ばばちゃんとまた会えました!
ばばちゃんの名前は笹森恵子(しげこ)さん。
13歳のとき、広島の爆心地で被曝した人です。
前回お会いしたのは2016年。
New Jersey Peace Actionが、平和賞を恵子さんに授与するということで、彼女がニュージャージーに招待されたのでした。
このNew Jersey Peace Actionのオフィスは、うちから歩いて数分のところにあるのですが、前身の設立者の一人が、恵子さんの養父、Norman Cousins氏なのでした。
そのNJPAに、イングルウッド高校から、恵子さんの講演の依頼があり、カリフォルニアのご自宅からやって来られた彼女を、拙宅でお迎えさせてもらいました。
恵子さんのお世話と通訳を、友人の歩美さんが引き受けていたことから、この素晴らしい出会いを授かったのですが、
あれから2年半近く経った今、恵子さんは86歳、
なのに、「この後またすぐに日本に行くの。だから今年は5回も日本に行ったことになるのよ」なんてことをサラリと言うスーパーウーマンっぷりは健在で、
「でもばばちゃん、お願いだから無茶はしないで」と、思わず肩を抱いてお願いしてしまうわたしはやはり、凡人だということなのでしょうね…。
今回の講演は、ペンシルバニアのエリザベスタウン大学で教えておられる高橋先生からの依頼で行われました。
なので今回は世話役ではなく、聴講する人たちの一人として行く歩美さんから、「一緒に聞きに行きませんか?」と誘ってもらい、もちろん!と即答。
夫と歩美さん、そしてわたしの3人で、一路ペンシルバニアに向かいました。
雨が多かったのであまり美しくないと言われている今年の紅葉ですが、高速道路の両側に次から次へと現れてくる樹木は、わたしたちの目を十分楽しませてくれました。
場所の特定が難しくて、マップでは無理と諦めて、構内にいる学生さんたちに手当たり次第に尋ねながらやっと到着。
ばばちゃんだ!
近寄っていくと、あ〜!と満面の笑顔を見せてくれたばばちゃん。
「一番前の席に座りなさいよ」と言ってもらったのだけど、大学から15分ぐらいの所に住んでいる夫の両親も一緒に聴講するので、5列ほど後ろの席に座りました。
いよいよ講演が始まります。
日本語の通訳は高橋先生が、そして英語の通訳は(多分)大学の学生さんが担当です。
ばばちゃんのお話が始まりました。
「英語はブロークンだし、いろいろ脱線するけれども、まあおばあちゃんトークだと思って聞いてください」と言って場内をわかせる恵子さん。
子どもの頃、楽しかったことは?という質問(これは前もって高橋先生が用意しておいたもので、ハプニングが起こらないための対策だったようです)に、
毎週土曜日の夜は、映画館に行って(といっても当時はニュースしか流さない映画館が多かったそうです)、ポパイとベティのマンガを見るのが楽しみだったこと、
その後、洋食屋さんに行って、牛タンシチューやオムレツを食べさせてもらうことが楽しみだったことを話すのと、先に歩美さんとわたしに教えてくれてた恵子さん。
「タンシチューってのが子どもだったから言えなくて、いつもタンチュータンチューって言ってたの」
と言う恵子さんに、
「でもばばちゃん、あの時代にタンシチューを毎週食べてるようなご家庭って、そんなになかったんじゃないの?」とわたしたちは聞いたんですが…。
これがその映像。
原爆が投下される前の、広島の街並み。
同じく原爆が投下される前の「広島県物産陳列館」(原爆ドーム)。それはそれは美しい建物だったそうです。
赤い点は、ばばちゃんが立っていた地点。その右上の緑の点は、被爆したばばちゃんが逃げた場所。左下の青い点は、ばばちゃんの家。
原爆投下後の広島。
恵子さんの養父ノーマン・カズンズ氏と、谷本牧師。
原爆乙女(ヒロシマメイデン)の25人。
恵子さんの手術の軌跡。
みんな真剣に、時には笑い、時には眉間にしわを寄せ、時には涙を流し、恵子さんの話に聞き入っていました。
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少し長くなりますが、2016年の恵子さんとの出会いを書いた記事を、もう一度ここに載せておきます。
恵子さんの養父ノーマンさんのこと、そして恵子さんご自身のことを、詳しく書いてありますので、ぜひ読んでください。
夫とわたしがワシントンD.C.から戻った日曜の夜、彼女と歩美ちゃんは台所にいて、お茶を飲みながらくつろいでいた。
小柄な彼女は、椅子から立ってもちっちゃくて、そのちっちゃい体をペコンと折って、「おじゃましてます」と微笑んだ。
その可愛らしいこと。
わたしはいっぺんに好きになって、ばばちゃん(彼女のあだ名)大好き!と、心の中で叫んでいた。
彼女の名前は、笹森恵子さん。
恵子と書いてしげこと読む。
今年84歳になる彼女は、13歳の夏、真っ青に晴れた空を、銀色の光をキラキラ輝かせて飛ぶ『Bちゃん』から落とされた、世にも恐ろしい破壊力を持つ爆弾の、爆心地に立っていた。
歩美ちゃんから彼女のことを聞いた時、わたしはいつもの早とちりをして、日本からこちらにいらっしゃったのだと思い込んでいた。
でもそうではなくて、彼女はカリフォルニアに暮らしながら、世界平和の実現を使命に持ち、広島での体験を各地で語り続ける人なのだった。
彼女と出会った日曜日の夜から水曜日の朝までのことを、わたしはきっと一生忘れないし、これからもまた、もっと一緒に時間を過ごしたいと思っている。
原爆というものが、そしてそのような化け物を作ろうと考えた軍隊というものが、そしてその人殺しを実行するのが当たり前という狂った認識が正しいとされる戦争というものが、わたしは憎くて憎くてたまらなかった。
まだ漢字がそれほど読めないぐらいの頃から、図書館に行っては、原爆についての本を読んだり見たりしていた。
読んでいるうちに、文字や写真がぼやけてきて、涙をポトポトとページの上に落としているのに気づいて、慌てて拭いたりした。
それはそれはたくさんの本を読んだつもりでいたけれど、しげ子さんのような経験をした、25人の女性のことを、わたしは全く知らずにいた。
『原爆乙女』と、しげ子さんたちは呼ばれていた。
こちらでは『HIROSHIMA MAIDEN』
しげ子さんは、「この『原爆乙女』という呼び名が嫌いだった」と言った。
わたしも嫌いだ。
話しても話しても尽きることのなかった話を、自分の頭の中で整理して、なんとかまとめようと思うのだけど、気持ちが絡み付いてしまってうまくできない。
けれども、ばばちゃんを空港で見送った後、彼女のことをもっと深く知りたくなって、自分で読んだたくさんの記事の中に、話したことが散りばめられていたので、その中から数件、ここに紹介させてもらう。
↓転載はじめ
記憶1 笹森 恵子さん
被爆した10年後、手術のため渡米。
平和のため使命を持って、広島の体験を語る。
【戦争の記憶・Memories of War】2015.9.25
http://memories-of-war.com/m1-shigeko-sasamori/
笹森 恵子さん
ささもり・しげこ/1932年6月16日広島生まれ。
アメリカ・カリフォルニア州在住
1945年8月6日、13歳で被爆した笹森恵子さん。
真っ青な空に、銀色の飛行機が、キラキラと輝き、白いものが落ちてきた…。
その瞬間のことは、鮮明に覚えているという。
大火傷を負った恵子さんだが、両親の献身的な看護で、なんとか回復することができた。
10年経って、ケロイドの手術のために、アメリカに渡ることとなり、その後、アメリカ人ジャーナリストのノーマン・カズンズさんの養女に。
「それもこれも神様の思し召し」という恵子さんの体験と、平和への想いを聞いた。
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銀色の飛行機から白いものが落ちるのを見た
──恵子さんは広島ご出身ですね。1945年8月6日は、どこで何をされていましたか?
当時、私は女学校一年生で、13歳でした。
その頃すでに、東京や大阪には、傷痍爆弾が落ちていて、大火事でたくさんの方が亡くなっていました。
私がいた広島にも、B29はしょっちゅう来ていました。
でも、爆弾はまだ落とされたことはなかったので、B29が見えても、慣れてしまっていましたね。
当時、「建物疎開」といって、爆弾が落ちたときに逃げやすいように、建物を壊して間引いていたんですね。
若い男たちは兵隊にとられていますから、建物を壊すのは年寄りや女性です。
瓦礫の片付けをするのは、中学1、2年生でした。
その日は、私たちの学校が、はじめての作業に当たっていました。
朝8時に集合し、これから作業にあたろうというときに、飛行機の音がして、私は空を見上げました。
雲ひとつない、真っ青なきれいな空でした。
銀色にキラキラ光る飛行機が、白い飛行機雲を出しながら、飛んでいます。
私は、近くにいたクラスメイトに、「見てごらん、きれいよ」と言って、空を指さしました。
その瞬間、白いものが落ちるのが見えました。
あとから聞いたら、爆弾がついた落下傘だったのです。
ものすごい爆風が起こりました。
そして私は倒されました。
私がいた場所は、爆弾が落ちた中心地から、1.5㎞以内にありました。
今で言うと平塚町です。
──その瞬間は、爆弾が落ちたということもわからず、怖いとか痛いといった感覚もなかったのでしょうか。
ええ。
だから、中心地にいた人たちは、一瞬のうちに丸焦げで、熱いも痛いもなかったんじゃないかと思います。
私の姉は、「太陽が地球に落ちたのかと思った」と言っていました。
姉たち上級生は、軍の仕事をするため、海田にある工場にいました。
大きな音がして、何事かと思って建物から出て見たら、大きな火の玉が沈んでいくのが見えたと。
──僕たちはいわゆる「きのこ雲」をイメージしますが…。
雲が見えるのは、最後なんじゃないかしら。
火の玉が見える前に、私は飛ばされたわけですが、火の玉のあとに雲ができるんだと思います。
雲の前に、赤い火柱を見たという人もいます。
私は、長い時間、気を失っていました。
意識が戻ってから周りを見たら、真っ黒でした。
暗いのではなくて、黒いのです。
大火傷を負っていたのに、何も感じませんでしたね。
真っ黒の中にしばらく座っていたら、霧が出てきたように、少しずつ明るく、グレーになってきました。
ああ、きっと、近くに傷痍爆弾が落ちたんだ、と思いました。
「爆弾が落ちたときは、大人について行け」と言われていましたから、とにかく、近くを歩いている大人について行こう、と思いました。
着ているものがボロボロだったり、足を怪我していたり、火傷で皮膚がめくれ、ピンク色になっている人たちが、歩いていました。
川のほうへ向かっていたんです。
川べりまで来ると、たくさんの人が集まっていました。
川の中にも、人が大勢入っていたので、水が見えないくらいでした。
「ぎゃーん」
ふと、赤ちゃんの泣き声が聞こえました。
ーまうみ注ー
この母子とも焼けただれていた。
母親はそれでも、なんとかして赤ん坊にお乳をあげようとしていたのだそうだ。
しげ子さんの耳には、その赤ん坊の泣き声が、今もはっきりと残っている。
周囲のざわめきも聞こえてきました。
それまでは無感覚で、何も聞こえなかったんです。
音が聞こえるようになっても、自分の火傷には気づきませんでした。
体の4分の1が、焼けていたんですけどね。
橋を渡って、避難所になっている小学校へ行きました。
大きな木の下に座ったら、そのまま倒れてしまったようです。
いつの間にか、講堂に運ばれ、私はそこに5日間いました。
目が開かなくて、昼も夜もわからないのですが、とにかく、
「千田町一丁目の新本恵子です。お水ください。両親に伝えてください」と叫びました。
だんだん、声を出すのもしんどくなってきます。
あともう1回だけ、もう1回だけ叫ぼう。
そうしたら、誰かが聞いてくれるに違いない。
そう思いながら、声を出していたことを覚えています。
結局、お水はもらえませんでした。
それで良かったんです。
大火傷を負っている人に、お水をあげてはいけないそうですね。
お水を飲んで、「ああ、美味しい」と言って死んだ人が、たくさんいるそうです。
母は、焼け跡に毎日通い、私の名前を呼んで、探していたそうです。
火傷をした人の収容所があると聞けば、そこまで歩いていって探しました。
似島へも、船で行きました。
でも、見つからなくて、また帰ってくるんです。
「炭団」のような私を、母が見つけてくれた
私たちは家が二つあって、「夏の家」と呼んでいたほうの家は、川沿いの魚市場の近くにありました。
そちらの家は、たまたま魚市場の陰になって、爆風でも倒れませんでした。
当時、母は、ここにいたんです。
家の中で飛ばされ、起き上がってから外を見てみたら、周りの家がぺたんこにつぶれていたそうです。
そこから、普段、私たちが暮らしていたほうの家の、二階ベランダ部分が見えました。
それで、母は、ぺたんこになった家々の屋根を歩いて、行ってみました。
でも、やはり潰れていて、どうすることもできません。
隣の家の人の声が聞こえますが、どこにいるのかわかりません。
瓦礫をどかしてもどかしても、人らしき姿は見えません。
そうこうしているうちに、あちこちから火の手があがり、母のいる場所にも火が近づいてきました。
「ごめんねぇ。どこにいるかわからないの」
お隣さんを助けることができないまま、母は、その場を去らざるをえませんでした。
父は、その時ちょうど、外にいました。
前の日に釣りに行ったので、ご近所のおじいさんたちのところに、魚を持って行っていたのです。
そして、私と同じように、飛行機から、白いものが落ちるのを見たそうです。
「爆弾落ちたから、逃げえ!」
おじいさんたちにそう叫んで走り、魚市場にある、大きなセメントの冷蔵庫へ、すべりこみました。
爆音が消えてから、外の様子を見てみたら、さっきまで一緒にいたおじいさんたちは、座った格好のまま、皮膚が真っ赤に焼けただれていたそうです。
一瞬遅かったら、父もそうだったのでしょう。
両親と家が無事だったおかげで、私は良くなることができました。
家で、両親が、治療してくれたんですから。
薬もないし、病院はいっぱいだし、私は、食用油で治療してもらったんです。
──想像もつかないような体験をされたんですね。
想像できないでしょう?
