ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

人生これまた学びなり

2015年01月12日 | お家狂想曲
二階にある、洗面台と浴槽の間を人がひとり通るだけでキチキチの、とても小さな浴室の、壁と天井と浴槽とトイレと洗面台、すべて新しくしようと決心した。
60年近く前に、その時も多分、50年ぶりに改装されたはずのその浴室は、床がボロボロに剥げていて、古い琺瑯の浴槽も、アンティークの世界では喜ばれる代物かもしれないけれど、
染み込んだ汚れは磨いても取れず、水はけがとても悪く、おまけに巨大だったので、いったんお湯を張って入ると、掃除を終えるまでにとんでもなく長い時間がかかった。
旦那はかねがね、二階にある一室を診療のために使いたいと思っていて、だからその浴室のトイレは、家族と患者さんが使うことになるのだけれども、
とてもではないが、家族以外の人に使ってもらえるような様相ではなく、この家のどこの部屋よりも早く、きちんと改装したいと願っていた。

引っ越してきて5年。
息子たちの大学生活も終わり、長男に続き次男も独立してから3年が経ち、ようやくそういう家の修復に思いを馳せることができるようになった。
それでもまだ、一階の台所と浴室のような、大掛かりな改装に手をつけるまでには、相当な時間がかかるはず。
なので、その二階の浴槽をまず、日本のお風呂にできるだけ近いものにして、湯船に浸かるという至福の時間を取り戻したいと思った。

友人に、とても腕の良い建築デザイナーがいて、彼に図面を書いてもらいがてら、細々とした用具から浴槽まで、アドバイスをしてもらった。
日本の浴槽に一番近いものとして、ギリシャ式の浴槽がいいのではないかということになり、
それはこちらではとても珍しいものなので、少々値段が張ったのだけども、毎日の楽しみとして考えるならと、心臓をドキドキさせながら注文した。
届いた浴槽は、想像していたのよりもさらに小型で、わたしでさえも体操座りをしなければならない。
けれども深い。
顎あたりまでズブズブと浸かりながら、ハァ~ッと魂までもがとろけるような息を吐く自分を想像して、うっとり眺めた。

工事を依頼するにあたり、何件かの業者に部屋を見てもらい、予算を立ててもらった。
その額、上は200万円を超え、次に150万、120万、そして一番下が70万円。
工賃だけでそんな額になる。
そこに、新しい浴槽だのトイレだの洗面台だの電灯だの換気扇だのシャワーだの補助棒だのタオル掛けだの、そんなこんなの実費を足すと、
なんでこんな狭い部屋の改装に、こんな高額なお金を使わねばならないのか、唖然としてしまう数字が目の前に叩き出された。

70万の予算を言ってきたのがケビン。
でも、その時に彼は、「自分にはニューヨークのオリンピック招致プロジェクトの幹部としての仕事があり、だからここの仕事は週日の夕方から夜と週末しかできない」と言わなかった。
わたしはその時、「他のところに比べてどうしてこんなに安いのか」と聞いたが、「そんな金額はあり得ない」と言われて、やっぱりな、とぐらいしか考えなかった。

ケビンと契約を結び、町の役所からもゴーサインをもらい、やっと工事が始まった。
ちょうどその頃、空と海との出会いがあり、うちに引き取ることに決め、さらに生徒の発表会が間近に迫っていた。
工事は週日の夕方から夜、というのがわかり、とても驚いたが、仕方がない、だから安かったのかと納得した。
ただ、その日その日によって来る時間がまちまちで、さらに、電気工事や配管工事を受け持つ人間との連絡がちゃんとできてなくて、
来てもなんにもできなかったり、工程が前後して、取り付けたものをまた外したり剥がしたりしなければならなかったりした。
一番うんざりしたのは、来るからといって全く来ないまま、連絡も無いというのが何回も続いている配管工の態度。
そんなこんなで、わたしたちの腹の中には、50万から130万円、払わなくて済んだ額相当の、ストレスが溜まってきた。

そして…。

配管工のうっかりミスで発生した、大量の水漏れ事故が2回。
さらに、これはやった人が今だにわからないのだけれど、工事中に生じた瓦礫のクズや古釘が刺さったままの木片や大型掃除機を、新しい浴槽に放り込んだ人がいて、
もちろん浴槽には何筋もの傷がつき、だからまた、新たに注文した浴槽と取り替えてもらったのが1回。
そして、浴槽から立ち上がるのに使う手すりを、設計図を無視したのか、そこにしか取り付けられなかったのか、全く届かないところに取り付けてあるのをどうするか…。

タイルも、所々平らではない。
見えにくい所ならいいのだけれど、コンセントがペタンと取り付けられないぐらいにボコボコしていたりするので、かなり悲しい。
うちに来るのは、日中の正規の仕事をしてからだったり、本当はゆっくりと体を休めるべき週末だったりするので、疲れているだろうし、1日でも早く終えてしまいたいという気持ちはわかる。
けれども、いくら一番安い費用であるからといっても、仕事をするかぎりはきちんとしてもらいたいと、雇い主の方は思ってしまう。
そしてもちろん、我々の方も、こんな毎日は1日でも早く終わってほしい。

昨日、旦那とふたりで浴室に入り、どこまでは妥協できて、どのことは妥協できないか、あちこちを点検しながら話し合った。
若い頃、ペンキ塗りのバイト(仕事といってもよいかも)をしばらくしていた旦那は、雑な仕上げが目につき、とてもがっかりしていた。
浴槽には、あの事件以来、大きなカバーが掛けられてあったのだけども、そのカバーの上に脚立を置いて作業をしていたりしてたので、念のためにカバーをめくってみた。

そうしたら…嗚呼~…。


全部めくってみる。


こんなことをしている自分が、なんだかとてもいやらしい人間のように思えてきて、我ながら暗い気持ちになるのだけれど…。






作業工程がよほど組み立てにくいのか、それともこれが彼のスタイルなのか、どちらにせよ、行き当たりばったり的な感じがして、信用度が徐々に低下している。
これで、工事がすべて終わったら払うことになっている費用全額の残り半分が、結局は総額にすると100万を超えてたりしたら…。

人柄は、ほんとにいい人なんだけどなあ…。
ほんでもってわたしたちは、うるさいことを言わない注文者でいたいんだけどなあ…。
いい関係を保ちたい。けどもきちんとやってもらいたい。

こんなふうにウダウダと考えてしまう日を、一日でも少なくしたいのは山々なんだけども…。
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「日本国憲法はすでに〝死んでいる〟!?」ならば蘇生させよう、わたしたちの智と手と心で!

2015年01月11日 | 日本とわたし
文字起こししました。

戦後70年、日本国憲法はすでに”死んでいる”!?



玉川徹キャスター:
今年は戦後70年なんです。
ということで、そもそも日本国憲法は、すでに死んでいる!?のではないか、というふうなことで、
憲法はあります。
あるんだけども、死んでるんじゃないか、というふうな話。
日本国憲法を見つめていくと、この国の見えていなかった構造が見えてくるんじゃないか、
そういうふうなテーマになってます。

第三次安部内閣発足で、政権は〝憲法改定〟の方向性を、本気で考えているってことが、随所から伝わってきますね。
でも一方で、私たち国民は、憲法について本気で考えているだろうか?
政治家は「変えるよ」って言ってきてるけど、私たちはそれに対して、深い理解ができてるんだろうか?


今日はそこを考えてみたいというふうに思うんですが、それにあたって、今日はこちらの方、矢部さんという方が本を出しました。
「日本はなぜ、『基地』と『原発』を止められないのか」という本なんですけど、
『ダカーポ』という、新聞とか雑誌の所業者が選ぶ、今年(2014年)最高の本の第1位第1位、ベストワンになった本なんです。
それの著者なんですね、矢部さんていう方は。
で、矢部さんが、「日本国憲法は、もう死んでいる」というふうに、この本の中でも書いているということなんで、
いったいどういうことだろうということで、お話を伺ってきました。


<インタビュー>

玉川キャスター:
今の日本国憲法をめぐる問題、何が問題だというふうに考えていますか?

矢部宏治氏・「日本はなぜ『原発』と『基地』を止められないのか」著者:
今、〝改憲論議〟とか〝護憲論議〟とかありますけれども、それ以前に(日本国憲法は)機能していないんじゃないかっていうことを、私は今一番感じています。

玉川キャスター:
日本国憲法が機能してない?

矢部:
はい、一番わかりやすいのは、やっぱり沖縄なんですけれども、

ナレーション:
これは、去年(2014年)3月の、普天間基地に所属するヘリコプターとオスプレイの、訓練ルートを示した図です。
基地の南側、沖縄県民が暮らす住宅密集地の上空を、頻繁に飛行している一方、
米軍住宅が点在するエリアには、飛行していないことがわかります。


矢部:
アメリカ人の家の上は飛ばないんです。なぜか。
(米軍住宅に)落ちたら危ないからです。


玉川:
日本人の家の上に落ちても危ないのは一緒なんですよ。

矢部:
一緒なんだけれども、沖縄に住むアメリカ人は、アメリカ合衆国憲法によって人権が守られている訳です。
ところが、沖縄に住む日本人は、日本国憲法によってその人権は守られていない
それは全く、沖縄以外の場所も同じだということです。

玉川:
別に沖縄だけの問題じゃないんだと。

矢部:
そうです、全くない。

玉川:
憲法が私たちの生活を守る〝最後の防波堤〟のはずなんですよね。

矢部:
そうです。
ほんとは、国が横暴なことをしたときに、〝市民を守るのが憲法〟ですよね。
それが完全に機能していない
それが一番表れているのが、沖縄と福島というふうに思ってます。

ナレーション:
憲法は、私たちの生活を、〝指導者の勝手〟から守る最後の防波堤です。


そんな憲法が機能していない、と指摘する矢部氏。
では、それはいつから始まったのでしょうか?

矢部:
最初に言いたいのは、日本国憲法に関しては、それは誰が書いたんだと、
〝日本人が書いたのか〟それとも〝占領軍が書いたのか〟という議論がありますけれども、これはもう終わらせないといけない。
占領軍自身が、(憲法を書いた)3年後に、自分たちで本を書いて「自分たちが書きました」と、ちゃんと書いているんです。

玉川:
それは、GHQが出した本?

矢部:
GHQが出した本です。


「日本の政治的再編(Political Reorientation of Japan)1945年9月~1948年9月」 民政局編1949年刊という紺色の表紙の分厚い本。

ナレーション:
矢部氏が示す資料には、こう書かれています。

最高司令官(マッカーサー)が、新しい日本の憲法の基本と考える詳細な〝声明〟を用意させたこと。
その声明は、憲法草案の形で、日本政府に手渡されること。
そして日本政府は、その内容に最大限の考慮を払い、憲法改定の指針として用いるよう勧告されることを述べた。


つまり、〝憲法草案を日本政府に渡し、この内容に沿って憲法を改定するようGHQが求めた〟と書かれているのです。

〝GHQが書いた日本国憲法〟
この事実が、憲法を取り巻く状況に〝ねじれ〟を生んだのだと、矢部氏は指摘します。

矢部:
そこで、二つ重要なポイントがあって、
① 占領軍が密室で書いて、受け入れを強要した
② しかし、その内容は、当時の日本人には絶対書けない良いものだった

玉川:
どういうところが良いものだったんですか?

