国内の陶芸(工芸)家の発表の場は、超著名人は、万国博覧会などに、出展する事が出来ましたが、
一般には前回取り上げた、内国勧業博覧会や東京府工芸品共進会(明治22年)などに限られていました。
1) 東京美術学校の設立
明治22年、岡倉天心は、将来我が国の美術を担う有能な青年を指導する目的で、上野に美術学校を
開設します。(天心は、開校時には、事務局長でしたが、翌年には校長になります。)
① 前身は、1876年(明治9年)、工部大学校付属「工部美術学校」が設立され、お雇い外国人による
ヨーロッパ式の教育が行われたが、1883年に廃止されます。
その後、1885年(明治18年)に文部省の図画調査会において、官立美術学校の設立が提案され、
アーネスト・フェノロサ、岡倉天心、狩野芳崖等が中心となって「図画取調掛」が設立されます。
更に、その後1887年(明治20年)10月に「東京美術学校」と改称し、1889年2月に現在の上野校地
(旧教育博物館跡)に移転し授業を開始します。その後、「東京藝術大学」が開校、2年後(1952年)に
東京美術学校は閉校になります。
② 開校時には、絵画科(日本画)と彫刻科(木彫)が、後に美術工芸科(彫金)と漆工芸科が
増設されます。しかし陶磁器を扱う科目はありませんでした。
③ 明治26年に、図案科が併設されます。
これは、工芸の輸出を左右するのは、図案の良し悪しによって決まると認識したからです。
従来の伝統的図案からの脱却をめざします。
2) 文部省美術展覧会(文展)の開設
① 明治中期、日本画の組織は旧派の「日本美術協会」と新派の「日本美術院」が対立していました。
更に、西洋画も旧派の「明治美術会」と新派の「白馬会」が対立していました。
これを調停する目的から、文部省が各派を統合する形で、国家主導の大規模な公募展、
即ち、官展として開始したのが「文部省美術展覧会」(文展)です。
② 1907年(明治40年)に第一回展が開催されますが、審査員の選定が問題となり、1913年(大正2年)
には、フランスに留学経験がある新進の芸術家達(石井柏亭、津田青楓、梅原龍三郎、坂本繁二郎
その他)は、洋画部門として二科会が、袂を分かち「二科展」を開始しています。
1916年(大正5年)、第10回に特選および推薦の制を設け、審査を経ることなく出品し得る特権を
与えたます。これを「無鑑査」と言います。
1919年(大正8年)には「帝国美術院」の発足にともない、「帝国美術院展覧会」(帝展)と
改称されます。
3) 帝国に第四部美術工芸の併設
明治40年、文展が開設されても、陶芸を含めた工芸全般は、応募する事が禁じらていました。
理由は、他の絵画や彫刻に比べ、その美術的価値が著しく劣っている為と、作家個人の独創性に
欠けていると見なされた為です。(当時の業界では分業によって、作品が作られていた為、
必ずしも、個人が全てを製作した訳ではありませんでした。)
① この様な工芸に対する差別を無くす行動を起こすのが、板谷波山や清水六和達です。
(彼らに付いては、後日お話しします。)
しかしながら、陶磁器などの工芸は、中々帝展に参加する事は、許されませんでした。
その為、大正十五年には、東京府美術館の開館を記念した、聖徳太子奉賛美術展や、日本工芸
美術会が展示会を執り行います。
② 1927年(昭和二年)の第八回帝展に第四部美術工芸が併設併設され、工芸家が応募出来る様に
なります。しかし美術工芸の審査委員9人の内、3人は画家が選ばれています。
これは、図案の良し悪しを審査する為と見なされています。
以降、工芸家の発表の場として、定着してゆきます。
以下次回に続きます。
一般には前回取り上げた、内国勧業博覧会や東京府工芸品共進会(明治22年)などに限られていました。
1) 東京美術学校の設立
明治22年、岡倉天心は、将来我が国の美術を担う有能な青年を指導する目的で、上野に美術学校を
開設します。(天心は、開校時には、事務局長でしたが、翌年には校長になります。)
① 前身は、1876年(明治9年)、工部大学校付属「工部美術学校」が設立され、お雇い外国人による
ヨーロッパ式の教育が行われたが、1883年に廃止されます。
その後、1885年(明治18年)に文部省の図画調査会において、官立美術学校の設立が提案され、
アーネスト・フェノロサ、岡倉天心、狩野芳崖等が中心となって「図画取調掛」が設立されます。
更に、その後1887年(明治20年)10月に「東京美術学校」と改称し、1889年2月に現在の上野校地
(旧教育博物館跡)に移転し授業を開始します。その後、「東京藝術大学」が開校、2年後(1952年)に
東京美術学校は閉校になります。
② 開校時には、絵画科(日本画)と彫刻科(木彫)が、後に美術工芸科(彫金)と漆工芸科が
増設されます。しかし陶磁器を扱う科目はありませんでした。
③ 明治26年に、図案科が併設されます。
これは、工芸の輸出を左右するのは、図案の良し悪しによって決まると認識したからです。
従来の伝統的図案からの脱却をめざします。
2) 文部省美術展覧会(文展)の開設
① 明治中期、日本画の組織は旧派の「日本美術協会」と新派の「日本美術院」が対立していました。
更に、西洋画も旧派の「明治美術会」と新派の「白馬会」が対立していました。
これを調停する目的から、文部省が各派を統合する形で、国家主導の大規模な公募展、
即ち、官展として開始したのが「文部省美術展覧会」(文展)です。
② 1907年(明治40年)に第一回展が開催されますが、審査員の選定が問題となり、1913年(大正2年)
には、フランスに留学経験がある新進の芸術家達(石井柏亭、津田青楓、梅原龍三郎、坂本繁二郎
その他)は、洋画部門として二科会が、袂を分かち「二科展」を開始しています。
1916年(大正5年)、第10回に特選および推薦の制を設け、審査を経ることなく出品し得る特権を
与えたます。これを「無鑑査」と言います。
1919年(大正8年)には「帝国美術院」の発足にともない、「帝国美術院展覧会」(帝展)と
改称されます。
3) 帝国に第四部美術工芸の併設
明治40年、文展が開設されても、陶芸を含めた工芸全般は、応募する事が禁じらていました。
理由は、他の絵画や彫刻に比べ、その美術的価値が著しく劣っている為と、作家個人の独創性に
欠けていると見なされた為です。(当時の業界では分業によって、作品が作られていた為、
必ずしも、個人が全てを製作した訳ではありませんでした。)
① この様な工芸に対する差別を無くす行動を起こすのが、板谷波山や清水六和達です。
(彼らに付いては、後日お話しします。)
しかしながら、陶磁器などの工芸は、中々帝展に参加する事は、許されませんでした。
その為、大正十五年には、東京府美術館の開館を記念した、聖徳太子奉賛美術展や、日本工芸
美術会が展示会を執り行います。
② 1927年(昭和二年)の第八回帝展に第四部美術工芸が併設併設され、工芸家が応募出来る様に
なります。しかし美術工芸の審査委員9人の内、3人は画家が選ばれています。
これは、図案の良し悪しを審査する為と見なされています。
以降、工芸家の発表の場として、定着してゆきます。
以下次回に続きます。