元気になってから、自分がどのような状態だったのか、母に質問したんですが、いつも「今度ね」、と言われていました。
年をとってから、ようやく教えてくれたんです。
だからいま、こうしてお話ができるわけ。
避難所の講堂は真っ暗で、母は、ロウソクを1本持って、「しげこ~しげこ~」と、名前を呼びながら探したそうです。
そうしたら、蚊の鳴くような声で、「ここよ~」と言ったと。
ハっと声の主を見ても、それが本当に娘なのかどうかわかりません。
「炭団(たどん 炭を丸めた燃料。黒く丸く、ざらざらしている)のようだった」、と言っていました。
私の顔は、黒く腫れ上がっていて、目も鼻もわからなかったんですね。
もちろん、髪も焼けてしまっていました。
でも、おかっぱにしていた髪の毛のおかげで、額の上半分と頭の部分、耳のあたりの皮膚は、焼けていませんでした。
父は、黒く焼けてしまった皮膚を、はいでくれました。
母は、とにかく、私の目・鼻・口を開けようと、食用油と布を使って、私の顔を拭いてくれました。
膿がどんどん出てくるので、洗い流す必要があるんです。
本当に、つきっきりで看病してくれました。
──目が開けられるようになったり、食事できるようになるのに、どのくらいかかったのでしょうか。
はっきりとは覚えていません。
新円切替(1946年2月16日に幣原内閣が発表した戦後インフレ対策)の前だった、と思います。
私が寝ていると、近所の学友のお母さんが来て、私の母と話しているのが、聞こえたことがあります。
「恵子ちゃんは、本当に良かったねぇ。
私の娘は、半分瓦礫の下敷きになってしまって、一所懸命引っ張り出そうとしても、ダメだったの。
だんだん火がまわってくるでしょう?
『お母さん、早く逃げて。お母さんがいなかったら、下の子たちはどうなるの』って言うの」
生きたまま別れなくてはならなかったなんて、どんなに辛い気持ちだったでしょうね。
他にも、地獄のような広島の町の様子を聞きました。
町には死体がゴロゴロと転がっていて、兵隊さんたちがそれを、ゴミでも拾うかのように拾って、焼き場へ持って行くんだそうです。
真っ黒になるほど蝿がたかって、ウジもわいていて。
──そういったお話を聞いたときの恵子さんの心境は、どのようなものでしたか。
戦争ですから、人が死ぬということ自体は、わかっていたわけです。
それで、最初は、「広島にも、そんなにたくさんの爆弾が落とされたのか」と思っていました。
次第に、みんなが、「ピカドン」と言っているのを聞くようになりました。
たくさんの爆弾ではなくて、一つの大きな爆弾だったんですね。
「そんなに大きな爆弾があったのか」と、驚きました。
また落とされるかもしれない、と怖い気持ちがありました。
私は、終戦のときのラジオ放送は聞きませんでしたが、家族や近所の人がうちに集まって、話しているのを聞きました。
日本は負けた、と。
でも、終戦になる前から、そういうムードはあったと思います。
だって、食べるものもないし、家にあるものは指輪でも鍋でも、軍に差し出さなければならなかったくらいですから。
「こんなものまで出させて…。この戦争は負けるでぇ」
そうやって、大人たちが、陰で言っているのを聞きました。
──今考えると軍部はおかしかったなど、いろいろな考えがあると思うのですが、当時はどうだったのでしょうか。
当時、天皇は神様でしたよ。
神様だから、直接見てはいけない、と言われていたのです。
とにかく私は、戦争が終わったことが嬉しかったです。
戦後、広島には、外国から、食べ物や着るものが送られ、建物も建つようになり、人様のおかげで復興していきました。
その頃になるとまた、「戦争がなければ、みんな友達になれたのに。どんなにか幸せだったのに」と、強く感じるようになりました。
年を経るにつれ、戦争の悪を自覚します。
だからこうして、聞いてくださる方がいるところへ行っては、戦争の話をしています。
いま、憲法を変える、という話もありますよね。
私は「なんで?」って、すごく驚きました。
戦争が起こる可能性のある方向へは、進んでほしくないです。
原発と日本人の品格
──こうしてお話を伺っていると、リアルな「戦争」のことを知らないのは、本当に怖いと感じます。
恵子さんの凄まじい体験をお聞きして、ようやく少し知ることができていますが、知らない人も多いと思います。
生まれる前にあったことは、どうしてもぴんと来ないんですよ。
私も、明治維新や関東大震災のことを、映画で見たりして、「ああ、そういうことがあったんだ」とは思いますけど、ぴんと来ないですもの。
先日、若い人たちと話をしていて、原子力発電所のことが話題に出ました。
原発は廃止したほうがいいか、続けたほうがいいか、みんな手を挙げたんですね。
一人の青年は、どっちがいいのかわからない、と言いました。
私は、
「あなたの気持ちはよくわかる。
私の体験談を聞いても、『そういうことがあったのか』とは思うけど、ぴんと来ないわよね。
生まれる前の話だもの。
でも、これからの未来のために考えるのよ。
積極的に、現状はどうなのか研究して、それで意見を決めてごらん」と伝えました。
私は、原発に反対です。
理由は、いまだに放射能が出ているから。
放射能を浴びて、ガンになって、死んでいった人は多いんです。
私の父も母も、放射能で亡くなりました。
すぐに火傷で死ななくても、遅かれ早かれ不調が出るんですよ。
原子力じゃなくたって、電気は作れるはずです。
これだけ技術は発達しているのだし、もっと日本の科学者が、新しいエネルギーの研究に力を入れれば、原子炉なんて要らないと思います。
一人の技術者の方が、こう言いました。
「原発は、廃止できるに越したことはないと思うけど、いまは技術が発達して、絶対に壊れないようなものが作れるから、全部なくす必要はない」
「それなら、福島にある原子炉は、修理できないんですか?放射能が漏れているのは、どうにかなりませんか」
私が尋ねると、
「私は、作るほうの技術者なので、直すことについてはよくわかりません」ということでした。
まずは、止めなければいけない、と思うんですけどね。
いま、世界から見て、日本は人気がすごく落ちています。
そういうデータを見たことがありますし、私の実感としてもそうです。
「絶対に戦争をしない。核兵器を持たない。原発はすべて止める。」
そう宣言して立ち上がったら、元の日本のように、尊敬されると思います。
原発は、今日明日止めるのは無理でしょう。
でも、少しずつなくしていくのです。
手術のためにアメリカへ。そして看護士に
──恵子さんは、顔のケロイドの手術のために、アメリカに渡られたそうですが、それは何歳の頃ですか。
被爆の10年後で、23歳の頃です。
1年ちょっといました。
──アメリカで寄付が集まり、25名の方が、一緒に行ったそうですね。
(アメリカ人ジャーナリストのノーマン・カズンズさんが、ケロイドを負った若い被爆女性のための、寄付金プロジェクトを発足。
ノーマン・カズンズさんはのちに、恵子さんの養父となる)
原爆を落とした国に行くことについては、複雑な気持ちではありませんでしたか。
当時私は、流川教会の谷本清先生を囲んで行なわれていた、「聖書の会」に行っていました。
谷本先生が、日本に来ていたノーマン・カズンズに、「この子たちの手術はなんとかならないだろうか」と、言ってくださったんじゃないでしょうか。
アメリカに戻ってから2年かけて、お金を集めたそうです。
あるとき牧師さんに言われて、私もみんなと一緒に、市民病院に行ったんです。
そこに、ノーマン・カズンズとお医者さん、看護士さんが来ていて、問診を受けました。
手術をして機能が回復する、アメリカに渡る元気がある、等の条件を満たした人が、対象に選ばれたようです。
問診の際に、「アメリカに行きたいか」と聞かれたのですが、私はきっと行かないだろう、と思っていました。
すでに、東京大学の附属病院で、何度も手術をしていましたから。
アメリカに行くと言われても、ぴんと来なかったです。
全然期待していませんでした。
でも、選んでもらってアメリカに行った。
これも、神の摂理だと思います。
「なぜ私が大火傷を負ったのか」と考えたとき、「神の証」なのではないか、と思いました。
神は、人間が幸せになることを望んでいます。
戦争なんてしちゃいけないの。
でも、それを伝える術がないでしょう?
だから、私たちは、それを伝える使命を負ったのです。
私の火傷の痕、傷を見れば、単に言葉で伝えるよりも、感じるものがありますよね。
ああ、そのために私は、こんな火傷を負ったんだ、と思いました。
アメリカに渡ったこともそうです。
私の人生はすべて、神の摂理なのです。
──そのように思えるようになったきっかけはあるのでしょうか。
もともと、私の家は、仏教を信仰していました。
おばあちゃん子だったので、おばあちゃんについて、お寺によく行っていました。
被爆後、歩けるようになって、友達の家に行く道すがら、きれいな音楽が流れてきたので、近寄ってみたんです。
それが、キリスト教の教会でした。
讃美歌を歌っていたんですね。
「どうぞお入りください」と言われて中に入り、後ろのほうに座って、牧師さんのお話を聞きました。
意味はよくわからなくても、とにかく居心地が良かったです。
それから毎週日曜日に、教会に通うようになりました。
谷本先生が、「あなたのような状態の人を、他にも知りませんか」とおっしゃったので、私と同じように火傷を負っている、女学生たちを集めました。
そして、週に1回、「聖書の会」を開くようになったのです。
私は、子供の頃から、看護士になりたいと思っていました。
東大病院で手術を受けるたびに、その思いを強くしていました。
アメリカで手術をし、帰国する直前に、将来のことを聞かれたとき、日本に帰ったら、看護士になるつもりだと答えました。
そうしたら、「ここでやってみないか」と言われたんです。
すぐには決められなくて、両親に相談しました。
父は、
「お前といつまでも一緒にいられるわけじゃない。だから、自分で決めなさい」と言いました。
アメリカでは本当に良くしてもらったので、またみんなに会えるという喜びで、それほど深く考えずに、また渡米することになったんです。
飛行機の手配等は、みんなノーマン・カズンズがやってくれました。
私は、ノーマン家の養女になったから、アメリカで学ぶことができたんです。
──最後に、これをお聴きの方にメッセージをいただけますか。
愛の心、思いやりの心を育てることが、大切だと思います。
そうすれば、自然に、戦争反対の気持ちも生まれるでしょう。
この世で一番大事にしなければならないのは、命です。
命を大切に、頑張って生きていきましょうね。(了)
(インタビュー/早川洋平 文/小川晶子 写真/河合豊彦)
米国で伝える
一人の命の大切さ
笹森 恵子さん(在米被爆者)
【ピースデポ】
http://www.peacedepot.org/essay/interview/interview31.htm
被爆後、しばらくの記憶は、断片的です。
目が腫れて開かず、あまりのことで、痛みも感じませんでした。
私は、ぞろぞろと歩く人々の後を付いて行き、段原国民学校(現在の段原小学校:広島市南区)までたどり着き、木の下に倒れ込み、そこで気を失いました。
次に私の意識が戻ったのは、千田町の自宅でした。
顔が全部、真っ黒に焼けただれ、前も後もわからない状態だったそうです。
まず父が、ちりちりに焼けていた髪を切り、顔の皮膚を剥いだところ、その下は、膿で真っ黄色だったそうです。
母は、「はよう口を開けなくちゃ」と必死になって、布に食用油を塗り、膿を取りました。
8月のものすごい暑い中、それが5日間続いたのです。
母は、この話を、被爆後何年も経ってから、私が何度も訊くので、ようやく話してくれました。
当時、私は、泣きわめく力さえなく、いつ死ぬのかと、とても不安だったとのことです。
だいぶ良くなってから、皮膚にひっついたガーゼを剥ぐ時に、痛かった記憶はありますが、それまでは、痛みもまるで感じないような状態が続きました。
私が今生きているということは、今後大変な世の中になるから、その時のために生きろと、神様が生かしたのかなと思います。
みんな、核の恐ろしさを、頭ではわかっていても、心まで理解できている人はどれだけいるのか、と考えます。
心に応えていたら、平和運動などにも一生懸命になりますよね。
私がいつも話すのは、「命の大切さ」についてです。
自分の身内が戦争に行って、犬死にすることを考えると、本当に命がもったいない。
「何十万人亡くなった」、という数字は大事だけれど、数字だけでは私も忘れてしまうと思います。
「一人の命が大事」、という思いが強いです。
一人ひとりを動かす、という力は大切なのです。
あるアメリカの人とお話をした時のことですが、彼には13歳の娘がいるということで、
「私は、同い年の時に被爆したんだ」と話したら、彼は震え出し、涙を流し出しました。
自分の娘のことを思っての反応です。
みんながそういう風に感じてくれれば、良い方向に変わっていくと思います。
私の経験は、大変でなかったと言えば嘘になるけれど、あのとき両親は、大火傷を負った私を治療しながら、
毎日いつ死ぬかもわからず、治った後も元には戻らない状況で、その心の痛さは、私どころではないと思います。
私は、若い人たちに、
「あなたがお父さん、お母さんになったときに、自分の娘がそんな状態になったらどうする?」、という風に話します。
被爆証言は、たくさんの方がされているし、本もたくさんあります。
だから私は、私が、どういう感じで命の大切さを考えているか、ということを話します。
難しいことを話すよりも、気持ちで伝える方が、届くと思うからです。
アメリカの学校で話をすると、よく、その後に手紙が届きます。
その中には、私の話を聞いて、原爆・核兵器への考え方を変えた人や、
「高校を出たら軍隊に入ろう、と思っていたけどやめた」という反応が、かなりあります。
「家に帰って、お母さんに話をしたら、涙を流した」なども。
そういう知らせを知ると、やっぱり嬉しいですよね。
アメリカの高校には、米軍のリクルーターが入ってきて、子どもたちを軍隊に囲い込もうとするのですが、
私は、
「戦争というのは、いくら大義があろうが、人殺しをすることには変わらず、あなたたちがもし、軍隊に入って戦争に行ったら、罪人になるんだよ。
それだけじゃない、殺されるんだよ」と話をします。
私にも息子がいますが、その子が生まれた時に、
「この子は、絶対に戦争には行かせない。
この子は、戦争に行って人殺しをするため、また、殺されるために生まれてきたんじゃない」と思いました。
息子には、
「例えば、もし、赤紙のようなものが来たとしたら、私が先に行くよ」と言いました。
自分が殺されるのなら、それでもいいという気持ちです。
世の中の親は、みんなそう思うはずです。
最近は、大学で、話をする機会が多くあります。
広島市が行っている、全米各地での原爆展に、私も行って、様々な州で、学生さんに話をしてきました。
みなさん、とても真摯に受け止めてくださり、私も、とても良いフィードバックをもらっています。
私が行く所は、事前学習をしっかりしていることもあり、行くとすでに受け入れ態勢ができていることが多いのですが、
私は、核兵器の問題に関心がなく、賛成・反対どちらでもない、道端を歩いているような人たちにも、話を聞いてもらいたい、動いてもらいたいと思います。
オバマさんの、「核兵器のない世界」は、彼が本気で思っているから言われたのだと思いますが、
これがオバマさん一人だったら、やっぱり消えていくと思います。
目的を果たせるよう、私たちみんなが、支えなくてはいけません。
私は、学校に行ったときにも、いつも言います。
誰だって、一人の力ではできない。
私たちがやらなくちゃいけない。
私もそのためにも頑張ります。
(談。まとめ、写真:塚田晋一郎)
↑以上、転載おわり
ばばちゃんが、うちから30分ほど車で行った町の私立高校で、講演したときの様子。
前日の日曜日に、講演やインタビューで6時間、休み無しで話し続け、戻ってきたわたしたちとまた話に花を咲かせていたばばちゃんは、
さすがに疲れが出ていたのか、真っ直ぐに歩けない状態で、おまけに耳鳴りがひどくて、自分の声も変に聞こえると言っていた。
けれども、いざ壇上に立つとこの通り。
高校生たちも身じろぎもせず、真剣に話を聞いている。
泣いたり笑ったりの30分。しげ子さんの言葉は、彼らの心に、どんなふうに届いたのだろうか。
(生徒たちからの質問)
ー手術のためとはいえ、アメリカに来ることに抵抗は無かったか。
ーアメリカに対してどう感じたか。
ー世界の核問題についてどう思うか。
(恵子さんの答え)
・
手術が受けられて、それで自分が良くなると信じていたので、場所はあまり関係が無かった。
・アメリカという国のせいで、アメリカ人のせいで、わたしはこんな酷い傷を負ったと、そんなふうに考えたことは無かった。
これは戦争のせい。
戦争は人を殺し、傷つける。
だから、人間は、戦争など起こしてはいけないの。
・アメリカに降り立ち、暮らし始めるうちに、日本はどうして、こんな豊かで広大な国と、勝てるはずの無い戦争をしてしまったのだろうかと思った。
・核と人類は、共に生きていくことなどできない。
だからわたしは、あなた方のような若い人たちにお願いしたい。
今は、わたしの話を聞いて、頭の中がこんがらがっているかもしれない。
意味があまり分からないかもしれない。
それでもいいから、時間をかけて、よくよく自分で考えて。
自分たちの、そして自分たちの子どもの未来に、平和が存在しているか否かは、わたしたち一人一人の平和への強い意思が必要なのだから。
・オバマ氏が今度、伊勢志摩サミットで訪日する際に、もしかしたら広島を訪問するかもしれないと言われている。
「わたしはその頃、ちょうど広島に居るので、ちっちゃい体を活かし、こっそり近づいてって、
『オバマさん、核兵器の無い世界を実現してください!実現すると言うまでこの手を離しません!』と捕まえる」と言って、周りを大笑いさせていた。
******* ******* ******* *******
ああ、あの時はオバマ大統領だったんだなあ…と、ため息をつきながら読み直しました。
恵子さんは今回もまた、
戦争の愚かさ、酷さを説き、会場のわたしたちに、特に若い人たちに、時間をかけて、自分の頭でよく考えて、
自分たちのために、そして自分たちの子どもの未来のために、平和を求め、戦争の無い世界を作ろうという気持ちを持って欲しい。
誰だって、一人の力ではできない。
だから私たちがやらなくちゃいけない。
そう思って欲しい。
私もそのために頑張りますよ。
と、何度も何度も繰り返し訴えていました。
そしてその話の中に、「この会場には、それをずっと実践して活動している素晴らしい女性がいます」と言って、恵子さんは歩美さんを紹介しました。
歩美さんは、本当にたくさんの平和実践活動をしている人ですが、恵子さんはその中の「劣化ウランで増えたイラク小児ガン患者を支援する活動」を紹介してくれました。
平和活動を通じて深くつながる二人の、互いを尊敬し合う姿に、会場からも大きな拍手が起きました。
そしてもう一つ、質問に立った米国人男性が、声を詰まらせながら、アメリカ人として謝りたい、こんなひどいことをしたことを恥じると恵子さんに言ったとき、
恵子さんは、
「原爆はあなたが落としたのでは無い。アメリカが落としたのでも無い。政府や軍隊が落としたのです。戦争が落としたのです」
「だからあなたに謝って欲しいなんて全く思っていません。もう起こってしまったことは仕方がない。その今の気持ちを未来の、戦争の無い世界を作る原動力にしてください」と訴えました。
あの過ち…。
あれよあれよという間に戦争に突き進んでいってしまうときの社会に、どれほどの過ちが存在していたか。
報道に、会社に、家庭に、抗いようの無い強い作用が働いて、止めようにも止まらない。
その恐ろしさ、おぞましさ。
絶対にもう、あの社会が戻ってくるようなことになってはならない。
そう強く思いました。
会の終わりに、もし近くに住んでいたら大の仲良し家族同士になっていただろうくみさんと、その息子(まだ幼児だった)ジュリエン君に会ってびっくり!!
嬉しいやら懐かしいやら。
よくよく聞くと、くみさんと今回のこの会を主催した高橋先生が学生時代の同窓だったそうな。
It's a small world!!
会の後に一緒に食事できないの?って恵子さんに聞かれて、思いっきり後ろ髪を引かれたのですが、夫の実家で夕食を食べ、その後コンサートに行く予定になっていたので、
今回はすごく残念だけどここでお別れしましょうと、恵子さんにさよならを言って、会場を後にしました。
また来年、東海岸でも西海岸でも、どちらでもいいから会いたいな、ばばちゃん!
くれぐれもお身体を大切に、そしてまだまだ多くの若い人たちに、語りかけていってください!