第二回重要無形文化財(人間国宝)に指定された工芸家に、備前焼の金重陶陽がいます。
備前焼と言えば、現在では、陶芸をしている人にとっては、憧れの焼き物であり、焼き物愛好家の
一般の人にとっても、人気の高い焼き物といえます。
しかし、明治~昭和初期頃に、備前焼きは最も苦難の時代を迎えていました。
その備前焼を、現在の隆盛に導いたのが、金重陶陽で「備前焼中興の祖」とも言われています。
1) 備前焼の時代風景
① 窯元六姓と呼ばれ、室町末期に共同大窯を取り仕切る「座」があり、備前の陶工はこのいずれかの
「座」に属せねば仕事が出来ませんでした。昭和の始め頃まで存続していた様です。
② 備前焼の黄金期は、桃山時代と言われています。
侘び茶の流行とともに、花入、水指、鉢、徳利など焼き締めの茶陶の生産が、活況を呈します。
③ 幕末から明治にかけて、多くの工芸が技巧に走る様に成ると、備前焼もいわゆる細工物(さいくもの)
を造る様になり、布袋様、鳥獣の像などの置物が多くなり、いかに精緻に造るかに専念します。
その為、一時的には人気を博しますが、所詮細工物という事で、飽きられてしまいます。
尚この細工師を「デコ師」と呼んでいました。
④ 大正10年代に、煎茶が流行し始め、煎茶用の宝瓶(ほうびん=取っ手の無い急須)、香炉、花台
などが造られます。その為、一時備前焼は日の目を見ますが、それも一時のブームで終わって
しまいます、 尚、宝瓶は陶陽の発明した物と言われています。
2) 金重陶陽(かなしげとうよう): 1896(明治29年)~1967(昭和42年)
① 経歴
) 岡山県和気郡伊部で、細工師の父金重楳陽(ばいよう)の長男として生まれます。
尚、金重素山は、陶陽の実弟です。
) 陶陽も父の手ほどきで、細工師の道に進みます。15~6歳頃から、一人で窯焚きをし、
作品も、売り歩いていた様です。得意な作品は、動物や花鳥の置物などでした。
) 1916(大正5年)、耐火製の棚板を造り使用します。
従来作品は「匣(さや)鉢」内に収め、匣鉢を積み重ねて、焼成していました。
これでは、匣鉢の一番上の作品しか、灰が掛かりません。
棚板を使う事により、多くの作品に灰が掛り、窯変の見事な作品が多く、生まれました。
尚、現在では、備前焼と言えば、灰を被った作品をイメージしますが、当時はむしろ灰が
被らない様にしていた様です。
) 1922年、名古屋の松坂屋で、十五代永楽善五郎と、最初の作陶展を開きます。
1926年、大正天皇に「飛獅子」の置物を献上しています。
1928年、昭和天皇に閑谷(しずたに)焼きの「鬼瓦に鳩」の置物を献上します。
) 桃山陶の復興を志すのは、昭和3年(1928)頃からで、結婚と子供の誕生が契機に成った様です。
備前焼の本当の美しさは、桃山時代に有ると気付き、「桃山に帰れ」と唱える様に成ります。
a) 千家官休庵(武者小路千家)の宗匠について、本格的な茶道を習い始めます。
茶を知る事で、茶碗や水指などの大きと、備前焼の欠点を知る様に成ります。
b) 当時、「新備前」と呼ばれた備前焼は、茶道具として使われる事は、殆ど有りませんでした。
岡山の茶人にその理由を聞きだし、教えを乞います。
・ 茶碗の底が「ザラザラ」している為、茶筅(ちゃせん)の痛みが激しい事、茶巾の
滑りが悪い事などが上げられました。
c) 陶陽は対策を採ります。土の吟味から取り掛かります。備前の土は「ヒヨセ」と呼ばれる、
田圃の上部を取り除いたその下の土を使います。桃山時代の土と現在の土の違いを見出し、
桃山期間の土を求め歩きます。又、口縁には滑りを良くする為、「ゴマ=灰」を掛ける。
見込み(内側の底)には、景色と同時に良く焼きつるつるにします。高台付近には、
緋襷(ひだすき)で、趣を添えるなど、茶人の不評を取り除く様に、努力を重ねます。
