友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

何を信じてもいいけれど、

2011年01月24日 19時21分59秒 | Weblog
 友だちと一緒に出かけた駅のコンコースで、中年の女性が小冊子を配っていた。友だちは手を振って受け取りを拒否したけれど、私は何を配っているのだろうかと思ったので、手を差し出して受け取った。「どんなものかも分からないのに、よく受け取りますね」と彼は言う。分からないから興味が働く。彼は「話しかけられたら、ウットウシイじゃーないですか」と言いたかったのだろう。私は結構無頓着で、話しかけられれば話し込んでしまう。

 我が家へも宗教活動のために訪ねて来る人がいるが、私は「玄関先では寒いですから中へどうぞ」と上がってもらう。「この世界は誰が創られたか、ご存知ですか?」と聞かれるから、「どうして出来たのかわからないけれど、もし誰かが創造したのであればそれは神以外には考えられない」と真面目に答える。相手の方は「ぜひ、一緒に勉強会をしましょう」と言われるので、「ええ、いいですよ」と答えて、何度か我が家に来てもらった。しかし、その人は転勤になってしまい以来ご無沙汰になっている。

 「この世を支配しているのは誰でしょう?」と言う人もいた。「支配しているものがいるなら、それは神でしょう。神は悪魔までもお造りになったのだから」と私が答えると、「どうしてサタンをお造りになったとお考えですか?」と来る。「人の弱さを知り、神の偉大さを知るためでしょう」と答える。私はこういう話に興味があるので、時間にゆとりがあれば相手の方の話を聞くようにしている。理屈で相手と戦うなどという気持ちはない。この人はどうしてこんなに熱心なのか知りたいのだ。信じている人に向かって、「それは間違っている」と言ってみたところで、相手は私が間違っていると思って説得しているのだからかみ合うはずがない。

 小冊子は若い女性向けのコミックになっていた。家庭の不和、職場でのイライラ、不運の連続を社会や相手のせいにしていませんかと指摘する。とにかく騙されたと思って、3つのことをやってみなさいと教える。そして苦しみから解放されるというストーリーだ。宗教とは謳っていないけれど、どう見ても宗教である。私が中学2年の時に、キリスト教の教会に通っていることを知った友人が「素晴らしい集まりがあるから来ないか」と誘ってくれたので、出かけたことがある。8畳の部屋に10人くらいの若者が集まって、昔の自分はこうだったけれど信心をしてからこんな風に変わったということを一人ひとり話していった。

 私には合わない人たちの集まりだった。何かを信じて、それで自分は救われると思えるならそうすればいい。他人の信仰をとやかく言う気はないし、信じることができる人はある意味で幸せだと思う。宗教ではなくても、毎朝太陽に向かって拝むとか、1日に10キロ歩くとか、自分に決まった課題を与え実行している人もいる。音楽を聴くとか、愛する人にメールするとか、どんなことであろうと、そうすることが自分の気持ちを落ち着かせ気持ちよくしてくるのであれば、そうすればいい。人の満たされたかは千差万別、いろんな方法があっていいと思うが、それを強要されると途端に拒否反応が働いてしまう。
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