わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

現代陶芸50(十三代中里太郎右衛門)

2012-02-19 17:27:17 | 現代陶芸と工芸家達
唐津の中里家は代々唐津藩の御用窯の家柄でした。献上唐津と呼ばれる茶道具を主に生産しています。

明治の廃藩置県により、御用窯は廃止になり窯は、払い下げてもらい窯業を続けますが困難な

時代が続きます。昭和初期、12代中里無庵は古窯で発掘した古唐津の魅力に惹かれ、それまでの作品

より古唐津の再現を目指す様に成ります。昭和30年頃には、古唐津の復興に成功します。

戦後には、後に無庵の長男で、13代中里太郎右衛門となる中里忠夫氏も協力しています。

1) 十三代中里太郎右衛門(中里逢庵=なかざと ほうあん) : 

   1923年(大正12) ~ 2009年(平成21) 本名 中里忠夫。

 ① 経歴

  ) 佐賀県唐津市で、中里太郎右衛門 (12代)の長男として生まれます。

     尚、次男の中里重利、四男の中里隆も陶芸家です。(後日取り上げる予定です。)

  ) 1943年 東京高等工芸学校工芸図案化を卒業します。

     1946年 父を助けて半農半陶の生活に入ります。

  ) 1951年 第七回日展で「陶彫・牛」で初入選を果たします。以降連続入選。

     1956年 第一回日本美術展で、「叩三島壷」で北斗賞を受賞。

     1958年 第一回新日展で、「叩壷・牛」が特選を受賞します。

     その後、日展審査員、日展会員、評議員、理事などを歴任します。

  ) 1969年、十三代中里太郎右衛門を襲名します。

     2002年 長男、忠寛に名跡(14代)を譲り、京都大徳寺本山にて得度し「逢庵」と号します。

     2007年 藝術院会員になります。

  ) 日展で活躍するだけでなく、九州地方の若い作家達の指導や、面倒を見ると共に、古唐津の

     歴史的な調査研究を熱心に勧め、多くの著書も残しています。

     1965年  現代工芸美術家協会視察団の団長として欧州、中近東を視察しています。

 ②  十三代中里太郎右衛門の陶芸

    父「無庵」が取り入れた「叩(たたき)唐津壷」の技法を、更に推し進めています。

    注: 「叩」の技法は、紀元前5世紀頃より、東南アジアのタイ、ベトナム、カンボジア、

       インドネシア、ビルマ更に中国などで、土器(壷)を作る方法として行われていた

       そうです。現在でも、一部地域で目撃されているとの事です。

  ) 叩きの技法は、紐作りにより数段積み上げ、繋ぎ目を指で消しながら、ならします。

     器の内側に当て木を添えて、外側から叩き板で叩きながら、土を締め強度を持たせ

     形を造ります。

  ) 蹴り轆轤を使いゆっくり回転させ、下から上に叩きながら、土を薄くし形を整えます。

     叩き板には刻みが彫られ、土離れを良くすると共に土を強く締める働きもあり、更に

     この彫り込みの文様(格子文など)が器面に現れ、内側の当て木にある年輪は、青波波として

     残っています。「叩き青唐津壷」(1967) 京都国立近代美術館蔵、「叩き唐津三島壷・雪原」

     (1974)、「叩き唐津三島壷」(1981)などの作品があります。

  ) 叩き象嵌壷は、叩きの技法で成形した作品に、白又は黒土を使って花や魚文様を象嵌した

     作品です。「叩き唐津三島黒白象嵌壷](1977)、「叩き唐津黒白象嵌四季文壷」(1977)

      などの作品があります。

  ) 化粧土を使った作品:器の一部に素地と異なる色土を刷毛で塗り、その上から線彫りの

     文様を描きます、線は素地の色になります。「叩き唐津刷毛目黒花文壷」(1979)、

   a) 三島唐津とは、粉引(こひき)、刷毛目、掻き落しなど白い化粧土を使った装飾方法の

     総称との事です。白土には「朝鮮カオリン」を黒土には「酸化鉄やマンガン、クローム」を

     調合しています。「唐津三島茶碗」(1978)、「唐津三島掻落辰砂瓢箪文香炉」(1983)

     などの作品があります。

   b) 総理大臣賞を受賞した「叩き唐津三島手付壷」は、二種類の叩き板を使い成形した壷の

     上部に白土を塗り、口から肩にかけて長石釉を掛け、籾殻や木炭を詰めた匣鉢(さや)に入れ、

     弱還元焼成の焼き締め状の黒を出しています。

  ) 絵唐津と朝鮮唐津は、唐津焼きの代表的なものです。

     絵唐津は絵付けで、淡褐色の素地に鉄絵の具(岩石を粉末化)で文様が描かれています。

     朝鮮唐津は釉によるもので、藁灰の白濁釉と鉄釉の黒褐色を二重掛け(掛け分)した作品を

     言います。特に上部の藁灰釉は、下部に掛けた鉄釉の上を流れ落ちています。

     「絵唐津松文大皿」(1983)などの作品があります。

次回(大樋年朗=十代大樋長左衛門)に続きます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代陶芸49(谷口良三)

2012-02-17 21:50:40 | 現代陶芸と工芸家達
青や緑色の釉を使い、蝋抜きによる技法で複雑な文様を表現している陶芸家に、京都清水焼の

谷口良三氏がいます。

1) 谷口良三(たにぐち りょうぞう): 1926年(大正15) ~ 1996年(平成8)

