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ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

オペラ『ナブッコ』

2015年01月24日 | 音楽とわたし
一度だけ、伴奏の代役を引き受けて、本当に良い勉強をさせてもらった『Opera Thertre of Montclair』。
何年もの間、本格的なオペラを演奏するための基金を、あちこちでコンサートをしながら募ってきました。
そしてやっとやっと、夢の開演の日を迎え、旦那とわたしはお祝いがてら、初日の演奏会に行ってきました。
演目は『Nabucco(ナブッコ)』、ヴェルディの代表作です。


わたしは一度これを、メトロポリタン劇場で聞き、第三幕で歌われたヘブライ人たちの合唱に、ポロポロと涙を流したのを覚えています。
↓これです。
ユーフラテス河畔で、ヘブライ人たちが祖国への想いを歌う合唱曲『行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って』


行け、想いよ、金色の翼に乗って
行け、斜面に、丘に憩いつつ
そこでは薫っている。暖かく柔かい
故国の甘いそよ風が!
ヨルダンの河岸に挨拶を、
そして破壊されたシオンの塔にも…
おお、あんなにも美しく、そして失われた我が故郷!
おお、あんなにも懐かしく、そして酷い思い出!
運命を予言する預言者の金色の竪琴よ、
何故黙っている、柳の木に掛けられたまま?
胸の中の思い出に再び火を点けてくれ
過ぎ去った時を語ってくれ!
あるいはエルサレムの運命と同じ
辛い悲嘆の響きをもった悲劇を語れ
あるいは主によって美しい響きが惹き起こされ
それが苦痛に耐える勇気を我々に呼び覚ますように!
http://ja.wikipedia.org/wiki/ナブッコより引用しました。


今夜の舞台は、去年わたしの生徒の発表会をした教会だということで、そのこともとても楽しみにしていました。
舞台装置はもちろんのこと、すべてが手作り。
そして、オーケストラも歌手も、多くの演奏者がボランティアだといいます。
自分たちで、自分たちの町で、オペラをやりたい!
その夢を、たくさんの人の情熱が叶えたのです。

狭い舞台(普段は牧師さんが説教をしたり、ささやかな祭りが行われる程度)ですから、大掛かりな舞台装置はもちろん無理ですし、カーテンもありませんから、舞台の転換もできません。
でも、今夜のオペラを見て、聞いて、装置はもちろん素晴らしいものは素晴らしいけれども、やはり歌があればどうでもよくなるものなんだなあと、しみじみ思いました。

多分、合わせの時間が少なかったのでしょう。まるで練習風景を見ているような気がするほどに、みなさん真剣に練習中。




イタリア語で歌われるので、英語字幕がついています。


席は前から3列目。
これほどオーケストラと近く座ったことがないので、弓が起こす風や、金管楽器の息の音までが伝わってきて、生を十分楽しませてもらいました。
そして歌手たちは、そのオーケストラとほぼくっついていて迫力満点。







休憩です。
三枚のスクリーンが、くるりと裏返るだけの装置でしたが、趣が変わり、なかなかよかったです。








主催者のミア。家族の支えがあってこその今日の舞台だと言うのを聞いて、胸が熱くなりました。
娘のヴィオレッタちゃんはハープの名手。今夜も演奏していました。
息子たちは舞台装置を担当したそうで、まさに家族総動員。すばらしい!


指揮者のDaniele Tirilli氏。


舞台は3幕から4幕へ。










ほんとにすばらしかった!演奏者のみなさん、ありがとう!


頭痛がひどくなって途中で帰った旦那を待ちながら、




『行け、我が想いよ、黄金の翼に乗って』を小さな声で歌っていると、おばあさんが「その歌、わたしも大好き。でも泣いちゃう」と言って、通り過ぎて行きました。
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『自己責任』は、のこのこイスラエルに行き、イスラム国を刺激する声明を発信したすかたん男が取れ!

2015年01月22日 | 日本とわたし
「警察の捜査が、湯川さん後藤さんの危機的状況を引き起こした」~ジャーナリスト・常岡浩介氏が会見
http://blogos.com/article/104020/

↑上記の記事の全文を、どうぞ読んでみてください。

なぜあんな場所でわざわざ、安倍首相が『テロとの戦い』と公言し、世間では『自己責任』や『自業自得』が氾濫しているのか、
この事件の背景が、じわじわと見えてきます。

少しだけまとめたものを書き出してみました。

・昨年の湯川氏の拘束時に、イスラム国のオマル司令官とつながりがあったジャーナリストの常岡氏は、
「私たちは湯川遥菜氏を拘束している。
この人にはスパイの容疑がかかっており、裁判しようと思っているが、意思の疎通ができていない。
彼は英語もアラビア語もできないので、日本語とアラビア語の通訳できる人を必要としている」
「残虐行為をしないこと、イスラム法に基づいて裁判を行ったという証明をしてくれる立会人、witnessを必要としている」との連絡がきた。
身代金を取る材料にしない。見せしめのための処刑をしない方針だった
・司令官は立会人ジャーナリストとして常岡氏を、通訳として中田考氏を推薦し、二人はイスラム国に向かった。
・だが、ラッカ市に対するシリアのアサド政権による過去最大の空爆が加えられ、混乱が生じ、一時日本に帰国した。
・再びイスラム国に向かうため準備していた10月7日の夕方に、日本の警察、公安部外事第三課の職員が、家宅捜査令状を持って現れ、
私戦予備・陰謀罪の関係先として捜索し、関係物を押収した

・カメラ、ビデオカメラ、パソコン、スマートフォン、ハードディスク、現金、パスポート、機材一式を失い、翌日のイスラム国への渡航も取材も不可能になった。
連絡先も押収され、取材源の秘匿が不可能にされてしまい、保護も難しくなった
・その後3ヶ月に渡り、イスラム国に連絡することができなくなり、そうした中、脅迫ビデオのアップロードが行われ、それを見て驚愕した。
9月にイスラム国に行った際には、湯川氏に面会し、裁判に立ち会い、彼を解放できるかもしれないということを報道した。
・警察は、常岡氏の再出発の妨害をして、湯川氏を助けられるかもしれない機会を奪い、さらに機会を奪うかもしれないということを知っていたはず。
警察の捜査が、湯川氏、そして湯川氏を救おうと無理してイスラム国の圏内に入っていった後藤氏の危機的状況を引き起こしたとすら言える。








フェイスブック友のHiroshi Kawashimaさんの言葉を、ここに紹介させていただきます。

↓以下、転載はじめ

イスラエルが去年のガザ空爆で、2000人ものパレスチナ市民を虐殺したことに対して、世界中が厳しい目を向け、イスラエルと一定の距離をおくようになっているこの時期に、
あえてそのイスラエルを訪問し、次期主力戦闘機『F35』の共同開発まで申し出た安倍首相。

二人の日本人が「イスラム国」に誘拐され、殺害予告が出された今回の事件の一因として、
世界に逆行する安倍首相の、このイスラエル外交の姿勢と、日本の武器輸出を指摘し批判する、今日(1月22日付)の東京新聞の記事。

「武器輸出は誤りだ。軍事を含んだ積極的平和主義ではなく、憲法九条の平和主義を貫くことが長い目で見れば、日本の企業、国民の安全を守ることにつながる」

とする、栗田禎子千葉大教授(中東現代史)のコメントで、記事はしめくくられている。

日々、いろいろなことが起こり過ぎていて、この目まぐるしく動く情勢をどう読み解くべきなのかに、皆が悩んでいる。
ジャーナリストの後藤健二さんのご家族が、イスラム国から身代金を要求されたことを外務省に相談したのは去年11月のことだという報道には、どうも解せないものを感じる。
それなら何故、政府は、今になり慌てたそぶりを見せるのだろう?
政府発表やマスコミ報道に、政権の何らかの思惑がはたらいているとするならば(それはこれまでにも散々指摘されてきたことだ)、
このあまりにも衝撃的な事件に対して、ぼくたちはよほど冷静になって、ひとつひとつのニュースを吟味していかねばならないと思う。

集団的自衛権行使のための法整備に向けて、このタイミングで、世論を一気に好戦的な空気に向かわせようなどとする思惑がもしもあるなら、警戒の動きを強めなくてはならない。

1月16日、ハーグにある国際刑事裁判所の検察局が、イスラエルのガザ空爆に関連して、戦争犯罪が行われたかどうかを調べる予備調査を開始したとのニュースにも、注目しておきたい。
そのイスラエルに、いま、日本の武器や軍事技術が、なし崩し的に供与されようとしているのだから。


↑転載おわり


ついさきほど、守田さんから送られてきたEメールの中に、
[緊急署名]イスラム国周辺国への2億ドルの人道支援を留保し、日本人人質の人命を救ってください
というネット署名の紹介があったのですが、ページが開けなくなっています。
22日の夕方時点で、17000人を超える署名が集まっていました。
今やっとページが開けたので見てみると、6時間も経過したというのに、800人ぐらいしか増えていません。
みなさんの中にも、ページが開けず、困っておられた方がおられるのではないでしょうか。

[1/23提出分締め切り、キャンペーン継続中]イスラム国周辺国への2億ドルの人道支援を留保し、日本人人質の人命を救ってください
https://www.change.org/p/1-23提出分締め切り-キャンペーン継続中-イスラム国周辺国への2億ドルの人道支援を留保し-日本人人質の人命を救ってください?recruiter=45040613&utm_source=share_petition&utm_medium=twitter&utm_campaign=share_twitter_responsive

先日、ここでも紹介した[JVJAの声明]が、NHKのニュースや、英語放送のNHK Worldでも報道されたそうです。
その件についてのお話、そして他にも、被害者のお二人の解放に尽力されている方々の紹介をしてくださっていますので、その部分をここに転載させていただきます。


↓以下、転載はじめ

このJVJAの声明は、NHKのニュースでも取り上げられており、同じ記事が、英語放送のNHKworldでも流されています。
実はIS(イスラム国)も、NHKworldを観ています。
「殺害警告」のビデオの冒頭で、安倍首相の中東訪問に関する、同番組の報道動画が使われていたからです。
このため、英語でのこの報道により、イスラム国内部にもこの報道と声明が伝わる可能性が高いです。

英語放送と日本語放送のリンクを貼り付けておきます。

Journalists in Japan urge release of 2 hostages
http://www3.nhk.or.jp/nhkworld/english/news/20150122_29.html

ジャーナリスト団体がアラビア語で解放求める
http://www3.nhk.or.jp/ne…/html/20150122/k10014893411000.html


さらにたった今、豊田さんのFacebookページをチェックしたところ、
二人の解放に尽力している同志社大学の中田考氏の記者会見の様子とJVJAの声明が、イラクのテレビ局で流されたそうです。
かつてイラクで人質になり解放されたものの、その後、「自己責任論」バッシングの猛攻を受け、
大変辛い中から再度、ジャーナリストとして起ちあがって奮闘してきた、高遠菜穂子さんの尽力によるものだそうです。
これは非常に大きい!
間違いなく「イスラム国」の眼にも触れるでしょう。
https://t.co/2MxxnJ0phB


もちろんこれらの声明は、イスラム国だけでなく、よりたくさんの世界の人に伝わる必要があります。
そう考えて、「明日に向けて」で英語バージョンを作り、JVJAが発信した声明と、NHKworldの記事を貼り付けておきました。
英語を使っている友人、知人、英語圏のお仲間にぜひお送りください。

For tomorrow(1020)Please cooperate to protect our Japanese friends!
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/effb880bc6c7986e2198605bddfdf3d3


なお、2003年の「人質」事件の際、「自己責任論」によるバッシングが吹き荒れました。
実はこれは、政府批判をかわし、矛先をつかまった3人に向けるために、官邸主導で行われた世論操作の結果であったことが、今日明らかとなっています

「自己責任論」は、まったくのあやまりです。
危険地帯にわざわざ出向いて、真実を報道してくれる方たちがいるからこそ、私たちの眼が曇りきらないでいるのです。
こうしたジャーナリストの方たちは、私たちの眼であり耳です。
私たちの心の窓でもあります。
私たち自身のかけがえのない宝です。
ぜひとも守りましょう。

高遠さんとともに拘束され、解放後に酷いバッシングを受けた今井紀明さんが、この点で、的確で温かい声明を発しています。
苦労を越えてきた彼の言葉を記した東京新聞の記事を、ご紹介しておきます。

 ***

救出努力、寛容に見守って 04年イラクで拘束・今井紀明さん
【東京新聞】2015年1月22日 夕刊
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015012202000241.html?ref=rank

湯川遥菜さん(42)=千葉市花見川区=とフリージャーナリスト後藤健二さん(47)=東京都港区=が、過激派「イスラム国」とみられるグループに人質とされた事件を、特別な思いで注視する人がいる。
かつて、イラクで人質として一時拘束された、今井紀明さん(29)=現NPO法人共同代表=だ。
「自己責任」を問われた自らの体験を踏まえ、激しいバッシングが起きるのではないか、と懸念している
社会全体で「寛容に(日本政府の救出努力を)見守るようなムードになってほしい」と願う。 
 
「拘束された時の強い恐怖がよみがえった」。

二人の殺害を警告するビデオ声明が飛び込んできた時、2004年4月に、ボランティア高遠(たかとお)菜穂子さんら二人と共に、武装グループに拉致された時のことを思い出さずにはいられなかった。

今井さんらは、銃で武装した男らに取り囲まれて目隠しをされ、様子をビデオで撮影された。
武装グループは、当時イラクに駐留していた自衛隊が、3日以内に撤退することを要求したが、
今井さんらには、自分たちの命と引き換えだということは、知らされていなかったという。

「今回の二人は、殺されると目の前で通告されたとみられ、72時間の期限が迫る。絶望はずっと重い」と思いやった。
 
今はとにかく、「相手の誤解を解くことが重要」だと思う。
日本の2億ドル(約235億円)に及ぶ中東向けイスラム国対策費は、人道支援目的だという事実が伝わっていない恐れを心配し、
「敵対心を持っているわけではないと、あらゆる交渉ルートを使って訴えてほしい」
と語る。
 
今井さんらも当初、武装グループに、「米国のスパイ」と間違われた。
だが拘束が続くうち、高遠さんが現地で続けていた支援活動のことが相手に伝わったり、有力宗教指導者が仲介役となってくれたりしたことで、解放への道筋が開けたという。

帰国後、今井さんには、渡航を非難する電話や手紙が押し寄せた。
対人恐怖症と診断され、立ち直るまでに4~5年間かかり、兄も仕事をやめざるを得なくなった
今は、当時の経験も基に、大阪市を拠点に、不登校を経た若者らの支援活動を行う。
 
今回も、ネット上で、「自業自得」など似たような言葉が出始めているのが気掛かりだ。
もし反省点があったとしても、それは自分が一番分かっていると思う。どんな状況下でも、政府はその国の人を守らなければいけない。救出に全力を尽くしてほしい


 ***

以上、まだまだ伝えたいことがありますが、情報過多になるのでこれぐらいにしておきます。
緊急署名とJVJA声明拡散に、ぜひご協力ください!




