特定の師匠を持たず、更に各種団体にも属さず、東京多摩丘陵の登窯で信楽の焼締の作品を造り続け、
個展を中心に活動した陶芸家に、東京在住の辻清明がいます。
辻清明氏 (つじ、せいめい、本名きよはる): 1927年 ~ 2008年。
① 経歴
) 東京府荏原郡(現・東京都世田谷区)世田谷町大字太師堂にて、実業家の辻清吉の次男
(4人兄弟の末子)として生まれます。(尚、生家は陶芸とは関係が無いそうです。)
) 1941年 世田谷の自宅に倒焔式の石炭窯を築き、姉輝子(陶芸家)と辻陶器研究所を設立します
1949年 新たにガス窯を築き、低火度色釉を施した作品の試作に成功します。
) 1948年 旧北海道拓殖銀行のロビーで初の個展を、次いで札幌市の丸井デパートで個展を
開催しています。
) 1955年 協子夫人(陶芸家)と共に、東京都南多摩郡連光寺村に、3室の登り窯を築き、
辻陶器工房を設立します。
) 1963年、米国・ホワイトハウスに「緑釉布目板皿」が収蔵されます。
1965年、米国・インディアナ大学美術館に「信楽自然釉壺」が所蔵され
1973年、イタリア・ファエンツァ陶芸博物館に「茶碗」が収蔵されます。
2001年、ドイツ・ハンブルクダヒトアホール美術館開催の、「日本現代陶芸展」に招待出品。
その他、国内外の展覧会に多数出品し、評価を確かなものとしています。
12006年 東京都名誉都民と成っています。
② 辻氏の陶芸
) 手回し轆轤による成形
a) 9歳頃から轆轤を回し始め、小学校6年生頃から、轆轤師に付いて本格的に修行をしたと
言われています。当時の轆轤を使いこなすには、相当の修行が必要なはずです。
b) 手回し轆轤とは、回し棒(ろくろぼせ)と呼ばれる、長さ約40cm程の先の尖った棒を、
轆轤の周囲に設けられた、複数の穴の一つに差込み、左周り(時計方向)に回転させて
使います。 辻氏の使用している轆轤は、直径60cmの欅(けやき)で造られ、板厚さも
厚く重たいものです。 当然、回転させる為には体力が必要です。
c) 信楽の土は「石ハゼ」という粒子の粗い、長石質の石が入っています。その為辻氏は左手に
古いタオル(布)を握って、手や指を傷付けない様に、轆轤挽きをしている様です。
(場合によっては両手に、布を持つ事もある様です。)
) 若い頃は土を求めて各地を探索した様ですが、近年は長年寝かせた信楽土に、20%程度の
聚楽土(じゅらくど=壁などに使用する土)を混ぜている様です。
「ぱさぱさ感が」ありますが、焼き上がりに暖か味が出ます。
) 本格的に信楽焼きに絞って作品を造る様に成ったのは、多摩丘陵に登窯を築いた頃からと
言われています。それ以前は中国の白磁や天目、染付けや色絵などの作品を造り、新工芸協会
などの様々な工芸団体や運動にし参加し、ガス窯などでクラフト的なオブジェの作品も
造っています。 しかし、便利な工程や釉による飾りなどの空しさを感じ、安易な方法より
より困難な登窯で、無釉の焼締めによる焼成を目指す様に成ります。
) 焼締めには、備前、常滑焼を始め、多くの焼物があります。その中で信楽を選んだのは、
平安、鎌倉、室町と歴史も古く、素地の荒々しさや長石粒や珪石粒を含む土の力強さや、
松薪による明るい火(緋)色と、荒々しい肌合いの中にある暖味と素朴な形などの魅力に
引き付けられた述べています。「地球の創成期より大自然が長い年月をかけて、作り出した
土を生かすには、人もまた時間と体験を積み上げて、その恩恵を器に還元させなければ成らない」
とも語っています。辻氏の目指した焼き物は「明る侘び」(明るさの中に、枯れた風情がある)
と呼ぶ信楽焼きでした。
③ 辻氏の作品
辻氏の作品は、東京の片隅で造られたにも係わらず、本場の信楽焼きを凌ぐ作品に成っています。
