愛知の史跡めぐり

愛知県の史跡を巡り、その記録を掲載します。

上野城 豊田市

2013年09月14日 09時56分42秒 | 豊田市
酒井将監忠尚
 三河一向一揆で、桜井松平家次の次に反家康側武将として記載されている武将は、酒井将監忠尚です。
酒井氏は、もともと松平の家臣でした。
 松平の家臣にはどういう武将がいたのか、ネットで調べたところ、桶狭間の戦いで松平元信(家康)が丸根城を攻めた時の武将の一覧がありました。

家康の家臣
桶狭間の戦い 丸根城攻めのときの武将

正平(正面攻撃軍)72名
松平又七郎家広、松平七郎昌久、同彌右衛門松平右近、松平半助、松平金助、
加藤播磨景元、酒井将監忠尚、米津藤蔵、上野三郎次郎、河澄半七郎、
柴田小兵衛正和、酒井功之助、足立左馬助、蜂谷半之丞貞次、大橋伝七郎、
山本小四郎、月晦左馬助、酒井作右衛門頼次、大見藤六郎、天野太郎兵衛、
加藤伝十郎、大久保右衛門八、近藤伝十郎、赤松日根之丞、酒井又六郎、
佐野與八郎、酒井囚獄、(他)

遊兵(奇襲攻撃軍)54名余
松平次郎右衛門重吉、松平勘解由康定、同玄蕃允清善、同勘四郎信一、同三蔵直勝、
同次郎右衛門重吉 本多肥後守忠真、鳥居伊賀守忠吉、小粟勘兵衛、同仁右衛門忠吉、
加藤日根之丞、中根十三郎、村越十三郎、同久兵衛、同勘五兵衛、
同左太郎、大切七蔵、榊原彌平兵衛忠政、荻田武左衛門、赤根彌六郎、
赤根彌太郎、同藤三郎、松平伝十郎勝吉、山田清七郎、山本四平、
加藤小左衛門重常、同伝蔵、波切孫四郎、本多喜蔵、天野清兵衛、
足立孫四郎、石川善五左衛門、赤松新左衛門、天野助兵衛、同甚四郎、
村越新十郎、同左吉、赤根彌次郎、永見新右衛門勝定、遠山平大夫康政、
近藤場左衛門、青木善九郎、川澄文助、川上十左衛門、池波之助、
同水之助、岩堀忠七郎、平岩五左衛門正広、杉浦藤蔵吉正、同八郎五郎鎮貞、
渡辺勘解由左衛門、同甚平治、吉野助兵衛、山田彦八郎、青木平大夫、
筧平三郎重忠、同牛之助重成、同助大夫正重、山本才蔵、小野新平、
村井源四郎、平井善次郎黒柳彦内、斎藤彦市、水野藤七郎、同治右衛門忠佐、
石川大八郎、大久保七郎右術門忠世、渡辺平六郎貞綱、同半十郎政綱、同八郎五郎義綱、
久世平四郎長宣、小粟五郎左衛門、同大六重常、朝比奈五郎作、鳥居四郎左衛門信元、
加藤源蔵、大野伝右衛門景房、加藤又蔵、斎藤喜一郎、青山喜大夫忠門、
久米新四郎、八国甚五郎、酒井喜八郎、安藤九助重次、筒井與左衛門、
土屋甚助重信、同甚七郎、内藤甚五左衛門善教、同四郎左衛門正成、佐橋乱之助吉久、
大橋左馬助、同右衛門、内藤與八郎、江原孫助、本多三九郎、
浅見金七郎、同主殿、三浦平三郎、近藤新九郎、黒柳金七郎

御馬廻(元康の旗本)49名
酒井左衛門尉忠次、同雅楽助正親、石川伯耆守数正、本多豊後守広孝、同作左衛門重次、
植村新六郎家政、高力與左衛門清長、天野三郎兵衛康景、阿部善九郎正勝、平岩七之助親吉、
同善十郎、同新八郎、内藤與惣兵衛正次、同三左衛門信成、植村庄右衛門忠安、
高木九助広正、新見太郎兵衛、今村彦兵衛勝長、松平彌九郎忠次、江原孫三郎、
大竹源太郎吉治、朝岡久五郎、斎藤彦太郎、朝岡新蔵、植村権内、
松平十郎三郎康孝、鳥居鶴之助、同林五郎、林藤四郎忠正、鳥居久五郎、
加藤九郎兵衛、同十三郎、中根藤蔵、山田平五郎、赤根甚五郎、
大野宗兵衛、矢田作十郎、大久保五郎右衛門忠勝、本多甚四郎 石川七郎左衛門、
同新七、同新九郎、成瀬新兵衛、酒井又蔵、同造酒助、
佐野與五郎、内藤孫十郎 石川又十郎、(他)
HP「形原松平家について」より

この一覧の中に既に2名三河一向一揆で反家康側に立った武将がいました。酒井将監忠尚と矢田作十郎です。酒井将監忠尚がなぜ一揆側に与したのかは分かりませんが、家康の家臣がこの三河一向一揆で分かれて戦ったということが分かります。

上野城址

豊田市上郷町にある上野城址の看板 括弧書きで、(上野上村城址)とあるのは、上野下村城があったからです。下村城は現在県営住宅になっていて、面影はないそうです。


上野城の古図 1767年から1799年の間に描かれた「諸国古城の絵図」から上野城の古図が掲示されていました。


土塁の跡でしょうか

八ツ面山雲母坑址 西尾市

2013年09月08日 07時36分21秒 | 西尾市
 自分で勝手に問題にした八ツ面山に行きました。

八ツ面山は、前方後円墳か
 八ツ面山を地図で見ると大きく二つに分かてているのが分かります。西側が男山、東側が女山というそうです。つまり、男山は険しく、女山はなだらかなわけです。しかし、よく見るとこれはまるで前方後円墳のようでもあります。女山が前方で、男山が後円です。ますます疑問が膨らんでいきました。

和銅時代からある雲母坑
 さて、タイトルの「雲母坑址」ですが、男山の北側の方にありました。


雲母坑を埋め立てたことをあらわす碑


雲母坑についての案内板


1基残したという雲母坑?(看板のすぐ左にありましたので、雲母坑の址だと思います)
 
 驚きは、この雲母坑が713年(和銅6年)から存在していること、さらに事故のためにこの穴を埋めたときにその数が642箇所もあったということでした。

なぜ荒川義広は八ツ面山に城を築かなかったか
 荒川義広がこの八ツ面山に城を築かなかったのは、この雲母坑のためではないかと想像しました。まず、ここに城を築けば、坑夫が自由に出入りできず、雲母坑での採掘に何らかの支障が出ます。そうすれば雲母での彼の収入が減ってしまいます。もったいない。つぎに、昭和の時代に642箇所もの穴があったということは、戦国時代、荒川氏の時代には、半分と見積もっても300個近くの穴があって、城を築けるような山ではなかったのではないかということです。あぶない。

八ツ面山から安城、岡崎、幸田が一望
 男山の展望台からぐるっと見渡しましたが、素晴らしい眺望でした。ここからは、安城、岡崎、幸田が一望の下に見ることができました。ただ天気が悪くて遠くまで見えなかったのが残念です。北東の天井に案内板がありました。その案内板に野寺本證寺が記されていました。

野寺本證寺を記す案内板

二つある久麻久神社
 ふもとには久麻久神社がありました。不思議なことに、荒川義広の墓のあった真成寺の近くに同じ名前の神社があります。

八ツ面山にある久麻久神社


真成寺の近くの久麻久神社

最後、この山は野良猫の天国でした。

女山の駐車場で休んでいる白い野良猫

桜井城 安城市

2013年09月07日 22時16分56秒 | 安城市
18もあった松平家
 反家康武将3番手は、桜井の松平、松平監物家次です。松平といえば、家康もこのときは松平です。どうして同じ松平であるのに、敵味方になっているのか不思議です。この時代には既に松平が三河にたくさんあって、1886年発行の「改正三河後風土記」では「十八松平」と呼ばれています。いずれも、一つの松平家から分家したものです。


十八松平の系図

宗家争いをした桜井松平家
 図からわかるように、家康の時代までにたくさんの松平が分家しています。桜井松平家は、家康の曽祖父の兄弟から分家しています。松平家次の曽祖父信定は、清康がいわゆる「守山崩れ」で家臣に殺されたのを機に宗家を自分に奪取しようと試みましたが、失敗しました。宗家に対する対抗心は、孫の家次まで引き継がれましたが、家次が一向一揆で家康に負けると、家康に忠節を誓い、以後家臣として働くことになりました。

多くの松平は家康側に
 この図で家康側として「松平記」に記されているのは、竹谷、形原、五井、長沢、深溝、藤井、福釜で、大草松平直勝は一揆側についたとなっていますが、どうやら間違いのようで、大草松平は松平昌久で一揆側につき、松平直勝は佐々木城の城主で、家康側についています。他の松平氏については一揆が領地で起こっていないのか、記述がありませんでした。

桜井城は公園に
 現在桜井城は公園になっています。入り口のすぐ左側に塚があり、そこに「桜井城址」という石碑が建てられていました。

桜井城石碑

 また、入り口には木の門がありました。これはどこかで見たぞと思ったら、東条城とそっくりでした。

桜井城 門


東条城 門

桜井松平氏歴代当主の墓

 次に、この公園の左側を見ると桜井松平氏の歴代当主の墓がありました。

墓の全体の様子 


墓の囲いの中の様子(右から、信定、清定、家次、忠正、忠吉、家広の墓)

荒川義広の墓 西尾市

2013年09月02日 19時06分10秒 | 西尾市
 松平記で、吉良義昭の次に反家康の武将として荒川義広が述べられています。
荒川義広とは
 荒川義広は、もともと吉良持清の子として生まれた吉良氏の一員です。しかし、吉良氏は兄の持広が継いだために、荒川家を起こしたといわれています。
 不思議な武将で、家康が東条義昭を攻めていたときには家康の側について、その功績で家康の腹違いの娘市場姫を娶っています。しかし、一向一揆が起こると家康に反旗を翻し、吉良義昭と一揆側について戦っています。その辺の事情が今ひとつ分かりません。
八ツ面城はどうして八ツ面山にないのか
 荒川氏は、西尾の八ツ面に城を構えます。八ツ面城です。現地に行きましたが、やはり痕跡は分かりませんでした。
八ツ面小学校がお城の跡地らしいのですが、確かに一段と高いところにあり、東側には田んぼが広がっていて見晴らしはよかったです。ここに城があっても悪くはありません。

八ツ面の集落 右側が小高くなっていることが分かります。


八ツ面小学校 小高い丘の上に立っていました。

 しかし、実はこの八ツ面には、後ろに八面山という立派な丘がありました。


 荒川氏は、どうして八ツ面山に城を造らなかったのだろうと思いました。もしかしたら、八ツ面山に城があったのかもしれません。今度この山にぜひ登ってみたいと思いました。

荒川義広の墓
いずれにしても、荒川氏は家康に敗れ、国外追放となったようです。しかし、その荒川氏の墓があるということなので、近くの「真成寺」というお寺を訪れました。真成寺は浄土真宗ではありません。曹洞宗でした。


 真成寺の裏手にまわるとお墓がありました。


そして「施主 荒川義尚」という字を見つけました。荒川義尚とは誰なのでしょうか。


また、家康の腹違いの妹市場姫はどうなったのでしょうか。
いろんな疑問がいっぱい出てきました。

東条城 西尾市

2013年09月01日 19時54分46秒 | 西尾市
 松平記に反家康の武将の一番手に上がったのは、吉良義昭です。
 吉良義昭、そして吉良氏とはどんな武将なのでしょうか。

名門吉良氏
 吉良氏は大きく3つの流れがあるそうです。三河、関東、土佐の3つの地域です。もちろん吉良義昭は三河の系統の吉良氏になります。
 吉良氏の祖先は足利義氏だそうです。足利義氏は、鎌倉幕府の御家人で北条義時や泰時を助けていたそうです。義氏の母は北条時政の娘で、鎌倉幕府と大変強いつながりを持っていた人です。
 その足利義氏の長男の長氏が、この吉良荘をおさめるときに吉良の姓を名乗ったそうです。それが吉良家の始まりだそうです。


 東条城の案内板 ただし、永禄4年藤波畷の戦いで吉良義昭が家康に負けたことで、東条吉良氏が滅亡したとありますが、実際は永禄6年の三河一向一揆で、吉良義昭は家康と再び戦っているので、永禄4年の段階で滅亡したというのは早すぎだと思います。

西条吉良、東条吉良に分裂
 南北朝の時には吉良満義(吉良長氏の4代後)とその息子である吉良満貞が南朝あるいは北朝の武将として戦っている間に、満義の四男尊義が東条吉良として自立するという事件が起こりました。
 以後、満貞の西条(西尾)の吉良氏と尊義の東条の吉良氏が争うという構図ができたようです。応仁の乱でもこの対立は継続したようです。


城の入り口に設けられた門

今川氏、松平氏との戦い
 一時両家は和解しましたが、戦国武将としての力は弱まっていて、東のほうから今川氏が攻めてくると、軍門に下るしかなかったようです。西条の吉良義安は駿府にとらわれ、義安の弟、吉良義昭が今川氏の庇護の下に東西の吉良を統一しました。
 ところが、桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、吉良義昭は、今度は三河を統一しようとする家康と戦うことになりました。しかし、善明堤の戦いや藤波畷の戦いに敗れ、家康に降参しました。
 そして三河一向一揆が起こると、義昭は家康打倒のため一揆側について、再び家康と戦うことになったのです。


虎口


物見櫓と虎口

吉野ヶ里の櫓と同じ
 東条城を見たとき、とても驚きました。城といえば天守閣があって、石垣があって・・・こうしたイメージは壊れました。(石垣については、室町時代まではなくて、土塁だったということを最近知りました。)今回、東条城を見て、天守閣のイメージは崩れました。


物見櫓


 これは、九州の吉野ヶ里遺跡の物見櫓です。弥生時代の遺跡です。ちょうど人間も写っているので、高さも比べられますが、ほとんど同じです。弥生時代から、鎌倉時代(この櫓は鎌倉時代の一遍上人聖絵を元にして再建されたそうです)まで砦(特に櫓)の構造はほとんど変わっていないことが分かり、全くびっくりでした。