ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

そんなことはさせません! 安倍首相→「『全員ポンコツ野球内閣』で『モリカケ疑獄』の追及をかわそう!」

2018年11月07日 | 日本とわたし
安倍内閣の新閣僚のお粗末ぶりを書き残しておこうと思っていたのですが、まあまあ出てくる出てくる、毎日のように、数珠なりに、『ポンコツ』や『ウソつき』や『口利き屋』が登場してきて、まとめようがありません。
なのでちょっと楽をして、日刊ゲンダイさんの記事を転載させていただきます。

疑惑連発、答弁無能…総崩れ“全員ポンコツ野球内閣”の煙幕
【日刊ゲンダイ】2018年11月7日
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/241087/1

案の定、エラーの連続で失点ばかり。
安倍首相が誇る「全員野球内閣」が、早くも総崩れの様相だ。
新閣僚の疑惑が連日のように報じられ、国会答弁もお粗末で、審議がたびたびストップするポンコツぶりを露呈している。これじゃ試合にもなりゃしない。
「全員野球」以前の話だ。



■問題大臣を並べて、自身への追及をかわす狙いか

片山さつき地方創生相
会社社長から青色申告取り消しの撤回を依頼され、国税庁に口利きした謝礼として、『私設秘書』を名乗る税理士が、100万円を受け取った。
税理士に、秘書用の国会通行証を与えていた。
3万部刷ったカレンダーの売り上げが、収支報告書に記載されていない。
業界団体からの200万円の献金を、記載していなかった。

片山大臣は、「司法の場で記事が事実でないと明らかにする」「税理士は秘書ではなかった」と発言している。

吉川農相
札幌地裁で審理中の太陽光発電をめぐる、補助金詐欺事件での口利き疑惑。
10月16日の大臣会見で吉川大臣は、「お答えしようがない」とはぐらかした。

平井IT担当相
暴力団系企業からの献金疑惑。
指定暴力団組長がかつて代表を務め、その親族が後を継いでいる建設会社から、計72万円の献金を受けていた。
平井大臣自身が社長を務めた会社や身内の企業に対し、6000万円を超える政治資金を支出した。


宮腰沖縄・北方相
“全裸ピンポンダッシュ”(酒に酔い、議員宿舎の他の部屋に全裸でピンポンダッシュをした)が報じられた。
後援会に移動した資金の大半が使途不明。

桜田五輪担当相
担当大臣でありながら、「東京五輪の3つのコンセプト」も答えられなかった。
もともと答弁能力が疑問視されていて、就任会見前に官邸に呼び出され、「(役人が作成したメモを)棒読みしろ」とクギを刺されていた。
五輪関連の政府予算が「いくらまで膨らむのか」と質問され、「東京都や組織委員会をしっかり支援したい」と見当違いな部分を読み上げた。
予算見込額の「1500億円」を「1500円」と答えるなど、ボロボロ答弁で審議が紛糾し、何度も中断。
「なぜ(五輪担当に)選ばれたか分からない」と発言した。


「予算委は、安倍首相が出席する絶好の機会なのに、モリカケ疑惑で追い込むに至りません。
チンケな問題大臣を周囲にちりばめて煙幕を張り、自身への追及をかわす狙いかと勘ぐってしまいます」(政治評論家・本澤二郎氏)


******* ******* ******* *******

おまけ(立憲民主党の蓮舫参院幹事長と桜田五輪相の、質疑応答内容)

立憲民主・蓮舫参院幹事長:
桜田大臣のホームページ、5年間調べました。
政治理念、政策には、どこにもオリンピックの文字が1文字もありません。
ご自身で、オリンピック・パラリンピック担当にふさわしいと考えるのは、どこでしょうか?


桜田五輪相:
なぜ選ばれたか、わたしはわからないが、総理が適材適所と思って選んでいただけた。
選んでいただいた人に、立派に任務を果たすように、しっかりと取り組んでいるつもりだ。


立憲民主・蓮舫参院幹事長:
オリンピック・パラリンピックの、3つの基本コンセプト(企画の骨組み)はなんでしょう?

桜田五輪相:
答えられず、後ろに控えていた官僚の助言に従って、紙を読み上げた

立憲民主・蓮舫参院幹事長:
ちなみに、大会ビジョンもご存じですか?

桜田五輪相:
答えたのは、先の基本コンセプトは何かと問われた際に読み上げた、官僚作成の答弁と全く同じ文章だった。

メガネがすべるほどに汗だくになり、官僚が作った原稿の、指差しされた部分を読み上げるだけで精一杯の桜田五輪相。
審議は、たびたび中断された。

立憲民主・蓮舫参院幹事長:
(会計検査院が指摘した8011億円中)国の関連予算はいくらか?

桜田五輪相:
1500円でございます。あ、ごめんなさい、1500億円。

立憲民主・蓮舫参院幹事長:
我々が取得した書類には、1700億円との記載がある。
大会予算について、事業シートを作って管理すべきだ。


桜田五輪相:
れんぽうさんの言う通り」

立憲民主・蓮舫参院幹事長:
「れんほうです」


https://www.fnn.jp/posts/00404794CX

このお粗末な答弁を指摘された桜田五輪相、質問の事前通告がされていなかったからだと憤慨し、後で事前通告はあったと謝罪しました。

もう本当に程度が低すぎて…まあ任命した人物がアレでは、然もありなんと言えるのですけれども…。
でもこれがもし本当に、モリカケ疑獄問題の追及をはぐらかすことにつながっているのなら、野党は早急に作戦を立て直さなければなりません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米国『電車もバスもタダ!会社も有休!タクシーも割引くよ!さあ投票に行こう!』事情

2018年11月07日 | 米国○○事情
米中間選挙は大盛り上がり 投票率上昇に企業キャンペーン
【日刊ゲンダイ】2018年11月7日
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/241167/1

引用:



今回の米中間選挙は、投票率の高さが特徴だ。
期日前投票も大盛り上がりで、データ企業のカタリストの調査では、5日午前(現地時間)時点で3100万人となり、2014年中間選挙の2050万人を、大きく上回っていた。

配車サービスの「ウーバー」は、投票所へ向かうための乗車をすべて10ドル引き

他の交通サービス会社でも、自転車やスクーターの無料レンタルや割引を実施

インディアナポリスやロサンゼルスなどの都市では、投票日(6日)は、公共交通機関を終日無料

「ドロップボックス」などの米IT企業では、従業員に“投票休日”を与えた



特定の候補を支持するものでなければ、企業も選挙に関連したキャンペーンは可能です。


実際に日本でも、『選挙割』と称して、投票後に交付される『投票証明書』などを提示すると、料金が値引きされるサービスを行うお店が出てきました。
公共交通機関を終日無料!なんてすごいことだし、投票に行くために休日を与える会社もすごい!
来年の選挙に、こういうものがどんどん出てくるように、今から呼びかけたいですね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

米国『中間選挙2018』事情

2018年11月06日 | 米国○○事情
アメリカの中間選挙の結果が続々と出てきています。






そしてこれは、つい先ほど出た、下院で民主党が勝利したという速報です。





以下は、D.C.のホワイトハウス前での反戦スタンディング、そして沖縄の米軍基地の撤去を訴えるべく議員事務所の訪問をしている平和活動家Shizuさんの記事です。

【GO VOTE!この白い館に住む男を喜ばせるな!】

11月6日はいよいよ中間選挙。

週末の夕刻になると、ホワイトハウス前にこの一団が現れて、投票を促す。
ヒップホップダンスあり、バンドあり。
ライトアップで『VOTE OUT BIGOTS』というメッセージ。
最終週末だから、今日は取り分け熱が入っている。


(まうみ注・動画はこちら→https://www.facebook.com/shizuko.nagashima.58/videos/pcb.1793256320801929/1793255764135318/?type=3&theater

『BIGOTS』とは、人種、宗教、政治面で、頑固に偏った考えを持つ人のこと。
分からず屋。
そういう奴らを選挙で落とせ!
というわけだ。

『Vote Blue』というサインも見える。
この国では、ブルーは民主党、赤は共和党を示す色だ。
共和党が過半数を占める現在の議会の構造が逆転すれば、トランプの好き勝手な政策にブレーキがかかる。

私は選挙権を持ってから初めての不在者投票。
「ニューヨークはどうせ民主党が勝つから、無理にしなくてもいいんじゃない?」と言う家族もいるけれど、何と我が家がある郡は、共和党派が多い地区。
前回もトランプが勝った数少ないニューヨーク州の中の郡だったから、州外にいるといっても外せないのだ。

特に今年は高校生たちが、”Vote them Out!”を合言葉に、銃規制に反対する議員を落選させようと必死になっている中間選挙。
棄権するわけにはいかない。

今頃このホワイトハウスの主は、共和党が強い地盤を回って、会場に支援者を集め、選挙演説に余念がない。
後ろでは真っ赤なシャツ着て、赤い帽子を被った人たちが奇声をあげている。
そんな様子をニュースで観ると、「OMG!(オーマイゴッド!)、何でこの男がいいの?」という言葉しか出てこない。

不在者投票は、投票日11月6日までの消印があれば有効だ。
大切だから、ワシントンの本局まで行って、重さを測ってもらってから出してきた。

11月6日、私がいたのは、この『BIGOT』大統領が喜ぶ結果が出るような国だったのかと分かったら、きっと暫く元気が失せてしまうだろう。

だから、GO VOTE!

