酒井将監忠尚
三河一向一揆で、桜井松平家次の次に反家康側武将として記載されている武将は、酒井将監忠尚です。
酒井氏は、もともと松平の家臣でした。
松平の家臣にはどういう武将がいたのか、ネットで調べたところ、桶狭間の戦いで松平元信(家康)が丸根城を攻めた時の武将の一覧がありました。
家康の家臣
桶狭間の戦い 丸根城攻めのときの武将
正平(正面攻撃軍)72名
松平又七郎家広、松平七郎昌久、同彌右衛門松平右近、松平半助、松平金助、
加藤播磨景元、酒井将監忠尚、米津藤蔵、上野三郎次郎、河澄半七郎、
柴田小兵衛正和、酒井功之助、足立左馬助、蜂谷半之丞貞次、大橋伝七郎、
山本小四郎、月晦左馬助、酒井作右衛門頼次、大見藤六郎、天野太郎兵衛、
加藤伝十郎、大久保右衛門八、近藤伝十郎、赤松日根之丞、酒井又六郎、
佐野與八郎、酒井囚獄、(他)
遊兵(奇襲攻撃軍)54名余
松平次郎右衛門重吉、松平勘解由康定、同玄蕃允清善、同勘四郎信一、同三蔵直勝、
同次郎右衛門重吉 本多肥後守忠真、鳥居伊賀守忠吉、小粟勘兵衛、同仁右衛門忠吉、
加藤日根之丞、中根十三郎、村越十三郎、同久兵衛、同勘五兵衛、
同左太郎、大切七蔵、榊原彌平兵衛忠政、荻田武左衛門、赤根彌六郎、
赤根彌太郎、同藤三郎、松平伝十郎勝吉、山田清七郎、山本四平、
加藤小左衛門重常、同伝蔵、波切孫四郎、本多喜蔵、天野清兵衛、
足立孫四郎、石川善五左衛門、赤松新左衛門、天野助兵衛、同甚四郎、
村越新十郎、同左吉、赤根彌次郎、永見新右衛門勝定、遠山平大夫康政、
近藤場左衛門、青木善九郎、川澄文助、川上十左衛門、池波之助、
同水之助、岩堀忠七郎、平岩五左衛門正広、杉浦藤蔵吉正、同八郎五郎鎮貞、
渡辺勘解由左衛門、同甚平治、吉野助兵衛、山田彦八郎、青木平大夫、
筧平三郎重忠、同牛之助重成、同助大夫正重、山本才蔵、小野新平、
村井源四郎、平井善次郎黒柳彦内、斎藤彦市、水野藤七郎、同治右衛門忠佐、
石川大八郎、大久保七郎右術門忠世、渡辺平六郎貞綱、同半十郎政綱、同八郎五郎義綱、
久世平四郎長宣、小粟五郎左衛門、同大六重常、朝比奈五郎作、鳥居四郎左衛門信元、
加藤源蔵、大野伝右衛門景房、加藤又蔵、斎藤喜一郎、青山喜大夫忠門、
久米新四郎、八国甚五郎、酒井喜八郎、安藤九助重次、筒井與左衛門、
土屋甚助重信、同甚七郎、内藤甚五左衛門善教、同四郎左衛門正成、佐橋乱之助吉久、
大橋左馬助、同右衛門、内藤與八郎、江原孫助、本多三九郎、
浅見金七郎、同主殿、三浦平三郎、近藤新九郎、黒柳金七郎
御馬廻(元康の旗本)49名
酒井左衛門尉忠次、同雅楽助正親、石川伯耆守数正、本多豊後守広孝、同作左衛門重次、
植村新六郎家政、高力與左衛門清長、天野三郎兵衛康景、阿部善九郎正勝、平岩七之助親吉、
同善十郎、同新八郎、内藤與惣兵衛正次、同三左衛門信成、植村庄右衛門忠安、
高木九助広正、新見太郎兵衛、今村彦兵衛勝長、松平彌九郎忠次、江原孫三郎、
大竹源太郎吉治、朝岡久五郎、斎藤彦太郎、朝岡新蔵、植村権内、
松平十郎三郎康孝、鳥居鶴之助、同林五郎、林藤四郎忠正、鳥居久五郎、
加藤九郎兵衛、同十三郎、中根藤蔵、山田平五郎、赤根甚五郎、
大野宗兵衛、矢田作十郎、大久保五郎右衛門忠勝、本多甚四郎 石川七郎左衛門、
同新七、同新九郎、成瀬新兵衛、酒井又蔵、同造酒助、
佐野與五郎、内藤孫十郎 石川又十郎、(他)
HP「形原松平家について」より
この一覧の中に既に2名三河一向一揆で反家康側に立った武将がいました。酒井将監忠尚と矢田作十郎です。酒井将監忠尚がなぜ一揆側に与したのかは分かりませんが、家康の家臣がこの三河一向一揆で分かれて戦ったということが分かります。
上野城址
豊田市上郷町にある上野城址の看板 括弧書きで、(上野上村城址)とあるのは、上野下村城があったからです。下村城は現在県営住宅になっていて、面影はないそうです。
上野城の古図 1767年から1799年の間に描かれた「諸国古城の絵図」から上野城の古図が掲示されていました。
土塁の跡でしょうか
