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常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

福田蘭堂

2019年06月08日 | 

笛吹童子 尺八

福田蘭堂という作曲家がいた。明治38年画家の青木繁の第一子として生まれるが、母の福田たねは同じ画塾で学ぶ画学生であったが結婚して籍を入れることはなかった。父は2歳の蘭堂を残して家を去り、母も父を追って九州へと家を出た。翌年、父は肺結核のため28歳の若さでこの世を去った。そのため蘭堂は、母の弟として届けられ、教師であった祖父に養育され父母を知らずに育った。13歳の時に上京、たまたま同郷の知人の家にあった尺八に興味を持ち、琴古流の師範に師事し尺八の奏者へと進み、修行して尺八の師範となった。

父の青木繁は不遇の画家であった。19世紀イギリス絵画の影響を受け、古事記を愛読してそのモチーフは神話によるものが多かった。代表作に「海の幸」「わだつみのいろこの宮」「黄泉比良坂」などがある。その絵が認められたのは、死後のことである。蘭堂は尺八の奏者として活躍するかたわら、ピアノやフルートを学び、やがて作曲を手掛けるようになる。ラジオの放送が始まるとドラマ「笛吹童子」のオープニングの曲を作曲し、一躍国民に知られる作曲家となった。

私の本棚には福田蘭堂の書いた随筆『志田直哉先生の台所』という文庫本がある。尺八や作曲の仕事のかたわら、料理や釣りを趣味として、戦後まもなくの時代、多くの作家と交流があった。中でも志賀直哉とは仲がよく、猟銃で撃った野鳥や釣った魚を持参して、食料のない時代、志賀直哉の食欲を満たした。

そんな二人の交流を、志賀直哉は『山鳩』という短編に書いている。志賀は熱海の大洞台の山荘に住んでいたが、そこで目にするのは、いつもつがいの二羽で飛ぶ山鳩であった。その二羽のうち一羽を蘭堂が仕留め、それは調理されてすでに志賀の腹に収まっていた。

「翌日山鳩が一羽だけで飛んでいるのを見た。山鳩の飛び方は妙に気忙しい感じがする。一羽が先に飛び、四五間あとから、他の一羽が遅れじと一生懸命に随いて行く。毎日それを見ていたのだが、今はそれが一羽になり、一羽で日に何度となく私の目の前を行ったり来たりした。(中略)幾月かの間、見て馴染になった夫婦の山鳩が、一羽で飛んでいるのを見ると余りいい気持ちがしなかった。」

そんな志賀の気持ちに、蘭堂は「そんなに気になるのでしたら、残った方も片づけてあげましょうか。」などと、平然と言った。鳥にとっては恐ろしい男だと志賀は書いている。そんな蘭堂が、結婚詐欺事件を起こしている。7人もの女性を誘惑して金を借り、別れるということを繰りかえし、訴えられえて逮捕された。映画の撮影では、主演女優を強姦するという事件を起こし、監督から「責任を取れ」といわれ、妻と離婚し、その女優と結婚をしている。鳥だけでなく世の女性にとっても恐ろしい男であった。今の時代では、想像もできないような時代であった。クレイジーキャッツの石橋エータローは、このとき別れた妻との間の子である。

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病床の子規

2019年04月26日 | 

明治34年、正岡子規は病床にあった。もう病が進み、死が迫っていることを予感していた。病床にあって子規は、新聞に『墨汁一滴』を書き、歌を作った。カリエスの痛みが、次々と襲って子規を苦しめる。そんな子規を慰めたのは、花瓶に挿した藤の花でああり、窓の外に見える花々であった。梅雨入りを前にして、山吹の花がこぼれるように咲いていた。子規はその山吹の花連作十首を作った。その詞書きに、

 病室のガラス障子より見ゆる処に裏口の木戸あり。木戸の傍、竹垣の内に一むらの山吹あり。此山吹もとは隣なる女の童の四五年前に一寸ばかりなる苗を持ち来て戯れに植え置きしなるものなるが今ははや縄もてつがぬるほどになりぬ。今年も咲き咲きて既になかば散りたるけしきをながめて

と書き

ガラス戸のくもり拭えばあきらかに寝ながら見ゆる山吹の花

と詠んでいる。子規は花を愛した歌人である。その歌集『竹乃里歌』を開ければ、次々と花を詠んだ歌にめぐり会える。藤、いちはつ、牡丹、夕顔、薔薇などなど。そして、山吹の花に託して、自らの命数を予感している。

世の中は常なきものと我愛ずる山吹の花散りにけるかも 子規

 

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大山名人

2019年04月02日 | 

将棋がブームになっている。一人の天才棋士、藤井壮太の出現がその大きな要因になっている。中学生でプロデビュー、この2年間に勝数116、敗数20、勝率8割という信じられない成績を残している。まだ高校1年生であるのに、全棋士参加の朝日杯選手権を2連覇という偉業も遂げている。藤井壮太の節目の棋戦が、テレビに登場することも珍しくなくなった。師匠の杉本8段がいつも解説に登場する。先日、囲碁界では、人気が落ちて、棋院の運営に赤字が続き、理事長の辞任というニュースが報じられたが、対照的に将棋への注目は高まる一方である。

昭和30年代には、将棋界に常勝の強い大山名人がいた。大鵬が強く、また優勝は大鵬かと飽きられるほどであったが、大山名人もそれに劣らず敗けない名人であった。荻窪に居を構え、30年代の後半には、名人戦を始め、当時の棋戦で5冠を達成していた。その頃、同じ荻窪に作家の井伏鱒二が住んでおり、名人と井伏の家は隣同士であった。夜、棋戦を終えて帰ってくる名人が、門を閉める音が聞こえてきた。その音の様子を聞きながら、井伏は今日の対戦はどうであったかと想像した。しかし、その開け閉めから、勝敗を判断することはできない。名人は、いつももの静かで、感情を素振りに現すことが微塵もなかったからだ。

井伏鱒二の随筆『人と人影』に「大山名人のこと」という小文がある。そのなかで、名人が時おり近所を散歩しているのを見ている。人は、きっと名人は、散歩をしながら、将棋の作戦をあれこれ考えているだろうと想像した。だが、名人が打ち明けた話が書いてある。名人が散歩をするのは、将棋のことを忘れようと心をくだいていた。

「名人の信条では、少なくとも対局の、二、三日前からは、すっぱりと将棋のことを忘れなくてはいけないのだ。その際、肝要なことは、勝負に敗れたあとの気持ちをぬいぐい去ることである。勝ったあとでも綺麗さっぱりとそれを忘れることが大事である。前の勝負に一切こだわらないことである。

名人の打ち明け話をこんな風に紹介しているが、それは次の対局のための気持ちの持ち方を言ったものである。切り替え、ということであろう。藤井7段の言動を見ていても、この名人のように、こうした心構えが見てとれる。「余分なことは一切考えず、盤面の最善手を指すことに集中する」と常に言っているのは、大山名人の心がけに通ずるものがある。


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ドナルド・キーン

2019年02月25日 | 

ドナルド・キーン氏が亡くなられた。碩学である。日本文学研究の第一人者として知られ、文化勲章をアメリカ人として受賞している。東日本大震災に際して、深く心を傷め、日本人を少しでも励まそうと、日本国籍を取得して、日本に永住していた。享年96歳。キーンさんが日本文学に興味を持ったのは、『源氏物語』の読んだこととされているが、実は日本人が書いた日記に心を動かされたのがその原点にある。


キーンさんの著書に『百代の過客』という大部な著書がある。副題に、日記に見る日本人、が添えられている。1983年に朝日新聞に連載された記事を、まとめて本にしたもので、「朝日選書」として上梓されている。9世紀の円仁の「入唐求法巡礼行記」から始まり、主なものを拾うと、「紫式部日記」、「明月記」、「十六夜日記」、「奥の細道」そして明治の永井荷風「新帰朝者日記」に至るまで、実に121に及ぶ日記を取り上げている。


この大部な本の序章に「兵士の記録」という一項がある。太平洋戦争中、軍の仕事に従事していたキーンさんは、戦死した日本兵の残した日記を読むことを仕事にしていた。米軍では、そもそも兵士が日記を書くことを禁じていた。残された日記から、どんな機密が漏れるか知れぬという恐れからだ。日本軍は、日記を禁じなかったので、大量の日記を米軍が入手し、そこに書かれてある記録から、兵士の軍への不満などを読み解き、軍の現状を解析する一助としていた。


キーンさんは、兵士の日記に、仕事を離れて感動を覚え、同情し、日本人のを知ったと書いている。特に感動を覚えたこととして特筆しているは、太平洋上の孤島で、殆ど全滅した部隊で、生き残ったたった7人が過ごした正月の風景である。新年を祝うものとして、彼らが持っていた食料は13粒の豆であった。それを分け合って食べたのが、孤島での正月であった。日本人の性格を知るうえで、キーンさんが重視したもの、それは日本人が書き続けてきた日記であった。

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雲井龍雄

2018年12月03日 | 

今年もアパートの玄関先にクリスマス・ツ

リーを飾る季節になった。昨日、詩吟の山

形岳風会の合同役員会と懇親会があった。

いかに、この趣味の会を次代に生き残して

いくか、危機感は増え続けている。この会

報の小さなコラム、「詩歌の聖地を訪ねて」

のシリーズ執筆を担当している。初回は歌

人結城哀草果、2回目が同じく歌人の斎藤

吉、そして次回は米沢の漢詩人「雲井龍

雄」の執筆を予定している。幕末の志士と

してよりは、漢詩人として詩吟愛好家に知

られる人物である。「この身飢ゆればこの

児育たず、この児棄てざればこの身飢ゆ」。

戦後、民謡歌手から転出した人気歌手三橋

美智也のヒット曲「男涙の子守唄」に挿入

された詩吟である。この詩は雲井龍雄の詩

「棄児行」の一節である。下級藩士の4男

として生まれた龍雄は、中島家の養子とな

って家督を継ぎ、藩の仕事に就き、江戸に

出て、籾倉掛という閑職に就いた。許可を

得て安井息軒の三計塾に学ぶ。ここで海防

や攘夷など、海の向こうの国への目を開か

されることになる。やがて江戸は無血開城

となり多くの武士が職を失った。そこで起

こったのが、職を失った武士たちの捨て子

のおぞましい流行である。江戸で龍雄が目

にした捨て子を、漢詩に詠んだ。昭和の戦

後も似た世相があった。三橋美智也の哀愁

を帯びた「男涙の子守唄」は大ヒットとな

った。江戸の激動は、雲井の想像を超える

ものがあった。西郷隆盛らによる無血開城

がとげられると鳥羽伏見の戦いが起こる。

雲井の目には、薩長の横暴と写った。安井

息軒の推挙によって集議員寄宿制となり、

議会で太政官の出してくる議案に猛烈な反

対の弁を述べる。やがて、集議員も追放さ

れ、米沢に帰り、「討薩激」を書き、薩長

政府から厳しい目を向けられるようになる。

慷慨山の如く死を見る軽し

男児世に生まれて名を成すを貴ぶ

時平かにして空しく瘞む英雄の骨

匣裡の宝刀鳴って声有り

明治3年12月28日、雲井龍雄は政府から、

陰謀の疑いをかけられ、小塚原で斬首刑を

受けて27年の短い生涯を閉じた。詩はそ

の前年、戊申戦争後、米沢から中央政府を

睨み、鬱勃として闘志を見せたものであ

る。やはり薩長政府は、雲井を危険人物と

して亡き者としたのであった。 

コメント (2)
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