それにしても、街頭演説もない、選挙カーもない、ウグイス嬢もいない。
この国の選挙の静かさには驚くばかり。
何処かの国とは大違いだ。
タウンホールミーティングに出かけたり、インターネットで調べたり、選挙民が自ら情報を取りに行くことが、当たり前になっている国だとつくづく思う。


******* ******* ******* *******

下院を民主党が主導権を握りました。
ニュースのコメンテーターたちは、津波のような激しさではなかったが、民意ははっきりと伝わったと言っています。

今回は、著名ミュージシャンの人たちが、とりわけこれまでずっと沈黙を通していたテイラー・スウィフトさんが、ちょうど今から1ヶ月前に、突然インスタグラムのポストの中で、政治的な意見を発したのでした。

これまで私は、政治的な意見を公にすることは気が進みませんでした。
でも、この2年間に、私の人生や、そして世界でも、いろいろなことがあったことから、今は考えが大きく変わりました。
私は、共和党の現職下院議員である、マーシャ・ブラックバーンを支持できません。
なぜなら彼女は、男女同一賃金法案や、DVやストーカーや性暴力から女性を守るための法案、そして同性婚に反対しているからです。
肌の色、ジェンダー、誰を愛するかといったことに関係なく、すべてのアメリカ人の尊厳のために戦ってくれない人には、投票することはできません。
私は今回の中間選挙で、民主党を支持します。


この発言後、たった1日で、有権者登録者数が、なんと6万5000人も増えたのだそうです。

テイラーさんは元々、カントリーミュージック業界に属していた歌手です。
この業界に属していたあるグループが、ブッシュ大統領の批判を行ったということで、業界から干されるという騒動が起きました。
そういうことからも、この業界に属している歌手たちは、政治的な主張、とりわけ共和党の批判を控える傾向があります。

ちなみに、テイラーさんが批判したマーシャ議員は、今日のテネシー州の上院選で当選しました。

テイラーさんは、今回の発言によって失うファンの数は、決して少なくはないだろうと言われています。
けれども彼女は、トランプ政権に対し、批判的な考えを明らかにしました。
その彼女の言葉に心を動かされた人もきっと、決して少なくはないだろうと思います。

アメリカでは、著名なミュージシャンが、堂々と政治の話をします。
「WE CAN END GUN VIOLENCE」と訴えたのはポール・マッカートニーさん
「アメリカ国民が、分別ある銃規制法案を支持する政治家に、投票することを願っています」とコメントしました。

銃規制といえば、先月末に、ペンシルベニア州ピッツバーグにあるユダヤ教礼拝所で、男が銃を乱射し、11人が射殺された事件がありました。
その事件の数時間後、インディアナ州での集会に出席し演説を行ったトランプ大統領は、その会場で、ファレル・ウィリアムスさんのヒット曲『ハッピー』を流したのだそうです。

「ユダヤ人は死ぬべきだ」などという狂った人種ヘイトを主張する男によって、11人もの尊い命が奪われた数時間後に、です。

事件を受けて、「礼拝所に武装した警備要員がいれば犯行を阻止できたはずだ」などと言い切る人なのだから、そういう神経の持ち主なんでしょうけれども…。

銃規制などするつもりは毛頭無い人間に、莫大な権力なんて与えてはいけない。
だから選挙というものを、いい加減な気持ちで考えていてはいけない。
候補者を一人一人、はっきり言って面倒くさいけど、どんな考えの人なのか、どんなことをしようとしているのかをちゃんと調べて、投票日には絶対に投票しに行く。
こういう姿勢が、ここ10年近くの間に、かなり定着してきたように思います。
ただ、この感想は、東海岸に住んでいるから持てるものなのかもしれませんが…。

この地域の小学生や中学生、そして高校生も、うちに来る生徒たちはそれぞれ、政治のことをよく話します。
きっと家庭の中に、政治の話がよく持ち出されているのだと思います。
「まだ投票できないのにね」と言うと、「投票できないからいっぱい話して、投票できる人に代わりにしてもらおうって、学校の先生が言ってた」と、いかにも残念そうに言う小学生。
「学校で、選挙や裁判ごっこクラスがあるよ」と言う中学生や高校生。
教育の中にも政治のパズルがしっかりはまっています。

さて、こちらの選挙は、上のshizuさんもおっしゃってたように、本当に静かです。
投票日は火曜日で、そのために休校になる学校や、休みになる会社もあります。
有権者はそれぞれ、最寄りの議会の傍聴に出かけたり、インターネットで調べたりして、自分で情報を取りに行くのは当たり前だと思っています。

連邦議会両院の多数党がどちらになるかによって、トランプ政権の今後の政権運営が、大きく左右される。
野党・民主党が下院で多数党となれば、トランプ政権が推進する政策や法案、予算措置の成立を、阻止できるようになる。
大統領の納税申告書など、トランプ政権が公表しない様々な資料の開示も、これまでより強力に要求できるようになる。


野党・民主党が、下院で多数党となりました!
なんと8年ぶりのことです。
そして今回、18歳から29歳の若者の3分の2以上が、民主党に投票したという結果が出ました。

上院での議員数は共和党が勝っていますが、今回の非改選議席数でいうと、共和党が圧倒的に多いので、共和党が依然として勝っているように見えますが、
上院改選議席の獲得数でいうと、民主党が24議席、共和党が9議席だったのですから、ただ過半数にいたることができなかったということです。

何より大きいことは、極右団体のティーパーティ運動のシンボルである、スコット・ウォーカー議員が落選したこと、
さらに、いまだに行われているゲリマンダー(特定の候補に有利になるように境界線を定めた結果、いびつな形になった選挙区)にも関わらず、民主党候補の議員たちが勝ち上がってきたことも、今回の選挙の特徴でした。

そして今回、これは全て民主党からですが、ネイティヴアメリカン、ムスリム、LGBT容認、最年少という、実に多様性に富んだ女性議員たちが誕生したことも素晴らしいと思います。

これからの政治、ますます目が離せません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

パスポート持ってる貴方、邦人保護費が税金じゃなくてパスポートの発行費用から支払われてるって知ってた?

2018年11月05日 | 日本とわたし


安田純平さんをバッシングする前に、パスポート発行費用の75%は邦人保護費年間『#363億円』だということを思い出してほしい
【KNN KandaNewsNetwok】2018年10月29日
https://knnkanda.hateblo.jp/entry/2018/10/29/065732

引用:

日本政府の正式コメントとして、『#身代金は支払われていない』。

『#邦人保護の費用は税金ではなくパスポートの発行費用』から支払われている。

年間363億円に達する邦人保護費。
パスポート発行費用の75%を占める?!


安田純平さんをバッシングする前に、パスポートを取得する時に何の説明もなく、搾取されている邦人保護費用をバッシングすべきだと思う。

邦人死亡者ひとりあたり7260万円!
邦人保護援護ひとりあたり 181.5万円!


******* ******* ******* *******

10年パスポートを再発行するとき、1万6000円払いますよね。
そのうちの1万2000円は、邦人保護関連費用だってこと、知ってましたか?
知りませんよね?
そんな説明、わたしは受けたことがありませんでしたし。

これ、どうしてこんなにぶったくられてたのか、ちゃんと説明させなくていいですか?

国会で聞いてほしいですよ、まったく。
国会が無理なら、みなさんがお住いの市や町の議会に問うて、ちゃんと答えてもらいましょうよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エセ経済学者の竹中平蔵さん、ポンコツ大臣たちと一緒に政界から姿を消してください

2018年11月05日 | 日本とわたし


sarahさんが言う通り、この竹中平蔵氏、自民党をぶっ壊す!なんて言って派手に騒いでた小泉元首相と二人で、思いっきり国をぶっ壊した張本人です。

そしてなぜかこの人は、どの政権にもしっかり食いついていて、派遣会社の会長として、経済学者として、政府の諮問会議などで委員を務めているのです。
論文や研究書を、他人の研究成果やグラフを盗んで、自分自身の著作として発表した、それも一回だけではない盗人なのに、です。
なぜ放置しておくのでしょう?
この人の立ち位置を考えたら、放置していてはいけないと思います。
報道するよう、もっとザワザワしたいです。

どうしてこんなことを思ったのか。

それは、sarahさんの上のツイートに応えて、竹中氏の愚行をさらに詳しくツイートで伝えておられたS_Shimizu @cao58020さんのツイート内容を読んでもらえるとわかります。

格差が広がれば広がるほど、自らが儲かる仕組みを作り上げましたからね。
派遣会社の会長として、搾取と収奪の限りを尽くす悪魔は、経済学者として政府の諮問会議などの委員を務めていますが、
日本を代表する経済学者だった宇沢弘文が、論文剽窃・盗用した竹中平蔵の学者生命を、奪っておかなかったのが残念!