矢部:
人権を非常に保護する内容だった、ということです。
この二つが、非常にねじれている訳です。

右派の方は、GHQが書いたから、悪いものだから変えようと。その時は、人権を少なくする方で変えようとするわけです。
リベラル派の方は、内容はいいと、内容はいいから歴史的事実は議論しないで、全く手を触れないでこのまま行こうと。
そういうかたちが続いてきて、かみ合った議論というのが一切なされてこなかった



<スタジオ>

玉川:
僕もこの本を読んだんですが、一番膝を叩いたのが、ここのポイントなんです。
今まで、護憲派と改憲派というのはずっといて、闘いが続いてたというのはみなさんもご存知だと思うんですけど、
それを分析したのは、なるほどと思いました。



戦後の改憲派VS護憲派、闘いの背景には:

① 日本国憲法は事実としてGHQが書いた
② 当時の日本人には書けないような素晴らしい内容だった


上図の①を重要視する人は、改憲派という人です。
つまり、日本人が書いたんじゃない、押しつけの憲法だから、日本人が書き変えなきゃいけない。
ところが、書き変えなきゃいけないという人たちは、どちらかというと、人権をもうちょっと後退させる方向で変えたいという人が多かったわけですね。
そうすると、そうだったら一歩も触れさせない方がいいじゃないか、いいものなんだからと。
で、その人たちは、いや、アメリカが書いたんじゃない、日本人も一緒に入って書いてるんだっていうことを、主張してたわけですよ。
だから、この(①と②の)闘いなんですね。


でも、選択肢はこの二つだけではないはずなんです。
『変える・変えない』以外に、『良く変える』という方法だってあったはずなんです。
つまり、
人権をもっと確実にしよう
絶対に、戦争を日本から起こさないように、もっと解釈の余地のないくらいに憲法を変えましょう、
というふうな選択肢もあったはずだけど、この両者の対立でずっと続いてきてしまった、と、
いうふうなところが、戦後の憲法をめぐる状況だったというふうに、彼(矢部氏)は分析しているんです。
今の日本人全体の感覚としては、第③の選択肢ももしかしたら有り得るのかもしれないな、というふうには思うんですけど、
また、矢部さんは、9条が書かれた時は、9条っていうのは、別にお花畑でも理想論でも無かった、
というのは、9条で日本は戦力を持たないって決めたわけですよね。
ところが、同時に、この憲法が書かれた時には、国連軍を作るっていう構想があったんです。
この国連軍は、当時の連合国が軍隊を出し合って、不埒な所があったら国連軍が抑えましょうと。
だから、日本には軍隊が無くても、国連軍が代わりをしましょうと、そういうふうな構想があったそうなんです。
そうやって書かれた憲法。
しかし、現実は冷戦が起きて、国連軍はできなかったわけですね。
そうすると、当時の日本の指導者(というか権力者たち)は、共産化するのが嫌だった、
ソ連がやってきて、共産主義の国になっちゃうと、権力持ってる人たちは、殺されちゃう可能性すらあったから、共産化が嫌だった。
だからそれを守るためには、国連軍が無いんだったら米軍にいてもらわなきゃいけない。
ということで、米軍の駐留が始まるわけですけれども、そのまま続くっていうかたちになるわけですけど、
そうすると、矛盾が出るわけですよ。
日本国憲法に『戦力は持たない』と書いてるのに、米軍がいるじゃないか、と。
それがまさに、『砂川裁判』というところに(憲法の矛盾の顕在化が)出てくるわけです。

『砂川事件』


<VTR>

ナレーション:
矢部氏が指摘する『日本国憲法が死んだ日』、それは昭和34年(1959年)12月16日です。
その日、いったい何が起きたのでしょうか?

矢部:
結局それ(米軍)は、世界最大の攻撃力を持つ軍隊ですから、普通に考えると憲法9条2項違反なわけです。

玉川:
〝戦力の不保持〟ということに。

矢部:
完全に違反している。

玉川:
日本の中に戦力がいるじゃないかと。

矢部:
結局それが、1959年の「砂川裁判」で、その矛盾を覆い隠すために、
「日米安保条約」のような高度の政治判断を要する問題については、憲法判断をしない、という最高裁判決が生まれてしまった。

ナレーション:
砂川事件(1957年7月)とは、米軍旧立川基地拡張工事に反対するデモ隊が、無許可で米軍の敷地内に侵入したとして、7人が起訴された事件です。



一審の東京地裁{1959年3月}では、米軍の駐留自体を違憲とし、。7人には無罪の判決が下されました。

しかし、最高裁{1959年12月}では、「日米安保条約のような高度に政治的な問題は、司法の判断になじまない」と、憲法判断を回避。
結局、7人は有罪となりました。

この最高裁判決が下された瞬間こそ、〝日本国憲法が死んだ瞬間〟だと、矢部氏は指摘します。


玉川;
〝憲法がそこで死んだ〟といっても、意味がちょっとわからないと思うんですけど、それってどういう意味なんですか?

矢部:
そもそも、条約というのは、日本の普通の法律よりも強いわけです。
国内法よりも、他の国との約束が上なんですね。


日米安保条約のような条約を結んだら、普通の法律は、一部変更されたり特別法ができたりするんですけれども、
そういう条約によって、国民の人権が侵害されたら
それはこの憲法が機能して、これ(人権侵害)に歯止めをかけないといけないわけですね。
これが普通の法治国家なんです。


ところが、この(砂川事件の)最高裁判決によって、安保に関する条約は憲法判断をしない、としたわけですから、 
その安保に関する条約は、日本の国内法、憲法を含むよりも上位だと。
日本という国の憲法の体系よりも、安保に関する法体系の方が強い、というかたちが、これで確定してしまうわけです。

玉川:
だから、憲法はあるんだけど働いてない状態が、

矢部:
機能不全に陥ってしまった、ということです。


<スタジオ>



条約と国内法では、一般的に法学者の間では、条約の方が上だと。
要するに、国内の法律よりも外国との約束の方が優先される、というのが、一般的な法理論なんだそうです。
国内法より条約が上。
日本国憲法でも、これは日本の最高法規だ、と書かれているわけです。
だから、これはトップにいなきゃいけないわけです。
だから、仮に、この条約を結んだことによって国内法が変わった、例えば、日米安保条約で、日本の家の上をバンバン飛行機が飛んだとしても、
それは、国内法違反ではあるけれども、条約上しょうがないんだっていう話ではあるんだけど、
でも、それで人権が侵害されたら、憲法で、それは憲法違反だからということで変えることができる。
これが、普通の立憲主義って言われてるものなんですね。

ところが、日本では、『砂川裁判』で、判断しないって言ったわけですよ、裁判所(最高裁)が、憲法判断しない。
じゃ、これ(憲法)、無いのといっしょだから、そうすると、ただ単に、国内法よりも安保条約の方が上になっちゃう。
ということで、もう止める方法が無い、いくら人権が侵害されたとしても。
これじゃ憲法は死んでるのといっしょでしょ、という話なんですけども、

まあ、ここを聞くと、でも私、身近に関係無いわと、いうふうに思われる方もいるかもしれないんですけども、
じゃあ実際に、今の状態で悪いんですか?というと、今も多くの人が苦しんでいます、という話を次にお伝えします。


<VTR>

玉川:
憲法が機能停止しているとしても、多くの日本人は、
「でも別に、私たちの生活に影響ないわ」って思う人が、けっこう多いと思うんですけど。

矢部:
例えば、沖縄を中心に、基地による騒音被害はものすごくあるわけです。
爆音はもう、本当に健康に影響を与えるぐらいの大きな音がしますから。
それを裁判でやっても、健康被害があるということは認めるけど、(米軍機の)飛行の差し止めはしないわけです。
そういう矛盾した判決が出てしまう。

ナレーション:
これまで、在日米軍基地をめぐっては、横田基地や厚木基地などで、騒音訴訟が繰り返されてきました。
国は、騒音による被害は認めたものの、米軍機の夜間・早朝の飛行差し止めなどについては、すべて訴えを棄却、ないし却下してきました。


その背後には、砂川事件の判例があるのです。

さらに矢部氏は、〝現状の日本は、占領下となんら変わらない〟と主張します。

玉川:
国連軍はできなかったわけですよね。
で、米軍に代わりをやってもらおう、ということになったんですが、
それで「何か問題あるんですか」と思う人もいると思うんですが、

矢部:
一言でいうと、それによって、占領状態が継続したわけですね、軍事的にはね。

玉川;
いまだに占領状態と一緒だ、ということですか?

矢部:
そういうことです。

玉川:
ちょっと大げさじゃないんですか?

矢部:
それが全然大げさじゃない。
というのは、アメリカ側の、ものすごくしっかりした公文書ってのがあって、



<ナレーション>
戦後70年、日本はいまだ占領下にあると、矢部氏は指摘しています。
その証拠が、アメリカの公文書に残されているといいます。


日米間が交わした公文書に詳しい、ジャーナリスト・吉田敏浩氏は…。

玉川:
70年前には日本が戦争に負けて、米軍に占領されるという状況があったわけですよね。
これ、本当に過去の話と言えるのかってことなんですが、これいかがですか?

吉田:
決して過去の話ではない、と思います。
アメリカ軍が、自由に訓練をしたり、基地を使っていると、
そういった事実上の、治外法権といえる特権を、ずっと占領期と同じように保持しているというのが、実態なんですね。

玉川:
それはなぜわかるんですか?

吉田:
アメリカで、30年経って情報開示された『解禁秘密文書の中に書かれている』からです。

玉川:
どういうふうなことが書いてあるんですか?

吉田:
それは、1957年の在日アメリカ大使館から、アメリカの国務省への報告なんですが、
・新しい基地を造る時に、どのように使うかという要件は、アメリカ側が決める
・アメリカは自由に、日本の全国どこでも訓練ができる

というようなことが、保障されている内容が書かれているんですね。

ナレーション:
これは、1957年2月に、日本のアメリカ大使館からアメリカ国務省宛てに送られた、秘密報告書です。


中には、
『安保条約のもとでは、日本政府といかなる相談も無しに、米軍を使うことができる』

『行政協定のもとでは、新しい基地についての条件を決める権利も、現存する基地を保持し続ける権利も、米国の判断にゆだねられている』
と記されています。

さらにこの約束は、1960年の安保改定を超え、いま現在も生き残っているといいます。


吉田:
60年安保改定の時は変えたんですが、その裏で
当時の岸政権とアメリカの政権の間で、
占領時代と同じ、旧安保条約とも同じ、アメリカ軍の基地の自由使用、自由に活動するという特権は継続する、という日米の密約が、実は結ばれていた
んですね。




ナレーション:
日米間の密約の存在を示す、〝もう一つの秘密文書〟
そこに書かれていたこととはー

アメリカで公開されている、もう一つの秘密文書。
1960年に、安保条約が改定された際、取り交わされたこの書類には、
〝これまでのアメリカの特権的地位は、変わることなく続く〟と、占領期の権利を継続する密約が書かれています


つまり、実質的には、
戦後するの占領状況と、何も変わっていないことを表しているのです。



玉川:
憲法が今生きていないということは、理解できたんですけど、どういうふうな不利益が日本人に今有り、これから有り得るんですか?

