おかげさまで生きてます

日々の暮らしのなかで

警告音

2009年06月20日 | 日記・エッセイ・コラム
昼休み、オヤジの車を借りて
ちょいと出掛けた
 
ほったらかしにして置いた旅行代理店へ行くのと
土曜日恒例のコンビニ弁当を買うために
 
オヤジの車は、昨年10月に納車された
いわば、まだまだ新車
グレードは高くないものの、装備としては
運転中に眩しくて仕方がないメッキを施した
車内の装飾など、結構いい車だ
どこの会社の車かは、ここでは控えておくが
車名はカローラだ
 
そんな乗り慣れない車を借りて
軽快に運転をしていると
 
“ピーッ”
 
警告音
 
(うん?なに??)
 
それがすぐには警告音だとは認識出来ないほど
小さく、遠慮がちに鳴る 
 
(最近の車はねぇ~)
 
時代が進むに連れて
車も進化する
バブル期に限らず、その直前にも
いろんな装備があった
これはいらんだろぉ!と思うような装備もあった
 
今の若い人たちは知らないかも知れないが
昔は、スピードを出しすぎると警告音が鳴っていた
 
“キン キン キン”
 
あぁ、オレ、急いでるなぁ~!てな感じで
臨場感を煽る音だと思っていた
逆に、アレを聞き続けてないと
車を運転しているような気になれない
若気のいたりの時もあった
 
その後も時代は流れ
車にはいろんな装備が付くようになった 
 

 
このオヤジの車の警告音が何に対して
鳴っているのか、わからない
分かっていることは、右折の時には
 
“ピッ”
 
と短く一回
左折の折には、前記の通り二回鳴る
 
(何が鳴ってるの?不気味ぃ~)
 
訳がわからないまま、コンビニに立ち寄る
カツめし弁当を購入
車に乗り込み、まずはハンドルを右へ
 
“ピッ”
 
相変わらず鳴る
 
で、直ぐに左折
 
“ピーッ ピーッ ピーッ ピーッ ピーッ ピーッ・・・・”
 
鳴り止まない
今度は鳴り止まない
鳴り止まない警告音を聞いて、全ての謎が解けた
 
助手席に乗せてあった
一升瓶のせいだ
二本並んで載せてある一升瓶
ハンドルを切るたびに、微妙に動き
シートベルト着用を促す警告センサーに
触れていたのだった
 
路肩に速やかに停車
一升瓶を後部座席へ
謎が解けた気持ちを表すように
ピーカン天気な青空が広がっていた
 
 


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これが伝統

2009年06月18日 | スポーツ
常に変化を求められ
前進、進化していく現代
 
変わり続けることこそが、人類の発展であり
これまでの歴史の積み重ねを見ても
それは歴然としている
 
が、その反面
 
変わらないこともあり続ける
変わらないことは、ある意味
進化することよりも難しいこと
 
変わらないもの
 
それは伝統と呼ばれ、その姿のまま
また、その場所にありつづける
神々しいものなのである
 
日常のふとした事でも
守り続けることは、決して優しくない
だからこそ、変わらないことは
凄いことだといえる
 
例えば昨日のサッカー日本代表
 
「1位通過を!」
本大会ベスト4を目指すなら当然と
周りも自分たちもプレッシャーをかける
 
運動量で上回り、セットプレーで先制するも
足が止まりかけた後半に追いつかれ
 
「高さに注意!」
 
と、戦前から分かりきってることを
今更解説者から聞かされる
 
結局、逆転負け
悔しさを滲ませることなく
淡々とインタビューをこなす
 
「すべてにおいて、レベルアップが必要!」
 
負け試合の後のコメントはすべて同じ
いや
勝った試合でも同じコメント
 
「まだまだ、です」
 
くしくも前代表監督・オシムは言った
 
「諸外国のサッカーを取り入れるより
 日本独自の、日本のスタイルを探す」
 
思えば、昨日の試合こそ
日本のスタイル
前回のW杯で苦杯をなめた相手
 
月日は流れても、同じような展開
 
始まる前から、終った瞬間まで
 
サッカー素人の僕だから言えるかも知れないが
これが日本サッカー
これが伝統
 
変わらない事は、退屈な事でもある
 
 


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おそらく今年初だ

2009年06月16日 | 日記・エッセイ・コラム
先日、仕事を早く終えて
軽快なドライブを愉しんでいると携帯が鳴った
 
(仕事は終わりました)
 
不景気だというのに
呑気な態度で携帯を取り出すと
見慣れた名前が
 
(ほぉほぉ~、これはこれは)
 
食事のお誘いである
勿論、男からである
お出かけ先から帰ってくるとの事
1時間後に合流して食事をすることになった
 
待ち合わせ場所は
昼は喫茶店、夜も喫茶店と言う店
アルコールもあるが、まぁ喫茶店
しかぁーし
ここのマスター
髭のマスター
バイクに跨るマスター
 
すこぶる料理の腕は確か!
次々と料理が出てくる
この日はマグロ
まぁ、料理の腕は関係ない食材かも知れないが
これが美味い美味い
何ヶ月ぶりにマグロを食ったか!
 
で、二次会は電話をくれた彼の家に直行
彼の家には、たまにお邪魔する事がある
可愛いご子息に挨拶を済ませてかんぱーい!
 
奥さんの手料理が出てくる
これ!これ!うんまぁ~い
 
で、少々アルコールにやられ気味になった時
蕎麦が出てきた
 
これまた、うんまぁ~いぃ!
 
このあっさり感
そして、喉越し&食感
これまた何ヶ月ぶりに食したか?
 
で、締めは男の手料理
途中合流の男前が自慢の
 
“豚キムチ和風蕎麦和え”
 
を作ってくれた
 
いや、いや
キムチと豚肉を炒めただけですから
味は想像・・・ 
 
 
おぃいぃぃぃしぃーーーー!
 
少し大袈裟かも知れないが
これまた、うんまぁ~いぃぃ
豚キムチを口にしたのは
何ヶ月ぶりだったかな?
 
あん?
 
普段、オレは何食ってたんかな?

 


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ここです、ここ

2009年06月13日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、必殺仕事人を観た
 
昔からあるシリーズだが
幼い頃はどこか怖くて観られなかったと
記憶しているが、大きくなって
時折見てみると、それなりに面白い
 
こういったモノは
最後の恨みを晴らすシーンのためにも
その過程で悪者はより悪く
酷い仕打ちを受ける側もより酷く!となるのが
クライマックスに向かっていく常套手段
ハリウッド映画で、最後に悪人がやられて
痛快な気分になるのと似ている
 
ただ、昨日の場合は
そんなにも酷い仕打ちに感じられず
いや、結構酷いのだが
上手く感情移入が出来なかった
やっぱり、実際自分がその場面に立ち会わないことには
そういった感情はわかないのだろうか?
 
そんな
 
仕事人に頼むまでのことではないが
今日の昼に、中村主水の顔が過ぎる出来事があった
 
土曜日の昼
いつものようにコンビニへ弁当を買いに
手早く弁当を選び、レジへ
二つあるレジに店員は一人
 
(お昼どきなのに)
 
悠長な店員に少しだけ小言を言いながら
新聞を整理している店員に近づく
 
『どうぞ!』
 
と指し示したのは、もう一つのレジの方
 
(別にこっちでええやんけ!)
 
努めて笑顔の僕は、落ち着いて踵を返す
弁当と烏龍茶
昼休みのくつろぎの時間のために
野菜ミックスジュースも一緒に
 
レジ台にそれぞれをゆっくり下ろしたとき
もう一つ、レジに店員が現れてひと言
 
『こちらへどうぞ!』
 
(もっとはよ来んかいぃ!)
 
少しずつ感情を抑えるのにエネルギーが
必要な臨界点に近づく
 
 

 
 
その時!
 
 
僕の横から初老のジジイが
おにぎり二つをレジ台へ置いた
 
(はぁ?)
 
思わず、温厚なこの僕が声を出しそうになった
 
時折ある
初老のジジイは、アメ横か、はたまは
観光地の朝市の如く、店員と正対して
買物をする
早い話、並ばないのである
大概、コンビニのレジでは、人の後ろに列を作るのだが・・・
 
まぁ、店員も順番を変えることはしなかった
ジジイに丁寧に
 
「あちらのレジへどうぞ!」
 
坊主頭の店員が笑顔で待つレジを指し示す
僕の存在など眼中にないジジイは
指し示されたレジを横目で見てのたまわれた
 
 
「あぁ、別にこっちでかまへんよぉ!」
 
 
ちゃららぁぁ~~ ちゃっちゃっちゃっちゃ、ちゃらららぁぁ~~ 
 
てけてぇぇ~~ん
 
 
ここです、ここ
 
この「かまへんよぉ」の瞬間
 
(何がかまへんねん)
 
主水、出てきました
一刀両断です
 
あぁ、スッキリした
 
 


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愛なんだよ

2009年06月12日 | 日記・エッセイ・コラム
柏木達也は言いました
 
「幼稚園で習った事だけをずっと守って生きてきました」
 
具体的な事は失念してしまったが
記憶を掘り起こせば
“人を傷つけてはいけません”とか“女の子には優しく”とか?
とにかく、人間としての最初に教わる事だっただろうか
 
人間、長く生きていれば
それなりに要領を得て、上手く立ち回れるものだし
頑なな面持ちでは、生き辛い
しかし、守らなければならない事は
成長と共に増えはすれど、変わっていくものでは
ないとも思える
 
最近、テレビ番組がつまらない
年齢的なことも多分に影響はしているだろう
“昔はよかった”と回顧的になっているのかも
知れない
 
小学生時代、オモシロくて観ているテレビ番組を
オヤジたちに貶されたものだ
めぐり巡って、いま、そんな年代にいるのかも
知れない
確かにそれはあるかも知れないが
今のテレビに魅力が無くなってしまった要因の一つに
自主規制があるんじゃなかろか?
 
昔は許容されていた内容でも
いまの基準では作れそうにない番組が多々ある
どれが該当するのか?と問われても
即答出来ないが
確かに以前は結構無茶をしていたと
思い返すことができる
 
確かに、野放しになっていた昔が異常であって
いろんな権利が保証されたり、不快な思いをする人が
減るなら、改善は当然だが
やっぱ、行き過ぎはどうだろうか?と思う
 
また、ネットニュースでもよく見かける光景だが
苦情と紙一重のアゲアシとりも見かける
一々、小さな苦情を言うような内容じゃないだろう!って
製作者に変わって、激しく憤りを感じる時もある
 
色んな方面に気を使って
突っ込まれないような番組を作るもんだから
みんな同じような番組になってしまう
タレントが沢山出てきて、騒いでいるだけの番組
 
作り手と受け手
作る側と見る側
いいモノを見せたいと思う気持ちと
いいモノを見せてもらったと思う気持ち
ワクワクドキドキする展開を期待するのと同時に
茶の間の笑顔が思い浮かぶ
 
作り手にも問題があるだろうが
見ている側にも、多少なり
問題はある
 
窮屈な環境じゃいいものは出てこないと思う
 
もっとお互いに、思うことがあるはずだ
そう、柏木達也のように
 
 
 
「そこに愛はあるのかい?」
 
 
 
一週間が待ち遠しい、テレビ番組が観てみたい
 
 
 



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