竹中平蔵は一時期、日本開発銀行(現・日本政策投資銀)の研究所で、故・宇沢弘文さんと働いていた事があるんです。

宇沢弘文さんと言えば、自らの弟子がジョセフ・E・スティグリッツを含めて、何人もノーベル経済学賞を取っている、世界的な経済学者で、自らも、毎年のように、ノーベル賞候補に挙げられていました。
同じシカゴ大学の同僚でありながら、危険な市場原理主義者だと、蛇蝎の如く忌み嫌ったのが、新自由主義者でノーベル賞経済学者のミルトン・フリードマン。

宇沢弘文さんは、格差の拡大には大反対で、人としても素晴らしい人物でしたから、竹中平蔵を、蛇蝎の如く嫌っていたそうです。
竹中平蔵はこの時、33歳の駆け出しエコノミストに過ぎなかったのですが、『研究開発と設備投資の経済学』(東洋経済新報社)を上梓します。
そのデビュー作でサントリー学芸賞を受賞して、日本を代表する経済学者となったわけですが、
その実態は、アメリカ留学時代に共同研究者だった同僚(鈴木和志元明治大教授)、つまり他人の研究成果を横取りし、自分個人の著作として発表した、盗人野郎なんです。

しかも、研究を主導したのは鈴木和志さんでしたから、竹中平蔵の本を見て、ショックのあまり、同僚たちの前で泣き出してしまったそうです。
鈴木さんが泣き崩れた現場にいて、鈴木さんを励ましたのが、日本開発銀行(現・日本政策投資銀行)設備投資研究所の、研究顧問をしていた宇沢弘文さん(当時は東大経済学部教授)でした。
日本開発銀行に波紋が広がったそうです。
宇沢弘文さんが収めたそうですが、その後の竹中平蔵を見て、後悔していたとも聞きます。

しかも、竹中平蔵の剽窃や盗用は、それだけではありません
やはり、同じく日本開発銀行の後輩研究者だった高橋伸彰さんは、自分が作成して論文で発表したはずのグラフが、竹中平蔵の本に無断掲載されているのを発見して、驚愕してしまいます。
グラフは、高橋さんの論文の核をなすものでしたが、批判など意に介さず、竹中平蔵は、母校の一橋大学経済学部に、博士論文として提出しています。
さすがに剽窃・盗用の疑いの声の有る論文だからなのか、博士号は取れませんでした。
博士号を授与したのは、かの有名なキクマコこと、菊池誠のいる大阪大学でした。

竹中平蔵は、学者・研究者としては絶対にやってはいけない、最低最悪の事を繰り返した、人間の屑、最低の下衆です。
決して学者や研究者などではありません。
我欲の為なら倫理観もモラルもありません。

悪魔のようなことも平気で出来るのは、安倍晋三と同じくサイコパスだからでしょうか。
日本人が決して許してはいけない売国奴です。

後輩研究者の論文まで剽窃していたのは、今回知りました。
つくづく呆れました。

宇沢弘文さんには、竹中平蔵を学者生活が出来ないように、叩き潰しておいて欲しかったです。
残念!
宇沢弘文さんは、本当に人格者でしたからね。

でも、シカゴ大で同僚だった、新自由主義者でノーベル賞経済学者のミルトン・フリードマンに対しては、蛇蝎の如く忌み嫌っただけじゃなく、
経済学をやるものとして危険な市場原理主義者だと、徹底的に批判していましたし、叱り飛ばしてましたよ。

竹中平蔵は剽窃をした訳ですから、経済学者としての単なる考え方の違いを超えて、イカサマ、ズルをしたわけですからね。
叩き潰すべきでしたね。
糾弾すべきでした。



こんな人を、政府の諮問会議の委員というような立場に立たせていてはいけないと思います。
まあ、今の安倍政権の『全員野球』内閣の面々も、大臣などというような立場に立たせていてはいけない人ばかりなんですが…。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

戦争の無い世界をつくる使命を授けられた人、「おてんてん」な笹森恵(しげ)子さんとの再会

2018年11月04日 | 友達とわたし
ばばちゃんとまた会えました!
ばばちゃんの名前は笹森恵子(しげこ)さん。
13歳のとき、広島の爆心地で被曝した人です。



前回お会いしたのは2016年。
New Jersey Peace Actionが、平和賞を恵子さんに授与するということで、彼女がニュージャージーに招待されたのでした。
このNew Jersey Peace Actionのオフィスは、うちから歩いて数分のところにあるのですが、前身の設立者の一人が、恵子さんの養父、Norman Cousins氏なのでした。
そのNJPAに、イングルウッド高校から、恵子さんの講演の依頼があり、カリフォルニアのご自宅からやって来られた彼女を、拙宅でお迎えさせてもらいました。
恵子さんのお世話と通訳を、友人の歩美さんが引き受けていたことから、この素晴らしい出会いを授かったのですが、
あれから2年半近く経った今、恵子さんは86歳、
なのに、「この後またすぐに日本に行くの。だから今年は5回も日本に行ったことになるのよ」なんてことをサラリと言うスーパーウーマンっぷりは健在で、
「でもばばちゃん、お願いだから無茶はしないで」と、思わず肩を抱いてお願いしてしまうわたしはやはり、凡人だということなのでしょうね…。

今回の講演は、ペンシルバニアのエリザベスタウン大学で教えておられる高橋先生からの依頼で行われました。
なので今回は世話役ではなく、聴講する人たちの一人として行く歩美さんから、「一緒に聞きに行きませんか?」と誘ってもらい、もちろん!と即答。
夫と歩美さん、そしてわたしの3人で、一路ペンシルバニアに向かいました。

雨が多かったのであまり美しくないと言われている今年の紅葉ですが、高速道路の両側に次から次へと現れてくる樹木は、わたしたちの目を十分楽しませてくれました。










場所の特定が難しくて、マップでは無理と諦めて、構内にいる学生さんたちに手当たり次第に尋ねながらやっと到着。


ばばちゃんだ!


近寄っていくと、あ〜!と満面の笑顔を見せてくれたばばちゃん。
「一番前の席に座りなさいよ」と言ってもらったのだけど、大学から15分ぐらいの所に住んでいる夫の両親も一緒に聴講するので、5列ほど後ろの席に座りました。

いよいよ講演が始まります。
日本語の通訳は高橋先生が、そして英語の通訳は(多分)大学の学生さんが担当です。




ばばちゃんのお話が始まりました。
「英語はブロークンだし、いろいろ脱線するけれども、まあおばあちゃんトークだと思って聞いてください」と言って場内をわかせる恵子さん。




子どもの頃、楽しかったことは?という質問(これは前もって高橋先生が用意しておいたもので、ハプニングが起こらないための対策だったようです)に、
毎週土曜日の夜は、映画館に行って(といっても当時はニュースしか流さない映画館が多かったそうです)、ポパイとベティのマンガを見るのが楽しみだったこと、
その後、洋食屋さんに行って、牛タンシチューやオムレツを食べさせてもらうことが楽しみだったことを話すのと、先に歩美さんとわたしに教えてくれてた恵子さん。
「タンシチューってのが子どもだったから言えなくて、いつもタンチュータンチューって言ってたの」
と言う恵子さんに、
「でもばばちゃん、あの時代にタンシチューを毎週食べてるようなご家庭って、そんなになかったんじゃないの?」とわたしたちは聞いたんですが…。

これがその映像。


原爆が投下される前の、広島の街並み。


同じく原爆が投下される前の「広島県物産陳列館」(原爆ドーム)。それはそれは美しい建物だったそうです。


赤い点は、ばばちゃんが立っていた地点。その右上の緑の点は、被爆したばばちゃんが逃げた場所。左下の青い点は、ばばちゃんの家。


原爆投下後の広島。


恵子さんの養父ノーマン・カズンズ氏と、谷本牧師。


原爆乙女(ヒロシマメイデン)の25人。


恵子さんの手術の軌跡。






みんな真剣に、時には笑い、時には眉間にしわを寄せ、時には涙を流し、恵子さんの話に聞き入っていました。


******* ******* ******* *******

少し長くなりますが、2016年の恵子さんとの出会いを書いた記事を、もう一度ここに載せておきます。
恵子さんの養父ノーマンさんのこと、そして恵子さんご自身のことを、詳しく書いてありますので、ぜひ読んでください。


