華鴒大塚美術館庭園のムクゲ 本文とは関係ありません。
歴史ロマン 津太夫
江戸時代・世界一周を体験した男たち 若宮丸漂流民の物語
高田屋嘉兵衛、大黒屋光太夫、ラクスマン、レザノフなど江戸時代にロシアとの関係で日本史の教科書に登場する人物の名前ですが、津田夫など若宮丸漂流民のことを知る人は少ないのではないでしょうか。光太夫などと同じく、漂流民となりアリューシャン列島に流れつき、同じような運命をたどりますが、特筆すべきは、津田夫など3名が結果的に、世界一周を日本人として初めて体験したことです。
寛政5年(1793年)11月27日、若宮丸は、船頭平兵衛ら16人を乗せ、仙台藩江戸屋敷に米と木材を届けるため石巻港を出発しました。(余談ですが、この年の初め、仙台沖で大規模な地震と津波が発生したという記録が残っていますが、石巻はどうだったのでしょうか。)しかし、福島県沖で南西の強風と強い波に遭遇してしまいます。舵を破壊され海水が入り込み、米を半分以上も海に投げ捨て、ついに帆柱も切断、大黒屋光太夫の神昌丸と同じく、船は洋上を漂うだけの漂流物になってしまいます。このような中、船頭の平兵衛が過労で倒れ津田夫が代りに陣頭指揮をとることになります。
こうして洋上を漂うこと7カ月、ついにアリューシャン列島の孤島に辿り着きます。
この長い半年以上の漂流中、誰一人死者を出さなかったのは極めて珍しいことでした。
この島は、光太夫らが漂着したアムチトカ島よりさらに東のウナラスカ島あたりと思われます。
そして、一行は、島で出会った、現地人に厚いもてなしを受け、体力を回復していきます。そしてロシア人に出会い、彼らの基地に連れて行ってもらい、その後、アトカ島で1年滞在の後、毛皮商人の船でオホーツクへ移動します。彼らは途中、光太夫たちが漂着したアムチトカ島にも寄っています。光太夫のことは事前に知っていたようで、帰国後、儀平はそのときのことを「懐かしく思えて涙が流れた」といっています。同じ日本人が漂流した島ときいて郷愁にかられたのでしょうか。
いずれにしても、この地での滞在期間が1年余りで少なかったことが幸いしました。ちなみに光太夫のアムチトカ島では、4年間の滞在を余儀なくされ6名の仲間を失っています。
オホーツクに到着すると、総督府のあるイルクーツクに向かうよう言い渡されます。地方の役所では、何も判断できないということでしょう。やはり前回の光太夫のこともあり、ロシアの国策として、「日本人を送還することによって、交易開始のきっかけとしたい」という政治的・経済的な狙いは当然あったのでしょう。それにしても、オホーツクから南下すれば千島列島、択捉、根室と祖国まではすぐそこなのに、逆に内陸に向かうということを聞いて津太夫たちの落胆ぶりがわかるような気がします。
イルクーツクまでの距離、何と2600キロ以上、黒太夫の時と同じく、極寒のヤクーツクを経由しイルクーツクへの旅は困難を極めました。15人が3班に分かれて、移動することになりました。(つづく)