常住坐臥

ブログを始めて10年。
老いと向き合って、皆さまと楽しむ記事を
書き続けます。タイトルも晴耕雨読改め常住坐臥。

牡丹

2020年05月08日 | 
植物学の碩学、牧野富太郎博士に『植物知識』という著書がある。講談社学術文庫に収められた122頁の小冊子である。この本の「あとがき」で博士は、自身の植物愛について述べている。「まず世界に植物すなわち草木がなかったら、われらはけっして生きていけないことでその重要さが判るではないか。われらの衣食住はその資源を植物に仰いでいるものが多いことを見てもその訳がうなずかれる。植物に取り囲まれているわれらは、このうえもない幸福である。」

この本には18の花、4つの果実が記載されているが、牧野博士が最初に取り上げたのが牡丹である。牡丹の特徴を巨大な美花といい、花容、花色すこぶる多様。その満開を望むと、その花の偉容、その花の華麗に驚嘆を禁じえない、述べている。牡丹の名の由来は丹は中国人が丹色すなわち赤色を上乗としたためであり牡は、春に出る芽が雄々しく、盛んに出ることから牡丹となったと説いている。すべての植物を愛した博士ではあったが、なかでもっとも好んだ花が牡丹であったのであろう。

また日本の古名が二十日草であることの説明のために藤原忠通の和歌を引いている。

咲きしより散り果つるまで見しほどに
 花のもとにて二十日へにけり 忠通

一つの花が咲き、次の花が咲き、株上の花が残らず咲き尽くすまでを見て、二十日もかかった、と歌の意味を解釈している。さらに、樹の高さは通常90㌢~120㌢、だが博士が見た最大のものは飛騨高山の奥田邸の180㌢の大木で、花の数百輪で日本一だ、そちらに行く折があればぜひ見て欲しいとまで書いている。

牧野博士は1862年高知県の造り酒屋の長男に生まれ、明治7年に新しい学制ができて小学校へ入学。数年で卒業できるほどの学力をつけて中退、早くから興味を持った植物学を独学で学んだ。植物分類学の世界的権威となった。新種1000、新変種1500の日本植物を命名し、採取した植物は60万点に及ぶと言われる。
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林芙美子

2020年03月20日 | 
林芙美子は明治36年12月、下関で生まれた。父は愛媛県生まれの太物の行商人で、母は鹿児島生まれでキクといった。太物というのは呉服の織物であるが、絹ではなく綿や麻の織物であった。父は商売がうまくいくと、芸者を家に入れた。この仕打ちに耐えられなかった母は、7歳になる芙美子を連れて家を出た。明治43年のことである。

芙美子は『放浪記』の冒頭で、子ども頃に習った唱歌を懐かしい思い出として取り上げている。
 更け行く秋の夜 旅の空の
 侘しき思ひに 一人なやむ
 恋しや古里 なつかし父母
この唱歌は、芙美子の幼少のころを思い出させる歌詞になっている。そもそも父母の結婚は他国者とのもので、鹿児島では認められないものであった。そこに住むことを許されず、下関で所帯を持った。芙美子の生い立ちが、その後の人生を決めることになった。

後に母の連れ合いとなった養父も行商を生業とした。そのために、芙美子は小学校だけで、長崎、佐世保、下関、鹿児島、尾道などいくつも転々としなければならなかった。

芙美子の放浪は、少女時代を過ぎても続いていく。俳優や詩人などの男性遍歴の後に、画家手塚縁敏との結婚。さらに就いた仕事も、銭湯の下足番、事務員など多くの種類をこなした。尾道の時代に芙美子は自分で稼いで、学校に通っている。ここで文芸を学び、文章を書く技術を身に着けた。定住をしないでものを書く作家となっていったが、芙美子には天性の文筆の才能に恵まれていた。

『放浪記』には、孤独、母への愛、男への愛憎、小説への情熱など芙美子の生きた毎日が如実に描かれている。菊田一夫が脚本を書き、芸術座で舞台劇となった。主演は森光子、音楽は小関裕司が担当した。この舞台は森光子が死亡する2009年の5月まで上演され2017回を数えた。
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明治天皇