イスラミックセンタージャパンは、2人の日本人の人質を殺害するというイスラム国の脅迫に対して、抗議します。
(2015年1月22日 東京にて)
https://www.facebook.com/islam.japan

イスラミックセンタージャパンは、2人の日本人の人質、後藤健二さんと湯川遥菜さんを殺害するというイスラム国の脅迫に対して、抗議します。
イスラム国は数カ月に渡り、彼らを人質として拘束しています。
我々は、イスラム国が重大な過ちを犯しているとみなしています。
そして、イスラム国が良識的な意見に耳を傾け、人質を即座に、且つ無条件で解放するように要求します。
上記を主張するにあたり、以下の様な理由が挙げられます。

・日本は、パレスチナとイスラエルが紛争をしている際に、パレスチナに対して支援をする等、多くの場面において、相対的に公正な立場をとってきました。
欧米社会から激しい圧力があったにもかかわらず、日本は長年、このような公正な姿勢を貫いてきました。

・日本は、パレスチナにとって、最大の援助国です。
ガザ地区、及びヨルダン川西岸地区において、数多くの復興プロジェクトを実施してきました。
それらは、日本政府、及び日本の団体からのみの資金援助により、なされてきたのです。

・日本では、我々イスラム教徒は平和的に過ごしています。欧米諸国で見受けられる様な、イスラム教徒に対する差別やハラスメント、そして屈辱を受けるといったことも、日本ではありません。ヒジャーブ(頭につけるスカーフ)やニカーブ(目以外を覆い隠す格好)をしたイスラム教徒の女性に対して、危害を与えるといったような事例は一つもありません。

・日本にいるイスラム教徒は、自由に宗教活動を実践しています。
モスクを建てたり、イスラム教の啓蒙活動を行う際に、政府から干渉を受けることもありません。

・しかし、おそらく最も重要な理由は、日本はイスラム国を含め、いかなる国に対しても宣戦布告をしない、世界で唯一の国であるということです。
なぜならば、日本の領土が侵された際の自己防衛の場合を除いて、いかなる軍事活動も、憲法によってはっきりと禁止されているからです。

・よって、日本の首相は、「テロと戦う為」に2億ドルを拠出することを表明しましたが、決してイスラム国に対する軍事的行為を支援するものではありません
その2億ドルの支援金は、長期の紛争によって住む所を失った、シリアとイラクの難民を支援するためのものだと、すでに計画されていました。
日本社会、そして日本のメディアも今では、支援金を言い表すのに、首相は「テロとの戦い」という言葉を使うべきではなかったと認識しています
なぜなら、その支援金は、テロとの戦いの為ではなかったし、そのような目的の為には支援金を使えないからです。

一方で、我々イスラミックセンタージャパンは、イスラム国に対して警告します。
日本人2人の人質を殺すことで、日本人のイスラムに対するイメージ、そして日本に住んでいるイスラム教徒に、とても大きな影響を与えることでしょう。
このような影響に対して、我々は全能のアッラーの前で、イスラム国が責任を負うべきだと主張します。
なぜなら、日本人の人質を殺すことについて、いかなる弁解の余地もなく、正当性もないからです。

人質の殺害は、コーランの教えにも反します。
アッラーが、コーランのAl-Mumtahana(試問される女)章8節で、述べられています。

「アッラーは、宗教上のことであなたがたに戦いを仕掛けたり、またあなたがたを家から追放しなかった者たちに親切を尽くし、公正に待遇することを禁じられない。
本当にアッラーは、公正な者を御好みになられる」

従って、我々イスラミックセンタージャパンは、ただちに、そして無条件で人質を解放するように、重ねてイスラム国に要求します。

イスラミックセンタージャパン
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日本をテロのターゲットに仕立て上げた安倍晋三

2015年01月21日 | 日本とわたし
フランスでの銃撃事件を、『テロとの戦い』に化けさせるために、こんな馬鹿げた合成写真が登場し、


イスラエルや米英軍を中心とした人殺しどもが、子どもたちの体を爆弾で粉々にし、世にも恐ろしい災いが未来永劫続いている町に陥れていることを誤魔化している。
自分たちが兵として育て上げた人間に、増悪の念を持たせるのに十分な悲惨な経験を与え、過激派に変身させ、攻撃の手段となる兵器まで与え、
見事、思惑通りに、過激派のテロ行為が起こったあかつきには、さあ皆さん、我々は共に手をつなぎ、悪(テロ)の撲滅のために戦いましょうと、戦争に持ち込む。
それをニヤニヤしながら眺めているのは、大儲けが目の前に見えてきた軍需産業の役員どもと、絶対に攻撃されないと保証されている軍の上役や政治家ども。

去年の末に、すでに身代金請求が行われていたというのに、よりにもよってその最中に、自分たちに金を貢いでくれる企業(ゼネコンや商社など46社)の上役を100人も引き連れて、中東に行く阿呆。
そして、忌み嫌われているイスラエルの馬鹿でかい国旗と日の丸が、共闘を誓い合っているような演出をして、その真ん中に立つ姿の意味を理解できないとてつもない間抜け。


なにが「中東の平和のための人道的支援」だ!
約3000億円もの金をばらまいた中東の国はすべて『反イスラム』の国々で、おまけに『イスラム国』という名詞を何度も口にし非難した。
ふたりの日本人が拘束され、そのうちのひとりの家族に、昨年の11月に、身代金を請求されていたことを把握してたのに。

よくもここまで愚かでいられるものだ。
そして報道は、それをよくもここまで庇っていられるものだ。



イスラム国人質問題で、日本ビジュアル・ジャーナリスト協会が発表した、声明文のアラビア語訳と英訳です。
もしもあなたが、またはあなたの身の回りにこの声明文を使えそうな方がおられましたら、どうぞお使いください。

IS( イスラム国) による日本人人質事件に対する声明
http://www.jvja.net/JVJA_IS.htm
 
日本ビジュアル・ジャーナリスト協会( JVJA )は、フォトジャーナリストやビデオジャーナリストの団体です。
 
私たちは、イラク戦争とその後の占領下において、米英軍を中心とした有志連合軍による攻撃が、イラク市民にどんな災禍をもたらされたかを取材、テレビや新聞などで報道してきました。
また、イスラエルのパレスチナ・ガザ地区への無差別攻撃に晒された市民を取材し、テレビや新聞等で報道してきました。
私たちの報道は、けっしてアメリカやイスラエルの攻撃を肯定するものではありませんでした。
 
私たちジャーナリストが、現場での取材を通して理解した、戦争下の住民の現実だったからです。
同時に、報道を通して、私たちはあらゆる暴力を批判してきました。
日本政府の戦争政策に対しても批判してきました。
イスラエルのガザ攻撃に対しても、私たちは強く批判してきました。
私たちは、現在の安倍政権の戦争を肯定するかのような政策を、報道を通して批判しています。
 
現在、IS(イスラム国)が拘束している後藤健二さんには、取材の現場で会ったことがあります。
後藤健二さんもまた、イラクやシリアでの戦火に苦しむ市民の現状を、テレビやインターネットで報道してきた数少ないジャーナリストです。
湯川遥菜さんは、私たちと直接の接点はありませんでしたが、報道によると、個人的な興味から「イスラム国」に入ったようです。
 
私たちは、暴力では問題の解決にならないという、ジャーナリズムの原則に立ちます。
武力では何も解決されない現実を、取材を通して見てきたからです。
「交渉」を含むコミュニケーションによって、問題解決の道が見つかると信じます。
 
私たちは、IS(イスラム国)の皆さんに呼びかけます。
日本人の後藤さんと湯川さんの2人を、殺さないように呼びかけます。
人の命は、他の何ものにも代え難いものです。
イスラムの教えは、何よりも平和を尊ぶことだと理解しています。
 
私たちは、同時に日本政府にも呼びかけます。
あらゆる中東地域への軍事的な介入に、日本政府が加担することなく、反対し、外交的手段によって解決する道を選ぶようにと。
 
2015年1月20日
日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)






Statement on IS (Islamic State) Japanese Hostage Incident

Japan Visual Journalist Association (JVJA) is an organization of photojournalists and video journalists.

We have documented how the attacks by the American and British-led coalition forces brought destruction and suffering to the Iraqi people during the Iraq War and the occupation that followed. We reported what we documented through media including television and newspapers. We have also interviewed civilians who came under Israel’s indiscriminate attacks on Palestine and Gaza, also reporting on television and in newspapers.

Our coverage has never supported the attacks by the United States and Israel. This is because as journalists, we cover events as they happen where they happen, and we thus understand the realities of people living in war conditions. Through our reporting, we have been criticizing all forms of violence. We continued to criticize the Japanese government’s war policies. We have also strongly criticized Israel’s attacks on Gaza. We are also using our reporting to criticize the Abe administration’s current policies that affirm war.

While covering the situation on-site, we met Kenji Goto, one of the hostages taken by IS (Islamic State). Kenji Goto is also one of the few journalists who has reported on television and through the internet on the suffering of civilians in war-torn Iraq and Syria. We have not had any direct interactions with Haruna Yukawa, but according to reports, it seems he entered IS (Islamic State) from of his own personal interest.

We stand by the principles of journalism that violence does not resolve problems. This is because we have continued to see for ourselves the ravages of areas where the use of arms and force has not solved anything. We believe that communication, including negotiation, is the way to resolve problems.

We appeal to everyone of IS (Islamic State). We appeal to you not to kill the two Japanese, Kenji Goto and Haruna Yukawa. Human life is priceless and cannot be traded for anything else.

We also appeal to the government of Japan. We demand that the Japanese government refrains from becoming complicit in military intervention in the Middle East by opposing it and choosing diplomatic means to find solutions.
January 20, 2015

Japan Visual Journalist Association

http://www.jvja.net
e-mail: office@jvja.net
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米国『ウォシュレット』事情&ちょびっとオマケ

2015年01月19日 | 米国○○事情
今年の4月で丸58年生きたことになる。
けっこういい数の日数を生きてきたけれど、ウォシュレットには縁が薄かった。
もちろん、昭和のど真ん中にそんなもんは存在してなかったし、世の中に登場した頃は高嶺の花やったし、
流行り出した頃はウォシュレットどころか、トイレは急な坂道の途中にあって、雪の日なんかは、まずはホウキで雪掃きをしながら行かなければならなかった。
と、ここでふと、ウォシュレットのことをちゃんと知っておきたくなったので、ウォシュレットについて詳しく書いてくださってあるサイトをここにちょいと拝借。

ウォシュレットの歴史を知ろう

ウォシュレットの歴史
ー前略ー
ウォシュレットというのは商品名で、TOTOさんが販売する温水洗浄便器の事を指します。
現代では、INAXのシャワートイレも含めて、一般的にウォシュレットという名前が定着しているのですが、
この名前はTOTOの登録商標、実はTOTOさんの商品以外、こう呼ばないのです。
2011年1月には、累計販売台数がなんと3000万台を突破といいますので、これは、TOTOさんの大ヒット商品といっていいでしょう。

ウォシュレットの歴史は1980年からです。
この年に発売し、爆発的ヒットとなっていくのですが、実はその前に、1960年代には、アメリカ製品をTOTOさんが輸入し、販売していたのです。
この時代は医療用として利用されていたので、一般的には普及していません。
この商品を元に、1969年に国産化したのですが、この当時とんでもない値段でしたし、商品として安定性のないものだったため、販売台数は伸びませんでした。

でもその後、ウォシュレットは、TOTOさん始まって以来の大ヒット商品となっていきます。
もちろん、その過程では様々な研究がおこなわれ、様々な工夫を施し、より良い商品を作っていった技術者の苦悩がありました。
今回は、日本が誇る技術、ウォシュレットについて、その歴史をひも解いていきます。
ウォシュレット初代からウォームレット登場、そして現代まで、ウォシュレットがどう進化してきたのか理解していきましょう。
ー後略ー


ウォシュレットの誕生
病院向け、また福祉施設への導入のため、アメリカから温水洗浄便座の販売を行っていた1960年代、
この最後の年1969年に、TOTOが、ウォシュレットの国産化を始めました。
ですが、販売価格がものすごく高く、一般市民の手が出ない物だったこと、
そして、温水の温度が安定せず、温水によってやけどしてしまう人も出るなど、商品としてはまだまだでした。
その後、さらに研究を重ねて、1980年代になって、2機種発売します。
この2機種を発売するまでには、社員の協力を得て、肛門の位置などを細かくデータ化するなど、涙ぐましい努力があったのです。

初代ウォシュレットは、1980年から1983年まで販売されていました。
セラミックヒーター仕様で、瞬間式熱交換機を搭載し、この当時からすれば非常にコンパクトに作られた、画期的な商品でした。
1983年から1985年に発売されたウォシュレットは、調節弁で水量調節ができ、
1985年から1988年のウォシュレットには、水圧伸縮式ノズルがついたことで洗浄機能がぐっと向上し、利用者にあった洗浄が可能となりました。
1988年から1992年のウォシュレットにはすでに、セルフクリーニング機能がつき、女性に嬉しいビデ洗浄機能も付いたんです。
ウォシュレットは少しずつ進化を遂げ、その機能も至れり尽くせりのものとなっていきます。


ウォシュレットの変化
ウォシュレットと同様に、これはすごい!快適だとびっくりしたのが、温水貯蔵式でお尻洗浄を出来ることと、便座が暖かいウォームレット機能でした。
洋式便器は、和式とは違いしゃがまなくていいので、腰や足の負担が少なく、便秘で長時間トイレに入っている人などにとっては、まさしく天国のような便器なんですが、
冬、その便器に座るときのひやっとする感覚だけは、我慢しなければなりませんでした。
便座が温かくなるという事の快適さ、これは今までになかったことで、当時便座の暖かい便器に座ることに慣れると、他のトイレに座りたくないと思うほどでした。
すでに、1985年から1988年のウォシュレットには、温水、温風、暖房便座に温度調節機能が追加されていますので、
この時期、TOTOのウォシュレットは、その技術が飛躍していたことがわかります。

ー後略ー


↑以上、転載おわり

ふむふむ、なるほど、ウォシュレットはTOTOの製品名だったのか。
クリネックスやバンドエイドみたいなもんね。
世の中に普及し過ぎて、だからもう、一社の商品名を飛び越えてしまってたのか…。

奇しくも、清水ではなく、グランドキャニオンの崖っぷちから飛び降りるような気持ちで決めた、今回のウォシュレット。
ゴタゴタ続きの工事の間、箱の中でずっと自分の出番を待っていた。
そしていよいよ取り付けられた、その晴れやかな姿を拝ませてもらいに部屋に入ると、


狭い中、トイレの周りをウロウロしながら点検。
う~ん…なんか物足りないような気がする…。
ジロジロ調べていると、こんな超~見にくい所に、超~ちっちゃいボタンが4つ…。


え?え?え?まさかこれで?
けども、どう見回しても、これ以外に押す所が見つからない。
実験してみる。
いやもう、とんでもなく押しにくい。
旦那が、でも、一番はじめのボタンにポツッとトンがったものが付いてるから、それがお尻用だと覚えたらええのとちゃう?と言う。
マジ?