三河一向一揆で、桜井松平家次の次に反家康側武将として記載されている武将は、酒井将監忠尚です。
酒井氏は、もともと松平の家臣でした。
松平の家臣にはどういう武将がいたのか、ネットで調べたところ、桶狭間の戦いで松平元信(家康)が丸根城を攻めた時の武将の一覧がありました。
家康の家臣
桶狭間の戦い 丸根城攻めのときの武将
正平(正面攻撃軍)72名
松平又七郎家広、松平七郎昌久、同彌右衛門松平右近、松平半助、松平金助、
加藤播磨景元、酒井将監忠尚、米津藤蔵、上野三郎次郎、河澄半七郎、
柴田小兵衛正和、酒井功之助、足立左馬助、蜂谷半之丞貞次、大橋伝七郎、
山本小四郎、月晦左馬助、酒井作右衛門頼次、大見藤六郎、天野太郎兵衛、
加藤伝十郎、大久保右衛門八、近藤伝十郎、赤松日根之丞、酒井又六郎、
佐野與八郎、酒井囚獄、(他)
遊兵(奇襲攻撃軍)54名余
松平次郎右衛門重吉、松平勘解由康定、同玄蕃允清善、同勘四郎信一、同三蔵直勝、
同次郎右衛門重吉 本多肥後守忠真、鳥居伊賀守忠吉、小粟勘兵衛、同仁右衛門忠吉、
加藤日根之丞、中根十三郎、村越十三郎、同久兵衛、同勘五兵衛、
同左太郎、大切七蔵、榊原彌平兵衛忠政、荻田武左衛門、赤根彌六郎、
赤根彌太郎、同藤三郎、松平伝十郎勝吉、山田清七郎、山本四平、
加藤小左衛門重常、同伝蔵、波切孫四郎、本多喜蔵、天野清兵衛、
足立孫四郎、石川善五左衛門、赤松新左衛門、天野助兵衛、同甚四郎、
村越新十郎、同左吉、赤根彌次郎、永見新右衛門勝定、遠山平大夫康政、
近藤場左衛門、青木善九郎、川澄文助、川上十左衛門、池波之助、
同水之助、岩堀忠七郎、平岩五左衛門正広、杉浦藤蔵吉正、同八郎五郎鎮貞、
渡辺勘解由左衛門、同甚平治、吉野助兵衛、山田彦八郎、青木平大夫、
筧平三郎重忠、同牛之助重成、同助大夫正重、山本才蔵、小野新平、
村井源四郎、平井善次郎黒柳彦内、斎藤彦市、水野藤七郎、同治右衛門忠佐、
石川大八郎、大久保七郎右術門忠世、渡辺平六郎貞綱、同半十郎政綱、同八郎五郎義綱、
久世平四郎長宣、小粟五郎左衛門、同大六重常、朝比奈五郎作、鳥居四郎左衛門信元、
加藤源蔵、大野伝右衛門景房、加藤又蔵、斎藤喜一郎、青山喜大夫忠門、
久米新四郎、八国甚五郎、酒井喜八郎、安藤九助重次、筒井與左衛門、
土屋甚助重信、同甚七郎、内藤甚五左衛門善教、同四郎左衛門正成、佐橋乱之助吉久、
大橋左馬助、同右衛門、内藤與八郎、江原孫助、本多三九郎、
浅見金七郎、同主殿、三浦平三郎、近藤新九郎、黒柳金七郎
御馬廻(元康の旗本)49名
酒井左衛門尉忠次、同雅楽助正親、石川伯耆守数正、本多豊後守広孝、同作左衛門重次、
植村新六郎家政、高力與左衛門清長、天野三郎兵衛康景、阿部善九郎正勝、平岩七之助親吉、
同善十郎、同新八郎、内藤與惣兵衛正次、同三左衛門信成、植村庄右衛門忠安、
高木九助広正、新見太郎兵衛、今村彦兵衛勝長、松平彌九郎忠次、江原孫三郎、
大竹源太郎吉治、朝岡久五郎、斎藤彦太郎、朝岡新蔵、植村権内、
松平十郎三郎康孝、鳥居鶴之助、同林五郎、林藤四郎忠正、鳥居久五郎、
加藤九郎兵衛、同十三郎、中根藤蔵、山田平五郎、赤根甚五郎、
大野宗兵衛、矢田作十郎、大久保五郎右衛門忠勝、本多甚四郎 石川七郎左衛門、
同新七、同新九郎、成瀬新兵衛、酒井又蔵、同造酒助、
佐野與五郎、内藤孫十郎 石川又十郎、(他)
HP「形原松平家について」より
この一覧の中に既に2名三河一向一揆で反家康側に立った武将がいました。酒井将監忠尚と矢田作十郎です。酒井将監忠尚がなぜ一揆側に与したのかは分かりませんが、家康の家臣がこの三河一向一揆で分かれて戦ったということが分かります。
上野城址
豊田市上郷町にある上野城址の看板 括弧書きで、(上野上村城址)とあるのは、上野下村城があったからです。下村城は現在県営住宅になっていて、面影はないそうです。
上野城の古図 1767年から1799年の間に描かれた「諸国古城の絵図」から上野城の古図が掲示されていました。
土塁の跡でしょうか