三輪家は、大和の三輪村の出身で、寛文3年(1663年)頃、毛利藩の焼き物師として、召抱えられた、
三輪忠兵衛(初代休雪)が、萩城下の椿郷に御用窯を開き、主に茶道具(茶陶)を製作したのが、
起源と言われています。
萩焼は、秀吉による朝鮮出兵の際、毛利輝元が連れ帰った、李勺光、李敬一兄弟は、毛利家が国替えで
広島から萩に移る際、椿郷で窯を築いた事が始まりで、この流れを汲む家柄が、坂高麗左衛門です。
それ故、萩焼には宗家筋の坂家と、三輪家が並存しています。
萩焼は特別、強い特徴のイメージが持ち難い焼き物です。土を始め釉や意匠など様々あるのですが、
萩焼を代表する特色が、はっきりしない為と思われます。又日用雑器の陶器を作っていない為かも
知れません。
1) 三輪休和(十代三輪休和) : 1895(明治28)年 ~ 1981(昭和56)年
① 経歴
) 山口県阿武郡椿郷東分村無田原で、旧萩藩御用窯、三輪家九代雪堂の次男として生まれます。
後を継ぐべき長男は、焼き物に見切りをつけて、大陸中国へ出かけていったそうです。
この窯場も、萩藩が無くなってから、その後ろ盾を無くし、衰退の一途を辿っていました。
) 1910年には家業に従事し、翌年には茶道の稽古を始めます。
1912年に、父の隠居により、十代休雪を継承します。以降、藁灰による白釉の研究に励みます。
1934年には、陶磁器研究の為、朝鮮半島を訪ねています。
) 同年、商工省主催の輸出用工芸展に出品し、東京、大阪、パリ万博に展示されます。
) 休雪の最初の個展は、1944年、大阪美術倶楽部で開催しています。
以降、朝日新聞主催の「現代日本陶芸展」に招待出品しています。
1956年には山口県指定の無形文化財(萩焼)に認定されます。
) 1967年に隠居し、休和と号し、弟に十一代休雪を襲名させます。
1970(昭和45)年に、萩焼で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されます。
② 萩の土と茶陶
) 御本手の茶碗: 御本手とは、陶器の表面に淡い紅梅の様な赤味が、ぽつぽつ点在している
ものです。肌理の細かい土を使うと、出易いと言われています。
(この様な焼き物を、姫萩といいます。)
・ 本来は、安土桃山~江戸初期に我が国より、朝鮮に見本を送り焼かせた物を言います。
) 一般に萩の土は、大道土(だいどうつち)を使います。大道土は山口県周防市大道で採取され、
砂礫混じりの可塑性に富んだ青白色の粘土です。休雪はこの土に見島土(萩沖の見島で
採取した、鉄分が多く、粘りの少ない土です)を多く混入し、更には粗目の砂も加えています。
萩焼の中で素地に荒砂を多量に入れ、荒々しく豪放な趣のあるものを「鬼萩」と呼んでいます。
) この土を朝鮮式の蹴轆轤を使い厚手に挽きます。削り作業の際、器の表面が「カンナ」によって
「ささくれ立つ」のが普通です。これに藁灰釉や長石釉を掛けて、焼成すると、釉が縮れた
「カイラギ」状態になり、土の中から気泡が発生して、釉面に貫入(ひび)やピンホールが出来ます。
) 茶器や食器として使用していると、茶渋や汁垢が浸み込み、茶人が喜ぶ「雨漏り」や
「萩の七化」と言われる現象になって現れます。
) 尚、大道土は1600℃以上で完全に焼き締まる土との事で、1300℃程度では半焼きの甘い
焼き物(強度的に弱い)となってしまいます。その為、食器には不似合の為、萩では日用品
としての焼き物が発展しなかったと言われています。又、この半焼け状態では、釉と土の
縮率の違いが大きく、貫入や「カイラギ」が出来る理由でも有ります。
④ 休和(休雪)の作品
① 作品の種類としては、萩井戸茶碗、刷毛目茶碗、萩水指、萩掛花入、香合、茶入など殆どが、
茶道具です。割り高台の茶碗も多く作っているのも特徴の一つです。
② 釉は白釉を改良し、「休雪白」と呼ばれるより白濁釉の美しい、白萩釉を生み出しています。