  ① 経歴

   ) 京都市東山区五条坂で、陶磁器卸問屋「谷寛」を営む、谷口寛三郎の次男として生まれます。

   ) 終戦の翌年(1946年)兵役除隊後、本格的に陶芸を行う様になります。

     1948年 宇野三吾、清水卯一、木村盛数らと「四耕会」を結成しますが、翌年には清水、木村と

     共に脱会し、新たに三人で「緑陶会」を創り、京都高島屋で展覧会を開きます。

     同年 清水六兵衛が主宰する「京都陶芸クラブ」に参加し会員になります。

   )1951年 第七回日展で「黒釉渦文大皿」で初入選を果たします。

     1956年 第五回現代陶芸展(朝日新聞社主催)で「白釉線花瓶」が一席を受賞します。

     1961年 第四回新日展で「線花器」が特選北斗賞を受賞し、主に日展で活躍します。

     日展以外に、現代工芸美術展、現代陶芸の新世代展(京都近代美術館主催)などに出品し、

     数々の賞を受けます。1970年には、京都府立陶工訓練校の校長に任命されています。

     翌年には日展の審査員となり、日展評議員を歴任します。

     平成7年 第27回日展には内閣総理大臣賞を受賞しています。

   ) 1962年 京都府より美術工芸の研究の為、欧州や中近東を視察します。

 ② 谷口良三の陶芸

  ) 彼の作品の器形は、おおむね、口縁が広く「U字状」をした形の物が多いです。

     作品名前に「壷」や「花瓶」などが少ない為、使用目的は判断できません。

  ) 「碧釉(へきゆ)」・「碧彩(へきさい)」と言われる釉や文様が特徴です。

     初期の頃は、赤褐色の釉肌の作品を多く手掛けていましたが、やがて青色の虜(とりこ)に

     成ってゆきます。

     碧釉とは、彼独自の釉で、三段階の濃さの青(又は緑)色があり、銅やコバルトを呈色剤に

     使い、酸化焼成する事により、発色させています。

  ) 信楽の白い土を使い、素焼き後に薄い釉碧釉から、順に三種類を吹き掛で施釉しています。

     濃さに応じて流れ易さに差を付けている様です。その為、焼成中に一部の釉が移動し

     流れ落ち、様々な景色(文様)を作り出します。

     作品としては、「樹映(じゅえい)」(1981年)、「樹光(じゅこう)」(1981)等があります。

  ) 碧彩は、碧釉を施釉した後に、蝋抜きの技法で文様を描き、その上に鉄分の多い褐色の釉を

     吹き付けたりします。更にその上に濃い碧釉を重ね掛ける場合も有ります。

     こうする事により、青や緑の色が美しく発色し、山波や樹木が表現されます。

     作品としては。「陽光」(1982)、「翔」(1981)、「対話」(1981)、「碧彩壷・華」(1983)

     「碧の道」(1983)等があります。

  ) 盃や茶碗なども作っています。釉は玻玳(たいひ)天目と呼ばれる釉で、黒地に鼈甲(べっこう)

     色の斑点の出る釉です。(この釉は中国の宋代で使われていました。)

     その他、油滴天目盃(銀油滴天目)、鳳凰天目盃などの釉や酒器等も手掛けています。


次回(十三代中里太郎右衛門)に続きます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代陶芸48(今井政之)

2012-02-16 21:54:01 | 現代陶芸と工芸家達
昨年(2011年11月)に「文化功労者」に選出 された陶芸家に、京都の今井政之氏がいます。

主に、象嵌技法を得意とし、中でも「面象嵌」に独自の境地を切り開いています。

この技法は40年余り前から取り組み、魚や鳥、花など多くの生き物の姿を描き出しています。

1) 今井政之(いまい まさゆき): 1930年 ~

  ① 経歴

   )  大阪市東区で、印刷業を営む今井隆雄の長男として生まれます。

      戦時中、父の故郷の広島県竹原市竹原町に疎開し、幼少期を過ごします。

   ) 1946年 県立竹原工業学校金属科を卒業後、父の勧めもあって、備前市伊部に赴き陶芸家を

      目指します。西川清翠氏などの指導を受け、本格的に修行を行う様になります。

   ) 1949年 岡山県工業試験場窯業分室に勤務し、備中山手焼の研究や土器の発掘、備前、備中の

      土や陶石の採集や研究を行っています。

   ) 1953年 楠部彌弌が主宰する青年陶芸会の集まりである、「京都青陶会」の結成に関わり、

      同時に楠部氏に師事する様になります。

   ) 1954年 第九回日展で「飛翔扁壷」が初入選を果たします。

      1959年 第二回新日展で「泥彩盤」が特選し、北斗賞を受賞します。以後も特選を得て、

      日展会員、日展審査員、日展評議委員、日展常務理事、日展顧問を歴任します。

   ) 1998年に「象嵌彩赫(しゃく)窯 雙蟹 壺」で日本芸術院賞を受章し、その後日本芸術院会員

      に推薦されます。2011年11月には「文化功労者」に選ばれます。

    ・ 選出理由: 「器体に異質の素材を嵌め込む、象眼技法による作品を、土作りや 乾燥、

      焼成方法などの研究を重ね、技術的な困難を解決した事」と成っています。

   ) イスラエルでの国際陶芸シンポジウム(1966)に日本代表として参加や、仏の国際ビエンナーレ

      名誉大賞を受賞(1974年)、サンフランシスコでの「東洋の秘宝展」(1979)に招待出品など

      海外でも活躍しています。

  ② 今井政之の陶芸

   ) 作品は、備前風の茶色の焼き締めの器肌に、浮き文様や象嵌模様が施されています。

      使用している土は、へたり易い備前の土に、信楽の土を調合した物だそうです。

   ) 泥彩(でいさい)・苔泥彩(たいでいさい)

     泥彩とは、轆轤挽き後の半乾燥時に、彫りや線刻を施し「レリーフ」(浮彫り)状に仕上げる

     方法です。内側から叩き出し、表面を浮き上がらせて、そこに動物などの文様を彫る技法を

     採っています。

     「泥彩盤」(1959」(竹原市民会館)、「泥彩甲蟹壷」(1963)、「泥彩蝦蛄(しゃこ)壷」

     (1964)(京都国立近代美術館)などの作品があります。

     苔泥彩とは、渋く沈んだやや緑味を帯びた泥で、「ざらざら感」がありながら、苔(こけ)の様な

     しっとり感を出しています。

   ) 象嵌彩(ぞうがんさい)

