愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

形原城 蒲郡市

2013年09月22日 06時01分22秒 | 蒲郡市
 形原城は三河一向一揆で家康側松平氏の形原松平氏松平紀伊守家忠(きいのかみ いえただ)のお城です。

形原城の遠景。形原城を海のほうから見た。手前の家は関係ありません。奥の小山が形原城です。


入り口は、稲荷神社の鳥居でした。左の石碑に「古城 稲荷社」と記されていました。


形原城址の看板

お妙塚

 頂に着く前に「お妙塚」というものがありました。詳しくは、案内板にあるとおりです。言うことを聞かないわがまま君主を守った乳母のようです。説明文で、「又七郎」が、途中で「又三郎」に変わっているのは、何かの間違いではないかと思いました。


曲輪跡?
 「お妙塚」は、道の左側にありましたが、右側は少し広い平地になっていました。これはいわゆる曲輪ではないかと思いました。

曲輪と思われる平地。左上は頂です。

形原城址

「形原城址」の石碑


「古城稲荷社」の社

疑問 形原松平氏の収入源
 ここで、疑問がわきました。蒲郡(形原)は、海の近くでたぶん産業としては漁業で栄えた地域と思われます。とすると、形原松平の収入源は米というより水産物だったのではないか。米も収入源としてあったとしても、水産物の割合も高かったのではないだろうか。ということ。さらに、戦のときの兵隊は漁師だったということだろうか。

形原城址関連地図

 地図を見ると、「東古城」(形原城址のあるところ)「北古城」「南古城」というお城に関係した地名が見られました。

光忠寺
 近くに形原松平氏のお墓があるというので、立ち寄りました。「光忠寺」です。

ものすごい松がありました。(写真左側)


お墓は、お寺を入って左側に立派に区画されていました。

竹谷(たけのや)城 蒲郡市

2013年09月21日 18時12分29秒 | 蒲郡市
なかなか見つからない

 竹谷城は、なかなか見つかりませんでした。はじめ塩津中学校を目印に行きましたが、塩津中学校の北の藪を捜して見つかりませんでした。そこで、塩津中学校の北の山、北東の山を探し回りましたが、見つかりませんでした。しかたがなく、竹谷町神田付近で作業をしている方に城跡の場所を尋ねました。
「全保寺(ぜんぽうじ)の前だよ。石碑は、大きな道に出る前に左側にあるよ、分かりにくいけどね。」と教えていただけました。


全保寺

北のほうに入り口、土塁らしきもの発見
 確かに分かりにくかったです。西のほうから近づくと、それらしい入り口を見つけました。また、土塁のような跡も見つかりました。

北の入り口か?


土塁か?

本丸跡は、みかん畑?
 入っていくと、広い場所に出てみかん(ゆず?)畑になっていました。多分ここが本丸だろうと思ったのですが、例の石碑がありません。

みかん(ゆず)畑になっている本丸と思われる所

看板があった
 そこでまた、塩津中学校の東の山を捜し歩きました。すると偶然山の東のほうから奥のほうに看板が見えました。何度も通っていたのですが、見落としていたのです。本当に分かりづらい看板でした。


 そこから登っていくと、お目当ての石碑がありました。なんと、さっきのみかん畑のすぐ奥の場所だったのです。疲れた。

石碑。写真で左側がみかん畑でした。

竹谷松平氏の五輪塔
 竹谷松平氏の墓は、塩津中学校の西にありました。白い塀に囲まれていました。墓は、五輪塔になっていました。ちなみに竹谷松平氏は、松平宗家3代信光の長男守家が竹谷へ移住し、竹谷松平家の祖となって、1503年守家没後、2代守親-3代親善と続き、4代清善より家康に仕え、1562年「上ノ郷城攻め」に参戦し、三河一向一揆でも野寺本證寺、針崎勝鬘寺の反家康軍と戦っています。

白い壁で囲まれていました。




五輪塔の案内板です。

尺地神社
 また城址の南には「尺地神社」があり、城の南の守りとして置かれたことが由来に書いてありました。

尺地神社


尺地神社から見た竹谷城址

藤井城 安城市

2013年09月16日 07時37分29秒 | 安城市
藤井城址
 土井城は、誓法寺の西側一帯のどこかにあったらしいですが、松平勘四郎の藤井城は分かりました。


藤井城址の石碑


藤井城址の案内板

しかし、探している途中で不思議なことに気づきました。


東にいかにも城館のあった場所?
 藤井城址は、図のように安正寺の南に位置していましたが、その集落の東側に「西屋敷」「北屋敷」「南屋敷」「東屋敷」という地名のある少し小高い集落を見つけました。中央には、長因寺というお寺があります。この集落の周りは、西に「阿原」という水田がありますが、集落より1~2メートル落ち込んでいます。また北には川(鹿乗川)があり、東側は人口の堀のようなものがあり、南側は矢作川です。四方を堀のようなものに囲まれているのです。
さらに、中に入っていくと、道が狭く、いかにも昔からの集落という感じがしました。

木戸城というお城があった
 ネットで調べたところ、やはりこの集落に木戸城というお城があったらしいです。木戸城はこの集落の最南端春日神社の所に位置していたようです。 木戸城は、文明年間 (1469-1486)、松平信光(のぶみつ)から安城城を与えられた親忠 (ちかただ・安城松平家初代:1431-1501)に従い木戸村に移り住んだ成瀬直庸(なるせなおつね)によって築かれたそうです。また、一色氏被官(ひかん)の石川氏とする説もあるそうです。<安城市HP、なお木戸城址は市指定の史跡>
ただし、当日は木戸城址を発見できませんでした。

一揆の中心本證寺、大谷派安正寺がすぐ近く
 もうひとつ、この藤井城は一揆の中心であった本證寺のすぐ近くにあったということです。松平勘四郎信一は、大変だったと思いました。しかし、案内板には三河一向一揆で戦ったことには触れられていませんでした。
 さらに、藤井城址を探すめやすとした安正寺ですが、よく見ると真宗大谷派。「えっ、こんなに近くにあっていいのか。」と思いました。しかも「開基松下円平綱親は、野寺本證寺の空誓上人に従って僧となり」と書いてあり、どきどきしましたが、さらによく見ると、僧になったのは1600年ごろで、安正寺がここにできたのは1779年とあったので、もう三河一向一揆は昔の話になっている頃の出来事ということが分かりました。


安正寺山門


安正寺の由来

藤井の地名の由来
 藤井城址の近くの県道294号線を北上すると左側に藤井の由来を示す石碑がありました。



 ここに名水が湧き出る井戸があったというのです。いわく「澄んできれいな清水であったことから、藤の花のようだというので、藤井と呼ばれるようになりました。」
 この石碑を右に折れると、はたして井戸の跡がありました。

土井城 岡崎市

2013年09月15日 13時27分27秒 | 岡崎市

土井城址の近くの誓法寺

土井城 城主本多氏とは
 「松平記」で、家康側として次に登場する武将は土井城の本多備後守広孝です。ネットで調べたところ、本多氏は、初代本多定正から2代正吉-3代正経を経て、1497年松平長親に仕えた4代彦三郎秀清が土井郷を与えられ、5代清重を経て、6代信重は松平信忠・清康に仕えて、土井に城を築いて住んだらしいです。1529年吉田城の牧野伝蔵を攻めた時に6代信重は戦死し、7代広孝に継がれました。1527年土井に生まれた広孝は家康より15歳年上で、父信重が亡くなった時は3歳でしたが、相続して土井城に住み、松平広忠に仕え、広孝を称した。その後、家康に仕え、1561年「東条城攻め」や1563年「三河一向一揆」、1564年「田原城攻め」でも戦功を挙げたそうです。同年、田原へ移り、土井城は廃城となったそうです。

