
河北門
兼六園はパスをして、石川門から河北門、大手門のほうに行きました。

三の丸北園地から河北門を見る
河北門は枡形門で、門を入って右に折れますと、下り坂になっています。その坂が河北坂です。大学があった頃は、その坂を降りるとグランドがあり、左に折れて教養部、理学部があったように思います。右に折れると体育館がありました。今は新丸広場と呼ばれているところです。

河北坂の下から河北門を見る。
写真の右側の石垣は大学があった頃にも存在していたように思います。
戦争の跡
さて、場内の案内ボランティアさんの話によると、戦時中にここが陸軍の駐屯地になっていたわけですが、この河北門が曲がっているのが、よくないということで真っ直ぐにしてしまったそうです。大学があったときには門はすでになく、坂しかありませんでした。そういえば、本丸跡を見学したとき、戌亥櫓跡の近くに怪しいトンネルがありました。

怪しいトンネル
これもボランティアさんにお伺いしたら、陸軍が弾薬庫に使っていたようだといっていました。これは本丸跡の一部なので、見事に遺跡が破壊されてしまいました。戦争中だから仕方がないのか、戦争中でもやっていいことと悪いことはあるか、議論の余地はありそうですが、戦争によって文化が破壊されることは、間違いなさそうです。
大手門

石垣として残っていました。この石垣の対面にもう一つ石垣があり、門であることが確認できます。この門の外は、公園の外になります。
こんな巨大な岩を動かす技術力には感心するばかりです。九州の大分県竹田市にある岡城の石垣も、また、見事です。
コメントありがとうございます。
城を作る技術、労力ということは、いつも思うことです。200メートルも300メートルもある山城に石垣があったりすると、「よくこんな高いところに石垣を運んだものだ」と、佐和山城(滋賀県)に行ったときに思いました。兵庫の竹田城もすごいです。当時の戦国大名が、それだけの財力と権力を持っていたということでしょうか。石垣でなくとも、堀を掘ったり、土塁を築いたり、・・・・技術、労力にいつも驚かされます。