      象嵌の技法は、かなり昔より行われている技法で、陰刻した凹部に素地と異なる色の土を

      埋め込む方法です。今までは象嵌する部分が、細かな模様が多く、今井氏の象嵌法は

      象嵌する面積が広く、亀裂や剥離の起こり易い問題を乗り越えています。

    a) 面象嵌:生地の表面に十種類の発色の違う土を埋め込み、魚や鳥、花など生き物の姿を描く

      方法です。白、ベージュ、黄、赤、茶褐色、青、緑、黒色などを基本にし、その中間色など

      色の数も多く、コントラストを重視しています。極力土の色が出る様に、無釉薬か透明系の

      釉を使っています。初期の作品では素地が一様な色をなしていますが、やがて素地自体も

      明るいオレンジ色と褐色や黒色の数種類の色と成っています。

    b) 文様に取り上げられているのは、幼少時代に過ごした瀬戸内の広島県竹原の海や川の生物

      海老、甲蟹、蝦蛄(しゃこ)、鰈(かれい)、鯰(なまず)、魚文などですが、やがて

      蟷螂(かまきり)や蝶などの昆虫や、石榴(ざくろ)、茄子(なす)、椿、竹などの植物が

      使われ、生命観溢れる文様と成っています。

    c) 象嵌での問題点 

      土の収縮の違いで、埋めた土が「めくれる]等や亀裂の失敗が、起こり易いです。

      この現象は、土を埋め込んだ直後から起こり、乾燥、素焼き、本焼き(窯焚)と幾度も

      危険が待ち構えています。

  ③ 京都市内での登窯の禁止

   ) 1965年(昭和40)ごろ、登り窯が「大気を汚す」と煙害の問題になり、何百年と続いた

      登窯の使用が禁止になります。 市が奨励した山科区清水焼団地町の焼き物団地も同様です。

   ) 象嵌は登窯でないと本物ではないと確信していた彼は、同じ思いの仲間8人が結集し

     1971年(昭和46)に岐阜県兼山町(現可児市)に登窯の「兼山(けんざん)窯」を築きます。

     しかし、共同窯には限界があり、専用窯を竹原の地に築く事を決めます。

     瀬戸内海の風光明媚な地を譲り受け、1978年 竹原豊山窯(登窯・穴窯)を築きます。

     1988年には竹原の豊山窯に「今井政之展示館」を竣工させ、作品を展示します。

 尚、 今井政之 陶芸の館 :広島県竹原市本町の、町並み保存地区のある光本邸内の土蔵を

    改装して作られた館内に、今井氏が幼い頃から親しんだ瀬戸内海の魚、草花や生き物など

    自然をモチーフにした作品、30点が展示されています。

次回(谷口良三)に続きます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代陶芸47(小川欣二)

2012-02-15 21:25:37 | 現代陶芸と工芸家達
「蜻蛉(トンボ)」や「魚」等をモチーフとして作品に描き込んでいる陶芸家に、京都の小川欣二がいます。

京都陶芸家クラブを主宰した、清水六兵衛に師事し、「日展」や「日本現代工芸展」「日本新工芸展」

など多くの展示会で活躍しています。

1) 小川欣二(おがわ きんじ) : 1926年(昭和元年)~

 ① 経歴

  ) 京都市東山区五条坂で、名門の陶家である小川文斉の次男として生まれます。

     当時の慣わしで、父の後継者は長男が継ぐのが、普通でした。

     その為、欣二氏は医者に成る事が希望で有ったようです。

  ) 1944年 兄「斉」と共に、甲種飛行予科練習生として入隊します。

  ) 終戦と共に、欣二氏は復員しますが、兄は特攻隊として戦死してしまいます。

     その為、次男である欣二氏は医者に成る望みを捨て、家業を継ぐべく、陶芸に専念する事に

     なります。

  ) 1946年 京都市工業技術員養成第一期生として、工業研究所窯業科に入学します。

     卒業後、同研究所に勤務し、陶磁器全般の研究を行います。

  ) 1948年 六代清水六兵衛に師事します。翌年京都陶芸家クラブの創設会員になります。

  ) 1950年 「日展」初入選し、1952年には上記研究所を辞め、作家活動に専念する様になります。

  ) 1954年 全国陶芸展で銀杯を受賞後、現代日本陶芸展で銀杯、一席と連続受賞します。

     その後も、光風会展工芸賞、日展特選など次々に重賞を受賞します。

  ) 多くの美重展の審査員にも成っています。

     京都府工芸美術展審査員、光風会審査員、日本現代工芸美術展審査員、日展審査員などです。

  ) 仏、西独など海外の美術展への出品や、中国、朝鮮美術視察なども行っています。

 ② 小川欣二の陶芸

  ) 成形方法は、轆轤挽きによるものと、タタラ(板)造りの作品が混在しています。

     タタラ造りの作品は、四角錐や台形、三角柱などの箱形が多く、花瓶やオブジェ的な要素の

     多い作品と成っています。

  ) 絵付けを主体とした作品が多く、呉須を使って「蜻蛉」等を描き、伊羅保や織部釉を

     掛けています。呉須は本来のコバルト色ではなく、黒に近い色と成っています。

     (尚、呉須は酸化焼成すると黒く発色します。)

     織部釉や伊羅保釉を明るく仕上げる為と、絵の文様のコントラストを付ける為、作品には、

     白化粧土が施されています。作品例:「のぼる」(1979年)、「想い出海に遊ぶ」(1981年)

  ) 彼の使用して釉の種類は極く少数です。灰釉、鉄釉、伊羅保釉、織部釉程度です。

     土本来の色や、土味を生かす為と言われています。

  ) 掻落しの技法を取り入れて、文様を付けています。

     生素地に白化粧土を施し、竹の箸で一個一個小さな窪みを付けて斑点を造ります。

     その後、カンナを使って表面を削り取り、表面に細かい凹凸を付けて文様にします。

     この様な作品に、「壁蜻(へきせい)」(1979)、「仲間たち」(1981)等があります。

  ) 蜻蛉の絵が多く、次いで魚の絵も多いです。蜻蛉は欣二自らを表現し、魚は沖縄で戦死した

     兄が今でも、海で泳ぎ遊んでいる様子を表現したものと言われています。

     蜻蛉は、群れを成して上に上にと高みに登っている様に描かれています。

     又、「とんぼ塚」(1980年)の作品は、箱型の器の上に、一匹づつ立体的に作られた「とんぼ」が

     重なり合って群がって飛んでいる様子を表現しています。

   尚、窯はガス窯を使用しているとの事です。

次回(今井政之 )に続きます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代陶芸46(吉賀大眉)

2012-02-14 17:06:56 | 現代陶芸と工芸家達
山口県萩の陶芸家、吉賀大眉は1982年(昭和57)に、日本芸術院会員に成っています。

この組織は、芸術(芸能)の分野で顕著な功績を残し、芸術院賞を受賞した、栄誉ある方々の集まりで、

工芸の分野では、主に首都一円と京都を中心の工芸家が選ばれ、六十余年の歴史の中で、地方の

工芸家では、吉賀大眉が最初との事です。

 注: 日本芸術院とは、1907年(明治40)に文部省美術展覧会(文展)を開催するために設けられた

    美術審査委員会を母体とし、1919年(大正8)に「帝国美術院」として創設され昭和12年に美術の他に

    文芸、音楽、演劇、舞踊の分野を加え「帝国芸術院」に改組され、更に1947年(昭和22)

    「日本芸術院」と名称を変更し今日に至っています。会員は終身で定員は120名です。

    第一部美術、第二部文芸、第三部音楽・演劇・舞踊に分かれています。

 注: 日本芸術院授賞は、毎年、上記会員以外から選出され、授賞式は、毎年天皇皇后両陛下の

     ご臨席の下、日本芸術院会館(台東区)で行われています。

1)  吉賀 大眉(よしか たいび):本名 寿男、1915年(大正4) ~ 1991年(平成3)

  ① 経歴

   ) 山口県萩市の萩焼窯元泉流山の窯元の長男として生まれます。

      父吉賀要作は、教員でしたが病で退職後、泉流山窯を譲り受け経営に携わります。
 
      最初は磁器を製造していたようですが、後に萩焼に転向します。

      それ故、大眉も幼少の頃から、陶芸に親しんでいたと思われます。

   ) 1938年 東京美術学校(現東京芸大)の彫塑科を卒業します。

     大眉の関心は、彫刻や彫塑から次第に陶芸に移り、加藤土氏萌(はじめ、後の人間国宝)に

     師事します。 1943年 第六回文展で「陶花器」で初入選を果たします。

   ) 1955年頃より、「日展」で北斗賞を連続受賞し、特選を得ると一躍注目される様になります。

     北斗賞:「花器」(1956)、「顔」(1957) 特選:「陶花器人物」(1958)

     その後、日展審査員、評議員、日展理事、日展参事を歴任します。

   ) 1966年 「暁雲シリーズ」によって一段と飛躍します。

      1982年日本芸術院会員に、更に1990年には文化功労者に選定されます。      

 ② 吉賀 大眉の陶芸

   創作陶芸を目指す大眉に対し、地元萩では風当たりが強かった様です。

   萩焼きは、三輪家と坂家の二大名門の窯元があり、茶陶を中心に生産していました。

   萩の名窯として、伝統的な精神や文化を重んじ、美術品としてより、趣味や日用品としの作品が

   ほとんどでした。その為、「萩の伝統を損なう物だ」「新興窯は仕事を止めて欲しい」等の、

   非難も多かった様です。

  ) 彼の作品は、萩の土と釉を使っていますので、萩焼の範疇に入ります。

  ) 終戦前後には「お茶に捉われた作品では、ニッチモ、サッチモ行かなくなる」と考え

    萩焼を現代的に作り変えるべき、大胆な作品を作り始めます。
 
  ) 「暁雲シリーズ」は彼の代表的な作品に成っています。

   a) 土は萩焼の土である、大道(だいどう)土と金峯(みたけ)土を使い、釉は白く発色する藁(わら)

     灰釉を使っています。窯変によって、ピンク調に出る場合もあります。

   b) 轆轤挽きした作品を素焼きした後に、鉄釉を一周刷毛塗りし、藁釉を掛け焼成します。

     この方法で本焼きを数度(3~6回)繰り返し、朝の雲の感じを出しています。

   c) その表情は、東の空がしらんで、空は赤味を帯、或いは霧や雨雲が立ち込めた印象を

     与えています。

     作品として、「陶壷・暁雲」(1966)、「広口花器・朝」(1975)、「暁雲大海」(1976)

     「広口花器・春曙」(1978) 山口県立美術館、「曙」(1981)などがあります。

  ) 勿論、彼も伝統的な茶陶も作っています。

    「萩斗々屋(ととや)茶碗」(1974)、「紅萩井戸形茶碗」(1977)(両者共、山口県立美術館)、

    「灰被水指」(1983)などがあります。

 尚、山口県萩市・萩陶芸美術館には、萩の古陶磁器資料・著名作家の 作品等が展示されています。

  館内の「吉賀大眉記念館」には、彼の代表作が一堂に展示しあります。


次回(小川欣二)に続きます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代陶芸45(安原喜明)

2012-02-12 21:46:11 | 現代陶芸と工芸家達
関東一円の陶芸家が集まり、組織された東陶会の当初からの会員で、「日展」で活躍した人に、安原喜明

がいます。主に器(せっき)と呼ばれる、無釉の焼き締めの陶器を製作しています。

1) 安原喜明 (やすはら きめい):本名、喜明(よしあき)1906(明治39) ~ 1980(昭和55) 

