陶磁器に付いての博識家であり、筆も立ち(著書や雑誌への投稿)、口も達者(各地での講演会、
話上手、話好き)で、且つ活動家(古窯跡の発掘、多くの陶磁器関係の組織の設立)、更には
陶磁器公募展の審査委員としての心眼、何よりも、作家としての実力(各公募展への出品と受賞、
多くの陶芸展への招待出品)など、瀬戸の一陶工から日本全国の著名な陶芸家として、唐九郎は
活躍の場を広げて行きます。順風満帆であった唐九郎に、1960年(昭和35年)60歳の時、「永仁の壷」
事件が起こり、全ての公的職務を辞任する事に成ってしまいます。
・ 注: 「永仁の壷」とは、1959年、「永仁二年」(1294年)の銘をもつ瓶子(へいし)が、
鎌倉時代の古瀬戸の傑作であるとして、国の重要文化財に指定されます。
加藤唐九郎が編纂し1954年に発刊した『陶器辞典』に「永仁の壺」の写真を掲載し、自ら解説を
執筆し、この作品を鎌倉時代の作品であるとしています。しかし直ぐに、この作品は現代物では
無いかと疑問の声が上がります。再度の鑑定の結果、1961年に重要文化財の指定を解除されます。
その根拠に成ったのが、文化財保護委員会での、エックス線蛍光分析を行った結果、釉薬に
含まれる元素の比率が、鎌倉時代の物とは異なると結論され、位相差顕微鏡による調査でも、
表面には経年変化が認められなかった事が上げられました。
更に、唐九郎自身が、自分が作った事を認め、現代作である事で決着が着きます。
◎ その結果、文部技官で文化財専門審議会委員の小山富士夫は、責任を取って辞任し、
加藤唐九郎も人間国宝(重要無形文化財保持者)の認定を解除されてしまいます。
② 唐九郎の陶芸作品
) 事件以降、公の仕事から製作一筋の生活に成って行き、この事件以降、唐九郎の作品は
出来が良くなったと言われています。
) 事件以前の作品群は、瀬戸の古陶復元に重きを置いていた様です。
即ち、人間国宝の認定と成った、織部を中心に、織部黒、黄瀬戸、志野、鼠志野、絵唐津など
広範囲の焼き物に挑戦し、一箇所に留まる事は無かったと言われています。
作品は、茶陶を中心に、茶碗、水指、懐石用の向付、輪花鉢、どら鉢、茶入などが多いです。
) 事件以降でも、製作意欲は失われず、製作を続けます。
1964年の東京オリンピック記念「唐九郎展」では、黄瀬戸の「どら鉢」が現代作家では
前代未聞の、百万円を超える値段で取引され、世間の注目を集めます。
尚、黄瀬戸釉には、備長炭(ウメ樫の炭)の灰が最良との事です。
) 唐九郎と「紫匂」
1979年、彼の代表作とも言える、志野茶碗「紫匂」(むらさきにおい=立原正秋命銘)を
製作します。 この作品は、釉を通して胎土がほのかな紫色に発色しています。
胎土に鉄、マンガン等の諸々の金属が、自然に含有しているのではないかと、推測されて
います。当然それらは秘密事項です。
) その後も各地で展示会を催しています。
1980年には「作陶七十年展示」を富士美術館で、1982年には、「唐九郎の世界展示」を東京
伊勢丹デパートや名古屋の丸栄で開催しています。
③ 唐九郎は幼少期から、反骨、反逆精神が盛んであった様です。
) 当時の瀬戸では、古くから作る業種が厳格に守られており、陶器を焼くのは、加藤姓、
磁器染付は川本姓、水甕(かめ)や擂鉢は本業屋と親子代々決っていた様です。
飯茶碗焼き、皿焼き、丼焼きなども専門があり、親子代々変わること無く引き継がれる制度です。
) この様な状態の中で、唐九郎は業種(ジャンル)を超えて挑戦しています。
即ち、陶器、磁器の垣根を越え、本業焼、瓦、茶陶など次々に挑んでいます。
) 自分の窯も何度も作り替えています。例え前回、旨く焼けた窯であっても、あえて壊して
造り替えています。(一般には、旨く焼成出来た窯は、余りいじらないものです。)
) 「炎の人」「炎の野人」「八方破れ」「奇想天外な人」などのイメージが付き纏う、人で
有った様です。それ故、自由奔放に自分の人生を、大いに堪能したのではないでしょうか。
以下次回に続きます。
話上手、話好き)で、且つ活動家(古窯跡の発掘、多くの陶磁器関係の組織の設立)、更には
陶磁器公募展の審査委員としての心眼、何よりも、作家としての実力(各公募展への出品と受賞、
多くの陶芸展への招待出品)など、瀬戸の一陶工から日本全国の著名な陶芸家として、唐九郎は
活躍の場を広げて行きます。順風満帆であった唐九郎に、1960年(昭和35年)60歳の時、「永仁の壷」
事件が起こり、全ての公的職務を辞任する事に成ってしまいます。
・ 注: 「永仁の壷」とは、1959年、「永仁二年」(1294年)の銘をもつ瓶子(へいし)が、
鎌倉時代の古瀬戸の傑作であるとして、国の重要文化財に指定されます。
加藤唐九郎が編纂し1954年に発刊した『陶器辞典』に「永仁の壺」の写真を掲載し、自ら解説を
執筆し、この作品を鎌倉時代の作品であるとしています。しかし直ぐに、この作品は現代物では
無いかと疑問の声が上がります。再度の鑑定の結果、1961年に重要文化財の指定を解除されます。
その根拠に成ったのが、文化財保護委員会での、エックス線蛍光分析を行った結果、釉薬に
含まれる元素の比率が、鎌倉時代の物とは異なると結論され、位相差顕微鏡による調査でも、
表面には経年変化が認められなかった事が上げられました。
更に、唐九郎自身が、自分が作った事を認め、現代作である事で決着が着きます。
◎ その結果、文部技官で文化財専門審議会委員の小山富士夫は、責任を取って辞任し、
加藤唐九郎も人間国宝(重要無形文化財保持者)の認定を解除されてしまいます。
② 唐九郎の陶芸作品
) 事件以降、公の仕事から製作一筋の生活に成って行き、この事件以降、唐九郎の作品は
出来が良くなったと言われています。
) 事件以前の作品群は、瀬戸の古陶復元に重きを置いていた様です。
即ち、人間国宝の認定と成った、織部を中心に、織部黒、黄瀬戸、志野、鼠志野、絵唐津など
広範囲の焼き物に挑戦し、一箇所に留まる事は無かったと言われています。
作品は、茶陶を中心に、茶碗、水指、懐石用の向付、輪花鉢、どら鉢、茶入などが多いです。
) 事件以降でも、製作意欲は失われず、製作を続けます。
1964年の東京オリンピック記念「唐九郎展」では、黄瀬戸の「どら鉢」が現代作家では
前代未聞の、百万円を超える値段で取引され、世間の注目を集めます。
尚、黄瀬戸釉には、備長炭(ウメ樫の炭)の灰が最良との事です。
) 唐九郎と「紫匂」
1979年、彼の代表作とも言える、志野茶碗「紫匂」(むらさきにおい=立原正秋命銘)を
製作します。 この作品は、釉を通して胎土がほのかな紫色に発色しています。
胎土に鉄、マンガン等の諸々の金属が、自然に含有しているのではないかと、推測されて
います。当然それらは秘密事項です。
) その後も各地で展示会を催しています。
1980年には「作陶七十年展示」を富士美術館で、1982年には、「唐九郎の世界展示」を東京
伊勢丹デパートや名古屋の丸栄で開催しています。
③ 唐九郎は幼少期から、反骨、反逆精神が盛んであった様です。
) 当時の瀬戸では、古くから作る業種が厳格に守られており、陶器を焼くのは、加藤姓、
磁器染付は川本姓、水甕(かめ)や擂鉢は本業屋と親子代々決っていた様です。
飯茶碗焼き、皿焼き、丼焼きなども専門があり、親子代々変わること無く引き継がれる制度です。
) この様な状態の中で、唐九郎は業種(ジャンル)を超えて挑戦しています。
即ち、陶器、磁器の垣根を越え、本業焼、瓦、茶陶など次々に挑んでいます。
) 自分の窯も何度も作り替えています。例え前回、旨く焼けた窯であっても、あえて壊して
造り替えています。(一般には、旨く焼成出来た窯は、余りいじらないものです。)
) 「炎の人」「炎の野人」「八方破れ」「奇想天外な人」などのイメージが付き纏う、人で
有った様です。それ故、自由奔放に自分の人生を、大いに堪能したのではないでしょうか。
以下次回に続きます。