う~ん…TOTOさん、いくらアメリカではほとんど使われてないと言うても、こんなショボいスィッチはあんまりではないか!
水量も温度も変えようが無いし、探すのに手探りで便器の横っちょを触らなあかんやなんてさ~…。

などとブツブツ言っているうちに、歩美ちゃんがやって来たので、彼女にも見てもらいながら愚痴っていると、
「もしかしてこれ、トイレを洗うっていうトイレだったりして…」などと、恐ろしいことを言い出した。
そういや、人が前に近づいてくるや否や、頼んでもいないのにウォーンと唸り出し、せっせと掃除をし始める。
用を足した後も、これまた全然頼んでもいないのに、またまたウォーンと唸り出し、せっせと掃除をし始める。
そんなことに電気を使って欲しくないのに…しかも便座が温か過ぎてもったいない。

旦那が「なるほど~、ウォッシュトイレット→ウォシュレットかあ、アメリカではそうなのか~」と妙に納得してるので、わたしも観念した。

それから数日経って、工事のために必要な物がいっぱい入っていた大きな箱の中を、あとどんな物が残っているのか点検していたら、
あれ?これってもしかして、リモコンちゃうん?
取り付けをやってくれた電気屋さんも、他の職人さんたちも、誰ひとりウォシュレットなど、見たことも使ったことも、だからもちろん取り付けたこともなく、
さらにわたしと旦那も、縁が薄かったので、リモコンさんはずっと、誰にも見つけてもらえず、大きな箱の片隅で待ちぼうけを食らわされていた。

というわけで、無事リモコンが取り付けられ、便座も水温も熱すぎずぬるすぎず、旦那用わたし用の設定も済み、節電モードに切り替えられ、自動洗浄は却下された。






明後日の水曜日に、ペンキやらシールやらコーティングやらの作業が終わり(のはず…)、あと浴槽に熱いお湯が出るようになり、浴槽の横の棚が完成したら、
いつになるかは予想がつかないけれども、とりあえず終わりが来る。
玄関ドアが開き、見慣れないデッカい職人さんが入ってくるたびに、ピャ~ッと逃げ回っていた空と海にも、やっと平安な暮らしが戻ってくる。
昨日の日曜日はずっと雨で、だから猫は眠くなり、ずっとラジエーターの横でウトウトしていた。
薄暗がりでピンボケたけど、海の寝言ならぬ寝ポーズ。


あ、気がついた。


かあちゃん、にいちゃんがイケズする。


なにか?


↑見えにくいけど、空が座っているのは、実は箱型の猫ベッド。
重たい空が乗りかかると、いっぺんにぺしゃんこになってしまう。

海はいつもどこかに潜り、空にそれを見つけてもらうまでジィッと待っている。
空はそれを見つけたら、ソォッと近づいて、上からドスンと乗りかかる。
だからこれも、遊びの中のひとつなのかもしれない。



さて、三階の住人まなっちゃんが、いきなりお花屋さんを開いたというので見に行った。


思っていたのと違うらしい。まだまだいろいろとやってみて、自分だけのオリジナルなブーケを作りたいのだそうな。


そしてこれは、今かなりハマり中の焼き林檎。


昨日はココナッツオイルの固形を買ってきて、それで焼いてくれた。
最近、りんごやチェリー、それに桃やブルーベリーを食べると、途端に唇や口の中が腫れてしまい、それで食べられなくなっていたのだけれども、
これだと大丈夫。焼き果物ばんざい!
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「自民党こそが、そして安倍晋三こそが、日本列島を放射能汚染させた張本人」

2015年01月19日 | 日本とわたし
戦後、長々と続いてきた自民党政権。
この一党独裁の長い年月の間に、地震や噴火や津波が起こる可能性が極めて大きい、海に囲まれた小さな領土に、原子力発電所などという極めて危険な核施設が、次々と建てられていました。
「建てられました」と言わずになぜ、「建てられていました」と言うのかというと、いつの間にこれほど多くの?という驚きがまだ、心のどこかにあるからです。
そして、どうして驚いたかというと、そんなことは何も知らずに生きていたからです。
巷に流れていた「クリーンで安全で完璧で、何しろもっと快適で楽しい暮らしをもたらしてくれますから」という謳い文句にフワフワと流されて、
原子力発電所という物の前に立ち、じっと見つめることも、じっと考えることもせず、ふと湧き上がる疑問を、まるで見てはいけないもののように払いのけていたからです。
そんな生き方をしている大人ばかりではありませんでしたが、数は多かった。
わたしが一番重きを置いていた現実は、日本の国が正しい方向を向いているかどうかではなく、自分の暮らしがより快適になるかどうかという、極めて小さな世界の中にありました。
そんな考え方をしている大人ばかりではありませんでしたが、数は多かった。

うるさい選挙カーが街中を走り、選挙の時だけのリップサービスが行われ、公約など果たす気もない、バッジをつけたらハイそれまでよ!な議員が増えてきて、
だからまともな市民も、まともな議員も、それぞれの立場で疲れ果て、ひとりまたひとりと、大きな流れの中に身を沈めてきました。
選挙のシステムも、どんどんとおかしな方法が取り入れられ、結果が正しいのか操作されているのかさえわからないという始末。

そして、
社会党が政権をとった時には阪神大震災。
民主党が政権取った時には東日本大震災。

結局、大きな混乱が生じ、信用が失われ、選挙が行われ、自民党が返り咲く。
この繰り返し。
返り咲いた自民党は、またまた原発行政を続行するつもりです。

選挙で選んだでしょう?
選んだのは他の誰でもない、日本の有権者でしょう?
だから、国民全員にも責任がある。罪がある。

でも、3.11までの選挙で国民(有権者)は、もし原発の事実をきちんと知っていたら、同じことをしたでしょうか?同じことを考えたでしょうか?
原発ムラがついてきたウソとデタラメを周知させるべき報道機関が、事もあろうに真逆の行動ともいえるプロパガンダに励んでいなかったら、ここまで無知が蔓延ったでしょうか?
カネに困窮している海辺の田舎を見つけ出しては、カネとハコ物を餌にして、ねっとりした誘いと恫喝を交互に繰り返し、住民を心身ともに疲弊させ、受け入れの承認にこぎつける。
それをバカだから騙された、気づかなかったと一括りにして、だから国民にも責任があり罪があるというところに持っていけば、一番都合のいいのは誰なのか。

わたしたちには責任があります。
今もなお、地球の根本である海を、猛毒で汚染し続けている原子力発電所を、今後も地震や噴火が起こる可能性がある国の民として、燃料に一切熱を加えさせないこと。
これだけは、なんとしても止めなければなりません。


↓以下は、ダンディ・ハリマオ氏のブログ『カレイドスコープ“アウト・オブ・コントロール”な人々が増えているから、引用させていただきました。

引用はじめ



2006年12月、衆議院議員吉井英勝君提出巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険から国民の安全を守ることに関する質問に対する答弁書

津波による電源喪失の危険性があることは、2006年の国会で指摘されていた。
安倍晋三は、
「何も対策はしていないが、電源喪失は起こりえない」と自信満々で言ってのけた。
このとき、安倍が点検を命じていれば、世界的大惨事は起こらなかった。
大勢の人たちも死ななかった。
この男は、極刑以外に罪を償う方法がない。


福島第一原発事故のそもそも元凶は、第一次安倍内閣であることは事実である。
本来であれば、安倍晋三は、法廷に引きずり出されなければならないのだ。

共産党の吉井英勝衆議院議員(当時)は、原子力の専門家だ。
彼の「福島第一原発は、津波で電源喪失する」旨の質問に、安倍晋三は一顧だにしなかった。
安倍晋三こそが、日本列島を放射能汚染させた張本人なのだ。

しかし、その答弁書が、衆議院議事録から、こっそり削除されていた
どこまで卑劣で、ずる賢い人間なのか。
もはや、犯罪者と呼ぶ以外にないだろう。
安倍晋三が「全電源崩壊は起こりえない」という答弁を削除!それで、原発再稼働…!福島原発事故の主犯格



(まうみ注*訂正です!)
答弁書は消去ではなく、こちら↓に移動されていました。inkingさんが教えてくださいました。
http://www.shugiin.go.jp/Internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b165256.htm


さらに、川内原発再稼動でも、国会で同じことを繰り返している。(下の画像)
彼は、精神に異常をきたしている。
川内原発は、必ず事故を起こすだろう。
原発立地の住民は、15億円の札束で頬を叩かれるのだ。
原発奴隷とは、まさにこのことだ。





「再稼働後」交付金に15億円 政府予算案【原発】
【朝日新聞】2015年1月14日
http://www.asahi.com/articles/ASH1G4J3NH1GULFA00W.html
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お風呂場狂想曲エピローグ

2015年01月17日 | お家狂想曲
ケビンは、ふたりの友人から勧められた大工さんでした。
今回の修繕にあたり、図面を描いてくれた、これもまた友人の設計士からは、別の人を複数勧められてたのですが、
それぞれに家に来てもらい、見積もりを出してもらったところ、ケビンが破格の安さだったので、評判も良いのなら大助かりだとばかりに、即行でお願いすることにしました。
そしていよいよ工事が始まるという時になって、「ボクは、平日の夕方と週末しか仕事できないから」と言うので、旦那とわたしはびっくりしたのですが、
ああ、だからこんなに安かったんだなと納得し、できないのなら仕方がない、まあ、あんなにちっちゃい部屋だし、ケビンも一ヶ月もかからないと言うし、と承諾しました。

仕事が始まり、夕方から始まるレッスンと重なって、特にその時は発表会の二週間前だったりしたので、生徒たちにはとても申し訳なかったけれども、
子どもながらに、自分たちにも経験があるからと、反対に同情してくれたりしてありがたかったのですが、
発表会の後、日本に帰省した10日間の留守中だけは、とりあえず仕事を中断してもらうことにしました。
その頃すでに、仕事の成り行きをいちいち見ておかないと、ちょっとヤバいという感覚が芽生えていたのです。

日本から戻って来たのは11月末で、その時は、少なくともクリスマスまでには終わると、誰もが信じていました。
ところが、ケビンが雇っている配管工が、来たり来なかったり、来ても何かが足りないとか見つからないとか言って、途中で帰ってしまったりと、かなりいい加減で、
洗濯機からの排水管とつながっているパイプの蓋をし忘れてたりして、大量の水漏れが何度も発生し、1階の台所の天井がふやけてしまいました。
おまけに、いったい誰がやったのかわからないのですが、新品の浴槽に瓦礫をガンガンと放り込み、何筋もの深い傷がついたり
ケビンはケビンで、設計図を無視して自分のやりたいことをやってしまってたりするので、やり直しや付け直しが続いて、予定がどんどん遅れてきてしまいました。
昼間の仕事(オリンピック招致のプロジェクトマネジャー)との掛け持ちなので、彼としては1日でも早く、ここの仕事にケリをつけたい。
もちろん我々も、心身ともに落ち着かないし、やり直しなどという、相手にとってものすごくイヤなことを承知で頼むという慣れない行動には、いつも以上に神経を使うし、
特に、浴槽の交換という大事件が起こった後は、ケビン側にその費用の弁償がのしかかり、かなり落胆しているのがわかったので、
弁償するからと言ってくれた直後に始まったタイル貼りの、まだ下から数段しか貼っていない時点で、表面が平らではなく波打っているのに気づき、
額縁がちょっとでもずれていると直したくなるような性質のわたしには、それがもう目について、気になって仕方が無かったのですが、
言えませんでした…タイミング的にどうしても…。

さらに、板やタイルを切る作業は二階の中の間でやっていたのですが、カバーが十分でなく傷だらけ、資材を置いていた部屋の床も凹みや傷がたくさんついてしまいました。


いい人なんです、ほんとに。
でも、プランの組み立て、他の職人との連絡、そして図面に従う、従いたくないにしても施主に相談してからにするというようなことが、今回の場合だけかもしれないけれど、とても苦手な人だった…。
そしてそれは、仕事の進行に致命的なダメージを与えたし、そのことで皆が疲れ果て、だんだんと気持ちが落ち込んできていました。

そして…、

木曜日の夕方に、ケビンから電話がかかってきて、仕事の終了時に払うことになっていた残金もいらないから、この仕事から降りたいと言われ、旦那とわたしはびっくり仰天。
土曜日に、道具のすべてを回収に行くと言って、その電話は切れました。
図面を描いてくれた友人に相談したら、辞めるも何も、町から工事の許可をもらった当人なんだから、その当人は最後まで仕事をしなければならないのよ。
辞めるなんてもっての他!と言います。
わたしはわたしで、頭の中がブワーッとなって整理がつかず、今まで抑えていた不満がフツフツと湧き上がってきて、金曜日の朝の瞑想中もそのことで頭の中がいっぱい。
我慢しきれなくなって相談したら、そこに居た7人中6人が、びた一文払ってはいけないと言い、その中のひとりは、わたしは裁判で訴えたことがあるのよ、と話してくれました。
いやはや…なんてこった…と思いつつも、まあここではよくあることなんだと、少しは慰めにもなったりしたのですが、
家に戻ると旦那が、ケビンは土曜日ではなくて、今夜来て話したいと言ってると言うので、またまた胸の中がざわざわしてきました。
わたしはもうすっかり覚悟を決めていて、未完のままの、専門家でないとできない仕事を誰に頼むか、
壁のペンキ塗りは元から工程外の作業なので、旦那がするか、はたまた友人のペンキ職人に頼むか、
そんなことをあれこれと考えながら、とにかくお風呂に入れるようになってるかどうか調べておこうと旦那が言うので、まず水の出方を見てみました。
すると…、
待てど暮らせど、お湯がぬるいままで熱くなりません。
え…あかんやん…。

