わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

現代陶芸14(荒川豊蔵1)

2012-01-11 22:46:16 | 現代陶芸と工芸家達
荒川豊蔵と言えば、後日述べる予定の、加藤唐九郎とともに、桃山陶器の再興の祖と言われています。

又昭和30年の第一回重要無形財(人間国宝)に指定された、四人の内の一人です。

1) 荒川豊蔵(あらかわとよぞう): 1894(明治27年)~1985年(昭和60年)

 ① 経歴

 ) 岐阜県土岐郡多治見町で、父梅次郎の長男として生まれます。

    豊蔵の母方は、多治見市高田で製陶業を営み、陶祖、加藤与左衛門景一の直系です。

 ) 1906年、神戸の貿易商の店員に成る。

 ) 19122年、京都東伏見にある初代宮永東山の陶磁器工場の工場長に成ります。

    京都では旧大名家や、名だたる大家の売り立てで、一流の焼き物を見る機会を得ます。

    (それまでの、陶芸暦は定かではありません。作品を造る事より、マネジャーやプロデゥース
     
     的な仕事であった様です。)

 )  1913年、 岐阜県可児郡久々利村大平で、古窯跡を発掘します。

 ) 1927年(昭和2年)宮永東山窯を辞して、北大路廬山人の窯場の鎌倉「星カ岡窯」に移ります。

    1925年、 星岡茶寮で使う食器を研究する為に、東山窯に訪れた北大路魯山人と出会います。

    魯山人は約1年間逗留し、その間親交を深めます。その縁で鎌倉に出向く事に成ります。

    魯山人が収集した膨大な古陶磁を手にとって研究し、星岡窯の作陶に活かします。

 ② 古志野との出会い

  ) 1930年魯山人が名古屋の松阪屋で「星岡窯主作陶展」を開催中の4月、魯山人と豊蔵は古美術商

   の横山五郎から、名古屋の関戸家所蔵の鼠志野香炉と、志野筍絵茶碗を見せて貰います。茶碗の

   高台内側に付着した赤い道具土から、古志野は瀬戸で焼かれたとする通説に疑問を持ちます。

  ) 2日後の4月11日、多治見に出かけ、以前織部の陶片を拾った大平、大萱の古窯跡を調査した

    ところ、名古屋で見た筍絵茶碗と同手の志野の陶片を発見し、志野が美濃で焼かれた事を確信

    します。同時にその他の古窯跡も調査しています。

  ) 1933年、星岡窯を辞して多治見の大萱古窯跡近くに穴窯を築きますが、初窯で三晩四日かけて

    焚き続けたが温度が上がらず、失敗に終わります。

    翌年には、最初の窯から40m北に新たに窯を築き、古窯跡から出土する陶片を頼りに、志野、

   瀬戸黒、黄瀬戸を試行錯誤で製作し続けます。

 ) 1935年 ようやく満足する物ができ、志野の「ぐい呑み」と「瀬戸黒の茶碗」を持って鎌倉の

    魯山人を訪ねます。魯山人はこれを称賛し鎌倉に戻ることを促がしますが、豊蔵はこれを

    辞退し、以後大萱窯で、志野、瀬戸黒、黄瀬戸、唐津を作陶する様になります。

 ③ 人間国宝、 文化勲章受章

   1941年、大阪梅田の阪急百貨店で初個展を開催します。

  1946年(52歳) 多治見市の虎渓山永保寺所有の山を借り受け「水月窯」を作ります。

   「水月窯」は連房式登り窯で、染付、色絵、粉引や、生活の為の日用食器の量産を行っています。

  1955年(61歳) 志野と瀬戸黒で重要無形文化財技術保持者(人間国宝)に認定されまする。

  同年、日本橋三越百貨店で戦後初の個展を開催し、大成功を収めます。

  1971年(昭和46年)(77歳) 文化勲章受章。

  1984年(昭和59年)(90歳) 大萱窯の地に荒川豊蔵資料館を開館します。

  1985年8月11日(昭和60年)(91歳)  死去。

2) 荒川豊蔵の陶芸

 ① 桃山時代の志野に陶芸の原点を求め、古志野の筍絵陶片を発見した牟田洞古窯跡のある大萱に

   桃山時代の古窯を模した半地上式穴窯を築き、古志野の再現を目指して作陶を重ねます。

   遂には「荒川志野」と呼ばれる独自の境地を確立しました。

 ② 志野の土は、「もぐさ土」と呼ばれる粘り気の少ない、やや黄味がある「ぼろぼろ」した土を、

   単味で使います。

   一般には水簸(すいひ)してから使用しますが、荒川豊蔵は、水簸をしませんでした。

   理由は、土の個性が失われるのを、防ぐ為と言われています。

  (水簸しないと、「ひび」が入り易くなり、土が均一に成らないと言われています。)

  更に、山から掘り出した土を、現代の様に、電気の動力を使わず、水車を使い唐臼で搗(つ)いて

  いました。即ち桃山時代と同じ工程で、土造りを行っています。

 ③ 轆轤も手廻しの木の円板で、人間の手と足のバランスで、自由自在に作品を作っています。

   電動轆轤の様に、均一なスピードは逆に作品造りには無用な物で有った様です。

 ④ 半地上式の窖(あな)窯は、豊蔵自ら設計、築窯したもので、長さ4m余り、幅は太い所で2m程度
  
   であったそうです。(荒川の自叙伝で記されています。)

   窯詰めの方法にも苦労した様です。これを三昼夜、又は四昼夜を赤松の薪で焚き、1250℃まで

   温度を上げています。

 ⑤ 志野の釉について

以下次回に続きます。
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