雨上がりの広島三次ワイナリー 本文とは関係ありません
7月に淡路島・高田屋嘉平衛記念館を訪ねたのをきっかけに、江戸時代にロシアへの漂流民となった人たちのことを調べています。前回は、石巻若宮丸の漂流民・津太夫たちがイルクーツクに辿り着き、皇帝にペテルブルグに呼びだれるまでのことを書いています。
一行は、7台の馬車に分乗して昼夜を問わず首都ペテルブルグに向けて走り続けました。途中で体調を悪くしたり、病気にかかる者もいて何人かが脱落しました。それでもやっとモスクワに辿り着きます。そしてペテルブルグへ。イルクーツクからペテルブルグまで、実に7000キロ、49日間を要しました。悪路の道を一日平均140キロ以上走るのですから、それは過酷な移動でした。
彼らは到着してすぐ、商務大臣ルミャンチェフの屋敷に引き取られました。そしてそれから、皇帝に謁見するまでの15日間、彼らは国賓の扱いを受けています。光太夫のときもそうでしたが、イルクーツクとは比較にならないほど華やかな街、見るものすべてがめずらしく、ここでの滞在は彼らにとって、夢のような日々だったに違いありません。またほんとうに久しぶりに海の匂いも嗅いだことでしょう。そして謁見のとき、皇帝アレクサンドル1世(若干26歳)が10人にそれぞれ帰国の意思を確認すると、津太夫、左平、儀平、太十郎の4人が帰国の意思を表明し、6人が残留を願い出ました。4人に対しては、その後も帰国するまで国賓並みの接待が続きました。
そして帰国の船が決まり、出航のとき、彼らは、残留組の仲間たちと10年間滞在したロシアに最後の別れをします。
この帰国の船は、アレクサンドル1世とレザノフの支援下でロシア最初の世界一周艦隊の指揮官となった、クルーゼンシュテルンが指揮する旗艦ナゼージダ号とネヴァ号の二隻です。もともと漂流民返還に伴う通商交渉と、この世界一周の話は、まったく個別のことでしたが、結局、二つの話が相乗りする形となりました。距離的には、光太夫がとった、イルクーツクまで引き換えし、オホーツクから千島、根室に至るコースが最短だと思いますが、期せずして津田夫たちは、自らの意思とは全く関係なく、世界一周する船に同乗することになったのです。
ここで登場するのが、歴史の教科書にも登場するあの有名なレザノフです。彼はどのような人物だったのでしょうか?
1764年にサンクトペテルブルグに生まれ、砲兵学校を出て近衛連隊に入隊、その後退役して地方裁判所の判事となりました。その後、サンクトペテルブルグ裁判所に勤務し、のちに海軍省次官秘書などを勤め、1791年に官房長となっています。このとき若干27歳、とても有能な人物だったということがわかります。このころまでに毛皮商人のシェリホフと知り合い、この事業に興味をもって、その後会社の指導者になっています。そして合同アメリカ会社の経営者となり、同社は国策会社露米会社に発展しています。アラスカからカムチャッカに延びるアリューシャン列島、及びカムチャッカから千島列島の統治を許可されています。レザノフは、露米会社の食料打開や経営改善には南にある日本との交易が重要と考え、遣日使節の派遣を宮廷に働きかけていました。
先のアダムラクスマンが持ち帰った信牌を手に、正式に2回目の遣日使節として皇帝より任命され、隊長としてこの船に乗り込んでいます。
それから、この船には、ロシアやヨーロッパ各地の博物学者・天文学者・画家たちも乗り込んでいました。彼らの資料や、絵は当時の日本をはじめ世界の多くを知る研究材料として、科学アカデミーに残されています。そして、レザノフの通訳として漂流民・善吉も乗り込みました。
(つづく)