その日のレッスンが終わり、一息つく間もなく、約束の6時半より10分早く、彼はやって来ました。
何やら書類を抱え、表情も固いままです。
とにかく話を聞こう。なにもかもそれからだ。そう腹を決めて彼の前に座りました。
すると、どうやら原因は、旦那が返信したEメールだったようです。
ケビンは、『そろそろ終了するので、残金を支払ってほしい』というメールを、旦那に送ったのでした。
旦那はその返事として、これまでの仕事へのお礼をまず言い、その後に、
『支払い残金(前金として費用の半分を払ってあるので、その残り)は、その額から浴槽の代金(税金と配達料を含む)を引いて支払います。
その前に、以下のことを確認して欲しいです。
高く付けすぎた手すりの下に、もう一本の手すりを付けられるかどうか
タオル掛けの位置
床のタイルの目地の欠けている部分の補修
目地の防水
ラジエーターのペンキ塗り』
という、前々から決まっていたことで、まだ終わっていないことを、確認のつもりで箇条書きにしたのでした。

そうしたら、浴槽代は支払うけれども、税金と配達代まで払うのはイヤだ。
それに、あの書き方は冷ややかで固い。
そう言うのです。

なるほど、そういうことだったのかと理解はしたのですが、浴槽にかかった費用のうち、税金と配達料をどうして我々が負わなければならないのか、それが納得できずにいると、
どうも、配管工も電気技師も、自分は知らない、やってないと言い張っているらしく、だからケビンは誰にも払わせることができずに、自腹を切ることになったようなのです。

では、その費用は我々が払いましょう。
メールで書いたことは、別に余計なことをお願いしているわけでも、不快な気持ちで書いたものでもなかったけれど、
やはりEメールというものは表情が見えず、往々にして誤解を招く性質を持っているので、
そんなつもりは毛頭無かったけれども、印象を悪くしたのなら申し訳なかった、と言いました。

すると、みるみる表情が和らいで、話も弾み、いつものケビンに早変わり。
やる予定だったことは全部する、と言うので、3人で二階に行って、タオル掛けの場所を決めたり、ウォシュレットのリモコンで冗談を言い合ったり、すっかり元気を取り戻したところで、
「そりゃそうと、浴槽の水が熱くならないんだけど」と言いながら、実際に全開で出し、彼にも確かめてもらいました。
「温水器が壊れてるんじゃないの?」
「そんなはずはないよ。だって、洗面台の水はほら、アチアチになるでしょ」
「いや、多分、配管か温水器の故障だよ」
「温水器は数年前の洪水で取り替えたばかりだし、おんなじ部屋の、それもすぐ近くの蛇口から、別々の温度の水が出てくるわけないっしょ?」
「そうかなあ」
「家は古いけど、この部屋の水温で問題になったことは一回も無いんだから!」
というわけで、やっとのことで配管工に来てもらうよう、頼むことができました。

緊張の糸が緩んでホッとしたのも束の間、ケビンが使っていたカバー代わりの古い布団に、空と海がおしっこをしていたのを発見!
夜中から洗濯開始です。
そしてこれ。
二度と浴槽に傷をつけられないように、昔、息子たちのおねしょ対策に使っていたビニールを、浴槽にペタペタと貼り付けて、


でもやっぱり思います。なんでこんなことをせにゃならんのか、なんでこんな心配をせにゃならんのかと…。

そして今日、朝8時から、ペンキ職人のナイジェルとケビンが上機嫌でやって来て、ドアや網棚、タオル掛けなどの小物の取り付け、ラジエーターの下の穴塞ぎなどをし、
浴槽つながりの、シャンプーなどを置く棚は、また別の日に来てやるからと言って、帰って行きました。
壁のペンキ塗りと目地の防水仕上げ、それからレンガの柱のコーティングなどの細々とした仕事は、ナイジェルに別払いでお願いすることにしました。
もちろん、風呂の水を熱くしてもらわないと入れないので、我々が最も信用できないままでいる配管工に、再び登場願わなければなりませんが…。

とまあ、自分のための記録として、ここまで長々と書き綴りました。
ここまでお付き合いしてくださったみなさん、うだうだと長ったらしい愚痴話を聞かせてしまい、申し訳ありませんでした。
今回のことでは、たくさん学ぶことができました。
何事も初めてのことというのは、その当事者にとっては大変なものです。
家の改装などというものは、そんなに再三できるものではありませんが、それでもやはり必要に迫られた時は、この経験を活かしたいと思います。
幾晩も眠れなかったのですが、そのうちの何日かは、波打つタイルや、洗面台の下の棚に空いた不必要な穴に不満を感じているのに、それを伝えられないままでいることにイライラしたのが原因で、
そんなことにイラついて眠れなかったりする自分が、またまた情けなくてイヤになり、その都度さらに落ち込みました。
旦那は、そういったことに気づいているし、不満もあるけれども、そんなことに囚われず、良い方に考えを切り替えることができる人で、
それでまた、より一層、自分のアホさ加減を思い知らされて、悶々としながらここまで来ました。
贅沢言ってんじゃないよ。
ほんとにそう思います。
床板が剥がれた所では、100年以上も前からの尿と埃と油が染み込んだ古板がむき出しになっていて、なんとも言えない不快な臭いを漂わせていました。
波打ってはいるものの、さっぱりとした白いタイルで囲まれた浴室の変身っぷりを、わたしが喜ばなくて誰が喜ぶ!
良いところを見つけよう。
見つかったら喜ぼう。
喜んでいる自分こそが自身なのだ。
それこそが生きているということなのだ。

お風呂に浸かった最初の瞬間に、わたしはもしかしたら泣くかもしれません…。
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「読売新聞1月13日付・国際欄の記事の誤訳から、『赦し』についての考察」

2015年01月15日 | 日本とわたし
あのフランスで行われた100万人以上にも及ぶ人々による行進に、各国から首脳が駆けつけ、一緒に行進したというニュースも実は、
本当は、首脳たちだけは、護衛の人たちを引き連れて、別の通りを歩いていたというのに、写真を工作して報じたということを知り、
原子力を搭載したタンカーの出動とともに、ますますこれは、単純に考えるべき事件ではないという思いを強く持っています。

新聞の報道を読む時も、テレビやラジオから流れるニュースを聞く時も、鵜呑みにするのではなく、自分でもそのことについて調べるということが大切です。
こんな社会の中に暮らしているからこそ。


ここに、智さんのブログ『とべないポスト』に掲載された、ひとつの記事を紹介させていただきます。

↓以下、転載はじめ

不用意な翻訳が新たな誤解を…。

「許す」と「赦す」

「不用意な翻訳により、新たな誤解が生じないことを祈りたい」

翻訳家、関口涼子氏は、ニホンの文化水準の低さを痛烈に批判し、いとも簡単に、社会が誤った方向へ誘導される危うさを憂いている。                 

「許す」と「赦す」 の区別ができていないことは、語学というよりは、精神文化の問題だろう。

入試至上主義の社会は、フランスで起きた事件報道で、文化水準の低さをさらけ出してしまった。

オピニオンリーダーとも言うべきメディアの水準が、政治の質を決めると言われてきたが、

悪政の元凶を垣間見た思いだ。


お二方の同じような文章があったので、ご紹介させていただくこととし、自らの戒めとしたい。



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『SYNODOS』2015.01.14

「許す」と「赦す」 ―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題
関口涼子 / 翻訳家、作家


「シャルリー・エブド」誌襲撃事件の後、フランスと日本のメディアによる報道を追っていて、
この事件への反応や解釈が、両国でまったく異なっていることに気がついた。

大まかに言えば、フランスの場合は、
『シャルリー・エブド』の編集方針に賛成でない人、あるいは同誌を読んだことがない人でもほぼ全員が、
同誌への抗議の手段として、殺人という最大の暴力が行使されたことに、激しく怒りを覚えた
のに対し、

日本の場合には、
「テロは良くないが」というただし書き付きで、
「でも表現の自由と騒ぐのは西欧中心主義ではないか。表現の自由にも、他者の尊厳という制限が設けられるべきでは」
と表明
することが、少なからず存在した。

ここでは、その点については触れない。
それとは別に、取り急ぎ指摘するべき問題が、一つあるからだ。


1月13日付読売新聞の夕刊、国際欄に出ていた記事のことだ。

今日14日水曜日、襲撃事件後初めて発行される『シャルリー・エブド』最新号の、表紙のデッサンに触れたその記事では、

「最新号の表紙には、ムハンマドとされる男性が、泣きながら『ジュ・スイ・シャルリー(私はシャルリー)』との標語を掲げる風刺画が描かれている。
この標語は、仏国民が事件後、表現の自由を訴えるスローガンとして使った。
表紙には、ムハンマドのターバンの色とされ、イスラム教徒が神聖視する緑色を使った。

また、『すべては許される』との見出しも付け、ムハンマドの風刺も『表現の自由』の枠内との見解を訴えたと見られる

とある(AFP通信を始め、他の幾つかの日本のメディアにも、「ムハンマドへの風刺も許されるという意味と見られる」とあった)。


この記事には、多くの事実誤認が見られる。

政治学者の池内恵氏によると、緑はムハンマドのターバンの色ではなく
そもそも、シャルリー誌の表紙絵の男性も、緑のターバンなど被っていないのだから、
単に、一般的に、イスラーム教というと緑とされているから、背景に緑を用いたのだろう、
という。

また、ムハンマドの表象自体は、一般的ではないとはいえ、イスラーム世界でもかつては伝統的に存在していた
中世イランのミニアチュールなどでは、ムハンマドが描かれている。


そしてなにより、私が翻訳者としてこの記事で指摘したいところは、この記事に見られる重大な誤訳なのだ。

「Tout est pardonné」の意味

この表表紙には、ふたつの文章が記されている。

まず、ムハンマドと解釈されるような男が、「Je suis Charlie」と書かれた紙を掲げ、涙を流している。
そしてその上には、「Tout est pardonné」と書かれている。

読売新聞の記事は、「Tout est pardonné」を、
「すべては許される」と訳し、何でもありだ、という、言論の自由(というか「勝手」)を示したものだとしているが、
これはまったく逆の意味だ。

「すべてが許される」であれば、フランス語では、「Tout est permis」 になるだろう。
「許可」を意味する「Permission」から来ている「Permis」と異なり、
「Pardonné」 は宗教の罪の「赦し」に由来する、もっと重い言葉だ。

そして、
「permis」であれば、現在から未来に及ぶ行為を許可することを指すが、
「pardonné」は、過去に為された過ちを赦すことを意味する
「Tout est pardonné」は、直訳すれば「すべてを赦した」になる

しかし、これは同時に、口語の慣用句であり、日本語で一番近い意味合いを探せば、
たとえば、
放蕩息子の帰還で親が言うだろう言葉、「そのことについてはもう咎めないよ」
または、
あるカップルが、深刻な関係の危機に陥り、長い間の不仲の後、最後に「いろいろあったけどもう忘れよう」という表現になるだろう。

これは、ただの喧嘩の後の仲直りの言葉ではない

長い間の不和があり、それは実際には忘れられることも、許されることも出来ないかもしれない。
割れた壺は戻らないかもしれない。
それでも、この件については、終わったこととしようではないか、
そうして、お互いに辛いけれども、新しい関係に移ろうという、
「和解」「水に流す」というきれいごとの表現では表しきれない、深いニュアンスがこの言葉には含まれている。


画面上、この文章は、預言者ムハンマドが言ったとも取れるし、『シャルリー・エブド』誌側の言葉とも取れる
つまり、複数の解釈を許しているのだ。

ムハンマドが言ったとすれば、それは、
「君たちの風刺・または思想をも「わたしは寛容に受け止めよう」ということであり、

『シャルリー・エブド』誌の側としては、
「わたしたちの仲間は死んだ。
でも、これを憎悪の元にするのではなく、前に進んでいかなければならない」
ということを意味するだろう。


読売新聞の記者は、このデッサンに、「自分が読みたいことを読んだ」のかもしれない。
イメージは曖昧であり、ときに、自らが含んでいない解釈も許してしまう危険性があるが、
この文章と結びつけられたときのメッセージは明白だ。

「Tout est pardonné」を、「すべては許される」とすることで、この読みの多様性が全て消えてしまう


「殺されたシャルリーは自分(ムハンマド)でもある」

それから、預言者ムハンマドが「Je suis Charlie」 、
つまり、「わたしはシャルリーだ」と書かれた紙を持っていることが重要だ。

これは、単に、預言者ムハンマドも、自分たち『シャルリー・エブド』誌の味方なんだよ!と言いたいのではない

「わたしはシャルリーだ」とムハンマドが言うことは、
「殺されたシャルリーは自分(ムハンマド)でもある」、

つまり、宗教の名の下に、暴力の行使によって相手の制圧をしようとすれば、あなたたちが信じていると思っている宗教もまた死ぬのだ、と、
このムハンマドのイメージは、犯人たち(または犯人と意見を同じくする者たち)に訴えかけているのだ。

その意味ではこれは、どれだけムハンマドが描かれていようと、イスラーム教の批判でもなければ、イスラーム教徒に対する侮辱でもない

むしろ、今後起きるであろうイスラーム嫌悪に対する歯止めであり、
テロ行為に走ることは、自分たちの信ずるイスラーム教の許すことではないと考える、フランスに住む多くのイスラーム教徒を代弁しているとも言える
のだ。

この絵を描いた漫画家、ルスは、ここで描かれているのは、何よりも先ず「涙を流す人間のイメージ」であって、

たとえムハンマドだとしても、自分が描いたムハンマドのキャラクターは、
虐殺を行った犯人が妄信していたムハンマド像よりも、ずっと平和的なのでは、と発言している。

それでは、これは、単に平和と未来を望む、真面目な絵なのだろうか。
『シャルリー・エブド』誌の漫画家たちは、悲劇を前にして、ユーモアの精神を忘れてしまったのだろうか?