吉田:
安保ですとか原子力ですとか、アメリカと条約を結んでいるジャンルに関しては、全く憲法が機能しない。
そのジャンルで国民の人権が侵害されても、自分たちはそれをとどめる方法がもう無い。



<スタジオ>

玉川:
というのが現実だと。
占領期と同じ状況が、今でも権利的には続いていると。
え?っていうふうに思われるかもしれないけど、どこの独立国の首都圏の上空の管制が、他国の軍隊にすべて握られてるっていう国、ありますかっていう話なんですよね。
それひとつとってみても、わかるんじゃないですか。
一番中枢ですよ、首都圏っていうのは。
その上空は、米軍が今でも管制やってんですよ。


<むすび>

憲法がないがしろにされるのは、
憲法が生きていないから
だったのではないか


玉川:
拡大解釈、拡大解釈、ずっとしてきたわけです、安全保障分野では。
で、さらに去年もその、拡大解釈が行われたわけだけども、それは結局、最高裁も含めて、憲法を機能停止させてるんだから、
ないがしろにしたって、国全体としてそういうふうなことなんじゃないかと、いうふうにすら思えてくるんですが、いかがですか。



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2015年01月10日 | ひとりごと
ただいまマイナス9℃、堂々たる冷えっぷりです。
空はきっぱりと晴れています。



それでもこの気温はまだ暖かな方で、おとといの木曜日の夜は、マイナス15℃まで下がりました。
その一番冷え込んだ日の夜の8時ごろ、近くのモールの中にあるアップルストアに、デスクトップのコンピューターを担いで出向いて行かなければなりませんでした。

デスクトップの、毎日数時間は必ず使っているパソコンが、いきなりダメになってしまったからです。

その朝、アップルの方から、ヨセミテという新しいシステムをインストールしませんか?というお知らせが届きました。
今のパソコンは、ちょうど2年前に購入したものなので、そういう新しいシステムにも対応できるだろうと、インストールボタンをクリックしました。
そしてインストールが始まったのですが、作業が終了できませんという知らせが画面に出て、そのままフリーズ。
後ろのスィッチで強制終了をし、その後またスィッチを入れても、同じ画面しか出てきません。
うーん、これはどうしたものかと困り果て、トラブルシューターのチャットで相談してみました。
相手から言われる通りの作業をしても埒があかないので、アップル店のジーニアスカウンターという、たいていのことなら直してくれるスタッフに予約を取り、診てもらうことにしました。

こちらに引っ越してから15年、Macのコンピューターはわたしの大親友です。
日本に居た時は全くといっていいほど、パソコンに縁も興味も無かったのですが、
9.11を目撃してしまったショックを癒そうと、セラピーのようなつもりで、当時まだ中学生になったところの息子たちに宛てた手紙を書き始めたことから、パソコンとの親密な付き合いが始まりました。

毎日書き物をしたり、ニュースを何紙も読み比べたり、そして小説もどきのような話を書き始めたことがきっかけでこのブログも書くようになり、
今では家族の中の誰よりも(コンピューターエンジニアの長男を除いて)、パソコンの前に座っている時間が長いかもしれません。
その割には、パソコンに対する知識が希薄で、トラブっては相談する息子たちには、
「それだけ使ってて、そんな程度の知識しかないっちゅうのはどういうこと?」などと呆れられて…でもだからといって学ぶことも無く…。

再三、いつ何時、何が起こるかわからないから、写真とブログと音楽だけは、とにかくバックアップしとくべきと言われていたのに、
この新しい(といっても、2年前に購入したものですが)パソコンには、古い方のパソコンからのデータも全部移動させてあったのに、
だから、もしものことが起こったら嫌だな~などと、ふと心配になってはまた忘れ、未だバックアップをしていないままのパソコンに…その事件は起こったのでした。

でも、ジーニアスやもんな。多分なんとかしてくれる、今までのように。
しかも、今回の件はそもそも、アップル社の方からのお勧めやったんやし。
それに従うて作業しただけやったんやし。

カウンターに座って1時間半。
対応してくれた男性スタッフも、いろいろと頑張ってくれたのですが、蘇ってはくれませんでした。

「どうしてもデータを失いたくないという場合は、専門機関に依頼する方法があるけども、1000ドル以上はかかります。
前の古いパソコンに残ってるデータだけでもいいから戻したい場合はここで、費用は100ドルでできます。
でも、今回のこの故障は、理由が見当たらないとても奇妙なものなので、初期化するしかないと思います。
データは全部消えますが、どうしますか」

なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?

ずっとこの言葉が頭の中をぐるぐるぐるぐる回っていました。
バックアップしてなかったわたしが悪い。
それはその通りなのだけれども、でもそれでもやっぱりなんで?と思う気持ちが離れません。
写真と作曲データと録音を戻すためだけに1000ドル。
ブログは、gooさんの有料システムのおかげで、データは保存されている。
でも、ブログに載っけてない写真と、息子たちのために作ったアルバムと、作曲途中の音源と演奏録音は消える。

「どうしますか?いったん家に戻って考えますか?」
「初期化…」
「え?」
「初期化してください」

初期化の作業を見つめているうちに、どうしようもなく悲しくなって、フェイスブックにこう書き込みました。
『今、アップルストアにきています。
ジーニアスカウンターに座って、自分のコンピューターのデータがぜーんぶ消されていくのを惘然と眺めています。
バックアップしなくてはいけない、明日は絶対しよう、と思っては忘れ、また思っては忘れてして、結局しないまま、
今朝、Yosemiteという新しいシステムをインストールしようとしたらいきなり…。
ショーティの最期の姿や、いろんな旅行の思い出が…。
自分の油断を呪いながら、ぼんやりと待っています』

するとすぐに、何人かの友だちから、温かな励ましや同情の言葉が入り、パソコンに精通している友人からは、親切で丁寧でわかりやすい提言をもらいました。

ありがたくてありがたくて、涙が出そうになりました。
空になってしまったパソコンを抱え、また車に戻り、深呼吸の白い息を何度か吐き、ショーティの名前を一回呼んで、車を発車させました。

わたしは、自分が子どもだった頃の写真がほとんどありません。
親の倒産や借金の取り立てに遭い、時には家具の引き出しの中に入ったまま持ち去られたり、捨てられたりして、一冊のアルバムも残りませんでした。
いつもはほとんどそんなことは忘れているのですが、何年かに一度、消えてしまったたくさんの写真に、想いを馳せることがあります。
そんな時、寂しい思いで胸の中がいっぱいにならないよう、こんなふうに考えるようになりました。

写真は、この世からさよならするまでの間の、とても個人的な楽しみ。
だから死ぬ前に(もちろんそんな余裕がある死に方ができた場合に限りますが)、写真はすべて処理することになる。
そうならば、写真を持たないわたしには、そういう手間をかけなくても済むではないか。
ひとつでも思い煩うことが少なく死んでいけるなら、それはそれでいいではないか。

その反動か、息子たちが幼児だった頃、カメラを買うお金が無かったわたしは、それでもなんとかして撮り残しておきたくて、
安売りのコンパクトカメラ(この名前が前は『バカチョンカメラ』と呼ばれていて、わたしも何の気無しにそう呼んでいましたが、この名前を聞くたびに傷ついていた人がいたことに気付きもしませんでした)を購入して、よく写したものです。
なので、息子たちの写真は、とてもたくさんあります。
でも、当の息子たちがその写真を眺めることは、滅多にありません。
あまりにもどうでも良さそうなので、二十歳の誕生日にかこつけて記念アルバムを作り、押し付けてやったりしました。
あ、でも、次男のアルバムはずっと遅れて、去年の、もう26歳になってしまった誕生日にプレゼントしたのでした…ごめんよ。

そんなだから多分、彼らの写真は、今後もずっとお蔵入り、ということになるのかもしれません。
彼らがもっともっと歳を取り、昔のことを思い出したくなるような時が来たら、もしかしたら箱の中からごそごそ取り出して、見たりすることがあるかもしれません。

今のデスクトップのパソコンを使うようになってからちょうど2年。
相棒のサラと、何度も何度も撮り直した練習録音も、新しい曲の音源も、すべて消えてしまいました。
その2年の間に撮った写真は、このブログの記事に載せたもの以外はすべて、消えてしまいました。
家族と行った旅行の思い出やショーティとの毎日、特に最期の2週間の、それはそれは濃密で悲しい愛しい思い出を、わたしは消してしまいました。

もう二度と目で見ることができないそれらの写真を今、目を閉じて、心のスクリーンに映し出しています。


さて、新年の『小確幸』(小さくでも確実な幸せ・村上春樹氏の造語)。


すっかり食べきってしまった黒豆の残り汁に、やき餅をつけて…。
う~ん、しゃ~わせ!

大鍋いっぱいに煮たので、まだまだ次がございます。


さあ、元気出そう!
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「それをやったらダメだということがわかったのに、それをやるという方向で安全基準は出来ている」?!

2015年01月07日 | 日本とわたし
それをやったらダメだということがわかったのに、それをやるという方向で、安全基準は出来ている

などという、とんでもない恐ろしい話を聞いたので、これはもう、どうあってもお知らせしなくては!と思い、
朝っぱらからヘッドホンをつけて、気持ちは焦るのに動作がノロいわたしは、イライラしながら文字起こしの作業をしておりました。
半分ぐらいを終え、脳ミソがぼわーんと痺れた感じがしたので、ちょっと休憩してお茶を飲もうと立ち上がった時、
ふと、もしかしたら…と、きーこさんのブログを覗いてみたら…。

あ、やっぱり…。

ということで、再々の転載と、文字起こしのサボりを申し訳なく思いつつ、膨大な量を文字起こししてくださったきーこさんへの感謝と尊敬の念を捧げつつ、
ここに転載させていただきます。

それにしても、こんないい加減なことを考える政府と企業と関係機関が、世界最高の基準だの、万全だの、安全だのと言っているのを、
わたしたちはもう、許してる場合ではないと思いませんか?
ほんとに、全国をあげて、いい加減にせんかっ!と拳をふり上げて怒らなければならないのではありませんか?

