重伝建に指定されている吹屋の古い町並み 休憩所の田舎そばは絶品 本文とは関係ありません。
歴史ロマン 津太夫
江戸時代・世界一周を体験した男たち 若宮丸漂流民の物語 その2
津太夫たちが向かうイルクーツクとはどのような町なのでしょうか。バイカル湖西66キロに位置し、現在では首都モスクワからシベリア鉄道で繋がっており、極東地域とウラル・中央アジアを繋ぐシベリア東部の工商および交通の要衝となっています。ロシア正教会の大主教座が置かれ、劇場、オペラ座などの文化施設も充実しています。これらの公共建築にはシベリアに抑留された日本人によって建てられたものも多いといわれています。古くから毛皮の集積地で、18世紀の初めからロシアの中国及びモンゴルとの通商上の通過都市として重要視され、1803年からシベリア総督府が置かれています。
日本との関係も深く、最初にロシアを訪れた日本人である伝兵衛が1701年に滞在したのを皮切りに、多くの漂流者がこの地に永住し、17世紀の中ごろから約100年にわたってロシアで最初の日本語学校が設けられ、日本から漂流しロシアに帰化した者たちが教鞭をとっていました。
さて、話は津太夫たちに戻りますが、イルクーツクまでの移動、15名、全員一緒に行動できれば一番よかったのですが、費用面のこともあり、毛皮などの荷物を運ぶ隊に便乗するしかありませんでした。15人は、3班に分かれて移動することになりました。第1班は、儀平、善六、辰蔵という若い3人が選ばれました。先遣隊という意味合いもあったのでしょう。第2班が出発したのは、1班が出発して約1年後、続いて2か月後に津太夫たち3班が出発します。そして1796年1月、1班が、同年11月に2班が、最後に翌年の12月に3班が無事到着しています。
ロシアへの漂流から日本人として初めて帰還した光太夫たちが、イルクーツクに辿り着いた頃から、7.8年あとのことでした。すでに、女帝エカテリーナ2世は、遣日使節を伴い日本に送り届けることを決めていましたが、突如亡くなってしまいます。あとを継いだパーベル皇帝は、日露間の通商を重要視していませんでした。結果、津太夫たちは実に6年間もイルクーツクに足止めされることになりました。イルクーツクでは、光太夫たちの漂流民で、帰化した新蔵や庄蔵(改宗せず)がおり、暖かく迎え入れてくれました。それから快く住居を提供してくれたロシア人商人の存在も忘れてはいけません。新蔵は、善六たちに帰化を勧め、善六・辰蔵の二人がこの地に骨をうずめることを決断しています。
いずれにしても、漂流民たちに帰国したいという強い思いはあっても、主体となるのはロシア商人たちでした。ここが帰国嘆願書を三度も提出し、帰国へ向けて積極的に働きかけた光太夫と比較されるところです。
パーベル皇帝が暗殺され、女帝エカテリーナ2世の孫のアレクサンドル皇帝が即位すると状況は一変しました。すぐにペテルブルグに来るようにとの指令が飛びます。こうして津太夫たちは、馬車に乗って首都ペテルブルグへ向かうことになります。(つづく)