夫とわたしがワシントンD.C.から戻った日曜の夜、彼女と歩美ちゃんは台所にいて、お茶を飲みながらくつろいでいた。
小柄な彼女は、椅子から立ってもちっちゃくて、そのちっちゃい体をペコンと折って、「おじゃましてます」と微笑んだ。
その可愛らしいこと。
わたしはいっぺんに好きになって、ばばちゃん(彼女のあだ名)大好き!と、心の中で叫んでいた。
彼女の名前は、笹森恵子さん。
恵子と書いてしげこと読む。
今年84歳になる彼女は、13歳の夏、真っ青に晴れた空を、銀色の光をキラキラ輝かせて飛ぶ『Bちゃん』から落とされた、世にも恐ろしい破壊力を持つ爆弾の、爆心地に立っていた。

歩美ちゃんから彼女のことを聞いた時、わたしはいつもの早とちりをして、日本からこちらにいらっしゃったのだと思い込んでいた。
でもそうではなくて、彼女はカリフォルニアに暮らしながら、世界平和の実現を使命に持ち、広島での体験を各地で語り続ける人なのだった。
彼女と出会った日曜日の夜から水曜日の朝までのことを、わたしはきっと一生忘れないし、これからもまた、もっと一緒に時間を過ごしたいと思っている。


原爆というものが、そしてそのような化け物を作ろうと考えた軍隊というものが、そしてその人殺しを実行するのが当たり前という狂った認識が正しいとされる戦争というものが、わたしは憎くて憎くてたまらなかった。
まだ漢字がそれほど読めないぐらいの頃から、図書館に行っては、原爆についての本を読んだり見たりしていた。
読んでいるうちに、文字や写真がぼやけてきて、涙をポトポトとページの上に落としているのに気づいて、慌てて拭いたりした。
それはそれはたくさんの本を読んだつもりでいたけれど、しげ子さんのような経験をした、25人の女性のことを、わたしは全く知らずにいた。
『原爆乙女』と、しげ子さんたちは呼ばれていた。
こちらでは『HIROSHIMA MAIDEN』
しげ子さんは、「この『原爆乙女』という呼び名が嫌いだった」と言った。
わたしも嫌いだ。

話しても話しても尽きることのなかった話を、自分の頭の中で整理して、なんとかまとめようと思うのだけど、気持ちが絡み付いてしまってうまくできない。
けれども、ばばちゃんを空港で見送った後、彼女のことをもっと深く知りたくなって、自分で読んだたくさんの記事の中に、話したことが散りばめられていたので、その中から数件、ここに紹介させてもらう。

↓転載はじめ

記憶1 笹森 恵子さん
被爆した10年後、手術のため渡米。
平和のため使命を持って、広島の体験を語る。

【戦争の記憶・Memories of War2015.9.25
http://memories-of-war.com/m1-shigeko-sasamori/


笹森 恵子さん
ささもり・しげこ/1932年6月16日広島生まれ。
アメリカ・カリフォルニア州在住

1945年8月6日、13歳で被爆した笹森恵子さん。
真っ青な空に、銀色の飛行機が、キラキラと輝き、白いものが落ちてきた…。
その瞬間のことは、鮮明に覚えているという。
大火傷を負った恵子さんだが、両親の献身的な看護で、なんとか回復することができた。

10年経って、ケロイドの手術のために、アメリカに渡ることとなり、その後、アメリカ人ジャーナリストのノーマン・カズンズさんの養女に。
「それもこれも神様の思し召し」という恵子さんの体験と、平和への想いを聞いた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

銀色の飛行機から白いものが落ちるのを見た

──恵子さんは広島ご出身ですね。1945年8月6日は、どこで何をされていましたか?

当時、私は女学校一年生で、13歳でした。
その頃すでに、東京や大阪には、傷痍爆弾が落ちていて、大火事でたくさんの方が亡くなっていました。
私がいた広島にも、B29はしょっちゅう来ていました。
でも、爆弾はまだ落とされたことはなかったので、B29が見えても、慣れてしまっていましたね。

当時、「建物疎開」といって、爆弾が落ちたときに逃げやすいように、建物を壊して間引いていたんですね。
若い男たちは兵隊にとられていますから、建物を壊すのは年寄りや女性です。
瓦礫の片付けをするのは、中学1、2年生でした。

その日は、私たちの学校が、はじめての作業に当たっていました。
朝8時に集合し、これから作業にあたろうというときに、飛行機の音がして、私は空を見上げました。
雲ひとつない、真っ青なきれいな空でした。
銀色にキラキラ光る飛行機が、白い飛行機雲を出しながら、飛んでいます。
私は、近くにいたクラスメイトに、「見てごらん、きれいよ」と言って、空を指さしました。
その瞬間、白いものが落ちるのが見えました。
あとから聞いたら、爆弾がついた落下傘だったのです。
ものすごい爆風が起こりました。
そして私は倒されました。

私がいた場所は、爆弾が落ちた中心地から、1.5㎞以内にありました。
今で言うと平塚町です。




──その瞬間は、爆弾が落ちたということもわからず、怖いとか痛いといった感覚もなかったのでしょうか。

ええ。
だから、中心地にいた人たちは、一瞬のうちに丸焦げで、熱いも痛いもなかったんじゃないかと思います。

私の姉は、「太陽が地球に落ちたのかと思った」と言っていました。
姉たち上級生は、軍の仕事をするため、海田にある工場にいました。
大きな音がして、何事かと思って建物から出て見たら、大きな火の玉が沈んでいくのが見えたと。


──僕たちはいわゆる「きのこ雲」をイメージしますが…。

雲が見えるのは、最後なんじゃないかしら。
火の玉が見える前に、私は飛ばされたわけですが、火の玉のあとに雲ができるんだと思います。
雲の前に、赤い火柱を見たという人もいます。

私は、長い時間、気を失っていました。
意識が戻ってから周りを見たら、真っ黒でした。
暗いのではなくて、黒いのです。
大火傷を負っていたのに、何も感じませんでしたね。
真っ黒の中にしばらく座っていたら、霧が出てきたように、少しずつ明るく、グレーになってきました。
ああ、きっと、近くに傷痍爆弾が落ちたんだ、と思いました。

「爆弾が落ちたときは、大人について行け」と言われていましたから、とにかく、近くを歩いている大人について行こう、と思いました。
着ているものがボロボロだったり、足を怪我していたり、火傷で皮膚がめくれ、ピンク色になっている人たちが、歩いていました。
川のほうへ向かっていたんです。

川べりまで来ると、たくさんの人が集まっていました。
川の中にも、人が大勢入っていたので、水が見えないくらいでした。

「ぎゃーん」
ふと、赤ちゃんの泣き声が聞こえました。
ーまうみ注ー
この母子とも焼けただれていた。
母親はそれでも、なんとかして赤ん坊にお乳をあげようとしていたのだそうだ。
しげ子さんの耳には、その赤ん坊の泣き声が、今もはっきりと残っている。


周囲のざわめきも聞こえてきました。
それまでは無感覚で、何も聞こえなかったんです。
音が聞こえるようになっても、自分の火傷には気づきませんでした。
体の4分の1が、焼けていたんですけどね。

橋を渡って、避難所になっている小学校へ行きました。
大きな木の下に座ったら、そのまま倒れてしまったようです。
いつの間にか、講堂に運ばれ、私はそこに5日間いました。

目が開かなくて、昼も夜もわからないのですが、とにかく、
「千田町一丁目の新本恵子です。お水ください。両親に伝えてください」と叫びました。
だんだん、声を出すのもしんどくなってきます。
あともう1回だけ、もう1回だけ叫ぼう。
そうしたら、誰かが聞いてくれるに違いない。
そう思いながら、声を出していたことを覚えています。

結局、お水はもらえませんでした。
それで良かったんです。
大火傷を負っている人に、お水をあげてはいけないそうですね。
お水を飲んで、「ああ、美味しい」と言って死んだ人が、たくさんいるそうです。

母は、焼け跡に毎日通い、私の名前を呼んで、探していたそうです。
火傷をした人の収容所があると聞けば、そこまで歩いていって探しました。
似島へも、船で行きました。
でも、見つからなくて、また帰ってくるんです。


「炭団」のような私を、母が見つけてくれた



私たちは家が二つあって、「夏の家」と呼んでいたほうの家は、川沿いの魚市場の近くにありました。
そちらの家は、たまたま魚市場の陰になって、爆風でも倒れませんでした。
当時、母は、ここにいたんです。
家の中で飛ばされ、起き上がってから外を見てみたら、周りの家がぺたんこにつぶれていたそうです。

そこから、普段、私たちが暮らしていたほうの家の、二階ベランダ部分が見えました。
それで、母は、ぺたんこになった家々の屋根を歩いて、行ってみました。
でも、やはり潰れていて、どうすることもできません。
隣の家の人の声が聞こえますが、どこにいるのかわかりません。
瓦礫をどかしてもどかしても、人らしき姿は見えません。
そうこうしているうちに、あちこちから火の手があがり、母のいる場所にも火が近づいてきました。

「ごめんねぇ。どこにいるかわからないの」

お隣さんを助けることができないまま、母は、その場を去らざるをえませんでした。

父は、その時ちょうど、外にいました。
前の日に釣りに行ったので、ご近所のおじいさんたちのところに、魚を持って行っていたのです。
そして、私と同じように、飛行機から、白いものが落ちるのを見たそうです。

「爆弾落ちたから、逃げえ!」

おじいさんたちにそう叫んで走り、魚市場にある、大きなセメントの冷蔵庫へ、すべりこみました。
爆音が消えてから、外の様子を見てみたら、さっきまで一緒にいたおじいさんたちは、座った格好のまま、皮膚が真っ赤に焼けただれていたそうです。

一瞬遅かったら、父もそうだったのでしょう。

両親と家が無事だったおかげで、私は良くなることができました。
家で、両親が、治療してくれたんですから。
薬もないし、病院はいっぱいだし、私は、食用油で治療してもらったんです。


──想像もつかないような体験をされたんですね。

想像できないでしょう?
元気になってから、自分がどのような状態だったのか、母に質問したんですが、いつも「今度ね」、と言われていました。
年をとってから、ようやく教えてくれたんです。
だからいま、こうしてお話ができるわけ。

避難所の講堂は真っ暗で、母は、ロウソクを1本持って、「しげこ~しげこ~」と、名前を呼びながら探したそうです。
そうしたら、蚊の鳴くような声で、「ここよ~」と言ったと。
ハっと声の主を見ても、それが本当に娘なのかどうかわかりません。
「炭団(たどん 炭を丸めた燃料。黒く丸く、ざらざらしている)のようだった」、と言っていました。
私の顔は、黒く腫れ上がっていて、目も鼻もわからなかったんですね。
もちろん、髪も焼けてしまっていました。
でも、おかっぱにしていた髪の毛のおかげで、額の上半分と頭の部分、耳のあたりの皮膚は、焼けていませんでした。

父は、黒く焼けてしまった皮膚を、はいでくれました。
母は、とにかく、私の目・鼻・口を開けようと、食用油と布を使って、私の顔を拭いてくれました。
膿がどんどん出てくるので、洗い流す必要があるんです。
本当に、つきっきりで看病してくれました。


──目が開けられるようになったり、食事できるようになるのに、どのくらいかかったのでしょうか。

はっきりとは覚えていません。
新円切替(1946年2月16日に幣原内閣が発表した戦後インフレ対策)の前だった、と思います。

私が寝ていると、近所の学友のお母さんが来て、私の母と話しているのが、聞こえたことがあります。

「恵子ちゃんは、本当に良かったねぇ。
私の娘は、半分瓦礫の下敷きになってしまって、一所懸命引っ張り出そうとしても、ダメだったの。
だんだん火がまわってくるでしょう?
『お母さん、早く逃げて。お母さんがいなかったら、下の子たちはどうなるの』って言うの」

生きたまま別れなくてはならなかったなんて、どんなに辛い気持ちだったでしょうね。

他にも、地獄のような広島の町の様子を聞きました。
町には死体がゴロゴロと転がっていて、兵隊さんたちがそれを、ゴミでも拾うかのように拾って、焼き場へ持って行くんだそうです。
真っ黒になるほど蝿がたかって、ウジもわいていて。


──そういったお話を聞いたときの恵子さんの心境は、どのようなものでしたか。

戦争ですから、人が死ぬということ自体は、わかっていたわけです。
それで、最初は、「広島にも、そんなにたくさんの爆弾が落とされたのか」と思っていました。
次第に、みんなが、「ピカドン」と言っているのを聞くようになりました。
たくさんの爆弾ではなくて、一つの大きな爆弾だったんですね。
「そんなに大きな爆弾があったのか」と、驚きました。
また落とされるかもしれない、と怖い気持ちがありました。

私は、終戦のときのラジオ放送は聞きませんでしたが、家族や近所の人がうちに集まって、話しているのを聞きました。
日本は負けた、と。
でも、終戦になる前から、そういうムードはあったと思います。
だって、食べるものもないし、家にあるものは指輪でも鍋でも、軍に差し出さなければならなかったくらいですから。

「こんなものまで出させて…。この戦争は負けるでぇ」

そうやって、大人たちが、陰で言っているのを聞きました。


──今考えると軍部はおかしかったなど、いろいろな考えがあると思うのですが、当時はどうだったのでしょうか。

当時、天皇は神様でしたよ。
神様だから、直接見てはいけない、と言われていたのです。

とにかく私は、戦争が終わったことが嬉しかったです。
戦後、広島には、外国から、食べ物や着るものが送られ、建物も建つようになり、人様のおかげで復興していきました。
その頃になるとまた、「戦争がなければ、みんな友達になれたのに。どんなにか幸せだったのに」と、強く感じるようになりました。
年を経るにつれ、戦争の悪を自覚します。
だからこうして、聞いてくださる方がいるところへ行っては、戦争の話をしています。

いま、憲法を変える、という話もありますよね。
私は「なんで?」って、すごく驚きました。
戦争が起こる可能性のある方向へは、進んでほしくないです。


原発と日本人の品格

──こうしてお話を伺っていると、リアルな「戦争」のことを知らないのは、本当に怖いと感じます。
恵子さんの凄まじい体験をお聞きして、ようやく少し知ることができていますが、知らない人も多いと思います。


生まれる前にあったことは、どうしてもぴんと来ないんですよ。
私も、明治維新や関東大震災のことを、映画で見たりして、「ああ、そういうことがあったんだ」とは思いますけど、ぴんと来ないですもの。

先日、若い人たちと話をしていて、原子力発電所のことが話題に出ました。
原発は廃止したほうがいいか、続けたほうがいいか、みんな手を挙げたんですね。
一人の青年は、どっちがいいのかわからない、と言いました。
私は、
「あなたの気持ちはよくわかる。
私の体験談を聞いても、『そういうことがあったのか』とは思うけど、ぴんと来ないわよね。
生まれる前の話だもの。
でも、これからの未来のために考えるのよ。
積極的に、現状はどうなのか研究して、それで意見を決めてごらん」と伝えました。

私は、原発に反対です。
理由は、いまだに放射能が出ているから。
放射能を浴びて、ガンになって、死んでいった人は多いんです。
私の父も母も、放射能で亡くなりました。
すぐに火傷で死ななくても、遅かれ早かれ不調が出るんですよ。
原子力じゃなくたって、電気は作れるはずです。

これだけ技術は発達しているのだし、もっと日本の科学者が、新しいエネルギーの研究に力を入れれば、原子炉なんて要らないと思います。

一人の技術者の方が、こう言いました。
「原発は、廃止できるに越したことはないと思うけど、いまは技術が発達して、絶対に壊れないようなものが作れるから、全部なくす必要はない」

「それなら、福島にある原子炉は、修理できないんですか?放射能が漏れているのは、どうにかなりませんか」

私が尋ねると、
「私は、作るほうの技術者なので、直すことについてはよくわかりません」ということでした。
まずは、止めなければいけない、と思うんですけどね。

いま、世界から見て、日本は人気がすごく落ちています。
そういうデータを見たことがありますし、私の実感としてもそうです。

「絶対に戦争をしない。核兵器を持たない。原発はすべて止める。」

そう宣言して立ち上がったら、元の日本のように、尊敬されると思います。
原発は、今日明日止めるのは無理でしょう。
でも、少しずつなくしていくのです。


手術のためにアメリカへ。そして看護士に

──恵子さんは、顔のケロイドの手術のために、アメリカに渡られたそうですが、それは何歳の頃ですか。

被爆の10年後で、23歳の頃です。
1年ちょっといました。

──アメリカで寄付が集まり、25名の方が、一緒に行ったそうですね。
(アメリカ人ジャーナリストのノーマン・カズンズさんが、ケロイドを負った若い被爆女性のための、寄付金プロジェクトを発足。
ノーマン・カズンズさんはのちに、恵子さんの養父となる)
原爆を落とした国に行くことについては、複雑な気持ちではありませんでしたか。




当時私は、流川教会の谷本清先生を囲んで行なわれていた、「聖書の会」に行っていました。
谷本先生が、日本に来ていたノーマン・カズンズに、「この子たちの手術はなんとかならないだろうか」と、言ってくださったんじゃないでしょうか。

アメリカに戻ってから2年かけて、お金を集めたそうです。
あるとき牧師さんに言われて、私もみんなと一緒に、市民病院に行ったんです。
そこに、ノーマン・カズンズとお医者さん、看護士さんが来ていて、問診を受けました。
手術をして機能が回復する、アメリカに渡る元気がある、等の条件を満たした人が、対象に選ばれたようです。

問診の際に、「アメリカに行きたいか」と聞かれたのですが、私はきっと行かないだろう、と思っていました。
すでに、東京大学の附属病院で、何度も手術をしていましたから。
アメリカに行くと言われても、ぴんと来なかったです。
全然期待していませんでした。
でも、選んでもらってアメリカに行った。
これも、神の摂理だと思います。