3) 陶陽の陶芸
以下次回に続きます。
備前焼と言えば、現在では、陶芸をしている人にとっては、憧れの焼き物であり、焼き物愛好家の
一般の人にとっても、人気の高い焼き物といえます。
しかし、明治~昭和初期頃に、備前焼きは最も苦難の時代を迎えていました。
その備前焼を、現在の隆盛に導いたのが、金重陶陽で「備前焼中興の祖」とも言われています。
1) 備前焼の時代風景
① 窯元六姓と呼ばれ、室町末期に共同大窯を取り仕切る「座」があり、備前の陶工はこのいずれかの
「座」に属せねば仕事が出来ませんでした。昭和の始め頃まで存続していた様です。
② 備前焼の黄金期は、桃山時代と言われています。
侘び茶の流行とともに、花入、水指、鉢、徳利など焼き締めの茶陶の生産が、活況を呈します。
③ 幕末から明治にかけて、多くの工芸が技巧に走る様に成ると、備前焼もいわゆる細工物(さいくもの)
を造る様になり、布袋様、鳥獣の像などの置物が多くなり、いかに精緻に造るかに専念します。
その為、一時的には人気を博しますが、所詮細工物という事で、飽きられてしまいます。
尚この細工師を「デコ師」と呼んでいました。
④ 大正10年代に、煎茶が流行し始め、煎茶用の宝瓶(ほうびん=取っ手の無い急須)、香炉、花台
などが造られます。その為、一時備前焼は日の目を見ますが、それも一時のブームで終わって
しまいます、 尚、宝瓶は陶陽の発明した物と言われています。
2) 金重陶陽(かなしげとうよう): 1896(明治29年)~1967(昭和42年)
① 経歴
) 岡山県和気郡伊部で、細工師の父金重楳陽(ばいよう)の長男として生まれます。
尚、金重素山は、陶陽の実弟です。
) 陶陽も父の手ほどきで、細工師の道に進みます。15~6歳頃から、一人で窯焚きをし、
作品も、売り歩いていた様です。得意な作品は、動物や花鳥の置物などでした。
) 1916(大正5年)、耐火製の棚板を造り使用します。
従来作品は「匣(さや)鉢」内に収め、匣鉢を積み重ねて、焼成していました。
これでは、匣鉢の一番上の作品しか、灰が掛かりません。
棚板を使う事により、多くの作品に灰が掛り、窯変の見事な作品が多く、生まれました。
尚、現在では、備前焼と言えば、灰を被った作品をイメージしますが、当時はむしろ灰が
被らない様にしていた様です。
) 1922年、名古屋の松坂屋で、十五代永楽善五郎と、最初の作陶展を開きます。
1926年、大正天皇に「飛獅子」の置物を献上しています。
1928年、昭和天皇に閑谷(しずたに)焼きの「鬼瓦に鳩」の置物を献上します。
) 桃山陶の復興を志すのは、昭和3年(1928)頃からで、結婚と子供の誕生が契機に成った様です。
備前焼の本当の美しさは、桃山時代に有ると気付き、「桃山に帰れ」と唱える様に成ります。
a) 千家官休庵(武者小路千家)の宗匠について、本格的な茶道を習い始めます。
茶を知る事で、茶碗や水指などの大きと、備前焼の欠点を知る様に成ります。
b) 当時、「新備前」と呼ばれた備前焼は、茶道具として使われる事は、殆ど有りませんでした。
岡山の茶人にその理由を聞きだし、教えを乞います。
・ 茶碗の底が「ザラザラ」している為、茶筅(ちゃせん)の痛みが激しい事、茶巾の
滑りが悪い事などが上げられました。
c) 陶陽は対策を採ります。土の吟味から取り掛かります。備前の土は「ヒヨセ」と呼ばれる、
田圃の上部を取り除いたその下の土を使います。桃山時代の土と現在の土の違いを見出し、
桃山期間の土を求め歩きます。又、口縁には滑りを良くする為、「ゴマ=灰」を掛ける。
見込み(内側の底)には、景色と同時に良く焼きつるつるにします。高台付近には、
緋襷(ひだすき)で、趣を添えるなど、茶人の不評を取り除く様に、努力を重ねます。
3) 陶陽の陶芸
以下次回に続きます。