2020年01月09日 | 
慶応3年1月9日、明治天皇が孝明天皇崩御を受けて践祚した。この年天皇は14歳で、立太子礼を経ずに践祚している。即位礼は翌年8月27に行っている。践祚とは、皇位の象徴である三種の神器を受け継ぐことで、即位とは皇位についたことを天下に告知することである。明治元年3月14日、紫宸殿で百官、廷臣を引き連れて、「五箇条の御誓文」を発表した。

すでに歴史の教科書のも載った有名な文書で、かってはこれを暗記した記憶もある。新時代への新しい決意が述べられている。

一、広ク会議ヲ起興シ万機公論に決スベシ。
一、上下心ヲ一ニシテ、盛ニ経綸ヲ行フベシ。
一、官武一途庶民ニ至ル迄、各其志ヲ遂ゲ、人心ヲシテ倦ザラン事ヲ要ス。
一、旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クベシ。
一、知識ヲ世界ニ求メ、大イに皇基ヲ振起スベシ。
我国未曾有ノ変革ヲ為ントシ、朕躬ヲ以テ衆ニ先ジ、天地神明ニ誓ヒ、大ニ斯国是ヲ定メ、万民保全ノ道ヲ立んトス。衆亦此旨趣ニ基キ、協心努力セヨ。

昨年の10月22日、令和天皇の即位礼が行われたのは記憶に新しい。象徴天皇となった戦後の即位礼は、平成に続いて2度目である。五箇条の御誓文は、即位礼で述べられたものではないが、新しい時代へと入っていく並々ならぬ決意が述べられている。昨年、ラクビーの日本代表が活躍したキーワードは「ワンチーム」であったが、この文書からは、国全体をワンチームにしようとする熱意が感じられる。

だがその日に出された「国威宣揚の宸翰」なる文書の存在を忘れてはならない。この文書では、天皇を「父母」に、民衆をその「赤子」になぞらえて、民衆の天皇に対する犠牲をかえりみない献身を説いたものである。


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与謝野晶子

2019年12月18日 | 
与謝野晶子は、1876年(明治11年)12月に、大阪府堺に生れた。堺は商業の街として知られるが、晶子の家は駿河屋の屋号の菓子屋の老舗であった。異母に二人の姉と同母の2男2女の6人兄弟で、にぎやかな家庭環境で育った。しかし、晶子は、無口で、「駿河屋の娘は、店番しながら物語本ばかり読んでいる」と非難めいた評判が立った。利発な子で、店番の銭勘定もしっかりとして、親の本棚にあった難しい古典や漢籍を、かじりつくようにして読んだ。

父は男の子には思う存分に勉強させ、職業も自由に選ばさせたが、晶子や女の子たちが本を読んでいると、苦々しい顔で、当時流行った島崎藤村の詩集などを見つけると、あからさまに「得体の知れぬ若造のものなど」と非難した。晶子の生い立ちは、父から押さえつけられることに反発するように、文学を読み歌を作る道へと進んで行った。

与謝野鉄幹が主宰する明星に、歌を投稿するようになる。関西の方面でも勢力を伸ばそうとして、鉄幹は講演に大阪を訪れた。鉄幹の容貌をみてあこがれを持った晶子は、毎号投稿を増やし、歌も急速に上達していった。同じ鉄幹に憧れた歌人に、少し年下の山川登美子がいた。二人は、競うように明星に投稿したが、その内容は師を慕う恋の歌であった。

なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな 晶子

与謝野鉄幹には妻子があった。しかし、妻とは性格が合わず別居状態で、晶子や登美子の好意に心を傾け、こんな詩を作っている。

妻をめとらば才たけて
顔うるわしくなさけある
友をえらばば書を読んで
六部の侠気、四分の熱

書も読まず、歌の才能もない妻に飽き足らず、晶子らに心を寄せた歌と読むことができる。しかし、別れる決断が遅れ、晶子の存在に気付いた妻が待ち受ける家へ、家出同然に飛び込んで行ったのは晶子であった。

その後の紆余曲折は省こう。夫婦になった晶子と鉄幹は、明星を盛りあげ、日本の花壇をリードしていく。その力の源泉は、晶子の歌の力によるところが大であった。
上京して2ヶ月後、晶子は鉄幹の助力を得て、歌集「みだれ髪」を上梓する。晶子の太い髪は、油をつけると固くなるので、何もつけずに結い上げた。そのために、髪のみだれが見られてたが、それをよしとした鉄幹の命名である。

その子二十歳櫛に流るる黒髪のおごりの春の美しきかな 晶子

晶子の恋の歌集と言っていい。その奔放な歌は、和歌の歴史を改めるものであった。賛否両論があるなかで、晶子に憧れる女流の歌人が、各地で生まれた。ロマンチシズムの歌である。これは鉄幹が目指したものだが、その集大成を成し遂げたのは晶子であったと言ってよい。

日露戦争を経て、歌壇の流れは大きな変化を見せた。星やスミレ、夢をテーマにロマン主義の歌に人々は飽きを感じ始めた。正岡子規、伊藤左千夫、島木赤彦、齋藤茂吉らが、写生をときリアリズムを追求した歌が、次第勢力を伸ばし、鉄幹の明星は明治41年に100号をもって廃刊に追い込まれた。鉄幹の歌論は時代遅れなものとして人々から忘れ去られていった。そのなかでも、晶子の人気は衰えず、夫婦は危機を迎えた。

晶子が考え出したのが、夫のヨーロッパ留学である。その金策のために、屏風に自分の歌百首を書いて売り出すというアイデアを出した。屏風のほか短冊、半切なども含めて、友人知人に売りさばいた。外国に来て、夫妻は新しい目を開いた。とくに晶子にはヨーロッパの女性が独立した人間として人生を楽しんでいる姿に感銘を受けた。

ああ皐月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟我も雛罌粟 晶子 
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田部重治

2019年08月31日 | 

田部重治は明治17年、富山県に生れ、後東大英文科を卒業した。19世紀イギリスの唯美主義批評家のペーターを研究、法政大学などで英文学の教鞭をとった。一方、法大のスキー山岳部長を務め、登山家としても知られる。著書に『わが山旅五十年』(平凡社)、『山と溪谷』がある。登山家となる背景に、幼いころ生まれ故郷で眺めた、立山連峰、毛勝山など美しい風景がある。学生時代に小暮理太郎と知り合い、山岳への興味を深めていった。

田部が生まれたのは、富山県上新川郡山室村で、母の里は山に近い大崎野村で、大日岳の麓にあり、この村から立山の美しい山並みが望遠された。母の里から4㌔ほどに、伊折があり、ここは剣岳や立山に登る拠点となっている。その昔は、ここを流れる早月川遡って室堂に出た。今では富山駅からケーブルカーとバスを乗り継いで、2時間で誰でも行くことができるが、当時は一日がかりで行った。それでも、このルートは、早い方であった。

田部が初めて立山に登ったときも、このルートを使った。かつては硫黄の荷下ろしで道が整備され、川の渡渉もなかったが、この時は二人の案内人が流れに仁王立ちになって田部達を渡してくれた。そんな渡渉を5度も経て、やっと雪渓にたどり着いている。案内の人たちは、この川を渡るときは、杖を使い岩から岩へと飛び渡った。それほど身軽であった。

そして5時間後に室堂に着いている。伊折の人が案内を務めていたことは、決して口外してはならない秘密であった。ここを案内するのは、芦峅寺と岩峅寺の人に限って許されていた。こんな苦労を経て登った室堂から光景を、田部は感動を隠し切れずに綴っている。

「左には別山、立山、浄土山がさながら架空的な夢幻の世界から、いまだけ存分に見せてやろうといわんばかりに白雪をいただき、秀麗な姿をもって聳立し、その右に茫洋とした弥陀ヶ原が大きく開いて、表面に小さく虫のように動いているのが登山者の数限りない行列で、前面、室堂の手前に数条の凄惨な噴煙が立ちのぼっているのが地獄谷だった。」

田部がこの光景を見てから、もう100年以上の年月が経っている。そんな時代から、人々に親しまれてきた立山。時代の流れを感じながら、その頂上に立ってmみたい。





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