未熟なカメラマン さてものひとりごと

ようこそ、おいでくださいました。

大和ミュージアムで思うこと

2011-11-13 17:58:42 | 美術館・博物館


先日、華鴒大塚美術館の秋の美術展鑑賞旅行で呉市を訪ねました。当日の最終の訪問先が大和ミュージアムでした。天候は雨でしたが、相変わらず多くの入館者で賑わっていました。となりの敷地には、てつのくじら館もできて、ますます集客力がアップしているようです。この呉には、一方ならぬ思い入れがあります。といいますのも私の父が若い頃、呉の海軍工廠に勤めていて、戦争で焼け出されるまで、家族で呉に住んでいた、と聞いているからです。
大和ミュージアムの資料展示室には、あのゼロ戦もありました。型式には六二型とあり、この飛行機そのものは、琵琶湖に不時着し、湖底に沈んでいたものが引き上げられ復元されて、嵐山美術館に展示されていたものです。このゼロ戦で思い起こすのが、私の叔父(父の一番下の弟)のことです。神風特攻隊に志願し、二十歳そこそこで、アメリカの輸送船に体当たりし、亡くなりました。(亡くなったあと、少尉に昇格)
私がまだ中学生だったころ、母が手文庫を開けてなにやら読んでいました。そっと横から覗きこむと、それは亡くなった叔父の遺書でした。飛び立つ前に書いたものでしょう。文面は、「お父さん、お母さん、先立つ不孝をお許しください。・・・・」で始まるあの文章でした。大粒の涙を流しながら、読む母のその時の様子は、今も鮮明に覚えています。
そういった時代に生まれてしまったばかりに、必然的に特攻隊に志願せざるを得なかったのでしょう、本当は怖い、でも口に出して言えない、そんなことを考えると本当に胸が痛みます。
わたしの父母は、もうとっくに亡くなっていますが、あの時の遺書はどこにも見当たりません。あるのは、仏壇の奥に立てかけてある、叔父の飛行服姿の写真一枚だけです。この写真を見るたびに、母のあの涙を思い出すのです。

茶道・裏千家の前の宗匠、千玄室さんも特攻隊に所属し、一度は死を覚悟したというのは、有名な話です。同じ特攻隊に所属していたのが、2代目水戸黄門の西村晃さん、その西村さんの話として、特攻作戦が近づいたある日、飛行訓練後に自分たちが乗る飛行機の機体の傍らで、手持ちの道具と配給の羊羹で茶会を催したことは、広く知られているところです。
そして西村さんは、出撃したものの、機体の故障で引き返し、玄室さんは出撃することがなかったため、隊で生き残ったのはこの二人だけだったそうです。まさに戦友ですね。

そのような時代があり、そのような若者がいたことを、私たちは決して忘れてはならないと思うのです。
海軍航空特攻隊員の戦死者数 2,531名(叔父はその中の一名)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« いつもご覧いただき、ありが... | トップ | おすすめ、しまなみ海道ウオ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

美術館・博物館」カテゴリの最新記事