ここには、三つ目の意味が隠されている。

今回、諧謔精神は、事件の後、当該誌を読んだことさえなかったのに、
あわてて猫も杓子も、「わたしはシャルリーだ」と言い出した現象に向けられている

「しょうがねーなー、チャラにしてやるよ」

つねに資金繰りに苦心していた、公称6万部、実売3万部の弱小誌、しかも紙のメディアという、およそ時代遅れのこの雑誌は、
多くのフランス人にもやり過ぎだと捉えられていたし、正面切ってこの雑誌が好きだと言う人はほとんどいなかった

それが、今回の事件以後、突如、全国的に有名になり、最新号は300万部印刷された。
政府からの補助金も出たし、個人の寄付も集まった。
1月11日に行われた、反テロ・追悼集会では、フランス全土で370万人を超える参加者を数える、フランス史上最大規模の抗議集会となった。

表紙の絵を描いたルスは、襲撃事件が政治的に利用されることに違和感を表明し、
11日の集会は、「シャルリー・エブド」の精神とは正反対だ、と批判している。

もう一人の生き残った漫画家ウィレムは、
「いきなり、自分たちの友だと言い出す奴らには、反吐が出るね」と、辛辣なコメントを述べてさえいる。

しかし、そういう、お調子者のフランス人、自分たちを担ぎ上げて利用しようとする政治家たちをも、
「Tout est pardonné しょうがねーなー、チャラにしてやるよ」、と笑い飛ばしているのが、この絵なのだ。

今までの『シャルリー・エブド』誌の風刺絵の中には、鋭いものも、差別表現ぎりぎりのものもあったが、
今回に関しては、お見事、というほかない。

ルスは、この絵を表紙にすると決めるまで、何日も、同僚たちと編集会議を重ねたという。

襲撃の直後に編集室に入り、同僚の死体を目撃した彼にとって、最新号の絵を描くことには、自信が持てなかったという。
最初は、同僚たちが倒れている状況を描き、イスラーム過激派を描き、そして、最後には、銃弾の跡ではなく、
「笑うことの出来る絵」を描きたい、と思ってたどり着いたのが、この表紙の絵なのだ。



文化翻訳に関する多くの問題

『シャルリー・エブド』誌襲撃事件は、文化翻訳に関する多くの問題を、結果的に提起している。

イメージが、文化を越えてどのように読まれていく(=翻訳される)のかという問題もあるし、「自由」の概念の翻訳問題もある。

読売新聞の記事が、「Tout est pardonné」を「すべては許される」と訳してしまった背景には、
「リベルテ(自由)」という概念が近代、日本語に翻訳される際に、「勝手」と同義と捉えられていたという状況も思い起こさせられる

また、漫画の翻訳を生業のひとつとしている者としては、漫画におけるテキスト部分がどれだけ重要なのかという、日頃から抱えている問題を改めて考えることになった。
多くの場合、人は、漫画における文章を、副次的なものと考えがちだ。
日本でこの表紙を目にした人の中には、絵だけから、
「今回は暴力的でないからいい」と考えた人もいれば、
「ムハンマドが描かれているから、やはりイスラーム教徒に対する侮辱だ」と考えた人もいただろう。

それは、イメージを見ればそれで事足れり、と考えているからだろう。
しかし、イメージに付随する言葉は、イメージの解釈に方向性を与え、意味づけをするものなのだから、けっしてないがしろにされるべきではない。

「Tout est pardonné」の意味が分からなければ、このイメージの重層性を読むことは不可能だ。
ここにもまた、文化翻訳の問題が横たわっている。

14日発行のこの号は、25カ国で販売され、アラビア語、英語、トルコ語、イタリア語など、複数の言語に翻訳されるという。
不用意な翻訳により、新たな誤解が生じないことを祈りたい。
http://synodos.jp/international/12340

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BLOGOS
Aquila Takeshi Aoki
2015年01月15日

シャルリー・エブド紙「Tout est pardonné(All is forgiven)」に込められた真意

襲撃事件後のシャルリー・エブド紙の今週号の表紙には、「私はシャルリー」と書かれた紙をもったムハンマドの風刺漫画が描かれ、
その上に、フランス語で、「Tout est pardonné(英訳するとAll is forgiven)」と書かれています。

これを受けて、日本の一部の新聞社は、表現の自由のもとなら、(ムハンマドの風刺も含めて)「何でも許される」という意味に取っているようです。

しかし、これは「All is forgiven」の真意を読み誤ったものだと思います。
これは、基本的な英語力、もしくは国語力の問題であり、大変失望します。

何でもやっていいよというのは、「許可」を意味しますが、
自分に悪いことをした人のことをゆるすというのは、「責めない、とがめない」ことを意味します。

私は、前者を「許し」と書き、後者の場合は「赦し」と書くことで、区別するようにしています。
後者の「赦し」には、自分に悪くした人のことを憎まないという、強い決意が必要であり、たやすくできるものではありません

あなたは、自分の家族を殺した犯人を赦せますか?

シャルリー・エブド紙の弁護士は、確かに、
「神を冒涜することも含めて表現の自由の権利を守る」という趣旨の発言をしていますので、
その流れで、宗教的権威を揶揄することも含めて、「すべてのことは許される」という意味で、報道陣が理解したのかもしれませんが、
イスラム過激派が、シャルリー・エブド紙の漫画家を殺害したことに対して怒りの拳を挙げることが、今週号の風刺漫画の趣旨ではないと思います。

これは、今週号の表紙を描いた漫画家が、涙を堪えながら行った記者会見を見てもわかることです。

この風刺画を描き終えた作家が,「Tout est pardonné(All is forgiven)」と、泣きながら叫んだことの真意は、そこにあるのではありません。

英ガーディアンの記事は、「All is forgiven」の意味を、正しく伝えています。

シャルリー・エブド紙の女性コラムニストZineb El Rhazoui氏が、
この言葉は、「襲撃犯を、人として赦すことへの呼びかけ」であると説明しています。

襲撃犯を憎み、ののしり、怒ることでは、問題は解決しません。
この闘いは、過激派思想に不幸にも洗脳された若者たちに向けられたものではなく、
近代の価値観を暴力で覆そうとする、イスラム過激思想に向けられたものです。

憎しみに対する憎しみは、問題をさらに複雑にしていきます。
しかし、愛と赦しがそこに加わるとき、憎しみ合っていた人間同士の関係に、変化の兆しが現れ始めます

この地上において、正義と平和を同時に実現することは、たいへん難しいことです。
正義を振りかざしても、和平が訪れることはありませんし、かといって、悪から目をそらして仲良くしても、偽りの平和になるだけです。

「All is forgiven(すべては赦される)」-この言葉には、人類の未来が託されていると思います。


最後に、宗教を侮辱する表現の自由が許されるか、という問題について触れたいと思います。

これは、非常に難しいテーマであると思います。

私はキリスト教を真剣に信じる者の一人ですが、その立場からあえて申し上げますが、
この社会で、神を冒涜する自由がなければ、神を賛美する自由もない、と私は考えています。

公の場で、宗教を批判する自由を規制する社会は、個人が公の場で、信仰を告白する自由も制限する可能性があります。
アメリカ社会は、そうなりつつあると思います。

最近のアメリカ映画に、『God’s Not Dead(邦題「神は死んだのか」)』がありますが、
この映画の脚本は、アメリカの大学のキャンパスで起きた、数々の訴訟事件をもとに作られたもので、
哲学の授業で、「神は死んだ」と書いて署名するように教授に求められた学生が、
自分はクリスチャンだからという理由で、署名を拒んだことから物語が始まります。

アメリカの大学のキャンパスでは、教職員や学生の、個人的な信仰のゆえに差別したり、侮辱することが問題となる一方で、
大学教授が、個人の宗教観について授業の中で触れたり、学生が、レポートなどで自分の信仰について触れることも、難しくなってきています。

アメリカでは、公共の場所で、他人の信仰を侮辱できない(それは当然のことですが)と同時に、
公共の場所で、自分の信仰について語ることも、難しくなっています。

それは、公共の場所で、中立性を担保するためには良いことかもしれませんが、
見方を変えれば、人に、無宗教あるいは無神論であることを強要すること、でもあります。

特定の個人を、イスラム教徒だからという理由だけで、あるいは、キリスト教徒であるという理由だけで、ユダヤ教徒であるという理由だけで、差別することがあってはいけません。
しかし、そのことと、宗教を風刺することとは別だ、と思います。

宗教的権威を風刺することをやめると、宗教界が堕落してしまうこともあります。
聞きたくないことにも耳を傾けることで、宗教的指導者が高ぶりや過ちを修正する、機会が与えられることもあります。

宗教的権威を批判したり、宗教を侮辱することを、よくないことだとして規制(自主規制も含みます)してしまうと、中世の抑圧の時代に逆戻りします
それは、宗教を信じる人にとってもそうでない人にとっても、たいへん不幸なことを招きます

神を冒涜したり、宗教を侮辱することも含めて、人間には自由があります
その自由を規制する社会は、個人が信仰を告白する自由も抑圧してしまう危険性があります
宗教について笑う自由と、それを聞く心のゆとりがある社会は、個人の信仰の自由も保障する社会だと思います。

宗教を信じる者であってもそうでなくても、
ときに、侮辱的と感じる表現に対して、忍耐と寛容さを持たなければならない
と思います。

それは、人間に学ぶ機会を与えます。

もちろん、侮辱することだけを目的としたヘイトスピーチのようなものは別ですが)。

そして、それは、キリストが十字架上で
「父よ、彼らをお赦しください」と、敵のために祈りをされた、愛と赦しの精神に近づくことであると思います。
http://blogos.com/article/103494/

↑以上、転載おわり
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戦争という落とし穴に落ちていく滑り台に、乗らないための学び

2015年01月15日 | 日本とわたし
フランスの事件以来、まるで絵に描いたように、『テロとの戦い』という文字があちこちで流されています。
原子力を積んだタンカーが動き始めたりして、きっと軍需産業の役員たちは今頃、ようやくやってきた大きなチャンスに浮き足立っているか、自分たちの姿が一切表に出ないよう、細心の注意を払っているのでしょう。
アメリカがそうでした。
9.11の同時テロの後の高揚は、本当に恐ろしく、なんとしても止めよう、裏にある真実を見ようとどんなに頑張っても、大きな波に流されていきました。
インターネットがここまで発達している現代のアメリカでも、リベラルな新聞やテレビまでもが、戦争の正当性を語るようになった時、ああもうだめかもしれないと思いました。


戦後70年 吉永小百合の祈り
「NHKアーカイブス」2015年1月4日より
↑↑↑
この動画をこちらに載せることができません。
下記の青文字をクリックして、ご覧ください。
http://video.fc2.com/content/20150107HtdXYzEK

<文字起こし>

やはり戦争っていうのは、人間を、人間同士殺し合うことですよね。
だから、昔から、戦争によってどんどん歴史が変わってきたっていうことはありますけれども、
やはり、どんなことをしても避けなければならないし、
人間は頭脳っていうのを持っているわけだから、もっともっとこう考えて、いろいろな道を選択すべきだっていうことは、思っているというか、願っていますね。
で、原爆はやはり、もう二度と地球上で使われてはいけない。
そのために、きちっと、唯一の被爆国のわたしたちが、そのことをきちんと知って、それで世界の人に語っていかなきゃいけないと思っています。

「核兵器を持つことで安定が保たれてる」、とかって言いますけれども、やはりもうこれは異常な兵器だと思いますし、
あのもう、核廃絶ということを、声に出して言いたいと思います。




核廃絶はもちろんのこと、戦争という事象の現場がどのようにむごたらしいものであるか、
それは、指令や命令を出すだけの上の人間はもちろん、戦争に行かないわたしたちのような者には、実際に経験することはありません。

でも、これまでの戦争で起こった事実を、丹念に読み聞きしていくことで、想像し、理解していくことはできます。
わたしたちのような、幸運にも戦争に巻き込まれずに生きられている者は、その奇跡のような毎日を当たり前のように受け取るのではなく、
世界市民として、ともに、核を二度と使わない、増やさない、殺しあわないという信条のもとに、皆が暮らせる世界を作るべく、
それを実現するのにどれほど難しく時間がかかろうとも、声を上げ続け、引き継いでいってもらえるようにしたいと思います。



小笠原事件(おがさわらじけん)とは、1945年(昭和20年)に日本軍が米軍の捕虜8名を殺害し、そのうち5名の人肉を嗜食したとされる事件である。
別名、父島人肉食事件。

出典
小笠原事件 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/小笠原事件

小笠原事件概要
1945(昭和20)年2月23日から25日にかけて、小笠原諸島の父島に配備されていた陸海軍の混成団の一部将校らが、米軍の捕虜を殺害して人食していたことが、
戦後の東京裁判BC級戦犯の、公判で明らかになった。

小笠原諸島は東京市(現・東京都)に属し、南に約200キロにある島で、父島を中心に大小の島からなる。
当時、東京市の防衛の要であった硫黄島と東京市の中間にあり、軍需物資を中継する重要な島だった。
このため、大本営も、従来の父島要塞司令部を改編し、陸軍は混成第一旅団(5個大隊を基幹)など約9000人、海軍は通信隊など6000人を再配備した。

米軍の機動部隊は、前年の1944(昭和19)年7月にサイパン島を攻略し、日本守備隊が玉砕。
このサイパンを最前線基地として、連日、東京への空爆を行った。
大本営は、米軍の次の目標は硫黄島とみて、父島に約15000人からなる部隊を配置したのだった。

同年8月31日から9月2日にかけて、いよいよ父島に対する空爆が始まった。
米空母から「アベンジャー」爆撃機が次々に、父島に向かって出撃していった。
一方、父島守備隊は、高射砲や機関砲で応戦し、5機の米軍機を撃ち落した。
この内の1機が、後の第41代米国大統領となる、ジョージ・ブッシュ中尉だった。
ブッシュは、からくもコックピットから脱出して、パラシュートで離脱。
その後、味方の潜水艦に救助されたが、同乗していた2人の乗組み員は、行方不明となった。


1945(昭和20)年8月15日終戦。
9月2日に、父島に米艦が到着し、立花陸軍中将を正使、森海軍中将を副使として、降状手続きを行った。
この時、米軍側は開口一番、
「パラシュートで脱出した米軍パイロットは何名いたか。その後、どうなっているか知りたい」との質問に日本軍側は、
「防空壕で全員爆死した」と回答。
これに対して米軍側は、露骨に不機嫌な態度になった。

その後、日本兵の復員は順調に進んだが、何故か的場陸軍少佐の大隊だけは、復員が許可されなかった。
この時、米軍側は、的場大隊以外の部隊から、様々な情報を収集していた。
証拠固めができた1946(昭和21)年2月になって、米軍側は、
「捕虜になった米軍パイロット達は、残虐行為の末に殺害され、人食された。
この事件の主犯は、陸軍では立花中将と的場少佐、海軍では森中将と吉井大佐である」として、グアムの軍事裁判に起訴した。
立花ら4人は大筋を認めて、小笠原事件に関与したとする軍人ら、25人が逮捕された。
http://jikenshi.web.fc2.com/newpage441.htm



