愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

小牧山城見学会(1) 小牧市

2020年10月29日 08時18分40秒 | 小牧市

見学会に参加する桶狭間保存会

10月25日、桶狭間古戦場保存会の主催する小牧山城の見学会に参加しました。小牧山城を案内してくれたのは、名物ガイドと言われる鵜飼公俊さんでした。名物ガイドと言われるだけのことはあり、大変楽しい案内をしていただきました。

最初に訪れたのは、「れきしるこまき」という展示館です。昨年の4月にオープンしたばかりの新しい展示館です。小牧山城は、石垣の発掘など近年発掘調査が盛んに行われています。そうした近年の発掘調査での成果を展示する施設のようです。

「れきしるこまき」


城下町小牧を説明する名物ガイドの鵜飼さん

小牧が、信長によって城下町として整備されていたことを説明していただきました。紺屋町とか鍛冶屋町のように、一箇所に同じ業種の手工業者を集めていたそうです。また、まちのインフラとして下水道が造られていたということでした。

「れきしるこまき」を出た後、小牧山の南側に大きな土塁が見えました。

大きな土塁

この土塁は復元ですが、徳川家康が、豊臣秀吉と初めて戦った「小牧・長久手の戦い」の時に造ったものです。

次は、大手道を登ります。大手道は、はじめ真直になっています。

大手道を中間点から見下ろす

大手道はなぜまっすぐか
ガイドさんに、「大手道はどうして真直なのか?」と質問しました。すると「それはね、見せるためだよ。この道の先に立派な御殿があって、それを城下町の人々に見せることが目的なんだよ」と教えてくれました。

以前読んだ、「信長の城」千田嘉博2003では、このことについて、以下のように述べていました。
「直線的な大手道は防御を考えていないので、戦うことを考慮していなかった宮殿的な城と評価する説があります。そうすると小牧山城も宮殿的な城だったということになります。しかし、城をそのように評価することは間違いです。」

では、どうして真直なのか。
千田氏の説を要約すると、真直な大手道は、山の中腹、山麓に住まわせた家臣たちの連絡道を兼ねていた。また、家臣たちの住居は、中心(信長)に対して防除性が弱く造られていた。これに対して、中心部、つまり信長の居住空間は、大手道がまがりくねり、石垣で固め、かなり防御性の強い空間となっている。信長は、これまでの家臣と信長との関係性を変え、中央集権的な関係を築こうとしたと言います。
「家臣の屋敷があった山麓・山腹では、意図的に防御性の弱い直線道として大手道を建設し、信長がくらした中心部分だけを防御性に富んだ屈曲した大手道にしたのです。」(「信長の城」千田嘉博2003)

しかし、今回のガイドさんの説明で「見せるため」とのことでした。安土城では、確かにそういう要素があったかもしれません。また、天皇行幸を視野に入れて大手道を直線にしたことは考えられます。小牧城の段階で信長にそうした発想がすでにあったのでしょうか。また、直線の大手道の先は竪堀があるだけで、建物はありません。疑問が残りました。

信長は城に住んでいたか
信長が小牧山のどこに居住していたかということでも、あっさり、「麓の信長館でしょう。山頂に住むことは考えにくい。」と、山上での居住は否定されました。この千田嘉博氏の本でも、NHKの番組でも信長は、小牧山城、岐阜城、安土城で山の頂上に暮らしていることになっていたように思います。また、ガイドさん自らが案内してくれた上半分の屈曲した部分の大手道の発掘調査から道に排水溝が設けられていることが分かったそうです。そこから、案内板には、「この調査結果からも長期間の在城を前提として築かれた本格的な城であったことがうかがわれます。」と書かれており、信長が山上の館に住んでいたことがうかがわれます。ガイドさんの説明に疑問が残りました。

大手道の説明版


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1 コメント

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Unknown (邇波 某)
2021-03-27 11:51:58
8世紀中頃迄、伊勢海が入って小牧山は、帆巻き山でした。 3世紀中頃には、御春山(尾張山、遷座した山は春日山と呼ばれる。現東谷山)の北側麓迄、内陸の海が入り込み育てた鹿を対岸の香具山(現愛岐三山)に花鹿を搬送し、天神に備える犠牲に鹿を捧げました。神が犠牲の香を嗅ぐ山で、伊勢の海の大石(国見山)です。 国見山からは、海人が本土に初めて上陸した土地を見た訳です。
味蜂間、安八麿、淡路島です。 御春氏は水軍を統率しましたが、倭 武に対抗して浦嶼氏(ウマシマジ)が、尾治水軍を率い尾治氏と為り、尾張水軍へと引き継がれます。
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