「なぜ私が大火傷を負ったのか」と考えたとき、「神の証」なのではないか、と思いました。

神は、人間が幸せになることを望んでいます。
戦争なんてしちゃいけないの。
でも、それを伝える術がないでしょう?
だから、私たちは、それを伝える使命を負ったのです。
私の火傷の痕、傷を見れば、単に言葉で伝えるよりも、感じるものがありますよね。
ああ、そのために私は、こんな火傷を負ったんだ、と思いました。
アメリカに渡ったこともそうです。
私の人生はすべて、神の摂理なのです。


──そのように思えるようになったきっかけはあるのでしょうか。

もともと、私の家は、仏教を信仰していました。
おばあちゃん子だったので、おばあちゃんについて、お寺によく行っていました。

被爆後、歩けるようになって、友達の家に行く道すがら、きれいな音楽が流れてきたので、近寄ってみたんです。
それが、キリスト教の教会でした。
讃美歌を歌っていたんですね。
「どうぞお入りください」と言われて中に入り、後ろのほうに座って、牧師さんのお話を聞きました。
意味はよくわからなくても、とにかく居心地が良かったです。
それから毎週日曜日に、教会に通うようになりました。

谷本先生が、「あなたのような状態の人を、他にも知りませんか」とおっしゃったので、私と同じように火傷を負っている、女学生たちを集めました。
そして、週に1回、「聖書の会」を開くようになったのです。

私は、子供の頃から、看護士になりたいと思っていました。
東大病院で手術を受けるたびに、その思いを強くしていました。
アメリカで手術をし、帰国する直前に、将来のことを聞かれたとき、日本に帰ったら、看護士になるつもりだと答えました。
そうしたら、「ここでやってみないか」と言われたんです。
すぐには決められなくて、両親に相談しました。
父は、
「お前といつまでも一緒にいられるわけじゃない。だから、自分で決めなさい」と言いました。

アメリカでは本当に良くしてもらったので、またみんなに会えるという喜びで、それほど深く考えずに、また渡米することになったんです。
飛行機の手配等は、みんなノーマン・カズンズがやってくれました。
私は、ノーマン家の養女になったから、アメリカで学ぶことができたんです。


──最後に、これをお聴きの方にメッセージをいただけますか。

愛の心、思いやりの心を育てることが、大切だと思います。
そうすれば、自然に、戦争反対の気持ちも生まれるでしょう。
この世で一番大事にしなければならないのは、命です。
命を大切に、頑張って生きていきましょうね。(了)
(インタビュー/早川洋平 文/小川晶子 写真/河合豊彦)



米国で伝える
一人の命の大切さ
笹森 恵子さん(在米被爆者)

【ピースデポ】

http://www.peacedepot.org/essay/interview/interview31.htm

被爆後、しばらくの記憶は、断片的です。
目が腫れて開かず、あまりのことで、痛みも感じませんでした。
私は、ぞろぞろと歩く人々の後を付いて行き、段原国民学校(現在の段原小学校:広島市南区)までたどり着き、木の下に倒れ込み、そこで気を失いました。
次に私の意識が戻ったのは、千田町の自宅でした。
顔が全部、真っ黒に焼けただれ、前も後もわからない状態だったそうです。
まず父が、ちりちりに焼けていた髪を切り、顔の皮膚を剥いだところ、その下は、膿で真っ黄色だったそうです。
母は、「はよう口を開けなくちゃ」と必死になって、布に食用油を塗り、膿を取りました。
8月のものすごい暑い中、それが5日間続いたのです。

母は、この話を、被爆後何年も経ってから、私が何度も訊くので、ようやく話してくれました。
当時、私は、泣きわめく力さえなく、いつ死ぬのかと、とても不安だったとのことです。
だいぶ良くなってから、皮膚にひっついたガーゼを剥ぐ時に、痛かった記憶はありますが、それまでは、痛みもまるで感じないような状態が続きました。
私が今生きているということは、今後大変な世の中になるから、その時のために生きろと、神様が生かしたのかなと思います。

みんな、核の恐ろしさを、頭ではわかっていても、心まで理解できている人はどれだけいるのか、と考えます。
心に応えていたら、平和運動などにも一生懸命になりますよね。

私がいつも話すのは、「命の大切さ」についてです。
自分の身内が戦争に行って、犬死にすることを考えると、本当に命がもったいない。
「何十万人亡くなった」、という数字は大事だけれど、数字だけでは私も忘れてしまうと思います。

「一人の命が大事」、という思いが強いです。

一人ひとりを動かす、という力は大切なのです。
あるアメリカの人とお話をした時のことですが、彼には13歳の娘がいるということで、
「私は、同い年の時に被爆したんだ」と話したら、彼は震え出し、涙を流し出しました。
自分の娘のことを思っての反応です。
みんながそういう風に感じてくれれば、良い方向に変わっていくと思います。

私の経験は、大変でなかったと言えば嘘になるけれど、あのとき両親は、大火傷を負った私を治療しながら、
毎日いつ死ぬかもわからず、治った後も元には戻らない状況で、その心の痛さは、私どころではないと思います。
私は、若い人たちに、
「あなたがお父さん、お母さんになったときに、自分の娘がそんな状態になったらどうする?」、という風に話します。
被爆証言は、たくさんの方がされているし、本もたくさんあります。
だから私は、私が、どういう感じで命の大切さを考えているか、ということを話します。
難しいことを話すよりも、気持ちで伝える方が、届くと思うからです。

アメリカの学校で話をすると、よく、その後に手紙が届きます。
その中には、私の話を聞いて、原爆・核兵器への考え方を変えた人や、
「高校を出たら軍隊に入ろう、と思っていたけどやめた」という反応が、かなりあります。
「家に帰って、お母さんに話をしたら、涙を流した」なども。
そういう知らせを知ると、やっぱり嬉しいですよね。

アメリカの高校には、米軍のリクルーターが入ってきて、子どもたちを軍隊に囲い込もうとするのですが、
私は、
「戦争というのは、いくら大義があろうが、人殺しをすることには変わらず、あなたたちがもし、軍隊に入って戦争に行ったら、罪人になるんだよ。
それだけじゃない、殺されるんだよ」
と話をします。
私にも息子がいますが、その子が生まれた時に、
「この子は、絶対に戦争には行かせない。
この子は、戦争に行って人殺しをするため、また、殺されるために生まれてきたんじゃない」
と思いました。
息子には、
「例えば、もし、赤紙のようなものが来たとしたら、私が先に行くよ」と言いました。
自分が殺されるのなら、それでもいいという気持ちです。
世の中の親は、みんなそう思うはずです。

最近は、大学で、話をする機会が多くあります。
広島市が行っている、全米各地での原爆展に、私も行って、様々な州で、学生さんに話をしてきました。
みなさん、とても真摯に受け止めてくださり、私も、とても良いフィードバックをもらっています。
私が行く所は、事前学習をしっかりしていることもあり、行くとすでに受け入れ態勢ができていることが多いのですが、
私は、核兵器の問題に関心がなく、賛成・反対どちらでもない、道端を歩いているような人たちにも、話を聞いてもらいたい、動いてもらいたいと思います。

オバマさんの、「核兵器のない世界」は、彼が本気で思っているから言われたのだと思いますが、
これがオバマさん一人だったら、やっぱり消えていくと思います。
目的を果たせるよう、私たちみんなが、支えなくてはいけません。
私は、学校に行ったときにも、いつも言います。
誰だって、一人の力ではできない。
私たちがやらなくちゃいけない。
私もそのためにも頑張ります。
(談。まとめ、写真:塚田晋一郎)


↑以上、転載おわり



ばばちゃんが、うちから30分ほど車で行った町の私立高校で、講演したときの様子。
前日の日曜日に、講演やインタビューで6時間、休み無しで話し続け、戻ってきたわたしたちとまた話に花を咲かせていたばばちゃんは、
さすがに疲れが出ていたのか、真っ直ぐに歩けない状態で、おまけに耳鳴りがひどくて、自分の声も変に聞こえると言っていた。
けれども、いざ壇上に立つとこの通り。








高校生たちも身じろぎもせず、真剣に話を聞いている。


泣いたり笑ったりの30分。しげ子さんの言葉は、彼らの心に、どんなふうに届いたのだろうか。


(生徒たちからの質問)
ー手術のためとはいえ、アメリカに来ることに抵抗は無かったか。
ーアメリカに対してどう感じたか。
ー世界の核問題についてどう思うか。


(恵子さんの答え)
手術が受けられて、それで自分が良くなると信じていたので、場所はあまり関係が無かった。
・アメリカという国のせいで、アメリカ人のせいで、わたしはこんな酷い傷を負ったと、そんなふうに考えたことは無かった。
これは戦争のせい。
戦争は人を殺し、傷つける。
だから、人間は、戦争など起こしてはいけないの。
・アメリカに降り立ち、暮らし始めるうちに、日本はどうして、こんな豊かで広大な国と、勝てるはずの無い戦争をしてしまったのだろうかと思った。
・核と人類は、共に生きていくことなどできない。
だからわたしは、あなた方のような若い人たちにお願いしたい。
今は、わたしの話を聞いて、頭の中がこんがらがっているかもしれない。
意味があまり分からないかもしれない。
それでもいいから、時間をかけて、よくよく自分で考えて。
自分たちの、そして自分たちの子どもの未来に、平和が存在しているか否かは、わたしたち一人一人の平和への強い意思が必要なのだから。
・オバマ氏が今度、伊勢志摩サミットで訪日する際に、もしかしたら広島を訪問するかもしれないと言われている。
「わたしはその頃、ちょうど広島に居るので、ちっちゃい体を活かし、こっそり近づいてって、
『オバマさん、核兵器の無い世界を実現してください!実現すると言うまでこの手を離しません!』と捕まえる」
と言って、周りを大笑いさせていた。