  ① 経歴

   ) 日本郵船の外国航路の船長である、安原喜太郎の長男として、東京で生まれます。

   ) 1918年 中学を中退し、宮川香山(東陶会の顧問)に師事し陶芸を学びます。

      前回お話した、宮之原謙も同じ頃香山に師事していますので、二人は顔馴染です。

      1927年 東陶会の結成に参加します。翌年東京目黒の自宅に紅椿窯を築きます。

   ) 1930年 第十一回帝展で「窯変釉透彫ドアー」が初入選します。以降連続出品します。

      1933年 東京銀座資生堂画廊で、初の個展を開催します。

   ) 1939年 第三回文展で「器盒子(ごうす又はごうし)」が特選を得ます。

      注: 盒子とは、「身と蓋とが合う物の意味」で、蓋の付きの小さい容器の事です。

      1948年 第四回日展で「窯変釉孔雀文透彫盛器」で再度の特選を得ます。
    
      1949年 日展審査員を皮切りに、評議委員、日展監事、理事を歴任します。

   ) 日展以外でも、パリの日本陶芸展(1950年)、日ソ展(1955年)、フィレンツェの万国手工芸展

      (1955年)など海外へ出掛けると共に、多くの展示会にも出品しています。

  ② 安原喜明 の陶芸

   ) 彼の多くの作品の名前には、「器(せっき)」と言う言葉が使われています。

      器とは、無釉で素地を固く高温(1250℃以上)で焼き締めた作品を言います。

      (土器なども無釉で焼かれていますが、低温の為焼き締りが弱く、器とは言いません。)

   ) 素地に瀬戸の赤津土や信楽土を使い、更に擂り潰した長石と、呈色剤として弁柄や

      コバルトを混入させています。その為、黒色の肌に成っています。

   ) 初期の頃の成形は全て手捻り(輪積、タタラ)で行い、鉄釘や竹箆(たけへら)、

     鋸(のこぎり)の歯などを使って、表面に引っ掻いた様な文様を付けています。

     又、自作の黄楊(つげ)櫛や判子を使い、押印や文様を付けてたりしています。

     文様は丸、放射状の線、格子状の線、平行線、斜線などを組み合わせた、多彩な文様です。

     この文様は線象嵌の方法で、模様部分が白く浮き出る様に表現されています。

     象嵌用の土は、カオリン系の土に長石を混ぜた物との事です。

     尚、晩年近くに成って、轆轤挽きによる作品も作っています。

   ) 器形は円筒形の物が多く、周囲に多数の突起物を付けたり、四角や丸い穴等を開けています。

   ) 焼成は全て匣鉢(さや・さやばち)に入れて1280℃程度で焼き締めています。

   ) 主な作品として、以下の作品があります。

     「器花挿(はなさし)・空の花」(1963:東京都美術館」、「器花挿・宇宙塵」

     (1964:草月美術館)、「器花挿・宝冠」(1965:文部大臣賞)、「器花挿・銀河」(1968)

     「器花挿」(1970、1973)  その他に「灰被(はいかむり)焼締花挿」(1950)

     「焼締花器・巷(ちまた)」(1954)等のオブジェ的な作品も作っています。


次回(吉賀大眉)に続きます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代陶芸44(宮之原謙)

2012-02-11 17:30:06 | 現代陶芸と工芸家達
昭和の初期に板谷波山を中心に結成された陶芸の団体に、「東陶会」があります。

関東地方の個人で活動する陶芸家達の、親睦を目的に結成されました。

やがて、板谷波山が、帝展第四部美術工芸部の審査委員であった為、東陶会の活動は活発化し、

第一回の作品発表会が、1927年(昭和2)日本橋三越で開催されます。この時の参加人数は25名でした。

以後この展示会は、人数を増やしながら、1962年頃(波山死亡)まで続きます。

1939年(昭和14)に一時解散宣言がなされますが、それ以降も会は活動を続けます。

終戦、後帝展は「日展」として再出発をはかります。その組織の中には、板谷波山を筆頭に、評議委員

会員、審査員などに多くの東陶会の会員が名を連ねていました。

その為、毎年公募展を行う東陶会に入選する事が、「日展」入選への近道であるとさえ言われていました。

この東陶会を代表する作家に、宮之原謙と次回取り上げる、安原喜明がいます。

1) 宮之原謙(みやのはら けん): 1898年(明治31) ~ 1977年(昭和52)

