の熱波で思惑が狂ってしまった。

こんなんで、最後まで、我々3人はうまくやっていけるのだろうか……。
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