おかげさまで生きてます

日々の暮らしのなかで

カレーライス

2006年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム
カレーライスを食べる時は、やっぱ「スプーン」でしょ!

週末に面白いニュースを聞いた。学校給食でカレーライスを箸で
食べているそうな。
詳しくは聞かなかったが、ご飯給食になって、スプーンを出してないらしい。
必然的にカレーも「お箸」で食べる事になる。

僕自身、ご飯給食が本格的に始まったのは中学生になってからだと記憶している。
小学校6年の頃には、「ご飯」は出る事があったが、それはパンの代わりに
おにぎりが三つほど出ていた。それも一ヶ月に数回だけ。
僕としては、「パン」の給食が好きだった。家でパンを食べる事が少なかった
事もあって、給食でも「ご飯」が出たときには、少しがっかりした。

始まった当初は、週二日ほどが「ご飯給食」だった。
その日はスプーンは出ない。各自「お箸」を持参して給食を食べる。
忘れた時が大変だ。初めの方は給食所に取りに行けば手に入ったが、
徹底させる為に、徐々に貸してもらえなくなった。
今なら「手で食わしているのか!」って、勘違いした親がおこってくれるかも
知れないが、当時はまだ「忘れるお前が悪い!」って言われてるのがオチだった。
忘れた時には、学校の裏山にいって枝を折り、箸の代わりにする猛者も居た。
女子の中にはスプーンを持参する強者もいた。

でもカレーの時には「スプーン」が出ていた。やっぱり箸では食べにくいからだ。

カレーはスプーンでは「食べにくい」であって「食べられない」ではない。
実際僕はカレーライスを箸で食べている人を見た事がある。

会社勤めをしていた時、昼食は会社の食堂で食べる。種類は豊富ではなかったが、
何よりも安価である事がよかった。
また、女性のいない職場にいた事もあって、女性と会話出来るのは、
食堂しかなかった。
色んな人が集う食堂。そこに彼がやってきた。

初めて見る顔だった。「新入りかな?」と彼を見ていた。彼のトレーには
カレーライスがのっている。
しかし彼は「スプーン」の在りかがわからないようだった。
勤めはじめてまだ日が浅いのだろう。顔見知りも居ず、また大人しそうな彼は
周りの誰にも「スプーンはどこですか?」と聞くことも出来ずに
少し困っていた。

「どうするかな?」

僕は彼がどうやって「カレーライス」を食べるのか静かに見守った。
席につくと、箸はある。
彼も意を決したのか、その箸を持ってカレーを食べはじめた。
苦労しただろう。ご飯にカレーを絡ませて慎重に箸を上げていく。
しかし予想以上にカレーがつき過ぎて、口に運ぶまでは至難の技だ。
何度も落としながら、彼はその「カレーライス」を完食した。

「すごいぞ、お前!」

声に出す事はなく、心の中で呟いた。
彼は少しだけ周りを気にしながら、席をたった。
会社の食堂なので、勿論片づけもセルフだ。
彼は苦心の跡が残るトレーを見つめながら、回収用の流し台に
歩いていった。

そしてその瞬間、彼は自分を苦しめた「スプーン」と対面した。
そう、「スプーン」は流し台の横、カウンターの一番奥にあったのだ。

「・・・・・」

時間にしてどれくらいだろうか?
彼はそのスプーンを見つめて、固まったまま動けずにいた。


携帯電話

2006年01月27日 | 日記・エッセイ・コラム
便利なモノであるし、いまや日常生活には欠かせない携帯電話。

そんな携帯電話には、独特の世界があるようだ。

読んで字のごとく「携帯」する「電話」であるから、連絡は直接本人に出来る。
家においてある電話には家族と言う「不特定多数」の人を相手に電話をかける
ことになる。昔なら好きな女の子に告白しようとしても、「父親」と言う、
第一関門を突破しなければ、彼女の声を聞く事は出来なかった。

また、学校では粋がって偉そうにしているヤツの家に電話した時、
取次いでくれたお母さんの
「○○ちゃ~ん、電話よぉ~」
の声が受話器の向こうから聞こえてきたりして、結構恥ずかしいものだった。

しかし、携帯電話は直接本人にかかるのだから、言わば「会話」の姿に近い。
「○○さんのお宅ですか?」
「○○さんはご在宅でしょうか?」
こんな確認はいらないのだ。今でも、
「○○です。△△さんですか?」と一応は確認をとるが、それは昔のなごりの
ようなものだ。実際は電話に出た時の声で殆ど確認出来る。

たまに友人に電話をかけると「ハイッ!」と女性が出てきて吃驚する事がある。
大体は彼の奥さんなのだが、たまに違う時もある。詳しくは書けないが・・・

逆に困った事もある。携帯電話は「場所」を選ばないのだ。
家に電話をした場合、電話に出られないような「ハードな状況」にある事は
少ない。テレビを見ているか読書をしているか。また、風呂に入っているかも
知れないが、時間帯さえ考慮すれば迷惑な電話にはならないはずだ。

これが携帯電話だとどうだろうか?電話をかける相手が今どこにいるのか
わからないし、どんな状況にあるのかもわからない。
重大な局面に遭遇し、判断を迫られている時に
“ぱっぱらぁ んたらら ぱっぱ  ぱっぱらぁ んたらら ぱっぱ!”
なんて「笑点」のテーマソングが流れたら、気まずい雰囲気になるだろう?

そんな中、一番僕が気になるのは、すべての無駄を省いた「携帯電話的会話」だ。
確認したい事があって、電話をした。しかし先方はなぜか出ない。

「もしかしてお取り込み中?」なんていらない気を使いながら、
少し時間をあける。そしてもう一度かけてみるがやっぱり出ない。
「どこにいるんだろう?」って会話とは直接関係のない事まで心配しながら、
またまた時間をあける。
その間に、他の用事を済ませておく事にする。

“ぱっぱらぁ んたらら ぱっぱ  ぱっぱらぁ んたらら ぱっぱ!”

「おっ!電話だ。」少し忘れかけた時に、先方がかけてきてくれた。
画面で名前を確認してボタンを押し耳に近付ける。

相手「何?」
僕 「あっ えっ?」

何の前置きもなく始まった会話に、僕は少し軽い目眩を覚えた。
相手が年上ということもあり、使い慣れない敬語を使おうとしたのも
思考が停止した要因だっただろう。かかってきた時には、「確認の件」だと
わかったが、こちらが喋りだす前に「何?」はやっぱり省き過ぎだと思う。

しばらく会話したが、頭の中では一つの言葉がずっと鳴り響いていた。

「この電話、どっちからかけたんだっけ?」


思い込み

2006年01月26日 | 日記・エッセイ・コラム
人は思い込みにより、事実を正確に捉えていない事がある。

何のCMだったか忘れたけど、店主と従業員の会話で
「この給料の2割を貯金しなさい」と言われた従業員が「無理です」と
答え、「じゃ、この給料の8割で暮らしてごらん」と言われると、
「やってみます」と答えた。そして上の言葉につながっていく。

「何故今これを?」と言えば、実際にそういう場面が昨日あったからだ。

親父は仕事を終える10分程まえに、車のエンジンをかける。
車内を温めておくためだ。仕事場から家までは10分もかからないので、
こうしておかないと、車内が温まった頃には家についてしまう。

親父は良く言えば大らかな性格で、悪く言えばちょっと抜けた所もある。
また、親父にとっての便利なモノの基準とは、ズバリ「早さ」なのだ。
車内を温めるのにしても、一瞬で温める事が出来ない「不便さ」を感じている。
だから、時間を逆算してエンジンをかける。

親父と僕の車は向かい合って止まっている形になっている。僕は方向転換をして
出ていく事になるので、大体は親父の車が動くのを待っている。
昨日もそうだった。

「久し振りにチェンジしてみるか!」

少し聞き飽きたMDを変える。
ここ数カ月間、僕の車の中ではBENNIK-Kとケツメイシが、
「僕の車の中でかかる曲大賞」1位獲得を目指してヘビーローテーションで
かかっている。今月の初めには「おめでとうレコード大賞キャンペーン」として
倖田來未も流れていたが、「エロかっこいい」は声だけでは楽しめない。

親父の車が動き出すのを、MDを探しながら待っていた。
MDの交換も終わって視線を上げた時、まだ親父の車が動いていない事に気付く。

「どないしたんや?」
と思っていると、車から親父がおりてこっちへ向かってくる。
「?」助手席の窓を開けると、
「ちょっと車みてくれ」と力の無い声で言ってきた。

「どないしたんや?」
落ち込んでいる雰囲気にただならぬモノを感じて、親父の車に近づいていく。
「温まるどころか、車ん中寒いんや!」
ドアを開けて車内に顔を突っ込むと確かに涼しい風が吹いている。
それにインパネの警告灯がすべて点灯している。
「故障かな?」と思ってイロイロと触ってみても、変化はない。

警告灯が一斉についている意味を、その時は理解出来なかった。
ここまで書けば、わかる人も居られるだろう。

「ちょっと見てもらいに行ってくるわ!」
親父も覚悟を決めたのか、近くの車屋に持っていく事にしたみたいだ。
車に乗り込む親父。
その時はじめて僕は全てを理解出来た。

「これ、エンジンかかってへんやん!」
「え?」

慌ててキーをひねると、スターターが悲しげな音をたてエンジンがかかった。
お互いの顔を見つめる。親父は照れたように微笑んだが、僕は呆れていた。
この時はじめて二人は「エンジンがかかってない」事に気付いた。

エンジンをかけたつもりでいた親父。かかっているものと思い込んで
イロイロと原因を探っていた僕。

「そういえば、今日はエンジン音が静かやなと思とったんや!」
と何事もなかったかのように、立ち尽くす僕を残して親父の車は帰路についた。

親父は良く言えば大らかな性格で、悪く言えばちょっと抜けた所もある。


妄想

2006年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム
単調な日々を繰り返していると、良からぬ妄想をする事がある。

良からぬと言っても、大それたことではなく幼稚な物が大半だ。
「ドラマのような恋がしたい!」なんて、乙女チックな妄想をしてみたりする。
でもこの時、頭の中にあるのは、ストーリーじゃなく女優の顔だったり
するわけだ。

深夜にやっている番組で、「恋愛ドラマ」によくあるシーンをアンケートして
それを元にドラマを作る。そしてこの後につづくシーンは?
なんてことをやっている番組がある。
いわゆる「ベタ」な事を楽しもうと言うやつ。これが結構面白い。

付き合っている彼氏の部屋に訪れる彼女。しかし彼の部屋には違う女性が!
抱き合い激しいキスをする二人。何も知らず、手には買物袋をさげている。
笑顔でドアをあけると、そこには見ず知らずの女性と抱き合う彼氏が。

呆然と立ち尽くしていると、彼がドアの方に視線をおくる。そして、
彼氏「(驚いて)ベタ子・・・」
彼女「どうして?」
彼氏「・・・・」
手に持っていた買物袋を落とし、立ち去る彼女。

さてこの後、彼氏がとった行動は?

って感じでやっていく。
「純愛ドラマ」によくある「ベタ」なシチュエーションを当てるのだ。
でもこんな事、ドラマの中だから成立するのであって、現実に起これば
ちょっとした修羅場・ラ・バンバになるはずだ。

「ベタ」な事で言えば、今まで生きてきて実際に遭遇した事がないシーンは
たくさんある。
例えば、風船が木に引っ掛かって泣いている子供なんて見た事がない。
他にも、雨の中呆然と立ち尽くしている女性を見た事がないし、
時間が無くて急いでいる時に人とぶつかって、書類をぶちまけた場面にも
出会った事がない。勿論、それを拾い集めている時に、かっこいい男が
登場するなんて事は、想像の中だけの世界だろう。

でも、そんな「ベタ」も含めたドラマの世界に憧れる人はいるだろうし、
刺激的な事だと思う人もいるだろう。

でも、決定的に現実世界では「ドラマの様な恋」は再現出来ない。
「いや、俺はドラマのような恋をしている」って言う人もいるだろうが、
忠実に「ドラマの様な」事は出来ない。

決定的に違うもの。それは、そう、あの「挿入歌」である。
クライマックスを迎えようが、決め台詞がはまったとしても、
「粉雪」は流れて来ない。「ラブストーリーは突然に」は聞こえてこない
のである。

自分の頭の中だけで、再生ボタンを“ポチッ”て押すことはある。
そう、そこは、「妄想」でカバーするしかない。




出る悔いは・・・?

2006年01月24日 | 日記・エッセイ・コラム
一連の報道でなんとなく不愉快な感じを受けてしまう。

ライブドアの堀江社長が逮捕された。
報道を見ていて、ライブドアのしたことは、大体わかったつもりでいる。
法にふれることで許される事ではなく、責任はとらないといけない。

しかし画面からの「ざまぁみろ!」光線を感じるのは僕だけだろうか?

大体、堀江氏に「ホリエモン」の愛称をつけたのはマスコミだろ?
マスコミじゃないとしても、使っていたのはマスコミのはずだ。
「成功者」「勝ち組」として利用出来るときは使っておいて、
罪を犯していたと発覚したとたん、

「やっぱりね!」

はちょっとどうかな?
持ち上げるだけ持ち上げておいて、掌を返したように落とす。
落ちた時のダメージが大きい方がマスコミにとって面白いからと
高く高く持ち上げる。
そして、掌を返し落とす。

「どうだ!」って感じに。

プロ球団買収の時から、ネクタイをしない服装の事とか、言動においても
確かに受入れにくい部分はあったと思う。
「成功者」であるから許されていた部分もたぶんにあっただろうね。

「金があれば何をやってもいいのか!」ってのは、少なからずあった。
かといって、今回の事で、全てを否定する事はないんじゃない?
割合がどれくらいわからないが、支持していた声もあったんじゃない?
ラジオ局買収の時には、全員がラジオ局側にはついていなかったと思うが。

街角のインタビューでも「?」と思うピントのずれた意見もある。
「汗水流さずに金もうけをしてきたんだから、バチがあったんだ」的な言葉、
妬み以外の何ものでもない、救いようのないコメントだ。

有名になった直後は、起業した当時の彼を紹介したり、
挙げ句に肉親まで登場させ、
「お小遣いは貰ってますか?」って聞いていたかな。
僕にとっては、愛すべきキャラクターではなかったが、興味ある人物だった。

「出る杭は打たれる」の言葉を改めて思ってみる。