******* ******* ******* *******

ああ、あの時はオバマ大統領だったんだなあ…と、ため息をつきながら読み直しました。

恵子さんは今回もまた、

戦争の愚かさ、酷さを説き、会場のわたしたちに、特に若い人たちに、時間をかけて、自分の頭でよく考えて、
自分たちのために、そして自分たちの子どもの未来のために、平和を求め、戦争の無い世界を作ろうという気持ちを持って欲しい。
誰だって、一人の力ではできない。
だから私たちがやらなくちゃいけない。
そう思って欲しい。
私もそのために頑張りますよ。

と、何度も何度も繰り返し訴えていました。

そしてその話の中に、「この会場には、それをずっと実践して活動している素晴らしい女性がいます」と言って、恵子さんは歩美さんを紹介しました。
歩美さんは、本当にたくさんの平和実践活動をしている人ですが、恵子さんはその中の「劣化ウランで増えたイラク小児ガン患者を支援する活動」を紹介してくれました。
平和活動を通じて深くつながる二人の、互いを尊敬し合う姿に、会場からも大きな拍手が起きました。

そしてもう一つ、質問に立った米国人男性が、声を詰まらせながら、アメリカ人として謝りたい、こんなひどいことをしたことを恥じると恵子さんに言ったとき、
恵子さんは、
「原爆はあなたが落としたのでは無い。アメリカが落としたのでも無い。政府や軍隊が落としたのです。戦争が落としたのです」
「だからあなたに謝って欲しいなんて全く思っていません。もう起こってしまったことは仕方がない。その今の気持ちを未来の、戦争の無い世界を作る原動力にしてください」と訴えました。

あの過ち…。
あれよあれよという間に戦争に突き進んでいってしまうときの社会に、どれほどの過ちが存在していたか。
報道に、会社に、家庭に、抗いようの無い強い作用が働いて、止めようにも止まらない。
その恐ろしさ、おぞましさ。

絶対にもう、あの社会が戻ってくるようなことになってはならない。
そう強く思いました。


会の終わりに、もし近くに住んでいたら大の仲良し家族同士になっていただろうくみさんと、その息子(まだ幼児だった)ジュリエン君に会ってびっくり!!
嬉しいやら懐かしいやら。
よくよく聞くと、くみさんと今回のこの会を主催した高橋先生が学生時代の同窓だったそうな。
It's a small world!!

会の後に一緒に食事できないの?って恵子さんに聞かれて、思いっきり後ろ髪を引かれたのですが、夫の実家で夕食を食べ、その後コンサートに行く予定になっていたので、
今回はすごく残念だけどここでお別れしましょうと、恵子さんにさよならを言って、会場を後にしました。

また来年、東海岸でも西海岸でも、どちらでもいいから会いたいな、ばばちゃん!
くれぐれもお身体を大切に、そしてまだまだ多くの若い人たちに、語りかけていってください!
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何度でも言います。日本には核物質による発電は要りません!廃炉を進める政治家に投票しましょう!

2018年11月02日 | 日本とわたし
10月30日に行われた、東電元会長の勝俣氏の発言を読んで、ああ、地震大国日本に核物質で発電させるような危険極まりないものを管理運営していたのは、こんなろくでなしだったのだと再認識しました。

誰も万能であれ、などと思っていません。
あんな危険物を取り扱うのだから、それに相応する責任を持ち、ありとあらゆる災害を想定し、その一々にどういう対処をすべきかを考え、それらを実施できる準備を整えておく。
それが上に立つ者の仕事です。
国策という名の下にカネは使い放題、競争相手もおらず、経営に苦心する必要も無い名ばかりの会社に、原子力発電所のようなものを管理運営させていることが間違いなのです。
















原発事故 東電元会長「社長は万能ではない」
【テレ朝NEWS】2018年10月31日
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann?a=20181031-00000002-ann-soci

原発事故を巡って、東京電力の旧経営陣が刑事責任を問われている裁判で、社長や会長を歴任した勝俣恒久被告(78)が、「社長は万能ではない」などと話し、自らの責任を否定しました。

東電元会長の勝俣被告ら旧経営陣3人は、福島第一原発事故を巡って、業務上過失致死傷の罪に問われています。
30日の被告人質問で、勝俣被告は、
「原発の安全は、一義的には現場である原発部門にある」と述べました。

検察官役の指定弁護士から、最終的な責任は社長にあったのではと問われると、
「そう言えるか分からない。社長は万能ではない」と答え、傍聴席からはため息が漏れました。

被告人質問は30日で終わり、今後の裁判では、被害者の遺族による意見陳述が行われる予定です。
一方、告訴した弁護士らは、裁判官による現場検証を求めていましたが、却下されました。


******* ******* ******* *******

さてこちらは、先月の中旬に行われていた、同じく東京電力旧経営陣の刑事責任を問う裁判での、武藤元副社長の証言です。





この証言を裏付ける詳しい裁判傍聴記を書いてくださった添田さんの記事を紹介します。
全部の記事は、下記の色文字の部分をクリックして読んでください。
武藤氏の証言がいかにデタラメかがよくわかります。

「津波対策、いったん経営陣も了承。その後一転先延ばし」刑事裁判傍聴記:第二十四回公判(添田孝史)
【福島原発刑事訴訟支援団】
https://shien-dan.org/soeda-20180905/
 
津波対策、いったん経営陣も了承。その後一転先延ばし

9月5日の公判では、津波対策の先送りを東電が決めた2008年当時、地震対応部署のトップだった山下和彦(やました・かずひこ)氏が、検察に供述していた内容が明らかにされた。
幹部による、これだけ貴重な証言が、事故から7年以上も隠されていたのかと驚かされた。

重要な点は三つある。

1. 地震本部が予測した、津波への対策を進めることは、2008年2月から3月にかけて、東電経営陣も了承していた。
「常務会で了承されていた」と、山下氏は述べていた。


2. いったんは全社的に進めていた津波対策を先送りしたのは、対策に数百億円かかるうえ、
対策に着手しようとすれば、福島第一原発を何年も停止することを求められる可能性があり、停止による経済的な損失が莫大になるから
、と説明していた。


3.10m級の津波は実際には発生しないと思っていた
根拠は特にないが、2007年に、新潟県中越沖地震で、柏崎刈羽原発が想定を上回る地震を経験していたので、原発の想定を上回る地震が、何度も起こるとは思いつかなかった」と述べていた。

 

山下和彦氏は、2007年10月に、新潟県中越沖地震対策センター所長に就任。
柏崎刈羽原発や、福島第一、第二原発の耐震バックチェックや、耐震補強などの対策をとりまとめてきた。

2010年6月に、吉田昌郎氏の後任として、原子力設備管理部長に就任。
事故後は、福島第一対策担当部長、フェロー(技術系最高幹部として社長を補佐する役)として、事故の後始末に従事した。
2016年6月にフェローを退任している。

山下氏は、当初は、証人として法廷で証言すると見られていたが、健康上の理由などから、出廷が不可能になったらしい。
そのため、2012年12月から2014年12月にかけて4回、山下氏が検察の聴取に答えた調書を、永渕健一裁判長が証拠として採用し、この日の公判で、検察官役の渋村晴子弁護士が、約2時間かけて読み上げた。

山下氏が述べた三つのポイントについて、それぞれ見ていく。

経営陣は、常務会で津波対策を了承していた

政府の地震調査研究推進本部(地震本部)は2002年、福島沖でも大津波を引き起こす津波地震が起きる、と予測していた
東電で津波想定を検討する、土木調査グループの社員らは、それに備えなければならないという共通認識を持ち、対策の検討を進めていたことは、これまでの公判で明らかにされていた(5〜9、18、19回公判)。 
  
この日の公判でわかったのは、経営陣も、地震本部が予測した津波への対策を、了承していたことだ。
2008年2月16日に開かれた、「中越沖地震対応打ち合わせ」(いわゆる御前会議)に、被告人の武藤、武黒両氏や山下氏が出席。
この場で、地震本部の予測に対応する方針が了承され、それが3月11日の常務会でも認められた、と山下氏は証言していた。

6月10日に、津波想定を担当する社員が、想定される津波の高さが15.7mになることを、武藤氏に説明した会合終了時点でも、
「(津波対策を)とりこむ方針は維持されていました」と、山下氏は検察官に説明していた。


運転停止による経営悪化を恐れて、対策先送り

2008年7月31日に、武藤氏は一転して、津波対策の先送りを決めた(いわゆるちゃぶ台返し)

この理由について、
防潮堤建設など数百億円の対策費用がかかることに加え、
対策工事が完了するまで数年間、原子炉を止めることを要求されることを危惧した、と山下氏は説明。
以下のように語っていた。

「当時、柏崎刈羽原発が全機停止していて、火力発電で対応していたため収支が悪化していた。
福島第一まで停止したらさらに悪化する。
そのため東電は、福島第一の停止はなんとか避けたかった」


想定される津波高さは、当初は7.7m以上と説明されていたが、2008年5月下旬から6月上旬ごろ、山下氏は「15.7mになる」と報告を受けた
「これが10mを超えない数値であれば、対策を講じる方針は維持されていただろう」とも述べていた。

15.7mより低い想定値にすることは出来ないか、それによって対策費を削ることができる可能性がないか検討するために、
土木学会を使って数年間を費やす方向が決められ、大学の研究者への根回しが、武藤氏から指示された。


最終バックチェックに、地震本部の予測を取り込まないと、審査にあたる委員が納得してくれないだろう。
武藤はその可能性を排除するため、有力な学者に根回しを指示した。
「保安院の職員の意見はどうなる」という検察官の問いに、「専門家の委員さえ了解すれば職員は言わない」と、山下氏は答えていた。

2009年6月に開かれた保安院の審議会で、専門家から、東電の津波対応が不十分という指摘がされたことについて、土木調査グループの酒井氏は、
「津波、地震の関係者(専門家)にはネゴしていたが、岡村さん(岡村行信・産業技術総合研究所活断層・地震研究センター長、地質の専門家)からコメントが出たという状況」と、関係者にメールを送っていたことも、公判で明らかになった。

水面下で進めていた専門家へのネゴ(交渉)に漏れがあり、公開の審議会で問題になったと白状していたのだ。


検察の二度の不起訴を、検察審査会がひっくり返して、刑事裁判が始まったおかげで、ようやく事実に近づいてきたのだ。

自分たちが引き起こした事故の検証を、正直に出来ない会社が、柏崎刈羽や東通で、再び原発を動かそうとしている
その状況は、とても恐ろしい。

******* ******* ******* *******

この津波対策については、上記の記事の1年と少し前の国会で、共産党の吉井元議員による『巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険から国民の安全を守ることに関する質問主意書』が出されていました。
それに対する安倍首相の答弁が、東電と同じく、不適切で不真面目なものであったことは有名です。
もしまだ読んでいない方は、ぜひ下記の青文字をクリックして、読んでください。

巨大地震の発生に伴う安全機能の喪失など原発の危険から国民の安全を守ることに関する質問主意書
提出者 吉井英勝

平成十八年十二月十三日提出
質問第二五六号

http://www.shugiin.go.jp/Internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a165256.htm

******* ******* ******* *******

そもそも、日本のような地震大国が、核物質による発電などというものを建ててはいけなかったのでした。
けれども、長期にわたって続いている自民党政権によって、列島の周りをぐるりと囲むように、海沿いに50基以上もの核発電所が建てられてしまいました。
それだけでも十分あってはいけないことだったのに、それを管理運営している会社の役員が、とんでもなく無責任であるばかりか、利益を得ることだけに執着していて、
これだけの重大事故を起こし、日本の豊かな自然や文化や産業を著しく傷つけ、その地に暮らしていた人々の命や人生を、7年経った今も破壊し続けているにも関わらず、法廷において、不遜で無反省な態度を示すのですから、
これはもう、こういう輩や組織から、核発電所を引き剥がすことがまず最初に行われるべきことだと思います。

そしてとにかく全基廃炉。
けれども、その廃炉にもまた、たくさんの難問が存在しています。


何度でも言いますが、日本のような環境に、核物質による発電などというものがあってはならないのです。
日本に適する発電方法はたくさんあるのに、原子力発電に固執し、それによって莫大な利権を手にする者たちによって、ずっと蔑ろにされてきました。

さらに司法(特に高裁)は、そんな原子力ムラに追従して、


などというバカげたことを言っています。

自民党は原発党です。
この国で原発を推進できるのは、極めて無責任でなければなりません。

伊方原発も再稼働されてしまいました。




ここは事故が起こった際に、避難が特に難しいと言われています。

7年以上も経ってなお、処理がままならない福島原発の4号機では、つい最近、よくこんなことができるものだと呆れ返るような出来事がありました。





実際に事故が起こってしまってもなお、こんな意識なのです。
それが原子力ムラの正体なのです。

日本には核物質による発電は要りません。
けれども、わたしたちには廃炉政策を進める術がありません。
主権在民。
原子力発電をやめ、廃炉政策に素早く転換すると約束し、それを実行に移す政治家をしっかり支援して、政治の中心に立たせること。
それが立憲主義の国民としての仕事だと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インデイアンサマーのひとりごと

2018年11月01日 | ひとりごと
毎年10月の下旬にやってくる『インディアンサマー』。
今年は11月の頭にやってきた。
今日は半袖姿の人が多かった。



『インディアンサマー』というのは、晩秋から初冬にかけての、風が弱く穏やかで暖かい日が数日続く時のことを言う。



あと、気温や天気のことだけじゃなくて、「人生や時代が落ち着いてきた晩年期」とか、「晩年の穏やかで落ち着いた生活の続く一時期」などの意味があるらしい。

一時的っていう意味合いに、ちょっとドキンとしてしまうのはわたしだけだろうか…。



明日は雷が鳴るという予報が出ているので、多分それで気温が一気に下がり、また秋らしくなるのだろう。




昨日は子どもたちにとってはお楽しみのハロウィーンだったのだけど、今年はどうしても気分が乗らなくて、キャンディやチョコレートを買わないまま当日になってしまった。
朝からマンハッタンに出かけ、スタンディングをし、とんぼ返りで家に戻ってレッスンをしたら、買い物に行く気力も失せて、楽しみにやって来るだろう子どもたちに心の中で「ごめんね」を言いながら、家の中の明かりを消した。

ドアベルは3回鳴った。
この家の大人はもしかしたら、真っ暗な家の中から飛び出して、驚かせようって魂胆かもしれない。
なんて想像して、ドキドキしながらベルを押したんだろうなあ…。

ごめんね子どもたち。
来年はきっと、ちゃんと準備するからね。

このお方はずっと、この木に引っ掛けられたまま、ワハハワハハと笑っていた。



ぼちぼちとそれなりに色づいてきた紅葉を眺めながら、ついこの間年が明けたと思ったのに、もうあと2ヶ月で次の年がやって来るんだと、この時間の過ぎ方の早さにポカンとしてしまう。



年を取ると時間の過ぎ方がめちゃくちゃ早くなるって言うけど、いやいや、今どきは小学生だって同じことを言っている。
インターネットがどんどん発達してきたことが、原因の一つだって聞くけど、その通りだと思う。
ピーピーピージャンジャンジャンなんていう音を聞きながら、コンピューターの立ち上がるのを、5分近くかけて待っていた時から比べて、
今の社会には、数秒待つのも苦痛になるような、パッパッと物事が進むのが当たり前の感覚が蔓延している。
それほどさっさと済ませられるのだから、時間に余裕ができて、空を眺めたり町並みを眺めたりしてゆったりしているのかというと全く逆で、
どんどんどんどん、次から次へと、やること考えることを抱え込んで、なんでこんなに忙しいんだろうと悲鳴をあげている。



気がついたら木々が芽吹いていて、気がついたら花が咲いていて、気がついたら花が散って若葉になって、気がついたら紅葉してて、気がついたらすっかり葉が落ちてしまっている。
季節を感じる暇ぐらいあるだろうに、過ぎ去っていこうとする季節の尻尾を見て、ああ、もう行ってしまうのかと寂しくなる。

新年のお祝いが終わり、ヴァレンタインデーの大騒ぎが終わり、イースターで家族と会って、母の日でまたまた大騒ぎして、父の日は地味に終わり、独立記念日の花火を観て、夏休みを満喫し、ハロウィーンを楽しみ、感謝祭とクリスマスを家族で過ごす。
世の中は、次の行事の予告に余念が無い。
今はだから、スーパーなどの売り場では、感謝祭のメニューに合った食材や調理器具、グリーティングカードが強調されている。
ああ忙しい。



年の初めになると必ず、今年こそはもう少しゆったりとした毎日を送るぞと、けっこう真剣に思っているのだけど…。

多分来年もしばらくは無理だな。
史上最悪の安倍政権がまだ続いているだろうし、自分自身の作曲や指揮の勉強(多分ピアニカ演奏の特訓も加わる)にも励まなければならないし、
来週の火曜日の選挙でどんな結果が出るのかまだわからないけど、この国のトランプ政権も相当荒れているから。

人生の『インディアンサマー』は、まだもう少し先かな。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする