わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

現代陶芸10(楠部彌弌)

2012-01-07 22:35:23 | 現代陶芸と工芸家達
彩埏(さいえん))と言う独自の技法で、現代陶芸に大きな功績を残した人に、京都の楠部彌弌がいます。

1) 楠部彌弌(くすべやいち): 明治30年(1897)~昭和59年(1894)

  平安神宮への参道の神宮道沿いに「楠部彌弌作陶之地」の石碑が立っています。

  ① 楠部彌弌の来歴
   
   ) 京都市の粟田口と呼ばれる、東山区三条通で、陶器貿易商の父千之助の四男として

     生まれます。先祖は伊勢大神宮に収める、神具や祭器の専門職で、陶(すえ)物を作って

     いた様です。 明治維新後に、大量の京都粟田焼が欧米に輸出される様になり、貿易商を

     営む様に成ったと言われています。

   ) 美術学校に行き、絵画の勉強を望みますが、両親の意向で京都市立陶磁器試験場の

      伝習生と成ります。助手には、東京高等工業学校の窯業科を卒業したばかりの、河井寛次郎

      や、同期には、陶芸家八木一艸(いっそう)や、河村喜太郎らがいました。

   ) 父の家業を継ぐ事を拒否し、粟田神社参道脇の、古い粟田焼窯元の跡地に転居し、

      作陶に励みます。

   ) 赤土社の結成

      1920年(大正九年)赤土社の設立を宣言します。「因習的な様式に囚われず、永遠に

      滅ぶ事のない、美を探求し、新しい光をもたらす運動」と位置付けます。

     a) 第一回展を、大阪の高島屋で開催します。

       会員は、楠部、八木、河村、新谷芳景、河合栄之助達でした。

     b) この活動も長く続かず、数年で自然消滅してしまいます。

   ) その後、民芸の柳宗悦と知り合いになり、民芸運動に誘われますが、創作性を強く

      意識した作品造りを目指し、この申し出を断ります。

  ② 帝国展や文展での活躍

   ) パリ万国博覧会(1924年)で「百仏飾壷」で入賞します。

   ) 日本美術工芸展(1926年)の出品作「黒絵偏壷」が、宮内庁買い上げに成ります。

   ) 工芸部が創設された、第八回帝展で、初入賞を果たします。

      それ以降各種の展示会で入賞を重ね、たびたび宮内庁買い上げになっています。

      1926年には、帝展無審査に推挙されます。

      1945年以降は毎年の様に、日展審査委員になっています。

   ) 1952年(昭和37年)には、日本芸術院会員に推挙されます。

  ③ 楠部彌弌の陶芸技法     

   ) 彼の代表する陶芸技法に、釉下彩埏(ゆかさいえん)があります。

     釉下彩埏:彩埏とは「土に水を加えて軟らかくする事」を意味します。

     即ち、各種の呈色剤を混入した磁器土を、水を加えて軟らかくし、何度も薄く塗り重ね 

     浮き彫り風にして、文様を出すもの方法です。施釉後に焼成する事により、所定の色に

     発色します。一度に仕上げ様とすると、失敗しますので、根気良く作業を続ける必要が

     あります。1960~1980年代に、この技法の作品を多く作っています。

     作品の種類としては、花瓶、飾皿、香炉などが多いです。

   ) 1950年代には、色絵や金彩、青華の作品(水指や茶碗)も作っています。

 以下次回に続きます。
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