わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

現代陶芸31(清水卯一)

2012-01-29 21:59:13 | 現代陶芸と工芸家達
京都五条坂に生まれ、昭和30年代から、鉄釉などで頭角を現した陶芸家に、清水卯一がいます。

清水卯一(しみずういち): 1926年(大正15)~2004(平成16)

 ① 経歴

  ) 京都五条坂の、京焼陶磁器卸問屋の清水卯之助の長男として生まれます。

    この頃の焼き物は、ほとんど分業によって作られ、轆轤師、絵師、窯師などに分かれその中でも、

    問屋の力は強力で、これらの職人に指示や注文をする立場でした。

  ) 1940年、立命館商業学校を中退し、京都八瀬の陶芸家石黒宗麿に入門します。

   a) 当時、問屋の跡取りが轆轤などの職人と成る事はほとんど無かった事です。

     彼の父が2年前に他界した事で、可能になったといわれています。
   
   b) 前述の様に、当時は分業であったが、当時無名に近い石黒宗麿は土造り、成形、施釉、

    窯焚きと、全てを一人で行っていました。この事が卯一には新鮮に感じた様です。

    尚、宗麿は1953年「天目釉」で、1955年には「鉄釉陶器」で人間国宝に成っています。

    その後、国立京都陶磁試験場伝習生を経て、京都市立工業研究所窯業部助手になり、

    更にその後は、自宅の陶房を中心に陶芸活動に専念します。

   c) 宗麿の陶房に通ったのは、わずか2~3ヶ月と言われていますが、東洋陶磁器の古典に

     大きな関心を寄せる、切っ掛けを作ったとの事です。

  ) 戦後~昭和30年以前には、京都の展示会(京展、京都府工芸美術展示、現代工芸美術展など)に

     於いて立て続けに受賞を重ねます。

     この頃の作品は、灰釉、鉄釉、緑釉(銅釉)、チタン白釉などによる、壷や皿、食器が

     多いようです。

  ) 卯一が全国的に認められる様になったのは、昭和30年代前半の柿釉や油滴釉を完成させた事が

    大きいです。1955(昭和30)年、日本陶磁協会より最優秀作家賞受賞します。

    同年以降、日本伝統工芸展で受賞を重ねます。1958年「柿釉深鉢」でブリュッセル万国博

    グランプリ受賞。1960年高松宮総裁賞受賞し、1964年には日本伝統工芸展の鑑査委員に成り、

    以降毎回この任に当たります。その後も多くの展示会に出品し、数々の賞を受けます。

  ) 1970年京都五条坂より、滋賀県滋賀町に陶房を移し蓬莱窯を開きます。

    1977年日本陶磁協会金賞。1985年「鉄釉陶器」により人間国宝に認定されます。

 ②  清水卯一の陶芸

  ) 柿釉、油滴天目

   a) 柿釉: 鉄分の多い褐色の釉を酸化焼成で、普通の柿釉よりも赤味を帯びた美しい色を

     造り出します。柿釉は中国宋の時代に、柿天目として存在していました。この釉は艶消しの

     赤褐色を呈しています。石黒宗麿も古典の釉の調合に成功し、還元炎で焼成しています。

   ・ 卯一の柿釉は、鉄釉に骨灰を加え酸化炎で焼成して、骨灰中の燐酸が赤味を帯びた

     色の発生を助けるものと思われています。尚、代表的な作品には、

     「柿釉深鉢」:1958年ブリュッセル万国博覧会グランプリ「柿釉 大壷」(1973年)、

     「柿釉 大鉢」(1963年 京都国立近代美術館蔵)、「柿釉大壷」(1973年)などがあります。

   b) 油滴天目: 鉄分の多い黒釉で、焼成の条件によって、釉中の酸化第二鉄が結粒し、

     表面に油の滴の様な文様が現れます。

 ) 青磁: 近江蓬莱山麓に窯を築いてから、開発した釉です。

    蓬莱山の一角から掘り出した、鉄分の多い素地に青磁釉を掛けた所、複雑な氷裂(ひょうれつ)

    貫入の釉面を持つ作品が、偶然見出します。貫入の所が紫色に成り、光線を微妙に反射する

    釉と成っています。この釉を蓬莱磁と呼んでいます。

   ・ 貫入は冷却時に900℃程度まで比較的早く急冷すると、素地より釉が早く縮み、ひび割れが

     発生します。

   ・ 酸化気味の焼成では、釉が黄味を帯びます。これを黄蓬莱磁と呼んでいます。

    青瓷(せいじ)大鉢(1973年、京都国立近代美術館蔵)、大鉢青瓷一輪生1973年)、

    黄蓬莱花文大壷(1981年)、黄蓬莱輪花鉢(1978年)などが代表的な作品です。

  ) 耀変(ようへん)天目に付いて

    国宝である、静嘉堂の稲葉天目、藤田美術館所蔵、大徳寺龍光院の耀変天目は、中国宋代の

    福建省建窯で、製作されたのではないかと見られています。

    我が国の陶芸家は、今でもこの復元に挑戦し、完全とは言えないが、かなりの完成度の高い

    釉を作れる様になっています。

   ・ 卯一も挑戦しますが、耀変天目と言うより、油滴天目に近い作品を作り挙げています。

   ・ 耀変天目は、焼成中に素地や釉中から発生したガスが、泡状に釉面に残り、そこに酸化第二鉄が

     流れ込み、冷却時に油滴状に結晶したものと言われています。

     釉中のマンガンや鉄分の他、素地や焼成及び冷却の方法で、多様な変化が生じるそうです。

     近い将来完全な復元も夢ではないかも知れません。但しその技法が公開される事は決して

     無いでしょう。

以下次回に続きます。
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