以下次回に続きます。
三輪忠兵衛(初代休雪)が、萩城下の椿郷に御用窯を開き、主に茶道具(茶陶)を製作したのが、
起源と言われています。
萩焼は、秀吉による朝鮮出兵の際、毛利輝元が連れ帰った、李勺光、李敬一兄弟は、毛利家が国替えで
広島から萩に移る際、椿郷で窯を築いた事が始まりで、この流れを汲む家柄が、坂高麗左衛門です。
それ故、萩焼には宗家筋の坂家と、三輪家が並存しています。
萩焼は特別、強い特徴のイメージが持ち難い焼き物です。土を始め釉や意匠など様々あるのですが、
萩焼を代表する特色が、はっきりしない為と思われます。又日用雑器の陶器を作っていない為かも
知れません。
1) 三輪休和(十代三輪休和) : 1895(明治28)年 ~ 1981(昭和56)年
① 経歴
) 山口県阿武郡椿郷東分村無田原で、旧萩藩御用窯、三輪家九代雪堂の次男として生まれます。
後を継ぐべき長男は、焼き物に見切りをつけて、大陸中国へ出かけていったそうです。
この窯場も、萩藩が無くなってから、その後ろ盾を無くし、衰退の一途を辿っていました。
) 1910年には家業に従事し、翌年には茶道の稽古を始めます。
1912年に、父の隠居により、十代休雪を継承します。以降、藁灰による白釉の研究に励みます。
1934年には、陶磁器研究の為、朝鮮半島を訪ねています。
) 同年、商工省主催の輸出用工芸展に出品し、東京、大阪、パリ万博に展示されます。
) 休雪の最初の個展は、1944年、大阪美術倶楽部で開催しています。
以降、朝日新聞主催の「現代日本陶芸展」に招待出品しています。
1956年には山口県指定の無形文化財(萩焼)に認定されます。
) 1967年に隠居し、休和と号し、弟に十一代休雪を襲名させます。
1970(昭和45)年に、萩焼で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されます。
② 萩の土と茶陶
) 御本手の茶碗: 御本手とは、陶器の表面に淡い紅梅の様な赤味が、ぽつぽつ点在している
ものです。肌理の細かい土を使うと、出易いと言われています。
(この様な焼き物を、姫萩といいます。)
・ 本来は、安土桃山~江戸初期に我が国より、朝鮮に見本を送り焼かせた物を言います。
) 一般に萩の土は、大道土(だいどうつち)を使います。大道土は山口県周防市大道で採取され、
砂礫混じりの可塑性に富んだ青白色の粘土です。休雪はこの土に見島土(萩沖の見島で
採取した、鉄分が多く、粘りの少ない土です)を多く混入し、更には粗目の砂も加えています。
萩焼の中で素地に荒砂を多量に入れ、荒々しく豪放な趣のあるものを「鬼萩」と呼んでいます。
) この土を朝鮮式の蹴轆轤を使い厚手に挽きます。削り作業の際、器の表面が「カンナ」によって
「ささくれ立つ」のが普通です。これに藁灰釉や長石釉を掛けて、焼成すると、釉が縮れた
「カイラギ」状態になり、土の中から気泡が発生して、釉面に貫入(ひび)やピンホールが出来ます。
) 茶器や食器として使用していると、茶渋や汁垢が浸み込み、茶人が喜ぶ「雨漏り」や
「萩の七化」と言われる現象になって現れます。
) 尚、大道土は1600℃以上で完全に焼き締まる土との事で、1300℃程度では半焼きの甘い
焼き物(強度的に弱い)となってしまいます。その為、食器には不似合の為、萩では日用品
としての焼き物が発展しなかったと言われています。又、この半焼け状態では、釉と土の
縮率の違いが大きく、貫入や「カイラギ」が出来る理由でも有ります。
④ 休和(休雪)の作品
① 作品の種類としては、萩井戸茶碗、刷毛目茶碗、萩水指、萩掛花入、香合、茶入など殆どが、
茶道具です。割り高台の茶碗も多く作っているのも特徴の一つです。
② 釉は白釉を改良し、「休雪白」と呼ばれるより白濁釉の美しい、白萩釉を生み出しています。
以下次回に続きます。