誓法寺しか分からなかった
 実際に行ってみましたが、どこにあるのかさっぱり分かりませんでした。残念。近くの誓法寺に行ってきました。

西尾城 西尾市

2013年09月15日 08時40分43秒 | 西尾市
家康側の武将たち
 「松平記」では、酒井将監忠尚までで、一揆に与した武将(反家康側の武将)の列挙を終わり、つぎに家康側の武将を記述しています。

「岡崎の勢力は、竹谷(たけのや・宝飯郡)の城の松平玄蕃頭清善(げんばのかみ きよよし)<5>、形の原(宝飯郡)に松平紀伊守家忠(きいのかみ いえただ)<6>、深溝の松平主殿助伊忠(とのものすけ これただ)<7>が、土呂本宗寺、針崎勝鬘寺、東三河(?)両三人衆の敵に挟まれて昼夜相戦っている。西尾城には酒井雅楽助(うたのすけ)が在城して、野寺荒川(甲斐守義広)と戦っている。」

 竹谷、形原は、いずれも現在は蒲郡市です。まだ訪れていないので、ぜひ行ってみたいと思っています。深溝は、現在の幸田町です。以前紹介したところです。この家康勢3家が、土呂本宗寺、針崎勝鬘寺と戦っていたようです。

西尾には酒井雅楽助
 また、西尾には、上宮寺に検断を仕掛けて一揆のきっかけとなった酒井雅楽助がいて、野寺荒川と戦っていたようです。野寺荒川とまとめて記述してあるので、野寺本證寺と八ツ面の荒川義広が連絡を取り合って、または荒川義広が野寺本證寺にたてこもっていたと思われます。

西尾市歴史公園
 西尾城は、歴史公園として整備されていました。


歴史公園整備中
 図の現在地(右下)の右側は工事中で、歴史公園としてのものが建設されるようです。



 重機が見えます。平成26年1月23日にはこの工事が終わり、なにかここにできると思われます。何ができるのか楽しみです。

鍮石(ちゅうじゃく)門
 公園に入ると、門がありました。鍮石(ちゅうじゃく)門というそうです。



 案内板によれば、「大給松平氏が入城した際、江戸城の本丸御殿の前門であった鍮石(ちゅうじゃく)門の名に因みこの文字を充てた」そうです。なかなか頑丈そうな立派な門でした。

丑寅櫓

 丑寅櫓です。案内板によれば、本丸隅櫓の一つで、他の櫓より高いところにあったので、物見櫓として使われていたそうです。

姫丸址



 姫丸辰巳櫓址。案内板によれば、「姫丸は、南・東・北は堀により、西は内堀により囲まれる狭小な縄張りで、本丸表門前の馬出しの役割を担っていた。そして、西尾資料館の北方東側に姫丸門があり、鍮石門前の広場と通じていた。木立の茂る部分は庭園風に改造されているが、南東隅の平坦な場所に辰巳櫓があった。隅櫓は、東西7.3メートル、南北5.5メートル、高さ8.2メートルの二重の建物である。」


姫丸門址

お堀、井戸跡

本丸のお堀


井戸の址

東之丸太鼓門址



 歴史公園の東隣は西尾小学校になっています。ここも西尾城の一部だったようです。ちょうど校門のところに案内板があり、ここが太鼓門であったことが分かりました。

酒井雅楽助正親、重忠が居城
 さて肝心の酒井雅楽助ですが、パンフレットに「西尾城主一覧」があり、酒井雅楽助は永禄4年(1561年)から城主であることが記載されていました。次の酒井与四郎重忠(正親の子ども)が天正4年(1576年)から城主であると記載されているので、15年間城主だったことになります。その頃のお城は、こんなお城ではなくて、もっと質素なお城だったと思われます。なお、子どもの重忠は、途中で関東の知行地をもらって引っ越したようです。