工芸作品の発表の場は、主に伝統を守る「日本伝統工芸展」と、帝展の流れを汲む「日展」があります。
瀬戸の陶芸家は主に、「日展」で活躍する人が多い様です。
瀬戸の赤津焼きを代表する陶芸家の、加藤舜陶もその様な人の一人です。
1) 加藤舜陶 ( かとう しゅんとう ): 1916(大正5) ~ 2005(平成17)
① 経歴
) 愛知県瀬戸市で加藤春逸の長男として生まれます。
陶祖「加藤四郎左衛門影正」の26代の末裔とも言われ、代々焼き物を生業としている名家で
赤津に移り住んでからも、10代目と成る名家です。
尚、父春逸は割烹食器が専門で、星ヶ岡茶寮の様な高級料理店の食器を造っていました。
) 1946年 瀬戸市赤津町にて本格的な製陶に従事する様に成ります。
1950年 第六回日展に「黒い壷」を出品し初入選を果たします。以後連続入選します。
1959年 日本橋三越で個展を開催します。
) 1960年 戦後の第三回日展に「湖上の月」を出品し、特選の北斗賞を受賞します。
この作品は、高さ63X径34cmの筒型の花瓶で、縦方向全面にうねった線が無数に彫られた
作品で、灰釉のやや緑かかった焦げ茶色の肌の正面中央近くに、無釉の円形の月が表現
されています。 これ以降、無鑑査出品、日展内閣総理大臣賞受賞、日展審査委員、
日展会員、日展評議委員、朝日陶芸展審査委員などを歴任します。
又、ブリュッセル万博グランプリ等受賞、ソ連・ベルギーの美術館等に永年保存や
中日国際陶芸展審査委員など国際的な活躍もしています。
② 加藤舜陶 の陶芸
) 灰釉(かいゆ、はいゆ)
舜陶氏が目指した作品に、灰釉の作品があります。
a) 灰釉は栗、樫、栃などの硬い樹木、即ち炭に成る木の灰が良いと言われています。
b) この灰を細かく砕いた長石に混ぜ釉を作り、器面に塗り還元焼成し、ガラス状の幕を
作ります。更に、少量の黄土やカオリンを添加して、光沢や潤い出している様です。
(現在ではこの様な灰は入手困難である為、一般には石灰や合成灰を使う場合もあります。)
) 御深井(おふけ)焼
a) 灰釉は瀬戸地方で生まれ、発展したと言われています。特に江戸初期の尾張徳川家の
公式行事には、上質の白い生地に透明な緑色かかった、格式高い陶器が使われています。
この焼き物は御深井焼と呼ばれています。
舜陶氏はこの御深井焼を元に現代的な造形と、意匠を取り入れます。
b) 彼の作品の多くは、「盤」の形をしています。
灰釉は高温で、又厚く掛ける事により流れ易く成る為、平面的な作品になり勝ちです。
「御深井釉鳥文大皿」(1980年、直径47cm)などが代表的な作品です。
) 碧釉(へきゆ)は、初期の頃の作品です。
青い呉須で器一面に下絵を付け、灰釉を掛けたもので、深い湖の底の様な暗い緑色を呈します。
流動化した灰釉は呉須と共に、凹んだ部分に厚く溜まり、口縁などの周辺部には薄く掛ます。
その為、陰影が色濃く出る事に成ります。「碧彩盤」(1972年、直径52cm)
) 黄灰釉は同じ灰釉を酸化焼成する事で得られます。釉の中の鉄分や銅分が酸化されて黄色を
呈します。石炭窯を用いて焼成すると、石炭灰も降り掛り一層効果的で有るとのことです。
但し、今では、煤煙の関係で瀬戸でも石炭窯は、禁止されている様です。
それ故、ガス窯が中心に使われているとの事です。
) 陶壁も作っています。瀬戸やその近くの公共施設には、必ずといっていいほど、壁画や陶壁が
飾られている様です。
瀬戸市の公立病院の陶生病院の一階のロビーに、陶壁2点が東西に設置されています。
東側には加藤舜陶氏の制作した「瀬戸の四季」が、飾られていて、大きく赤く輝く太陽が
描かれてあるのが印象的です。
尚、加藤瞬陶は、鈴木青々と河本五郎と並んで「瀬戸の三羽がらす」と呼ばれた人です。
2001年3月9日 には当時の皇太子(現、天皇)ご夫妻も訪問されています。
(現皇太子殿下と秋篠宮殿下も一緒 だった様です。)
以下次回(鈴木青々)に続きます。
瀬戸の陶芸家は主に、「日展」で活躍する人が多い様です。
瀬戸の赤津焼きを代表する陶芸家の、加藤舜陶もその様な人の一人です。
1) 加藤舜陶 ( かとう しゅんとう ): 1916(大正5) ~ 2005(平成17)
① 経歴
) 愛知県瀬戸市で加藤春逸の長男として生まれます。
陶祖「加藤四郎左衛門影正」の26代の末裔とも言われ、代々焼き物を生業としている名家で
赤津に移り住んでからも、10代目と成る名家です。
尚、父春逸は割烹食器が専門で、星ヶ岡茶寮の様な高級料理店の食器を造っていました。
) 1946年 瀬戸市赤津町にて本格的な製陶に従事する様に成ります。
1950年 第六回日展に「黒い壷」を出品し初入選を果たします。以後連続入選します。
1959年 日本橋三越で個展を開催します。
) 1960年 戦後の第三回日展に「湖上の月」を出品し、特選の北斗賞を受賞します。
この作品は、高さ63X径34cmの筒型の花瓶で、縦方向全面にうねった線が無数に彫られた
作品で、灰釉のやや緑かかった焦げ茶色の肌の正面中央近くに、無釉の円形の月が表現
されています。 これ以降、無鑑査出品、日展内閣総理大臣賞受賞、日展審査委員、
日展会員、日展評議委員、朝日陶芸展審査委員などを歴任します。
又、ブリュッセル万博グランプリ等受賞、ソ連・ベルギーの美術館等に永年保存や
中日国際陶芸展審査委員など国際的な活躍もしています。
② 加藤舜陶 の陶芸
) 灰釉(かいゆ、はいゆ)
舜陶氏が目指した作品に、灰釉の作品があります。
a) 灰釉は栗、樫、栃などの硬い樹木、即ち炭に成る木の灰が良いと言われています。
b) この灰を細かく砕いた長石に混ぜ釉を作り、器面に塗り還元焼成し、ガラス状の幕を
作ります。更に、少量の黄土やカオリンを添加して、光沢や潤い出している様です。
(現在ではこの様な灰は入手困難である為、一般には石灰や合成灰を使う場合もあります。)
) 御深井(おふけ)焼
a) 灰釉は瀬戸地方で生まれ、発展したと言われています。特に江戸初期の尾張徳川家の
公式行事には、上質の白い生地に透明な緑色かかった、格式高い陶器が使われています。
この焼き物は御深井焼と呼ばれています。
舜陶氏はこの御深井焼を元に現代的な造形と、意匠を取り入れます。
b) 彼の作品の多くは、「盤」の形をしています。
灰釉は高温で、又厚く掛ける事により流れ易く成る為、平面的な作品になり勝ちです。
「御深井釉鳥文大皿」(1980年、直径47cm)などが代表的な作品です。
) 碧釉(へきゆ)は、初期の頃の作品です。
青い呉須で器一面に下絵を付け、灰釉を掛けたもので、深い湖の底の様な暗い緑色を呈します。
流動化した灰釉は呉須と共に、凹んだ部分に厚く溜まり、口縁などの周辺部には薄く掛ます。
その為、陰影が色濃く出る事に成ります。「碧彩盤」(1972年、直径52cm)
) 黄灰釉は同じ灰釉を酸化焼成する事で得られます。釉の中の鉄分や銅分が酸化されて黄色を
呈します。石炭窯を用いて焼成すると、石炭灰も降り掛り一層効果的で有るとのことです。
但し、今では、煤煙の関係で瀬戸でも石炭窯は、禁止されている様です。
それ故、ガス窯が中心に使われているとの事です。
) 陶壁も作っています。瀬戸やその近くの公共施設には、必ずといっていいほど、壁画や陶壁が
飾られている様です。
瀬戸市の公立病院の陶生病院の一階のロビーに、陶壁2点が東西に設置されています。
東側には加藤舜陶氏の制作した「瀬戸の四季」が、飾られていて、大きく赤く輝く太陽が
描かれてあるのが印象的です。
尚、加藤瞬陶は、鈴木青々と河本五郎と並んで「瀬戸の三羽がらす」と呼ばれた人です。
2001年3月9日 には当時の皇太子(現、天皇)ご夫妻も訪問されています。
(現皇太子殿下と秋篠宮殿下も一緒 だった様です。)
以下次回(鈴木青々)に続きます。