友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

成人の日は老人が隠居する日である

2011年01月10日 18時53分28秒 | Weblog
 街で振袖姿の女性たちに出会った。今日は「成人の日」、その式典に参加した帰りなのだろう。あどけなさを残しながらも大人の匂いが漂っている。20歳ともなればもう立派な大人だ。後20年も経ると、地球が世界の人口を支えられるか否かの結論が出るという。大変な時代に成人を迎えてしまった彼らには気の毒だが、人には巡り合わせがあるようだ。私たちの時代は戦後に終止符を打ち、高度経済成長へと発展していった。私たちのすぐ前の人たちは就職難だったけれど、私たちの後の人々は右肩上がりの時代になっていた。

 何でもできたし、やれば結果がついてきた。私が教員になった頃、証券会社に勤める人は少なかったと思う。銀行員はまっとうな仕事だけれど、証券マンはばくち打ちと思われていたからだ。その証券会社に勤めた友人のボーナスは私たちの3倍はあった。マンションブームがやってきて、教員の中にもマンションを買い、それを売ってさらに大きなマンションを購入し、資産を増やしていった人もいた。何が天職なのか、悩んだ挙句に会社員から教員になった人、教員から自営業になった人、いろいろだった。

 何が天職か、おそらく誰もわからないだろう。本当は会社の養成工になりたかったのに、なれなかったので普通高校へ進み薬剤師になった同級生もいる。国立大学に入学できる力は充分あったのに、私学へ行ってしまった人もいる。考えてみれば、たまたまでしかない。たまたま進んだ道が自分に合っていたとか、たまたま与えられた仕事が面白かったとか、この逆のケースもあるだろうが、いずれにしても人生は偶然の積み重ねだ。これしかないということはないし、こんなものだということでもない。

 先日も成人の日を前に若者論が繰り返されていた。「今の若者は元気がない」「醒めてしまっている」「夢がない」「怒りを持つことがない」と年寄りは言う。どんな時も年寄りは若者に不満だ。私たちも若い時はそうだったはずだ。『これでいいのか、河村市政』の集会も大半が年寄りだった。会場からの発言もほとんど年寄りだった。年寄りは先が見えている。20年も30年も生きることはないのだから、若い人たちに任せるべきだろう。若い人たちの方がはるかに現実を読み、冷静に先を見ている。若い人たちが、年寄りの若い頃と同じように社会への怒りをぶつけないのは賢いからだ。大人から学習しているのだ。

 成人式に振袖を着て、あるいは貸衣装の紋付で、さらには真新しい洋服で、やってくるのは変わらない姿だけれど、その中身は私たちの頃より大人なのだ。この日本のあるいは地球そのものの、これからを背負っていく若者たちの負担が少ないようにすることが、今できる私たちの役割だ。どんどん造りどんどん消費し、これを豊かだと思った私たちとは違う、大きすぎる夢は見ない、醒めて感情を抑えている若者たちに任せる方がいいと思う。成人の日は、老人が隠居する日でもある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする