未熟なカメラマン さてものひとりごと

ようこそ、おいでくださいました。

江戸時代:世界一周を体験した男たちの物語 =第2章=

2012-09-05 23:29:07 | 歴史

重伝建に指定されている吹屋の古い町並み 休憩所の田舎そばは絶品 本文とは関係ありません。

歴史ロマン 津太夫
江戸時代・世界一周を体験した男たち 若宮丸漂流民の物語 その2

津太夫たちが向かうイルクーツクとはどのような町なのでしょうか。バイカル湖西66キロに位置し、現在では首都モスクワからシベリア鉄道で繋がっており、極東地域とウラル・中央アジアを繋ぐシベリア東部の工商および交通の要衝となっています。ロシア正教会の大主教座が置かれ、劇場、オペラ座などの文化施設も充実しています。これらの公共建築にはシベリアに抑留された日本人によって建てられたものも多いといわれています。古くから毛皮の集積地で、18世紀の初めからロシアの中国及びモンゴルとの通商上の通過都市として重要視され、1803年からシベリア総督府が置かれています。
日本との関係も深く、最初にロシアを訪れた日本人である伝兵衛が1701年に滞在したのを皮切りに、多くの漂流者がこの地に永住し、17世紀の中ごろから約100年にわたってロシアで最初の日本語学校が設けられ、日本から漂流しロシアに帰化した者たちが教鞭をとっていました。

さて、話は津太夫たちに戻りますが、イルクーツクまでの移動、15名、全員一緒に行動できれば一番よかったのですが、費用面のこともあり、毛皮などの荷物を運ぶ隊に便乗するしかありませんでした。15人は、3班に分かれて移動することになりました。第1班は、儀平、善六、辰蔵という若い3人が選ばれました。先遣隊という意味合いもあったのでしょう。第2班が出発したのは、1班が出発して約1年後、続いて2か月後に津太夫たち3班が出発します。そして1796年1月、1班が、同年11月に2班が、最後に翌年の12月に3班が無事到着しています。

ロシアへの漂流から日本人として初めて帰還した光太夫たちが、イルクーツクに辿り着いた頃から、7.8年あとのことでした。すでに、女帝エカテリーナ2世は、遣日使節を伴い日本に送り届けることを決めていましたが、突如亡くなってしまいます。あとを継いだパーベル皇帝は、日露間の通商を重要視していませんでした。結果、津太夫たちは実に6年間もイルクーツクに足止めされることになりました。イルクーツクでは、光太夫たちの漂流民で、帰化した新蔵や庄蔵(改宗せず)がおり、暖かく迎え入れてくれました。それから快く住居を提供してくれたロシア人商人の存在も忘れてはいけません。新蔵は、善六たちに帰化を勧め、善六・辰蔵の二人がこの地に骨をうずめることを決断しています。
いずれにしても、漂流民たちに帰国したいという強い思いはあっても、主体となるのはロシア商人たちでした。ここが帰国嘆願書を三度も提出し、帰国へ向けて積極的に働きかけた光太夫と比較されるところです。

パーベル皇帝が暗殺され、女帝エカテリーナ2世の孫のアレクサンドル皇帝が即位すると状況は一変しました。すぐにペテルブルグに来るようにとの指令が飛びます。こうして津太夫たちは、馬車に乗って首都ペテルブルグへ向かうことになります。(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸時代・世界一周を体験した男たち 若宮丸漂流民の物語

2012-09-02 08:48:41 | 歴史

華鴒大塚美術館庭園のムクゲ 本文とは関係ありません。

歴史ロマン 津太夫
江戸時代・世界一周を体験した男たち 若宮丸漂流民の物語

高田屋嘉兵衛、大黒屋光太夫、ラクスマン、レザノフなど江戸時代にロシアとの関係で日本史の教科書に登場する人物の名前ですが、津田夫など若宮丸漂流民のことを知る人は少ないのではないでしょうか。光太夫などと同じく、漂流民となりアリューシャン列島に流れつき、同じような運命をたどりますが、特筆すべきは、津田夫など3名が結果的に、世界一周を日本人として初めて体験したことです。

寛政5年(1793年)11月27日、若宮丸は、船頭平兵衛ら16人を乗せ、仙台藩江戸屋敷に米と木材を届けるため石巻港を出発しました。(余談ですが、この年の初め、仙台沖で大規模な地震と津波が発生したという記録が残っていますが、石巻はどうだったのでしょうか。)しかし、福島県沖で南西の強風と強い波に遭遇してしまいます。舵を破壊され海水が入り込み、米を半分以上も海に投げ捨て、ついに帆柱も切断、大黒屋光太夫の神昌丸と同じく、船は洋上を漂うだけの漂流物になってしまいます。このような中、船頭の平兵衛が過労で倒れ津田夫が代りに陣頭指揮をとることになります。
こうして洋上を漂うこと7カ月、ついにアリューシャン列島の孤島に辿り着きます。
この長い半年以上の漂流中、誰一人死者を出さなかったのは極めて珍しいことでした。
この島は、光太夫らが漂着したアムチトカ島よりさらに東のウナラスカ島あたりと思われます。
そして、一行は、島で出会った、現地人に厚いもてなしを受け、体力を回復していきます。そしてロシア人に出会い、彼らの基地に連れて行ってもらい、その後、アトカ島で1年滞在の後、毛皮商人の船でオホーツクへ移動します。彼らは途中、光太夫たちが漂着したアムチトカ島にも寄っています。光太夫のことは事前に知っていたようで、帰国後、儀平はそのときのことを「懐かしく思えて涙が流れた」といっています。同じ日本人が漂流した島ときいて郷愁にかられたのでしょうか。
いずれにしても、この地での滞在期間が1年余りで少なかったことが幸いしました。ちなみに光太夫のアムチトカ島では、4年間の滞在を余儀なくされ6名の仲間を失っています。

オホーツクに到着すると、総督府のあるイルクーツクに向かうよう言い渡されます。地方の役所では、何も判断できないということでしょう。やはり前回の光太夫のこともあり、ロシアの国策として、「日本人を送還することによって、交易開始のきっかけとしたい」という政治的・経済的な狙いは当然あったのでしょう。それにしても、オホーツクから南下すれば千島列島、択捉、根室と祖国まではすぐそこなのに、逆に内陸に向かうということを聞いて津太夫たちの落胆ぶりがわかるような気がします。
イルクーツクまでの距離、何と2600キロ以上、黒太夫の時と同じく、極寒のヤクーツクを経由しイルクーツクへの旅は困難を極めました。15人が3班に分かれて、移動することになりました。(つづく)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする