万国博覧会で活躍し、海外で人気を博した工芸家に宇野仁松がいます。
1) 宇野仁松(うのにんまつ): 1864~1937年
① 京都五条坂の焼き物師、和田宗平(号晴雲山)の長男として生まれます。
父の仕事を見習いながら、十代で二代目清風与平に、次いで三代目与平に師事し、21歳の時
五条坂の陶器神社の前に、店を構え独立し、営業する様になります。
尚、与平の下では、白磁、青磁、辰砂などの陶芸技術を学びます。
2) 仁松の作風
① マット釉の創造: 仁松は石灰釉による、失透性の釉を造る事に成功します。
今までに無い釉であった為、この釉を使った作品は評判を得ます。
・ 従来釉は、各種木灰と長石を原料にして、調合されていますた。
② 無地の作品: 京都の粟田焼きの様に、細かい文様を付ける事も無く、単純明快な無地や、
窯変ものを製作します。その事がかえって、外国人の人気を得ます。
艶消しの暖かい白マットが施された、技巧に走らない花瓶などは、従来に無い作品で有った為、
明治三十年代に、米国で大流行し、その後長期に渡り、大量の作品がアメリカに輸出される様に
成ります。主な作品は、室内装飾としての花瓶、人物や動物の彫刻的な置物などで、米国以外にも
フランスからも、器物の図面が送られ、多くの注文を受け、盛んに輸出されます。
③ 当時の欧米では、花瓶の底に穴を開け、燭台(蝋燭、ランプ、電燈)などの他、火屋(ほや)
として使われていた様です。火屋とは行灯(あんどん)の様に、光源を包む物です。
その為、製作時から底に穴を開けた花瓶も、多く製作されています。
④ 仁松の作品群の中で注目すべき作品は、青磁、均窯、辰砂(しんしゃ)が挙げられます。
) 磁器の磁土は、天草陶石(熊本県)を、半磁器は、美濃の木節と蛙目を調合し、陶土は、信楽の
土を使っていた様です。
) 青磁釉は、長石と石灰を調合し、鋼(はがね)から造った酸化鉄を加え、還元焼成しています。
均窯釉では、鉄分を多く含む長石に、石灰を加え、更にアルミナを混ぜて釉に厚みを付けます。
辰砂釉は、石灰と長石、酸化銅を調合します。素焼きした素地に酸化銅(又は炭酸銅)を塗り、
その上に前記辰砂釉を掛ける方法があります。
) 辰砂色の斑文(まだらもん)を出すには、前記辰砂釉のフリットを下に塗り、更に均窯釉の
フリットを全面に施し、還元で焼成します。
3) 万博での活躍
1900年パリ万国博覧会で、仁松の作品は銅碑を受賞し、1904年のセントルイス万博、翌年の
リジェ(ベルギー)万博、更に翌年のミラノ(イタリア)万博で、連続金碑を受賞し、その評判は、
世界各国に広がり、バイヤー(買い付け人)も大勢押し寄せます。
その為、仁松の窯場では、常時30~40人の職人達が働いていたとの事です。
① 二基の登り窯(松薪で焼成)を有し、年に十回は焚いたそうで、一窯で約3000点もの作品が
窯出しされています。それも、器や装飾が単純な為、この様に大量に製作が可能であったと
思われます。更に仁松自身が、轆轤技術の指導、釉の調合、釉掛け、焼成を厳しく指導し、
一貫した生産が行われた為でもあります。
② 明治四十年前後に、辰砂釉の上に、緑色の艶消し釉を掛けて焼く技法を開発します。
この方法て造った花瓶を、竹の籠(かご)で包む工夫をすると、外国から大量の注文を
受ける様に成ります。
③ 上記輸出の繁栄も、第一次世界大戦(1915~1918年)までの事で、それ以後は、国内販売に
力が移っていきます。
以下次回に続きます。
1) 宇野仁松(うのにんまつ): 1864~1937年
① 京都五条坂の焼き物師、和田宗平(号晴雲山)の長男として生まれます。
父の仕事を見習いながら、十代で二代目清風与平に、次いで三代目与平に師事し、21歳の時
五条坂の陶器神社の前に、店を構え独立し、営業する様になります。
尚、与平の下では、白磁、青磁、辰砂などの陶芸技術を学びます。
2) 仁松の作風
① マット釉の創造: 仁松は石灰釉による、失透性の釉を造る事に成功します。
今までに無い釉であった為、この釉を使った作品は評判を得ます。
・ 従来釉は、各種木灰と長石を原料にして、調合されていますた。
② 無地の作品: 京都の粟田焼きの様に、細かい文様を付ける事も無く、単純明快な無地や、
窯変ものを製作します。その事がかえって、外国人の人気を得ます。
艶消しの暖かい白マットが施された、技巧に走らない花瓶などは、従来に無い作品で有った為、
明治三十年代に、米国で大流行し、その後長期に渡り、大量の作品がアメリカに輸出される様に
成ります。主な作品は、室内装飾としての花瓶、人物や動物の彫刻的な置物などで、米国以外にも
フランスからも、器物の図面が送られ、多くの注文を受け、盛んに輸出されます。
③ 当時の欧米では、花瓶の底に穴を開け、燭台(蝋燭、ランプ、電燈)などの他、火屋(ほや)
として使われていた様です。火屋とは行灯(あんどん)の様に、光源を包む物です。
その為、製作時から底に穴を開けた花瓶も、多く製作されています。
④ 仁松の作品群の中で注目すべき作品は、青磁、均窯、辰砂(しんしゃ)が挙げられます。
) 磁器の磁土は、天草陶石(熊本県)を、半磁器は、美濃の木節と蛙目を調合し、陶土は、信楽の
土を使っていた様です。
) 青磁釉は、長石と石灰を調合し、鋼(はがね)から造った酸化鉄を加え、還元焼成しています。
均窯釉では、鉄分を多く含む長石に、石灰を加え、更にアルミナを混ぜて釉に厚みを付けます。
辰砂釉は、石灰と長石、酸化銅を調合します。素焼きした素地に酸化銅(又は炭酸銅)を塗り、
その上に前記辰砂釉を掛ける方法があります。
) 辰砂色の斑文(まだらもん)を出すには、前記辰砂釉のフリットを下に塗り、更に均窯釉の
フリットを全面に施し、還元で焼成します。
3) 万博での活躍
1900年パリ万国博覧会で、仁松の作品は銅碑を受賞し、1904年のセントルイス万博、翌年の
リジェ(ベルギー)万博、更に翌年のミラノ(イタリア)万博で、連続金碑を受賞し、その評判は、
世界各国に広がり、バイヤー(買い付け人)も大勢押し寄せます。
その為、仁松の窯場では、常時30~40人の職人達が働いていたとの事です。
① 二基の登り窯(松薪で焼成)を有し、年に十回は焚いたそうで、一窯で約3000点もの作品が
窯出しされています。それも、器や装飾が単純な為、この様に大量に製作が可能であったと
思われます。更に仁松自身が、轆轤技術の指導、釉の調合、釉掛け、焼成を厳しく指導し、
一貫した生産が行われた為でもあります。
② 明治四十年前後に、辰砂釉の上に、緑色の艶消し釉を掛けて焼く技法を開発します。
この方法て造った花瓶を、竹の籠(かご)で包む工夫をすると、外国から大量の注文を
受ける様に成ります。
③ 上記輸出の繁栄も、第一次世界大戦(1915~1918年)までの事で、それ以後は、国内販売に
力が移っていきます。
以下次回に続きます。