↓以下、転載はじめ

<もう騙されない>
東京電力記者会見の今・原発再稼働・アンダーコントロール・2号機の謎
 
おしどり・木野龍逸
12/31報道するラジオ
(きーこさんの文字起こし)

http://kiikochan.blog136.fc2.com/blog-entry-4045.html


報道するラジオ年末特番
『もう、だまされないぞ!2014』
2014年12月31日

ジャーナリスト・木野龍逸
夫婦漫才師・おしどり

文字起こし部分のYoutube
http://youtu.be/tKn3AelBRBg?t=1m26s

水野:
木野龍逸さん、おしどりケンさんマコさんは、もうずーっと、東日本大震災から3年9ヶ月ですね。
東電、そして原子力規制委員会、福島県の会見、そして情報発信をウオッチし続けて下さっております。
そんなお三人に、いろんなことを聞いていこうと思います。


情報を出さない東京電力
3:08

水野:
本当のところ、最近の東京電力の会見に出ている人って、どのくらいいはるんですか?

マコ:
もう、激減しました
10人以下で、質問する人もほとんどいないというのが多くて、
で、この間、衆議院議員選挙が終わりまして、大きい選挙が終わった後って、東京電力は嫌な大きいニュースを出してくるんですけど、
この間12月の衆議院選挙が終わった後出てきたニュースは、
2011年の3月4月事故直後に、現場にいた作業員の方達の手書きのメモだったり、ホワイトボードに書いたいろんな数値、プラントの圧力とか温度とか、
今まで発表されていないものが、選挙の翌日にまとめて出しまして


水野:
選挙の翌日ですか?

ケン:
ビックリしました、ね。

マコ:
それでよくよく聞いたら、今まで国会事故報告書であったり、政府事故報告書であったり、原発事故のまとめは出てきているんですけど、

水野:
出てますよね、

マコ:
そこに提出されていないものもあるんですって。

水野:
エッ!提出されていないものが、あれ、事故報告書って出てたんですか?

マコ:
そうです、新たにまた数値が出てきて

ケン:
結構な量がありましたよ、僕コピーしに行ったんですけど。

マコ:
それを、インターネットに公開でもなく、記者会見で配布するのでもなく

水野:
ヘッ?

マコ:
東京電力のビルの中に、図書室みたいな情報公開コーナーっていうのがあるんですけど、
そこに置いておきますので、欲しい人は見に来てください、コピーしに来てください


水野:
東京電力の図書室まで行かなきゃ見られませんの?
インターネットで見られませんの?!

マコ:
膨大な量があるんですけれども見られなくて、それでビックリして、
私たちはその翌日、浅草で舞台があったんですけど、早起きして、東京電力の図書室みたいなところに一番乗りで行って、ずっとコピーし続けたんですけど、

水野:
何枚ぐらいあるんですか?

ケン:
その時に出たのは、その新しいものは1枚なんですよ、DVD1枚なんですけど、

マコ:
DVDなので、紙の量にしたら膨大な量なんですね。

水野:
えーーっ!

マコ:
で、ビックリするのが、他にどのメディアも来なかったということです。

水野:
あら、それが一番ビックリしますね。

ケン:
それから来ているかもしれませんけれども、僕らが行っている間は会わなかったね、誰にも。

マコ:
2時間ぐらい、誰もその情報を取りに来なかった、っていうのが一番驚きました。
焦って行ったんですけど、ね。

平野:
中身はどうだったんですか?

マコ:
中身はやっぱり、事故直後の1号機から4号機、5号機、6号機までの使用済み燃料プールの温度だったり、炉の圧力であったり、
今その膨大な量は、エクセルに打ち込んでグラフにしている
んですけど、

水野:
そこまでやってはんのやな。

平野:
だけど、本来これは、事故直後に出しておかなければダメなものですね。

水野:
で、今まで出さなかった訳というのは、会見では言ったんですか?

マコ:
整理をするのに手間取っていた」と。

水野:
「整理」って、あんた…。

木野:
基本的には、出すものは自分たちで選んで出して
要するに、「必要がない」って自分たちで思えば出さないみたいな、ということがありますね。

水野:
これはいまだに、「全部を出さなければいけない」というような、何か法律とか、何か縛りは無いんですか?

マコ:
無いんです。
出てこない情報はたくさんあります。
今現在進行形でも。


木野:
自分たちで出すものを選んで出している状態なんで。

水野:
「出せ」っていうんじゃなくて、「自分たちが今これを出したいです」から出すっていうペースは、今もずっと変わっていないままなんですか?

木野:
変わっていないですね。

マコ:
変わってないですね。

水野:
そこで、例えば会見で出してきたら、
「なんで今まで出さないんだー!」って言って、記者たちが怒号を上げるような姿は、

マコ:
もう、今はないですね、ほぼ
ちょっと前まではあったんですけど、今は無くなったよね。

ケン:
無くなった。

水野:
あら、無くなりましたの。
じゃ、今回も「あ、そうですか、出たんですか」っていうので、シーンとして終わっているんですか。

マコ:
そうですね、2~3質問が出て、
「これは初めて出てきた情報ですか?」
「初めてです」
というやりとりはあったんですけど、なんかそれぐらいで。
すごく突っ込んでいた記者さんが、その情報を取りに来られるかなと思っていたんですけど、来られなかったんで、あれ?っていう感じだったよね。

平野:
関心が薄くなるのは、東電側の思惑通りかもわかりませんね。
そもそもテレビ映像、第一に、吉田所長がいた時のやりとりを、全部出していないですよね。

マコ:
出してない。

平野:
一番大事なところをね。

マコ:
そうです。
4月11日までしか出ていません
それ以降も、随時整理がつき次第出していくということで、記者会見でことあるごとに、
「なんでその後半を出さないんだ」って言っているんですけど、
「まだ準備中です」ということで、
見たがる記者ももうほぼ居ないんですよ。

水野:
見たがる記者が、そういう意味でも「情報をきちんと出せ」って言わないと、余計に出さない状況が続いてしまうかもしれませんよね。

ケン:
そうなんですよ。
なんか最初は、質問したら、答もなんとか調べて返ってくる時もあったんですけど、
今は質問してもね、「答えません」みたいな答えが返ってくる時がありますよ。

マコ:
そうなんです。
今まで過去に東京電力が出していない情報で、規制庁にも追求されていないことは、新たに記者会見で出さないということになりました

水野:
んんーーーー!
「出さない」という答弁がまかり通っているんですか!?

マコ:
はい。

水野:
木野さんはどう感じていますか、最近の状況を?

木野:
事故直後も確かにひどかったんですけれども、一時期少し前向きになって、でもまた元に戻ったというか、
それよりちょっとひどくなった
かな、と。

マコ:
ひどくなった

水野:
なんで今、そんなひどくなっているというのはなんでなんでしょう?

木野:
確かに関心が薄くなったり、そういうのがあると思います。

水野:
国民世論ですかね?

木野:
で、東電にしてみれば、当然新しい情報は出さないほうが、自分たちには都合がいいですから。
事故の原因も、もちろんわかっていないこともいっぱいありますけれども、分からないことは分からないままにしたほうが、彼らも都合がいいですし、
そこにあえて自分たちから火をつける必要はないわけですよね。
それに対して誰も何も言わないと、やっぱりやりますね。

水野:
なるほど。
今そんなふうに情報が出てこない状況になっている中で、今日は、ずっとウオッチして下さっているこの3人の言葉は、ものすごく重たいと思います。


http://youtu.be/tKn3AelBRBg?t=12m27s

騙されないで~原発再稼働

水野:
それぞれちょっと伺っていいですか?
木野さんは、国民が今、どんなことに騙されている、あるいは木野さん自身も騙されたと思ってらっしゃるか。
どうですか?

木野:
もうなんか、ありとあらゆる事が、というふうにしか言えないんですけど、
その中でも、再稼動に関してはやっぱり、「ちょっとどうなのかな」というのはありますね。

水野:
今年(2014年)はもう、原発再稼働に向けて大きく動き出した一年でしたよね。

木野:
やってくるだろうなとは思っていたんですけれども、ここまで巻き返しが速いかなと、ちょっとビックリしましたけど。

水野:
もう来年(2015年)の春に、川内原発再稼働へということで、

木野:
動かしたい、みたいな話をしてますね。

水野:
着々と進んでいるようですね。
で、その後も「高浜原発、四国の伊方原発と続くんじゃないか」という話ですよね。

木野:
話はしてますね。

水野:
聞こえてくるというのは、やっぱり取材していて、そういう歩みの速さっていうのは、着実に進んでいると感じられますか?

木野:
と、思いますね。
で、結局その裏に、さっきもお話がありましたけど、「日本の規制は世界一安全」とかですね、
「安全」と言ったかと思えば、規制委員会の方では「安全と言った覚えはない」みたいな
あちこちで違う話をしつつ、その規制基準に対しても、例えば新潟県の泉田知事は
「避難計画に対して何も考えていない。そこが抜けたようなものは何の意味もない」みたいな言い方もしていますし、
その辺を含めて、きちんと整理ができてないし、いい加減なことをなんか言われ続けているなっていうのは、ずっと感じますね。

水野:
避難計画は、川内原発についても、多々疑問が呈されていますが、

木野:
もう全然、ですよね。

水野:
それ(避難計画)と再稼動の判断は別

木野:
別ですから、「私たちには関係ない」って言ってますからね。


騙されないで~アンダーコントロール

水野:
ああ。
さぁ、おしどりケンさんマコさんは、どんなことを騙されているって感じますか?

マコ:
そうですね、私もいっぱいあるんですけど、さっきリスナーの方がおっしゃっていたアンダーコントロール
あれはね、盛り上がったんですよ記者会見が。

ケン:
次の日ね

水野:
東電の記者会見?

マコ:
そうです。
ブエノスアイレスでのIOC総会で、安倍総理が発言された翌日に、月曜日に東京電力の記者会見がありまして、
もう、記者は総ツッコミですよ。
なんでか?というと、東京電力が、海の海水をずっと測定しているんですけど、毎日。
でも、汚染水が敷地内から汚染水が流れ出ていれば、海のセシウムや全ベータという各種の値は上がるんですね。

水野:
それはそうでしょ

マコ:
上昇しているので、汚染水はコントロールされていないでしょ?
というふうに、総ツッコミだったんです。
で、東京電力の回答が面白くって、
東京電力といたしましても、総理のご発言のご趣旨を国に確認いたしました」って言ったんです。
だから東京電力もビックリして、「なんでそんなこと言ったんですか?」

水野:
アンダーコントロール、エッ!そんなこと聞いてないよ、みたいな

マコ:
で、「問い合わせた」っていうんですよ。
それで問い合わせた結果、
東京電力としても、影響は少ないと考えているので、趣旨とは離れていないと考えています

「汚染水が出ていない」とは、とてもじゃないけど言えないんですよね。
毎日海水を自分で測っているので、東京電力が。
汚染水が出ているっていう証拠は、東京電力自身が日々出し続けているので、ということで困っていました。
だから、ま、本当にアンダーコントロール、ブロックはされていないんですよね。

平野:
これはいまだに、1日350トンを、どんどん出ているわけですよね、処理に困って。
もう今は、海に放出してもいいんじゃないか、という話も出てますよね。

マコ:
出てます。
本当にもう、今年の夏ぐらいからまた私が、ちなみに、原発事故の後エクセルを覚えて、グラフにしていっているんですけど、
今年の夏以降、各地の海水の測定というのを、トリチウムとかいろんな核種の測定結果が急上昇していて
汚染水がかなりの量出ているか、濃いまま出てるかになっている
んですね。
にもかかわらず、去年まで原子力規制庁の方で、汚染水対策ワーキンググループというのがあったんですけど、
それが今はもう無いので、規制する担当部署が無いんですよ。

水野:
規制する担当部署が無いの?!

