小堀遠州作庭/頼久寺枯山水庭園(岡山県高梁市) 遠州はこの地で20年間を過ごしました。 本文とは関係ありません。
(前回のつづき)
カムチャッカを出航して約1ヵ月、ついにナジェジダ号は長崎に到着します。事前に日本側には情報は伝わっていたようで、すぐに日本の検使が来船します。レザノフは、国書を提示し、来航の目的を告げ、信牌(*1)を渡します。以後2回、日本側検使が来船しますが、信牌を持参している以上、入港を拒むことはできません。「確認のため、江戸に手紙を書くのでしばらく待って欲しい」と伝え、仮の住まいと、修理のために梅ヶ崎に上陸することを認めました。
このとき、長崎奉行の指示により、役人が集められ「ロシア人並びに漂流民とは口を聞かないように」と厳重に申し付けられたのでした
この時代、長崎から江戸へ伺い書が送られ、その返事が帰るまで実に1ヵ月を要しました。これではなかなか交渉が前に進みません。そんな中、12月儀平が病気のため、日本人医師の手当てを受けています。また、太十郎が、先に日本に帰国した大黒屋光太夫が獄舎に入れられているといううその情報を聞き、先行きを不安視して自殺を図ります。これに驚いたレザノフは、漂流民の一刻も早い受け取りを願いでたのでした。そして太十郎の自殺未遂を報告する手紙が長崎奉行名で江戸に送られています。
そんな中、レザノフに江戸に行けないことが正式に知らされます。そして江戸から特使として遠山景晋(あのテレビでお馴染みの遠山の金さんの父)が長崎に赴任します。こうして日露会談が三度にわたり行われました。
結果、漂流民4名は日本側に引き渡されることになりました。しかし幕府は漂流民の引き渡しに応じた以外は、皇帝アレクサンドル1世からの親書も献上品も受け取らず、レザノフに対して通商の申出を拒絶し、信牌まで取り上げてしまいます。レザノフは、漂流民と最後の別れをし、失意のうちに日本を去っていきました。仮にロシアとの通商に前向きであった老中松平定信が失脚していなければ、展開は大きく変わっていたかもしれません。
漂流民たちは江戸に送られ、大槻玄沢の尋問を受けています。玄沢はこの話をもとに「環海異聞」の編纂にとりかかっています。光太夫らがロシアだけの見聞だったのに対して、津太夫たちは、ロシア以外の世界のさまざまな事物を見聞しており、その価値は相当なものであると思いますが、玄沢は、光太夫たちと比較し、ロシア語も知らない無学の民と評価しています。はたしてそうなのでしょうか。おそらく、ロシア正教に改宗しロシア人となった仲間のことや自分たちの今後のことを考えて多くを語らなかったのだと思います。
しかし、光太夫たちは江戸で生活を送っていますが、津太夫たちは国許に帰ることを許されました。船出をしてから実に13年。受動的ではありましたが、日本人初の世界一周という偉業を成し遂げています。光太夫、高田屋嘉兵衛など偉大な人物の陰に隠れ、彼らの名前が広く世間に伝わることはありませんでした。
太十郎は故郷室浜に着いてまもなく36歳で病死、儀平も45歳で亡くなっています。津太夫は長生きして70歳で、佐平は67歳で亡くなりました。
レザノフは、半年も軟禁状態で留め置かれるなど、日本側の非礼な態度や交渉が進まなかったことから、「日本に対しては武力をもって開国を迫る手段はない」と上奏しましたが、のちに撤回しています。(この部分については諸説あります)しかし部下のフヴォストフが単独で、松前藩の番所や択捉港など各地を襲撃しています。いずれにしてもこのことが、レザノフに対する評価を著しく落とす要因となりました。
イルクーツク日本語学校も、2回の使節派遣が何も成果も見なかったことから、1816年に閉鎖されてしまいました。これを境に、日本とロシアは急速に疎遠となり、高田屋嘉兵衛のあのゴローニン事件へとつながっていくのでした。
レザノフは、長年の過酷な航海およびシベリア横断により疲労し健康を害して1807年に43歳の若さで亡くなっています。彼がもう少し長命であったなら、日露の歴史ももう少し変わっていたかもしれません。
(日露のその後)
それから50年後、1854年にロシアのプチャーチン提督が、皇帝ニコライ一世の命令でディアナ号に乗って来航しました。当時ロシアは、イギリス、フランス両国との間で戦争中でしたが、アメリカが日本と和親条約を結んだことを知り、危険を冒して来航し、条約締結を求めて来たのです。条約の内容は、水や食料の供給と千島列島の国境問題の解決にありました。プチャーチンは、数多くの苦難を乗り越え、下田の長楽寺で日露和親条約を締結しました。*1 信牌(しんぱい、長崎への入港許可証のようなもの。第1回遣日使節ラクスマンが松前で受け取っていた)
* 参考文献 石巻若宮丸漂流民の会の資料、ウイキペディア
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