わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

現代陶芸12(北大路魯山人)

2012-01-09 21:19:08 | 現代陶芸と工芸家達
陶芸界の奇人変人と言えば、北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん、又はろざんじん)が挙げられます。

人物の評価は、決して良くはなく、むしろ悪評の方が圧倒的に多い様です。

 例えば、陶磁器の展示会で、自分の作品以外は、「愚作だ!」と批判し、持っていたステッキで、

 作品を打ち砕いたと、言われています。又、荒川豊蔵(後の人間国宝)が発見した、志野焼きの

 窯跡を、あたかも自分が見つけた様な振る舞いもします。

 更には、新鮮で旨い食材を客に提供する為、赤字となり料理屋の経営から追放されたりもしています。

 しかしながら、作陶した食器類は近年大変好評を博し、人気が上昇しています。

 その理由として、20万とも言われる作品数の多さ故、比較的安価に購入できる事と、料理を盛る

 器が主な作品である事です、美術品では無い事で、多くの人に使われている事が挙げられます。

1) 北大路 魯山人:1883年(明治16年)~1959年(昭和34年)本名は北大路 房次郎。

  篆刻(てんこく)家、画家、陶芸家、書道家、漆芸家、料理家、美食家などの、様々な顔を持って

  いました。

 ① 京都市上賀茂(現在の京都市北区)に、上賀茂神社の社家、北大路清操の次男として生まれる。

   生後7日目に、口減らしの為、養子に出され、数人の養父母の間を、タライ回しにされた様です。

 ② 6歳の時に竹屋町の木版師、福田武造の養子となり、10歳の時に梅屋尋常小学校を卒業します。

   この木版との出会が、篆刻家へのだ一歩になっています。

   京都、烏丸二条の千坂和薬屋(現:千坂漢方薬局)にも丁稚奉公に出ます。

 ③ 1903年、書家に成る為に上京します。一字彫の懸賞に応募して、次第に受賞(賞金稼ぎ)する

   様に成ります。翌年の日本美術展覧会で一等賞を受賞し、頭角を現わします。

 ④ 1905年、町書家、岡本可亭(画家、岡本太郎の祖父)の内弟子となり、1908年から中国北部を

   旅行し、書道や篆刻を学びます。

   帰国後の1910年に、長浜の素封家、河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む

   環境を提供され、ここで魯山人は福田大観の号で、小蘭亭の天井画や襖絵、篆刻など数々の

   傑作を当地に残しています。

 ⑤ 長浜をはじめ京都、金沢の素封家の食客として転々と生活する事で、食器と美食に対する見識を

  深めていき、1921年には会員制食堂、「美食倶楽部」を発足させます。

  自ら厨房に立ち、料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作していきます。

 ⑥ 1925年3月に東京の永田町に「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を借り受け、会員制の高級料亭を

   開店します。

2) 陶芸作家として活躍

 ① 1927年には宮永東山窯から、荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所「星岡窯」を設立し

   本格的な作陶活動を開始します。

 ② 1928年に日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行います。

 ③ 1936年、星岡茶寮の経営者、中村竹四郎から解雇を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放

   されてしまいます。その原因は、傲慢な態度と物言と、経営者との意見の違いが有った様です。

   尚、同茶寮は1945年の空襲により焼失してしまいます。

 ④ 鎌倉の「星岡窯」で、荒川豊蔵を窯場の長として、作品造りに励みます。

   大量の食器類は、魯山人自ら全てを製作した訳ではなく、彼の指示の下で、荒川豊蔵以下の

   スタッフが手がけたもので、魯山人自身、轆轤作業は苦手で、出来ないと言う方が正解です。

   あまりに多作の為に、税金払うの忘れて、税務署に踏み込まれた事も有ったそうです。

   彼の作品は前に述べた様に、料理を引き立て美味しく食べて頂く為の平皿、碗、向付などが、

   主な種類です。その器面に書や絵などを、一気に自由奔放で豪快な絵柄を描いています。

 ⑤ 1946年、銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店し、在日欧米人からも

   好評を博します。また1951年に結婚したイサム・ノグチ・山口淑子夫妻を一時星岡窯に寄寓させます。

   1954年にロックフェラー財団の招聘で、欧米各地で展覧会と講演会が開催され、その際に

   パブロ・ピカソ、マルク・シャガールを訪問しています。

   1955年に、織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退しています。

   1998年、管理人の放火と焼身自殺により、魯山人終の棲家である星岡窯内の家屋が焼失します。

3) 魯山人の性格と人間性

  ① 6度の結婚(1908年、17、27、38、40、48年)は全て破綻し、2人の男児は夭折しています。

  ② 傲岸(ごうがん)、不遜、狷介(けんかい)、虚栄などの悪評が常につきまといます。

    毒舌でも有名で、柳宗悦、梅原龍三郎、横山大観、小林秀雄といった戦前を代表する芸術家や

    批評家から、世界的画家のピカソまでをも容赦なく罵倒ています。

    逆にその天衣無縫ぶりは、久邇宮邦彦王、吉田茂(首相)などから愛されもいました。

  ③ 魯山人は、主に自らが主宰する料亭「星岡茶寮」が発行するミニコミ誌「星岡」などで

   多くの美術論、時評をぶち上げていますが、その殆どが古美術を礼賛し、同時代の美術作家を

   こき下ろしています。

  ④ 美食家の魯山人は、フランス料理の外見偏重傾向に対しても厳しく批判しています。

基本的には、性格や人間性に問題があり、一人善がり(独善的)であった為、その実力も正当に

評価されなかった一面も、有るのではないかと思われます。

以下次回に続きます。
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