マコ:
無いんです。

ケン:
勝手にそんなね、コロコロコロコロ変えてね。

マコ:
一応、監視評価検討会で見ている、と言ってるんですけど、
この間、規制庁に、
「この汚染水の海水の放射能濃度が上がっているというのは、どこで見ているんですか?」(と尋ねたところ)、
「まあ、中で見ているところがあるでしょう」って言われて…だったので、もうかなり驚いてしまって。
汚染水が海に、多分今年の夏以降、ちょっと量がたくさん流れ込んでいるっていう状況なんですね、測定点から見ても。
でも、それを報道するところも調べるところもない、というのがまず一点と、


2号機が、一番多く放射性物質を放出した理由

マコ:
再稼動がどんどん進んでいく中で、1個ビックリしたことが、
今年の夏に、未確認未解明事項というのを、54件ぐらいあるんですけれど、原発事故の

水野:
そんなにあるんですか、未確認未解明

マコ:
そのうち10件がすごく重要で、研究課題として取り上げられていて、
そのうち4つが、「大体こんな事じゃないかな」って今年の夏に出てきたんですよ。
ま、少ないけれど、54のうちの4なので。
その中の一つに、
1号機2号機3号機のうち、「なぜ2号機が爆発していないのに、たくさん放射性物質を放出したのか?」
1と3は大きく爆発しましたけど、2号機は爆発していないのに、たくさん出したんですよ。
で、それがなんでなのか?
それでちょっと遠く、1km離れたところで、中性子線をたくさん観測したんですけれど、
それもなぜなのか?ということのヒントになることが出てきて、
それはこのあいだ、12月に、NHKで少しやってたんですけど、
燃料棒が露出して熱くなると、原子炉の中に水を入れて冷やすんですけど、
いったん熱くなった燃料棒に水をかけてしまうと、水ジルコニウム反応というのが起こって
よりエネルギーと熱を放出して、よりメルトダウンが進行するっていう事が分かったんです、今年の夏

それが、今年の8月に出てきて、ビックリして、わたしはこれはもう重要な情報じゃないかと思って、ブワーって記事書いたんですよ。

ケン:
大騒ぎでしたよね。

マコ:
一人で大騒ぎしてたんです。
で、なぜ重要か?というと、
燃料棒が露出すると水をかけて冷やすということが、再稼動の新基準の中に盛り込まれているので、
シビアアクシデント対策として
世界の原子力業界がひっくり返ることだったんですよ。
それでびっくりして、東京電力にこの情報を出してきたので、
これはシビアアクシデントの止める冷やす閉じ込めるっていうんですけど、
それがダメだった」っていうことですよねって驚いて言うと、
これは業界の大発見じゃないですか」って言うと、東京電力は、「ですよね」って言われたんですよ。


平野:
「ですよね」って言ったんですか

ケン:
会見が終わってからね。

マコ:
そうそうそう。
結局、2号機は爆発しなかったので、原子炉の中の圧力が高くなってしまって、水が入れられなくなったんですよ。
なので、水を入れていたら、原子炉の中の圧力が高くなって、いったん水がまた抜けて、気体もちょっとずつ抜けて、
また燃料棒が露出してしまったから水を入れるっていうのを3回繰り返した
んです。
なので、他の号機と比べて、3回水ジルコニウム反応を起こして、3回メルトダウンが進んだ

っていうのが、今年の8月に出てきた
んです。

水野:
でも、それをやったらダメだということがわかったのに、それをやるという方向で、安全基準は出来ているんですね。

マコ:
もうそれより先に基準ができていたので、それが反映されていないんです。

水野:
そうなんだ。
それに気づかず、私たちは新しい年を迎えようとしているわけですね。

マコ:
そうです、そうです。

水野:
ここからは、京都大学の小出先生のお話を、聞いていただこうと思います。
お三人にはまたそのあと、お話を伺います。
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極寒の日に肝を冷やした!

2015年01月06日 | ひとりごと
肝を冷やした後は震えがくる…。

久しぶりに、車の中でガタガタと震えることがありました。

昨日の夜中から、予報通りにダァーっと気温が下がり、最高気温でもマイナス4℃という、極寒の日になった今日。
寒いだけではなくて、粉雪が降り続いていました。
今日は1ヵ月半ぶりのピラテスのクラスに行って、お餅と黒豆を食べ過ぎたお腹のぽっこりをなんとかせねばと、朝から意気込んでおりました。
なのに、いざ出かけようという時になって、あれこれとちっちゃな用事が出てきて、そういう時はエイッとばかりに無視をすればよいものを、ついつい手が出てしまって…。

あ…5分遅れた…。

でも、こんな天気です。
降り積もり始めた頃の道路が一番危ない。
けど、雪道はけっこう平気だしな。
などと思いながら、車に乗り込み、走り始めました。

とりあえず、車間距離をいつもの3倍ぐらいはとりながら運転していたのですが、
目的の建物がもう見えている、最後の通りの最後の信号が、青のうちに行けたらいいなあ…と思いながら走っていると、
急に、前を走っていた車が止まりました。
横断しようとしている人を待っているのでした。
よし、わたしも止まろうと思い、ブレーキを踏み込んだのですが…ツゥ~~~???
え?え?え?止まらんやん!なんでなんで?そんなにスピード出してなかったのに?

もう突然のパニック。前の車がどんどん近づいてきます。
このままだと絶対に、前の車に追突してしまう。
でもって、その勢いで、その前の車のすぐ前を横断している人を轢いてしまうではないかっ!
そんな、そんな、人身事故を起こしてしまったらもう、大変なことになるではないかっ!

ハンドルを握りしめ、ブレーキを浅く、くり返し踏みながら、とにかく人にぶつからないようにしたいと、多分何秒かの間に必死で考えました。
仕方がない。
対向車線に出てしまうしかない。
幸いにして、横断している人はひとりだけで、すでに対向車線側を通り過ぎている。
対向車線には、こちらに向かって走ってくる車が一台見えるけれども、人を轢くよりはマシだと、腹を括って車線をはみ出しました。

あわや追突…と、本当に数センチの所で車が止まり、わたしは申し訳ない気持ちでいっぱいになり、驚かせてしまったドライバーの人たちに謝ろうとドアノブに手をかけたら、

「よかったね、寸でのところで止まって。こういうことはよくあることだ。恐かっただろ。ハッピーニューイヤー」と、窓を開けて声をかけてくれました。

周りの人たちも、さあ戻って戻ってと、場違いな所にいるわたしに手を振ってくれて、なのでわたしはそのまま、無事にYMCAの建物の駐車場に辿り着くことができました。

でも、その少しの間も、それから車を停めた後も、体の震えがしばらく止まりませんでした。
あの道は、信号に近づくにつれて、緩い下り坂になっていたのを思い出しました。

いかんいかん、新年早々、油断大敵だぞと、ゲンコツを食らいました。
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UP AND DOWN

2015年01月05日 | ひとりごと
天気予報通りに、一昨日の午前中に突然雪が降って、その後午後から雨になり、ついでに気温がぐんぐん上がり、
昨日はポカポカ陽気といってもよいほどに暖かな、なんと18℃近くにも気温が上がり、そしてその夜にまたコトンと気温が下がり、夜中には台風でもやってきたのかと思うほどの強風が吹き荒れ、

そして今日は零下です…。

たった1日で、気温が20℃以上も上下することに、さすがにもう驚かなくなりましたが、それでもやっぱりね…。

こうなると凍ってしまうので、お正月に作り過ぎたおせち料理の残りを、外に出しておくわけにはいきません。
大急ぎで食べるっきゃない…。
この時期、黒豆の大ファンのわたしは、朝昼晩と、食べるたびに100粒以上を口に入れてしまっていて、それでもまだまだ残っているのを確認しては、ニタニタ笑っています。
多分ちょっと気味が悪いです。

さて、塩っ辛いのにもほどがある!と思った手前味噌ですが、お雑煮を作る際に恐る恐る使ってみると、なんとまあ、旨味のある美味しいお味噌汁ができました。


また冷蔵庫の中でぼちぼちと熟成していってくれることを祈りつつ、具沢山のお味噌汁をたくさん作っていきたいと思います。

海ちゃんは、日に日におっきくなってきていますが、やっぱり耳は大きめなような気がします。


空ちゃんは、残念なことに、またまた吐き始め、吐瀉物の中に回虫が混ざっていました。
前回のと同じ回虫だったので、同じ薬をインターネットで注文して、今夜から飲ませているのですが、
一日に与える量を、だからうちの場合は、朝と晩の2回に分けてあげるべきなのを、いっぺんにあげてしまって…ただいま経過観察中です。

ごめん空ちゃん!


