唐津の中里家は代々唐津藩の御用窯の家柄でした。献上唐津と呼ばれる茶道具を主に生産しています。
明治の廃藩置県により、御用窯は廃止になり窯は、払い下げてもらい窯業を続けますが困難な
時代が続きます。昭和初期、12代中里無庵は古窯で発掘した古唐津の魅力に惹かれ、それまでの作品
より古唐津の再現を目指す様に成ります。昭和30年頃には、古唐津の復興に成功します。
戦後には、後に無庵の長男で、13代中里太郎右衛門となる中里忠夫氏も協力しています。
1) 十三代中里太郎右衛門(中里逢庵=なかざと ほうあん) :
1923年(大正12) ~ 2009年(平成21) 本名 中里忠夫。
① 経歴
) 佐賀県唐津市で、中里太郎右衛門 (12代)の長男として生まれます。
尚、次男の中里重利、四男の中里隆も陶芸家です。(後日取り上げる予定です。)
) 1943年 東京高等工芸学校工芸図案化を卒業します。
1946年 父を助けて半農半陶の生活に入ります。
) 1951年 第七回日展で「陶彫・牛」で初入選を果たします。以降連続入選。
1956年 第一回日本美術展で、「叩三島壷」で北斗賞を受賞。
1958年 第一回新日展で、「叩壷・牛」が特選を受賞します。
その後、日展審査員、日展会員、評議員、理事などを歴任します。
) 1969年、十三代中里太郎右衛門を襲名します。
2002年 長男、忠寛に名跡(14代)を譲り、京都大徳寺本山にて得度し「逢庵」と号します。
2007年 藝術院会員になります。
) 日展で活躍するだけでなく、九州地方の若い作家達の指導や、面倒を見ると共に、古唐津の
歴史的な調査研究を熱心に勧め、多くの著書も残しています。
1965年 現代工芸美術家協会視察団の団長として欧州、中近東を視察しています。
② 十三代中里太郎右衛門の陶芸
父「無庵」が取り入れた「叩(たたき)唐津壷」の技法を、更に推し進めています。
注: 「叩」の技法は、紀元前5世紀頃より、東南アジアのタイ、ベトナム、カンボジア、
インドネシア、ビルマ更に中国などで、土器(壷)を作る方法として行われていた
そうです。現在でも、一部地域で目撃されているとの事です。
) 叩きの技法は、紐作りにより数段積み上げ、繋ぎ目を指で消しながら、ならします。
器の内側に当て木を添えて、外側から叩き板で叩きながら、土を締め強度を持たせ
形を造ります。
) 蹴り轆轤を使いゆっくり回転させ、下から上に叩きながら、土を薄くし形を整えます。
叩き板には刻みが彫られ、土離れを良くすると共に土を強く締める働きもあり、更に
この彫り込みの文様(格子文など)が器面に現れ、内側の当て木にある年輪は、青波波として
残っています。「叩き青唐津壷」(1967) 京都国立近代美術館蔵、「叩き唐津三島壷・雪原」
(1974)、「叩き唐津三島壷」(1981)などの作品があります。
) 叩き象嵌壷は、叩きの技法で成形した作品に、白又は黒土を使って花や魚文様を象嵌した
作品です。「叩き唐津三島黒白象嵌壷](1977)、「叩き唐津黒白象嵌四季文壷」(1977)
などの作品があります。
) 化粧土を使った作品:器の一部に素地と異なる色土を刷毛で塗り、その上から線彫りの
文様を描きます、線は素地の色になります。「叩き唐津刷毛目黒花文壷」(1979)、
a) 三島唐津とは、粉引(こひき)、刷毛目、掻き落しなど白い化粧土を使った装飾方法の
総称との事です。白土には「朝鮮カオリン」を黒土には「酸化鉄やマンガン、クローム」を
調合しています。「唐津三島茶碗」(1978)、「唐津三島掻落辰砂瓢箪文香炉」(1983)
などの作品があります。
b) 総理大臣賞を受賞した「叩き唐津三島手付壷」は、二種類の叩き板を使い成形した壷の
上部に白土を塗り、口から肩にかけて長石釉を掛け、籾殻や木炭を詰めた匣鉢(さや)に入れ、
弱還元焼成の焼き締め状の黒を出しています。
) 絵唐津と朝鮮唐津は、唐津焼きの代表的なものです。
絵唐津は絵付けで、淡褐色の素地に鉄絵の具(岩石を粉末化)で文様が描かれています。
朝鮮唐津は釉によるもので、藁灰の白濁釉と鉄釉の黒褐色を二重掛け(掛け分)した作品を
言います。特に上部の藁灰釉は、下部に掛けた鉄釉の上を流れ落ちています。
「絵唐津松文大皿」(1983)などの作品があります。
次回(大樋年朗=十代大樋長左衛門)に続きます。
明治の廃藩置県により、御用窯は廃止になり窯は、払い下げてもらい窯業を続けますが困難な
時代が続きます。昭和初期、12代中里無庵は古窯で発掘した古唐津の魅力に惹かれ、それまでの作品
より古唐津の再現を目指す様に成ります。昭和30年頃には、古唐津の復興に成功します。
戦後には、後に無庵の長男で、13代中里太郎右衛門となる中里忠夫氏も協力しています。
1) 十三代中里太郎右衛門(中里逢庵=なかざと ほうあん) :
1923年(大正12) ~ 2009年(平成21) 本名 中里忠夫。
① 経歴
) 佐賀県唐津市で、中里太郎右衛門 (12代)の長男として生まれます。
尚、次男の中里重利、四男の中里隆も陶芸家です。(後日取り上げる予定です。)
) 1943年 東京高等工芸学校工芸図案化を卒業します。
1946年 父を助けて半農半陶の生活に入ります。
) 1951年 第七回日展で「陶彫・牛」で初入選を果たします。以降連続入選。
1956年 第一回日本美術展で、「叩三島壷」で北斗賞を受賞。
1958年 第一回新日展で、「叩壷・牛」が特選を受賞します。
その後、日展審査員、日展会員、評議員、理事などを歴任します。
) 1969年、十三代中里太郎右衛門を襲名します。
2002年 長男、忠寛に名跡(14代)を譲り、京都大徳寺本山にて得度し「逢庵」と号します。
2007年 藝術院会員になります。
) 日展で活躍するだけでなく、九州地方の若い作家達の指導や、面倒を見ると共に、古唐津の
歴史的な調査研究を熱心に勧め、多くの著書も残しています。
1965年 現代工芸美術家協会視察団の団長として欧州、中近東を視察しています。
② 十三代中里太郎右衛門の陶芸
父「無庵」が取り入れた「叩(たたき)唐津壷」の技法を、更に推し進めています。
注: 「叩」の技法は、紀元前5世紀頃より、東南アジアのタイ、ベトナム、カンボジア、
インドネシア、ビルマ更に中国などで、土器(壷)を作る方法として行われていた
そうです。現在でも、一部地域で目撃されているとの事です。
) 叩きの技法は、紐作りにより数段積み上げ、繋ぎ目を指で消しながら、ならします。
器の内側に当て木を添えて、外側から叩き板で叩きながら、土を締め強度を持たせ
形を造ります。
) 蹴り轆轤を使いゆっくり回転させ、下から上に叩きながら、土を薄くし形を整えます。
叩き板には刻みが彫られ、土離れを良くすると共に土を強く締める働きもあり、更に
この彫り込みの文様(格子文など)が器面に現れ、内側の当て木にある年輪は、青波波として
残っています。「叩き青唐津壷」(1967) 京都国立近代美術館蔵、「叩き唐津三島壷・雪原」
(1974)、「叩き唐津三島壷」(1981)などの作品があります。
) 叩き象嵌壷は、叩きの技法で成形した作品に、白又は黒土を使って花や魚文様を象嵌した
作品です。「叩き唐津三島黒白象嵌壷](1977)、「叩き唐津黒白象嵌四季文壷」(1977)
などの作品があります。
) 化粧土を使った作品:器の一部に素地と異なる色土を刷毛で塗り、その上から線彫りの
文様を描きます、線は素地の色になります。「叩き唐津刷毛目黒花文壷」(1979)、
a) 三島唐津とは、粉引(こひき)、刷毛目、掻き落しなど白い化粧土を使った装飾方法の
総称との事です。白土には「朝鮮カオリン」を黒土には「酸化鉄やマンガン、クローム」を
調合しています。「唐津三島茶碗」(1978)、「唐津三島掻落辰砂瓢箪文香炉」(1983)
などの作品があります。
b) 総理大臣賞を受賞した「叩き唐津三島手付壷」は、二種類の叩き板を使い成形した壷の
上部に白土を塗り、口から肩にかけて長石釉を掛け、籾殻や木炭を詰めた匣鉢(さや)に入れ、
弱還元焼成の焼き締め状の黒を出しています。
) 絵唐津と朝鮮唐津は、唐津焼きの代表的なものです。
絵唐津は絵付けで、淡褐色の素地に鉄絵の具(岩石を粉末化)で文様が描かれています。
朝鮮唐津は釉によるもので、藁灰の白濁釉と鉄釉の黒褐色を二重掛け(掛け分)した作品を
言います。特に上部の藁灰釉は、下部に掛けた鉄釉の上を流れ落ちています。
「絵唐津松文大皿」(1983)などの作品があります。
次回(大樋年朗=十代大樋長左衛門)に続きます。