カニバリズム

一体、どのような経緯で、捕虜の人食に至ったのか。
その後のBC級裁判で、明らかにされた。

1945(昭和20)年3月に、前任の師団長が自決。
その後、副官の立場にあった立花と森が、中将に昇格。
全体の指揮権は、立花が握ることになった。
立花中将の副官的存在が、的場少佐であった。
的場は気が荒く、酒乱の傾向があり、気に入らないことがあると、部下を半殺しの暴行を加えて、周囲を恐れさせていた。
実際に、柔道、剣道など、合わせて10段以上の腕前と大きな体躯は、周りを恐れさすには十分であった。

さて、ここで、陸軍と海軍の高級将校達の酒盛りが、連日行われた。
終戦末期の物不足の中、貴重品である酒を連日酌み交わした。
だが、〝つまみ〟が無い。
そこで立花らは、米軍捕虜の肉を食べて戦意高揚を図ろうと、軍医に捕虜の解体を命じた。
針金で大木に縛りつけた米軍捕虜に、立花が、「日本刀の凄みを披露する絶好の機会じゃ」と言って、試し切りの希望者を募って殺害。
その後、遺体を解体させて、宴会の〝つまみ〟にした。
後の日本兵の証言によると、米兵の手足の肉や内臓を立花が食べると、「これは美味い。お代わりだ」と、はしゃいでいたという。
http://14.xmbs.jp/ch.php?ID=ryuhpms56&c_num=159278


立花芳夫


出典
postfiles11.naver.net

立花 芳夫(たちばな よしお、1890年(明治23年)2月24日 - 1947年(昭和22年)9月24日)は、日本の愛媛県出身の陸軍軍人。
陸軍士官学校卒業(25期)。
兵科は歩兵科。
功四級。
参謀だった堀江芳孝少佐は、立花らの素行にかねてから不安を感じており、
捕虜のウォーレン・アール・ボーン海軍中尉(グラマンF6F戦闘機パイロット、所属部隊、母艦は不明)を、自分の英語教師として身近に置くことで守っていたが、
外出後に戻ると、すでに処刑されて喰われた後だった。
的場少佐の部下の供述調書によると、この時に的場少佐が発した命令は、次の通り。

一、大隊は、米人飛行家ボーン中尉の肉を食したし
二、冠中尉は、此の肉の配給を取り計らうべし
三、坂部軍医は処刑に立会い、肝臓、胆嚢を取り除くべし


1945年3月9日 午前9時 大隊長 陸軍少佐的場末男
発令方法…冠中尉並に坂部を面前に呼び口頭命令、報告は立花旅団長へ、通告は堀江参謀へ


一方で、当時少尉候補生として、父島に配属されていた土屋公献(元日弁連会長)は、
ボーン中尉を殺したのは事実だが、ボーンの遺体を損壊して食べた事実は無いと、食人行為については、否定している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E4%BA%8B%E4%BB%B6



終戦後の発覚

立花、的場、吉井、伊藤、中島昇大尉ら、5名が絞首刑(森は終身刑、但し、別途オランダによる裁判で刑死)、終身刑5名、有期刑15名となった。
立花と的場は、処刑されるまでの間、米兵たちの憎悪の対象となり、激しく虐待され続けた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E4%BA%8B%E4%BB%B6

結局、8人の米軍捕虜を殺害し人食したこの行為で、立花、的場、吉井ら、5人が絞首刑となった。
吉井は軍事裁判で、
「無差別爆撃する米空軍が悪い。パイロットは処刑されて当然。人肉は戦意高揚のため食した」と供述。
更に、
「日本軍の戦陣訓である〝生きて陵辱の辱めを受けず〟という教えがあり、捕虜に対する行為は何をおいても許される」と主張した。



米捕虜の処刑に立ち会った、ある少尉の証言

父島事件とは、第二次大戦末期、東京都小笠村の父島で起こった、米国捕虜将校らの一連の処刑事件。
BC級戦犯裁判の一つとして知られるが、本日の報告では、処刑事件のうちの一件に立ち会ったという、ある少尉(正確には少尉候補生)の目撃証言の内容を伝えたい。

同候補生は日弁連元会長で、戦後補償裁判の一つで、現在係争中の重慶大爆撃訴訟の弁護団長を務めている土屋公献さん(85歳)。
この事件の、青年・土屋に与えた影響は大きく、弁護士活動の原点になった。

捕虜のパイロットは、父島に配置された部隊ごとに、一人ずつ預かったという。
魚雷艇隊では、ボーンを預かった。
処刑までの期間は、少なくとも一週間はあった。
この間、つたない英語で、ボーンと会話を交わす機会があった。
ボーンは、海軍中尉で22歳。
土屋さんは、少尉候補生で21歳。
当時、日本は数えで年齢を言う習慣があったから、「ボーンには『The same age(同い年だね)』と言ったことを覚えている」と、土屋さんは語っている。

処刑当日(ブラッドレーの著書によると、3月17日)、土屋さんは当直将校だった。
ボーンの目隠しをし、処刑場所に連れていくのも、土屋さんの任務。
既に処刑されることを覚悟しているとみえて、騒がず、わめかず、従容として、処刑場所に臨んだ姿が忘れられない。
「母一人、子一人」「国(米国)では、母が首を長くして待っている」。
土屋さんは、
「ボーンとの会話の中で、いまでも脳裏から離れない言葉だ」と話した。
「こういう人間を、むざむざと処刑するのかと思った」という。

土屋さんは当初、捕虜の首を切ることを命令されていた。
土屋さんは学生時代、剣道をしていて二段だった。
上官はそれを知っていて、そういう命令が出ていた。
軍隊では、上官の命令には逆らえない。
ところがその後、学徒出陣組の中に四段のいることが分かり、彼がボーンの首をはねた。
戦争が終わり、彼は戦犯容疑に問われ、逃げ切れずに郷里で自殺した。
土屋さんは、もしあのとき、当初の命令通り自分が切っていたら、自身が殺人容疑の戦犯になっていた。
土屋さんは、父島事件の真相の一端を、以上のように語った。

「実際、戦場とはむごく、愚かなもの。
そういう現実を目の当たりにしたことが、戦争を繰り返してはいけないという思いにつながり、弁護士への道を歩むことになった」と、土屋さんは締めくくった。

土屋さんの証言から考えなければならない点が、いくつか挙げられるように思う。
父島事件は、処刑した捕虜の人肉食事件にすり替えられ、事の真相があいまいにされてきたきらいがある。
例えば、秦郁彦氏の『昭和史の謎を追う(下)』(文春文庫)の第32章「人肉事件の父島から生還したブッシュ」で、秦氏は、
「殺害したあと、ボーンの肉や内臓を摘出して死体を損壊」との米軍事法廷の起訴状を引用しながら、
「人肉食への言及はないが、関係者の回想によると…」とし、人肉食に結びつけようとする文脈で、この部分は構成されている。

土屋さんの証言によると、ボーンの殺害された日、土屋さんは当直将校で、その深夜、飢えに苦しむ兵2人が、ボーンの遺体を掘り起こし食べようとするのを戒めており、
また、ボーンの首をはねた場所は「砂浜」(秦氏)でなく、米軍の砲弾で穴の開いた土の上。
「ボーンの肉を食った、というのは事実に反する」と、土屋さんの語気は鋭かった。

今後の私の課題の一つは、父島事件の戦犯裁判は、米海軍のグアム軍事法廷で開かれており、この記録をあたる必要がある。
しかし、戦勝国が敗戦国を裁いた戦犯裁判である以上、判決が、必ずしも公正な裁きを反映しているとは限らない。

土屋さんの証言には、記録と表現の上で、考えなければならない問題があることを提起していると、私は受け止めている。
しかし、土屋さんの証言によって、事件の真相の一端が、明らかにされたように思う。
http://www.powresearch.jp/jp/activities/workshop/chichijima.html

↑以上、転載おわり
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つかなくなったボイラーと『福砂屋』のカステラと『とりぱん』と『賀茂鶴』と

2015年01月14日 | ひとりごと
夕方、教えている間に、なんだか妙に肌寒くなってきました。
室内温度は、いつものように、レッスン時用の20℃に設定してあるはずなのに…胸騒ぎがして、レッスン待ちをしている親御さんに聞いてみました。
すると…、
「ちょっといつもより寒いかも」と、そのおかあさんも、コートを着たままで座っているではありませんか。
え…まさか…。
そのまさかでした。
なぜか、突然に、つかなくなってしまっていたのでした。
おかしいな…今日、補充に来てくれてたのにな。

実は、オイルが底を尽きかけていて、今日来てくれなかったらアウト!というギリギリだったのですが、補充してもらえたのでホッと一安心したのも束の間…。
ちなみに、今回入ったのは約250ガロン。約950リットルです。
今年はガソリンがどんどん安くなっているというのに、暖房用のオイルは1ガロン300円。ガソリンより100円も高い…なぜじゃ!

外はずっと零下が続いているので、暖房がちょっとでも切れると途端に冷え冷えとしてきます。
とりあえず、電気ヒーターをつけて間に合わせながら、もう営業時間はとっくに過ぎていましたが、オイル会社にSOSの電話をかけました。
幸運なことに、従業員の人が出てくれて、人をよこすからと言ってくれたのでありがたかったのですが、
待てど暮らせど来てくれません。
う~ん…どうしたものか…。

外出用のコートを着て、猫たちのために、この家の中で一番小さな部屋のわたしの寝室に、ベッドとトイレと電気ヒーターを入れて、今夜は一緒に寝るぞ~と話してたら、

夜の10時過ぎに、修理の人が来てくれて、呼び鈴を鳴らしました。
こんなに嬉しい呼び鈴の音があるでしょうか!

修理人さんと旦那が地下に降りてものの5分も経たないうちに、ああ助かった、ボイラーが作動し始めました。
原因は、タンクが空に近づきすぎたために空気が混入していた、とかなんとか…いずれにせよ単純な理由でした。

ボイラーが動き始めた時、その音を聞いて、ああいい音だ!と思ったのは多分、人間だけではなかったかも…。



昨夜は、日本から戻ってきてまだ二日目の、歩美ちゃんがやって来ました。
歩美ちゃんは、日本から戻ってきた翌日の夜に、『Learm From 3.11』主催のトークイベントで歌とトークを聞かせてくださった加藤登紀子さんと一緒に、パネラーとして大活躍。
わたしもめちゃくちゃ聞きに行きたかったのに、まずは電車に乗り遅れ、次に車では渋滞で、駐車場のクーポンまでプリントアウトしたというのに、結局行けなくてガックリ。
なので、彼女からいろいろと、日本のことやイベントのことを聞かせてもらいました。

留守中の植物の水やりを頼んだからと、お土産をたくさん持って来てくれてびっくり!
全然気にしなくていいからね~と言っていたのに。
でも、これを見たらもう…。


福砂屋のカ・ス・テ・ラ❤️です。
1624年の創業以来の手わざが活きている、カステラの中のカステラ❤️
もったいなくてまだ食べていない!けど、卵の泡立てにこだわった手わざの味、美味しいに決まってます!

包み紙も、内袋も、それから手提げ袋も、みぃ~んなみんなすてき!






しかもしかも、福砂屋さんのシンボルは蝙蝠!
前々回に日本に行った時に、すっかりお世話になった黒森庵の晴さんに、いきなり13巻いっぺんに買ってもらった『BILLY BAT』。
もう何度も読み返して、話の筋をほとんど覚えてしまったその漫画の主人公も蝙蝠。

歩美ちゃんは他にも、とりのなん子さんの『とりぱん』や、広島の純米酒も持ってきてくれました。
なんか、かえって申し訳ない気がしますが、思いっきり楽しませてもらいま~す!ありがとう~!
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「最も大規模かつ卑劣なテロを繰り返し大勢のテロリストを養成してきた米国をこそ批判し、真似るな」守田氏

2015年01月12日 | 日本とわたし
フランスの風刺新聞の記者や画家が襲撃され、無抵抗な人たちが殺害されました。
そのニュースを聞いた後、異例の早さで犯人が指名され、公の場に報道されるのを目の当たりにしながら、
わたしはあの、同時テロの日のことを思い出していました。

あの時も、どうしてこんなに早くわかったのだろうと首を傾げながら、どの局のニュースキャスターも一斉に、濃い髭面の男たちの名前を連呼するのを聞いていました。
旅客機がビルに追突するシーンを観ると、体全体が震え、泣こうとも思わないのに涙があふれ出てしまうので、テレビをつけずにラジオの報道を聞いていました。
あの時のニュースキャスターも、そして町に出て怒りの声を上げる人たちも、まるで何かに酔ってでもいるように、あるいは取り憑かれてでもいるように、
イスラムに対する怒りを丸出しにして、さあみんなで悪に立ち向かおう、正義を貫こうと叫んでいました。
そういうことを言う、そういうことをする自分たちは絶対に正しく、力を合わせて悪を封じ込めなければならないと言わんばかりに。
同時テロから3日目の夕方に、そんな社会の降って湧いたような興奮に違和感を覚えながら、自分が目にした光景から逃げられずに、暗い洞窟のようになった心の中にこもっていたわたしは、
外から見たら格好のカモだったのでしょう、スーパーの駐車場でカージャックに遭ってしまいました。
要求される額を交渉しながら、相手を助手席に乗せて、30分もの間言われるままに車を走らせました。
その間、相手の顔を何回か盗み見て、濃いヒゲを蓄えていたこと、男を降ろした場所に、やはり同じような風貌の男性が数人居たことを、後で警察に行って話すと、
皆が一斉に殺気立ってきて、すぐに2階の部屋に連れて行かれ、アラブ系の男性の写真が何百枚も載っているアルバムを見せられました。

同時テロが起こってからの数週間はだから、アラブ系の人たちにとっては、とても居心地の悪い、いやそれ以上に、自分にもいつ危害が加えられるかわからないぐらいの恐怖を感じる、辛い日々だったと思います。
そして米国は、全国一斉に沸き立って、戦争をすることが正しいという世論を市民自らが作り上げるように仕組まれた罠に、すっかり囚われていきました。
その勢いたるや、恐ろしいものでした。
マスコミの先導の凄さを目の当たりにして、それでもなお、その洗脳に抗おうと必死に訴えていた人たちの姿を目の当たりにして、
テロ行為が起こった際に生じる社会の反応と、それを煽るマスコミの動きを、一歩引いて見ること、考えることが大切だと、あの時以来思うようになりました。
テロ=悪者=制裁=正義
この、単純だからこそ刷り込まれやすい図式の罠に、今はとりあえず危害から免れているわたしたちがかかってしまうと、世界はますます奴らの思うままになってしまいます。

言いたいことはある。山ほどある。
伝えなければならないこともある。山ほどある。
それを見事に書き表してくださった守田さんの、3回にわたる記事を、ここに紹介させていただきます。

守田さんは毎日、膨大な量の考察を、とてもわかりやすい言葉でまとめてくださっていて、わたしにとっては先生のような方です。
ここに転載することを、いつも快く承諾してくださるので、お言葉に甘えて転載させていただいているのですが、
日々の記事はどうか、守田さんのブログ『明日に向けて』の読者になり、読まれることをお勧めします。

では、以下に、3回に分けて紹介された記事『フランス新聞社襲撃事件の背景にあるものは何か』を転載させていただきます。


フランス新聞社襲撃事件の背景にあるものは何か-(年頭に世界を俯瞰する-5)
2015年1月11日

守田です。

これまで「年頭に世界を俯瞰する」と題して、現代社会に大きな矛盾を作り出している新自由主義が、
それ以前のケインズ主義にも共通した、「儲かればそれで良い」とする価値観の上に、弱肉強食の資本主義を作り出してきたことを見てきました。
僕の意図では、前回の内容に続いて、新自由主義のもとで、さらにどのような矛盾が作られてきたのかを詳述しようと思っていましたが、
そんな中で、現代世界の矛盾を凝縮したような事件が起こってしまいました。
フランスの新聞社襲撃事件です。
どうしてもこれには触れざるを得ないと考えて、少し歴史的な説明の順番を反転して、現代のこの問題をどう捉えるのかを論じてみたいと思います。

大前提として語らなければならないことは、今回シャルリー・エブドに対して行われた殺人襲撃は、断じて認めることのできないことだということです。
理由は、無抵抗な人々を、一方的に殺害したからです。
僕は、人の命を奪う、こうしたあらゆる暴力的試みに、絶対に反対です。
ただし、「表現の自由」を侵害したからだということには、保留したいものを感じます
現代世界のあり方の中で、ヨーロッパの新聞社がムスリムの人々を侮蔑するのも、一つの暴力であるとも感じるからです。

この点について、非常に共感できる記事がネット上に載っていたので、ご紹介しておきます。
国際政治学者の六辻彰二さんという方が、書かれています。
 
フランスの新聞社襲撃事件から「表現の自由」の二面性を考える-サイード『イスラム報道』を読み返す
http://bylines.news.yahoo.co.jp/mutsujishoji/20150109-00042123/

僕が今回、書かねばならないと思っているのは、現代世界を俯瞰した時に見えてくる、「イスラム」と「イスラム過激派」の位置性です。
ちなみに、「イスラム過激派」という言葉自身も、西洋的な一方的文脈のもとにある言葉であることに、注意を促したいと思います。
イスラムという思想の中の過激派というより、イスラムを信じる人の中に持ち込まれた暴力思想、と言った方が僕は良いと思います。
その点も、サイードの『イスラム報道』などに触れていただくと、見えてくるものが大きいと思いますが、
ともあれ、イスラムという信仰が「過激」なのではない、ということを強調したいです。
現実には、キリスト教徒にも「過激派」はたくさんいるし、世界で一番過激で一番たくさん人を殺してきた国家はアメリカです

さて、新自由主義が、1970年代のケインズ主義的資本主義の行き詰まりの中で登場してきたことを、これまで見てきました。
そのときに、社会主義が十分な対抗軸になれなかったと、僕が考えていることも明らかにしてきました。
とくに、既存の社会主義国家は、対抗軸足りえないどころか、1980年代にどんどん衰退していき、同年代末から1990年代初頭に、次々と倒れて行きました
歴史的に見た場合、あたかもこれと入れ替わりに、資本主義的矛盾と鋭く対決する大きな潮流としてイスラムが台頭してきたことに、注目する必要があります。

その一つは、1979年に勃発したイラン革命でした。
それまでのイランは、パーレビ国王が統治する独裁国家でした。
しかもパーレビ王政は、「アメリカの中東の憲兵」と言われた政体でもありました。
これを倒したのは、イスラム教シーア派を中心に結集した、イランのムスリムの人々でした。
いや、ここにも、初期には、フェダイン・ハルクなどの社会主義グループも参加していました。
しかし、革命イランは、次第に社会主義勢力を排除し、イスラムの理念のもとに歩み始めました。
「中東の憲兵」を失って狼狽したアメリカは、同じく貧困層に支持されるシーア派の台頭に脅威を抱いたアラブの王族たちの思惑も受けつつ、
イラク・フセイン体制を軍事的に強化して、イランにぶつけました

かくして、イラン・イラク戦争が勃発しました。
ちなみにフセイン政権は、バース党という社会主義政党によって成り立つ、世俗主義の政権でした。

一方で、イスラム勢力の台頭を作り出したのは、旧ソ連邦でした。
同じく1979年
ソ連寄りだったアフガニスタンの共産党政権に、ムスリムの反発が強まり、武装抵抗がはじめられたことに対して、ソ連が軍事侵攻を開始しました。
これに対して、アラブ世界を中心に、世界のイスラム教徒が怒りを覚え、たくさんの義勇兵がアフガニスタンに向かいました
アメリカはここでも、ソ連の勢力をそぐために、反ソ武装闘争派のムスリムを軍事支援
訓練キャンプなども作って、さまざまな軍事スキルを伝授しました。
ここに参加して、後に大きな影響を持った一人が、ウサマ・ビン・ラディンであったことは有名です。
アメリカがイラク戦争で「打倒」したフセインも、パキスタンで非合法的に処刑したウサマ・ビン・ラディンも、もともとはアメリカが育てた人物でした。

今、「イスラム過激派」と称される人々、とくに「アル・カイーダ」などと呼ばれるネットワークなどは、
もともとアメリカが軍事的に育成したものである
ことを、私たちは見ておく必要があります。
その意味で、これらの人々を「イスラム過激派」というのは正しくない、と僕は思うのです。
イスラム教徒の中に持ち込まれたアメリカの暴力思想、ないし、「イスラムの中のアメリカ的テロリズム」こそが、これらの人々を巨大化させてきたのです。
ではなぜ、アメリカが育てたイスラムを名乗る暴力主義者たちが、アメリカに牙を向いたのでしょうか。
それ自身も、アメリカの都合によるものでした。

1980年代、それまでアメリカと最も鋭く軍事的に対立していたソ連邦が、どんどんその力を落としていきました。
一つには、アフガニスタン侵攻後、ムスリムの頑強な抵抗にあい、戦線が膠着して疲弊を深めたことが理由でした。
この点で、ソ連のアフガン侵攻は、アメリカのベトナム侵攻と同じだった、と指摘されています。
さらに決定的だったのは、1986年4月26日に、チェルノブイリ原発事故が起きたことでした。
当時のソ連邦書記長ゴルバチョフは後に、「チェルノブイリの前と後で私の人生は変わった」と述べ、ソ連邦崩壊の大きな要因が、この原発事故であったと指摘しています。

最も頑強なソ連邦が崩壊していく・・・。
それは、アメリカにとって喜ばしいことであるはずでしたが、実は、アメリカ軍を総べるペンタゴンは、呆然たる状態になっていたことが、今日明らかになっています。
ソ連軍との対抗の必要性がなくなれば、アメリカ軍も大幅に縮小されてしまうと思われたからでした。
その意味で、ソ連邦とソ連軍の崩壊を、実はアメリカ軍は、喜ぶどころか深刻な危機の到来と捉えたのでした。
アメリカ軍、及びその後ろに控える巨大な軍需産業は、次の敵を探しました
そして、格好の標的とされたのが、イラク・フセイン政権だったのでした。

このときフセイン政権は、アメリカの後押しのもとに、イランの革命政権と闘ってきていました
当初は、軍事力で圧倒的に上回るイラクが優勢でしたが、正義感で上回るイランは、革命防衛隊を軸に、頑強に抵抗。
結局、この戦いも戦線が膠着し、1988年に停戦を迎えました
イラクには、戦争を通じて作った多額の借金が残り、債権の多くが、アメリカやヨーロッパ諸国にありました
こうした中でクウェートが、イラク国境付近で油田開発を始めました。
イラクは、自国の権益が脅かされると考えて激怒、クウェートへの軍事侵攻を行いました

このとき実は、イラク・フセイン政権は、アメリカに、クウェート侵攻に関する打診を行っていたと言われています。
イラクとしては、アメリカが反対しないことを確認してから、クウェートに攻め入ったのでした。
ところが、イラクがクウェートに到達するや、アメリカは激怒しました。
さらに、クウェートの看護師による、「イラク軍兵士が病院に攻めてきて、保育器から子どもたちを取り上げて殺した」という証言を、何度もテレビで流しました。
こうしてアメリカは、湾岸戦争に殺到していきました
実は、これは完全なやらせでした
証言したのは、クウェートのアメリカ駐在大使の娘で、アメリカ在住の女性だったのでした。
アメリカは他にも、メディアで虚偽の情報をたくさん流して、全世界を湾岸戦争に巻き込もうとしました

ここには、アメリカの、ベトナム戦争の戦略的な捉え返しがありました
ベトナム戦争では、従軍記者たちが、かなり自由に戦場の実態を報道していました。
その中から、アメリが軍が行っていた残虐行為が世界中に流れることになり、世界中をベトナム反戦運動が吹き荒れるようになりました
アメリカの中でも反戦運動が大高揚し、結局アメリカは、撤兵を余儀なくされました
アメリカ政府とアメリカ軍は、このことへの捉え返しを強め、この湾岸戦争では、完全にメディアをコントロール
それどころか、虚偽の内容を次々とプロパガンダすることで、戦争を思うように進めました。
戦史上、広告会社が戦略上の重要な位置をしめた、初めての戦争でした。

ところが、アメリカは大きな誤算を犯してしまいました。
イラクへの侵攻をできるだけ大規模に行うために、ムスリムの聖地に、大量のアメリカ軍を投入したことでした。
とくに、メッカとマディーナというイスラムの2大聖地のあるサウジアラビアに、膨大な異教徒の軍隊が入り込み
そこから、ムスリムでもあるイラクの人々への大規模攻撃を行ったことが、多くのイスラム教徒の心を傷づけました。
アメリカはメディアを使い、ジャーナリストを完全に統制することで、西欧メディアのコントロールはできたものの、
他ならぬアラブの人々、イスラムの人々がどう思うかへの配慮を、全く欠いていた
のでした。

***********************

フランス新聞社襲撃事件の背後を考察しています。
今回は、「フランス新聞社襲撃事件の背景にあるものは何か」の続きです。

アルカイーダというイスラム義勇兵たちが作りだしたネットワークが、ソ連の力を削ぎたかったアメリカの軍事支援のもとでできあがったことを述べてきましたが、
それが反米に転換していったのは、湾岸戦争の時でした。
中でも問題なのは、アメリカが、メッカとマディーナというイスラムの2大聖地のあるサウジアラビアに、膨大な軍を送り込んだことでした。

湾岸戦争が勃発した時、アフガニスタンに集ってソ連軍と闘った多くの国際義勇兵たちは、目的を達して自国に帰っていました。
ウサマ・ビン・ラディンも、ちょうど出身国であるサウジアラビアに戻っていました。
これらの人々は、今度は、アメリカのイスラムの大地での無謀な振る舞いに激怒し、やがて反アメリカネットワークを形成していきました。
かくして1990年代に、アメリカ貿易センタービル爆破事件(911事件はもっとあと)など、さまざまな軍事攻撃が行われるようになりました。
アメリカが仕込んだ「過激派」が、その暴力をアメリカに向け出したのでした。

このことに、新自由主義のもとでの世界の混乱が、大きく関連していきます。
なぜかと言えば、イスラム教は利子による儲けを禁止しており、過度な儲け主義を戒めているからです。
利子を禁ずる理由は、神のものである時間を利用した儲けだからです。
実は中世キリスト教も、利子を禁止していました。
キリスト教も、もともとは儲け主義を戒めているのです。
しかし、取引の活発化と共に、現実には必要とされたため、「守銭奴の行う下劣な仕事」として、ユダヤ人が携わっていたのでした。
ユダヤ人が共同体と共同体の外におかれ、またがる位置にいたからでした。
その後、商業が発達し、資本主義が成熟する中で、西欧社会は利子を合法化していきましたが、
イスラム世界では今も、経典に反する行為として禁じているのです。

現実にはいろいろな抜け道があり、利子に変わる利潤の回し方があるのですが、
それでも、イスラム教が今なお、「儲かればそれで良い」という価値観に否定的であることは、間違いありません。
それだけに、弱肉強食の新自由主義のもとで貧富の格差が開けば開くだけイスラムの教えによる強欲な社会への批判が高まってくる構造を持っています。
それがまさに、新自由主義の時代のもとで、イスラム教が独自の光を放っている所以です。
しかし、だからイスラム教徒が「過激化」しているのでは、断じてありません。
これまで見てきたように、そのような地盤の上に、アメリカによってトレーニングされた武装集団が結合したとき、「過激派」が生まれてきたのだということです。

しかもアメリカは、911事件後、アフガニスタン戦争でもイラク戦争でも、ムスリムの国に、明らかなる侵略戦争を行いました
アフガン戦争の場合は、時のタリバン政権が、ウサマ・ビン・ラディンの引き渡しを拒んだのが理由とされたわけですが、
タリバンは、「彼が911事件の犯人だと言うなら、証拠を見せよ」と言っただけでした。
2003年からのイラク戦争に至っては、「大量破壊兵器」をイラクが隠し持っていることを理由に全土が占領されましたが、
実際にイラクは、大量破壊兵器など持っていませんでした

しかもこの戦争の過程で、ものすごくたくさんの民間人が、「誤爆」の名の下に殺害されました
実際には、兵器産業と一体のものとしてあるアメリカ軍は、この二つの戦争で、核兵器をのぞくあらゆる兵器を使い、たくさんの「誤爆」を生み出したのでした。
新型兵器の見本市、と言われたほどでした。
ものすごく大量の爆弾、弾薬が使われました
しかも湾岸戦争以降、アメリカ軍は劣化ウラン弾も多用してきました。
劣化ウランがもたらす健康被害も、甚大にイラクや周辺国を襲っています。
湾岸戦争以降、そのイラクに、アメリカは国連を通じて、医療品をはじめとしたさまざまな物品の禁輸措置をとり続け、2003年に全面侵攻したのでした。


こうした大義なき戦争が繰り返されてきたこと。
あとになって、開戦理由が間違っていたことが判明してすら、誰も罰せられもしないあまりに酷いありさま
それでどうして、イスラムの人々の怒りが高まらない理由があるでしょうか
しかも、これらの戦争に、ヨーロッパ各国は度々追従しました。
もっとも熱心にアメリカを支持し、攻撃に参加したのはイギリスでした。
フランスは、イラク戦争には反対しましたが、アフガニスタンには攻め込みました。
これらすべての戦争行為が、多くの血気盛んな若者を、イスラムの武装闘争派に惹きつけてきたのではないでしょうか。

しかもアメリカは、これらの軍事戦闘の中で、常に最も強いのは、無慈悲に、良心の呵責なく人を殺すことであることを示してきました。
それが、アメリカ軍の強さでもありました。
例えば湾岸戦争の時、クウェートからイラクに逃げ戻る戦車や兵員輸送車などの車列を、アメリカ軍は後方から襲い、何万もの兵士を殺害しました。
戦闘ではなく、一方的なであったと言われています。
イラク軍は逃げ帰る途中だったのですから、殺害する必要などなかったのです。
しかもこのときイラクは、たくさんのクウェート人を人質にとったので、アメリカは攻撃をためらうだろうと考えたのですが、
そんなことはまったくおかまいなく、徹底した殺戮が行われました。
残虐さを見せつけるような攻撃でした。


軍事戦闘と言うものは、いや、そもそも暴力と言うものはですが、それを受けた側に、強烈な印象を刷りこみます
虐待を受けた子どもが、親になって虐待をしてしまいやすいように、意識下に暴力の凄さが刷りこまれ、同じ暴力に相手を誘う性質があるのです。
このため、あらゆる戦争において、やられた側はやった側を模倣する傾向を、強く持っています
しかも卑劣な攻撃ほど被害が甚大なため、コピーされやすい
こうして、やった側は多くの場合、同じ戦術で攻撃されることにもなります。
戦争の愚かさです。
その点でアメリカは、アフガンでもイラクでも、徹底的に無慈悲な攻撃を行うことで、無慈悲でなければ勝てないという思いを相手の側に作り出してしまってきたのです。

今、イラクとシリアで暴れている「イスラム国」についても、同じことが言えると思います。
この点で、参考になる記事が、NHKのウェブサイトに載ったのでご紹介します。
 
「イスラム国」指導者に迫る NHK NEWS web 1月6日 18時20分
http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2015_0106.html

記事の中でNHKは、謎の人物とされている「イスラム国」の指導者、アブバクル・バグダディに触れています。
それによると、この人物は、もともとはフセインのバース党(世俗主義)の党員で、穏健な人物だったそうです。
しかし、アメリカ軍のイラク進攻に対して武装抵抗し、アメリカ軍に補足されてクウェート国境の「キャンプ・ブッカ」に収容され、そこで「過激思想」に感化されたというのです。
NHKの記事では、これらのキャンプは、「まるで過激派の学校のようだった」とされています

しかし、見過ごしてはならないのは、アメリカ軍がイラク戦争当時、これらの収容施設の中で、さまざまな拷問を行ったことです。
アブグレイブ刑務所が有名ですが、キャンプブッカも、これと同様の施設でした。
例えば、受刑者に、大音響のロックを一日中聞かせるなど、精神崩壊を狙った行為が繰り返されました。
さまざまな性的拷問も行われました。
男性受刑者に、他の男性受刑者とのセックスを強要したり、女性看守が男性受刑者をもてあそんだりという蛮行が、繰り返されました。
女性受刑者に対するレイプや、子どもに対する性的虐待も行われました。
そのどこまでがアメリカ軍の正式作戦だったかは分かりませんが、このような人権のかけらもない収容者アメリカの姿こそが、多くの「穏健」で「世俗的」だった収容者を、「過激派」に変えていったと思われます。
だからこそ「キャンプ・ブッカ」は、「過激派の学校」になったのです。

まさにこれらの人々は、アメリカの理不尽な戦争を目撃し、その上で、監獄における極度の虐待を受けて、暴力的な思想に染まっていったのです。
残虐なアメリカ軍に抗う中で、残虐さを徹底的に刷りこまれてしまったのです。
イスラム国は、IT機器の操作などがうまく、英語の情報発信能力にも長けていると言われていますが、
そうした現代的なITスキルと、粗野な暴力性の同居のあり方に、アメリカ軍との強い親近性を、僕は感じます
その意味で、「イスラム国」の獰猛な暴力性も、イラク戦争におけるアメリカの理不尽さの中で生み出されたもの、と言わざるを得ないのです。

しかも、アメリカの主導する新自由主義が、さらに矛盾を拡大し、人々の怒りに火を注ぎ続けてきたことを、忘れてはなりません。
とくに資本主義のもとでも長い間、投機の対象にすることを避けられてきた食料品など、人々の生活に直結するさまざまなものまで、新自由主義はマネーゲームの対象にし始めました
この中で、アラブ諸国に、次々と大きな政変が起こりました。
西欧はこれを、「民主主義の進捗」「アラブの春」などと捉えましたが、僕の友人の国連職員は一言、「あれは食糧暴動だよ」と、怒りを込めて僕に指摘してくれました。

このように考えるならば、今回のフランスにおける新聞社へのまったく許しがたい暴力行為は、
そもそもこの間、アメリカにおける理不尽な軍事戦闘と、新自由主義における世界中の人々の生活破壊によってこそ、生み出しているものであることが分かります。
だからこそまた、イスラムへの信仰をもった過激主義者にも、僕は言いたいのです。
アメリカに屈するなと。
暴力に心を奪われるなと。
アメリカが行ってきたような理不尽な暴力を、自己解放の手段にしてはいけないと。
それではどんな解放も実現しないと。

そうすると必ず、こういう答えが返ってくるでしょう。
日本こそアメリカに屈しているではないか
アメリカに基地を貸し、アメリカの子分になっているではないか
自衛隊までだそうとしているではないか
おまえたちにとやかく言う資格はない」と。

そうなのです。
まさに日本は、そこに位置しているのです。
僕はこう言い返すでしょう。
「確かにそれはそうだけれども、僕はあくまで暴力に反対だ
とくに、アメリカの理不尽な暴力に反対だ
だから、あなたたちの殺人行為にも、全面的に反対なのだ
ただ、それを言う限り、僕はこの日本の地で、命をかけて、日本の戦争協力や参加を止めるために奮闘する」と。

こう返すしかない。
そうは思いませんか?
テロに屈しないことは、暴力思想に屈しないことです。
だとしたら、アメリカの暴力思想、連綿たる戦争犯罪こそが、真っ先に批判されなければならないのです。

フランスでは、数百万の人々が、今回の殺人事件を悼んでデモ行進をしました。
そこに、「テロに屈しない」というスローガンが、たくさん見られました。
そうです。
テロに屈してはいけない
だから私たちは、世界の中でもっとも大規模かつ卑劣なテロを繰り返し、たくさんのテロリストを養成してきたアメリカをこそ批判し
世界の人々に、「アメリカのテロを真似るな」と叫ばなければなりません
フランスの人々が、そのことにこそ目覚め、真の反暴力、平和の道を歩むことを、心から願いたいと思います。

***********************

フランス新聞社襲撃事件に触れながら、この数十年間、アメリカを中心とする大国が、アフガニスタンやイラクなどに、どれほどひどい暴力的な戦闘を仕掛けてきたのかを指摘してきました。
またその中で、「アルカイーダ」などの「過激派」は、もともとアメリカが育成してきたことも指摘しました。
今回の襲撃事件も、こうしたアメリカの残虐さを真似たものであり、だからこそ僕は、許してはならないと強く思います。
こうした殺人事件をなくすためには、もっとも大規模な殺人を繰り返しているアメリカを中心とした列強国の戦争政策をこそ、止めていく必要があります

その点でもう一つ、非常に大事なことは、パレスチナに繰り返し行われきた、残虐な大量殺人です。
大人も子どもの区別なく、居住地にミサイルを撃ち込む本当に非道な攻撃が、イスラエルによってこれまで何度も繰り返されてきました。
アメリカは、このイスラエルの殺人攻撃を最も強くバックアップし、かばい続けてきました。
「アメリカの中東の憲兵」と言われた、イランのパーレビ王政を失ってからは、なおさらでした。
アメリカは、イスラエルに加担しながら、中東への影響力を誇示してきたのでした。
アメリカの影響を受けた西側の多くのメディアは、イスラエルが人々が普通に暮らしている地域を一方的に攻撃しても、「テロ」とは言いません
いや、イスラエルがパレスチナの特定の誰かを殺した時も、テロとは言わずに「暗殺」などと言う
明らかに非合法的な殺人なので、「暗殺」と言いながら、「テロ」とだけは絶対に言わないのです。


理不尽きわまるこの殺人攻撃の指導者、昨年夏に、子どもたちを含む何千人もの命を奪った責任者であるイスラエルのネタニヤフ首相が
今回のフランスのデモで、オランドフランス大統領らと並んで行進していました
「テロ」に反対しているはずの、あのデモにおいてです。
どう考えたってこれはおかしい
昨年の夏、あれだけの、なんらの罪もない人々、多数の子どもを含む人々が、白昼堂々と、この首相のもとに次から次へと殺されていったというのに
フランスも、ドイツも、停めようとはしませんでした。
そうして今回、戦争犯罪人であるネタニヤフ首相が、デモに参加しているのです。
私たちは、こういう理不尽さをこそ批判し、覆していかなければなりません
表現の自由は、そのためにこそ行使されなくてはならない
そうでなければ、絶望した人々の武装反撃を、どうして止められるでしょうか

フランスの事件に胸を痛めているすべての方に
・今だからこそパレスチナに目を向けること、
・昨年夏の、イスラエルによる連続殺人を振り返ること、
・昨年夏だけではなく、長い間繰り返されてきた暴力の歴史を捉えること
を、強く訴えたいと思います。

そのための良い企画が、大阪と三重で行われるので、ご紹介します。
朗読劇・ガザ希望のメッセージです。
京都大学の岡真理さん演出・脚本で、友人たちで構成されている「国境なき朗読者たち」が出演します。
お近くの方はぜひご参加下さい。
また参加できない方も、ぜひホームページなどをご覧下さい。
パレスチナを身近に感じてこそ、本当の暴力反対、何としても平和を紡ぎ出す決意が沸いてきます。
みなさん。ぜひとも今、パレスチナに近づいてください!


朗読劇に興味を持たれた方はまずこのショートビデオを!
the Message from Gaza ガザ 希望のメッセージ


いくたび破壊と殺戮に見舞われようと それでも わたしたちは立ちあがる
いまだ訪れぬ 美しい明日を信じて・・・
今夏、またもや繰り返された破壊と殺戮  ガザのために・・・鎮魂の祈りを込めて
国境なき朗読者たちが いま贈る 魂の朗読

https://www.youtube.com/watch?v=Gmnbz-W8SK8

以下、朗読劇の案内を転載します。

*****

朗読集団 国境なき朗読者たち
<朗読劇>

2014年の夏、パレスチナのガザ地区は、イスラエルによる、言語を絶する大量破壊、大量殺戮に見舞われました
攻撃は51日間に及び、2200名もの命が奪われました。
その大半が民間人、500名以上が子どもです。
50万もの人々が、家を追われました。

ガザに対する大規模軍事攻撃は、これが初めてではありません。
6年前の2008年12月、ガザ地区全土に対し突如、イスラエル軍による一斉攻撃が始まりました
完全封鎖され、逃げ場のない150万の住民たちの頭上に、22日間にわたり、ミサイルや砲弾の雨が降り注いだのです。
世界がクリスマスの余韻に浸り、新年を祝っていたそのとき、ガザの人々は、一方的な殺戮と破壊にさらされていました…。
私たちの朗読劇「The Message from Gaza ガザ 希望のメッセージ」は、この出来事に対する応答として、2009年に誕生しました。

この朗読劇は、4つのテクストから構成されています。
一つ目は、空爆下のガザから連日連夜、世界にメールを発信し続けた、サイード・アブデルワーヘド教授の『ガザ通信』、
二つ目は、1972年、36歳の若さで爆殺された、パレスチナ人作家ガッサーン・カナファーニーの短編「ガザからの手紙」。
三つ目は、2003年、占領下のパレスチナ住民の人権擁護活動のため、ガザに赴いたアメリカ人女子大生レイチェル・コリーが、ガザからアメリカの家族に書き送ったメール、そして攻撃のさなか、ガザで活動を続けた「インターナショナルズ」と呼ばれる、世界の若者たちの証言です。

私たち、平和をめざす朗読集団「国境なき朗読者たち」は、この朗読劇を上演するため、つばめクラブのプロデュースにより、2009年、京都の市民・学生有志をメンバーに結成されました
以来、京都を中心に、広島、東京などで、上演を重ねてきました。
停戦になり、一時に大量に人が殺されるという事態がなくなると、マスメディアは報道しなくなります。
しかし、ガザでは依然、封鎖が続いています。
家を失った何十万もの人々が、瓦礫の中で、冬の寒さを耐え忍んでいます
「過ちは二度と繰り返しませんから」という、私たちの誓いをあざ笑うかのように、繰り返されるジェノサイド……。
いくたび破壊と殺戮に見舞われようと、生を愛し、「人間の側に踏みとどまり続け」ようとするガザの人々の闘い。
不正と暴力に抗するために、ガザと私たちを、「想像力」という人間の力によって架橋します
肉声を通して語られるガザの声に触れ、今もなお、完全封鎖のもとに置かれているガザへの思い、
そして、私たちが生きるこの世界への思いを、新たにしてください。

岡 真理(演出・脚本)
 



2015年2月1日 大阪公演
会場:
大阪ドーンセンター
時間:
1. 14:00 開演(13:10受付開始、13:30開場、15:45終演)
2. 18:00 開演(17:10受付開始、17:30開場、19:45終演)

2015年2月8日 津公演
会場:
津中央公民館ホール
時間:
1. 14:00 開演(13:10受付開始、13:30開場、15:45終演)

事前予約:1500円(障がいのある方及び介助の方・学生ー800円)
当日  :2000円(同1300円)

大阪/三重公演のチラシ>> ダウンロードしてお使いください。(表面裏面

重要⇒〇予約・お問合せ ※メール、またはお電話でお願いします。
大阪 080-5314-1539(つくい)、tsubamegekidan@gmail.com (つばめ劇団)
三重 059-229-3078(FAX兼)、090-1239-1410(宮西)、syashinten@za.ztv.ne.jp
    
制作:ふぇみん大阪、ガザ朗読劇三重公演実行委員会、つばめクラブ
協賛:市民社会フォーラム

国境なき朗読者たち ホームページ
http://readers-without-borders.org/
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