反省して空を見上げると、まん丸お月さんが上がっていました。


こないだのクリスマスに、旦那がすごく望遠の効くカメラをプレゼントしてくれたので、それを持ってもう一度、キンキンに冷えた外に出てみました。




でもやっぱり、お月さんというのは、ここまで詳しく見えない方がいいかも…。

明日からさらにどんどん寒くなって、最低気温が零下14℃近くにまで下がります。
いよいよ厳しい冬の到来です。
今年はすでに、いつにも増して、手の甲や指にあかぎれができてしまいました。
毎年、クリスマス前からお正月過ぎまでは、なんやかやと水を触ることが多くて手が荒れるのですが、今年のあかぎれの酷さはハンパではありません。
去年のお正月に、母からもらったオロナイン軟膏のデカ瓶が、とてもありがたい冬になりそうです。
コメント (6)
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月とスッポン

2015年01月05日 | 日本とわたし




スッポン



↑これらの写真は、親友わかちゃんが、Facebookのページに載っけてくれてたものです。

櫻井さんはいつから、どんな理由で、こんなスッポンに成り果ててしまっていたのでしょうか。
櫻井さんの変わり様に(もしかしたら元々だったのかもしれませんが)、驚いたのはいつのことだったか…もうあまり覚えていませんが、
どうして驚いたかというと、下記のチェルノブイリ特集を、わたしも観て覚えていたからです。

それが25年も経つと、こんなことを言うようになって、



人間の考え方などというものは、このように変貌するのですね…。


彼女がまともな人の心を持っていた頃の言葉を、広河さんの取材ビデオの中で聞いてみてください。

↓以下、文字起こしはじめ

チェルノブイリ特集 第1回 潜入!最悪汚染ゾーン(93.5)


ースタジオー

櫻井:
史上最悪のチェルノブイリ原発事故から7年経ちました。
公の機関は、住民への被害は無かったなどと発表していますが、事実は全く違います。
4回に渡って特集します。
取材したのは、フォトジャーナリストの広河隆一さんです。

広河隆一:
この汚染地図の中の、紫色の部分、つまり汚染の激しい北側ルートから、原発に近づいていったんです。

櫻井:
そして広河さんはこの、放射能検知器を持って行かれたわけですね。

広河:
ここのスィッチを入れまして、これがこのスタジオの汚染なんですが、

櫻井:
あ、かなり音がしますね。

広河:
これがまあ普通なんですけれども、ここでは0.01ミリレントゲン程度ですね。
で、もしこの針が振り切れたら、これをさらに10倍、そしてさらにまた振り切れた場合には100倍にセットするわけです。


ーVTRー

案内人:
ウラーシはすぐだ。

広河:
100倍にセットしました。
1ミリレントゲン。

ナレーター(井田由美):
原発から17キロ北の地点ウラーシ村。
この村の農場に、かつて働いていた36人を、広河さんが尋ね歩いたところ、9人がガンにかかり、そのうち6人はすでに死亡していました。
事故直後の避難民の数は、13万5千人と言われています。
その人たちに何が起こっているのか、全く分かっていません。
いえ、誰が住んでいたのかさえ明らかにされていないのです。

広河さんは、住民の戸籍簿を探しあてました。
調査の糸口になりそうです。

次はカルテ。
ところが、事故後病院に収容されたおよそ5万人のカルテが、なぜか消えてしまったのです。
最後の数千枚が保管されていたという倉庫からも、すべてのカルテが盗まれていました。

広河:
立ち入り禁止区域に入ります。
うわあ…すごい…。
村全体が焼け落ちているという、異様な光景に出くわしました。
勝手に戻ってきた村人が、前途を悲観して自暴自棄になり、放火したそうです。

比較的汚染の度合いが低い原発の西側地域に立ち寄ると、避難命令を無視して住み続ける老人たちを、かなり見かけます。
汚染の度合いが低いといっても、ここで生活するのは自殺行為です。

おばあさんに、ここでどんなものを食べているのか、聞いてもらえますか。

住人:
食べ物は自分たちで作るしかないんだ。
苦労してるのよ。
死ぬまでここにいてやるわよ!


<汚染が最も激しい原発北ルート>
広河:
道は非常に荒れてます。

<ぬかるみで車が動けなくなった>

広河:
通る車がほとんど無いため、道は予想以上に酷い状態でした。
助けを呼ぼうにも電話など無いし、もちろんこの周辺に住む人などひとりも居ません。
ここの放射線を測ります。
すぐに振り切れました。
10倍にして、100倍、2、3、4、4ミリレントゲン(=日本の約400倍)

チェルノブイリには何度も来ましたが、こんなに高い数値は初めてです。
同行した地元の人たちの顔色が、しだいに青くなってきました。
こんな所で夜を明かすことになれば、大量のプルトニウムとストロンチウムを浴びてしまいます。

地元民:
よかった!助かったわ!

<事故処理作業のトラクターが通りかかった>

広河:
現場に2時間いただけですが、この後わたしたちは、頭と喉が痛くなり、吐き気をもよおし、息苦しくなりました。
トラクターが通りかからなかったらと思うと、ゾッとします。

<事故を起こした4号炉が、かすかに見える>

<10キロ圏 汚染管理所>

最近になってようやく、原発10キロ地点に、放射線を管理する施設が造られました。

広河:
すごいね、原発の中みたいだね。
中でわたしたちは裸になり、もうひとつの建物で別の服を着なければなりません。
靴下から上着とズボン、そして靴まで置いてあります。

10キロメートルゾーンの出口。

問題の4号路を覆う建物には、至る所に亀裂が入り、そこから大量の放射性物質が漏れ続けています。
原発の従業員が住んでいたこのアパートは、少なくともあと100年近く、人が寄り付くことさえできません。

ナレーター:
広河さんのもとへ、カルテに関する情報が寄せられました。
ある医師が、858人分のカルテを病院から別の場所に移して、盗難を免れていたのです。
事故直後、当局は、急性放射線障害は無かったことにしろと、命令を出していました。
しかし、カルテにははっきりと書き込まれています。
別の患者は、喉に、2000マイクロレントゲンの放射線を浴びていました。
2年前、国際原子力機関IAEAは、住民に放射線の被害は出ていない、と発表しました。
カルテは、その発表を、根底からくつがえします。


ースタジオー

櫻井:
広河さん、発見されたカルテには、2000マイクロレントゲンとありましたけども、人間の喉がこの、原子炉近くと同じくらいの放射線を帯びてたわけですね。
大変なことですね。
誰がこのカルテを盗んだんですか?

広河:
住民の健康が無茶苦茶にされたっていことを証明する、唯一の物証はカルテなんですね。
だから、住民に被害が無かったっていうふうに言っていた当局にとっては、カルテは都合が悪いわけです。
だから、人々の大部分は、当局が没収したんではないかと、そういうふうに言ってますね。

櫻井:
IAEA国際原子力機関も、住民に被害は無かった、というふうに発表しましたね。

広河:
ええ、あれは全く違うということが、このカルテで証明されたわけです。
事故後、住民の被害が拡大したのは、専門家の安全宣言だったということを、肝に銘じるべきだと思いますね。

櫻井:
そうですね



チェルノブイリ特集 第2回 子供に何が起きたか(93.5


ースタジオー

櫻井:
チェルノブイリの事故直後の被災者のカルテによって、恐ろしい放射能被害の実態が初めて明らかになったことを、昨日お伝えいたしました。
取材したフォトジャーナリストの広河隆一さんに、今夜もおいでいただきました。

広河:
実際に、住民の体に何が起こっているのかを、直に見て撮影してきました。
特に、子どもたちがどういう目に遭っているのか、それを見てください。


ーVTRー

ナレーター:
事故から7年が過ぎました。
昔のこととして忘れてしまうのに十分長い年月です。
しかし、事故後何年も経ってから、本当に恐ろしいことが始まりました。

事故から1週間の間に、13万5千人の住民が、急に危険を告げられて、慌てて家を離れました。
まさかその後、ずっと家に帰れないとは、考えてもいませんでした。

放射能は現在、表土から20センチまでの所に溜まり、ゆっくりと地中に降りています。

被災者の数の推計、原発関係者と消防士1000人、事故処理の作業員60万人、汚染地の住民550万人、
当局の発表、死者30人…。

地中20センチに溜まった放射能は、植物の根から吸い上げられ、人間や動物の体に蓄積されていきます。

放射能障害の潜伏期間はそろそろ終わり、白血病と甲状腺ガンのかたちで牙を剥き始めました。


<ミンスク 小児血液病センター>

広河:
わたしは去年もこの病院を取材し、入院している子どもたちを撮影しました。
しかし、その子たちに、ひとりも会うことはできませんでした。
大半は亡くなっていたのです。
白血病の治療は、何段階もあります。
その段階に応じて、必要な薬があります。
患者が突然に増えたので、薬の量が追いつきません。
薬が切れると、子どもの容態は急激に悪化します。

<去年の9月に撮影した、元気だった頃の写真>
11月12日から入院。かかとには床ずれが発症している。

この男の子は14才です。
わたしが撮影した次の日、亡くなりました。

ホイニキ中央病院・コルツォフ副院長:
事故後、5年から8年で、甲状腺ガンの発病が増え、次に乳ガンの発病が、その次に骨のガンの発病が、といった具合に、ガンは増えていくでしょう。
甲状腺ガンが増えている段階が、現在です。

ナレーター:
3年前、国際原子力機関IAEAの調査団が、汚染地を訪れました
代表の重松委員長は、住民の健康障害は全く無い、と発表しました

広河:
この子は5才、甲状腺ガンです。
自分の身に何が起きているのか全く知らないまま、手術室に連れていかれます。
医学の常識では、甲状腺ガンは大人の病気です。
子どもがかかる率は、50万人にひとりと言われています。
しかし、チェルノブイリ周辺では、事故後4年を過ぎてから、子どもの甲状腺ガンは爆発的に増え始めました
喉にレーザーメスが入れられ、白い煙が上がります。

ナレーター:
原発の北のホイニキ地区では、352人中27人の子どもが要注意と診断されました
このうち、甲状腺ガンは2割に上るとみられ、平均発病率の7800倍です。

放射線医療研究所・ドロズド医師:
子どもの健康状態は、放射線に影響されています
放射性ヨウ素の分布図を見れば、一目瞭然です。
IAEAの調査責任者・重松委員長は、私たちの調査の全てを知っているわけではありません

ナレーター:
甲状腺に続いて乳ガン、骨のガン、そして白血病の爆発的増加の時期が来るという医師の予言は、現実のものとなり始めています。


ースタジオー

櫻井:
広河さん、こうして見ますと、国際原子力機関が、住民の健康に問題無いと発表したのは、いったい何だったんでしょうかね。

広河:
VTRの中にも名前が出てましたけれども、調査団長は重松さんっていって、広島の学者なんですね。
国連の機関、しかも広島の医学者がリーダーになっているから、公正な調査があると信じていたのに、安全だと発表したので、現地の人々は啞然としていました

櫻井:
ただ、調査団の人たちは、現地の状況を観たんですか?

広河:
現地のお医者さんたちの話では、汚染の酷い所には入ってないそうなんですね。
しかも、遠くから食料を持参して、現地の物を口にしないで、それでいて安全宣言をしたことで、すごい怒ってたんですね。
恐かって、それで食べられないんだったら、危険だと言うべきなんです。

櫻井:
もうこの、国際原子力機関の信用性そのものが、深刻に問われているわけですね。

広河:
丁度、旧ソ連の原子力産業と、アメリカを始めとする原子力産業が、ビジネスの取り引きを始めた頃から
チェルノブイリの被害を小さく見せることで利害が一致したんではないかっていう声があります。



チェルノブイリ特集 第3回 原発汚染 死の生活(93.5


ースタジオー

櫻井:
先週に続いて、チェルノブイリ原発事故の傷跡を特集します。
現地で取材したフォトジャーナリストの広河隆一さんにおいでいただきました。

広河:
事故から7年経ちましたけれども、放射能汚染は何十年何百年経っても消えないんですね。
しかし、人々はそこで暮らしていく他は無いわけです。
VTRを観てください。


ーVTRー

ナレーター:
チェルノブイリ原発事故はもう終わった、過去の出来事でしょうか?

地元住民:
朝早くトイレに行ったら、庭に白い灰のようなものが降ってました。


<1986年4月26日 午前1時23分 事故発生>
4号炉の炉心が溶け、大量の放射性物質が飛び散った。

地元住民:
夜は雷のような音がして、原発の方から霧みたいな物が近づいてきたの。

<原発周辺30キロ圏内だけは、危険地帯として封鎖された>
死者の数  不明
被災者の数 不明

地元住民:
あの事故があったからかどうかわからないけど、女房は死んじまったよ。
骨のガンでね。


<ホイニキ産院>

ナレーター:
原発の北のホイニキ地区では、毎日ひとりの割合で赤ちゃんが誕生しています。
一時は、放射能に不安を感じた人が中絶をした時期もありましたが、今はほとんどの母親が子どもを産みます。
しかし、母体が放射能の晒されている以上、胎児が被ばくする可能性はつきまといます

広河さんたちの『チェルノブイリ子ども基金』は、この3月末に、救援物資9トンを被災地に届けました。
特に喜ばれたのは、赤ん坊用ミルクとビタミン剤です。
食物が汚染されているため、妊婦が栄養不足になり、母乳が出ない人が多いのです。

この農場は、放射能汚染地帯ですが、乳牛を飼育しています。
もちろん、牛の体内に放射能が蓄積されている可能性は高く、搾り取られるミルクも当然危険です。
事故直後は、住民はミルクをそのまま飲み、放射性ヨウ素が喉から住民の体に入りこみました。
現在は、さすがに、ミルクとして販売することは禁止されています。
しかし、加工すれば放射能の量が減少するとして、ミルクは工場に運ばれ、バターとヨーグルトに加工されます
そして住民は、毎日それを食べています

放射能のうち、セシウムだけは検査が行われています
ところが、体内に入るともっと恐ろしい、ストロンチウムとプルトニウムの検査は、全くされていません


広河:
彼女(検査技師)は、それで安全だと思っていますか?

検査技師:
いいえ、危険です


広河:
取材を通じて3年近く付き合いが続いている、ニーナさん一家を訪ねました。
事故後、ニーナさんは、不安に怯えながら、二人の子を出産しました。
家族全員元気そうで、ホッとしました。
料理が得意なニーナさんは子どものために、美味しいケーキをよく作ります。
しかし乳製品には、ストロンチウムとプルトニウムで汚染されている危険があるのです。
放射性物質は、食べ物から消化器へ吸収され、長い時間をかけてゆっくりと、体内に蓄積されていきます。

事故直後は、ウォッカの一気飲みをすれば放射能は大丈夫という話が本気で信じられ、町全体が酔っぱらっていたという、笑えない話があります。

ホイニキの市場、日曜の朝です。
市場では、トウモロコシや野菜の種が、出店に並んでいました。
復活祭が近いせいか、子豚もたくさん売られていました。
豚はすべて汚染地域で飼育されたもので、もちろん放射能検査は受けていません。

ナレーター:
広河さんが産婦人科の病院で取材中、ひとりの女性に陣痛が始まりました。

広河:
あ、生まれた!男の子。
赤ちゃんが生まれました。
子どもを産み育てるには、汚染地を離れるべきなのですが、旧ソ連の経済危機の中で、人々は避難先を見つけることすら困難なのです
このベラルーシで80人の母乳を検査したところ、全員から、セシウムとストロンチウムが検出されています


ースタジオー

櫻井:
広河さん、あの子どもたちがこれから先、どうなってしまうのかを考えると、本当に心配ですね。

広河:
ええ、胎児とか乳児が放射線を被ばくすると、大人と比べものにならないくらい大変な影響を受けるわけですね。
だから、白血病とかガンが心配です。

櫻井:
広河さんの『チェルノブイリ子ども基金』が、ミルクとか薬を届けるシーンがありましたけれども、もちろんあれでは全く足りないわけですね。

広河;
ええ、ある病院に届けたんですけど、その時彼らが、「7年間で救援物資が来たのはこれが初めてだ」と涙を流して言ってたんです。

アナウンサー:
その救援活動なんですけど、一時はもう少し世界的に盛り上がってたはずですよね。

広河:
ええ、2年前に、IAEA国際原子力機関が、「被害は大したことがない」というふうに発表しました
ろくに調べもしないで、安易にそういう発表をしたことが、救援物資の動きに水を差したんですね。

櫻井:
そういう意味で、IAEAの責任は極めて重い、ということも言えるわけですね。



チェルノブイリ特集 福島の子供達の5年後、10年後は?


このビデオは、子どもたちの実際の映像を見ていただきたいと思います。
なので、文字起こしはせず、最後の櫻井さんと男性アナウンサーのコメントだけを載せておきます。
そしてお詫びですが、この動画だけは、上方に流れるうるさいコメントを消すことができませんでした。
すみません。無視して観ていただけたらと思います。

男性アナウンサー:
放射能というものは目で見えないだけに、口でいくら危ないと言っても、彼女たちはなかなか理解できないんですよね。
それが問題をいっそう深刻にしてると思います。

櫻井;
あの、今ご覧いただきました小児の甲状腺ガンは、これまでは、汚染の酷い地域の子どもたちに目立ってたわけなんですが、
この1年間でなんと、原発からかなり離れたポーランドからさえも発症しているという報告が出ているんですね。

男性アナウンサー:
放射能の汚染地域を離れて、療養が必要とされている子どもたちが、今40万人いると言われているんですね。

櫻井:
その子どもたちは、圧倒的に、栄養とかビタミンが足りないわけで、広河さんは、現地で不足している子ども用のミルクやビタミン剤を送り続けています。

↑文字起こしおわり
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2015年01月05日 | 日本とわたし
http://www.dailymotion.com/video/xiil4g_%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%96%E3%82%A4%E3%83%AA%E7%89%B9%E9%9B%86-%E7%AC%AC1%E5%9B%9E-%E6%BD%9C%E5%85%A5-%E6%9C%80%E6%82%AA%E6%B1%9A%E6%9F%93%E3%82%BE%E3%83%BC%E3%83%B3-93-5_newstarget="_blank"
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「戦後、日本の機軸は平和憲法だった。この国柄でいいじゃねえか」半藤一利さん

2015年01月03日 | 日本とわたし
今朝、こんな新聞の写真が目に留まりました。
東京新聞の朝刊です。


これがやりたいばかりに、意味不明の解散をし、年末選挙を強行したのですから、当たり前といえば当たり前なのですが、
どうしてもやはり、皮膚がぞわぞわするような危機感を感じます。

そこで以前読ませていただいた、半藤さんのインタビューを思い出しました。
半藤さんの言葉を載せてくださったのは、いつもすばらしい記事が満載の『マガジン9』
この『マガジン9』のスタッフの方々の活動は、読者からのカンパによって支えられています。
こちらでも何度か、カンパのご紹介をさせてもらいましたが、もう一度、いや、何度でも、このような世の中だからこそ、市民のわたしたちで支えていかなければと感じています。
↓↓↓よろしくお願いします!



思い起こせばわたしたちの年代は、歴史をきちんと学ぶことができずに大人になったような気がします。
日本史においても、テストの点のために年代を記憶したことばかり覚えていて、特に現代史、さらにいえば日本が参戦した戦争については、全く覚えていません。
それはわたしが興味が無かったからだったのでしょうか?
世界大戦といえば、原爆のことしか記憶にありません。
そのことで、今から20年ほど前に、台湾人の友人に激しく叱責されたことがありました。
あなたはいったい、何を学んできたのかと。


半藤さんは昭和史に詳しい作家です。
その彼が、憲法の成り立ちについて語っておられました。

一昨年の5月に、このブログに書いた『憲法第九条『戦争放棄』は、世界史の扉を開くすばらしき狂人、幣原首相によって生まれたもの!』の記事でも紹介させていただいた、幣原首相について語っておられる部分がありましたので、引用させていただきます。

↓以下、引用、抜粋はじめ

平和憲法という『国柄』を、もっと大切にしなくてはならない


はんどうかずとし 作家・昭和史研究家
1930年東京向島生まれ。
東京大学文学部卒業後、文藝春秋入社。
「週刊文春」「文藝春秋」編集長、取締役を経て作家。
著書に『漱石先生ぞな、もし』『日本のいちばん長い日』、『ノモンハンの夏』(以上文藝春秋)、『昭和史1926-1945』『昭和史 戦後篇1945-1989』(以上平凡社)、『日本国憲法の二〇〇日』(プレジデント社)など多数。


日本国憲法成立のこぼれ話

憲法は日本とアメリカの「合作」で生まれた


憲法の草案は複数存在した。

・松本蒸治案=政府案

・GHQ案

・市民案(鈴木安蔵や馬場恒吾、森戸辰男ら在野の学者やジャーナリストたち7人が作った草案)

 これは、GHQ民政局(実際の日本国憲法草案作りに携わった部局)あたりの人たちに大きな影響を与えた。

・京都大学の佐々木惣一元教授が作ったと言われる草案
 これはまず近衛文麿国務大臣に渡り、それを読んだ天皇が、参考にしたらどうかと幣原喜重郎首相に渡し、それを幣原さんは、松本烝治国務大臣(憲法問題調査委員会委員長)に渡します。
 ところが松本さんは、なにしろ帝国憲法でいいじゃないかという人だから、なんだこんなもん、って捨てちゃったんですね。

・新聞で発表された共産党案の他、二つ三つぐらい

幣原首相は、幣原穏健外交と言われるくらいの国際協調派ですし、昭和2年のパリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定)のときの全権大使だったわけだから、
『戦争放棄』という言葉をマッカーサーとの会合の場で言ったのは、不戦の意味で言ったと思いますね。
9条の第1項は、不戦条約とほぼ同文ですからね。



戦争はもう絶対にしたくないという日本人の感情と、理想主義に燃えたGHQの若いアメリカ人との、奇跡の合作だった」

そしてその上に、

戦争の悲惨さや残酷さをよく分かっているマッカーサーと天皇の合作なんです。

戦後、日本の機軸は平和憲法だった

↑以上、引用、抜粋おわり


「戦争はもう絶対にしたくないという日本人の感情」は、このような悲惨で愚劣な史実を生き長らえた人たちの心の中に、強く芽生えたのでした。

戦争当時の国家、そして軍隊という組織が、どんなに愚かで狂っていたか、これも半藤さんの言葉をお借りして、ここに記させていただきます。

↓以下、転載はじめ

戦前の日本は、近代国家の体をなしていなかった
「戦没者230万人」という数字は、そのことを端的に示していると思います。
国民を戦地に送り込むならば、国家は責任を負わなければなりません。
いつ、どこで、どのように戦没したのか。
確実に把握していなければならない。
ところが、「戦没者230万人」という大枠のみが残り、具体的なデータは部分的にしか残っていません。
厚生省(当時)は戦後、戦域別で、戦没者数を算出しましたが、そこまで。
死因までは分類できていない。
230万人というざっくりとした数字も、私は過小評価ではないかと疑っていますよ。


詳細が分からないということは、道義的にはもちろん、軍事的にも、非常に問題があります
前線に送り込んだ部隊のうち、戦闘に耐えうる兵士は何人なのか。
あるいは戦傷、戦病者は何人いるのか。
正確な戦力を測れずして、作戦を立てることはできません。
そもそも、前線に送らなければならない武器弾薬、糧食、医薬品などを算出するためにも、絶対に必要です。
それができていなかったのではないか。


兵站(へいたん)を軽視した、あるいは無視したのが日本軍でした。
「輜重(しちょう)が兵隊ならば チョウチョ、トンボも鳥のうち」というざれ言があります。
輜重とは、兵站部門のことです。
そもそも、陸軍参謀本部や海軍軍令部のエリート将校にとって、兵卒はしょせん、1銭5厘(当時のはがき代)で集められる存在
作戦時には、3日間分のコメ6合など25キロの荷物を背負わせ、前線へとおっぽり出した。
食糧がなくなれば、現地調達しろと。
降伏はありえないのだから、負け戦になれば玉砕しかありえません。
敗残兵の消息など気にもとめなかった。


これに比べ、米国の手厚さは語るまでもないでしょう。
あるエピソードがあります。
ブッシュ元大統領(第41代ジョージ・H・W・ブッシュ、第43代大統領の父)は、戦時中に、小笠原諸島の父島沖で撃墜されました。
元大統領は救助されましたが、この時に、捕虜になった同僚がいました。
戦後、米軍の調査団が父島を訪れ、彼が埋葬された墓地を掘り返したんです。
すると、遺骨の首は切断されており、日本軍に処刑されたことが明らかになった。
一兵士に対するまで、その死をないがしろにしない。
国家としての責任を果たしているんですね。

日本軍は、自己の実力を顧みず、攻勢の限界線をはるかに越えました
餓死者が続出するのは当然のことです。
私は、戦没者のうちの7割が、広義での餓死だと思っています。
このような軍隊は、古今東西にありません
人間を、まるで将棋の駒のように扱っている

海上を移動中に乗船が沈められ、死亡した陸軍将兵は18万人にも上る、と見積もっています。
これも、補給軽視、つまりは人命軽視の表れです。
開明的とされている海軍ですが、陸軍とそんなに違いはありません。
レイテ沖海戦で、小沢艦隊はおとりになりました。
基幹の空母4隻に搭載した航空機は、定数をはるかに下回る100機余りしかなかったのに、整備員は必要もないのに定数を乗せた。
帳簿上の員数合わせだけを気にする官僚主義、としかいいようがない。

軍の指導者たちは、無責任と愚劣さで、兵士たちを死に追いやりました
特攻作戦も同様です。
特攻隊員たちの純粋な気持ちを利用した。
「日本的美学」などと言われるが、とんでもない。
立派な作戦であるような顔をして、机の上で、「今日は何機出撃」などと記していた参謀らを、許すべからずです。

集団的自衛権の行使について、容認する声があります。
何を言ってんだ、と思いますよ。
戦後の日本は平和だった。
その権利を行使しなかったため、何か問題があったのでしょうか。

太平洋戦争を巡り、これまで各国の将軍、提督たちを、数多くインタビューしてきました。
みんな、偉い人は生きているんですよ。
戦争とはそういうものです。
「戦没者230万人」の犠牲のうえに、日本は成り立っています
その数が示していることは何か、考えてみるべきじゃないでしょうか。

↑以上、転載おわり
http://mainichi.jp/feature/news/20140815mog00m040002000c.html
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「ピースとハイライト」「クスノキ」「HUMAN」に込められた、桑田さんと福山さんからのメッセージ

2015年01月02日 | 日本とわたし
母親になって以来初めて、息子のガールフレンドにおせち作りを手伝ってもらって、大感激していた大晦日。
おせち作りのバック・グラウンド・ミュージックといったらコレでしょう!とばかりに、
まなっちゃんが、ユーチューブで紅白歌合戦を聞けるようにセットしておりました。

台所に紅白歌合戦の歌声が流れるというのは多分、15年以上無かったかもしれません。
まなっちゃんはたまに、『東京ディズニーランド』が好きで好きでたまらない!とか言って、わたしや旦那を驚かせたり戸惑わせたりしてくれるのですが、
今回も、『紅白』が楽しみで楽しみでたまらない!と言う彼女に、そ、そうなん…とだけ言って、言葉を濁したのでした。

何十年ぶりかに出演した、サザンオールスターズの桑田さんが最初、チョビ髭を付けて画面に現れ、さらに『ピースとハイライト』を歌ったということから、いろいろと意見が交わされています。
福山さんが、『クスノキ』や『HUMAN』を選んだ意味などとともに、もっともっと、考えたこと感じたことを話し合うことは、今のこの時期にとても良いことだと思います。

どちらも、精神の、命の営みを、そして人々によって紡がれてきた、時には紡がされてきた歴史を思い、その中の真実を求め、決して愛を失わない、
そんなメッセージが言葉とともに込められていたと思います。

ーーーーーーーーーーーー
色んな事情があるけどさ
知ろうよ 互いのイイところ!

希望の苗を植えていこうよ
地上に愛を育てようよ

ーーーーーーーーーーーー

2015年は、希望の苗を植えましょう!
地上に愛を育てましょう!





『クスノキ』

我が魂は この土に根差し
決して朽ちずに 決して倒れずに

我はこの丘 この丘で生きる
幾百年越え 時代の風に吹かれ

片足鳥居と共に
人々の営みを
歓びを かなしみを
ただ見届けて

我が魂は 奪われはしない
この身折られど この身焼かれども

涼風も 爆風も
五月雨も 黒い雨も
ただ浴びて ただ受けて
ただ空を目指し

我が魂は この土に根差し
葉音で歌う 生命の叫びを



『HUMAN』

ただ豊さを求めながら
僕ら地上に拡散して
満ち足りること
永遠にない
生の欲動に…
気づいたら 目覚めたら それが合図さ
まだ間に合う 真実への冒険者でいたい

もつれ絡まったイデオロギー
正義と正義が衝突する
清算できない
歴史に建つ
砂上の平和に…
気づいたら 目覚めたら それが合図さ
まだ間に合う 真実への冒険者でいたい


この街で 何を信じ どんな夢を見よう
愛したい 愛されたい 君と生きたい

強き者たちが 弱き者を
喰らい 種を繋ぎ 勝ち残って
それが生命の正体でも
それが僕らの
本当の姿でも






『ピースとハイライト』

何気なく観たニュースで
お隣の人が怒ってた
今までどんなに対話(はな)しても
それぞれの主張は変わらない
教科書は現代史を
ヤル前に時間切れ
そこが一番知りたいのに
何でそうなっちゃうの?

希望の苗を植えていこうよ
地上に愛を育てようよ
未来に平和の花咲くまでは Blue(憂鬱)
絵空事かな?
おとぎ話かな?
互いの幸せ願うことなど


歴史を照らし合わせて
助け合えたらいいじゃない
硬い拳を振り上げても
心開かない

都合のいい大義名分(かいしゃく)で
争いを仕掛けて
裸の王様が牛耳る世は Insane(狂気)
20世紀で懲りたはずでしょう?
燻(くすぶ)る火種が燃え上がるだけ


色んな事情があるけどさ
知ろうよ 互いのイイところ!

希望の苗を植えていこうよ
地上に愛を育てようよ
この素晴らしいふるさと(地球)に生まれ
悲しい過去も 愚かな行為も
人間(ひと)は何故に忘れてしまう?

愛することを躊躇(ためら)わないで





【おまけ】

今日届いた日刊IWJガイドの中で、IWJのぎぎまきさんが、こんなことを書いておられました。
↓以下、一部を引用させていただきます


IWJのぎぎまきです。

-中略-

大晦日から元旦にかけては「紅白のサザン」で、ツィッターのタイムラインは大盛り上がりでしたね! みなさま、ご覧になりましたか?

私は紅白の生放送を観ることはできなかったのですが、後からタイムラインを遡って、「よくぞやった!」という視聴者の興奮ぶりに触れることができました。

ちょっと出遅れながらも、私なりに調べてみると、色々なことが分かってきました。

大晦日の直前の28日、横浜アリーナで行われたサザンオールスターズのライブを、安倍首相と昭恵婦人が来場して鑑賞しています。
実は、その日も「ピースとハイライト」を披露しましたが話題にはならず、注目されたのは、「爆笑アイランド」という曲の歌詞を替え歌にしたくだりでした。

ボーカルの桑田佳祐氏は、歌詞の一部を変更し、「衆院解散なんてむちゃを言う」と安倍総理の前で熱唱しました。
総理に面と向かって、権力の維持のための解散を批判したわけですね。

紅白では2曲を披露しましたが、「ピースとハイライト」の歌詞をご存知ですか?
歌詞の一節には「都合のいい大義名分(かいしゃく)で争いを仕掛けて」とあります。
この曲が書かれたのは2013年の8月ですが、翌年7月に閣議決定された、集団的自衛権の行使容認における憲法解釈を、まるで予見していたかのようです。

さらに、ライブ会場にいた桑田氏は、紅白に中継がつながった途端、チョビ髭をつけて登場。
これが「ヒトラー」を模していると話題になりました。
あのチョビ髭は、ヒトラーを痛烈に風刺したチャップリンの、「殺人狂時代」のパロディのようでもありました。

また、ライブ会場では、バックの映像に、ヘイトスピーチに対するカウンター映像が流れ、
NHKの中継が終了するやいなや、桑田氏は、おもむろに安倍首相の批判を始めたといいますから、
当日まで、紅白の出演を発表しなかったことも含めて、サザンがこうした演出を、用意周到に準備してきたことがうかがえます。
単なるアドリブでもおふざけでもありませんよね。
覚悟を決めてのプロテストでしょう。

そもそも「ピースとハイライト」という、タバコの銘柄のようでいて、「平和と極右」とも読み取れるタイトルの、痛烈な反戦・反権力の歌を、2013年中に作詞作曲しリリースしていたことも、
紅白出演の承諾も、考えに考え、練りに練った作戦だったのではないかと思えます。

今の政府に対し、一言、言わずにはおれなかった心境を、ひそかにあたため、桑田氏らは、40%超えする高視聴率番組の中で「やらかした」のでしょう。

すごい勇気だと思います。

サザンオールスターズの風刺が、ちょっとした思いつきなどではない証拠に、以下の「アベーロード」も、ご覧になってみてください。
ビートルズの傑作アルバムのアビーロードをカバーして、全編、すごい批評精神にあふれた作品になっています。




アベーロードA: http://t.co/MDuSLRjXVr
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