以下次回(辻清明2)に続きます。
個展を中心に活動した陶芸家に、東京在住の辻清明がいます。
辻清明氏 (つじ、せいめい、本名きよはる): 1927年 ~ 2008年。
① 経歴
) 東京府荏原郡(現・東京都世田谷区)世田谷町大字太師堂にて、実業家の辻清吉の次男
(4人兄弟の末子)として生まれます。(尚、生家は陶芸とは関係が無いそうです。)
) 1941年 世田谷の自宅に倒焔式の石炭窯を築き、姉輝子(陶芸家)と辻陶器研究所を設立します
1949年 新たにガス窯を築き、低火度色釉を施した作品の試作に成功します。
) 1948年 旧北海道拓殖銀行のロビーで初の個展を、次いで札幌市の丸井デパートで個展を
開催しています。
) 1955年 協子夫人(陶芸家)と共に、東京都南多摩郡連光寺村に、3室の登り窯を築き、
辻陶器工房を設立します。
) 1963年、米国・ホワイトハウスに「緑釉布目板皿」が収蔵されます。
1965年、米国・インディアナ大学美術館に「信楽自然釉壺」が所蔵され
1973年、イタリア・ファエンツァ陶芸博物館に「茶碗」が収蔵されます。
2001年、ドイツ・ハンブルクダヒトアホール美術館開催の、「日本現代陶芸展」に招待出品。
その他、国内外の展覧会に多数出品し、評価を確かなものとしています。
12006年 東京都名誉都民と成っています。
② 辻氏の陶芸
) 手回し轆轤による成形
a) 9歳頃から轆轤を回し始め、小学校6年生頃から、轆轤師に付いて本格的に修行をしたと
言われています。当時の轆轤を使いこなすには、相当の修行が必要なはずです。
b) 手回し轆轤とは、回し棒(ろくろぼせ)と呼ばれる、長さ約40cm程の先の尖った棒を、
轆轤の周囲に設けられた、複数の穴の一つに差込み、左周り(時計方向)に回転させて
使います。 辻氏の使用している轆轤は、直径60cmの欅(けやき)で造られ、板厚さも
厚く重たいものです。 当然、回転させる為には体力が必要です。
c) 信楽の土は「石ハゼ」という粒子の粗い、長石質の石が入っています。その為辻氏は左手に
古いタオル(布)を握って、手や指を傷付けない様に、轆轤挽きをしている様です。
(場合によっては両手に、布を持つ事もある様です。)
) 若い頃は土を求めて各地を探索した様ですが、近年は長年寝かせた信楽土に、20%程度の
聚楽土(じゅらくど=壁などに使用する土)を混ぜている様です。
「ぱさぱさ感が」ありますが、焼き上がりに暖か味が出ます。
) 本格的に信楽焼きに絞って作品を造る様に成ったのは、多摩丘陵に登窯を築いた頃からと
言われています。それ以前は中国の白磁や天目、染付けや色絵などの作品を造り、新工芸協会
などの様々な工芸団体や運動にし参加し、ガス窯などでクラフト的なオブジェの作品も
造っています。 しかし、便利な工程や釉による飾りなどの空しさを感じ、安易な方法より
より困難な登窯で、無釉の焼締めによる焼成を目指す様に成ります。
) 焼締めには、備前、常滑焼を始め、多くの焼物があります。その中で信楽を選んだのは、
平安、鎌倉、室町と歴史も古く、素地の荒々しさや長石粒や珪石粒を含む土の力強さや、
松薪による明るい火(緋)色と、荒々しい肌合いの中にある暖味と素朴な形などの魅力に
引き付けられた述べています。「地球の創成期より大自然が長い年月をかけて、作り出した
土を生かすには、人もまた時間と体験を積み上げて、その恩恵を器に還元させなければ成らない」
とも語っています。辻氏の目指した焼き物は「明る侘び」(明るさの中に、枯れた風情がある)
と呼ぶ信楽焼きでした。
③ 辻氏の作品
辻氏の作品は、東京の片隅で造られたにも係わらず、本場の信楽焼きを凌ぐ作品に成っています。
以下次回(辻清明2)に続きます。