わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

現代陶芸20(三輪休和)

2012-01-17 22:50:19 | 現代陶芸と工芸家達
三輪家は、大和の三輪村の出身で、寛文3年(1663年)頃、毛利藩の焼き物師として、召抱えられた、

三輪忠兵衛(初代休雪)が、萩城下の椿郷に御用窯を開き、主に茶道具(茶陶)を製作したのが、

起源と言われています。

萩焼は、秀吉による朝鮮出兵の際、毛利輝元が連れ帰った、李勺光、李敬一兄弟は、毛利家が国替えで

広島から萩に移る際、椿郷で窯を築いた事が始まりで、この流れを汲む家柄が、坂高麗左衛門です。

それ故、萩焼には宗家筋の坂家と、三輪家が並存しています。

萩焼は特別、強い特徴のイメージが持ち難い焼き物です。土を始め釉や意匠など様々あるのですが、

萩焼を代表する特色が、はっきりしない為と思われます。又日用雑器の陶器を作っていない為かも

知れません。

1) 三輪休和(十代三輪休和) : 1895(明治28)年 ~ 1981(昭和56)年

 ① 経歴

  ) 山口県阿武郡椿郷東分村無田原で、旧萩藩御用窯、三輪家九代雪堂の次男として生まれます。

    後を継ぐべき長男は、焼き物に見切りをつけて、大陸中国へ出かけていったそうです。

    この窯場も、萩藩が無くなってから、その後ろ盾を無くし、衰退の一途を辿っていました。

  ) 1910年には家業に従事し、翌年には茶道の稽古を始めます。

     1912年に、父の隠居により、十代休雪を継承します。以降、藁灰による白釉の研究に励みます。

     1934年には、陶磁器研究の為、朝鮮半島を訪ねています。

  ) 同年、商工省主催の輸出用工芸展に出品し、東京、大阪、パリ万博に展示されます。

  ) 休雪の最初の個展は、1944年、大阪美術倶楽部で開催しています。

     以降、朝日新聞主催の「現代日本陶芸展」に招待出品しています。

     1956年には山口県指定の無形文化財(萩焼)に認定されます。

  ) 1967年に隠居し、休和と号し、弟に十一代休雪を襲名させます。

     1970(昭和45)年に、萩焼で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されます。

 ②  萩の土と茶陶

  ) 御本手の茶碗: 御本手とは、陶器の表面に淡い紅梅の様な赤味が、ぽつぽつ点在している

    ものです。肌理の細かい土を使うと、出易いと言われています。

    (この様な焼き物を、姫萩といいます。)

   ・ 本来は、安土桃山~江戸初期に我が国より、朝鮮に見本を送り焼かせた物を言います。

  ) 一般に萩の土は、大道土(だいどうつち)を使います。大道土は山口県周防市大道で採取され、

    砂礫混じりの可塑性に富んだ青白色の粘土です。休雪はこの土に見島土(萩沖の見島で

    採取した、鉄分が多く、粘りの少ない土です)を多く混入し、更には粗目の砂も加えています。

    萩焼の中で素地に荒砂を多量に入れ、荒々しく豪放な趣のあるものを「鬼萩」と呼んでいます。

  ) この土を朝鮮式の蹴轆轤を使い厚手に挽きます。削り作業の際、器の表面が「カンナ」によって

    「ささくれ立つ」のが普通です。これに藁灰釉や長石釉を掛けて、焼成すると、釉が縮れた

    「カイラギ」状態になり、土の中から気泡が発生して、釉面に貫入(ひび)やピンホールが出来ます。

  ) 茶器や食器として使用していると、茶渋や汁垢が浸み込み、茶人が喜ぶ「雨漏り」や

     「萩の七化」と言われる現象になって現れます。

  ) 尚、大道土は1600℃以上で完全に焼き締まる土との事で、1300℃程度では半焼きの甘い

     焼き物(強度的に弱い)となってしまいます。その為、食器には不似合の為、萩では日用品

     としての焼き物が発展しなかったと言われています。又、この半焼け状態では、釉と土の

     縮率の違いが大きく、貫入や「カイラギ」が出来る理由でも有ります。

④ 休和(休雪)の作品

  ① 作品の種類としては、萩井戸茶碗、刷毛目茶碗、萩水指、萩掛花入、香合、茶入など殆どが、

    茶道具です。割り高台の茶碗も多く作っているのも特徴の一つです。

  ② 釉は白釉を改良し、「休雪白」と呼ばれるより白濁釉の美しい、白萩釉を生み出しています。

以下次回に続きます。
    
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