  ① 経歴

   ) 鹿児島県鷹師町市に、宮之原軍吉の次男として生まれます。七歳の頃上京します。

      生家は焼き物とは無関係であった様です。

   ) 1916年 早稲田大学理工学部建築科に入学しますが、病で中退を余儀なくされます。

      1926年 健康回復の為、父の勧めで東陶会の顧問であった、二代目宮川香山に陶芸を学び、

      東陶会の結成に参加します。 尚、香山没後には、板谷波山に師事します。

      東京大崎長者丸の自宅に、自己流の窯を築き本格的な、陶芸の一歩を踏み出します。

      出発は29歳の春でした。その後東京蒲田に工房を建てますが、戦災で消失してしまいます。

   ) 1929年 第10回帝展で「赤鉄結晶竹文壷」で初入選します。第12回「銀河陶製照明」、

      13回「磁器象嵌十文字花」と続けて特選を果たします。

      1938年の第一回文展(帝展を改称)で審査委員を務め、以降歴任します。

   ) 戦後の1946年 茨城県筑波山麓に築窯し、1948年には千葉県松戸市に移築します。

      以降、日展を活躍の場として、作品発表し続けます。

      日展で評議員、参事、理事を歴任し、波山没後は長く東陶会の会長も勤めています。

  ② 宮之原謙の陶芸

   ) 彩磁(さいじ): この技法は、師の板谷波山の創始ですが、波山とは異なる技法を

      採っています。

    a) 顔料や酸化金属を添加した色素地の泥(ノタ)を、何度も薄く塗り重ねて、文様を描く

      技法です。

    b) 波山の方法は、完全に乾燥した生素地に文様を彫込み、素焼き後に彩色し釉を掛けて

      焼成しています。一方宮之原氏は、生素地の上に「ノタ」を塗り重ねて、文様を浮き

      立たせています。

   ) 釉象嵌: 象嵌には素地に文様を彫込み、異なる色土を埋め込む方法と、施釉した一部を

      文様に沿って削り取り、他の釉を埋め込む釉象嵌の技法があります。

    a) 宮之原氏は主に、より困難な釉象嵌を行っています。

      異なる釉の粘度、収縮率、溶融点などの条件が揃わなければ、模様が混ざり合ったりして、

      失敗作と成ります。素焼き後、マット釉や透明釉を掛け、更にその上にマット釉を薄く

      吹き掛けています。

      代表作は「象嵌地黒釉花瓶・空」(1956年 日本芸術院賞受賞作品)

      「黒釉象嵌磁泰山木文花瓶」(鹿児島市立美術館)などがあります。

  ) 古代釉: 結晶釉、赤鉄結晶釉、天目朱釉、窯変化釉など多彩で、主に木灰と「酸化チタン」や

     「ルチール」などを使用している様です。

     代表作品は、「結晶釉牡丹彫文花瓶」(1938年 東京国立博物館)、「天目朱獅子手付花瓶」

     (1966年 鹿児島市立美術館)などが有ります。

  ) 作品の種類は縦長の花瓶や、大皿など広い面積が取れる作品が多いです。

     施された文様は、伝統的な花鳥の他、サボテン:「象嵌サボテン壷」、海女:「彩盛磁海女壷」や

     スポーツに興じる人々:「釉彩象嵌磁スポーツ壷」、パラボナアンテナ:「金彩磁象嵌パラボラ

     大皿・宇宙への交信」など実に多彩で、現代的な感覚に溢(あふ)れています。

次回(安原喜明)に続きます。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代陶芸43(森野嘉光)

2012-02-10 22:27:14 | 現代陶芸と工芸家達
我が国での塩釉の元祖であり、銅釉を駆使して幻想的な赤、緑、黒の緑釉窯変色彩を作り上げた人に、

京焼きの森野嘉光氏がいます。

1) 森野嘉光(もりの かこう)本名 嘉一郎: 1899年(明治32) ~ 1987年(昭和62) 

  ① 経歴

   ) 京都市東山区五条坂で、陶芸家の森野峰楽の長男として生まれます。

   ) 小学校卒業後、京都市立美術工芸学校の日本画科に入学し、更に京都市立絵画専門学校へ

      進み、日本画を学びます。

   ) 1923年(大正12)「大毎美術展」(大阪毎日新聞社主催)で、日本画の「丘の上」が入選します。

      同時にこの頃(父の死)から、陶芸に関心を向ける様に成り、陶芸に転向します。

      1926年 東京銀座松屋で、陶芸作品に初の個展を開きます。

   ) 1927年(昭和2)第8回帝展に新設の美術工芸部に「青流草花文花瓶」を出品し、初入選を

      果たし、以後出品を続けます。1940年頃より、五代清水六兵衛に師事します。

      1941年 第4回新文展で「塩釉枇杷図花瓶」が特選とり、1952年に日展審査員になり、

      以降、日展評議委員、日展理事、日展参与を歴任します。

   ) 緑釉窯変の研究を始めるのは、1959年頃からです。

      1971年 日本陶芸展(毎日新聞社主催)に「緑釉窯変花瓶」を出品し、以降毎回推薦招待で

      出品します。

  ② 森野嘉光の陶芸

   ) 塩釉(しおくすり、えんゆう)

     ドイツで土管やビールジョッキ等の釉としていた塩釉が、日本にもたらされたのは、

     明治中期の頃と言われています。

     注: 土管(どかん)とは、下水道の管や、煙突などに利用されていた、陶器などで製作された

       管のことで、近年見かける事も無くなっています。

       土管同士を接続する為、 管の一方が膨らんだ独特の形状をしていて、管径は様々で、

       細い物で6 cm程から トラックが通れるほどの大きさ物もあります。

    a) この釉を最初に陶芸の作品に応用したのが森野氏です。

       釉肌は塩釉独特の粒々のあるやや茶色を呈する、透明感のある釉で、下絵付けで模様が

       表現できます。代表的な作品に「塩釉三足花瓶」(1962年 京都府立総合資料館蔵書)があり、

       日本芸術院賞を受賞しています。

    b) 焼成の最終段階に窯の中に、塩(塩化ナトリウム)の粉末を投下し、熱分解により発生させた

       ナトリウムを揮発させて土と反応させて、ガラス質を生成発色させます。

     イ) 私が映像で見たのは、長い青竹を縦に二等分しその中に塩を入れます。窯の上部側面に

       開けられた穴に、青竹を奥まで差込み、直ぐに反転させて塩を窯内に投下していました。

     ロ) 投下後竹を引き抜き、穴は直ぐに閉じる必要があります。塩は熱分解によって、

       猛毒な塩素ガスを発生させるからです。塩素ガスを吸い込むと死に至る事があります。

     ハ) 塩釉を使う場合は、専用の窯を用意します。ナトリウムは、作品以外の窯道具や

       窯自体にも降り注ぐ事に成るからです。その為窯の寿命を短くすると言われています。

   ) 緑釉窯変(りょくゆうようへん)

      酸化銅を混入した銅釉は古くから存在しています。銅釉は窯の雰囲気で発色に大きな

      違いが出る釉です。それ故かなり難しく、気難しい釉といえます。

    a) 酸化焼成では緑色を、還元焼成では赤色を発し、強還元では黒色を呈します。

    b) 窯焚きでは、酸化焼成するか、還元焼成するかは、予め決めてから取り掛かります。

      しかし、燃料を使う窯(薪、ガス、灯油など)では、窯の中で酸化の部分と還元の部分が、

      共存する場合も珍しくありません。その為、その境界部分に置かれた作品の、片面が赤、

      反対側が緑色を呈する事は、しばしば見られる現象です。

    c) 但し、私も200回以上の窯焚きで、緑釉窯変の様に、一つの作品が三色に分かれて発色する

      事はありませんでした。 当然、何らかの方法を採っているはずです。

      (当然ですが、この技術は公開されていませんので、不明です。)

    d) あくまでも私の推論なのですが、匣鉢(さやばち)を使っているのではないかと思います。

      即ち、強還元焼成する為に、しばしば匣鉢に木炭を入れる事があります。更に匣鉢の一部を

      切欠き、匣鉢の外の酸素が供給できる穴を設けます。当然切欠く場所によって変化が生じます。

      又、匣鉢の一部を仕切り木炭を置く場所(強還元)、置かない場所(還元)、更に切欠いた

      場所(酸化)によって、匣鉢内の雰囲気は、微妙に変化するのではないかと思われます。

      以上はあくまでも頭で考えた代物で、実際に実行した訳ではありません。

      参考までに述べた次第です。

    f) 代表的な作品に「緑釉窯変花瓶」(1967、1979) 「緑釉窯変赤黒花瓶」(1975)

      「緑釉窯変扁壷」(1980)などがあります。

次回(宮之原謙)に続きます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代陶芸42(浅見隆三)

2012-02-09 22:07:14 | 現代陶芸と工芸家達
京都の陶芸家の浅見隆三氏と言えば、泥漿(でいしょう)による装飾で有名です。

 注: 泥漿とは、磁土と水を混ぜ合わせ、泥状の液体にした物です。

    一般には、磁器製造の鋳込み成形の際に、石膏型などに流し込む時の原料に成ります。

    但し、この場合は、「水ガラス」等を添加して使用します。

1) 浅見隆三(あさみ りゅうぞう): 本名 柳三 1904年(明治37) ~ 1988年(昭和63)

  ① 経歴

   ) 京都市五条椿東に、三代浅見五郎助の次男として生まれます。

     生家は京焼の陶家で、土物の高級食器を製作していました。

   ) 幼児期に父、兄と続けて亡くし、祖父二代五郎助の下で育ちます。

     祖父の指導の下、作陶の土造り、土揉み、轆轤挽き、成形、登窯の窯詰めと窯焚きなど、

     全ての技法を仕込まれます。祖父の教えの中には、「整形の為に器肌に箆(へら)で

     削っては成らない」と有ります。理由は轆轤挽きの瑞々(みずみず)さが失われるからです。

     小学校卒業後に、京都市立美術学校の図案科に入学し、特に西洋絵画に魅せられます。

   ) 祖父が1928年に没すると、生家を姉婿に譲り、新進陶芸家として独立します。

   ) 1929年 第十回帝展に「三葉紋花瓶」を出品し入選を果たします。

      1931年 第十二回帝展で「麦芽文花瓶」が入選しますが、これ以降日展への出品を取り止め

      ます。理由は、当時の帝展の審査基準の不明瞭さが有った為と言われています。

      即ち、当時の審査では所謂(いわゆる)帝展様式が浸透し、この様式に沿う作品が入賞する

      風潮が見られ、応募作品もこれに追従する傾向が、顕著に成ります。

    ・ 注: 帝展様式とは、重厚な器形に写実的な彫刻や絵付けが、装飾過多に施されている

      作品類を言います。

   ) 在野に有って世俗的な評価に囚われずに、作陶の根本を見失なわない様に、実力を磨きます。

      彼の陶芸界への再出発は戦後からで、現代感覚に満ちた作品を次々に発表してゆきます。

      昭和20年代には象嵌技法で、30年代では器面に亀裂文様を発生させる技法と、泥漿による

      器肌の装飾を生み出します。

   ) 1947年の第二回日展で「象嵌干柿図皿」が特選の成ります。

      1951年 第七回日展で「鶏頭ノ図花瓶」で再度の特選を受賞します。以降、現代日本陶芸展

      (朝日新聞社主催)で朝日新聞社賞など、数々の賞を受賞します。

      1954年 日展評議員になり、以後、日展幹事、日展理事、日展参事などを歴任します。

  ② 浅見隆三の陶芸

   ) 象嵌技法: この技法の本家は、朝鮮陶磁の高麗青磁や三島手であった様です。

     素地に彫り込みを入れて文様を施し、色違いの土を埋め込み平面にし、素焼き施釉後本焼き

     する技法です。高麗青磁では色土を埋め込むのは、素焼き後であった様で、浅見氏は素焼き前に

     行っています。この効果は「生」どうしの為、密着性が良いと言われています。

     「朝・胡瓜図象嵌皿」や「象嵌組茶碗・松竹梅」(1948年) などの作品があります。

  ) 亀裂文の作品

     轆轤の遠心力を利用して、意識的に亀裂(割れ目)を生じさせる技法です。

     「朝」(1956年)、「白い壷」(1962年)などの作品があります。

  ) 泥漿作品

   a) 作品を轆轤挽きした直後に、手に持った泥漿を瞬時に器体に塗りつけて、凹凸のある

     文様を描き出します。

   b) 轆轤挽きすると必ず泥漿が出ます。轆轤挽きする際、磁器では水よりもこの泥漿(のた)を

     使った方が水の吸収を防ぎ、作品の型崩れを抑える効果がありますので、積極的に利用して

     いるはずです。

   c) それ故特別に泥漿を作る必要は無く、轆轤挽きで発生する泥漿を利用すれば良い事に成ります。

   d) 泥漿を塗りつけるタイミングは、轆轤挽き直後が最適です。時間の経過と共に、成形品と

     泥漿の乾燥具合に差が発生し、この様な状態で塗りつけると、剥離が起こるからです。

   e) この作業は、やり直しが出来ない一発勝負です。予め造形のイメージを把握してから

     作業をしなければ成りません。

     但し、成形品が軟らかい段階での作業ですので、器形を崩す恐れがあります。

     轆轤挽き成らば、内側に手や「コテ」を当ててある程度修正が可能だと思われます。

   初期の作品に「白瓷壷」 (1958年)があります。それ以降「潮騒」「浮氷」(1971),「爽」(1967)、

   「雲」(1978)、「浄」(1979)、「展」(1981)などの作品を発表しています。

 ③ 私の素朴な疑問

   (磁器については遊びに1~2度轆轤挽きした程度ですので、詳しい事は解からないのですが・・)

   浅見氏は祖父より「整形の為に器肌に箆で削っては成らない」と、指導されたそうですが、

   この教えを実行していたのかどうかが疑問です。

  a) この様な言葉を、わざわざ残しているので、実行しているのではないかとも思われます。

  b) 磁土は粘土に比べ、轆轤挽きが格段に難しいです。その為薄く挽く事は困難で厚みが残り易い

    です。一方磁器は透光性が身上で、その為には薄くする必要があります。削り作業によって

    薄くするのが一般的ですが、表面を削ってしまうと、折角残した「瑞々しさ」が無くなって

    しまいます。

  c) 箆で削り取った場合でも、その後素早く、泥漿を全面に塗れば「瑞々しさ」が出るのでは

    ないかととも考えられます。

  以上な訳で、この言葉に疑問を感じている次第です。


次回(森野嘉光)に続きます。   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現代陶芸41(新開寛山)

2012-02-08 17:22:06 | 現代陶芸と工芸家達
鳥の絵や鳥の貼り付け文、鳥の印刻文など作品に多くの鳥の装飾文を取り上げた陶芸家に、京焼きの

新開寛山がいます。彼も日展で活躍した人です。

青年期に洋画や日本画を学び、絵画や図案を勉強した事が、彼の作品に色濃く残っています。

1) 新開寛山(しんかい かんざん):本名 新開邦太郎 1912年(明治45)年 ~ 

  ① 経歴

   ) 京都陶芸界の名門で、三代清風与平(四代は伯父)を祖父とし、京都市東山区五条坂に

      生まれます。父は四代与平の実弟で、轆轤を専門にしていた様です。

   ) 清風工房の中で、磁器づくりの基本から徹底的に仕込まれて育ちます。

      小学校を卒業後、京都市立美術工芸学校に進学の際、父の助言で図案科へ入学し

      図案、絵画(洋画、日本画)を学びます。

      当時の陶芸界では分業制が採られ、轆轤職人よりも絵付けの仕事の方が、上と見られていた

      為だと思われます。(父の屈辱感が感じられます。)

   ) 1930年 京都市立美術工芸学校を卒業すると、清風工房で磁器の轆轤や成形技術等を

      修業しながら、染付の絵付も学びます。

      同年第11回帝展に「太白磁比嚢文飾皿」が初入選し、陶芸家としての第一歩を踏み出します。

   ) この頃、河村蜻山(1890 ~ 1967)氏主宰の蒼玄社に入会し、更に後年五代清水六兵衛氏の

     五条会に入会して、六代清水六兵衛の指導を受ける様になります。

   ) 昭和22年に戦場より復員しますが、戦時中の強制疎開で清風工房はすでに無く、磁器制作の

     目処(めど)もなくなり、陶器制作で再出発を計ります。

   ) 彼の活躍は戦後であり、陶器の作品で開花を迎える事に成ります。

     磁器製作の基礎があった為、陶器造りおいても、轆轤成形、削り等も確実にこなし陶器(土もの)

     としては、やや硬い感しがするとも言われています。

   ) 1948年 第四回日展に「西瓜画花瓶」を出品し入選を果たします。以降連続入選

      1951年 第七回日展で「早春文花瓶」で特選を受賞し、以後日展審査員、日展会員、

      日展評議委員、日展理事、日展参事などを歴任しています。

   ) 活躍の場は更に広くなり、東京日本橋三越での個展や、現代工芸展、京都在住陶芸家展示、

      箱根の森美術館の「明日を開く日本の工芸展」にと、幅広く作品を発表し続けます。

  ② 新開寛山の陶芸

   ) 何より鳥の文様を付けた作品が特徴です。啄木鳥(きつつき)や梟(ふくろう)など一見して

      種類が判別できる作品(作品名から解かる)もありますが、ほとんどは図案化されており

     抽象的な鳥で表現されています。

   ) 表現方法は以下の技法を駆使しています。

    a)  貼付文様や浮彫(レリーフ)による作品「玄鳥花瓶(1979年)」など

    b)  筆描きの「木の間のさえずり花瓶(1958年)」、「暁・扁平瓶(1961年)」MOA美術館蔵

    c)  スポイト(イッチン)描きの「群韻花瓶(1974)」「鳥と丸い実花瓶(1968)」「狐と実りの

      物語花瓶(1982)」

    d)  蝋抜やラテックス(ゴム液)による作品「啄木鳥花瓶(1952)」

    e)  印華(いんか)文による作品「花を運ぶ鳥飾大皿(1969)」「印華鳥水指(1972)」

      「学びの神々角飾皿(1977)」などが有ります。

     注: 印華とは、木や石膏、陶土などに簡単な文様を刻んで印判を作り、軟らかい粘土面に

      押して模様を付ける方法です。寛山の作品は、細かい印を連続的に捺しているのが特徴です。
    
    f)  釉彩による作品として「さえずる花瓶(1980)」などが有ります。

    g)  その他の技法として、掻き落し、化粧掛け、三島手、釘彫り等の技法を採り入れています。

  ) 作品としては、円筒形の花瓶や大皿が多く、絵が描く面積を広くする為、平滑で平面性に

     富んだ器形が多いです。図柄も鳥以外に花や街「街花瓶(1962)」等があります。

  ) 窯については、ガス窯や電気窯を積極的に使用しでいる様です。

次回(浅見隆三)に続きます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする